2017年1月23日 (月)

コンサートの記(268) 堺シティオペラ第29回定期公演 歌劇「黄金の国」

2014年11月29日 ソフィア・堺 ホールにて

堺へ。南海高野線の車窓からは紅葉した大仙古墳(大山古墳。伝仁徳天皇陵)が見える。
 

午後2時から大阪府堺市にあるソフィア・堺(正式名称:堺市教育文化センター)のホールで、堺シティオペラ第29回定期公演「黄金の国」を観る。原作戯曲:遠藤周作、作曲・テキスト・指揮:青島広志、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)。演奏:ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団(室内楽編成での演奏。さほど大きくない多目的ホールでの演奏なので室内楽編成でも音が飽和状態になることがあった)、合唱:神戸市混声合唱団、ピアノ:關口康佑。今日明日と公演があり、ダブルキャストであるが、今日の出演は、萩原寛明、田邉織恵、井上美和、桝貴志、菊田隼平(きくた・じゅんぺい)、松原友(まつばら・とも)、水谷雅男、鳥山浩詩、片桐直樹、松澤政也、森寿美(もり・としみ。男性)、橋本恵史(はしもと・けいし)ほか。ほぼ全員、関西にある芸大や音大、音楽学部や音楽コース、高校の音楽科などの出身者である。出身は関西でない人もいるが、関西と一切関係のない人はキャストに含まれていない。

テレビなどでもお馴染みの青島広志は1955年、東京生まれ。東京藝術大学音楽学部を首席で卒業後、同大学大学院修士課程も首席で修了。今日上演される歌劇「黄金の国」は、大学院の修了制作として作曲されたものであるという。
見た目だけだとそうは思えないが、実は青島は坂本龍一の後輩なのである。

原作戯曲である遠藤周作の「黄金の国」は遠藤周作の処女戯曲であり、誰でも一度は読んだことがあるであろう有名小説『沈黙』と共に姉妹作をなすものである。内容的には「黄金の国」の方が「沈黙」よりも一歩踏み込んでいるのであるが、その部分は青島は採用していない。
戯曲「黄金の国」は上演すると約3時間を要する大作であるが、それをそのままオペラにすると最低でも上演時間6時間ぐらいの超大作になってしまう。ということで、青島は、遠藤周作のセリフはほとんど変えることなく大幅にカットしたり順番を入れ替えたりして上演時間1時間半、2幕のコンパクトなオペラにまとめた。

演出の岩田達宗先生とは知り合いなので、上演前に挨拶をし、握手を交わす。岩田先生によると、遠藤周作の原作とは別物になっているそうで、パンフレットに全テキストが載っているので買うように勧められる。ということでパンフレットも買う。

傍らでは作曲者の青島広志が著作販売とサイン会を行っている。

テキストについてであるが、遠藤周作が一番力を込めたであろうメッセージは抜け落ち、恋愛ドラマが多少色濃くなっている。第1幕と第2幕の間はかなりバッサリとカットされており、「想像すればわかる」と観客に委ねてしまっている。

開演前に青島広志がマイクを持って登場し、「指揮だけをするという公演は今回が初めてなんです。いつもはピアノを弾いたり、歌ったり踊ったりしながらやるのですが、今日は指揮だけ。それだけだとちょっとというので、こうしてお話ししているわけです。堺シティオペラには20年ほど前にお世話になったことがございまして、その時は髪がまだあったんですが、今は完全になくなってしまいまいした。私は来年還暦を迎えます。体の一部分はもう還暦を過ぎてしまっていますが。それから、静岡県の方でオペラを指揮しましたときに、ピットが浅かったものでしたから、お辞儀をした途端に、子どもから『あ、ハゲ!』と言われたことがありまして、事前にハゲだとお見せしている具合でございます。このオペラはもう40年近く前に書かれたものでして、当時の作曲界は難しく、『ドミソ』で音楽を書いてはいけなかったんです(前衛音楽真っ盛りの時期である)。「○★※△~」というような難しい音楽を書かないと駄目だったんです。私の先生、宍戸睦郎といいますが、もう亡くなっておりますので名前も出していいと思います。宍戸先生も「○★※△~」というような曲でないと良い点をくれなかったんです。私は、良い点を取らなくてもいいからもっとわかりやすいものが書きたかったんですが、宍戸先生が教え子の成績が悪いと立場困るというわけで、私も「○★※△~」という曲を書いてしまいました。当時は演奏が難しくて演奏者が上手く弾けないということも多かったのですが、演奏技術の向上は目を見張るものがありまして、今日の、大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の皆さん、スラスラ演奏してしまいます。編成も小さいですが、あの方がコンサートミストレス(赤松由夏)でヴァイオリンが一番上手いんです。皆さんご存知の通り、ヴァイオリンは指揮者に近い人が一番上手くて後ろに行くほど下手になるのよね(実はそうとも限らないのだが)。管楽器も一番奏者、二番奏者、三番奏者とだいたい三人いるんですけれど、今日は全員、一番の方です(ここで観客に拍手を求める)。それから、岩田達宗先生が演出して下さっていて、岩田先生のお顔御覧になりましたか? プログラムには写真が載っていると思いますが、俳優であってもおかしくないような、おかしいっちゃおかしいんですが、男前でとても嬉しいです。私は顔だけでいいんです。他はどうでもいいんです」などと前説を行った。それにしてもテレビで音楽の解説をする人にはどうしておねえ口調の人が多いのだろう?

音楽であるが、確かに前衛の香りはするものの、今聴くとメロディアスで美しいものである。歌唱も半音ずつ下がっていくような難しいものだが、歌手達は満点とはいえないものの上手く歌っていた。

江戸時代の長崎が舞台であるが、岩田達宗の演出は、納屋の壁、掛け軸、カーテンを上から降ろすだけで、あとは三面とも西洋風の白いカーテンを使っていた。これは少なくとも私にとっては効果的であった。私は「黄金の国」の原作戯曲を読んでいるため、青島版「黄金の国」ではセットが西洋風でないと不可思議に見えてしまうのだ。

青島のオペラ「黄金の国」では、デウスはただ黙っているのではなく、自分に寄り添っているのだという解釈で終わる。だが、実は遠藤周作の原作戯曲にはそれを射貫くセリフがあるのだ。パーデレ・フェレイラのそのような解釈を聞いた長崎奉行所の井上筑後守は、「それは切支丹のものとは思えぬ(中略)日本にもある弥陀の慈悲。あれと、切支丹のデウスの慈悲と、どうにもならぬ己の弱さから、衆生がすがる弥陀の慈悲。これを救いと日本では教えておる。だが、あの折り、パーデレははっきりと申した。切支丹のデウスの慈悲はそれとは違うとな」と語るのである。
そう、青島がカットした部分にフェレイラノがクリスチャンでありながら浄土真宗的発想をしてしまったことを指摘するセリフがあったのである(その指摘を受けて落胆するフェレイラに希望の光が差すようにして劇は終わる)。

ということで、日本家屋的セットであったら、私には切支丹の劇ではなく、浄土真宗礼賛物語の亜種に見えてしまったことだろう。

歌手の演技についてもやはり解釈が異なり、私はパーデレ・フェレイラ役にはもっと素朴で繊細な演技を求めたと思う。人々に温かく接したことさえも傲慢と思い返すような内省的で、狂気を孕むかのような線の細い人物。今日、フェレイラを歌った桝貴志は、ミュージカルで山口祐一郎がよく行うような演技をしていた。

さて、青島は、切支丹への刑を、水刑(溺れ死に)から火刑(焼け死に)変えているが、その理由はよく分からない。火刑にしてしまうと後に来るのセリフと上手く繋がらないように思えるのだが。逆に水刑にすると希望と救いが増すはずである。あるいは初演時の演出上の都合だろうか。

遠藤周作の原作と比べなければ、良いオペラだったと思う。

岩田先生には色々伺いたいこともあったのだが、お忙しそうだったので握手して別れる。

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2017年1月22日 (日)

サミュエル・バーバー 「アニュス・デイ(「弦楽のためのアダージョ」より)」

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2017年1月21日 (土)

多分

文化大革命と同じ構図なんだろうな。え? 文革を知らない? それはいくらなんでも不勉強でしょう。

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2017年1月20日 (金)

一番危険なのは

「疑おうとしないこと」だ。

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忌野清志郎 「JUMP」

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2017年1月19日 (木)

イドにて

 何も貞子の話をしようというのではない。イドというのは井戸というよりもフロイトが提唱した自我としてのイドに近いものだ。

 ただし、ここでは物語を援用する。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』だ。
 井戸の底に潜った主人公は激しい怒りを覚える。かつて経験した怒り、呑み込んでしまって発散できなかったトゲの数々。それがどこかで現実と繋がり、社会を動かし、何かを揺さぶる。

 私も激しい怒りをイドのそこに抑えてきた。誰だってそうだ。この世が自分のものでない以上、誰もが理不尽な経験をする。いわれのない咎をかぶせられ、こちらの想像を超えた壮大な勘違いに押し流される。

 今までは私はそれをこらえてきた。超自我というリミッターによって。
 だが、そうまでして耐え続ける必要があるのか。

 忘れられるなら忘れてしまった方が良い。こちらは生々しく記憶していても「加害者」である彼らはもう何も覚えていないだろう。それならこちらも記憶しているだけ無駄だということになる。

 「それはもう中空にある」

 だが無意識から現れた「幽霊のような私」が、私の自制を激しくなじるのだ。「臆病だ」と、「もっと表に出せ」と。
 イドの底で目をこらして、私は私にとって最も有効な水脈を見いだしたい。私が「幽霊の私」に取って代わられてしまう前に。

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2017年1月18日 (水)

遠くへ来た

遠くへ来た「はずだ」。おそらく誰よりも。
幼き頃の私と今の私は連続性さえ見られないほどに断絶されている。
般若心経に云う。「色即是空 空即是色」。一切は空であり、瞬間瞬間の幻だと。
遠くへ来たのかあるいは元々遠く隔たれていたのか。

だが、それとはまた別の記憶が私に宿っている。私の中にかつての子供がいる。
子供の私は戸惑い、社会との間にある透明にして越えがたい膜を感じている。その被膜の中で、私はどこにも行けないまま今もうずくまり続けている。私は遠くへなど行けずにそのままなのだ。

遠くへ来た私と行けなかった私。二つの隔絶された私が混濁し、私そのものの像を私から遠ざけている。

写真の中の私に今の私は何を語ろうか。「来られた」と云うべきか「行けなかったよ」と告げるべきか。

私の片方の目は昔を彷徨い、片方の目は今にある。ある部分は若い頃のまま止まり、別の部分は未来に達している。そうした継ぎ接ぎだらけのセルフポートレートを前に、「本当の私はどの部分に宿るのか」と私は戸惑っている。あるいは全てが「本当の私」なのかも知れないのに。

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2017年1月16日 (月)

コンサートの記(267) オリジナルオペラ「鑑真東渡」

2016年12月28日 ロームシアター京都メインホールにて

午後6時30分から、ロームシアター京都メインホールで、オリジナルオペラ「鑑真東渡」を観る。南京を本拠地とする江蘇省演芸集団有限公司による上演。
作曲:唐建平、演出(監督、導演):邢時苗、脚本:憑柏銘&憑必烈。程嘩(「嘩」は正確には「日偏に華」)指揮江蘇省演芸集団交響楽団による演奏。日本箏演奏:松村エリナ。
出演は、田浩江(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場所属)、駱洋、柯緑娃、劉雨東、殷桂蘭ほか。合唱:江蘇省演芸集団歌劇舞芸院合唱団。特別ゲスト:仁如法師(中国・大明寺監院)。
主催:日中友好協会ほか。協力:毎日新聞社ほか、後援:外務省、文化庁、中華人民共和国日本大使館、奈良市、奈良県、京都市。

日本に戒律を授けるため、何度も渡海に失敗しながら来日し、唐招提寺を建てて日本で亡くなった鑑真和上の物語である。



天平の世。日本に仏教が渡ってからすでに200年余りが経った。しかし、仏教はすでに乱れており、兵役を逃れるためや権力欲しさにエセ出家するものが後を絶たないという状態だった。仏教による鎮護国家成立にはきちんとした仏教の戒律が必要なのだが、当時の日本には正式な戒壇も戒律もない。そこで、唐の国の高僧を招くことに決める。その際、唐に渡って高僧を招くために尽力した日本の僧侶が栄叡(ようえい)と普照の二人なのだが、今回は栄叡一人に纏められている。

史実では、鑑真の弟子を招こうとするも、日本に渡ってもいいという高僧は一人もいなかったため、鑑真自らが渡ることを決めるのだが、その辺のことはややこしいので、まず鑑真が日本に渡るということは鑑真本人がすでに決めており、弟子達がそれに反対するという展開を取る。

まず、オーケストラピットの下手端に高僧の座る椅子が設けられており、ここに仁如法師が陣取って読経を行い、スタートする。
江蘇省演芸集団歌劇舞芸合唱団のメンバーは木魚を手にしており、その木魚の音で音楽が始まる。唐建平の音楽は調整音楽ではないものの、わかりやすい。新ウィーン学派の音楽、オペラということもあって、就中、アルバン・ベルクの音楽を東洋風にしたものというと通じやすいかも知れない。

今日は3階席の5列目(一番安い席)に陣取ったのだが、開始前にレセプショニストさんから、「もっと前の席に移って頂いても結構です」と言われる。実は3階席の前の方は招待客向けの席だったのだが、招待客がほぼ一人も来なかったという惨状のようだ。私の他にも前に行くよう勧められた人は二人いて、共に3階席の最前列に移ったのだが、私は「取り敢えず見にくかったり、音が悪かったりしたら移ろう」ということで保留。実際に見てみると、3階席の5列目でもよく見えたし、音の通りは素晴らしく、不満はなかった。ということで頑として動かず。思いっきり日本人してしまったぜ。
日本のクラシック界はブランド志向であるため、日本ゆかりの人物のオペラとはいえ、中国の現代作品を観ようという人は、よっぽどのオペラ好きか仏教好き、もの好きに限られる。ちなみに私は全てに該当する。

ロームシアター京都メインホールでオペラを観るのは二度目だが、ここはオペラを聴くには本当に適しているようで、歌手や合唱団の声、オーケストラの音色などがクッキリと聞こえる。オペラ劇場としての音響は最上級。まだ遠い方の席でしか聴いたことはないが、これまでにオペラを聴いたことのあるどのホールよりも音が良いと断言できる。それだけに使い勝手の悪さが残念でもある。
今日はサイド席(バルコニー席)はほとんど使われていなかった。

日本箏の松村エリナを除いて、オール・チャイニーズによる演奏(江蘇省演芸集団交響楽団のメンバーには白人も含まれているようである。また漢民族以外の名前も持つ人もいる)。
私が若い頃は、世界で最も有名なアジア人作曲家は武満徹であったが、武満の死からすでに20年が経過。現役のアジア人作曲家として最も有名なのは中国出身の譚盾であると思われる。中国作曲界のレベルは映画音楽を聴いてもわかる通りかなり高い。


鑑真の渡海の場面からオペラは始まる。上手、下手、奥に白くて細い布が何本も下がっていて、通過可能な壁のようになっており、これが効果的に用いられる。セットは中央に円形のものがあり、これが後に月になったりもするのだが、基本的にセットはシンプルである。細い布はキャットウォークからも何本も下りてくる。
荒れ狂う海(東シナ海であるが、中国人キャストに遠慮して「東中国海」という字幕表示になっている。その代わり、日本を指す差別語の「東夷」は別の表記が用いられている)。波は今にも鑑真らの乗る船を飲む混もうとする。しかし、仏の加護により、波は静まる(ただし日本には行けない)。時系列的には、栄叡が鑑真に渡海するようお願いする場面は、この渡海の後に出てくる。舞台は揚州の大明寺。日本からの留学僧・栄叡(駱洋)が、鑑真(田浩江)に扶桑(日本の別名)に渡り、律宗の戒律を伝えるよう頼む。鑑真の弟子の静空(劉雨東)、尼僧の静海(鑑真の弟子に尼僧はおらず、架空の人物である。柯緑娃)らは渡海は危険だとして鑑真を止めるが、鑑真は海を渡ることこそ最大の修行であり、日本に渡らなければ自分は成仏出来ないとして、渡海を決定する。鑑真は、鳩摩羅什や玄奘(三蔵法師として日本でも有名)の姿を己に照らし合わせていた。
しかし、鑑真の身内に密告者がおり、海賊と通じているとして鑑真一向は捕らえられてしまい、渡海は失敗。密告者は静海であることが発覚。静海は自殺して詫びようとするが、鑑真に仏の道を歩むことこそが贖罪と諭されて思いとどまる。

栄叡の独唱の場面では、舞台上手から着物を着た松村エリナが台車に乗って現れ、箏で伴奏を奏でる。唐関連の人物の場面では、下手から中国箏演奏家の劉星延(女性である)がやはり台車に乗って現れるのだが、共にモーター音が響くため、ちょっと気になった。

江蘇省演芸集団歌劇舞芸院合唱団とダンサー陣の人海戦術も効果的であり、リアルな場面と幻想的なシークエンスの両方で存在感を示していた。


鑑真は渡海失敗を繰り返し、一度などは、南方の異境(振州=現在の海南島とされている)に船が流されてしまい、島の主の憑夫人(殷桂蘭)は、配下の祈祷師による「この島で疫病が流行っているのは、この僧侶達が原因」との言葉を信じ込み、鑑真を柴草で焼き殺そうとするが、鑑真に諭されて思いとどまる。鑑真は部下達に薬草を調合した薬を作らせ、島の疫病を鎮める。憑夫人は己の無知を恥じるが、鑑真に励まされ、島に菩提心を広めることを約束する。

海を渡ることが叶わぬまま、栄叡が唐の地で客死する。この時、鑑真は度々の艱難辛苦のためにすでに失明しており、栄叡の姿を見ることが出来ず、探し回る(字幕では、「栄叡どうしたのだ」とあったが、実際は、「栄叡在[口那]里(栄叡どこにいるのだ)」と歌っており、文字制限による意訳のために日本語では少しわかりにくくなっていた)。栄叡は故郷の難波津を思い出しながら息絶える。
弟子の静空もまた、「西方に浄土がある。私は東に渡るのではなく、西行します」と言って去って行った。
失意の鑑真であったが、「長明燈は常在不滅」という言葉を信じ、再び日本への渡海を試みる。

こうして苦難の末に、天平勝宝4年(754)に鑑真は日本に渡来し、奈良の都に戒律を伝え、東大寺に戒壇を気づき、唐招提寺を建立した後に当寺に於いて入滅するのだった。


東アジアにおける西洋音楽の受容というと、日本が最先端ということはこれまでは当たり前だったし、これからも当分は同じ状況が続くと思われるのだが、日本の国公立で音楽学部を持つ大学は東京芸術大学、愛知県立芸術大学、京都市立芸術大学、沖縄県立芸術大学など数えるほど。演劇や映画の学部は皆無という中にあって、中国は国共内戦後に中央音楽学院、中央戯劇学院、北京電影学院など、北京に国立の音楽大学、演劇大学、映画大学を創設。文化大革命による危機はあったものの、北京だけでなく、上海を始め各所に国立の芸術大学を設置して、国ぐるみで文化を後押ししている。

中国のクラシック音楽事情には私も通じているわけではなかったのだが、劇場付きのオーケストラが存在するというのは衝撃であった(日本では、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団が歌劇場付きの団体であるが、母体である大阪音楽大学のオーケストラという位置づけであり、編成も大きくない。ポピュラーでは宝塚歌劇団のオーケストラが座付きである。新国立劇場創設時に座付き国営オーケストラ設置案も挙がったが実現しなかった)。

以前の中国では、芸術家は国家認定システムであり、国立の芸術大学を卒業していないとプロの芸術家に認定されず、活動も出来なかったのだが、今はどうなっているのかよくわからない。ただ、国を挙げての文化発揚形式は今も力強いものがあるということは、この公演を観てもわかる。


北京語歌詞、日本語字幕による上演であるが、一部、日本語による合唱が行われる場面がある。また、般若心経や「南無阿弥陀仏」が唱えられるのだが、仁如教師は、2005年から2007年に掛けて岐阜県にある正眼短期大学に留学しており、帰国後に鑑真仏教学院で日本語基礎教育に関わったほか、2015年から今年の3月まで和歌山県の高野山専修学院で唐の密教に関する研究を行っており、日本語による読経が可能であり、般若心経が日本語読みで朗唱される場面もあった。
「ギャテイギャテイ ハーラーギャテイ ハーラーソウギャテイ ボダジソワカ」、「色即是空 空即是色」という般若心経のお馴染みの言葉も登場する。

江蘇省演芸集団交響楽団も予想を遙かに上回る優秀なオーケストラであり、仏教好きでなくても十分に楽しめる現代歌劇となっていた。

カーテンコールでは、作曲家の唐建平や脚本家の憑必烈らも登場。出演者達もオーケストラピットの楽団員も嬉々として拍手を送っていた。ロシアのマリインスキー・オペラによる「エフゲニー・オネーギン」を観た時もそうだったが、お国ものということで皆が誇りを持って演奏し、歌い、演じていた。日本ではオペラがまだ「お高くとまったもの」と認識されているためか、こうした光景は余り見られない。日中関係は悪化の一途を辿っているが、自国が生んだ芸術を純粋に愛する心も持つ隣国の人々が羨ましくなった。日本人は西洋音楽に対するコンプレックスが強すぎるようにも思う。

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桜 稲垣早希メイク術

桜 稲垣早希公式チャンネル「早希TUBE」からの映像。早希ちゃんのボケにご注目。

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2017年1月15日 (日)

眠りによるハイジャックあるいは逢魔が時の私

 眠りに体を一時的にハイジャックされる。それは私の奥に抑圧された何かが表に出ることでもなく、私の潜在意識に眠る私が表の私に変わって目を覚ますことでもない。
 黄昏時に、あるいは彼は誰時に、光と闇の移り変わる逢魔が時に、多くのものが溶けて一体になるのと同様、「私の制御する私」以外の私が渾然とした形で現れるということである。
 ハイジャックされた私は抑制力を持たず、一貫した記憶も保持しないが、それは私が私でなくなるということとは著しく違う。さなぎとしての個体と脱皮して蝶となった個体とが同一であるように、個としての私自体は存在する。
 そしてハイジャックされた個体が私と連続性を持つことで恐怖が生まれる。
 「私が私と思っている私は本当に私であるのか」
 デカルト的思惟はもう否定された。私の根源自体が私でない可能性がある。それは私でありながら私でない、「逢魔が時の私」だ。
 それを私は何と名付けよう。フランソワーズ・サガン的な戸惑いの中にある私を。

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2017年1月14日 (土)

コンサートの記(266) 宮本亜門演出 東京二期会オペラ劇場「魔笛」

2015年7月16日 東京文化会館にて

午後6時30分から、東京文化会館で、東京二期会オペラ劇場・モーツァルトの歌劇「魔笛」を観る。様々な作曲家が数多く作曲したオペラの中でも人気ということに関してはトップランクに来るモーツァルトの「魔笛」。音楽之友社が数年前に行ったアンケートでは好きなオペラ1位であった。とにかく音楽がチャーミングであり、おとぎ話のようなストーリーも観るものを惹きつける。
ストーリーに関しては、「一貫性がない」という批判を受けるが、台本を書いたシカネーダーとモーツァルトが共にフリーメイソンの会員であり、フリーメイソンが「男尊女卑」の思想を持つことを考えると案外、首尾一貫した話という印象も受ける。

演出は宮本亜門。今回は、「魔笛」がRPGの中の話という設定で、全編CGが用いられる。具体的な装置はたまにしか登場しない。今の時代なら十分に可能ではあるがかなり思い切った演出である。

指揮は、デニス・ラッセル・デイヴィス。古楽から現代音楽まで幅広いレパートリーを誇るアメリカ出身の指揮者である。全曲モダン楽器によるピリオド・アプローチを採用した「ハイドン交響曲全集」を完成させており高い評価を得た。オーケストラは読売日本交響楽団。デニス・ラッセル・デイヴィスの指揮なので当然ながらピリオド・アプローチによる演奏である。

なお、今回の魔笛はオーストリアのリンツ州立劇場との共同制作であり、東京に先駆けてリンツで世界初演が行われたようである。

舞台は八百屋になった菱形。菱形の上辺の二つのライン上にパネル型のスクリーンが立っており、丁度本を開いて舞台の上に置いたような形に見える。このスクリーンにCGが投影され、更に部分部分が開閉することで、場面転換がスムーズに行く。CGは途中で映像が乱れたりもしたが、これだけ徹底してやられると不思議と説得力を持って見える。

出演は、妻屋秀和(ザラストロ)、鈴木准(タミーノ)、加賀清孝(弁士)、髙橋裕樹(僧侶Ⅰ)、栗原剛(僧侶Ⅱ)、森谷真理(もりや・まり。夜の女王)、幸田浩子(パミーナ)、日比野幸(ひびの・みゆき。侍女Ⅰ)、磯地美樹(いそち・みき。侍女Ⅱ)、石井藍(侍女Ⅲ)
小野颯介、福田建、髙井麻飛(たかい・あさひ)、以上3人は「三人の童子役を務める子役である。全員、TOKYO FM少年合唱団に所属)
九嶋香奈枝(くしま・かなえ。パパゲーナ)、黒田博(パパゲーノ)、高橋淳(モノスタトス)、成田勝美(武士Ⅰ)、加藤宏隆(武士Ⅱ)
ダブルキャストであり、16日と19日がこのキャスト、18日と20日は別のキャストが演じる。東京二期会の公演であるため、子役を除く全員が(東京)二期会に所属する歌手達である。

合唱は二期会合唱団。この公演には歌うことはないダンサーが男女3人ずつの6名が出演する。鈴木裕香(すずき・ゆか)、津吉麻致子(つよし・まちこ)、泉真由の女性陣は、娼婦風の女性3人の他にチンパンジーの着ぐるみを着ても出演。栗林昌輝、藤岡義樹、竹中勇貴の男性キャストはチンパンジーやゴリラを主に演じる(振付担当は新海絵理子)。

なお、今回はiPhoneやiPad使用者向けの巨大なQRコードが開演前と途中休憩時間に降りているスクリーンに投影され、アップル・ユーザーはQRコードを読み取ることで、RPG「魔笛」をディスプレー上で楽しめるという(私はAndroidユーザーなので関係なかったが)。

デニス・ラッセル・デイヴィスが登場し、「魔笛」序曲を演奏。シャープにしてクリア、且つ豊潤な音楽が奏でられる。「魔笛」序曲演奏中に舞台上ではプロローグが演じられる。舞台は意外にもとある家庭の一室。「魔笛」序曲の3つの音をノックとでも聴いたように、奥の扉を開けて、おじいちゃん(加賀清孝)が登場。おじいちゃんはプレゼントの箱を手にしている。その後、3人の子供(三人の童子を務める子達)が入って来る。3人はおじいちゃんの孫のようだ。おじいちゃんが孫にプレゼントしたのはコンピューターゲーム。ソフトは「君もヒーローになれる」というRPGが内蔵されており、ディスプレーにメッセージが浮かぶ。そこに、サラリーマンの格好をした父親(鈴木准)が部屋に帰ってくる。父親は会社でトラブルを起こしたようで、辞めるかクビになるかしたようだ。そこへ母親(幸田浩子)が帰ってくる。夫婦喧嘩が始まり、遂には母親が父親に愛想を尽かしてキャリーバッグを引いて家を出てしまう。やけっぱちになった父親は「ヒーローになりたい」との思いからRPGの画面の中に飛び込む。ディスプレーが割れる映像が浮かび、キャストが退場、セットも退けられて、背後のスクリーンのみの無機質な舞台になる。スクリーンに白蛇が現れ、縦横無尽に動き回る。タミーノとなった父親は白い大蛇から逃れようとして気絶。ここで侍女3人が表れ、タミーノのことをイケメンだと褒めそやし(タミーノ役の鈴木准は実際に結構な男前である)、タミーノに衣装を与える。

今回のタミーノはサラリーマンがRPGの世界に迷い込んだという設定であり、彼は王子でも貴族でもない(侍女の3人が明かす場面がある)。

その後に表れる黒田博演じるパパゲーノは、道化風というか、ちょび髭なしのチャップリンのような出で立ちである。鳥刺し男という設定は変わっていないのだが、鳥刺し男には見えない。
黒田のパパゲーノは演技は達者だが、声がやや重めである。

夜の女王役は本当は幸田浩子が良かったのだが、今回の夜の女王は格好が色物風だったので、幸田の良さを生かすならパミーナということになったのだろう。夜の女王役の森谷真理のコロラトゥーラは見事であった。

幸田浩子のパミーナは予想通り愛らしい感じであったが、もう少し演技を付けた方が良かったかも知れない。歌は素晴らしい。彼女の高く伸びる歌声はやはり聴いていて心地良い。
なお、今日は入場者全員に幸田浩子のサンプルCDがプレゼントされた。

ザラストロが率いる一派は理知的に過ぎる嫌いがあるのだが、宮本亜門はそれを思いっ切り外面に表れるよう演出。ザラストロ達は脳味噌の形をした被り物をしている。見たままズバリ頭でっかちという印象である。

男性達は理知的に過ぎ、女性達は情に溺れるというのが「魔笛」の基本的なラインである。タミーノが3つのイニシエーションを経て、パミーナとの「真の愛」を掴み取るのだが、儀式から脱落したパパゲーノがパパゲーナを得て、有名な「パパパの二重唱」を歌うのを聴くと、「真の愛」と思われている愛が本当の愛なのかどうか曖昧に思えてくる。

今回の「魔笛」は、タミーノとパミーナの大団円、パパゲーノとパパゲーナの大団円の後に、タミーノから一人の男に戻ったサラリーマンが仕事を成功させ、妻と復縁するという三つ目の大団円が用意されており、かなり祝祭的な印象を受ける。

ラストでは、二期会合唱団の面々がドレスアップして客席の上手端通路と下手端通路に並んで喜びの歌を唄うなど、視覚的、音響的効果にも優れていた。

三人の童子は成人女性のソプラノ歌手が歌うことも多く、ソプラノの方がボーイソプラノよりも歌唱も安定しているし、演技も達者なのだが、今回の解釈だと男性の中に女性が子供として交じっているということになり、異物混入に見えるため、ボーイソプラノの方が説得力があるだろう。

デニス・ラッセル・デイヴィス指揮の読売日本交響楽団は全編を通してフレッシュな演奏を展開。聴き応えのある「魔笛」であった。

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2017年1月13日 (金)

コンサートの記(265) 春秋座オペラ2016「カルメン」

2016年12月17日 京都芸術劇場春秋座にて
 

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、歌劇「カルメン」を観る。NPO法人ミラマーレ・オペラの企画制作。牧村邦彦指揮ミラマーレ室内合奏団(弦楽2、木管4、金管2、打楽器1の室内楽+エレクトーンという編成)、ミラマーレ・オペラ合唱団、ひまわり児童合唱団の演奏。今日の出演は、藤井泰子、谷口耕平、和田しほり、折江忠道、松山いくお、松浦藍、畠中海央、望月光貴、木村孝夫、竹内利樹(田中洋貴が体調不良で降板したための代役)、生駒里奈(アイドルの方と同姓同名、漢字も一緒ですが別人です)、田中啓介。公演プロデューサー:橘市郎、公演監督:松山郁雄(松山いくおと同一人物)、演出:三浦安浩。

春秋座オペラ7年目の上演である。それ以前にも歌劇「椿姫」などは上演されており、私も京都造形芸術大学在学中に観ている(主要キャストのみプロで、他は京都市立芸術大学及び大学院の学生であった)。


「カルメン」というと、カルメンというジプシーの悪女にドン・ホセがたぶらかされる物語というイメージがあるのだが、今回の三浦安浩の演出は、カルメンとドン・ホセの立場の違いに重点を置いているようである。


春秋座は歌舞伎のための劇場であり、回り舞台や花道がある。今回もその回り舞台と花道を使った演出が施される。


第1幕への前奏曲前半が終わろうとする頃に、舞台下手からカルメン(藤井泰子)が現れる。まだ幕は開いておらず、カルメンはしばし幕の前で佇む。前奏曲後半が始まると、花道の入り口に一人の女性(生駒里奈)が現れる。カルメンと女性は歩み寄り、すれ違う。この謎の女性、ラスト間際まではカルメンにしかその姿は見えない。彼女の正体は、「運命」なのか「死神」なのか。ラストではこの女性の姿は「死」そのものなのだが、ここではそれら全てを包括した「影」ということにしておく。影の女性は、もう一つの影である士官姿の男性(田中啓介)とダンスを踊る。影の女性は花道の入り口若しくは花道のセリから登場する。セリで花道に上がり、そのままセリで消えることもある。

今回は照明の思い切った切り替えがあるのだが、劇画調になるため、好悪を分かつかも知れない。


ジプシー(劇中では「ボヘミアン」と呼ばれる)であるカルメンは自由を求める。愛の束縛すら彼女は求めない。自由を失うぐらいなら死を選ぶのがカルメンだ。
一方のドン・ホセは貴族階級出身であり、下士官というお堅い職業に就いて、伍長という肩書きも持っている。今後、士官への出世の可能性もあり、ミカエラ(和田しほり)という恋人がいるにも関わらず、カルメンに揺動されてあっさりと恋に落ちてしまうという愚かな男である。

カルメンとドン・ホセは本来なら恋に落ちるはずのない二人なのである。それがカルメンにたぶらかされた結果、身に過ぎた行動をドン・ホセはとってしまうのである。彼は、「ラ・トラヴィアータ」ならぬ「ラ・トラヴィアート」である。

ドン・ホセは身分を捨て、カルメンのいるジプシーの盗賊集団に加わる。本来なら、ドン・ホセの気質からいって、こんなことをしても上手くいくはずがないのである。水と油のカルメンとドン・ホセ。本来なら堅気の職業を続け、母親との絆を強く保ち、ミカエラの愛の紐帯も受け入れる、それがドン・ホセだったはずだ。そうとしか生きられない男。ところがカルメンのために横車を押して、実る当てもない恋路を選んでしまった。ドン・ホセは自分というものをわかっていなかった。カルメンよりもドン・ホセの方がより一層、悲劇的に映る。

ラストでドン・ホセにも影の女の姿が見えるようになる。ドン・ホセは影の女を止めようとするが、影の女はドン・ホセの横を通過する。もはやカルメンを殺すことは避けられない。そしてドン・ホセは行動に及ぶ。


牧村邦彦の指揮は身振り手振りが大きい。今日は下手側桟敷席での鑑賞で、舞台も牧村の指揮も両方よく見える位置だったので仔細に観察した。編成が小さいので迫力には欠けるが、リズム感の良いきっちりとした音楽作りである。牧村は時折、指揮棒を譜面台に置いてノンタクトでも指揮をした。


今日、タイトルロールを歌った藤井泰子は、イタリア在住の歌手である。慶應義塾大学卒業後、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部を修了。イタリア政府給付金を得てイタリアに渡り、ボローニャ音楽院で学ぶ。イタリアでは、Yasuko名義での活動もしているそうだ。カルメンの雰囲気に合った演技と歌唱を聴かせてくれる。才能豊かなようである。
2017年2月には、イタリアで「ナポリの娘」の主演を張る予定。

ミカエラ役の和田しほり(京都市立音楽高校出身)の可憐な歌声と演技も良い。今日のキャストは男声歌手よりも女声歌手の方が総じて上だったように思う。

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