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2006年6月20日 (火)

私はどこまで私なのか

私はどこまで私なのか? どこから私は私でないのか?
言葉によって区切られた部分から私なのか? 視覚の限定を受けるのが私なのか?

ジョルジュ・バタイユの思考を私の言葉で語る私は私であるのか?

シベリウスの音楽をかつてはわからず、今は愛する私は私であるのか? 私であったのか? 私でなくなったのか?

今日、私は鶏料理を食べ、爽健美茶とサントリー烏龍茶を飲んだが、「あなた」にとって、それは現実の私ではないだろう。

私は果たして鏡に映るのか? 映っているのは私であるのか? 映った私はどこまで私なのか? 像は思考によって歪められるものだ。自分が鏡に映っていることを知らない人を私は何人も知っている。

「コギト・エルゴ・スム」。しかし私はかって誰かの夢の中にいるような私を“見た”。

思考は進み、果てはなく、だが進まねばならない。私がもはや私でなかったとしても。

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