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2007年1月 3日 (水)

没後50年 ジャン・シベリウス

若き日のジャン・シベリウス 2007年はフィンランドの作曲家、ジャン・シベリウス(1865-1957)の没後50年に当たります。

左は若き日のシベリウスのポートレート。

ジャン・シベリウスの洗礼名はヨハン・クリスティアン・ユリウス・シベリウスですが、のちに自らフランス風のジャンと名乗るようになります。

子供の頃から夢見がちであり、授業を聴かずに夢想に耽っていたために15歳の時には落第、同じ学年をやり直すなど、どうやらLD(学習障害)の持ち主だったと思われるシベリウスですが、音楽と自然への情熱は人並み外れていました。

ヘルシンキ大学に入学しますが、それは両親を安心させるための方便に過ぎず、1年ほど経って両親から音楽の道に進むことを認められるとあっさり退学、ヘルシンキ音楽院でヴァイオリンを専攻。夢はヴァイオリニストでしたが、極度のあがり症でもあったシベリウスは「ヴァイオリニストになるのは困難」と判断、作曲に専念するようになります。

ベルリンおよびウィーンに留学したシベリウスは帰国後、フィンランドの国民的叙事詩「カレワラ」を題材にしたカンタータ風交響曲である「クレルヴォ交響曲」を作曲。一躍、フィンランドの音楽界を担う作曲家として注目を集めます(ただシベリウス自身はクレルヴォ交響曲を成功作とは見なさず、4回目の演奏会が終わった後、この作品の演奏許可を出さなくなりました)。

交響曲を7曲(クレルヴォ交響曲を含めると8曲)完成させ、「ベートーヴェン以降最大のシンフォニスト(交響曲作曲家)」と称されたシベリウス。しかし1929年を最後に作品を発表しなくなってしまいます。

実はシベリウスは1926年頃から30年以上の長きに渡って交響曲第8番の作曲に取り組んでいました。しかし神経質で自己の作品評価に厳しかったシベリウスは納得のいくものが書けず、一度は完成したと思われる交響曲第8番を破棄して、再び作曲に取り組むなど創作に苦しんでいました。あるいは完成した交響曲第8番は傍から見れば優れた作品だったのかも知れません。しかし気弱なところのあったシベリウスはほとんど誰にもスコアを見せませんでした。再度作曲され、あるいは完成を見たとも言われる交響曲第8番のスコアも結局は遺言により、暖炉にくべられてしまったようです。

さて、昨年2006年は「ベートーヴェン以降最大のシンフォニスト」と呼ばれたもう一人の作曲家、ドミトリー・ショスタコーヴィチの生誕100年であり、日本国内でもショスタコーヴィチの交響曲が数多くコンサートで取り上げられました。「ショスタコーヴィチの交響曲といえば第5番」という状況も打破されつつあります。

そして今年2007年はシベリウスの年。すでにスウェーデンのBISというレーベルからシベリウスの主要作品全集が発売されています。
「シベリウスの交響曲といえば第2番」という現状をガラリと変えるほどの盛り上がりを期待します。

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