2019年6月20日 (木)

観劇感想精選(306) 京都観世会館 第254回市民狂言会

2019年6月7日 左京区岡崎の京都観世会館にて観劇

午後7時から、岡崎にある京都観世会館で、第254回市民狂言会を観る。茂山千五郎家と茂山忠三郎家の出演。演目は、「舟船(ふねふな)」、「惣八(そうはち)」、「梟(ふくろう)」、「塗師(ぬし)」


「舟船」。西宮の神崎川周辺が舞台となっている。出演は、茂山千作、茂山七五三。
主人(茂山七五三)が太郎冠者(茂山千作)と共に久しぶりに遊山に出掛ける。近所は散々散策したので遠出をしたいと思った主人は太郎冠者の勧める西宮へ。神崎川に出た二人は川を渡ろうと渡し船を求める。だがそこで太郎冠者が船を「ふな」と読んだことから、「ふね」か「ふな」かで争うことに。和歌に出てくる「ふね」と呼ぶ例と「ふな」と読む例を挙げるが、和歌の知識は太郎冠者の方が優勢のようで……。


「惣八」。つい先頃まで料理人だった出家と、駆け出しの料理人である元僧侶の話である。出演は、茂山あきら、茂山忠三郎、茂山宗彦(もとひこ)。茂山千五郎家と茂山忠三郎家は今では同じ茂山を名乗るが、江戸幕府から茂山姓を貰う前は、千五郎家が佐々木、忠三郎家が小林という苗字で別の家である。
有徳者(金持ちのこと。茂山忠三郎)が、料理人と僧侶を召し抱えることにする。高札を見てやって来た出家(茂山宗彦)は、元料理人。生類の命を取ってばかりの仕事に嫌気が差して出家したのだが、経文も満足に読めないという状態であり、高札を見て禄を貰おうと考えたのだ。もう一人応募してきた料理人(茂山あきら)はこれまで僧侶として生きてきたのだが、「俗なことをしたい」と考え、料理人に転身。しかし、精進料理以外の心得はない。料理人仲間が大勢出来るので教えて貰おうと応募したのだが、今のところ料理人として雇われたのは彼一人である。料理人は自己紹介の時に「愚僧は」と発言してしまったため、取り繕うために「惣八」と名を偽る。
有徳者は、出家に法華経を読むよう、料理人には魚を捌くよう命じて奥に引っ込むが、二人とも心得がないので、手も足も出ない。出家は法華経のことも知らず、「ホケキョ」なのでウグイス経だと勘違い、惣八は包丁すらなんなのかわからないという有様である。だが、互いの前職があべこべだと知り、役割を交代しようと目論む。
惣八は、元僧侶という設定だが、笑いを取るため法華経の読みは出鱈目に進める。
殺生を生業とする料理人とそれを戒める立場にある出家の交代の妙味もある狂言である。妙味と書いたが、取りようによっては厭世的とも言える。


「梟」。この演目は、2年前の夏にロームシアター京都サウルホールで観たことがある。出演は、茂山千三郎、井口竜也、丸石やすし。
山奥で梟の巣を取ったために気の病にかかってしまった男(丸石やすし)を案じてその弟(井口竜也)が法印(山伏のこと。茂山千三郎)を喚び、祈祷をして貰うという話で、最後はミイラ取りがミイラになる。
笑える演目であるが、昔は気の病の研究がほとんど進んでいなかったため、加持祈祷に頼るしかなかったという背景がうかがえる。昔はと書いたが、精神病への関心が高まったのはここ20年ほどのことである。


「塗師」。出演は、茂山千五郎、茂山茂、茂山逸平。
京で活躍していた塗師(茂山茂)が仕事にあぶれ、弟子のいる越前に落ちていくという話であり、設定からして切ない。
京では流行の塗り物がもてはやされており、昔気質の塗師は生活していけないようになった。塗師の弟子である平六(茂山千五郎)が越前国北之庄(現在の福井県福井市。柴田勝家の居城である北之庄城があったことで知られるが、北之庄の名が「敗北」に繋がるとして江戸時代初期に縁起の良い福井に改められている)で塗師をしており、「困った時はいつでも越前へお出でなさい」と言ってくれていたため、その言葉に甘えることにしたのだ。京の塗師は、平六の家を訪ね、女房(茂山逸平)に仔細を話すのだが、女房は「師匠というからには腕が立つのだろう。平六の仕事を奪われかねない」と考え、平六はすでに他界したということにして追い返そうとする。だがそこへ平六の声が。女房は席を外して平六に状況を説明する。どうしても師匠に会いたいと言う平六に女房は幽霊となって現れる狂言を提案する。
ということで、狂言の中で狂言を行うという入れ子構造になるのだが、狂言内狂言となる部分は餓鬼道に落ちたことを歌うシリアスな能舞であり、笑いを取るためのものではない。見ようによっては、京の塗師がもう一人の自分と対面しているようでもある。
今現在はちょっとした狂言ブームが続いており、人気の狂言方も多いが、ある意味、狂言の歴史は為政者の胸三寸に左右されたり人気を他の芸能に奪われ続けるという敗北の歴史であり、零落した京の塗師に狂言そのものを重ねることも出来るだろう。狂言への愛や師弟愛といった伝統芸能の担い手ならでは思いが交錯するのを見るようでもある。

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2019年6月18日 (火)

観劇感想精選(305) 第70回京都薪能「新しき御代を寿ぐ」2日目

2019年6月2日 左京区岡崎の平安神宮にて観劇

午後6時から平安神宮で、第70回京都薪能「新しき御代を寿ぐ」2日目を観る。
2日連続で行われる第70回京都薪能。昨日は晴天だったが、今日は曇り。ただ雨は降らず、空は明るめである。

今日の演目は、能「絵馬」(観世流)、能「羽衣」(金剛流)、狂言「仁王」(大蔵流)、能「石橋」(観世流)。


昨年は体調不良の中、出掛けた京都薪能。結局、1曲だけ観ただけで薪に火がつく前に平安神宮を後にしており、薪能と言われる状態を目にしていない。薪能を観るのは今回が実質初めてである。


能「絵馬」。伊勢神宮を訪れた勅使が、日照りの絵馬と雨の絵馬を掛けようとする老人と老婆の見かける。やがて二人の正体が二柱の神であることがわかり、天照大神と天鈿女命と手力雄命が天岩戸を再現する。出演:杉浦豊彦、梅田嘉宏、大江泰正ほか。
元号が変わったということで、まず皇祖である天照大神が登場する演目が行われる。残念ながら今日は太陽は顔をのぞかせなかったが、日照りの絵馬と雨の絵馬の中間の天気ということで良かったのではないかと思う。


能「羽衣」上演の前に薪に火をつける儀式がある。煙があたかも霞のようにたなびき、今日の演目に相応しい仕掛けが出来上がった。
能「羽衣」はずばりそのまま羽衣伝説を題材にした能である。出演:金剛永謹、小林努、有松遼一ほか。
漁師の白龍は、三保の松原で羽衣を見つける。羽衣を持ち帰ろうとした白龍だが、そこに天女が現れ、羽衣を返してくれるよう頼む。白龍は羽衣を返す代わりに天女の舞を観たいと申し出る。
前半は白龍と天女のやりとりであり、後半は能舞となる。
動きの少ないゆるやか舞であり、これは舞手の動きと観る者の想像力が合わさって初めて完成する舞である。西洋の舞踏のように観る者を圧倒して引きつけるのではなく、観る側が舞に加わる余地を敢えて残しているように思われる。


狂言「仁王」。茂山千五郎家による上演。茂山千五郎家による「仁王」は数年前に金剛能楽堂で観たことがある。出演は、茂山宗彦(もとひこ)、茂山あきら、茂山千五郎、丸石やすし、茂山千作ほか。
財産を失った男が悪党にそそのかされて仁王像に扮し、供物を受け取ろうと企む話である。仁王像(に扮する男)に対して行う願掛けは、各人が即興で行う。今回も広島カープの日本一を願ったり、頭頂部からはげてきたので良いカツラが欲しいと言ったり、目が悪くなって犬と孫を間違えたので視力回復を願ったりと、それぞれの希望を語る。京都薪能が100回まで続くこと、それも「晴天の下」で続くことを願う人もいた。


能「石橋」。目出度い時の定番の演目である。要は獅子舞なのだが、1頭の白獅子(味方團)と3頭の赤獅子(松野浩行、宮本茂樹、大江広祐)が気のようなものを発し、迫力満点の舞が披露された。

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2019年6月17日 (月)

観劇感想精選(304) 加藤健一事務所 「Taking Sides ~それぞれの旋律~」

2019年6月1日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後2時から、京都府立府民ホールアルティで、加藤健一事務所の公演「Taking Sides ~それぞれの旋律~」を観る。「戦場のピアニスト」「想い出のカルテット」「ドレッサー」のロナルド・ハーウッドが、20世紀最高の最高の指揮者であったヴィルヘルム・フルトヴェングラーのナチ裁判予備審問を描いた戯曲の上演。私は6年ほど前に、行定勲の演出、筧利夫、平幹二朗、福田沙紀、当時無名の鈴木亮平らの出演による上演(「テイキングサイド ~ヒトラーに翻弄された指揮者が裁かれる日~」)を観ている。
テキスト日本語訳は小田島恒志と小田島則子。演出は鵜山仁。出演は、加藤健一、今井朋彦(文学座)、加藤忍、小暮智美(青年座)、西山聖了、小林勝也(文学座)。

舞台上方に下側がちぎれた状態の星条旗が掛かっている。舞台下手にも星条旗が、あたかも歌劇「蝶々夫人」の上演時のように掲げられている。上手に上方に設けられたドームが崩れ落ちたままのドアがあり、登場人物はこのドアから入ってくる。
ベートーヴェンの交響曲第5番第4楽章の演奏が鳴り響いて上演開始。星条旗を吊り下げていた上手側の紐が切れ、舞台上に落ちかかる。後方の壁にはベルリン陥落の模様の映像が投影される。

灯りがつくと、エンミ・シュトラウベ(加藤忍)が指揮真似をしている。エンミはベートーヴェンの愛好家なのだが、連合軍取調局に所属しているアメリカのスティーヴ・アーノルド少佐(加藤健一)は、音楽には全く興味がなく、ベートーヴェンの交響曲第5番についても、「くその役にも立たないほど退屈」と感じている。エンミはベートーヴェンの交響曲第8番が最も好きなのだが、ベートーヴェン入門曲として第九を薦める。だが、アーノルドは「第5より短いのか?」と聴く気のない発言をする。

アーノルドは世界的な大指揮者であるヴィルヘルム・フルトヴェングラー(小林勝也)の予備審問を担当するのだが、フルトヴェングラーについては全く知らない。知らないからこそ選ばれたという側面もある。アメリカで活躍するアルトゥーロ・トスカニーニやレオポルト・ストコフスキーは知っているが、指揮者ではなくバンドリーダーという認識であり、フルトヴェングラーもバンドリーダーの一人だと思っている。
フルトヴェングラーは、ナチス政権化にあってナチ党員にならず、ユダヤ人音楽家の国外逃亡に手を貸していた。だが自身はドイツに留まってベルリン陥落の前年にようやくスイスへ亡命したため、「実はナチ協力者なのではないか?」という嫌疑をかけられていた。フルトヴェングラーと彼が指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏は、ナチがドイツ国民の優越性を示すためのプロパガンダとして用いていた。
新たにアーノルドの部下となったデイヴィッド・ウィルズ中尉(西山聖了)は、ハンブルク生まれのユダヤ系ドイツ人で今はフィラデルフィア在住という二重にも三重にも引き裂かれた経歴の持ち主である。精神的にはヨーロッパ寄りであり、ベートーヴェンは大好き。その点において同じアメリカ人でもアーノルドとは大きく異なっている。

典型的なアメリカ的合理主義的精神の持ち主であるアーノルドは、予備知識を徹底して廃してフルトヴェングラーやベルリン・フィルの第2ヴァイオリン奏者であったヘルムート・ローデ(今井朋彦)を追求していく。
途中、タマーラ・ザックスという女性(小暮智美)が闖入する。タマーラはドイツ人女性で旧姓は典型的なドイツの苗字であるミュラー。しかし、ユダヤ人ピアニストであるヴァルター・ザックスと結婚していた。ヴァルター・ザックスとタマーラはパリに亡命するが、ナチスによってパリが陥落したため、ヴァルターはアウシュヴィッツに送られて命を落とした。だが、二人がパリに亡命出来たのはフルトヴェングラーのお陰であるとして、彼の無罪を訴えに来たのである。

タマーラだけでなく、ローデ、エンミ、デイヴィッドら全員がフルトヴェングラーは偉大な芸術家だと擁護する中、アーノルドは後光効果(ハロー効果)を廃した追求を行おうとする。フルトヴェングラー本人にも脅威となった若きヘルベルト・フォン・カラヤンの存在や、愛人や隠し子が各所にいたというフルトヴェングラーの私生活に踏み込んで揺さぶりをかけていく。
やがて、ナチス高官ハンス・ヒンケルが残した様々なデータによってローデが実はナチ党員だったことがわかり……。

 

行定勲演出の「テイキングサイド」では、小林隆がヘルムート・ローデを演じており、最初から気弱で人におもねりそうなローデ像を作り上げていたが、今回の「Taking sides」は今井朋彦のローデということで印象は大きく異なり、同じセリフでも意図が異なって聞こえる。
「テイキングサイド」でアーノルドを演じた筧利夫は、異常なまでの映像記憶力の持ち主で、かなりの早口、非感情的という人物に扮していたが、加藤健一のアーノルドは異能者であることはセリフで示されてはいるものの、それを思わせる展開はほぼないため、同じ合理主義者のアメリカ人ではあっても異なった要素が表に出ているように思われる。行定演出ということあって、筧のアーノルドはかなり挑戦的でもあったようだ。

「テイキングサイド」では、平幹二朗演じるフルトヴェングラーの完全敗北という感じに見えたラストだが、今回はフルトヴェングラーの後悔のみに留められ、またラストに流れる第九第1楽章も「芸術はそんなことで負けも終わりもしない」というアーノルドへの忠告のように響いた。

アメリカの合理主義とドイツ引いてはヨーロッパの伝統主義、芸術至上主義の代理戦争の構図がこの劇には見て取れる。そして、戦前においてはドイツを、戦後はアメリカをモデルとして発展してきた日本において「Taking sides(どちらの側を取るか)」を上演する意味についても考えさせられる。

 

ロビー(というより普段は喫茶店として使われているスペース。喫茶店は今日は午後3時で閉店)でアフタートークがあり、出演者全員が登場する。

イギリスでは「Taking Sides」は「コラボレーション」との二本立て作品として上演されており、「コラボレーション」の方は、加藤健一事務所は2011年に上演している。加藤健一は、「Taking Sides」の台本も同時に読んでいたそうだが、その時はフルトヴェングラーという人物を知らなかったために上演を見送ったそうである。ただ、それから8年経って、「早くやらないと、どっち(アーノルドとフルトヴェングラー)を演るのかわからなくなってしまう」ということで取り上げることにしたそうである。
加藤健一は、普段は真逆の人間なので演じやすかったと言って笑いを取るが、「フルトヴェングラー好きはいっぱいいるものですから」、フルトヴェングラーファンから悪く見られるのが嫌なようで、東京公演の時も楽屋に来た今井朋彦のフルトヴェングラー好きの知り合いから、「段々段々、憎く憎く見えてきました」と言われてショボンとしたそうである。
小暮智美は、「福島県会津出身です。京都には色々な思いがあります」と自己紹介。演じたタマーラについてハーウッドは「タマーラはホームレスのように見える」と書いていたため、そう見えるように稽古の時から工夫をしており、お歯黒をしてきてみんなから「この人は何をしてるんだ?」と怪訝な顔をされたり、演出の鵜山仁から「いや、そういうんじゃない」と駄目だしされつつ、色々模索している最中だそうである。ちなみに今日のメイクは今井朋彦に「八ツ橋に見える」と言われたそうだが、言われた方はどんなだかわからないそうである。

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2019年6月16日 (日)

笑いの林(118) 「ハラダのひとりトークライブ・お喋っせ vol.10」

2019年5月30日 京都・木屋町のLIVE HOUSE indigoにて

午後7時から、蛸薬師通木屋町西入ルにあるLIVE HOUSE indigoで、ファミリーレストラン・ハラダによる「ハラダのひとりトークライブ・お喋っせ vol.10」に参加する。
京都市出身で、現在は滋賀県住みます芸人として大津市で暮らすファミリーレストラン・ハラダ(原田良也)の文字通り一人トーク。京都での開催だが、滋賀県内から駆け付けたお客さんも多いようだ。

ホワイトボードにお題が全部で15個書かれていて、お客さんがどの話を聞きたいかチョイスして(といっても最後の方になるとそれほど選択肢は多くなくなるが)ハラダが話すというスタイル。

その前に、今月1日にハラダが令和婚をしたというので、「結婚してみてわかったこと」の話。ハラダは1976年生まれで、芸人になってからはずっと一人暮らしだったため、結婚して初めてわかることが多いそうで、そのうちのいくつかのタイトルをスケッチブックに書いてきて発表していく。
相方のしもばやしは、結婚してから10年ほど経つが極端な吝嗇家だそうで、釣りが趣味で釣りの正式なYouTuberとしても活動を始めており、登録者も1万に達するなど上々なのだが、とにかくお金を使わない。移動も自転車で、しかもボロボロのものに乗っているため、ハラダは「芸能人の端くれの端くれだけれども、人に見られる職業なのだから」と見てくれをもっと気にして欲しいと思っていたのだが、いざ結婚すると二人分の生活費が掛かり、しかも芸人なので給料が乱高下するため、余裕がなくなることがわかったそうである。
5月25日が、しもばやしの誕生日だったため、釣り関係のものをプレゼントしようと上方を集めていたのだが、ライフジャケットは最安値の中国製で重いし暑い、レインコートとは100均のものを使用。人差し指と中指と親指が裸である必要のある釣り用の手袋も軍手を切って代用しているそうで、結局、ハラダは2700円ぐらいの手袋を買ってプレゼントしたそうである。
令和最初の日である5月1日、午前0時前から、大津市役所の前に二人で並び、1時間半ほど待って結婚届を出したのだが、前に30人ほど並んでいたものの誰からも気づかれず、びわ湖放送が令和婚の取材に来ていたものの、やはり見つけてもらえずという状態だったそうだが、入籍する前に先輩方には結婚の報告をしようと電話を入れ、同世代の未婚芸人からは動揺されたりしたそうで、年上の独身芸人である今田耕司からは「嘘つけ!」と言われてすぐ切られるなどいじられたりもしたそうだが、NON STYLE井上からは……、まあ、これはいいか。
相手方の両親や祖父母にもご挨拶し、俳句を詠むのが趣味だという祖父から「原田君めいわ元年(「令和」のことを「めいわ」だと勘違いしていたらしい)五月一日入籍」という字余り俳句(自由律ということにしておこう)をプレゼントされたらしい。

お客さんが選ぶ、トークの題材であるが、例えば「センスが戦後やろ」は、FM滋賀とFM富山共催のスキーツアーイベントの後に行われた懸賞の話。大人のお客さんには抽選でプレゼントが当たるのだが、子ども達には全員に賞品が配られるというシステムで、FM滋賀からは滋賀県から来たツアーの子ども達に、FM富山からは富山県の子ども達にプレゼントが送られる。
滋賀県の子ども達に送られたのは、手のひらサイズのロボット。AI搭載で声に反応したりするそうで、送られた子ども達は目を輝かせていた。一方、富山県の子ども達に送られたのはかりんとう。高級かりんとうではあるのだが、子どもなので高級もなにもよくわからず、「ロボットが良かった」と泣き出す子もいたそうで、ハラダが「センスが戦後やろ」と食糧難の時代のプレゼントに見立てて笑いを取って収めたのだが、ハラダ自身も釈然としないものを感じたようである。
事前にFM局員同士で打ち合わせをしなかったか、打ち合わせをしたが反応を想像出来なかったのか、いずれにせよ折角のイベントで子ども達が不公平を感じる結果になったのは残念に思う。
FM滋賀には、美声で話し方を溜めるのが特徴のDJさんがいるそうで、ハラダが聴いている日に、「次の曲は、『やさしさにつつまれた…なら』」と曲紹介をしたため、ハラダは一瞬、「奈良のご当地ソングがかかるのか?」と思ったそうである。実際は、もちろんユーミンの「やさしさにつつまれたなら」が流れたという話もする。

「定規」という話はお客さんが勘違いしたため、同じ話をハラダが2回やることになった。サウナでプラスチックの30センチ定規を使って垢取りのようなことをしているおっさんがおり、ハラダは「不潔やな」と不快感を覚えていたのだが、そのうちにサウナのテレビで流れていた番組でビッグサイズのカレーパンが紹介され、定規のおっさんは手にしている定規でカレーパンを測ろうとし、ハラダは心の中で「テレビやし離れてるしわかるわけないやろ!」と突っ込んだという話で、ううん、文字にしても面白さが伝わらないな。やっぱりお笑いは劇場に通う必要があるように思う。

「滋賀のアベンジャーズ」は、滋賀県住みます芸人のファミリーレストランが和歌山県住みます芸人と協力して和歌山県へのバスツアーを行った時の話である。滋賀のアベンジャーズと呼ばれた方々は、今日、この会場にいらしていたようである。面白い話なのだが、内容については特定されやすいということもあるため、書かないことにする。

「京のしにせ」は、京都のインストバンド、jizue(ジズー)のメンバーと知り合いになり、iTunesなどで楽曲を聴いて気に入り、「結婚式に使いたい」と申し込んで快諾されるも、バンド名をイズーと間違えて覚えていたため、「イズー」で検索してもヒットせず、「京都 イズー」とSiriに言ったところ、鯖寿司の映像ばかり出てくる。京都の老舗鯖寿司店である「いづう」がヒットしていたという話であった。
jizueはホームページでも楽曲の視聴が出来るが、なかなか面白そうなバンドである。

今年の1月2日は、77歳になるハラダの父親が行方不明になるという出来事があった。毎日2時間ほど散歩する習慣のある人で、正月に芦屋の親戚の家に行ったときも散歩に出掛けたのだが、3時間経っても4時間経っても戻ってこない、父親の携帯も3ヶ月前にいかれてしまったということで連絡が取れず、警察に電話し、警察犬が出るという話にまでなった。ハラダも仕事帰りに駆け付けたのだが、今から警察犬が出ようというときに母親の携帯に知らない電話番号から電話が掛かってきた。タクシーの運転手からで父親も一緒にいるという。父親の携帯は壊れていると思われたのだが、ずっと機内モードになっており、なんらかの拍子に機内モードのボタンを押してしまったが、そもそも機内モードの存在を知らず、壊れてしまったと勘違いしていたようだ。父親は散歩中に道に迷い、「このままでは戻れない」とタクシーを拾ったのだが、親戚宅の正確な住所が思い出せず、近くまではやってこられたものの、そこから先に進めなくなってしまう。そこで運転手が父親のガラケーを確認したところ、機内モードになっていることに気づき、運転手はスマホを使っていてガラケーの機内モードの戻し方はわからないため、父親のガラケーのアドレスに入っている母親の携帯番号に自身のスマホで電話したのだった。
戻ってきた父親は、警察犬が出そうになったという話を聞いて、一人「笑える」と思ったそうだが、家族としては全く笑えなかったという話である。

15個中14個終わったところで時間となったのだが、15個目の「ぶれへんなあ」は短いというので話す。ファミリーレストランがロザンなどと数組で米原に営業に行った時のこと。会場の周りには何もないため、みなゲームなどを持ち込んで楽屋の中で過ごしていたのだが、宇治原がジャケットを着て外に出ようとしたので、「どこ行くん?」と聞くと、「大谷吉継の墓、見に行ってくるわ」と答えたので、「ぶれへんなあ」と思ったという話であった。

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観劇感想精選(303) リーディング・シアター「レイモンド・カーヴァーの世界」兵庫公演2日目 「菓子袋」「収集」&「愛について語るときに我々の語ること」

2019年5月26日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後2時から西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、リーディング・シアター「レイモンド・カーヴァーの世界」を観る。
1980年代に村上春樹が多くの小説を翻訳したことで知られる存在になったレイモンド・カーヴァー(レイ・カーヴァー)。労働者の街で育ち、16歳で結婚。地方大学の大学院を出て大学の文芸創作の教員となるが、アイビーリーグに代表される名門私立大学出身者が大勢を占めるアメリカ文壇では異端視される。短編の名手であり、自身が書いた短編小説を更に短くリライトすることも度々で、小説に関しては「短ければ短いほど良い」というポリシーを持っていたようである。1988年に50歳の若さで死去。日常に潜んだ歪みや波立ちを描き、チェーホフにも例えられた。
1993年にレイモンド・カーヴァーの複数の短編小説で構成されたロバート・アルトマン監督の映画「ショート・カッツ」が制作され、私も観てはいるのだが、正直好きになれなかったのを覚えている。

昨日今日と2日間の公演である。昨日は手塚とおるのリーディングによる「ダンスしないか?」と「もうひとつだけ」、仲村トオルのリーディングによる「コンパートメント」が上演され、今日は矢崎広が「菓子袋」と「収集」を、平田満が「愛について語るときに我々の語ること」を読み上げる。村上春樹翻訳によるテキストを使用。演出は谷賢一。作曲&ピアノ演奏は阿部篤志。

朗読劇は演劇の中でも特別で、演じ手がほとんど動かないため、観る側にも言葉からの想像力と設定を頭に入れつつ追うための記憶力と集中力が必要となる。とはいえ動的な要素がないため面白い上演になる可能性が高いとはいえず、今日も平田満が出るというのに阪急中ホールの1階席は前半分しか埋まっていない。


矢崎広朗読による「菓子袋」と「収集」。矢崎広に関してはよく知らなかったが、なかなか良い俳優であり、引きつけられる。
「菓子袋」は、シカゴ在住の出版社のセールスマンが生まれ故郷であるカリフォルニア州サクラメントの空港で長い間会っていなかった実父に会うという話である。仕事でロサンゼルスに出向き、そのついでにカリフォルニア州の州都であるサクラメントにも寄るという設定なのだが、久しぶりに会った父親は主人公に向かって、かつての浮気の話を打ち明け始める。
その浮気が原因で両親は離婚することになるのだが、主人公は詳しいいきさつは知らされておらず、親の性的な面を詳しく知りたいと思う人は余りいない、ということで久しぶりの再会にも関わらず親子の隙間はむしろ広がることになり、父親が主人公の妻と娘のためにとくれた菓子袋も空港に置き忘れてきてしまうが、特に惜しいとも思わない。
歩み寄ろうとして却って傷口を広げてしまう人間存在の愚かしさが告発調でなく描かれているという、カーヴァーらしい作品である。


「収集」の主人公は失業中であり、雨の日に自宅で北から来る手紙を待っている。ところがやって来たのは郵便配達夫ではなく、奇妙な老人。以前に住んでいた人が懸賞に当たったということで、無料での掃除サービスを行い始める。主人公は一種の押し売りかと思ったのだが、そうでもないらしい。老人は「体の一部が毎日落ちていっている」ということで、その体の一部の染みこんだ枕だのカーペットだのを掃除していく。

どうやら老人は「過去」を収集しているようであるが、主人公が特に重要だと思う過去でもないため、結局、なにがなんだかわからないまま二人は別れることになる。
これは過去に限らないのだが、忘れてしまったものの中に、あるいは特に重要視されていないものの中に、実は大切な何かが潜んでいる可能性があり、にも関わらず気にとめていないという日常の死角が示されているようにも思える。
ひょっとしたら致命的な何かが起こっているのかも知れないが、知覚出来ないという不気味さ。こうした捉え方とすると、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」にも繋がるように思う。


平田満の朗読による「愛について語るときに我々の語ること」。二組のカップルによる会話を描いた小説である。
語り手の「僕」とローラは付き合い始めてそれほど時間が経っていない。一方、医師であるメルと妻のテリは夫婦だが共にバツイチ。テリは前夫のエドからDVを受けていたが、それは愛ゆえだとの確信を語り、メルは否定する。メルは精神的な愛について語るのだが、実は別れた前妻とその再婚相手のために多額の資金援助をする羽目になっており、前妻を愛したかつての自分の鑑識眼について疑いを持っていた。

自身が理想とする精神的な愛に裏切られ、否定すべき暴力的愛にすら勝てない悲惨な人間像が描かれているのだが、カーヴァーの特徴として感傷的な要素は極力排されている。


終演後に、谷賢一、平田満、矢崎広によるアフタートークがある。村上春樹による直訳的な翻訳についても語られたのだが(谷賢一は翻訳家でもある)、これらの作品は日常の些細なズレなどを描いており、翻訳者の体と心を通した翻訳ではそうした要素が伝わりにくくなってしまうために敢えて素材の文章に余り手を加えずに訳しているのではないかと私は想像するのだが、カーヴァーの小説を英語で読んだことはないため、仮説とせざるを得ない。
平田満は、「僕が配役されるとしたらエドだろうな」と語り、やはり駄目で一途で人間くさい男をやりたいようである。矢崎は配役されるとしたら「僕」ではないかと平田は言うのだが、確かにそんな感じではある。

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2019年6月12日 (水)

コンサートの記(562) ムジークフェストなら2019 ウィーン少年合唱団来日公演

2019年5月31日 奈良県文化会館国際ホールにて

奈良へ。午後7時から奈良公園の北にある奈良県文化会館国際ホールで、ムジークフェストなら2019 ウィーン少年合唱団来日公演を聴く。

1498年創設のウィーン少年合唱団。現在は、ウィーンゆかりの4人の作曲家にちなみ、ハイドン組、モーツァルト組、シューベルト組、ブルックナー組(このうち、ハイドンとシューベルトはウィーン少年合唱団のメンバーであった)の4組に分かれて活動しており、昨年は京都にハイドン組のメンバーがやって来たが、今回はブルックナー組が来日して各所でコンサートを行う。カペルマイスターはマノロ・カニン。

奈良県文化会館は、今年の1月に耐震強度の不足が指摘され、キャンセルも多いそうだが、国際ホールは倒壊の恐れはなく、耐震性不足とされた楽屋部分などを随時補修していく計画のようである。

曲目は、第1部が、オルフのカンタータ「カルミナ・ブラーナ」より“おお、運命の女神よ(運命の女神の歌)”、ヴィアダーナの「正しき者よ、王によって喜べ」、メンデルスゾーンの「羊飼いはよみがえられた」、ハイドンのオラトリオ「天地創造」より“天の神の栄光を語り”、ブラームスの3つの宗教合唱曲より「喜ばしき天の女王」、ブラームスの詩篇13番、ゲーリンガーの「死と愛」、バンキエーリの「3声のカプリース」「動物たちの対位法」。第2部が、ピアソラの「リベルタンゴ」、ディ・カプア/マッズッキの「オー・ソレ・ミオ」、ロジャーズの映画「サウンド・オブ・ミュージック」より“ひとりぼっちの羊飼い”と“エーデルワイス”、瀧廉太郎の「荒城の月」、上皇后陛下御作詞の「ねむの木の子守歌」、岡野貞一の「ふるさと」、ヴィルトの「Peace Within(内なる平和)」、オーストリア民謡「納屋の大戸」、ヴンシュの「今日、天使たちがウィーンにやってくる」、ヨーゼフ・シュトラウスの「水平のポルカ」、ヨハン・シュトラウスⅡ世の「雷鳴と稲妻」、ヨハン・シュトラウスⅡ世の「美しく青きドナウ」

奈良県文化会館国際ホールは改修によって壁や床が吉野杉の木目に改まっているが多目的ホールであり、今回のような中編成の少年合唱団では迫力に欠ける気もするが、ウィーン少年合唱団の美声はよく通り、カペルマイスターであるマノロ・カニンのエンターテインメント性に溢れる展開もあって楽しいコンサートとなる。

そのマノロ・カニンはテキストを手に日本語で長いスピーチを行い(「この5月から令和の新しい時代となりました。おめでとうございます」など)、客席から喝采を受ける。ウィーン少年合唱団もテキストを手に楽曲紹介を行ったり、中には日本語を暗記してスピーチを行う子もいる。日本人のメンバーも2人おり、その中の背は低いが利発そうな顔をした子が大人びたスピーチを行って客席を感心させたりしていた。
「ひとりぼっちの羊飼い」(チラシの背面に書かれたプログラムには載っていなかったため、急遽追加になった曲なのかも知れない)ではメンバーの一人がカニンに代わってピアノ伴奏を担当。「納屋の大戸」ではメンバーがクロマティック・アコーディオンやコルネットを演奏して、手回しオルガンやポストホルンを真似た音を作り、ウィーン情緒を演出する。
「動物たちの対位法」では、メンバーが犬や羊の鳴き声を模倣。少年合唱団だからこそ面白さや愛らしさが引き立つ曲が選ばれており、プログラミングも巧みである。
一方、ヴィルトの「Peace Within(内なる平和)」は現代音楽であり、「少年合唱団だから楽しければいい」という、いい加減な選曲でないこともわかる。


アンコールは3曲。まず「サウンド・オブ・ミュージック」より“ドレミの歌”が冒頭のセリフと演技入りで歌われる。

2曲目は菅野よう子の「花は咲く」。日本公演のために選ばれた曲である。清らかな声によって惻々とした思いと希望が歌われた。

最後はヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」。中央の少年が手拍子の指示を行い、大喝采のうちにコンサートは終了した。

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2019年6月10日 (月)

コンサートの記(561) シャルル・デュトワ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第528回定期演奏会1日目&2日目

5月23日と24日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

5月23日

午後7時から、大阪・中之島のフェルティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第528回定期演奏会を聴く。今回の指揮者はシャルル・デュトワ。現在、NHK交響楽団の名誉音楽監督の称号を得ているが、例の騒動によって恒例になっていたNHK交響楽団の12月定期への出演などが流れ、結果として大フィルへの客演が実現したのだと思われる。

シャルル・デュトワは1936年生まれ。ズービン・メータやエリアフ・インバルと同い年となり、この年は指揮者の当たり年のようだ。小澤征爾は1935年生まれで1つ年上、ネーメ・ヤルヴィが1937年生まれで1つ年下という世代である。
スイス・フランス語圏のローザンヌで生まれ育ち、生地とジュネーヴの音楽院でアンセルメらに学ぶ。タングルウッド音楽祭ではシャルル・ミュンシュにも師事している。1964年にベルン交響楽団を指揮してデビュー。ヘルベルト・フォン・カラヤンに認められ、ウィーン国立歌劇場のバレエ専属指揮者に指名されるが、コンサート指揮者になりたいという希望があったため断っている。
1970年に読売日本交響楽団を指揮して日本デビュー。会場は当時のフェスティバルホールであり、聴衆からも楽団員からも極めて高い評価を受けている。
1977年にモントリオール交響楽団の音楽監督に就任。当初はさほど期待されていなかったようだが、瞬く間に同交響楽団を世界レベルにまで押し上げて関係者をあっといわせる。1996年にNHK交響楽団の常任指揮者に就任。1998年には初代音楽監督に昇進し、2003年まで務めている。1991年から2001年まではフランス国立管弦楽団の音楽監督も兼務し、北米、アジア、ヨーロッパの三大陸にポストを持つなど多忙を極めた。1996年のゴールデンウィークにフランス国立管弦楽団を率いてサントリーホールで公演を行っているが、それが私にとって初の来日オーケストラに接する機会となった。

 

演目は、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲、ベルリオーズの幻想交響曲。デュトワの十八番を並べたプログラムとなっている。
デュトワ指揮の「ダフニスとクロエ」は、NHK交響楽団の定期演奏会で全曲を聴いている。上演中に震度3の地震が起こったことでも思い出深い演奏会である。

 

今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。第2ヴァイオリンは今日も客演を含めて全員女性奏者となっている。

 

ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」。フェルティバルホールという大型の空間であるため、祝祭的な爆発感は感じにくかったが、音の色彩感と縁取りの鮮やかさが見事な演奏である。

 

ラヴィルの「ダフニスとクロエ」第2組曲は、今日一番の出来と思えるハイレベルな演奏。上品だが痛切な音が奏でられ、音楽というものが確実に皮膚から染みこんでくる。
私にとって音楽はなくてはならないものだと確認出来ると同時に、世界にとって必要なものであると確信することが出来た。
「ダフニスとクロエ」第2組曲はオーケストラだけの演奏でも可能だが、今回は合唱入りでの演奏。大阪フィルハーモニー合唱団が美しい声を届ける。
「全員の踊り」のラストの高揚感も流石であった。

 

メインであるベルリオーズの幻想交響曲。基本的にデュトワの演奏はエスプリ・クルトワ路線であり、エスプリ・ゴーロワではない。ということでおどろおどろしさや狂的な要素を表に出すことは余りない(1階席20列45番という席で、直接音が余り届かなかったということもそう感じさせる要因だろうが)が、音に宿るドラマと生命力の表出は見事。フランス音楽のスペシャリストとしての全世界に名を轟かせたデュトワの実力は並みではない。

客席は最初の「ローマの謝肉祭」演奏終了後から爆発的に盛り上がり、「ダフニスとクロエ」第2組曲演奏終了後は、客席が明るくなっても拍手が鳴り続けてデュトワが再登場。幻想交響曲演奏終了後も「ブラボー!」が各所から聞こえ、最後はデュトワがお馴染みとなった「バイバイ」の仕草を行って、演奏会はお開きとなった。

 

5月24日

今日も午後7時からフェスティバルホールでシャルル・デュトワ指揮の大阪フィルハーモニー管弦楽団の第528回定期演奏会を聴く。

今日も1階20列目だが、52番という右端の席。すぐそこが壁であり、反射が良いので音の輪郭がクッキリと聞こえる。そのため、音の迫力がわかり、序曲「ローマの謝肉祭」の狂騒がよりはっきりと把握出来る。一方で、「ダフニスとクロエ」第2組曲では音がはっきりしてるため、昨日に比べると神秘的な雰囲気は感じにくいかも知れない。全てが理想的な席というのはなかなかないものである。

幻想交響曲では、デュトワはアゴーギクを多用。即興性もあり、いつものデュトワとはちょっと違う演奏である。音にはステージの底から沸き起こってくるような迫力があり、昨日感じた蒸留水的な美しさとは少し異なる印象を受けた。今日の演奏の方が私の好みに合っている。

今日は演奏終了後にバンダの鐘奏者を紹介したデュトワ。第2ヴァイオリンの女性奏者が感激の表情を浮かべており、大フィル初登場は大成功であった。

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2019年6月 9日 (日)

コンサートの記(560) カーチュン・ウォン指揮 京都市交響楽団第634回定期演奏会

2019年5月18日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第634回定期演奏会を聴く。今日の指揮はシンガポール出身の若手、カーチュン・ウォン。

曲目は、吉松隆の「鳥は静かに…」、シベリウスのヴァイオリン協奏曲ニ短調(ヴァイオリン独奏:ラグンヒル・ヘムシング)、フランクの交響曲ニ短調。

午後2時から、カーチュン・ウォンによるプレトークがある。カーチュン・ウォンのトークは日本語を交えたり、旋律を口ずさんだりするもので、才気が感じられる。
「シンガポール出身ですが、ニュルンベルク交響楽団の首席指揮者をしています」と自己紹介する。

カーチュン・ウォンは、1986年、シンガポール生まれの指揮者。シンガポール国立大学ヨン・シュトウ音楽院で作曲を、ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学で指揮を学ぶ。2016年に第5回グスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝して注目を浴びるようになっている。
クルト・マズア、グスターボ・ドゥダメル、ベルナルト・ハイティンク、ハインツ・ホリガー、エサ=ペッカ・サロネンらの薫陶を受け、コンクール優勝後は急病のヘスス・ロペス=コボスの代役として中国フィルハーモニー管弦楽団、上海交響楽団、広州交響楽団の指揮台に立ち、ロサンゼルス・フィルハーモニックのドゥダメルのフェローとして指名され、昨年9月にニュルンベルク交響楽団の首席指揮者に就任している。

ウォンによると指揮者コンクール優勝前から仕事をいただいていたのが日本のオーケストラだったそうで、新日本フィルハーモニー交響楽団、東京交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団、大阪交響楽団、広島交響楽団、九州交響楽団を指揮した経験があり、最近は東京佼成ウィンドオーケストラを始めとする吹奏楽団とも多くの仕事をしている。

今回の演奏会では、吉松隆の「鳥は静かに…」とシベリウスのヴァイオリン協奏曲ニ短調が連続して演奏される。鳥を愛する吉松隆と白鳥などからインスピレーションを受けたシベリウスの「鳥繋がり」で選ばれた曲なのだが、「鳥は静かに…」の最後の和音からシベリウスのヴァイオリン協奏曲の最初の弦の刻みの音の響きへの移行に意味があるそうである。

シベリウスのヴァイオリン協奏曲と同じ調性であるフランクの交響曲ニ短調であるが、今から40年ほど前にはよく演奏されたものの、ここ20年ほどは演奏される回数が減ってしまっているとウォンは述べる。
京都市交響楽団は比較的良くフランクの交響曲を取り上げているが、録音に限ると、21世紀に入ってからはこれといったものが出ていない。40年ほど前には、当時の両巨頭であるカラヤンとバーンスタインが共にフランスのオーケストラを指揮して名盤を生み出しているのだが、20世紀終盤にはフランス人指揮者の才能払底が叫ばれるようになっており、今、世界的に活躍しているフランス人指揮者は、ベルトラン・ドゥ・ビリーやパスカル・ロフェなど数人だけ、また録音不況でもあり、90年代にシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団の録音が高く評価されたのを最後にフランクの交響曲の録音が減ってしまっている。サー・サイモン・ラトルなどはフランスものを得意としているが、フランクは録音していないはずである。
フランクの交響曲はフランスを代表する交響曲と見なされることが多いが、ウォンはむしろブルックナーとの共通点に注目して欲しいと語った。

今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。今日も客演首席チェロ奏者としてNHK交響楽団の藤森亮一が入る。第2ヴァイオリン首席は客演の山﨑千晶。ヴィオラのトップには店村眞積。テューバには客演の川浪浩一。今日は木管の首席指揮者はフランクのみの出演である。
ヴァイオリン両翼、コントラバスはステージ最後部に横一列に並ぶという、古典配置の中でも最も古い形での演奏となる。

 

吉松隆の「鳥は静かに」。弦楽のための繊細な曲である。シベリウスのヴァイオリン協奏曲と連続して演奏されるため、管楽器奏者もスタンバイしての演奏である。
今日は全曲暗譜で指揮するウォンは、透明で緻密な弦の音を引き出し、静謐の美を生む。

シベリウスのヴァイオリン協奏曲ニ短調。独奏のラグンヒル・ヘムシングはソロが始まる直前に下手袖に現れ、弾きながらステージ中央へと歩み寄る。
ラグンヒル・ヘムシングは、1988年生まれのノルウェーのヴァイオリニスト。ノルウェーの民族音楽に親しみながら育ち、今も民族音楽とクラシック音楽の両方で活躍している。
5歳でヴァイオリンを始め、オスロのバラット・ドゥーエ音楽院に学び、ウィーンに留学してクシュニールに師事している。14歳でグリーグの街のあるベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団にデビューし、翌年にはオスロ・フィルハーモニー管弦楽団とも共演を果たした。
そのヘムシングのヴァイオリンであるが、スケールがかなり大きい。音色が比較的ドライなのも特徴である。第1楽章後半になると磨き抜かれた音も出すが、素朴な音も生み出せるのが特徴といえそうだ。
ウォンの指揮する京響であるが、極めてクリアな伴奏を聴かせる。従来のシベリウスのヴァイオリン協奏曲とは明らかに異なる伴奏である。

 

ヘムシングは、アンコールとしてノルウェーの民謡「Springar」&「Halling」を奏でる。演奏前のヴァイオリンの説明。糸巻きが5つほどもある独特のヴァイオリンであり、調弦もクラシックのヴァイオリンとは異なるようである。
ヘムシングは足踏みを加えながらの演奏。ノルウェーの民謡であるが、日本でも人気のあるアイルランドの民族音楽にも通じるものがあるような気がした。

 

フランクの交響曲ニ短調。特筆事項の多い秀演である。
とにかく全てのパートが明確に浮かび上がる。従来の演奏だったら溶け合う部分もはっきりと分離しており、音が細やかに立体として聞こえてくる。第3楽章での強奏の部分であってもそれが変わることがない。
暗譜ということでオーケストラのメンバーを確認するのではなく上方を見つめて指揮することもあるカーチュン・ウォン。デジタルな感性で音楽を組み立てていく指揮者だ。
これは面白い指揮者を見つけてしまった。
京都市交響楽団も燦々と輝くような音色と力強さでウォンの指揮に応え、演奏終了後、聴衆は沸き、「ブラボー!」が連呼された。

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2019年6月 8日 (土)

コンサートの記(559) 「東儀秀樹 雅楽&コンサート ゲストにチェリスト溝口肇を迎えて」@ロームシアター京都

2019年5月9日 ロームシアター京都メインホールにて

午後6時30分からロームシアター京都メインホールで、「東儀秀樹 雅楽&コンサート ゲストにチェリスト溝口肇を迎えて」を聴く。

雅楽師の東儀秀樹による、前半は雅楽の公演、後半はスペシャル・コンサートというプログラムである。

曲目は、第1部の「東儀秀樹による雅楽公演」が、神楽「朝倉音取(あさくらのねとり)」、管弦「越天楽」、管弦「陪臚(ばいろ)」、舞楽「納曾利(なそり)」。第2部の「東儀秀樹と溝口肇によるスペシャル・コンサート」が、「Fly Me To The Moon」、「浜辺の歌」、東儀秀樹のオリジナルである「君の夢を守りたい」、「枯葉」、溝口肇のソロによる「鳥の歌」、溝口肇のオリジナルである「ミスターロンリー」(TOKYOFMテーマ)、溝口肇の「世界の車窓から」、ピアソラの「リベルタンゴ」

客席はお年寄りが多い。

 

まず、東儀秀樹の篳篥ソロによる「朝倉音取」。東儀秀樹は狩衣姿で演奏しながら客席上手のドアから登場し、中央通路を通って舞台に上がる。「朝倉音取」は、本来は人間ではなく、神々にだけ聴かせる曲だそうである。

2曲目のお馴染み「越天楽」。この曲では東儀秀樹は篳篥ではなく鞨鼓(かっこ)を演奏する。太鼓:多田泰大、鉦鼓:矢田浩子、笙:中村華子、篳篥:須崎時彦、龍笛:〆野護元、琵琶:安達圭花、箏:中村香奈子。
雅楽の中でも最も有名な曲であり、正月には神社でこの音楽が掛かっていることも多い。雅楽は西洋音楽とは違い、音を合わせてはいけないため(同時に打つのは相手に失礼になると考えるため)あうんの呼吸による絶妙のずれと揺らぎを楽しむことになる。ということで、雅楽は西洋音楽より即興性が強くなると思われる。「越天楽」は同じメロディーが繰り返されるミニマルのような音楽であるが、同じ演奏は二度と出来ないのだと思われる。

「越天楽」演奏終了後に、東儀秀樹がマイクを手に解説を行う。「皆様、雅楽というと堅苦しいものを思い浮かべるかも知れませんが、ご覧になった通り、とっても堅苦しいものです」と言って笑いを取る。
「雅楽については余り詳しい方はいらっしゃらなくて、大抵の人は、『神社のあれでしょ?』となる。『あれ』って言い方はないと思いますが」「雅楽は1400年前に仏教の音楽として日本に入ってきたわけで、当時は『お寺のあれ』だったわけです」と言ってまた笑いを誘っていた。
管弦「陪臚」は聖徳太子が好んだ曲という伝承がある。6拍子で描かれており、唐招提寺の4月8日に仏誕会には必ず演奏されるそうで、754年の大仏開眼の時に演奏されたという言い伝えがある。ちなみに736年にインドの僧が日本に伝えた曲とされており、聖徳太子のいた時代とは合わず、聖徳太子云々はあくまで伝説のようだ。

舞楽「納曾利」では、横山玲子と正木友美による舞がある。双龍の舞であり、舞人は龍の面をつけている。演奏は、篳篥:須崎時彦&矢田浩子、高麗笛:〆野護元&中村香奈子、鞨鼓:多田泰大、太鼓:中村華子、鉦鼓:安達圭花。
今日は1階席の20列目で、それほど前の方ではないが、迫力は伝わってくる。

 

第2部「東儀秀樹と溝口肇によるスペシャル・コンサート」。バックバンドは、ピアノ:松本圭司、ベース:田中晋吾、ドラム:天倉正敬。
東儀は黒のジャケットで登場。「Fly Me To The Moon」演奏後、「第1部に出てきた東儀秀樹によく似ていると言われるんですが、同一人物です」「『(篳篥で)そんなこと可能なんですか?』『怒れませんか?』と言われたりしますが、才能があるもんで出来ちゃうんです」とお馴染みのナルシシストキャラを発揮するも「お客さんの反応が悪い」「笑ってくれないととんでもないことを言っていることになる」と語っていた。

東儀は、「日本の抒情曲が好き」だそうで、特に日本語の美しさが伝わってくる歌詞が好きなのだが(東儀「この感覚は皆さんにもおわかりいただけると思います。見たところお若い方がいないので」)、最近の小学校の音楽の教科書には抒情曲が載らなくなってきており、その理由が「歌詞が難しくて子どものはわかりにくい」という理由を知って、「穏やかな口調で話しておりますが、憤っております」と話した。日本の抒情曲の中で特に好きだという「浜辺の歌」を演奏される。

「枯葉」では東儀は途中で松本に替わってピアノソロを受け持ったりする。

その後、ゲストの溝口肇が登場する。東儀秀樹はここでいったん退場。
溝口が愛用しているチェロには「アンジェラ」という名前がついているそうで、溝口は「メンバー紹介」と称してまず、「アンジェラです」と言う。
楽器についている愛称は、貴族が所有していた時代につけられたものが多く、例えば高嶋ちさ子のヴァイオリンについている「ルーシー」という名称は貴族によってかってつけられたものだそうだが、溝口のチェロには名前がついていなかった。そこで、友人が名前をつけてくれたそうだ。
演奏曲であるカタロニア民謡「鳥の歌」。溝口は子供の頃にパブロ・カザルスが国連でこの曲を演奏するのを聴いて感動したと語る。「ピース、ピース」と鳴く鳥の声の録音を流した中でのチェロ独奏である。

「ミスターロンリー」。この曲は約15年に渡って「ジェットストリーム」のオープニングテーマだったのだが、今では別の人に取られてしまったそうで、溝口はエンディングテーマのみを担当しているそうである。

「世界の車窓から」。ここで東儀秀樹が再び登場する。
溝口は昨年の誕生日には東儀から篳篥をプレゼントされたそうだが、「才能がないので」ものに出来なかった。悔しいというので、ヤフオク!で笙を購入して、今はそちらを練習しているようである。というわけで冒頭は溝口が笙を吹く。東儀も負けじと笙を吹いて二つの笙がハーモニーを造る。その後、溝口のチェロで「世界の車窓から」がスタート。CMで流れているものは15秒だけだそうだが、今日はそれより4分ほど長い全曲版演奏である。東儀も途中から篳篥に持ち替えての演奏を行う。

プログラムの最後は「リベルタンゴ」。篳篥と笙を吹いた東儀秀樹は、篳篥によるラストの音を思いっ切り伸ばすという外連で喝采を受ける。

 

アンコールとして演奏されたのはピアノの松本圭司の編曲によるというビートルズナンバーの「Yesterday」。雅やかさと無常観の入り交じった演奏となる。

雅楽の楽器の音色は陰影が豊かというべきか濃淡が鮮やかというべきか、明と暗が瞬時にして入れ替わったり同居していたりするのが特徴である。笙などは特にそうだが、篳篥も西洋楽器に比べると光と闇が共に豊穣な音色を宿していることがわかった。

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2019年6月 5日 (水)

真宗大谷派山城2組 仏教市民講座「生きる」2019.5.15@池坊短期大学

2019年5月15日 四条室町の池坊短期大学にて

午後7時から室町四条下ルの池坊短期大学で、真宗大谷派山城2組(そ)主催の仏教市民講座「生きる」に参加。洗心館6階の第1会議室での講演である。今日の話し手は岐阜県大垣市にある医療法人徳養会沼口医院の院長で真宗大谷派の僧侶でもある沼口諭。

今は寿命が延び、ほとんどのお年寄りが病院で亡くなるという時代である。平均寿命は84歳になったが、健康寿命は男性で8歳ちょっと、女性で12歳と少し短い。「健康なまま、ある日ぽっくり死にたい」という理想を持っている人は8割に上るのだが、実際にそうした往生が叶う人は1割ほどしかいないということで、大半の人は不自由な生活と向き合わねばならなくなる。西洋にはそうした場合、チャプレンという宗教者が病院にいて患者と接するのだが、日本にはそうした人はいない。東日本大震災後、「それはおかしいんじゃないか」と声が起こったそうで、臨床宗教師という資格が生まれ、沼口もそうした人を採用しているそうである。

癌と向き合う様々なケースが語られたのだが、京都シネマで「がんになる前に知っておくこと」を観たことがこんなところで生きる。話の内容をより確実に理解することが出来た。弥陀のお導きなのか否か。

60歳の女性は癌になり、ずっと愛知県のがんセンターまで通って抗がん剤の治療を受けてきたのだが、余り良くならないし、先もそう長くない。思い残したことといえば夫と旅行に行けなかったこと。旅行に行く場合、抗がん剤の治療をやめる必要があったようだが、「やめる」という手段もありだそうで、最終的にはやめる決断をする。ところが体調が思いのほか良くならず、旅行が行けるまでには回復しない。そこで病室で折り鶴アートを提案され、折り鶴を亡くなるまで折り続けたそうだ。彼女が折った鶴は今も病院内に形を変えてアートとして飾られているそうである。

昔は若い人がかなり多く死んだ。例えば1920年前後にはスペイン風邪の流行で若い人がバタバタと亡くなるという出来事があったのだが、今は17歳以下で亡くなる人はとても少ない。お年寄りが病院にいて死ぬのを待っているというケースも多いのだが、お年寄りなので信心深い。ということでお内仏にお祈りがしたいという希望を持つ人も多いのだが、これまでの病院ではそれは叶わなかった。希望が通らないという状況ではまずいということで、最近の病院ではそうした要望に応えられるようになってきているそうである。また、入院していると一人になる場所がない。トイレの個室ぐらいしかないのだが、そこでしか一人の時間を持てないというのは精神的に貧しいことだろうというので、沼口の病院には「瞑想室」という一人だけのスペースが設けられており、一人だけの時間が確保出来るようになっているそうだ。「瞑想室」と名付けたが、瞑想をするための部屋ではなく、あくまで一人きりになれる場所を「瞑想室」呼んでいるだけのことである。

これまで肉体面や心理的なケアはなされてきたが、内面世界に関することはおざなりになっており、これからはそうしたスピリチュアル面でのケアが重要になってくるようである。

仏教的な因果を医学面から見ると、因が病気で果が死でしかないが、そうしたスピリチュアル的なケア、真宗的な解釈によると、果は様々なことへの「目覚め」となるようである。

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2019年6月 4日 (火)

観劇感想精選(302) 日本ポーランド国交樹立100周年記念公演 ヤネック・ツルコフスキ 「マルガレーテ」

2019年5月20日 ロームシアター京都ノースホールにて観劇

午後7時からロームシアター京都ノースホールで、ヤネック・ツルコフスキの「マルガレーテ」を観る。日本ポーランド国交樹立100周年記念公演。

ヤネック・ツルコフスキは、ポーランド西部のシュチェンにある劇場Kana Theatre Centreの企画にも携わる演出家。ニューヨークの演劇フェスティバル「アンダー・ザ・レイダー・フェスティバル」に招聘されるなど、欧米を中心に活動している。日本で公演を行うのはこれが初めて。

「マルガレーテ」は今から10年前に初演された作品。小さなスクリーンに映像が投影され、観客も1回25名までという少人数での上演が行われる。ツルコフスキが英語で喋り、大庭裕介(カンパニーデラシネラ)が日本語吹き替えを行う。プライベートな雰囲気を生み出す上演時間約1時間の作品である。

ツルコフスキが、蚤の市で8ミリフィルムと映写機を手に入れる。価格は日本円で2500円という安さであった。そのフィルムに映っている一人の老女。フィルムを収める箱に記された文字から、彼女の名前が「マルガレーテ」であることがわかる。ドイツのヴォルガストという街の住所も記されている。マルガレーテの苗字はルーベといい、ドイツ人らしくないがはっきりしたことはわからない。

特にどうということもない映像が流れる。彼女は歩き、旧東ドイツ国内や旧ユーゴスラビア、当時はソ連の首都だったモスクワや映画「戦艦ポチョムキン」で有名なオデッサの大階段などに友人と旅行に出掛ける。撮影者の正体は不明。ツルコフスキはヴォルガストが原発に近い街であることから、撮影者は西側のスパイで、ヴォルガストの街を撮っているふりをして実は原発の情報も密かに撮影し、確実なものは西側に送ったと……、というのはあくまでツルコフスキの妄想である。そもそも世界を揺るがすような出来事が偶然手にしたフィルムに映っているなどということは、まずあり得ない。
ツルコフスキは、フィルムから何かを手に入れようと、気になった部分を探ってみるのだが、実は重要な部分はツルコフスキが気になった部分とは別のところに映っていたことが後にわかる。
今はインターネットの時代ということで、ヴォルガストの住所をグーグルマップで検索するなどしているうちに、マルガレーテの現在の居場所が判明する……。

マルガレーテは、ヴォルガストの薬局に勤めていた女性で、双子の姉がおり、長生きでツルコフスキと出会った時には99歳。2度目に出会った時に100歳の誕生日を迎えている。
彼女はラトヴィア出身だった。

フィルムは思い出のために撮ったもので、旅行から帰った時には、親族でささやかな上映会も開いたそうだ。
映っているもの自体は平凡なものなのだが、マルガレーテと彼女が映った映像を見たものにとっては、それは特別なものとなっていく。一人の老女のささやかな歴史に向かい合うことは、実はスパイ映画などよりもドラマティックなのだ。
実は、マルガレーテのフィルムに映っていた当時7歳ぐらいの少年から1か月程前にコンタクトがあり、ツルコフスキは会ったそうだ。彼もインターネットでマルガレーテのことを検索して映画になっていることがわかり、連絡をくれたそうである。本来は埋もれるはずだったフィルムからこうした広がりが生まれているというのも素敵なことだと思う。

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2019年6月 2日 (日)

コンサートの記(558) 「ラージャスターンの風2019」砂漠の街の4人の楽士 京都公演

2019年5月17日 南禅寺前の京都市国際交流会館イベントホールにて

午後6時30分から、京都市国際交流会館イベントホールで「ラージャスターンの風2019」砂漠の街の4人の楽士 京都公演を聴く。Jaisalmer Beatsによるインド音楽の演奏会。
インド西北部のラージャスターン州のジャイサルメールに住む4人のミュージシャンが結成したJaisalmer Beats。マーンガニヤールという階級に属しているそうだが、このマーンガニヤールというのはイスラム教徒でありながらヒンドゥー教の王族に仕えてきた音楽カーストのことだそうである。このカーストに生まれたら音楽家以外にはなれないそうだ。
出演はサリム・カーンとケテ・カーンの兄弟、ビルバル・カーン、サワイ・カーンの4人。
ダンサーとして日本への招聘社であるmadhuと、大阪在住のラージャスターンダンサーであるNalikaと彼女のダンスグループの弟子であるEriとToki、更に千葉市出身のバーンスリー奏者である寺原太郎も2曲に参加する。
使われる楽器は、カスタネットのようなカルタール、演奏する3本の弦と共鳴する7本の弦を持つ7本の弦からなるカマイチャー、両面太鼓のドーラク、口琴のモールチャン、手ふいごオルガンのハルモニウム、一弦楽器のパパン、壺状の打楽器であるマトゥーカなど。

個人的には邦楽も含む民族音楽も好きなのだが、生で聴く機会は余りないので貴重である。

マーンガニヤールは、結婚式などのお目出度い場所で演奏を行うことも多いようで、全体的に高揚感のある音楽が多い。こうした音楽は耳と頭で聴くのではなく体全体で感じるべきものであり、オーディエンスも手拍子を行うなど、自発的に、ある意味参加して音楽を味わっている。
音楽の捉え方も西洋とは異なっており、リズムが中心である。旋律は区別がつかないか、区別がついたとしてもそれほど重要視されてはおらず、楽器そのものの音と声に込められたソウルに重点が置かれている。ある意味、物語的ではない音楽である。

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«2346月日(12) 京都国立博物館 「特別展 時宗二祖上人七百年御遠忌記念 国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」