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2006年6月の21件の記事

2006年6月30日 (金)

扁桃体の反乱

扁桃体は脳の視床下部に連結した神経核であり、感情を司るとされる。

好き嫌いなどの感情も扁桃体から生まれるが、扁桃体の最大の役割は恐怖に関するものだ。恐怖を感じ、それに体が対応出来る(敵が来たなら心拍数を上げたり、注意力を喚起させたりする)よう視床下部に連絡することが扁桃体の最大のレーゾン・デートルである。

しかし、扁桃体の性質は太古より変わっていないため、現代社会においては扁桃体は不適応をもたらす最大の原因ともなっている。

現代のようにストレスが連続する社会では、扁桃体は常に緊張した状態にあり、そのことによって感情に乱れが生まれて、鬱病、パニック障害を始めとする心身症を生み出す結果となっている。

現代人の二人に一人が何らかの(顕在、潜在を含めて)心理的不調を抱えているとされるが、人間本来の機能に、社会の方が重圧をかけ、結果、心身を守るはずの扁桃体が反乱を起こして、人間を死へと近づけているのだ。

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2006年6月29日 (木)

暑い夏に食べる水ようかん

気温が上昇すると体温も上がるため、人は冷たい飲み物や食べ物を欲する。

冷たい食べ物というとアイスがまず思い浮かぶ。確かに冷たくて暑い夏に最適の食べ物のように思えるが、冷たすぎて胃腸に負担を掛ける上に、冷たさそのものは余り持続しない。

体の内側から涼感を得るには冷えた水ようかんを食べるのが一番良いそうだ。水ようかんはアイスに比べてはるかに腹持ちがする上、冷たすぎないので体にも良いという。

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大切なこと

大切なことは非常にシンプルである。あまりにシンプルすぎて取っかかりがなく、それが何で、どうすればいいのかわからないほどだ。

シンプルさとは、頭を空にして口を半分開けてボーっとしていても感受出来るものではない。複雑な手続きを経て、やっと見出せるものである。

単純な手品ほど人は騙されやすい。それと同じで、大切なことはシンプルすぎて見えにくい。瞳には映っているのだが、意識はそれを補足出来ない。

「なーんだ、こんな簡単なことだったのか」と、気づいた時にはそう思う。だが、簡単であるということは極めて難しいことだと、その時、思い知らされるのだ。

(2006年6月29日、DVDで映画「マグノリア」を観て)

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2006年6月28日 (水)

紫陽花の頃

紫陽花

京都は今、紫陽花が盛りを迎えています。紫陽花の花言葉は、「移り気・高慢・忍耐強い愛」だそうで、お高くとまった人を真剣に愛してしまった苦しみを伝えるかのようですね。移り気という花言葉になったのは、紫陽花が色を変える花だからでしょう。ところで、紫陽花といえばカタツムリというイメージがあるのですが、そういえば最近、カタツムリを見なくなったような。私が子供の頃は梅雨の時期になると、そこここにカタツムリが現われたものですが。

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2006年6月27日 (火)

自動販売機に文句は言えない

暑い日が続いている。熱中症を防ぐために、適宜水分を補給する必要がある。

ということで、清涼飲料水の自動販売機を見つけ、「アクエリアス」ボトルのボタンを押す。が、出て来たのは、「紅茶花伝 ロイヤルミルクティー」の缶であった。ちなみに「アクエリアス」は自動販売機の一番下の段、「紅茶花伝 ロイヤルミルクティー」は同じく最上段にある。押し間違えようがない。自販機のトラブルである。
紅茶は好きだが、普段はストレートティーとレモンティーしか飲まない。ミルクティーはあまり好きではないのだ。しかし、飲まないわけにはいかない。喉も渇いているし、自動販売機に文句は言えない。

今は減ったけれど、ちょっと前までは「当たり付き自動販売機」というものが多くあった。運が良いともう1本ただでついてくるというものだ。これも喉が渇いて渇いてどうしようもなかったり、鞄を持っての移動中だったりするとそれなりに得した気分になれるのだが、手ぶらで歩いている時や、もう1本飲みたいほど喉が渇いているわけではないときは逆に困ったことになる。冷えた缶を手に持って歩くのは邪魔だし、当たった1本を取らずに帰ると後の人が不審がるので迷惑をかけることになる。かといって2本飲むほど胃袋に余裕はない。

でも結局は飲むしかないので、その場で2本飲むことになってしまう。後で腹の調子が悪くなっても自動販売機に文句は言えない。

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野村万之丞(八世野村万蔵)さんの言葉から

若くして亡くなった野村万之丞さん(八世野村万蔵を追号)は、最晩年に京都造形芸術大学で講義を持っており、私も拝聴した。

万之丞さんの言葉で印象的だったのは、「映像、音楽、空間などあらゆることを芝居に生かすのを役者バカという。演技しかできなくて他のことを知らないのをバカな役者という」というものだ。

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2006年6月26日 (月)

相応に

相応に年を取りたいと思う。気や見た目が若いのはいいことだけれど、やはり年齢にあった節度と思考力を身につけたい。若作りもしたくないし、若い人におもねりたくもない。

時の過ぎ行くままに任せたい。「私達の時間は過ぎて行く」、それは悲しいことだけれど、過ぎ行く悲しみの味わいもまた乙だ。

相応に生きていきたい。もちろん何もしないで生きていこうとは思わない。何もしないのは「生きる」という行為に相応ではなく不相応だ。

そして思う。愚かであることを誇る人間にはなりたくないと。そのために己の愚かしさから目を背けたくないと。

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よくわからない歌詞(1) 「サザエさん」

日本人なら知らない人はいない「サザエさん」の歌詞の一部です。

‘買い物しようと町まで出かけたが 財布を忘れて 愉快なサザエさん’

……財布を忘れて愉快なサザエさん? 財布を忘れている人を愉快というのか? 

普段からサザエさんを知っているご近所さんは、「お財布忘れたー!」と言いながら駆け戻っていくサザエさんを見て、「またね。愉快な人」と思うのかも知れないが。

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2006年6月25日 (日)

土佐山内家と三菱グループ

大河ドラマ「功名が辻」で、主人公である山内一豊の家紋の話が出て来たが、あの家紋(三つ葉柏)は現在でも形を変えて、非常に有名になっている。土佐藩出身の岩崎弥太郎が興した三菱の商標がそれで、三菱のマークは岩崎の主君である山内氏の三つ葉柏をシンプル化したものだ。

三菱鉛筆という会社がある。三菱グループと同じ商標を持つ会社であるが、実は三菱グループではなく、それどころか縁もゆかりもない会社だ。三菱のマークを使い始めたのは三菱鉛筆の方が先であり、天下の三菱グループ(当時は三菱財閥)もさすがに抗議も手出しも出来なかったようである。

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仮の制度としての「1+1=2」

1+1の答えは2である。これは小学校に上がる前の子供でも知っている。

しかし、この数式は、1個の物体にもう1個が加わると総合で2になるという設定のもとでしか通用しない。

1人の男性と1人の女性が結婚して1人の子供が出来た。

1と1が結ばれて出来たものが1であるという設定に変えると、1(男)+1(女)=1(子供)になる。

また1と1が結ばれて1が出来、総合で3になったと考えれば、1(男)+1(女)=3(男、女、子供)になる。

1+1=2は、数学上において正しいが、「数学上(それも初歩数学)」という仮の制度においてのみの正しさでしかないともいえる。

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2006年6月24日 (土)

自転車追突事故

京都は自転車が幅を利かせている街だ。東京や大阪と違い、地下鉄が発達しているわけではなく(市営地下鉄は南北に走る烏丸線と、名前そのままに東西に走る東西線があるだけである)、またその他の電車も鴨川沿い(主に地下)を走る京阪電車と、京阪電車の傘下で洛北を走る叡山電車、四条通を西に向かう阪急電車、洛西を行く京福電車、京都駅以南を走る近鉄、そしてJRと、数は多いが京都の中心部を走る路線は少ない。
市営バスは発達しているが、乗り換えが面倒だと思う人が多い。自動車は道の狭さもあってあまり現実的な移動手段ではない。
ということで自然と自転車を移動の足として用いる人が多くなる。

自転車の数が多いこと自体はさほど問題ではない(駐輪マナーの悪さの問題は当然あるが)が、京都人は自転車での生活に慣れているため、他の街の出身者にとってみると「危険だな」と思うことを数多くする。まず、歩行者の傍らを横切るときでもスピードを緩めることは、まずない。交差点などでも思いっきり飛び出してくるし、また、「前から自転車が来たな」と思って傍らに除けると、その除けた場所の真横を後ろから別の自転車が猛スピードで駆け抜けたりする。自転車というのは走っている気配が余り感じられない乗り物である。それ故、歩行者は突然傍らに現れて通り過ぎる自転車に冷や冷やさせられる。
「あれで、よく事故を起こさないものだ」と感心していたが、初めて自転車による事故を目撃した。

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2006年6月23日 (金)

空の高さを知るほどに

試合終了の笛が吹かれ、選手達がベンチ裏に引き上げても中田英寿はピッチ上に倒れたまま起きあがることが出来ない。ピッチ上に寝ているのではない。まさに「倒れている」のだ。

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2006年6月22日 (木)

城好き

名古屋城天守

写真はご存知、名古屋城天守です。

私は小学生の頃から城郭が好きでした。天守や御殿という建築のみならず、堀や石垣、ちょっとした土塁を見ただけでも胸がワクワクするのですから、城好きというのは妙なものです。
天守などの城郭建築への興味は単純に美的感覚から起こるのでしょうが、堀や石垣、土塁、縄張りなどを見ても楽しいのは、そこに歴史と過去の人の姿を思い浮かべるからなのでしょう。

二条城二の丸御殿
二条城二の丸御殿(撮影:本保弘人)

安土城石垣
安土城石垣(撮影:本保弘人)

大宮交通公園内御土居
御土居(撮影:本保弘人)

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頭が良い? 悪い?

「頭がよい人の…、悪い人の…」といったようなタイトルの本が何種類も出ているが、その手の(無神経なタイトルの)本を何冊も書いている手合いの人が一番頭が悪いように見えるのは私だけなのだろうか?

そもそも頭が良いとは何なのか。頭の良さのものさしは時と場合によって変わる。そんなことは人生をきちんと生きてさえいれば、経験でわかるはずなのに。

そもそも頭は良ければ良いほどいいのだろうか? 頭は良いけれどそれだけの人は私は何人も知っている。人生において最も重要なのは頭の良さなのだろうか? エゴイスティックな頭の良さは、時に人間と社会を駄目にする。旧ミドリ十字社につながる某部隊の軍医達は日本でもトップクラスの優秀な頭脳の持ち主だったが彼らは何をしただろうか。
オウム真理教の幹部に上り詰めた人達の中には極めて高い知能指数の持ち主が何人もいたが、結末はどうだっただろうか。

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2006年6月21日 (水)

京都の夏

京都の夏は暑いことで知られます。盆地である上に、日本第7の都市で人口も多いということで高温になる条件が揃っています。

他の街なら、風が吹くと少しは涼しくなるものですが、京都は風自体が熱されているため、風が吹くと暑さが体にまとわりつくように感じられます。

また、太陽の直射日光も暑いのですが、地表からの照り返しがまた凄く、上からは日射し、下からは熱気という逃げ場のない暑さが京都中に満ちます。京都は大昔、湖底であり、今も琵琶湖に匹敵するだけの地下湖が京都盆地の底に眠っていますが、夏の京都盆地は水の代わりに熱風を湛えた湖になります。名付けるなら熱の湖だから、「熱湖(ねつこ)」でしょうか。何だかイギリスのネス湖のようですね。しかし熱海(ねつうみ)にすると、伊豆の熱海(あたみ)のようになってこちらも妙です。まあ、造語はしないのが一番なのですが。

しかし、そのような熱を満々と湛えた「ねつうみ」の底で京都の人々は千年以上も夏を過ごしてきたのです。そして暑いだけに夏らしさをより実感でき、優れた季節感を身につけることが出来たのでしょう。京都は四季の美しい街です。自然といってもほとんどは人間の手が加わっていますから、京都の美しい四季は人々が猛烈に暑い夏と、とんでもなく寒い冬を経験してきたからこそ生まれたのかも知れないですね。

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夏の朝

清少納言は「夏は夜」と書いたけれど、夏は朝が一番良いと私は思っている。早暁、まだ涼しく、だが、今日もこれから暑くなるだろうな、という予感を孕んでいるのも「をかし」。

東山の山並みが徐々に鮮明になり、比叡山から太陽が現れる様も見事なり。

夏の朝といえば、母方の田舎である千葉県旭市のことが強く思い出される。母の実家は庭一面に芝生が敷き詰められていて、早朝は朝露で芝生が濡れている。濡れた芝生の上を歩く時に靴がキュッキュッと鳴る様こそ子供心に「をかしけれ」。

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2006年6月20日 (火)

傍らに人無きが若し

郵便局のATMの順番を待っている。先程からご老人が、一人で何度も何度も振り込みを繰り返しているのである。私の前にいた若者は業を煮やして立ち去ってしまった。私の後ろにも4人ほど並んでいる。郵便局は支払い限度額よりも、支払い回数の限度を定めた方が良いようである。ATMを一人で占領するのはどういうわけか年配の方が多い。こちらが急いでいないから良いが、傍若無人とは彼の人のようなことを言うのだろう。

結局、15分ほど待った。
誇り高きご年配の方々、ゆめゆめ「いまどきの若い者は」などとお考え遊ばされますな。

その帰り道、立ち寄ったコンビニで、おばさんが、レタスの入ったパックを落としてしまう。持っていた鞄が触れたのだ。私はそばにいたので、そのパック3つを拾った。が、おばさんは気がつかなかったのか、そのまま立ち去ってしまった。コンビニの店員が気がついてくれて「ありがとうございます」と言ってくれたから良いようなものの、誰も見ていなかったら私が落としたと思われる。また、私が拾わなかったらレタスのパックはそのまま。店員に任せればいいと、そのおばさんは考えたのかも知れないが。

誇り高きご年配の方々、ゆめゆめ「いまどきの若い者は」などとお考え遊ばされますな。

京都コンサートホールで、五嶋龍のヴァイオリン・リサイタルを聴く。京都コンサートホール内は撮影禁止だが、フラッシュ撮影をしているおばちゃん、おじちゃんが目立つ(ちなみに服装から見てマスコミ関係者ではなく明らかに一般人である。流石に演奏中の撮影はなかったようだが)。可哀相なのは開演前にカメラ付き携帯でステージの写真を撮った若い女の子で、撮影音がしたためか係員に気づかれてしまい、注意を受けていた。多分、コンサートホール内での撮影が禁止であることを知らなかったのであろう。ただ、その後もフラッシュ撮影をしている、おじちゃんおばちゃんは野放しであった。
誇りあるご年配の方々よ、ゆめゆめ「今時の若い人は」などとお嘆き遊ばされますな。

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私はどこまで私なのか

私はどこまで私なのか? どこから私は私でないのか?
言葉によって区切られた部分から私なのか? 視覚の限定を受けるのが私なのか?

ジョルジュ・バタイユの思考を私の言葉で語る私は私であるのか?

シベリウスの音楽をかつてはわからず、今は愛する私は私であるのか? 私であったのか? 私でなくなったのか?

今日、私は鶏料理を食べ、爽健美茶とサントリー烏龍茶を飲んだが、「あなた」にとって、それは現実の私ではないだろう。

私は果たして鏡に映るのか? 映っているのは私であるのか? 映った私はどこまで私なのか? 像は思考によって歪められるものだ。自分が鏡に映っていることを知らない人を私は何人も知っている。

「コギト・エルゴ・スム」。しかし私はかって誰かの夢の中にいるような私を“見た”。

思考は進み、果てはなく、だが進まねばならない。私がもはや私でなかったとしても。

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2006年6月19日 (月)

ロッテリアで

ロッテリアでは、店員さん達が互いに、「サンキュー」、「OK」などと呼び合っている。ちょっと前まではこうでなく、普通に日本語で呼び合っていたので少し違和感がある。

ロッテリアではおじさん、おばさんから青年、大学生、高校生まで働いているおり、年齢の幅がかなりある。日本語というのは世界のあらゆる言語の中で敬語が最も発達した言葉であり、それゆえの奥ゆかしさはあるのだが、年の離れた人と同列のやり取りをしにくいという一面がある。ロッテリアの店員が「サンキュー」、「OK」などと英語を使うようになったのもそのためだろう。

そのうちこちらも慣れるのかも知れないが、今のところは、「サンキュー」だの「OK」だの気軽な英語を用いることを私が不可思議に思うのは事実だ。「わかりました」、「承知しました」と、店員同士で年齢に関係なく敬語を使った方がまだ違和感がないように思うのだが。

あるいはそのうち、他の企業でも「サンキュー」だの「オーライ」だの、「イエッサー」などと社員同士が言うようになるのだろうか? さすがにそれはないと思うが、もし本当にそうなったら少し怖いと思うのは私だけだろうか?

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アンドリュー・ワイエスのこと

アメリカの画家、アンドリュー・ワイエスについて書きます。

私がワイエスの作品に初めて触れたのは例に漏れず中学の美術の教科書においてです。描写の見事さ、驚くほどの技術の高さと細かさもさることながら、画面全体が訴えかける孤独感に共鳴しました。それは吸い込まれそうになるほど透明な孤独感でした。

1995年に東急文化村で催された「アンドリュー・ワイエス展」にももちろん出かけました。絵画に対する私の感性は鈍い方だと思いますが、ワイエスの絵は私の心に自然に馴染みました。

2004年、姫路にある兵庫県立美術館での「アンドリュー・ワイエス水彩素描展」にも出かけ、ワイエスの象徴的技術の高さと、残酷なほどリアリスティックな眼差しに感心し、展示された絵画を何度も見返したものです。

小説においても、演劇においても、音楽においても、自分の分身と思えるほど共感できる作家が一人いると良いものですが、絵画において私はワイエスという私の分身を見つけることが出来ました。これは幸福なことだと思います。

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「アンドリュー・ワイエス水彩素描展」。2004年5月21日、姫路市にある兵庫県立美術館で。

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兵庫県立美術館で買った「アンドリュー・ワイエス水彩画集」

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おうとうき

新しいblogを始めました。3つ目のblogになります。先に開設したblogは、一つは京都観光案内、もう一つは演劇用でした。他に日記も公開していますが、もっと気軽に書けるものが欲しいということで、再びblogを作りました。日記でもエッセイでもない独自のものを書いていきたいと思います。

「おうとうき」というと別のものを連想する方が多いと思いますが(今日がそれですし)、もちろんそれに掛けたタイトルです。では「鴨東記(おうとうき)」スタートです。

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