2019年3月21日 (木)

コンサートの記(532) 高関健指揮 京都市交響楽団「オーケストラ・ディスカバリー」2013第2回「ジャズ&タンゴ」

2013年9月29日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団「オーケストラ・ディスカバリー」2013第2回を聴く。

「オーケストラ・ディスカバリー」は、広上淳一の発案により、2009年から始められたコンサートで、安い料金、聴きやすい曲で、子供から大人までが楽しめるように工夫されたもの。年4回あり、今回は2013年度の第2回目である。今日の指揮者は高関健(たかせき・けん)。大河ドラマ「風林火山」のオープニングテーマを指揮した人というと通りが良いかも知れない。高関は解説も兼務する。
配布されたパンフレットも漢字に全てルビが振ってあるものだったが、難しい言葉の漢字に読み仮名を振ってもそれで子供が理解出来るかというと微妙である。

今回のテーマは「ジャズ&タンゴ」ということで、前半はタンゴを、後半はジャズをテーマにした曲が並ぶ。前半はタンゴということで、タンゴには欠かせない楽器であるバンドネオンの奏者である三浦一馬(三浦春馬ではありません)が登場し、「ラ・クンパルシータ」を除く、全ての曲で演奏を行う。

曲目は、前半が、ピアソラの「リベルタンゴ」(三浦一馬編曲。「リベルタンゴ」はチェリストのヨーヨー・マが出演したウィスキーのCMで使われて、日本でも有名になった曲である)、ロドリゲスの「ラ・クンパルシータ」(赤堀文雄編曲)、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」より“冬”(長山善洋編曲)、ピアソラのバンドネオン協奏曲「アコンカグア」より第1楽章が演奏される。

今日は1階席と2階席は指定席だったが、3階は自由席である。しかも自由席は指定席より500円安い上に、京都コンサートホールは、構造上、3階席の方が音響が良いという世にも不思議なホールなので、迷わず3階席を買って、前半は、舞台上手上の、後半は3階席正面の席で聴く。3階席とは思えないほど良く響く。視覚的には遠くなるが、音そのものを楽しみたい場合は京都コンサートホールの3階席はお薦めである。

「オーケストラ・ディスカバリー」は、毎回、吉本の芸人がナビゲーターを務ており、今日はガレッジセールが指揮者の高関と共にコンサートを進めていく。吉本芸人がと書いたが、以前は毎回、ロザンだったのが、宇治原が東京での仕事が増えたためか、ガレッジセールも務めるようになったというのがより正確である。吉本芸人が入れ替わり立ち替わりナビゲーターに指名されているわけではない。
京響の今日のコンサートマスターは渡邊穣。泉原隆志は今日は降り番である。クラリネットに前半は首席の小谷口直子。首席フルート奏者の清水信貴も今日は全演目を吹く。一方、小谷口はジャズが得意でないからか、今日は前半のみの演奏という珍しいケースになった。

「リベル・タンゴ」は、ピアソラ本人がオーケストラと共演した時の録音を聴くと、バンドネオンはリズムを刻む楽器として使用されているのがわかるが、三浦一馬の編曲では、リズムは勿論、旋律もバンドネオンが持つ。最初の主題はバンドネオンが弾くことになる。

演奏が終了した後で、ガレッジセールの二人が出てきて、バンドネオンという楽器について聞く。三浦はまず、「タンゴに使われるので、アルゼンチンの楽器だと思われている方も多いと思いますが、実は生まれたのはドイツです」とバンドネオンの発祥について説明し、ボタンがドレミファソラシド順ではなく、バラバラに配列されていることを音を出しながら説明する。なぜそんな配列になったのかというと、三浦の説では、「元はボタンの数が今より少なかったので、タンゴで使われる重要な音は中心部にあるが、ボタンを増やす毎に配列を変えることなく、外側に散らばっていったからではないのか」となるらしい。「よく使うボタンは中央に集まっています」とも三浦は語る。ちなに蛇腹を閉じた状態と開いた状態では同じボタンでも音階は異なるそうで、ゴリが「無茶苦茶難しいじゃないですか」と言い、川田が「三浦さん、もう年取っても、一生、ぼけることないですよ。そんな複雑なことしてたら」と続ける。

ガレッジセールは、高関に「タンゴとは何ですか?」と聞く。高関はリズムのことだという。ガレッジセールのゴリは、「僕らがイメージするタンゴというと、完全に杉本彩さんなんですけど。顔を近づけておいて、キスするようで、しないみたいな」と語ると、高関は「ピアソラのタンゴはコンサート用で、踊るには速いようです」と答える。更に、「いつもとは勝手が違うと思いますが」というガレッジセールの問いかけに対して、高関は「無免許運転をしているような気分」と言って、川田に「無免許運転したらあきませんよ」と突っ込まれる。

2曲目、ロドリゲスの「ラ・クンパルシータ」は、「タッ、タッ、タッタ、タタタタッタ」というリズムと旋律を持つ、聴けば誰でも知っているタンゴの代表曲である。オーケストラのみによる演奏。タンゴといえばアルゼンチンであるが、実はロドリゲスは隣国であるウルグアイの出身である。しかも、「ラ・クンパルシータ」はイタリア語で、「小さな行進」という意味であるらしい。スペイン語が公用語であるアルゼンチンなのに、タンゴで一番有名な曲の作曲者がウルグアイ出身で、タイトルがイタリア語という妙なことになっている。

3曲目は、再び、三浦一馬を迎えての、ピアソラ「ブエノスアイレスの四季」。ピアソラの代表曲であるが、「ブエノスアイレスの四季」は冬から始まる。アルゼンチンは南半球にあるため、季節は日本とは逆で、最低気温を記録するのは7月頃。北半球のように1月1日が冬の場合は、冬から始まっても不思議ではないが(実際、グラズノフの「四季」は1月1日のある冬から始まっている)、なぜ、ピアソラが「ブエノスアイレスの四季」を冬から始まるように書いたのかは謎である。派手さを抑えた曲調だ。

前半のラスト、ピアソラのバンドネオン協奏曲「アコンカグア」より第1楽章。情熱的な曲であり、演奏である。「アコンカグア」というタイトルはピアソラ自身の命名ではなく、出版される際に、「ピアソラが書いた最高峰の作品なので、南米最高峰のアコンカグアというタイトルにしよう」という意向で付けられたものである。そのためか、ピアソラ本人がバンドネオンソロを演奏しているCDには「アコンカグア」の名前はない。

ガレッジセールがアンコールを頼むので、三浦と京響は、ピアソラの「フーガと神秘」(長山善洋編曲)を演奏。バンドネオンが奏でたメロディーを、管楽器、そして弦楽器という順番で追い掛けていくようその名の通りフーガ(遁走曲)である。この曲もラテンの血がたぎるような情熱的なものであるが、それ以上にピアソラの作曲技巧の巧みさが顕著である。


後半、ジャズということで、オール・アメリカ・プログラムである。ルイ・プリマ作曲のというよりベニー・グッドマン・バンドの紹介した方が早い「シング・シング・シング」(ボブ佐久間編曲)、スコット・ジョプリンの「メイプル・リーフ・ラグ」(ピアノ独奏:佐竹祐介)、アメリカ民謡「聖者の行進」(ブラスのみの演奏。福島頼秀編曲)、ガーシュウィンの「パリのアメリカ人」という曲が並ぶ。

演奏を始める前に、高関健と、ガレッジセールの二人がジャズについての説明を行う。高関はジャズの発祥については諸説あるが、と前置きした上で、「ニューオーリンズという街に黒人が多く、黒人の音楽から発展していったと言われている」と説明した。ニューオーリンズのあるルイジアナ州は始めはフランス系移民が多かったところで、ルイジアナは、ルイ14世やルイ16世などが有名なフランスのブルボン王朝のルイというよくある王名に由来するとされている。ニューオーリンズも最初はニューオルレアンであった。ただ、カナダのケベック州とは違い、フランスからの移民が根付かないうちに、フランスがルイジアナから撤退してしまったために、諸国からの移民が流入。ジャズが生まれた頃にはもうフランス的な面影はどこにも残っていなかったようだ(ちなみにニューヨークも最初に開拓したのはイギリス系ではなく、オランダ人であり、昔はニューアムステルダムと呼ばれた。ウォール街という通りがあるが、あそこにはオランダ人が作った城壁があったためにウォール街という名前が付いたとされる)。

ジャズのうちのブルースは、奴隷制のあったアメリカ南部で、黒人奴隷が仕事を終えた後で、自分達の音楽を酒樽などを叩きながら歌ったのが起源であるとされている。

ゴリが、「即興なんかもあるんですか?」と聞くと、高関は「あります」と答え、「立ち上がるかも知れません」とも語った。
ということで、「シング・シング・シング」。クラリネット奏者が立ち上がって即興のソロを取る。

演奏終了後、高関によると「一箇所振り間違えた」という。曲をよく知っている人にはわかるそうだが、私は気付かなかった。私が気付くのは曲をよく知っている場合のみであり、「シング・シング・シング」も好きであるが、それほど聞き込んでいるというわけでもないし、ジャズのテンポは即興的なので、リズムが狂ったとしても気付かないであろう。

これはその後に語られたことであるが、ゴリが、「背が低くて、警備員に止められた人、誰でしたっけ? ああ、広上さん。ホールに入ろうと思ったら警備員さんに『関係者以外立ち入り禁止です』と言われたという。あの人も、指揮台に上がって、指揮棒を振り上げた時に、楽器を構えた奏者が楽譜に書かれていたものとは違ったので、『あ、曲が違う』と気付いて、腕をスローモーションで降ろして楽譜を持っていったん退場したという」と指揮者の失敗談を上げる。高関は、「広上さんは偉い人、凄い人」というが、自身も曲目を間違えたことがあり、振ってから違うと気がついたので、誤魔化しながら指揮したという。ゴリが「その場合は、オーケストラに対してはどうするんですか」と聞くと、「演奏している最中に謝ります」と高関。

後半2曲目は、スコット・ジョプリンの「メープル・リーフ・ラグ」。この曲は京響は出番なしで、佐竹祐介が一人でピアノを弾く。
ゴリが、「ラグタイムとは何ですか?」と聞くと、佐竹も高関も「ラグタイムはラグタイム」と答え、ゴリは、「え、台本と違う」と驚く。「僕らは台本通り読んでいて、ラグタイムとはなんですかと聞くと、シンコペーションという言葉が出てきて、シンコペーションについて聞くはずだったのですが」と本来の流れを説明した。シンコペーションとは「裏打ち」のことであるが、左手の和音から右手で作る旋律が外れることがあるのが特徴。
佐竹はノリの良い演奏を聴かせる。

次の曲を説明するために出てきた、ガレッジセールのゴリが、ちょっと後ろに下がったときに、第2ヴァイオリンの一番前に置かれた譜面台を倒してしまい、楽譜がバラバラになって床に散らばってしまったため、係の人を呼んで楽譜を直して貰うというシーンがあり、ここで先程の失敗に関する話が行われた。ゴリは「本当に大丈夫ですか? ここの人だけタンゴ弾き始めたりしません?」と失敗もギャグにする。
続く、アメリカ民謡「聖者の行進」はブラスのみによる演奏。3度同じメロディーが繰り返された。ちなみに「聖者の行進」は、黒人が葬儀を終えての帰り道に演奏されることがあり、聖者とは死者を意味することがある。
京響自慢のブラス群は今日も輝かしい音を出す。

プログラムの最後は、ガーシュウィンの「パリのアメリカ人」。ガーシュウィンは独学で作曲を学んだため、「誰かに弟子入りした方がいいだろう」と考え、パリにいたモーリス・ラヴェルを訪ねて弟子になりたいと志願するが、すでにガーシュウィンの名声を知っていたラヴェルは、「二流のラヴェル(第二のラヴェル、亜流のラヴェル)になるよりも、一流のガーシュウィンになることを目指し給え」と言って、弟子入りを断っている。その時に訪れたパリでの思い出を曲にしたのが「パリのアメリカ人」であるとされる(自作のミュージカル上演のためにヨーロッパを訪れた際に作曲されたという説もある)。

同じタイトルの映画が出来るほどの有名曲であるが、実演に接するのは今回が3度目ぐらい。前回は室内オーケストラ編成である京都フィルハーモニー室内合奏団での演奏だったので、フルオーケストラによる演奏を聴くのは久しぶりである。海外の演奏をCDで聴くと、全編インテンポ(テンポが変わらない)か、ラストでアッチェレランドが掛かるくらいであるが、高関は何度か速度を切り替える。そのことでアメリカ色が薄まったような印象も受けたが、響き自体は立派であり、出来も良い。

ガレッジセールの二人が出てきて、ゴリは譜面台を倒してしまった第2ヴァイオリン奏者に深々と頭を下げる。そしてアンコールを希望。高関は「非常に真面目な人なのですが、ショスタコーヴィチが『二人でお茶を』という曲を編曲していまして」と言い、その曲がアンコールとして演奏されることになる。ゴリは曲目を紹介しようとするが、「ショスタコーヴィチ」という言葉の発音が難しいようで、つっかえてしまう。「(ショスタコーヴィチの発音が)難しいです。きゃりーぱみゅぱみゅと同じくらい難しいです」と言った後で、「それではお聴き下さい。きゃりーぱみゅぱみゅの」とボケを入れてから本当の曲目を読み上げる。ショスタコーヴィチの「タヒチ・トロット」より“Tea For Two(二人でお茶を)”。歌詞付きのオリジナル・ジャズバージョンはテレビCMの音楽に何度も採用されているほどポピュラーなものである。
ショスタコーヴィチはお堅い性格の人で、悲観主義者でもあったが、サッカーが大好きでスタジアムまで応援に行ったり、ジャズにも興味を示したりと、「根暗」というイメージとは異なる面も持つ。「二人でお茶を」もお洒落な編曲によるものだ。演奏も良かった。

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2019年3月17日 (日)

スタジアムにて(13) オリックス・バファローズ対東京ヤクルトスワローズ オープン戦@京セラドーム大阪 2019.3.5

2019年3月5日 京セラドーム大阪にて観戦

午後6時から、京セラドーム大阪でオリックス・バファローズ対東京ヤクルトスワローズのオープン戦を観戦。
オープン戦は季節柄デーゲームが多いが、ドームということでナイターが可能である。ただ、大阪でも存在感の薄いバファローズ戦ということでスタンドはガラガラである。
ということで安いチケットではあったが、かなり良い席である。少し前の大商大シートのお客さん達は試合前に青木宣親やバレンティンにサインを貰っていた。

スワローズの先発は昨年10勝を上げ、今年もローテーション候補のブキャナン。この時期にしては仕上がりも良く、ストレートも走っていて安定感がある。
ブキャナンは4回を零封。これでローテーション確定だと思われる。

バファローズの先発のアルバースもスピードはそれほどでもないが丁寧なピッチングで4回をゼロに抑え、こちらもローテ確定のようである。


バレンティンがDHということでレフトには塩見。オープン戦ということで、山田も青木も中盤で引っ込み、若手や控えの選手をテストする。
セカンドには日ハムから移籍の太田が入るが特にいいところはなし。
今日は村上宗隆がサードのスタメンだったが、内野安打1本を放ったものの、四球で一塁に出た場面で牽制タッチアウトになるなど若さが出てしまっている。


スワローズは、2番手として新入団のマクガフを送る。ストレートが走り、好投を見せた。その後の継投だが、ハフ、梅野、ルーキーの久保となる。皆ストレートのスピードが140キロちょっとで、スピードガン的には豪腕揃いのバファローズに比べると物足りない。


バファローズはドラフト2位で亜細亜大学から入った頓宮裕真が、打ってはレフトへのホームラン、守っては鋭い当たりに反応してのファインプレーと大活躍。かなりの期待の持てる選手だと思う。


試合は5-1でバファローズの勝利。スワローズは飛躍の期待される廣岡大志がタイムリーを放ったが、三塁を狙おうとしてタッチアウト。今日のスワローズはここでも若さが出てしまっていたように思う。


すぐ後ろの席はアメリカ人の御一行。大谷翔平のエンゼルスのTシャツを着ていたりする。平凡なプレーにもかなりエキサイトしていたが、最後まで試合を観ずに帰ってしまうという謎のテンションであった。

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2019年3月16日 (土)

観劇感想精選(293) こまつ座第126回公演「イーハトーボの劇列車」2019

2019年3月8日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、こまつ座第126回公演「イーハトーボの劇列車」を観る。作:井上ひさし、演出:長塚圭史。出演は、松田龍平、山中惇、村岡希美、天野はな、土屋佑壱、松岡依都美(まつおか・いずみ)、宇梶剛士、福田転球、中村まこと、紅甘(ぐあま)、小日向星一(小日向文世の息子)、岡部たかし。音楽:宇野誠一郎、阿部海太郎。

こまつ座の「イーハトーボの劇列車」は、6年前に、井上芳雄の宮沢賢治、鵜山仁の演出で観ているが、今回は松田龍平の宮沢賢治、長塚圭史の演出という組み合わせとなった。

セットは学校の教室。窓が所々破れており、向こうには草っ原が見える。役者が舞台の上手と下手に横一列になり、出番になると教室の中に現れるという趣向を行っている場面もある。

松田龍平の宮沢賢治であるが、残念ながら井上芳雄に比べると大きく劣る。トップミュージカルスターである井上芳雄に対し、松田龍平は主に映像で活躍している俳優なので、舞台で差が出てしまうのは当然なのであるが、松田が演じる宮沢賢治はどう見ても利発とは思えない。宮沢賢治という人物は、「素朴なインテリ」もしくは「頭の良い駄目男」という言葉で表すことが出来るのだが、松田は聡明な印象に欠けるため、「素朴な駄目男」に見えるという頭を抱えたくなるような結果になってしまっている。ただ、賢治が考える日蓮像に繋がっているとも考えられ、「これは宮沢賢治ではない」と断定することも出来ないように思う。

今回は、鵜山仁演出版ではカットされていたところも上演されており、上演時間は休憩時間も含めて3時間30分に及ぶという大作となっている。

長塚圭史の演出であるが、真面目すぎてユーモアを欠くところがあるのが気になる。鵜山仁版では笑えていた場所もあっさり通過してしまって意味がなくなっていたりする。ユーモアがあるからそれに対比されるシリアスな場面が痛切さを増すのだが、今回はそうした趣向を炙り出すまでには至っていなかった。

キャストも鵜山仁版の方がずっと充実しており、今回のキャストはセリフのやり取りなどが全般的に今一つ噛み合っていなかったように思うが、宮沢政次郎(賢治の父親)と伊藤儀一郎の二役を演じる山中惇は、特に伊藤儀一郎を演じている時に良い味を出していたように思う。
宮沢とし子(詩「永訣の朝」で知られる賢治の妹)と車掌ネルの二役で出た天野はなも可憐で印象深かった。

思い残し切符も、鵜山仁の演出では希望として描かれていたように感じられたのだが、長塚圭史の演出では「受け継ぐ義務のあるもの」というより切実な意味を伴っていたように感じられ、観劇後の充実感はなかなかのものであった。やはり「イーハトーボの劇列車」は本が良いのだと思われる。

こまつ座「イーハトーボの劇列車」2013

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2019年3月15日 (金)

コンサートの記(531) ブルーノ=レオナルド・ゲルバー ピアノ・リサイタル2013京都

2013年10月22日 京都府立府民ホールALTIにて

午後7時から京都府立府民ホールALTI(アルティ)で、ブルーノ=レオナルド・ゲルバーのピアノ・リサイタルを聴く。

現役屈指のベートーヴェン弾きとして知られるブルーノ=レオナルド・ゲルバー。アルゼンチンの生まれ育ちである。ラテンアメリカはその名の通りスペイン系が主流だが、ゲルバー自身はスペインではなく、オーストリア、フランス、イタリアなどの血を引いているという。7歳の時に重い小児麻痺を患い、1年以上寝たきりの生活が続くが、5歳でリサイタルを開いた神童だけに「もったいない」ということで、両親はベッドの上でも弾けるようにピアノを改造し、幼いゲルバーも毎日ピアノのレッスンに励むことが出来たという。

小児麻痺の影響は現在も残り、歩行が少し不自由である。オーケストラの演奏会のソリストとして登場する時には指揮者に手を引かれて登場するのであるが、今日はソロ・リサイタルだけに、マネージャーに導かれて上手の客席入り口から登場した。

アルティは様々なステージを組むことが可能だが、今日はステージを平土間にし、ステージ上手脇と下手脇の両方にも席を設けている。下手側の席の人はゲルバーの背中を見ながら、上手側の席の人はゲルバーの顔を見ながらピアノを聴くことになる。私はステージ脇の席ではなく、8列目、下手側の席であった。ピアニストの手元がよく見える席である。
平土間にしてステージの両脇にも席を設けたので、通常のステージを使う際に設けられた出入口は使用出来なかったため、上手の客席入り口から現れたのである。


ゲルバーが得意とするオール・ベートーヴェン・プログラム。ピアノ・ソナタ第14番「月光」、ピアノ・ソナタ第3番、ピアノ・ソナタ第15番「田園」、ピアノ・ソナタ第23番「熱情」が演奏される。なお、当初発表されたプログラムとは、「月光」と「田園」の順番が入れ替わった。

ゲルバーの実演に接するのは久しぶり。まだ千葉に住んでいた頃に、東京・渋谷のNHKホールで行われたNHK交響楽団のソリストとして登場した時以来ではないだろうか。その時の演奏はかすかに記憶にあるが、指揮者が誰であったかなどは覚えていない。エリアフ・インバルであったような気もするが確かではない。
2010年に京都市交響楽団とも共演しているが、京都コンサートホールではなく、びわ湖ホール大ホールで行われた特別演奏会であり、私は耳にしていない。

ゲルバーは同性愛者としても知られるが、そもそもクラシック音楽界には同性愛者は多く、アメリカでは「ユダヤ人か同性愛者でないと指揮者として成功出来ない」といわれたこともあるほどだ。ただこれは当時、アメリカを代表する指揮者であったレナード・バーンスタインやジェームズ・レヴァイン、マイケル・ティルソン・トーマスなどがこぞってユダヤ系の、カミングアウトした同性愛者であったためで、かなり誇張されていると思われる。ユダヤ人でも同性愛者でもないのにアメリカで指揮者として成功した人物は沢山いる。

アルティは室内楽演奏に適した規模のホールであり、ゲルバーなら京都コンサートホール大ホールでもリサイタルが開けると思っていたが、ゲルバーも最近はレコーディングを全く行っていないためか日本での知名度に陰りが出てきたようで、アルティでも当日券は発売されていた。ステージの脇にも客席を設けるなど、いつもよりは席数は多く、9割以上は埋まっていたが、有名演奏家でもレコーディングを定期的に行っていないと忘れられる時代なのかも知れない。
歩くのにも不自由するということは、運動も十分には行えないということであり、ゲルバーも以前に見た時に比べると体のボリュームが大分増えている。


ピアノ・ソナタ第14番「月光」。遅めのテンポによるスケール豊かな演奏である。
タッチは力強いが、体だけでなく音にもボリュームがあり、音量が大きいだけでなく、音そのものにも広がりがある。ベートーヴェン自身は幻想的ソナタと名付けたこの曲。ドイツ語で「幻想的」というと、日本語の「幻想的」以上に「即興性に富む」という意味があるそうで、それ故に、盲目の少女にベートーヴェンが月光を輝きを教えるために即興でピアノを弾いてこの曲を作ったという話が創作されたりするわけだが(勿論、事実ではない。ベートーヴェンはピアノ即興演奏の名手であったが、「月光」ソナタはさすがに即興で作ったにしては完成度が高すぎる)、ゲルバーのピアノによる「月光」ソナタは「幻想的」でもあり、「即興的」でもある。また第1楽章は十字架を担いでゴルゴダの丘を登るキリストを描いたものという解釈を仲道郁代が披露していたが、そう考えた場合の哀感も良く出ている。
正攻法の演奏であり、河村尚子が弾いた「月光」ソナタのような天才的な閃きはないが、立派な演奏である。
ゲルバーのペダリングであるが、踏みかえは多いものの、ダンパーペダルを踏み続けていることもあり、音がややこもる。


ピアノ・ソナタ第3番。
ベートーヴェン初期のピアノ・ソナタであるが、だからといって、スケールを小さくしたりすることはない。むしろきっちりとした演奏を行うことにより、J・S・バッハなどにも通じる古典性を際立たせてみせた。
「月光」ソナタでもそうであったが、ゲルバーのピアノは左手がものを言っており、スケールを大きくしたり、立体感を与えたりしている。


休憩を挟んで、ピアノ・ソナタ第15番「田園」。
第1楽章も美しい演奏であったが、左手が受け持つ旋律を敢えて無表情に弾くことで古雅な趣を出した第2楽章の演奏は至芸ともいえるものであった。


ラストとなる、ピアノ・ソナタ第23番「熱情」。
ゲルバーは技術も高いが、最高レベルではなく、今日も何度かミスタッチがあったし、ゲルバーが思い描いているようには指が回らないという箇所もあったが、演奏会とは技術品評会ではなく、音楽を聴くための催しであり、。音楽性が高ければ技術に多少瑕疵があったとしても問題ではない。技術でゲルバーより上のベートーヴェンを弾くピアニストも多いであろうが、味わい深さはそれとは別問題である。

「熱情」というタイトルの曲だが、ゲルバーの演奏は実に情熱的。強音と弱音の幅も広く、表現は多彩である。好きなタイプのベートーヴェンかと聞かれれば、少し異なるかもしれないが(私が好きなベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏は、ルドルフ・ゼルキンのように極めて端正なものか、サンソン・フランソワや河村尚子のように独自の閃きに満ちた個性的なものかのどちらかである)聴きごたえは十分なベートーヴェンであった。


ピアノ・ソナタ4曲の演奏、また歩行が困難ということもあり、アンコール演奏は行わなかったゲルバー。それでもいったん退場した後に喝采に応えて、ステージの半ばまで歩いて一礼し、最後は、入り口を再び開けて、その場で深々とお辞儀をしてリサイタルを終えた。

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2019年3月14日 (木)

観劇感想精選(292) 文楽京都公演2019 「義経千本桜」より“道行初音旅”&「新版歌祭文」より“野崎村の段”

2019年3月3日 京都府立文化芸術会館にて観劇

正午から京都府立文化芸術会館で文楽京都公演を観る。演目は「義経千本桜」より“道行初音旅”と「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)」より“野崎村の段”。いずれも歌舞伎で観たことのある演目であり、比較が楽しみとなる。なお、もう一つのプログラムは「義経千本桜」より“椎の木の段”と“すしやの段”(いがみの権太)であるが、昨年の南座の顔見世で観たばかりであり、記憶が生々し過ぎるためパスする。


まず、竹本小住太夫による解説がある。


「義経千本桜」より“道行初音旅”は、“川連法眼館の場”の前の段に当たる。初音鼓にされた狐の子どもが源義経の家臣である佐藤忠信に化け、初音鼓を持ち歩く静御前の前に現れるというシーンである。歌舞伎では市川九團治の忠信で観ている。

人形による舞と扇のキャッチ、忠信の主遣いである吉田清五郎の衣装早替えが見せ場となる。華麗な衣装に身を包んだ人形が生き生きとした動きをする。狐の動きも生々しい。

謡には忠信の名を分けて「忠(ちゅう)と信(まこと)」という言葉にしたり、静御前に掛けて「静かに忍ぶ都をば」と言ったりと、日本文学の正統である掛詞がふんだんに使われている。


「新版歌祭文」より“野崎村の段”。歌舞伎では中村七之助のおみつで観ている。

武家の子である久松は、父の切腹により家が潰れたため、野崎村の小百姓である久作に育てられ、今は大坂の油屋の丁稚奉公に出ている。油屋の娘であるお染とは相思相愛だったのだが、お染は親が持ってきた縁談に従うほかなく、久松は油屋奉公人の小助らに騙され、店の金を横領したことにされてしまいそうになる。
一方、久作は娘のおみつと久松を夫婦にしようと思っており、おみつもその気である。

年の暮れ、久作が年末の挨拶に出掛けている間に小助が久松を連れて野崎村にやって来る小助は久松が金を盗んだとして弁償を迫るが、帰ってきた久松は小助にすぐに金を渡す。久作は久松におみつと祝言を挙げるように言い、おみつもその気になって支度を始める。そこにお染がやってくるのだが、おみつはお染の正体をすぐに見抜き、冷たく当たる。

ラストシーンでは屋形船が登場するのだが、船頭が体を拭いたり川に落ちて泳ぐシーンがあったりするのだが、とてもユーモラスであり、江戸時代の人々の粋(いき)が直に伝わってくる。

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2019年3月10日 (日)

ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団 ルイジ・ノーノ 「進むべき道はない、だが進まなければならない……アンドレイ・タルコフスキー」

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コンサートの記(530) 京都コンサートホール「オムロン パイプオルガンコンサートシリーズ」vol.63 “世界のオルガニスト” アレシュ・バールタ

2019年2月23日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、「オムロン パイプオルガンコンサートシリーズ」vol.63 “世界のオルガニスト”を聴く。今回のオルガニストは、チェコ出身のアレシュ・バールタ。

チケット料金1000円均一。全席時由ということで人気の「オムロン パイプオルガンコンサート」。ステージ上にリモートコントロール装置を置いて演奏することもあるが、今回はパイプオルガンに直についている鍵盤での演奏である。
ポディウム席は今日は席が取り外してあり、オルガニストに近い2階ステージサイド席が一番人気のようで早々に埋まる。私は今日は1階席の23列目、上手になる29番の席である。
京都コンサートホールに限らないが、1階の前の方の席は音が余り降りて来ない上に、今日はパイプオルガンと演奏家を思いっ切り見上げる形になるため、なかなか埋まらず、開演直前や開演に間に合わなかったお客さんがレシェプショニストに誘導されて前の方の席に向かうという光景が見られた。


アレシュ・バールタは、1960年チェコ生まれ。モラヴィアのブルノ音楽院でヨゼフ・ブルクに師事し、プラハ芸術アカデミーではヴァツラフ・ラバスに師事。1982年のアントン・ブルックナー国際オルガン・コンクールに優勝し、翌年のフランツ・リスト国際オルガン・コンクールで2位入賞、更に1984年の「プラハの春」国際音楽コンクール・オルガン部門で優勝している。スプラフォン、ポニー・キャニオン、オクタヴィア・レコードからCDをリリースしており、高い評価を受けている。


曲目は、前半がJ・S・バッハの名曲集で、「トッカータとフーガ」ニ短調、コラール「目覚めよと呼ぶ声あり」、「前奏曲とフーガ」ト長調、コラール「主よ人の望みの喜びよ」、「トッカータとフーガ」ホ長調。後半が、フランクの「前奏曲、フーガと変奏曲」、ボエルマンのゴシック組曲、リストのバッハの名による前奏曲とフーガ。

アシスタントは池田伊津美(いけだ・いずみ)が務める。


パイプオルガンはストップによる音色の変更が可能だが、今日は比較的優しくて柔らかい音が選ばれていたように思う。


バールタのオルガンは正攻法であり、パイプオルガンの音圧で推すことなく、誠実な演奏を聴かせる。高い音楽性で聴かせるタイプだ。
バッハのオルガン曲はオルガニストなら誰でも演奏する曲だが、バールタは己の技量をひけらかすことなくバッハの曲が持つ魅力を丁寧に提示していく。


後半の楽曲はいずれも初めて耳にするものである。

フランクの「前奏曲、フーガと変奏曲」。ロマン的な旋律と大らかな音色が噛み合った魅力的な曲と演奏である。


ボエルマンは、オルガニストの多くがレパートリーに入れている作曲家である。ゴシック組曲は4曲からなる作品であるが、第1曲である序奏―コラールで輝かしく始まり、様々な表情が紡がれていく。途中で、「ゲゲゲの鬼太郎」を思わせるようなパッセージが顔を覗かせるのが面白い。


ピアノのヴィルトゥオーゾとして知られるフランス・リストであるが、晩年には修道院に入るなど信心深く、オルガン曲や宗教曲も数多く手掛けている。
バッハの名による前奏曲とフーガは、「B→A→C→H」というバッハのファミリーネームに基づく音階で始まる前奏曲とフーガである。今日演奏された他の作曲家の作品に比べて音が多いというのがいかにもリストらしい。

前半と後半とではかなり趣が異なったが面白いコンサートであった。


アンコールは、バッハの「今ぞ喜べ、愛するキリストのともがらよ」。いかにもバッハらしい個性に満ちた楽曲であった。

最後は、バールタ自ら京都コンサートホールのパイプオルガンに拍手を送った。



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2019年3月 9日 (土)

2346月日(10) ベルトルト・ブレヒト著 大岡淳訳『三文オペラ』(共和国)刊行記念 連続トークイベント「おまへは歌ふな」大阪篇 「私たちは「近代」を卒業できるか? ~歌の生まれるところ~」

2019年2月28日 大阪・肥後橋のCalo Bookshop&Cafeにて

午後7時から、大阪の肥後橋にあるCalo Bookshop & Cafeで、ベルトルト・ブレヒト著 大岡淳訳『三文オペラ』(共和国)刊行記念 連続トークイベント「おまへは歌ふな」大阪篇に参加する。大阪篇のタイトルは「私たちは「近代」を卒業できるか? ~歌の生まれるところ~」である。

訳者の大岡淳は、1970年西宮市生まれの演出家、劇作家、批評家。総白髪なので年取って見えるがまだ40代である。早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業。現在はSPAC-静岡舞台芸術センター文芸部スタッフ、浜松市の公立大学法人静岡文化芸術大学非常勤講師などを務めている。
ゲストとして、滋賀県立大学教授である細馬宏通と詩人でNPO法人ココルーム代表、労働者街の市民大学である釜ヶ崎芸術大学・大学院発起人の上田假奈代が参加する。

第一部は大岡淳が自ら訳した『三文オペラ』の文章を朗読し、「モリタート(マック・ザ・ナイフ)」を歌う。

その前に、「三文オペラ」の登場人物とストーリーの説明がある。壁には登場人物達のイラストが貼られている。
「三文オペラ」はイギリスの劇作家であるジョン・ゲイの『乞食オペラ』をブレヒトが改作したもので、ロンドンが舞台である。といってもブレヒトはロンドンに行ったことがなく、サー・アーサー・コナン・ドイルのシューロック・ホームズシリーズが大好きだったということで、ホームズものに登場するロンドンを念頭に置いた架空の街、ロンドンを舞台としている。ロンドンに行ったことのある人からは、「こんなのロンドンじゃない」と言われることもあるそうだ。

大阪篇は歌がテーマになっている。ということで音楽も大きな比重を占める。
「三文オペラ」の作曲者は、1900年に生まれ、1950年に没するという年号を覚えやすい生涯を送った(?)クルト・ワイル。ブレヒトとは何度も共同作業を行っている。ドイツ時代はクラシックの作曲家であったが、ユダヤ人であったためアメリカに亡命し、以後はミュージカルの作曲を主に行っている。
思えば、私が初めて買ったオペラのCDが「三文オペラ」なのだった。初めて買ったオペラのCDが「三文オペラ」だったという人は余りいないと思われる。そもそも一般的な日本人はオペラのCDやらレコードやらを保持していない。
クルト・ワイルの音楽はかなり個性的であり、「三文オペラ」もいわゆるオペラというジャンルに含まれるのかどうか微妙なところである。ちなみに私は演劇として上演された「三文オペラ」は2度観ているが、新国立劇場で上演されたオペラとしての「三文オペラ」は観ていない。


大岡は、池袋で行われた演劇祭で上演される「三文オペラ」のために新訳を行ったのだが、SPACの上司である宮城聰に、「お前、歌詞翻訳しろ」と命じられて取り組んだそうである。ちなみに大岡は早稲田大学在学中に第二外国語として2年間ドイツ語を学んだだけだったのだが、「お前、ドイツ語出来る?」と聞かれて、「出来ます!」と答えてしまい、最初は英語で書かれたドイツ語入門のテキストを読むことから始めたそうだ。それから9ヶ月後に翻訳を仕上げたのだが、上演後、ドイツ語の専門家から「そんなの物理的に可能なんですか?」と言われたそうである。
本来は歌詞のみの翻訳だったのだが、「歌詞だけじゃ整合性がなくなる」ということで全編を訳した。ただ、宮城から「歌詞翻訳の分しか金が用意出来ない」と言われ、それで新たなテキストを発売することにしたそうだ。ただ戯曲というのはそもそも売れないもので、「全国行脚」をして回ることになったそうである。連続トークイベントは今月6日に東京・早稲田で始まり、静岡(2度)、横浜を経て、昨夜が西宮、今日が大阪である。今後、岡山、福岡を回り、3月17日には番外編として中目黒で音楽ライブも行われる。

大岡は日本軽佻派を自称しており、『三文オペラ』の訳でも様々なことを試みている。脚韻を徹底させてあり、B系ともいわれる若者言葉を用いている他、マックヒースの演説では七五調を取り入れていて、歌舞伎のセリフのように響いてくる。

大岡は、これまでに発表された『三文オペラ』の様々な訳を読み上げ、「モリタート」は歌う。黒テントの山元清多(やまもと・きよかず)が舞台を日本に置き換えたバージョンの「モリタート」も歌われるのだが、黒テントの上演では服部吉次(はっとり・よしつぐ。服部良一の次男で、服部克久の実弟)が「モリタート」を歌っていた。服部吉次は音大出身で、実に上手く「モリタート」を歌っていたのだが、18日に行った横浜でのトークショーでは大岡の目の前に服部吉次がおり、服部の目の前で「モリタート」を歌うことになったそうだ。ちなみに服部の横には串田和美がいるという謎の豪華布陣だったそうである。


ちなみに、大岡は、ピーチャムとマックヒースの年が近い感じがするということで、ピーチャムの娘であるポリーとマックヒースとの間に年の差があるのではないかと読んでいるようである。例えとして、「ピーチャムが東尾修、マックヒースが石田純一、この人、靴下はいてないかも知れない。ポリーが東尾理子」と言っていた。マックヒースは銀行家に成り上がろうとしており、そのため、奥さんがちゃんとした人である必要が出てきたのだ。

貧民階層の人達が出てきて、整合性の低いことを言っていたりするのだが、これは釜ヶ崎芸術劇場でやろうとしている釜ヶ崎オ!ペラに似ているそうである。貧しい人達が上流階級や政府に逆らうでもなく、グチグチ言ってるだけで結果として為政者の思うがままになっているという状況は、19世紀末の架空のロンドンと今の日本社会に共通するもののようだ。上田假奈代によると道に出てきたり、何かすることがある人はまだましで、釜ヶ崎でも下の人達は引きこもって酒浸りであり、緩慢な自殺へと向かっているそうだ。

今の社会はみんなで歌える歌がなくなったという話になる。大岡によると、「原発で働いている人には歌がない」という。昔の炭鉱などでは文芸部があったり合唱サークルがあったりして、「炭坑節」という作者不詳の歌が生まれるという文化があった。ただ、原発には、ひょっとしたらあるのかも知れないが歌が生まれているという感覚がない。放射線が体に貯まらないよう、短期で人員の入れ替えがあるのかも知れないし、作業自体がリズムがあると支障を来すようなものなのかも知れない。本当の原因はわからないが歌から遠い場所に我々は来てしまっている。

「近代」が個々で行う作業が尊ばれた時代なのだとしたら、我々は「近代」を卒業出来ていない。
上田は、言葉には歴史があり、自分で生み出したものではないのに、何から何まで自分で生んだように錯覚するのが「近代」の文芸なのだというようなことを言う。
明治以降の詩に関しては、文語から口語へ、定型詩から自由詩へという流れが一貫としてあったのだが、大岡によるとそれも限界に来ているのかも知れないという。

大岡と上田は鳥取で、子ども達と一緒になって作品作りをするワークショップを行っていたりするのだが、個人では生み出すことが出来ないような豊かなものが生まれる可能性があるそうだ。


歌の話に戻ると、J-POPなどは歌が長くなり、複雑になったと細馬は指摘する。今のポピュラーシンガーのライブには、予めCDなり配信なりを聞き込んで、全曲わかるようにして挑むのが普通なのだが(私もそういうことはする)、細馬が若い頃はそんなことはしなかったそうで、楽曲も演奏時間が短く、誰でも歌えるようなものだったというのが大きいのではないかという。
確かに、現在主流のJ-POPは歌詞も複雑で1回聴いただけではなんのことを歌ってるのかよく分からなかったり、音程も半音ずつ上がり下がりしていたり、転調に次ぐ転調があったりと、変拍子が当たり前のように入っていたりと、聴くのも歌うのも難しいものが多い。世代間の断絶もあり、例えば私の親世代の人はブラックミュージックなどは音楽に聞こえない、子どもはいないけど子ども世代に当たる十代の子達が聴くラップなどは私は余り聴かないということもある。音楽を聴くというスタンスが変化し、アーチスト個人と聴衆一人の1対1のコミュニケーションという形になったような気がする。

「三文オペラ」だけでなく、つい最近に至るまで、貧困層の人々の声は、インテリ達が想像によって代弁していたのだが、例えば大岡が子どもの頃に住んでいたという川崎市生まれの人気ラップアーティストがいるそうだのだが、「川崎区で有名になるには人を殺すかラッパーになるか」という歌詞を歌うそうで、当事者が声を上げるようになってきた。ただ、彼らも下剋上を好む成り上がりで、結局、大人になって良い車になるようになって上がりであり、成り上がれなかった人達のことは等閑視するようで、貧困層の中にもまた階級が生まれ、音楽を共有出来ないことになっているようだ。

大岡は、演劇に関しても今は人間同士の密度の濃い劇団システムは廃れてしまい、プロデュース公演が基本で、いつもいる人はプロデューサーだけという状態と指摘する。昔は劇団に所属している人だけで上演を行っており、他劇団への客演さえ問題視され、テレビやCMに出るなんてとんでもないという風潮があったが、今はCMにテレビドラマの仕事を受けたからといって「なんでだよ!」と怒る人はまずいない。

他者とじっくり何かを作るという作業が時代に合わなくなってきているのかも知れない。個のアイデンティティも崩壊し、サイコパスが主流になって人間間の契約が成り立たなくなって、世界が崩壊するというディストピアを大岡は思い浮かべてもいるそうだ。

ただ、ポピュラー音楽が崩壊していく様は、クラシックがすでに辿った道であり、今のポピュラーミュージックは、理解が困難になったクラシックに変わる形で台頭した。あるいはこれから先により身近な形の音楽が生まれるかも知れないという予感は私の中ではある。



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2019年3月 7日 (木)

2346月日(9) ドイツ演劇サロン「アルトゥロ・ウィの興隆」

2019年2月26日 大阪・周防町のウイングフィールドにて

午後7時から、大阪・周防町のウイングフィールドで、ドイツ演劇サロン「アルトゥロ・ウィの興隆」に参加する。
「アルトゥロ・ウィの興隆」は、ベルトルト・ブレヒトが、第二次大戦中の1941年にアドルフ・ヒトラーとナチスを揶揄するために書いた戯曲である。当時、ブレヒトはアメリカに亡命中であり、上演するあてもないままに書かれた作品だ。結局、ブレヒトの存命中にはこの戯曲は上演されることはなく、1995年になってようやくブレヒトが創設したベルリナー・アンサンブルによって初演されている。演出を担当したのは、「ハムレットマシーン」のハイナー・ミュラー(当時のベルリナー・アンサンブルの芸術監督)であった。演出家としては、これがミュラーの遺作となっている。2005年には東京の新国立劇場でもベルリナー・アンサンブルによって上演されており、ドイツでは人気の演目となっているようだ。
2005年は、「日本におけるドイツ年」であり、他のドイツの劇団も東京公演を行っていて、西堂行人によると東京のみではあったが日本とドイツの演劇界がリンクするような雰囲気が醸成されていたそうだ。ただ、その後、日本とドイツの距離は再び遠くなってしまい、日本では内省的で個人的な演劇が主流となっている。


1929年から1938年にかけてのシカゴに舞台は移されており、マフィアの話になっている。アドルフ・ヒトラーに相当するアルトゥロ・ウィは、マフィアのボスである。世界恐慌によって痛手を受けたカリフラワー業界に目を付けたウィは、乗っ取りをたくらむのだが拒絶される。カリフラワー業界はシカゴのドッグスパロー市長(ヒンデンブルク大統領に相当)を頼りにしており、ウィはドッグスパローの弱点を探し始める。そして、ドッグスパロー市長が収賄に手を染めていることを発見したウィは、ドッグスパローをゆすりにかかる。最初は相手にしていなかったドッグスパローだが……。

登場人物のうち、ジリーがゲーリング、ジボラがゲッペルス、ローマがレーム(三島由紀夫の「我が友ヒットラー」では最重要人物となる)をモデルにした人物である。

全編は2時間以上ある作品であるが、今回は30分強にまとめた映像がスクリーンに投影される。
出演者は、西堂行人(演劇評論家、明治学院大学文学部芸術学科教授)、笠井友仁(演出家、エイチエムピー・シアターカンパニー)、高安美帆(俳優、エイチエムピーカンパニーと舞夢プロに所属。大阪現代舞台芸術協会理事)の3人。で、適宜コメントを入れながら上映が行われる。


ヒトラーは演説の名手になるために俳優に教えを受けたという、嘘か本当かわからない話があるが、この劇の中でもアルトゥロ・ウィが名優にセリフ術を教わる場面がある。バーナード・ショーの「ピグマリオン」つまり映画の「マイ・フェア・レディー」にもこうした場面はあるのだが、かくして犬のように野卑で獰猛だった男が、稀代の名演説家に変身する。ウィは部下から「不自然だ」という指摘を受けるのだが、「この世に自然に生きている人間など一人もいない」と一蹴する。
ちなみに、名優はシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」に出てくるアントニーの演説をテキストとしてセリフの稽古を行うのだが、自分の人生を振り返って、「シェイクスピアは人生を台無しにしてしまう」と語っており、これは「演劇はドイツを台無しにしてしまう」と読み替えることが出来る。つまり虚構を作り上げるという広義の演劇によって権力は捏造されるのだが、そうした権力を告発するのもまた演劇の役割であることが筋を追っていくとわかるという、合わせ鏡のような魅力的な構造が浮かび上がる。
西堂行人が、ブレヒトの劇には「往路と復路がある」という話をしていたが、そこにも繋がっているようにも思う。


高安美帆は、ドイツのギーセン大学応用演劇学科の客員教授をしていたことがあるということで、ベルリンで発行されている芸術ガイドが来場者に回される。ベルリナー・アンサンブルは毎日のように上演を行っており、有名な作品としては「メディア」や「マクベス」などを上演していることがわかる。芸術ガイドには、音楽(ベルリン・フィルハーモニーでの公演情報も載っており、今年の1月には「モーツァルト&サリエリ」というプログラムの演奏会が行われていたことがわかる)、オペラ、グルメなど様々な情報が載っている。

かつて東西に分かれていたベルリン。東ベルリンだけもしくは西ベルリンだけでも一大都市に相当する劇場を持っていたため、他の都市に比べて上演数が多いのが特徴である。大劇場だけでなく、小劇場演劇も盛んで、トルコ人街にいくつも小劇場が出来ていたりするようだ。そうした土壌ゆえか、ベルリンの人達は、とにかく熱心に観劇するそうで、舞台上と客席の間で丁々発止の雰囲気が築かれることも多いようだ。また、東ベルリンと西ベルリンに分かれていた時代の名残が今もあり、「東には負けない」「西には負けない」という気概に満ちているそうで、新しいものがどんどん生まれているそうだ。

ハイナー・ミュラーは、冒頭に書かれている口上を本編が終わった後に来るよう、置き換えている。ラストで種明かしがされるという感じだが、ブレヒトの劇自体はかなり露骨にわかるように書かれており、冒頭で設定を明かしてしまうと、作者の意図通りに見えすぎてしまうということもあるのだろう。
ミュラーは時折、地下鉄が通り過ぎる音を入れている。ブレヒトの異化効果とするのが適当なのかも知れないが、舞台の設定を地下鉄のすぐ上の得たいの知れない空間とすることで劇場らしさを消し、同時に作品のフィクション性や時間を隔てた物語という距離を埋めた切実感を出そうとしたとも思われる。


ちなみに西堂行人は、ベルリンで「アルトゥロ・ウィの興隆」の初演を観ているそうで、それが自身にとっても画期となったそうである。

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2019年3月 6日 (水)

コンサートの記(529) 広上淳一指揮京都市交響楽団大阪特別公演2013

2013年9月21日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後2時から、ザ・シンフォニーホールで、京都市交響楽団大阪特別公演に接する。指揮するのは京響常任指揮者の広上淳一。今日も全曲ノンタクトでの指揮である。

デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」、ラフマニノフの「パガニーニの主題による変奏曲」(ピアノ独奏:山本貴志)、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」、ラヴェルの「ボレロ」というプログラム。フランスものがロシア音楽を挟むという格好になっている。

今日の京響コンサートマスターは泉原隆志。渡邊穣がフォアシュピーラーに回るという形である。今日も首席フルート奏者の清水信貴と首席クラリネット奏者の小谷口直子は後半のみの登場。首席オーボエ奏者の高山郁子は今日は降り番のようで、「ボレロ」では実質的な京響次席オーボエ奏者扱いのフロラン・シャレールが首席の位置に陣取った。


デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」。ゲーテのユーモア溢れる詩をモチーフにした交響詩で、ディズニー映画「ファンタジア」ではミッキーマウスがこの曲をバックに魔法使いの弟子役を務めたことでも有名である。
比較的遅めのテンポで入る。ザ・シンフォニーホールの音響を考慮に入れたためか、広上は「魔法使いの弟子」と「スペイン奇想曲」ではゆったりとした演奏をした。神秘感の強調こそないが、丁寧な仕上げが印象的であり、弦楽の透明感溢れる響きも心地よい。ただ、京都コンサートでも響く演奏になれてしまったためか、「ザ・シンフォニーホールなら素晴らしく響くに違いない」と考えていたほどには音は鳴らず、そこは拍子抜けであった。


ピアニストの山本貴志をソリストに迎えての、ラフマニノフ「パガニーニのための変奏曲」。山本貴志のピアノを聴くのは二度目。前回は山田和樹指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏会で、山本はラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を弾く予定だったが、体調不良のため、超絶技巧が必要とされるラフマニノフを弾くだけの余裕がないとして、急遽、曲目を変更し、モーツァルトのピアノ・コンチェルトを弾いている。

今日こそは得意のラフマニノフを決めてみせると、山本も気合い十分なはずだ。
山本の演奏は独特で、グレン・グールドに影響を受けたのかどうかは知らないが、猫背になり、鍵盤に顔を近づけてピアノを弾く。超絶技巧が必要とされる場面では背を伸ばして力強く弾くが、抒情的な部分ではペダルを駆使して、淡いトーンのピアノを奏でる。音の引き出しは多い。

広上指揮する京響の伴奏は彩り豊か。変幻自在の伴奏であり、特にラストの浮遊感は奇術か何かのようだった。


後半。リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」。前述通り、遅めのテンポで堂々と且つ華やかに始まる。
ソロを弾く場面もあるコンサートマスターの泉原隆志の技巧は優れており、クラリネットの小谷口直子やフルートの清水信貴もやはり上手い。二人の演奏を後半だけにしか聴けないというのは惜しい。
情熱的でパワフルな演奏に、聴衆も沸く。


ラヴェルの「ボレロ」。クラシックファンには大人気の曲であるが、演奏する側は「出来れば避けたい」と思っている曲の筆頭でもある。二つのメロディーを繰り返す曲であり、ちょっとでも失敗すれば目立ってしまうため、奏者達は怖れるのである。「スペイン狂詩曲」でもスネアドラムは使われたが、「ボレロ」ではより指揮者に近い位置にスネアドラム奏者は陣取る。

平均的は演奏時間は約15分であるが、広上が採ったのはそれよりやや遅めのテンポである。作曲家の指示通りインテンポであり、後半にアッチェレランドをかけるというようなことはしなかった。この曲では、最初のうちは広上は手を使わず、体をくねらせたり頭を振ったりして指揮をする。トロンボーン奏者がソロを取るときには、広上はトロンボーンとは正反対の方向を見て頭で指揮していた。オーケストラ奏者は指揮者と正対すると自然に大きな音を出す傾向があるようなので(NHK交響楽団首席オーボエ奏者の茂木大輔の証言による)、トロンボーンに強く吹かせないために敢えて視線をそらしたのだと思われる。

ヴァイオリンが主題を奏でるところから、広上は本格的に腕を振って指揮するようになり、トランペットが朗々と第1主題を演奏する部分で広上は大きく手を広げ、これまで溜めてきたエネルギーを一気に放出する。作為的ではあるが、そうした印象を上回る程の快感と開放感と興奮とが私の胸に押し寄せ、巻き込んでいく。広上は優れた指揮者であると同時に最高のエンターテイナーであり、千両役者である。

演奏終了後、興奮した多くの聴衆から「ブラボー!」の賞賛を受けた広上。広上はまずスネア奏者を讃えた後で、演奏順に奏者を立たせ、拍手を送る。いったん退場してから再度現れた広上はオーケストラメンバーを立たせようとしたが、奏者達も拍手をして立とうとしない。広上は一人、指揮台に上がり、喝采を浴びた。


広上は、「『半沢直樹』は明日が最終回です」と、今日もまたお気に入りのドラマである「半沢直樹」の話をした後で、「拍手への10倍返しということで」と、アンコール曲を演奏する。15日にも京都コンサートホールでアンコールとして取り上げた、ブラームスの「ハンガリー舞曲」第6番である。同一曲を同一コンビが違う場所で演奏するため、ホールの音響の違いがよくわかるのだが、ザ・シンフォニーホールは全ての楽器の音が京都コンサートホールよりも明らかに良く通る。流石は全世界のアーティストが憧れる名ホールである。

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2019年3月 4日 (月)

コンサートの記(528) 広上淳一指揮 読売日本交響楽団 読響サマーフェスティバル「三大交響曲」2013

2013年8月21日 池袋の東京芸術劇場コンサートホールにて

東京へ。池袋にある東京芸術劇場コンサートホールで、広上淳一指揮読売日本交響楽団の演奏会を聴くためだ。

今回のコンサートの曲目は、シューベルトの交響曲第7番(旧番号では第8番)「未完成」、ベートーヴェンの交響曲第5番、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」である。

広上の指揮するベートーヴェンの交響曲第5番は、彼が常任指揮者を務める京都市交響楽団の演奏会で二度聴いているが、他の曲目を広上の指揮で聴くのは初めてである。そもそも「未完成」交響曲は生で聴くことをも初めてなのではないだろうか。かつてはクラシックといえばベートーヴェンの第5交響曲とシューベルトの「未完成」交響曲が二大人気曲であったが、現在ではシューベルトの交響曲というと、第8番(旧番号では第9番)「ザ・グレイト」の方がコンサートでは人気である。


開演は午後6時30分。


京都芸術劇場は京都造形芸術大学内にある私営のホールであるが、東京芸術劇場は東京都の施設である。ということで、やはり都営である東京文化会館と共に東京都交響楽団の本拠地となっている。

音響であるが、東京の音楽専用ホールとしては良い方である。サントリーホールほどではないが、少なくともNHKホールよりはかなり上である(NHKホールも広さを考えれば良く聞こえると思うが「広さを考えれば」である)。今日は前から2列目の席。京都コンサートホールの2列目だと、音が上に行ってしまって直接音が余り届かず、歯がゆい思いをするのだが、東京芸術劇場コンサートホールの場合は音も良い。


広上は今日は3曲ともノンタクトで指揮した。京都市交響楽団とのベートーヴェンは指揮棒を振っていたので、ノンタクトによる広上のベートーヴェン交響曲第5番の演奏を聴くのは初めてとなる。


シューベルトの交響曲第7番「未完成」。広上は冒頭こそおどろおどろしい雰囲気は作らなかったが、第1楽章は曲が進むにつれてシューベルトの秘められた狂気が露わになっていく。弦楽器群の出す音などは聴いていて胸が苦しくなるほどだ。
夢見るような第2楽章。広上の指揮する読響は実に美しい音色を奏でる。だが、中間部ではやはり聴く者を戦慄させるような迫力があった。


ベートーヴェンの交響曲第5番。京都市交響楽団の演奏と比べるとホールの影響もあるだろうが(初めて聴いたのは兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール。二度目は京都コンサートホールである)まろやかな音による演奏であった。極めてドラマティックであり、広上とベートーヴェンの相性の良さが感じられる。
第3楽章から最終楽章までの切れ目なく繋がる場面で、広上さんは右手の肘を下げて、そこから砲丸投げのように上方に上を突き出す。外連味はあるが効果的な指揮法だと思う。
読売日本交響楽団は、最近では、シルヴァン・カンブルラン、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、下野竜也という、偶然かどうかはわからないが、いずれも渋めの音色を引き出す指揮者にポストを与えており、そのせいか、今日の読響も京響のような燦々とした音色ではないが、最終楽章に突入するところではパッと光が差したかのような神々しい音で広上の指揮に応えた。


休憩を挟み、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」。

広上は序奏こそ平均的なテンポで開始するが(音色はやはり渋めである)、徐々にリタルダンドして行き、展開部に入ることにはかなり遅くなる。だが、管楽器の一斉合奏の所でテンポを上げ、ドラマティックな演奏が展開される。管楽器群であるが、立体的な音を奏でており、オーケストラの力と共に広上の統率力および表現力の巧みさが感じられる。

第2楽章は実に抒情的。ノスタルジックな雰囲気を味わうことが出来た。

第3楽章は管だけでなく全ての楽器が立体的な音を奏でる。まさに広上マジックである。
そして最終楽章。推進力に富んだ演奏であり、力強いが、金管の咆吼の際も弦楽器などとのバランスは最良に保たれており、力任せの演奏にはなっていない。

これまで、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(ザ・シンフォニーホール)やパーヴォ・ヤルヴィ指揮シンシナティ交響楽団(兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール)による「新世界」交響曲の名演を聴いているが、広上淳一指揮読売日本交響楽団による「新世界」交響曲は、総合力ではそういった猛者をも凌ぎ、実演で聴いた「新世界」の中では文句なしにナンバー1である。

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2019年3月 3日 (日)

アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団 ラヴェル 「亡き王女のためのパヴァーヌ」

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