2017年3月28日 (火)

コンサートの記(287) 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXV 歌劇「カルメン」京都

2017年3月22日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後6時30分から、左京区岡崎にあるロームシアター京都メインホールで、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXV 歌劇「カルメン」を観る。作曲:ジョルジュ・ビゼー、アルコア版での上演。指揮は小澤征爾と村上寿昭(むらかみ・としあき)の二人による振り分け。演奏は小澤征爾音楽塾オーケストラ。演出:デイヴィッド・ニース。出演は、サンドラ・ピクス・エディ(カルメン)、チャド・シェルトン(ドン・ホセ)、ケイトリン・リンチ(ミカエラ)、ボアズ・ダニエル(エスカミーリョ)、サシャ・ディハニアン(フラスキータ)、アレクサンドラ・ロドリック(メルセデス)、河野鉄平(こうの・てっぺい。ズニガ)、タイラー・ダンカン(モラレス)、町英和(ダンカイロ)、大槻孝志(レメンダード)ほか。合唱:小澤征爾音楽塾合唱団(合唱指揮:松下京介)、児童合唱:京都市少年合唱団、振付:サラ・エルデ。
シカゴ・リリック・オペラのプロジェクトによる上演である。

約8年ぶりに接することとなる小澤征爾指揮の実演。その間に小澤は癌を患い、克服したものの、一晩を通したプログラムを演奏する体力がどうしても戻らないため、今回も村上寿昭との二人体制での指揮となった。
なお今年の夏に松本市で行われるセイジ・オザワ松本フェスティバルの公式プログラムが発表になったが、小澤が指揮するのはベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番とピアノ協奏曲第3番(ピアノ:内田光子)のみであり、他のプログラムはファビオ・ルイージ、ナタリー・シュトゥッツマン、デリック・イノウエが指揮する。

小澤征爾音楽塾が京都で行われるのは今回が2回目。昨年の第1回はヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」が上演され、今年は「カルメン」である。日本はプログラムが重複する傾向があり、京都でも昨年の暮れに京都芸術劇場春秋座で室内オペラスタイルの「カルメン」が上演されたばかり。更に今年に入ってから山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団ほかによる藤原歌劇団の「カルメン」も東京と名古屋で上演されたが、小澤征爾音楽塾による「カルメン」も今後、東京と名古屋で上演される予定である。


ロームシアター京都メインホールでオペラを観るのは今日で3回目。過去2回ともオペラハウスとしての優秀な音響に感心したが、今回も同様で、音に限れば日本最高のオペラハウスであると断言出来る。
今日は2階下手側のバルコニー席2列目での鑑賞。例によって、足置きの着いた、高い位置にある席であったが、今日はなんとか体力が持った。

今日の席からは、オーケストラピット内も指揮者もよく見えるし、舞台も比較的見やすい。また字幕を表示する機械(G・マークというらしい)も上手のものが真正面で、見やすかった。
また、トランペットによる舞台裏でのバンダ演奏があるのだが、私の席から調光室を見ると、指揮者を正面から捉えたカメラ映像が見えたため、モニターを見てバンダ演奏をしていることがわかった(音を外したりタイミングが合わなかったりと、今日のバンダ演奏は不調であったが)。

譜面台と総譜が2つ並んで用意されており、上手のものを小澤が、下手のものを村上が使用する。二人ともノンタクトでの指揮。小澤は近年はノンタクトでの指揮が基本だが、村上に関しては不明である。一人が指揮棒を使い、もう一人が使わないではオーケストラも歌手もやりにくいだろし、すぐ横に小澤がいるのに指揮棒を使うのは危険でもある。


小澤征爾についての説明は不要だと思うが、一応しておくと、1935年に旧満州国の奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)生まれの指揮者。成城学園高校を中退して桐朋女子高校音楽科(共学)に第1期生として入学。桐朋学園短期大学で齊藤秀雄に指揮を師事した後、船に乗って渡欧。たまたま知ったブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して名を挙げ、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮セミナーを受講後、レナード・バーンスタインに指揮を師事。20世紀後半を代表する二大指揮者に師事するという幸運に恵まれたが、そのため「ヘルベルト・バーンスタイン」などとからかわれることもあったそうである。タングルウッド音楽祭ではオーディションを勝ち抜いてシャルル・ミュンシュに師事している。レナード・バーンスタインの下でニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者を務め、日本に凱旋帰国も果たした。
日本では1961年にNHK交響楽団の指揮者に任命されるが、N響事件によって指揮台を追われ、国外に活動の場を求めるようになる(日本ではその後も「日フィル争議」に巻き込まれ、新日本フィルハーモニー交響楽団を設立している)。まずトロント交響楽団の首席指揮者を務め、その後、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に転身。そしてかつてシャルル・ミュンシュが黄金時代を築き、レナード・バーンスタインがタングルウッドで指揮していたボストン交響楽団の音楽監督を29年の長きに渡って務めて「世界のオザワ」の名声を確固たるものにする。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも共演多数。指揮者として小澤よりも先にデビューしていた岩城宏之は、小澤のあまりの出世ぶりに、「小澤を殺してやりたくなった」と自著で告白している。
2002年からはウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。


村上寿昭は、私と同じ1974年生まれの指揮者である。東京生まれ。桐朋学園大学卒業後、ベルリンとウィーンに留学し、オーストリアのリンツ州立歌劇場やドイツのハノーファー国立歌劇場の常任指揮者として活躍したほか、長年に渡って小澤征爾のオペラ公演のアシスタントを務めており、今回の小澤征爾音楽塾でも小澤と二人での振り分けを担うことになった。

小澤征爾音楽塾は今年で15回目を迎える音楽アカデミーで、メンバーは日本を含むアジア各国からオーディションを勝ち抜いた優秀な若者によって構成されている。毎年のようにオペラ公演を行っているが、時折、オーケストラ演奏のみの年もある。

小澤征爾は、ジェシー・ノーマンのカルメンで、歌劇「カルメン」全曲をフィリップスにレコーディングしているが、私は未聴。EMIにフランス国立管弦楽団を指揮した「カルメン」組曲もレコーディングしているが、こちらは歴代屈指の出来といっても過言ではなく、小澤のフランス音楽への適性を示している。

前奏曲であるが、フランス国立管とレコーディングしたものに比べるとグッとテンポが遅くなっており、強弱の付け方もそれほど頻繁ではない。指揮者は高齢になるに従ってテンポが遅くなるのが恒例だが、小澤の場合もそうなのかどうかはよくわからない。コンサート用とオペラ用の演奏が異なるのは当然であるし、会場にも左右される。

「闘牛士」の前奏曲が終わり、前奏曲の後半が始まると幕が上がり、壁を背にドン・ホセが立っているのがわかる。ライフルを担いだ憲兵が数名現れ、ドン・ホセを取り囲む。ドン・ホセの処刑のシーンであることがわかる。佐渡裕が指揮した兵庫県立芸術文化センター大ホールでの「カルメン」でも、ドン・ホセ処刑のシーンがあり(その時は電気椅子での処刑だった)、ドン・ホセのラストを描く演出が流行であるようだ。

小澤は、煙草工場の休憩時間に入るところまでを指揮して村上にバトンタッチ。同じオーケストラを指揮しているのであるが、小澤と村上とではやはり個性が違う。小澤の生み出す音楽が輝きを特徴にしているのに対して、村上の音楽は渋めでタイトだ。同じ製菓会社のミルクチョコレートとビターチョコレートのような関係というべきか。
小澤はフルートやピッコロを浮かび上がらせる術に長けており、前奏曲や間奏曲ではフルートの浮遊感や旋律美が光っていた。第4幕に出てくるオーケストラによる「闘牛士」は村上が指揮したのだが、小澤とは違い、フルートやピッコロを際立たせることはなかった。
ミカエラが去った後からは小澤が再び指揮を行った。

舞台は、第1幕、第2幕、第4幕では背後にコロシアムの壁が立っており、上部にも人が現れて効果的に用いられる。
第1幕では煙草工場は下手に設けられたバルコニーの袖にあるという設定であり、カルメンはバルコニーに現れて下に降りてくる。
「降りる」というのが一つのキーになっており、エスカミーリョはコロシアムの壁の上に現れて、階段を伝って下に降りてくるし、刑期を終えたドン・ホセもコロシアムの壁の上から素舞台へと階段で降りてくる。どうも、下にあるのは「醜い世界」であり、人々はそこに降りてくるようだ。

ミカエラというと、カルメンとは対照的な清楚な女性というイメージなのだが、今回のミカエラは、ステップを踏みつつ迫ってくるズニガに同じステップでやり返すなど、強気な面もある女性として描かれている。確かに強気な面がなければ、一人で盗賊団の群れに乗り込もうとは思うまい。ミカエラ役のケイトリン・リンチは少し太めの体型だが、そのために弱々しさが表に出ないという利点もある。

ドン・ホセがミカエラとキスするのをカルメンはテラスの上から見ている。ということで、今回の演出ではカルメンがホセに近づくために意図的に暴力事件を起こしたという解釈が取られていることがわかるようになっている。
カルメンが逃げるときも、ジプシーの盗賊団仲間がズニガに拳銃を向けて動けないようにするという演出が施されている。

第2幕では、まず村上が指揮。舞台左手には小さなステージが設けられ、フラメンコダンサーが踊っている。ギター奏者役の男性も二人いるがギター演奏はしておらず、ハープの音に合わせて弾く真似だけをしている。
エスカミーリョが去るまで村上が指揮して小澤にバトンタッチ。小澤はドン・ホセが再び現れるところまで指揮して、後は2幕の終わりまで村上に指揮を託した。

小澤征爾音楽塾オーケストラであるが、臨時編成であるため、統率力という意味では常設のプロ団体には及ばないが、音色は美しく、腕も立つ。

カルメン役のサンドラ・ピクス・エディは、第2幕ではフラメンコダンサー達に混じって自身もフラメンコを舞うなど、妖艶な雰囲気を醸し出している。その姿は、恋に生きる女そのものだ。ある意味、文学的解釈を廃した、純粋な「本能としての女」を炙り出しているようにも見える。

第3幕は小澤の指揮でスタートし、歌のナンバーごとに指揮を交代するというスタイルを取る。第3幕のみコロシアムの壁は登場せず、巨大な岩のオブジェが配されて、岩山が表現されていた。

装置転換のために幕を下ろした状態で少し待ってから第4幕がスタート。前半を村上が指揮し、カルメンとホセの二人だけの場面になってからラストまでは小澤が指揮した。
大合唱による場面はほぼ全て村上に任せられており、オペラ指揮者としての村上の腕を小澤が買ったものと推測される。ロームシアター京都メインホールは残響は長くないため、合唱が大音量で歌っても壁がギシギシいうということはほとんどない。

袖で聞こえる合唱の声がカルメンには希望に、ホセには絶望に聞こえるという場面。カルメン役のサンドラ・ピクス・エディもドン・ホセ役のチャド・シェルトンも演技が上手く、心の葛藤を上手く描き出す。エディ演じるカルメンはホセを臆病者だと信じ切っており、「刺せるものなら刺してみなさい」と仕草で挑発する。そのことが実際に刺されたときの驚きの表情をより効果的なものとしている。

ホセが、「俺を殺せ!」と歌うと、ライフルを担いだ憲兵達が現れ、前奏曲後半の場面が繰り返される。銃声の轟きが全編の幕となった。

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無明の日々(14) 「ぶっちゃけ・問答 『あなたの故郷とは』」

2017年2月15日 京都市上京区の真宗大谷派 長徳寺にて

午後7時30分から、京都御苑の西にある真宗大谷派 長徳寺で、第173回「ぶっちゃけ・問答 『あなたの故郷とは』」に参加する。よくあることなのだが、ここでもまた私は最年少となってしまう。42歳で最年少はきついぜ。
 
午後7時30分から午後11時近くまで、「あなたの故郷とは」というお題から逸れつつも話は進む。関東出身者は私ともう一人(東京都中央区日本橋出身。江戸っ子中の江戸っ子である)。自分の生まれ故郷が「ふるさと」だと感じている人は実はほとんどいない。京都人で京都が故郷だと思っている人は皆無である。私自身も千葉市郊外の住宅地の出身なのだが、住宅地で育ってしまうと、自分の家のある場所が「ふるさと」とはどうしても思えない。それは皆に共通したことのようだった。母方の実家は田舎にあるのだが、田舎に家があったとしたらおそらく実家の付近が「ふるさと」と思えるはずである。「故郷」というと「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」という童謡に出てくるような風景が目に浮かぶ。千葉市の実家付近にはそうした場所はない。

京都人は京都タワーが嫌いだそうだが、旅行などで京都を離れて帰ってきた時に京都タワーが見えると「京都に帰ってきたと実感する」そうである。これは私もそうで、京阪電車で大阪からの帰りに京都タワーが見えるとホッとするし、長距離バスで高知から帰ってきた時、京都タワーが見えた瞬間、「やった。京都に着いた」と心躍った。

そのように「帰ってきた」と思える場所は東京にもある。JR総武線の両国駅と浅草橋駅の間に車窓から見える隅田川である。両国付近の隅田川を見ると「東京だ」としみじみ思う。残念ながら千葉市にはそうした場所はない。千葉市というのは本当に人口が多いだけで特に何もない場所である。歴史だけは東京の倍以上あるのだが近世においてさほど栄えていなかったのが痛い。


千葉県出身ということで、私は日蓮聖人の話をしたのだが、日蓮聖人が今の千葉県出身だということは知られていないようである。日蓮聖人は安房国小湊で漁師の子として生まれている。日蓮聖人の誕生を祝って鯛が集ってきて踊ったという伝承があり、今でも小湊にある鯛の浦という場所は鯛の群生地となっており、特別天然記念物に指定されている。またそれに因んで、鯛は「千葉県の魚」となった。

日蓮宗と浄土系宗教は反対方向を向いているという話になったのだが、日蓮聖人は『立正安国論』において、今の世が乱れているのは「法然坊源空のせいだ」と名指しで批判しており、「浄土宗への布施を止める」ことを提案している。
ただ現在では立正大学(東京にある日蓮宗の大学)と大正大学(東京にある浄土宗、真言宗豊山派、天台宗の総合仏教大学)は協定を結んでおり、因縁はないと思われる。
また日蓮聖人の強気な面が強調されていることについては、井上ひさしの「イーハトーボの劇列車」で宮沢賢治の口を借りて語られた言葉がそのまま役に立った。


不思議なことなのだが、私の場合、「故郷」と思えるのはまだ行ったことのない場所なのだ。石川県松任市、今は合併により白山市となっている場所である。私の先祖がそこにいたのだ。一応、遡れる最も確実な先祖が住んでいた場所である。私に至るまでの起源となる場所である。
ほぼ先祖と考えて間違いない人も更に古い時代におり、他の場所にいたのだが、確定ではないため保留としておく。
私が訪れて「ただいま」と言いたくなる場所は、実は千葉でも東京でも京都でもなくて、数えるほどしか行ったことのない金沢市である。金沢城石川門、近江町市場、尾山神社、更には石川県立音楽堂や泉鏡花記念館など、一度しか訪れたことのない場所でも「私の場所」のように思えた。私の「観念上の故郷」は石川県にあるようだ。

来るときには気がつかなかったが、帰りに長徳寺の門前に石碑が建っていることに気がつく。「会津藩洋学所跡地」の碑。のちに京都府顧問となる山本覚馬が元治元年(1864)に会津藩洋学所を開いて講義を行ったのが、ここ長徳寺だったという。

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2017年3月27日 (月)

おそらく千葉県内の校歌の中で最も個性的 柏市立柏高等学校校歌

吹奏楽の強豪として知られる柏市立柏高等学校(市立柏高校)。その校歌はとてもユニークです。
天台球場の通称で知られる千葉県野球場で行われた全国高等学校野球選手権大会千葉県大会で市立柏が勝利した際の校歌がアップされていましたので紹介します。
ラスト付近で、背後に千葉市名物モノレールが走っている姿を確認することが出来ます。
 
ちなみに市立柏高校野球部は甲子園に出場したことがあるのですが、初戦で敗退し、校歌を歌うことは出来ませんでした。

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しんらん交流館大谷ホール 山城地区同朋大会 節談説教「親鸞聖人御一代記」より

2017年3月11日 真宗大谷派東本願寺(真宗本廟) しんらん交流館大谷ホールにて

午後2時から、しんらん交流館にある大谷ホールで、節談(ふしだん)説教「親鸞聖人御一代記」よりを拝聴。大徳寺の東にある唯明寺の住職で、真宗大谷派山城第2組組長、元立命館常務理事である亀田晃巖(こうがん)による節談説教が行われる。節談説教は落語のルーツといわれ、江戸時代から昭和初期に掛けては積極的に行われたようだが、現在、真宗大谷派で行っているのは亀田晃巖のみであるようだ。山城地区同朋大会の中で行われるため、ポスターには「一般来聴歓迎」と書かれている。入場無料である。
以前、岡崎別院で亀田晃巖の節談説教を聞いたことがあり、内容はその時と同じである。

まず、真宗宗歌を皆で歌うのであるが、一応、真宗の歌はCDで買って聴いてはいるものの、伴奏が安っぽいので繰り返しては聴いていない。ということで歌えない。ただ音の進行は大概の楽曲においては決まっているので、適当に誤魔化すことも可能であり、そうした。

まず、関係者による挨拶があった後で、亀田晃巖による講義となるが、亀田は「講義なんてそんなものはしません」と言って、話を始める。今日はしんらん交流館に来る前に、以前に学校法人立命館の常務理事だったことから、立命館宇治高校に行ってきて挨拶もしたそうだが、その時とは「見える風景が違う」という話から始まる。若い人達は「前途洋々」「未来はこの手の中に」といった風で生き生きしているが、しんらん交流館大谷ホールにいる面々は、年を召した方が中心で、「老病死」の苦を十分に味わった人ばかりである。ただそういう方々も若者に「そう上手くはいかんよ」と教える必要があると亀田は語る。
東本願寺(現在の正式名称は真宗本廟)は、江戸時代に大火で4度も焼失している。徳川将軍家の保護を受けていたため、3度までは徳川将軍家が再建のための費用を負担してくれたが、4度目の大火は幕末の禁門の変による「どんどん焼け」によるもので、再建に取りかかろうとした時には徳川幕府の時代は終わっており、徳川将軍家そのものが亡くなっていた。ということで、門徒の協力によって再建された。亀田は「今、そんなことやろうと思っても出来ませんよ」と言う。今は熱心な門徒が減ってしまっている。

その後、節談説教についての説明。落語は新京極六角にある浄土宗西山深草派総本山誓願寺の安楽庵策伝が「醒睡笑」を表したのが始まりといわれ、安楽庵策伝という人はとにかく話の巧い人だったそうで、しかも話の最後に必ず落ちをつける(落ちをつけるので落語である)人だったそうだ。こうして落語の元となる節付説教と呼ばれるものが生まれ、真宗においては節談説教と呼ばれるようになる。ここから落語の他にも講談、説教浄瑠璃、説教節などが派生していく。
亀田晃巖の祖父である亀田千巖という人が節談説教の名人であり、元日と正月2日以外は説教師として日本中を飛び回っていて、追っかけがいるほどの大人気だったそうだ。
そして節談説教のために唯明寺が場所を移して再興され(東本願寺の近くにあったが、禁門の変で全焼。明治、大正を通して存在せず、昭和になって再興)、評判を聞きつけた小沢昭一や永六輔らが唯明寺にやって来て、小沢昭一は「節談説教」を覚えて録音し、レコードを残しているという。


休憩を挟んで、節談説教「親鸞聖人御一代記」より。亀田晃巖は高座に上がって語る。
まず「やむこをば預けて帰る旅の空 心はここに残しこそすれ」という和歌で入る。
京都へ帰ることを決めた親鸞。だが、親鸞を慕う関東の人達が京へと向かう親鸞の後をずっと付いてくる。次の村まで、次の村までと思うのだが、思い切れず、結局、箱根山まで付いてしまう。ここから先は関東ではない。ということで、親鸞も人々とお別れを言う。箱根山を下りたところで人々は「今生の別れ」とむせび泣く。そこで、親鸞は一番弟子の性信(しょうしん。性信坊という名で登場する)に関東に留まるよう告げる。親鸞は性信坊に道中仏を託し、「あの同行(どうぎょう。門徒のこと)の中から鬼の下に走る者が出ないよう、教えを貫くよう性信坊に伝える。涙ながらに関東に戻った性信は、関東での布教に励む。だが、その30年後、本尊である阿弥陀如来の顔が汗まみれになっているのを見て驚く。考えてみれば師の親鸞も齢すでに90。親鸞の身に何かあったに違いないと悟った性信は慌てて京に上るのだった。


最後は、「恩徳讃Ⅱ」を皆で歌って閉会となる。

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2017年3月26日 (日)

コンサートの記(286) ザ・カレッジ・オペラハウス ブリテン 歌劇「ねじの回転」2011楽日

2011年10月16日 大阪府・豊中市のザ・カレッジ・オペラハウスにて

午後2時から、大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスでベンジャミン・ブリテンの歌劇「ねじの回転」を再度観る。

ベンジャミン・ブリテンの歌劇「ねじの回転」。私はある理由で2階上手通路席を選択した。事前に掛けた電話ではチケットが取れるかどうかわからないとのことだったが、行ってみると、ちゃんとその席は確保されていた。

「ねじの回転」は一昨日も観たので、キャストや筋書きなどは割愛させて頂く。

一つ、前回は気づかなかったが、今日はわかったことがある。マイルズが歌う歌詞の中に「リンゴの木」というものが出てくる。前回は気に留めなかったのだが、今日は、「ああ、これはエデンの園、つまりアダムとイヴの物語だ」ということに気がつく。なぜ前回気がつくことが出来なかったかというと「アダムとイヴが食べたのはリンゴというのは間違いで実はイチジクである」という知識があったからである。知識は邪魔にならないというのは嘘である。知識が邪魔して見えるはずのものが見えなくなることもあるのだ。しかし、今日気づけたのもやはり「以前はリンゴとされていた」という知識があったからで、やはりこれも知識のお陰である。知識は役立つことも邪魔になることもある両刃の剣(もろはのつるぎ)である。

これがわかってしまうと、実はほとんどの謎が解ける。女家庭教師が「私は無垢を汚してしまった」と語るのは教育を施したという意味であり、なぜグロース夫人が亡霊を見ることが出来ないかというと、グロース夫人は教育を受けていないので、教養がある人なら見えていることが見えていないのである。

「リンゴの木」がエデンの園のことだとわかれば、この物語の主題が見えてくるが、その知識がなければ、主題は絶対に見えない。

主題は知性である。悪より悪なものは「知性」である。知性は人を利口にするが、狡猾にもさせる。荀子は性悪説をとなえ、教育によって善に向かうとしているがそれは本当だろうか? 話は変わるが、日本が日清戦争に勝利して台湾を領土にしたとき、台湾の住民に教育を与えるかどうかで、政府の意見は二分している。その時、「教育は両刃の剣」という言葉が使われたこともわかっている。

マイルズは実に頭の良い子供で、女家庭教師が秘密にしていたことも見抜いていて、鎌を掛けてくる。おそらく学校で悪さをしたことは本当で、それが退学処分に値するものであるということも、幼いのに分かっているのだろう。

女家庭教師にはそれまで亡霊が見えていたのにラストで急に亡霊の姿を見失うのは、マイルズへの「愛は盲目」状態になったからだろう。ただ、マイルズを救おうという知性は働いており、これがマイルズの思考を引き裂き、死に追いやったという可能性も考えられる。

頭の良い人は成功しやすいが、不幸にもなりやすいことがわかっている。「知らぬが仏」という諺もある。

ここで、発せられてはいないメッセージが私に届く。「さて、わかってしまったあなた、あなたはそれでいいのですか?」という言葉である。確かに知的に分析して面白いオペラではあるが、主題が分からずに「難解だけど怖かったね」という感想を持った方が遥かに楽しいはずである。

ただ、知性や教育の怖さは知ってはいる。現在では、勤勉であること真面目であることは当然ながら「善」とされている。何の疑問も持つ必要がないかのように思われるが、実は勤勉や真面目が「善」とされたのは産業革命以降のことで、教育によって民衆に教え込まれたことである。実は民衆を労働力として使うために洗脳する必要があったために生まれた価値観なのだ。
江戸時代には日本は世界に冠たる文化大国であり、浮世絵などがフランス絵画に影響を与えた(ラ・ジャポニズム)。しかし、明治以降は一気に文化後進国になってしまった。「富国強兵」が国策になったからである。江戸時代は商人に仕える丁稚でも「あそこの店の丁稚はろくな教養がない」と言われるのを主が嫌い、業務中であっても、当時の教養であった「笛や太鼓の稽古に行け」と主が丁稚に命じたほど文化が重視されたことがわかっており、歌舞伎の大向こうに陣取るのは仕事よりも歌舞伎を優先させる商家の主が多かったことが確認されている。

それが一気に変わる。文化よりも経済や軍事が優先。それが「当たり前のこと」と教育により洗脳される。戦後も、「まず経済を建て直そう」と文化は等閑視され、経済を建て直すための優秀なサラリーマンを増やすのが良いため、「良い高校から良い大学に行って、良い会社に入ること」が善いことだとされ、実際、そういう風に生きるのが一番楽である。そういう社会にしたのだから当然なのであるが、実はこれは落とし穴なのではないのか? 頭が良いことは本当に善いことなのか? それが「当たり前」と思うのは洗脳されたからではないのか? 重要なのは頭が良かったり高学歴であったり高収入であることではなく、幸せは本来は自分で見つけるべきものであることなのに、あたかも絶対的な「幸せ」があるように思い込まされて、思考を停止させていないか? 日本は経済大国であっても文化三流国なので実は先進国とは本当は見なされていないという話も聞く。

そうした考えが「ねじの回転」のように螺旋状にグルグル回りながら頭に突き刺さる。

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2017年3月25日 (土)

コンサートの記(285) ザ・カレッジ・オペラハウス ブリテン 歌劇「ねじの回転」2011初日

2011年10月14日 大阪府豊中市のザ・カレッジ・オペラハウスにて

午後6時30分より、大阪府豊中市にある大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウスで、ベンジャミン・ブリテンの歌劇「ねじの回転」を観る。原作:ヘンリー・ジェイムズ、指揮:十束尚宏(とつか・なおひろ)、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)、出演:井岡潤子(女家庭教師・主役)、植田加奈子(マイルズ)、高山景子(フローラ)、小西潤子(グロース夫人)、中川正崇(なかがわ・まさたか。クイント)、藤原未佳子(ミス・ジェスル)、柏原保典(かしわばら・やすのり。プロローグ語り手)。

昨日、ダニエル・ハーディング指揮の「ねじの回転」を観ているので、予習はばっちりである。

一番の注目は、ウィーンでのオペラ修行のため、長い間、日本楽壇から遠ざかっていた十束尚宏がどれだけ成長しているかであろう。

「ねじの回転」はホラー心理劇オペラである。

幕が開くと、紗幕があり、その前で語り手(柏原保典)が「これが奇妙な物語であること」「何十年も前に書かれた手記に基づくものであること」などを告げ、不気味さが増す。この手法はイギリスではよく取られるやり方で、例えばジュリエット・ビノシュ主演のイギリス映画「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ原作。音楽は坂本龍一である)でもエミリー・ブロンテが廃屋を訪れ、廃屋についての感想を語り(ナレーション形式のモノローグで画面上のエミリーが喋るわけではない)「嵐が丘」の着想を得るというシーンがプロローグ的に加えられている。小説「嵐が丘」を読んだことがない人にもこれからまがまがしい物語が始まることを知らせ、恐怖心を植え付ける工夫である。

ブリテンの音楽はDVDて聴いた時も優れていると思ったが、生で聴くと人間の心理の暗い部分をえぐり出すような不気味さが増し、明らかに天才作曲家のなせる技だとわかる。それを指揮する十束尚宏が生み出す演奏はシャープでエッジがキリリと立っている。伊達にウィーンで修行して来たわけではないことが確認出来た。

「ねじの回転」は、語り手によるプロローグの後で、女家庭教師(歌うのは井岡潤子。役名なし。原作が一人称で書かれたものだからだが、オペラ化に当たって役名が付けられることはなかった。ミュージカル「レベッカ」と同様である)がある若い紳士の依頼を受けて、ロンドン郊外のブライという田舎町に向かうところから始まる。紗幕に光が当たり、幕が透けて、列車に乗った女家庭教師の姿が見える。ここでのモノローグで、女家庭教師が依頼主に惹かれていることがわかる。

ブライの屋敷には家政婦のグロース夫人(小西潤子)と、二人の子供、つまりマイルズ(植田加奈子)とフローラ(高山景子)がいる。二人とも天使のような可愛らしさであり、マイルズは学校に通っていて学業優秀なのだが、ある日、学校から退学処分の手紙が届く。女家庭教師もグロース夫人も何かの間違いだろうと不問に付すのだが、これが実は鍵であることがわかる。この翻訳で女家庭教師は「無垢」という言葉を使い、二人の子供達を無垢だと信じ込んでおり、無垢こそが尊いと考えている節がある。だがこの上演ではマイルズが歌う歌詞の冒頭「ロト、ロト」に敢えて「悪、悪」という訳詞を入れて、どうやらマイルズが無垢な天使のようだというのは見せかけで、実は邪悪な人物なのではないかということがわかる。悪魔は元は天使が堕落した堕天使ということもある。学業優秀で退学処分になるということは実際はかなりのワルだと思われる。

このオペラには、クイント(中川正崇)とミス・ジュエル(藤原未加子)という邪悪な亡霊が現れて、一見すると、この二人の亡霊が子供達二人を悪の道へと引き込もうとしているかのように見える。が、実は逆なのではないだろうか。子供二人、特にマイルズの方が邪悪であるため、同類の亡霊を引き寄せたとも考えられる(第2幕冒頭で、二人とも「無垢なるものを手に入れたい」と歌うが、自分達がなぜここにいるのかは実はわかっていないようにも見える)。

舞台には不吉な感じのする赤い糸が垂れており、これが徐々に増えていくのだが、これはどうやら邪悪さを表しているのではないかと思われる。ラストでは主人公である女家庭教師の腰からも赤い糸は垂れる。太宰治は小説『斜陽』で「不良でない人間などいるだろうか」と書いているが、それに倣えば「邪悪でない人間などいるだろうか」ということになる。

ラストは、マイルズがクイントに「この悪魔」と言って事切れるのだが、これは悪魔に去れと言った場合、同類である自分も去らねばならないからだと思われる。いわば、自分の胸に向かって矢を射るようなもので、自殺行為である。荀子の性悪説などと言ってしまうと簡単だが、それよりも一段深く、「悪とは何か」を問いかけてくる佳作である。本も優れているが、ベンジャミン・ブリテンの音楽も人間心理を巧みに描写していて見事である。私は芸術の中では音楽が一番偉大だと思っている。他の芸術は心理を描く場合、何らかの媒体を必要とするが、音楽は心そのものを描くことが出来るからである。音楽は言葉と並ぶ人類の二大発明の一つだと私は思っている。

岩田達宗の演出で一番巧みだったのは亡霊であるミス・ジュエルの登場のさせ方。実はこれは予見出来た。というのも、劇場でレセプショニストが床にものを置いている観客に注意を促す場合は、必ず、役者がそこを通るからである。役者の足が引っかかって転倒事故が起きるのを防ぐためだ。劇場に何度も足を運んでいるとこれはわかる。
しかし、わかっていても実際に幽霊であるミス・ジュエルが目の前に現れるとゾクゾクする。本当に亡霊がいるように見えるからだ。
実はやはりイギリスの演劇でこの手法を用いた演出による舞台がある。種は明かせないので何という舞台かは書けないが、これはかなり効果的であった。私はその舞台を3度観たことがある(何だかやはり太宰治の『人間失格』の書き出しのようであるが)と書くと何という舞台かわかる人はいるかも知れない。

とまれかくまれ「ねじの回転」はデモーニッシュなオペラであり、指揮も演出も歌手達もよくそれを体現していたように思う。

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2017年3月24日 (金)

観劇感想精選(205) ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」2017大阪

2017年3月1日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後6時30分から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」を観る。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」をフランス人のジェラール・プレスギュルヴィックがミュージカル化したもの。潤色・演出は宝塚歌劇団の小池修一郎。宝塚歌劇でも上演されたことがあるようだが、今回は新演出での上演である。音楽監督は太田健。
出演は主役クラスはWキャストで、今日の出演は、古川雄大、生田絵梨花(乃木坂46)、馬場徹、小野賢章(おの・けんしょう)、渡辺大輔、大貫勇輔。レギュラー出演者は、香寿たつき、シルビア・グラブ、坂元健児、阿部裕(あべ・ゆたか)、秋園美緒、川久保拓司、岸祐二、岡幸二郎ほか。ダンサーが多数出演し、華やかな舞台となる。

このミュージカルは、「死」と名付けられたバレエダンサー(大貫勇輔)の舞踏で始まる。背後の紗幕には爆撃機と爆撃される街の映像が投影される。
「死」は常にというわけではないが、舞台上にいて出演者達に目を配っている。ロミオ(古川雄大)が失望する場面が合計3度あるのだが、その時はロミオと一緒になって踊る。ロミオに毒薬を手渡すのも「死」の役目だ。
今日は出演しない「死」役のもう一人のバレエダンサーは、連続ドラマ「IQ246」にも出演して知名度を上げた宮尾俊太郎で、宮尾が舞う日のチケットは全て完売である。

イタリア・ヴェローナ。時代は現代に置き換えられており、登場人物達はスマートフォン(セリフではケータイと呼ばれる)や動画サイトを使っている。舞台は観念上のヴェローナのようで、実際のヴェローナにはない摩天楼が建ち並び、BOXを三段に重ねたセットが用いられる。
ヴェローナを二分するモンタギュー家とキャピュレット家。モンタギュー家は青地に龍の旗をはためかせ、モンタギューの一党も青系の衣装で統一されている。一方、赤字にライオンの旗をトレードマークとするキャピュレットの一族は赤系の服装だ。
モンタギューとキャピュレットの間では争いが絶えない。特にキャピュレット家のティボルト(渡辺大輔)と、モンタギュー家のマーキューシオ(小野賢章)は不倶戴天の敵という間柄である。
ヴェローナ大公(岸祐二)が両家の仲裁に入り、「今度争った場合は刑に処す」と宣言する。

キャピュレット卿(岡幸二郎)とキャピュレット夫人(香寿たつき)は、娘のジュリエット(生田絵梨花)をパリス伯爵(川久保拓司)に嫁がせようとしていた。ロミオにいわせるとパリスは「いけ好かない成金」であるが、キャピュレット卿は借金があり、ジュリエットと結婚したあかつきには借金を肩代わりしてもいいとパリスは言っていた。
ジュリエットはこの物語では16歳という設定。本当の愛というものを知らないうちに親が決めた相手と結婚することに疑問を感じている。だが、キャピュレット夫人は、「自分は結婚に愛というものを感じたことなど一度もない」と断言する。キャピュレット夫人も親の言いなりでキャピュレット卿と結婚したのだが、夫に魅力は感じず、夫も女遊びに励んでいたので負けじと浮気を繰り返していた。
そしてキャピュレット夫人は、ジュリエットが不義の子だということを本人に告げる(このミュージカルオリジナルの設定である)。のちにキャピュレット卿は、ジュリエットが自分の子供ではないと気づき、3歳のジュリエットの首を絞めて殺そうとしたのだが、余りに可愛い、実の娘以上に可愛いので果たせなかったというモノローグを行う。

キャピュレット夫人(くわえ煙草の時が多い)は、甥のティボルトになぜ戦うのか聞く。ティボルトは、「人類はこれまでの歴史で、どこかでいつも戦ってきた」と人間の本能が戦いにあるのだという考えを示す。キャピュレット夫人は愛の方が重要だと主張するがティボルトは受け入れない。

一方、ヴェローナ1のモテ男であるロミオは、数多くの女を泣かせてきたが、今度こそ本当の恋人に会いたいと願っている。マーキューシオやベンヴォーリオに誘われて、キャピュレット家で行われた仮面舞踏会にロミオは忍び込む。パリス伯爵に絡まれていたジュリエットだが、ロミオと出会い、互いに一目惚れで恋に落ちる。だが、ロミオの正体がばれ、パリス伯爵との結婚が急かされるという結果になってしまう。

バルコニーでジュリエットが、「ロミオあなたはなんでそんな名前なの?」という有名なセリフを語る。ロミオがバルコニーに上ってきて、二人は再会を喜び、「薔薇は名前が違ってもその香りに変わりはない」というセリフを二人で語り上げる。

ティボルトもまた従妹であるジュリエットに恋していた。ティボルトも15歳で女を知り、それ以降は女に不自由していないというモテ男だったのだが、本命はジュリエットだった。日本の法律では従兄妹同士は結婚可能なのだが、キャピュレット家には従兄妹同士は結婚出来ないという決まりがあるらしい。
ティボルトはこれまで親の言うとおり生きてきたのだが、それに不満を持つようになってきている。ただ、自由に生きることにも抵抗を覚えていた。

一方、モンタギュー家のロミオ、ベンヴォーリオ、マーキューシオも大人達の言うがままにならない「自由」を求めており、自分達が主役の社会が到来することを願っていた。いつの時代にもある若者達の「既成の世界を変えたい」という希望も伝わってくる。

バルコニーでの別れの場。ジュリエットは父親から「18歳になるまではケータイを持ってはならない」と命令されており、ロミオと連絡を取る手段がない。ジュリエットはロミオに薔薇を手渡す。「明日になっても気が変わらなければ、この花を乳母(ジルビア・グラブ)に渡して」と言うジュリエット。ロミオは勿論心変わりをすることなく、訪ねてきた乳母に薔薇の花を返す。かくして二人はロレンス神父(坂元健児)の教会で結婚式を挙げる。フレンチ・ミュージカルであるため、フランス語で「愛」を意味する「Aimer(エメ)」という言葉がロミオとジュリエットが歌う歌詞に何度も出てくる。

二人の結婚の噂が流れ、街では、「綺麗は汚い、汚いは綺麗」という「マクベス」のセリフを借りた歌が流れる。「顔は綺麗と思った女性でも」という意味である。

再びモンタギューとキャピュレットの諍いが起こる。マーキューシオがティボルトとの戦いに敗れて死に、その腹いせでロミオはティボルトを刺し殺してしまう。ヴェローナ大公はロミオにヴェローナからの永久追放を宣言するのだった。


常に人々を見下してきた「死」が、ラストになって敗れる。ロレンス神父がジュリエットに死んだようになる薬を手渡したことをロミオにメールするのだが、ロミオはケータイをなくしてしまっており、事実を知らないまま「死」から手にした毒薬で自殺し、それを知ったジュリエットも短剣で胸を突き刺して後を追う。ここまでは「死」のシナリオ通りだったのだが、ロミオとジュリエットの愛に心打たれたモンタギュー卿(阿部裕)がキャピュレット卿と和解。ロミオとジュリエットの名は後世まで残るものと讃えられる。ロミオとジュリエットの死が愛を生んだのだ。「死」は息絶える仕草をし、ここにおいて愛が死に勝ったのである。


楽曲はロック風やクラブミュージック調など、ノリの良いナンバーが比較的多く採用されている。拍子自体は4分の4拍子や4分の3拍子が多く、リズムが難しいということはない。
ベンヴォーリオがのぼせ上がったモンタギュー一族をなだめる場面があり(「ロミオとジュリエット」を翻案した「ウエスト・サイド・ストーリー」における“クール”の場面のようである)、これまたベンヴォーリオがマントヴァ(この劇では売春街という設定になっている)に追放されたロミオを思って一人語りをしたり伝令も兼ねたりと、ベンヴォーリオは原作以上に重要な役割を与えられている。


2013年のミュージカル「ロミオ&ジュリエット」でもロミオを演じた古川雄大は安定した歌と演技を披露する。
ジュリエットを演じた乃木坂46の生田絵梨花はミュージカル初挑戦であるが、実力はあるようで、すでにオーディションを突破しなければキャスティングされないミュージカル「レ・ミゼラブル」にコゼット役での出演が決定している。生田絵梨花はピアノが得意で日本クラシック音楽コンクール・ピアノ部門での入賞歴があり、現在は音楽大学に在学中。ということでソニー・クラシカルのベスト・クラシック100イメージキャラクターも務めていたりする。演技はやや過剰になる時もあるが、歌は上手いし、筋は良い。
ティボルト役の渡辺大輔とマーキューシオ役の小野賢章も存在感があって良かった。

カーテンコールは3度。最後は大貫勇輔が客席に向かって投げキッスを送りまくり、笑いが起こっていた。

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2017年3月23日 (木)

コンサートの記(284) 下野竜也指揮読売日本交響楽団大阪定期演奏会2017・3月

2017年3月9日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、読売日本交響楽団の大阪定期演奏会を聴く。指揮は今月いっぱいをもって読響の首席客演指揮者を離任する下野竜也。下野は来月から広島交響楽団の音楽総監督に就任する予定である。

曲目は、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番(ヴァイオリン独奏:アレクサンドラ・スム)、ブルックナーの交響曲第7番(ハース版)。

今日の読売日本交響楽団のコンサートマスターは、元大阪フィルハーモニー交響楽団コンサートマスターの長原幸太。ドイツ式現代配置での演奏である。


モーツァルトは室内オーケストラ編成、ピリオド・アプローチでの伴奏。今日は一番高い席と一番安い席がソールドアウトであったが、私は一番安い3階6列目の下手端席。この席からだと室内管弦楽団編成によるピリオドの伴奏はかなり小さく聞こえる。
下野はこの曲はノンタクトで指揮した。

真っ赤なドレスで登場したアレクサンドラ・スム。ロシア出身。ウィーンに学び、現在はパリ在住のヴァイオリニストである。京都市交響楽団の定期演奏会に客演したときには、「これは凄いヴァイオリニストが現れた」と喫驚したものだ。2013年1月に創設された、ベネズエラ発音楽教育のフランス版「エル・システマ・フランス」で後進の育成にも当たっているという。
1989年生まれとまだ二十代の若い奏者であり、ウィーンで学んでいるため、当然ながら古楽奏法も学んでいると思われ(ロシア国内では古楽奏法教育が進められているという話は聞かない)、彼女もまた、ロマン派以降を弾くときとは違うスタイルのようだ。
ということで、最初は音が小さく聞こえ、「今日はあんまり楽しめないのかな」と思ったが、次第にこちらの耳も慣れる。音の情報量が豊かであり、琥珀の輝きを思わせるような美音だ。
第1楽章のカデンツァはおそらくイザイのものを使用。第2楽章のカデンツァでは溢れんばかりの音楽性を披露する。

アンコール。スムは、「こんばんは」と日本語で挨拶し、「ありがとうございました」と日本語で続けた後、「イザイ(実際には欧州での発音に近い発音だった)ソナタ第2番(少し日本語を思い出しながら)第4楽章」と全て日本語で言って演奏開始。モーツァルト演奏時とは一転して情熱的でスケール豊かな演奏だが、それ以上に特筆されるのが弱音の美しさ。イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタは彼女の十八番だというが、一度、全曲聴いてみたいものである。


ブルックナーの交響曲第7番。ハース版の楽譜を使用しているが、無料パンフレットに「指揮者の判断により(打楽器が)採用される」と書かれており、ティンパニ奏者の他に打楽器奏者が二人座っているのが見えたので、シンバルとトライアングルも鳴らされるのだと予想できる。ハース版では基本的にはクライマックスでの打楽器演奏は行われないが、ハース版でも打楽器を絶対に用いてはいけないということはないようである。ブルックナーの交響曲第7番は初演が自身初の大成功となり、ブルックナーも歓喜したというが、第2楽章のクライマックスに関しては「うるさすぎる! 恥を知れ!」という批判もあったそうで、打楽器の使用が「無効」とされた譜面が存在。ハースはブルックナー自身が「無効とした」として打楽器不採用。ノヴァークは「無効の筆跡がブルックナーではなく第三者のもの」として、打楽器を入れるよう校訂している。

読売日本交響楽団は弦楽器が全体的に美しく、特にヴァイオリンの音は輝きがあって心地よいが、管楽器はミスが目立ったり、合奏が微妙にズレたりと調子は今ひとつ。読響はフェスティバルホールのような巨大な空間(ステージも広く、今日もフル編成なのに下手も上手もスペースにかなり余裕あり)で演奏する機会は少ないので、そのことも影響しているのかも知れない。読響は2016年度から大阪定期演奏会の会場をザ・シンフォニーホールからフェスティバルホールに移したが、モーツァルトも含めて今日のような演奏なら、フェスティバルホールではなくザ・シンフォニーホールの方が合っているようにも思う。今日は少なくとも「フェスティバルホールを鳴り響かせた」とはいえない演奏であった。
 
下野はしっかりとしたフォルムを築き上げていたが、もう少しスケールを拡げることも彼なら可能であるような気もした。

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2017年3月22日 (水)

楽興の時(15) 「小澤征爾音楽塾オーケストラメンバーによるロビーコンサート」2017年3月18日

2017年3月18日 左京区岡崎のロームシアター京都2階共通ロビーにて
午前11時から、左京区岡崎にあるロームシアター京都の2階共通ロビーで、「小澤征爾音楽塾オーケストラメンバーによるロビーコンサート」を聴く。無料である。

演奏されるのは、サラサーテの「ナヴァラ」、ヘンデルの「パッサカリア」(ハルヴォルセン編曲)、久石譲の「いのちのなまえ」(映画「千と千尋の神隠し」より)、ガルデルの「ポル・ウナ・カベーサ」、簫泰然の「望春風」、ボロディンの弦楽四重奏曲第2番より第1楽章。

サラサーテの「ナヴァラ」は大藪英子(おおやぶ・えいこ)と尼﨑有実子(あまさき・ゆみこ)という日本人女性ヴァイオリン奏者二人、ヘンデルの「パッサカリア」は韓国人女性二人(ヴァイオリンのソン・アインとチェロのイ・セイン)、久石譲とガルデルと簫泰然は台湾出身の弦楽四重奏(1stVn:黄鈺婷、sndVn:李盼盼、Va:蔡孟珊、Vc:劉宛瑜)、ボロディンは京都市立芸大学在学中の女学生(のカルテット(1stVn:櫃本樹音、2ndVn:髙田春花、Va:江川菜緒、Vc:櫃本瑠音)による演奏である。韓国人や台湾人は名前の表記を見ても男性か女性か分からないのだが、今日は全員女性で、男性奏者は一人も参加していなかった。
若い人達のみによるコンサートであるが、オーディションを勝ち抜いた人達ばかりということもあり、実力者揃いである。楽器も良いものを使っているのだと思われるが、とにかく音が美しい。艶と張りがあり、並みの演奏家のそれとは段違いである。メカニックに関しても問題は一切ない。

小澤征爾音楽塾は今年はビゼーの歌劇「カルメン」を上演。「カルメン」の舞台はスペインで、サラサーテはスペイン人。ということで「ナヴァラ」が選ばれたと大藪英子が語る。「ツィゴイネルワイゼン」は午前中から演奏するには重いというので避けたようである。「ナヴァラ」は軽快で美しい曲だ。


ヘンデルの「パッサカリア」。イ・セインが「アンニョンハセヨ」と韓国語で挨拶をした後で英語でスピーチ。「日本語は喋れないのですがトライしてみたいと思います」と英語で言い、ソン・アインが紙を手に日本語で挨拶と楽曲紹介を行った。


台湾人のカルテットは、黄鈺婷が「おはようございます」と日本語で挨拶をした後で、英語でスピーチ。その後を受けて、蔡孟珊も英語でスピーチを行った。

ガルデルの「ポル・ウナ・カベーサ」は、ハバネラのリズムの曲であり、そのために選ばれたようである。


ボロディンの弦楽四重奏曲第2番第1楽章は「伊右衛門」のCMで使われて有名になった曲。第1ヴァイオリンとチェロは共に櫃本(ひつもと)という珍しい苗字であり、実の姉妹だと思われる。樹音(じゅね)と瑠音(るね)というフランス風の名前なので、ご両親がフランス好きなのだろう。


日韓関係は悪化しているし、中国と台湾の両岸問題も進展していないが、音楽に国境はないことが感じられて嬉しかった。

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2017年3月21日 (火)

連続テレビドラマ「カルテット」のためのメモ集成

2017年1月30日
録画してまだ見ていなかったTBS系連続ドラマ「カルテット」第1話を見てみる。坂元裕二の脚本だけあって安定感がある。出演は、松たか子、松田龍平、高橋一生、満島ひかり、イッセー尾形、八木亜希子、吉岡里帆、菊池亜希子、もたいまさこ他。

小さな声で話すヴァイオリニストの巻真紀(まき・まきという洒落のような名前。演じるのは松たか子)を巡るミステリー仕立ての作品である。私も小さな声でしか話せないのだが、理由は色々ある。そのことが鍵になるのかどうかは第1話ではまだわからない。

音楽家達の話だが、状況はシビアだ。プロとしての演奏経験があるのは真紀だけ。後は、おそらく縁故で入った会社員、美容院のバイトリーダー(美容師免許なし)、フリーの売れない音楽家など、夢からは遠い状況にある人ばかりである。
松田龍平演じる別府司の祖父が偉大な指揮者ということで、軽井沢にある別府家の別荘で話は進むのだが、ハイソな環境で現実は中和されているものの苦しさは皆自覚している。
 

2017年2月1日
録画しておいた連続ドラマ「カルテット」の第2話を見てみる。言葉の綾や行動の背景を探る心理劇である。面白く見ることが出来るのだが、そもそも心理劇というものはある程度の知的レベルがないと楽しめないものである。子供や精神が子供の人が面白いと思うのかどうかはわからない。
 

2017年2月10日
録画しておいた連続ドラマ「カルテット」の第3話を見てみる。世吹(旧姓:綿来)すずめ(満島ひかり)の父親(作家で明治学院大学教授の高橋源一郎が演じている)の死が迫っている。父親が入院しているのは千葉市立青葉病院(実在する)。すずめの過去の傷が明らかになっていく。
今のところ、ほぼ全員が丁寧語で会話をしており、心の垣根の高さが感じられる。悪女と思われる人が何人も出てくるのだが、吉岡里帆演じる有朱(子供の頃のあだ名は「淀君」だったという)が一番の悪女のようでもある。
 

2017年2月17日
録画しておいた連続ドラマ「カルテット」の第4話と第5話を見る。夢見る負け組達の話路線。世相を反映していてリアルだ。ただ、登場人物達の微妙なズレが笑いをも生んでいる。
第4話のラストで吉岡里帆演じる有朱(ありす)が本格的に悪女の本性を露わにし始める。子供の頃から女王様気質で、元地下アイドルながら今は料理店の店員というストレスがたまりそうな設定が伏線としてちゃんと張られている。吉岡里帆は好演だが、女優としては駆け出しだけに、「目が笑ってない」といわれる女性を演じるのに十分かというと、現時点ではそうではないだろう。目の表情に関しては松たか子の方がずっと上手い。なんといっても松たか子は歴史に残る女優だろうし。
松たか子演じる巻真紀の失踪した夫について、真樹から有朱が聞き出そうとする場面。吉岡里帆は良い演技を見せたが、それを上回ったのが綿来すずめを演じる満島ひかり。満島の演技はそう簡単に出来る種類のものではないと思う。
 

2017年2月21日
「カルテット」第6話を見る。真紀(松たか子)の夫である巻幹生(宮藤官九郎)が本格的に登場。これまで真紀の夫に関する情報は伏せられていたため、前回、それを演じるのが宮藤官九郎だと分かったときは、「絶妙のキャスティング!」などと話題になった。巻と真紀の結婚生活の回想が今回のメインとなる。仕事を通して真紀と知り合った巻は、巻について、音楽をやっていて上品で今まで会ったことのないタイプだと思ったのだが、いざ結婚してみるとヴァイオリンは止めてしまい、映画には疎く、自分がプレゼントした詩集にはなんの興味も示さないことで「彼女も普通の人だったんだ」と失望を深めていく。一方で真紀は平凡な主婦になれたことに喜びを見いだしていた。完全なすれ違いによる破局パターンである。真紀ははなぜ別れることになったのかについての自覚はないが、巻は「愛しているけど好きじゃない」「もう好きじゃなくなった」と人にハッキリと語ることが出来る。巻は元カノに「よっぽど価値観が合うか器が大きくないと結婚なんて出来ないでしょ」と言われる。

ただこの巻、予想以上の食わせ物であったことから、ストーリーが大きく変わっていきそうである。

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笑いの林(85) 「宮村優子×桜 稲垣早希プレゼンツ in 大阪!」

2017年3月4日 大阪・弁天町の世界館にて

JR弁天町駅から北へ。安治川沿いにある世界館という劇場で、「宮村優子×桜 稲垣早希プレゼンツ in 大阪!」の2回公演を観る。一帯は工業地帯で、それ以外のものはほとんどない。世界館も元々は倉庫だったものを改修し、入り口付近のファサードをお洒落にして、2004年に劇場としてオープンしている。プロレスの会場になってりしているようだ。
「宮村優子×桜 稲垣早希プレゼンツ」公演は今回が3回目。初回は昨年初めに、二人の出身地である神戸で行われ、2回目は東京で開催された。神戸公演では、みやみーこと宮村優子は旦那の悪口ばかり言っていたが、その後、離婚している。

第1部は正午開演の公演で、「みやみー&さきの部屋~お昼は楽しくおしゃべりの回」でトークショー。第2部が午後5時開演の公演で、「みやむー&さきの部屋~夜はわいわいゲームの回~」でゲームコーナーである。

第1部は、二人とも私服で登場。まずは早希ちゃんが、「3回目ですが、全部来ているという人」と聞く。結構いる。次いで、「今日が初めての人」と聞くとこれもまあまあいる。宮村優子が、「どうも宮村優子です」と自己紹介をし、早希ちゃんが、「それはみんな知ってます。知らないで来ている人がいたら頭おかしい」と突っ込む。

アスカのコスプレで来ている、早希ちゃん公演常連の女の子がいるのだが、早希ちゃんと宮村優子に発見して貰い、声を掛けられたので嬉し泣きしていた。

まずは「ババ抜きトーク」。二人とも相手に話して欲しい話題を5つ用意して紙に一枚ずつ書き、ババ抜きの要領で引いて、トークを行うというもの。
早希ちゃんが先攻で引く。お題は「ハマっているもの」。早希ちゃんはYouTubeにハマっているそうで、自身も公式YouTubeチャンネルを立ち上げて、有名YouTuberのHIKAKINさんを真似したサキキンというキャラクターを演じている。サキキンは極端なぶりっこ&ナルシストキャラなのだが、早希ちゃんを知らない視聴者から叩かれまくっているそうで、「ボケ、ブス、シネ!」と早希ちゃん曰く「覚えやすい」暴言で罵られているそうだ。アスカの子だと知っている人でも、「アスカじゃない時はこういう子なんだ」と思い込んで、「ぶりっこは嫌われますのでやめた方がいいですよ」と心配してメッセージを書き込んでいるという。
宮村優子は、いつも下に小さい文字で「本当に聞きたい質問」を書いており、「早希ちゃんの属性はSですか? Mですか?」と聞いている。宮村優子はずっと「自分はMだ」と思って生きてきたのだが、最近になって「あれ? Sじゃない?」と気づいたそうである。「早希ちゃんは、いじめるのが好き? いじめられるのが好き?」と聞かれた早希ちゃんは、「その言葉にゾクゾクしているのでMです」と言うも、「Mの女の方がモテる」とも言って、「一応M」ということにしておく。宮村優子は、「男性はMの方が多いらしい」と言っていたのが、そうなのか?
宮村優子が引いたのは、「最近、日本の焼きそばがおかしいので食べてみて」。カップ焼きそばの味が妙なことになっているそうで、昨年のクリスマスには「ショートケーキ味」、今年のバレンタインデーには「チョコレート味」、そして今は「納豆味」が出ているそうである。「ショートケーキ味」と「チョコレート味」は今は手に入りにくいそうで、わざわざ取り寄せたそうだ。

スタッフが、裏でカップ焼きそばを作っている間に、早希ちゃんに二つ目の質問、「何フェチですか?」。早希ちゃんは「首フェチ」だそうで、うなじを見るのが好きだそうである。男性が物を落として拾おうとして屈んだときに見える首の裏側をガン見するそうだ。女性のうなじが素敵なのはわかるのだが、男のうなじについてはよくわからん。「ホクロがあるとなおいい」と言っていたが、こちらはなんとなくわかる。南野陽子もホクロがなかったら魅力半減だろうし。泣きぼくろがチャームポイントという女性も多い。ついでに、「お風呂に入ったとき体のどこから洗いますか?」とも小さい字で聞いていた。
宮村優子は長風呂で1時間ぐらい入っており、体は洗わないそうである。彼女は現在もオーストラリア在住なのだが、オーストラリアのバスタブは浅くてすぐに冷めるのでずっとお湯を入れ続ける必要があるそうだ。子供二人も入れるので長くなるという。早希ちゃんが、「人妻」と言いかけて止め、宮村優子は「シングルマザー」と言った。

できあがったカップ焼きそばの試食。劇マズで、早希ちゃんは一口食べるのが精一杯だったが、みやむーは「まずくはない」と言って、全て一口以上食べていた。宮村優子は自分で、「バラエティーではおいしくないタイプ?」と言い、早希ちゃんも「ちょっとおかしいです」と言っていた。

宮村優子への質問2つ目は、「ハマっているもの」でかぶってしまう。みやみーはマンガが好きなのだが、オーストラリアでも買える電子書籍版は、以前は紙の書籍に比べると半年遅れで刊行されていたそうで、「ONE      PIECE」などは早く続きが読みたくなるため、日本に帰った際にまとめ買いしていたのだが、重いしかさばるので苦労していたという。だが、今は単行本と電子書籍がほぼリアルタイムで出るようになったそうだ。ちなみに宮村優子はアニメは見ないそうである。アニメを見ていると、声優さんがスタジオで今どんな作業をしているのか、スタッフがどう工夫しているのかがわかって映像が浮かんでしまうため、集中できないそうである。一種の職業病である。
なお、宮村優子が遠山和葉役で出演している「名探偵コナン」の最新映画が来月公開されるそうである。

早希ちゃんへの3つ目の質問。「他の芸人との関係」。後輩芸人の堀川絵美が「エヴァンゲリオン」もろくに見たこともないのに、綾波レイならぬデブ波レイをネタでやっているのだが、「知れ渡る前にやめさせます」と言う。吉本の女芸人は毎年ひな祭りの日に、今いくよ・くるよ師匠が開催するひな祭り会を開いているそうで、いくよ師匠が他界してからは、くるよ師匠一人が主催しているという。そこで、シルク師匠から、「癌にならない食事法」を伝授されたそうで、3つのものを避けると良いと言われたのだが、宮村優子が3つとも当ててしまったため(よく知られている種類のものである)「あれ? 私だけ知らんかったんかな? 結構みんな、『おー!』て言ってたのに」と訝しむ。まあ、フードファディズムになりかねないので信じるかどうかは自分で決めるしかない。
川絵美はまだ芸歴が浅いので、まだくるよ師匠に存在を知られておらず、ひな祭り会に呼ばれたことはないそうである。早希ちゃんは「(「くるよ師匠に)知られる前に(レイを)やめさせます」とも言う。

USJのエヴァンゲリオンに行ったことがあるかどうかという質問もある。みやみーは昨日、USJに行ってエヴァを体験してきたそうだ。早希ちゃんもみやみーに「一緒に行こう」と誘われたのだが、営業の仕事が1本入っていて行けなかったという。やはり職業病が出て、アスカのセリフが聞こえるとアスカモードになってしまい、ついセリフを口にしてしまうそうで、隣のお客さんは双方向からアスカの声がするため、「???」状態になっていたという。ちなみに、USJでは宮村優子本人だとは気がつかれなかったそうで、エヴァグッズを3つ買ったのだが、「『エヴァンゲリオン』、お好きなんですね」と笑顔で言われたとのこと。まさか本物の声優が目の前にいるとは誰も思うまい。

ここで、ラスト。「好きなタイプは?」を無理矢理「好きなたこ焼きのタイプは?」に変えて、舞台上にたこ焼き器が置かれ、タコではない具を入れたたこ焼き作りが始まる。宮村優子が「音楽はないのかな?」と言ったためBGMがかかるが、音源を用意していなかったため、たこ焼き作りには不似合いなビーチボーイズの「サーフィンU・S・A」が流れていた。
「よっちゃんイカ」、「サクランボ」、「グミ」(以上、みやむー持ち込み)、「ミニトマト」、「フリスク」、「グミ」(以上、早希ちゃん持ち込み)を入れたたこ焼き。当然、美味しくなるはずはないのだが、宮村優子は「まずいけど平気」だそうである。
ラストと言いつつ焼いている間に、宮村優子が質問に答えることになった。「これまでで一番笑ったことは?」。宮村優子はお笑い好きだそうで、和牛や銀シャリがお気に入りだという。大阪吉本と東京吉本の芸人についてであるが、テレビを見ていても東京の芸人なのか大阪の芸人なのかは意識せず、大阪で見ていた芸人が東京のお笑い番組で見ないのに気づいて、「ああ、大阪の芸人さんだったんだ」と思う程度だそうだ。
ちなみにアニメ芸人は大半が東京在住で、大阪にいるのは早希ちゃんと南斗水鳥拳のレイ(がっき~)だけだそうである。「レイ違い」だそうだ。なお、二人とも苗字は稲垣である。


第2部までの間、時間を潰さねばならないのだが、弁天町というのは本当にオーク200しか行く場所がない。取り敢えずオーク200にあるカフェで昼食を食べ(カサブランカという店名なのに、ギリシャのミコノス島の絵が飾ってあるという、コンセプトのよくわからない店であった)、書店やら映画のポスターが飾ってあるコーナーやらを見て回る。弁天町付近も少し歩いてみたのだが、「危険」という感じはしないものの、「夜はまずそうだ」という雰囲気がある。よく似た雰囲気の他の場所は思いつかないが、敢えて挙げるなら西池袋に少しだけ近いかも知れない。

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2017年3月20日 (月)

観劇感想精選(204) 「お気に召すまま」

2017年2月7日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「お気に召すまま」を観る。「人生は舞台、人はみな役者に過ぎぬ(今回の公演では、「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」という訳であった)」というセリフで有名な作品である。昨年が没後400年に当たったウィリアム・シェイクスピア。今年は様々なシェイクスピア作品が上演される。
白水社から出ている小田島雄志翻訳のテキストを使用。演出:マイケル・メイヤー。出演:柚希礼音(ゆずき・れおん)、橋本さとし、ジュリアン、横田栄司、伊礼彼方(いれい・かなた)、芋洗坂係長、平野良、平田薫、入絵加奈子、古畑新之(ふるはた・にいの)、武田幸三、新井将人、俵木藤汰(たわらぎ・とうた)、青山達三、マイコ、小野武彦ほか。音楽:トム・キット。

舞台を1967年のアメリカに移しての上演である。ということで、オーランドー(ジュリアン)やオリヴァー(横田栄司)、フレデリック(小野武彦)、アダム(青山達三)などは背広を着て登場する。ロザリンド(柚木礼音)やシーリア(マイコ)も、最初はフラッパーのような格好で登場する。

元宝塚歌劇団男役トップの柚木礼音の主演ということで、客席には宝塚ファンの女性が多い。

セットは、パルテノン宮殿を思わせるエンタシスの柱数本に三角形の屋根。アメリカの首都ワシントンD.C.という設定だという。アーデンの森はヒッピー達の祭典サンフランシスコのヘイトアシュベリーを起点に起こったムーブメント「サマー・オブ・ラブ」に置き換えられており、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア(カリフォルニア・ドリーミン)」が流れて、セットがサイケデリックなものに変わる。ギター、エレキベース、キーボード、チェロの生演奏があり、アミアンズ役の伊礼彼方はギターの弾き語りを行う。

「お気に召すまま」は、長兄のオリヴァーから冷遇され、ろくに教育も受けることが出来なかった末弟のオーランドー。フレデリックから追放された前公爵など、抑圧された存在が登場するのだが、なぜか皆、瞬く間に仲直りという、不思議な展開を見せる。

今回の舞台では、オーランドーとチャールズ(武田幸三)が戦うのは相撲やレスリングではなく、総合格闘技となっている。

父の追放を悲しんでいるロザリンド。親友でフレデリックの娘であるシーリアはロザリンドに従妹としてまた友人としての絶対的な愛を語り、慰める。格闘技の試合に勝ったオーランドーを見たロザリンドは一目で恋に落ち、銀のブレスレットをプレゼントする。オーランドーもロザリンドに惚れていた。

だが、オリヴァーの不興を買ったオーランドーは、今回はヘイトアシュベリーということになっているアーデンの森に執事のアダムと共に逃げ込む。アーデンの森にはロザリンドの父親である前公爵(小野武彦二役)もいた。フレデリックから追放を宣告されたロザリンドは自らもシーリアと共に森に行くことにする。ロザリンドは「女同士では危険。だが私は普通の娘としては背が高い方だから、男装しようと思う」としてギャニミードという男性名を名乗り、シーリアはギャニミードの妹であるアリーナということにして、道化のタッチストーン(芋洗坂係長)とを連れて森に向かう。

オーランドーは空腹で倒れたアダムのために、公爵が率いるヒッピーの一団を襲うが、彼らの落ち着いた態度に己の行為を恥じ、ヒッピー達と行動を共にするようになる。またオーランドーは森の木という木に、七五調と韻を駆使した恋文を紙に書いて張っていく。

森の別の場所では老いた羊飼いのコリン(俵木藤汰)が、若き羊飼いであるシルヴィアス(平野良)の女羊飼いフィービーへの思いを感じているのだが、フィービーはシルヴィアスを相手にしない。コリン達とシルヴィアスの姿を見たギャニミードとシーリア。ギャニミードは更にオーランドーの恋文も発見する。韻を踏んでいることに感心するギャニミードであったが、タッチストーンは「簡単だ」と言って、韻文を作ってみせる。
オーランドーが現れる。ギャニミードは男装していたので自分の正体が女のロザリンドだと知らせることはなく、「女の心に通じた男」としてオーランドーに女の口説き方をアドバイスし、「自分をロザリンドだと思って接して欲しい」と言って、シミュレーションをたっぷり味わう。だが、フィービーもギャニミードに恋してしまい……。

実は、オーランドーとロザリンドが妙なやり取りをしている一方で、アリーナに扮したシーリアとオリヴァーは一目で恋に落ち、タッチストーンはオードリーというおつむの少し弱い女(入絵加奈子)を見つけて恋仲になろうとしているのである。オーランドーとロザリンドの恋だけが回り道をしていることになる。恋について語る役割でもあるといえるのだが(オーランドーが「恋のために死にたい」というと、ロザリンドに扮したギャニミード正体はロザリンドというややこしい人物が、「人類の歴史は6000年あるが、これまで恋で命を落とした男はいない」と答えるなど)。

「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」というセリフを語るのは、オーランドーの次兄・ジェークイズ(橋本さとし)である。オーランドーから「憂鬱病」と称される彼は、「お気に召すまま」の登場人物の中でかなり異色の存在である。恋の物語になぜ厭世家が紛れ込んでいるのか。ジェークイズを見ていると、「お気に召すまま」が単なる喜劇には見えなくなる。
時について語られる場面がいくつかある。オーランドーやギャニミードのセリフに出てくる。だが、時について最も語られるのがジェークイズの「この世界はすべてこれ」で始まるセリフの後半である。人間には7つの時代があるとされる。「赤ん坊」「子供」「恋する若者」「軍人」「裁判官」「老人」「そして再び赤ん坊。忘却へと帰る」。いずれも良いイメージでは語られない。これは何を意味するのか。
恋する人達の中で厭世家のジェークイズが滑稽に浮かぶ上がるという説もあるが、少なくとも今回の上演ではそうは思えない。ジェークイズは精神的に老いた男で恋する若者達を俯瞰で見ているのか。あるいはジェークイズは未来の視点からヒッピー達を見ているのか。
1967年のアメリカに設定が変わっていることを考えれば、その後のアメリカ史と重ねているという解釈も出来る。1969年のウッドストックで、音楽のムーブメントは変わり(イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」ではそのことが暗示されているとされる)、ベトナム戦争は1975年にアメリカ建国以来初の負け戦として終わる。

マイケル・メイヤーの演出は、俳優にかなり細かな演技をつけたもので、「カッチリした」という言葉が一番ピッタリくる。日本人がやっているとお堅く見えるレベルだ。
また音楽を多用して賑やかな舞台にしており、政治都市ワシントンD.C.から離れた理想郷(一種のカウンターカルチャー)を企図しているように思う。

ラスト(エピローグ)のロザリンドの口上は、柚木礼音が歌を加えて披露した。

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