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2007年3月の36件の記事

2007年3月31日 (土)

観劇感想精選(7) 長塚京三&キムラ緑子 「偶然の男」

2004年8月28日 大阪・福島のABCホールにて観劇

大阪・福島(実際は福島区ではなくて北区だが)のABCホールで観劇。長塚京三、キムラ緑子の二人芝居、「偶然の男」を観る。脚本はフランス出身の世界的劇作家ヤスミナ・レザ。演出:鈴木勝秀。
ABCホールは残念ながら演劇向きの会場ではない。小さな声のセリフや軽い口笛などが聞き取れる一方で普通の大きさのセリフは残響が付いてモヤモヤした感じに聞こえる。セリフを聞き取れないところが何カ所かあった。

話は、売れっ子の作家とそのファンが列車のコンパートメントに乗り合わせて言葉を交わす過程を描いた可愛らしいものだが、そこに至るまでの心理過程がそれぞれモノローグによって長々と語られる。さて、考えというのはこうも秩序だったものなのか? 欧米人の場合はそうだろう。彼らは言語的思考が強いから。しかし日本人の場合は視覚的なこだわりが強く(漫画がよく読まれるのは日本人が視覚的民族であることと関係があるとされる。欧米は勿論、アジアのどの民族よりも視覚的である。もちろん日本の漫画は子供騙しでしかない他の国それとは格が違うが、これも日本人が視覚的な語りに意味を見出し、内容を深めたためと思われる)、イメージ的な思考方をすることも多い。また考えとはそれほど整然としたものではないような気がする。日本人の私がこの作品に違和感を覚えるのはそういうところだ。
郭になる部分は非常に短く、そこに至るまでの過程が長い。バルザックの小説みたいだ。
マネキンを使い、肉体と精神をわけ、精神のみを俳優が演じる場面が続くが、無駄が多いようにも思う。またこれは欧米の演劇に共通したことだが語りすぎる。誰も興味を持たないような私的なことまで延々と語る。日本人は、とりわけ男はだが、こうも一人で長々語ることはないのでつきありきれないという気もする。俳優二人が魅力的だから最後まで見続けることが出来たが、俳優が駄目だと目も当てられないだろう。

世界的な劇作家の作品だから世界のどこでも受け入れられるというわけではない。またそれを差し引いて単純に作品としてみてもそれほど優れたものではない気がする。

だがラストの男女のダイアローグはまさに大人の会話だ。日本には大人の会話が出てくる劇が少ない。何故かというと中年の、とくに男性は残業があったり劇に興味がなかったりで劇場に来ない。つまり中年の劇の需要がないのである。だから若者の劇が必要以上に多く、若者を過ぎると中年を飛び越えて、老人の劇になってしまったりする。劇を観るのは若者か主婦か定年でリタイアした人が圧倒的に多いから、中年の男女が主人公の劇は作りにくいのだ。だが中年をきちんと描く劇がないというのは文化的にいっても寂しい。若者も老人も葛藤は少ない世代だからどうしても会話は浅くなる。会話が浅いと豊かな表現は得にくい。一時隆盛を誇った若い男女の恋愛だけを表面的に描いたトレンディードラマというのがそのあだ花である。
こうした中年のための可愛らしいロマンスがあるヨーロッパというのはやはり羨ましい。

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2007年3月29日 (木)

異才ファジル・サイの奏でる正統的ではない本物のバッハ

トルコ出身のピアニスト、ファジル・サイのアルバム「シャコンヌ サイ・プレイズ・バッハ」(TELDEC)を紹介します。

ファジル・サイは1970年、アンカラ生まれ。今や数少ない変人系天才ピアニストの生き残りです。

「シャコンヌ サイ・プレイズ・バッハ」 ファジル・サイ直筆サイン入りジャケット ジャケット上のゴールドの文字は、神戸新聞松方ホールでファジル・サイのリサイタルを聴いた際、終演後に行われたサイン会で貰ったサイの直筆サイン。顔のところではなく、下のピアノ部分にサインして貰おうと思ったのですが、サイさんはこちらがその意を伝える前に、さっさと自分の顔写真の上からサインを書き始めてしまいました。

とにかく落ち着きのない人で、ピアノを弾いている最中もあっちをキョロキョロこっちをキョロキョロ、サイン会の間も視点は定まらず、目はあちこちを泳いでいました。

かなり変わった人であるファジル・サイですが、才能は確かで、このJ・S・バッハアルバムでも正統的ではないのに極めて説得力溢れる音楽を作っています。

「フランス組曲」第6番、「イタリア協奏曲」、「プレリュードとフーガ イ短調」(リスト編曲)、「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番より“シャコンヌ”」(ブゾーニ編曲)、「平均率クラヴィーア曲集第1巻」より“プレリュードとフーガ”を収録。

学究的なバッハではなく、インスピレーションを大事にしたバッハですが、音の煌めきや自在感、奔放でありながら雅やかな雰囲気などが実に楽しく、J・S・バッハが生き返って耳にしたら狂喜しそうな快演揃いです。

ブゾーニのピアノ編曲による「シャコンヌ」は、スケールの大きさ、思索の深さに心打たれる演奏であり、ブゾーニの編曲がヴァイオリンを単にピアノに置き換えただけのものとも、バッハの名を借りた異端とも思えなくなります。

正統的ではないのに見事なバッハ演奏を繰り広げてしまうサイの演奏は、公式を無視し、常に独自の理論によって正答を導き出してしまう天才数学者の姿を私に連想させます。

バッハ/French Suite.6 Italian Concerto Chaconne Etc: F.say(P)

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観劇感想精選(6) M_Produce 「十一人の少年」

2005年1月31日 京都・三条御幸町のアートコンプレックス1928にて観劇

アートコンプレックス1928でM_Produceの「十一人の少年」を観る。北村想の岸田戯曲賞受賞作。演出は劇団飛び道具の山口吉右衛門(山口浩章)。
M_Produceとは、演劇プロデューサーで劇団ベトナムからの笑い声代表の丸井重樹氏の企画した3年がかりの若手育成のためのプロジェクトで今年はラストの3年目。80年代の戯曲を取り上がるを取り上げており、1年目は鴻上尚史の「ビー・ヒア・ナウ」と「トランス」、2年目はシェークスピア作品を野田秀樹が潤色した「から騒ぎ」。そして3年目が北村想である。私は鴻上尚史は2本とも観たが、野田秀樹は造形大公演の「ロスト・バビロン」の稽古と重なったため見に行くことが出来なかった。

飾り気のないセットがまず良い。若手の俳優達も生き生きとしている。

この戯曲はドイツの哲学的童話作家ミヒャエル・エンデの代表作「モモ」を下敷きにしている。「モモ」では大人を時間泥棒として描いていたが、これを北村想は想像力と未来を奪う泥棒に置き換えている。
「十一人の少年」が書かれた1984年はこれからバブルへと突入しようという時。「ジャパン・アズ・ナンバー1」という言葉が叫ばれ、人々は経済大国日本を謳歌していた。その一方で中高生の校内暴力が問題視され始めた時代である。行き場のない若者の叫びを歌った尾崎豊が教祖として仰がれていた。
拝金主義の超資本主義国家がその姿を現し始めていた。

この戯曲で特徴的なのは「モモ」をもじった「すもも」という盲目の少女が訛りのひどい言葉を話すことである。すももはそれを気にしているが、青木という青年は「標準なんて所詮標準だ」と言ってみせる。こうあるべき、つまりコレクトであることに流されないのだ。
金儲けがコレクトならそこから外れたものは全て切り捨てられてしまう。想像力で未来を描いたり、夢見ることは、「金になる」という視点から外れば「子供じみたこと」と笑われる。劇中に出てくる「ヘタムラ・ゾウ」はもちろん作者である北村想のもじりである(北村は別の著書でも下手村象という名前の自らの分身を登場させている)。ヘタムラは金のために想像力を譲り渡してしまった。物語の喪失。その喪失を救う人間として青木を指名するのである。

物語るということは自らの人生を見つめ直して語ると言うことであり、そうして未来を形成していく。しかし80年代には一流企業から一流会社そして幸福へという大きな物語が押しつけられ、物事を全て金銭に置き換えようとする発想の前に、個々のささやかではあるが大切な物語が押し流されつつあった。個々の喪失は格差社会を目指す小泉政権によって今も着々と進められているのだが。

成功者は成功に浮かれて未来永劫この状態が続くと勘違いをし、成功できなかった人は金万能主義の世の中で未来が描けずにいた。ある意味、刹那的に生きざるを得なかった未来喪失の時代であった80年代の雰囲気が感じられる。

金に目がくらむという言葉がある。80年代、人々は目がくらみつつあった。その中で目に見えない何かを追い求める人々もいた。その象徴が劇中では「すもも」という女性となって現れている。

バブルが崩壊し、狂気じみた愉悦の時を謳歌したかってのエピキュリアン達はこの作品をどういう思いで見つめるのだろうか。今この劇を観ると金銭第一主義が一場の夢に過ぎないことを作者は予見していたのではないかとすら思えてくる。

日本でただ一つバブルに浮かされなかった街がある。北村想が本拠地としている名古屋である。御三家筆頭の尾張徳川家の城下町として発展、現在では日本第4の大都市であり、織田信長、豊臣秀吉という二人の天下人を生んだ場所でありながら、一貫して政治にノンタッチであったこの街の市民は世の中を第三者的に見る傾向があり、着実、堅実であることを旨とし、財布の紐が堅いそうだ。今、名古屋の経済が好調なのはバブルに踊らされなかったことが大きいとも言われている。「十一人の少年」は狂奔する東京という街を名古屋からの醒めた視点で描いた作品という見方も出来るだろう。

北村想は滋賀県大津市の出身で、名古屋的な作家ではないとされているが、世の中への冷静な視線を持つところは真に名古屋的である。

役者で特に光っていたのは保険外交員のトモズミを演じた朝平陽子と青木を演じた小松史郎。昨年11月のSugarLakesの公演では達者なダンスを披露していた朝平陽子は丸井さんのサイトで「『ヒロイン』的素養のある女優」と紹介されていたが確かに華がある。小松史郎もこれから確実に伸びそうだ。

別保さん役で出ていたハラダリャンも色物的ではあるが面白い。実は役者が力余ってプラスチックの水差しを割ってしまい、床が水浸しになるというハプニングがあったのだが、ハラダリャンは巧みなアドリブでそれを笑いに変えていた。

若手中心にしてはレベルの高い公演だったと思う。1年目の鴻上尚史よりは確実に面白い。若い俳優陣を上手くまとめた演出の力も大きいだろう。

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2007年3月28日 (水)

言葉の乱暴さもさることながら

最近の若い女性の仕草でひいてしまうのは、くしゃみが乱暴なこと。それも「ハクション!」ならまだ可愛いのですが、「ドゥエクホ~イ!!」とおじさん並みの豪快さでくしゃみをして、「ア゛~」などと言っている様を見ると、例えそれがどんな美人であろうと(あるいは美人であればあるほど)男は幻滅します。つまりもてなくなります。ご注意を。

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2007年3月27日 (火)

観劇公演パンフレット(10) 野田地図(NODA・MAP) 「カノン」

野田地図(NODA・MAP)第8回公演「カノン」の公演パンフレットを紹介します。2000年4月に東京・渋谷のシアターコクーンで観劇した際に購入したもの。表紙はのちに発売される野田秀樹著『20世紀最後の戯曲集』(新潮社)と同じものが使われています。

野田地図(NODA・MAP)「カノン」パンフレット 「カノン」は、芥川龍之介の小説「偸盗(ちゅうとう)」と、プロスペル・メリメ原作でのちにオペラ化されて有名になる「カルメン」を下敷きにした作品。

作・演出・出演:野田秀樹。出演は、唐沢寿明、鈴木京香、串田和美、岡田義徳、須藤理彩、手塚とおる、広岡由里子、大森博、宮迫博之、蛍原徹ほか。

時は平安、京の都では《猫の瞳》(つまりキャッツアイ)という盗賊集団が悪事を働いている。その《猫の瞳》の女首領である沙金(しゃきん。鈴木京香)が牢に送られた。牢番の太郎(唐沢寿明)は沙金にそそのかされ、彼女の脱獄に肩を貸してしまうのだが、主である天麩羅判官(野田秀樹)に刑を免れる代わりに密偵として《猫の瞳》を監視するよう言い渡される…。

希望が挫折に、自由の思想が暴力に変わっていく人間存在の業と悲しみを描く傑作である。

大殺戮シーンのBGMとして明るく爽やかな「パッヘルベルのカノン」を用いることでより残酷さを引き立てる野田のアイデアは天才的、また《猫の瞳》の女首領・沙金の企みが明らかになるラストシーンの哀しみは圧倒的である。

「カノン」の感想(変奏の行き着く先に 野田秀樹「カノン」 2003年に書いたもの)

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2007年3月26日 (月)

京都の良さ

本当の京都の良さは「静寂」があって初めて感じられるものが多い。「つゆおとなうものなし」というわびしさや、「静」を至上とした佇まい。そこに京の美の本質が現れることがある。

ただ、京都は観光地であり、ガイドマップ等の紹介もあって、穴場とされた場所にも多くの人が押し寄せるようになり、そうした深閑とした良さを感じさせる場所が段々少なくなってきている。

だからそうした寂たる趣に満ちた場所は自分の足を使って探すしかなくなってきている。いやきているではない。もともと京都は足で稼ぐ街だったのだ。自分が気に入る場所を探せるというのが京都の街の本来の、そして本当の良さでもある。

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2007年3月23日 (金)

観劇感想精選(5) 市川海老蔵主演 「信長」

2006年2月24日 大阪・道頓堀の大阪松竹座にて観劇

大阪松竹座に市川海老蔵主演の「信長」を見に行く。海老蔵のために書き下ろされた新作。作:斎藤雅文、演出:西川信廣。
織田信長を演じるのはもちろん海老蔵。濃姫に純名りさ、羽柴秀吉に甲本雅裕、お市の方に小田茜、明智光秀に田辺誠一という配役。
戦の神に憑かれた「狂王」としての信長を描く。

ジャンル分けは難しい。殺陣のシーンなどに歌舞伎の役者も出るし、海老蔵も歌舞伎俳優だが、当然ながら歌舞伎ではない。斎藤雅文は新派の作家だし、西川信廣は新劇の名門・文学座所属の演出家である。基本的には役者を見せるタイプの演劇なので、ジャンルに拘る必要はないのだが、見慣れないタイプの演劇なので内容に入り込むまで少し時間がかかった。

海老蔵はカリスマ性を出すために声音を変えるが、そのため少しセリフが聴き取りづらい。歌舞伎以外の仕事も沢山しているとはいえ、やはり他の俳優とはスタイルが違うので違和感もある。だが、存在感はあるし、「敦盛」の舞や殺陣などは流石であり、柱としての役割を十分に果たしていた。

信長の生涯を2時間半に凝縮した作品であり、要所要所を抜き出して描くというスタイルを取っている。余分と思われるエピソードもあるが、それでも人物の内面を描く伏線にはなっているのでいいのだろう。

セリフは説明的だがわかりやすい。先端を行く演劇ではないわけだから、多少セリフが人工的だろうが嘘くさかろうが構わないと思う。やはり時代劇であること、また客層を考慮するに、今、どういう場面で登場人物はどういう心理なのか、そういったことを丁寧にやらないとサービスに欠けることになるだろうから。

天下統一を果たしていないのに、朝鮮、明国、天竺などを制覇し、果てはローマ占領を本気で夢見る信長像というのも秀吉の考えを先取りする形で、試みとしては良いと思うが、強引さも感じる。秀吉のように天下統一した上で妄想を抱くというのならある程度自然なのだが。
やはり朝鮮や明を攻める野望があることを匂わす程度の方が良かった気がする。誇大妄想が激しすぎる。信長の「激しさ」に光を当てたい気持ちはわかるけれども。

明智光秀を焚きつけたのは誰か、歴史書には信長に嫁いで以降の記録が全くない濃姫という人物をどう描くかなど、面白いところはいくつもある。

普段観ている演劇のスタイルとは違うが、「これはこういうものだ」と思って観ているので違和感はない。
好きなタイプの演劇ではない。けれどもこういった芝居には「ハレ」の雰囲気があって楽しい。

俳優では、羽柴秀吉を演じる甲本雅裕が特に良かった。飄々としていながら虎視眈々と次代を窺う秀吉像を上手く演じていたように思う。

Photo_7

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2007年3月22日 (木)

イ・ウンジュ遺作ドラマ「火の鳥」DVDボックスⅡ

2005年2月22日に亡くなった韓国の女優、イ・ウンジュの遺作ドラマ「火の鳥」のDVDボックスⅡを紹介します。ポニー・キャニオンからの発売。日本語字幕付き。日本語吹き替えバージョンも同時収録。音楽は韓国で放映された時とは別のもの(韓国のミュージシャンによるもの)が使われています。

イ・ウンジュの遺作となった韓国ドラマ「火の鳥」DVDボックスⅡジャケット

主な出演は、イ・ウンジュ、イ・ソジン、エリック(韓国のSMAPともいわれる「神話」のリーダー)、チョン・ヘヨン。

DVDボックスⅡは第13話から最終回となる第26話までを収録。DVD7枚組。
ソウルの大企業であるソリン・グループを舞台に話は進んでいきます。ソリンの雇われ社長であるチャン・セフン(イ・ソジン)とソリン・グループの会長の息子でソリン・グループ理事、のちに副社長となるソ・ジョンミン(エリック)が、イ・ジウン(イ・ウンジュ)という女性を巡って恋の火花を散らします。イ・ジウンとチャン・セフンは10年前に結婚、離婚していることから話は複雑になります。またチャン・セフンにはユン・ミラン(チョン・ヘヨン)という婚約者がいることから話は一層もつれていきます。

見所は何といってもイ・ウンジュの繊細な演技(結果的に彼女の命を奪うことになる繊細さ)。顔のちょっとした表情で感情を伝える技は韓国女優の中でも傑出していました。

またユン・ミランを演じるチョン・ヘヨンのプロフェッショナルな演技も見物。全身全霊をかけ、徹底して悪女を演じて見せます。

イ・ソジンやエリックもハイレベルな女優陣に負けじと好演を見せ、見応えのあるドラマに仕上がっています。

特典として、NGシーンなども含めた特典映像付き。韓国で放送された特番を基に編集されたもので、かなりミーハーな作りですが、楽しめます。

また、より真面目なメイキング映像をイ・ソジンさんの日本語公式サイトで見ることが出来ます。イ・ソジンさん演じるチャン・セフンは左利きですが、これはドラマ上の設定で、イ・ソジンさん自身は右利きであることも明かされています。

「イ・ソジン 日本公式サイト」 http://www.so-net.ne.jp/seojinlee/

「イ・ソジン 日本公式サイト」メイキング動画 http://blog.so-net.ne.jp/seojinlee/archive/c40377534-23--10

ドラマ/火の鳥: II(Box)

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かつての自分に教えられる

今、20歳から21歳の頃に書いた詩をWeb上に発表する作業をしているのですが、かつての自分に教えられることも多いです。それらの詩は基本的には流れ重視の水平的思考が多く、垂直的な深みや語彙の多様性、意表を突く展開などには欠けているのですが、今の自分に通底する部分があったり、昔の方が詩に対する情熱があったこともわかります。

拙いながらも世界に向かって発信しているのだという気概があったことを思い出しました。今でもそれはあるつもりですが。

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2007年3月21日 (水)

ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮 「ブラームス交響曲全集」

ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮 「ブラームス交響曲全集」 EXTONレーベルへのブルックナーの録音で知名度を上げている指揮者、ヤープ・ヴァン・ズヴェーデンが、2002年に、オランダ・フィルハーモニー管弦楽団(ネーデルランド・フィルハーモニー管弦楽団)とオランダ放送フィルハーモニー管弦楽団を指揮して完成させた「ブラームス交響曲全集」(ブリリアント・クラシックス)を紹介します。

1960年生まれ。ヴァイオリンの神童で、19歳でアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)のコンサートマスターに史上最年少で就任したという経歴を持つヤープ・ヴァン・ズヴェーデンは、10年ほど前から指揮者としての活動を開始し、こちらでも好評を博しています。

御覧の通り、強面の指揮者ですが、音楽は顔とは裏腹に、優しさと繊細さと勢いの良さを併せ持っており、高度な音楽性の持ち主です。

この「ブラームス交響曲全集」の特徴は、若々しくフレッシュな音楽性と優雅な歌、オーケストラの音の美しさにあります。テンポは基本的に速めであり、キビキビとした音運びが爽快感を生みます。一方で旋律の一つ一つを丁寧に歌い、明るく美しい響きのブラームスを作り出します。

聴いていて浮かぶのは晩年の髭もじゃのブラームスではなく、肖像画に残されている若き日の端正な顔立ちのブラームス。

往年の名演に比べると渋さに乏しいかも知れませんが、新時代のブラームス演奏の理想の一つを示していると言っても過言ではないと思います。

ブラームス/Comp.symphonies: Zweden / Netherlands.po Netherlands Radio.po

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2007年3月20日 (火)

相手について語るとき

面と向かった相手について語るとき、人は自分の内面を最もさらけ出すことになる。相手に剣を振りかざす時に最大の隙が生まれるように、相手について語ったときに見極められる語り手の内面が、その語り手の最大の弱点を示すことは少なくない。

致命傷になるのは、自分について語らないことで自分の愚かさを露呈してしまうこと。

その点においては、「沈黙は金」という格言は常に正しい。少なくとも荒涼たる内面を他者に悟られることはないから。

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2007年3月18日 (日)

観劇感想精選(4) 「ブルックリン・ボーイ」

2007年1月5日 兵庫県西宮市の兵庫県立芸術文化センター中ホールにて観劇。パンフレットも欲しかったが販売されておらず。

西宮市にある兵庫県立芸術文化センター中ホールで、「ブルックリン・ボーイ」を観る。ドナルド・マーグリーズ作、平川大作:日本語訳、グレッグ・デール演出。浅野和之主演。共演は織本順吉、神野三鈴、阿知波悟美、今拓哉、月影瞳、石田圭祐。

売れないユダヤ系小説家エリック・ワイス(浅野和之)は、4年がかりで完成させた自伝的小説「ブルックリン・ボーイ」が全米ベストセラーの11位にランクされることを知る。しかし良いことばかりではない。父親のマニー(織本順吉)は重い病気で入院中であり、死期が迫っている。
エリックの妻・ニーナ(神野三鈴)も売れない小説家であるが、夫婦仲はすでに破綻しており、エリックが父親を見舞いにブルックリンに戻ったその日が別れの日であることがすでに決まっていた。
「ブルックリン・ボーイ」の映画化はすでに決定しており、エリックはハリウッドへ。ハリウッドでの朗読会を終えた夜、エリックはアリソンという女の子(月影瞳)をホテルの部屋に誘う。翌日、ハリウッドのエージェント(阿知波悟美)や主演俳優候補(今拓哉)と会うエリック。実はハリウッドについたその日、エリックはある情報を得ていた……。

宣伝チラシには「ハートフル・エンターテインメント・コメディ」と書かれていたが、実際はビターにしてハートフルな大人のための演劇であった。実に良い劇である。
第1幕1時間、途中休憩を挟み、第2幕1時間10分の作品であるが、私は第1幕が終わった時点ですでに感動してしまっていた。
登場人物は7人だが、全編を通じて登場するのはエリック一人だけで、他の人物は1シーンか2シーンに登場するだけである。エリックともう一人による二人芝居(1つだけ三人芝居のシークエンスがある)の連作形式といって良いかもしれない。
生きることの切なさ、悲しさが抑えたタッチで綴られていく。そしてそれにより生きることの素晴らしさがしみじみと伝わってくる。観ているうちに心と体が清浄になるような、そんな作品であった。

「ブルックリン・ボーイ」

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目線

「目線」という言葉は古くからある日本語ではない。もともとは芸能用語である。不安定な世界に身を置く芸能人(特に演劇関係者)は不吉な言葉を極端に嫌う傾向があり、視線も「死線」に繋がるということで「目線」といっていたのである。
それが、テレビなどの普及により、出演している芸能人が「目線」という言葉を使うため、いつしか普通の日本語のようになって定着してしまった。別に悪いことではないと思う。ただ「めせん」というのは日本語としての響きが余り良くない言葉だと思われるのだがどうなのだろう。

私個人は「目線」ではなく「視線」を使うようにしている。「めせん」という響きにベッタリしたものを感じて嫌だからだ。

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2007年3月16日 (金)

シベリウスの年に(5) 藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団演奏会

シベリウス没後50年ということで、東京ではシベリウスの作品が例年より多くコンサートにかかる傾向があります。

一方、関西では、京都市交響楽団がオール・シベリウス・プログラムの定期演奏会を行ったのが目立つぐらいで、例年と余り変わりがありません。
ただシベリウスの交響曲第1番と第2番は人気曲目であるだけに、演奏はされています。
今日もシベリウスの交響曲第1番の演奏を聴いてきました。藤岡幸夫(ふじおか・さちお)指揮関西フィルハーモニー管弦楽団の「Meet the Classic vol.14」という演奏会に於いてです。会場は大阪・京橋の、いずみホール。

藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団コンサート メインはシベリウスの交響曲第1番

今年が没後100年に当たるエドヴァルド・グリーグと、没後50年を迎えたシベリウスの曲目を組み合わせたコンサート。冒頭に“アメリカのシュトラウス”ことルロイ・アンダーソンの「舞踏会の美女」が演奏されましたが、アンダーソンはハーバード大学でスカンジナビア語を勉強していたということで、苦しいながらもオール北欧関係のプログラムということになっています。

組曲「ペール・ギュント」第1番、青柳晋(あおやぎ・すすむ)のピアノによる『抒情小曲集』より「昔に」と「家路」、更にピアノ協奏曲イ短調第1楽章と、グリーグ作品が続けて演奏され、後半にシベリウスの交響曲第1番がメインとして置かれるというコンサート。

藤岡幸夫はバランスを重視した指揮を見せ、どの曲も安定感はありましたが傑出したところもこれといってなし。安心して聴けたのでよしとしましょうか。

シベリウスの交響曲第1番は藤岡の情熱的な解釈と指揮、分離が余りハッキリしないホールの音響、オーケストラの洗練不足などが重なり、少々暑苦しい演奏でした。藤岡は日本が生んだシベリウス演奏の権威、渡邉暁雄(わたなべ・あけお。母親がフィンランド人という日芬のハーフ)の最後の愛弟子の一人ですが、藤岡の演奏するシベリウスは師である渡邉よりも、情熱溢れるという点においてレナード・バーンスタインのシベリウスに良く似ていました。

関西フィルハーモニー管弦楽団は、管にミスが目立ったのが残念。特にフルートは明らかに指が回っていない箇所がありました。

演奏終了後、指揮者は演奏者を称えて一人ずつ、またはパートごとに立たせて聴衆の拍手を受けさせます。大抵の奏者は立たせて貰えるのですが、今回はさすがにフルートは立たせて貰えませんでした。コンサートは華やかですが、こういうところに厳しさも感じます。

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松井秀喜著 『不動心』

メジャーリーガー・松井秀喜選手の著書、『不動心』(新潮新書)を紹介します。松井秀喜選手は私と同じ昭和49年(1974年)生まれ。間違いなく昭和49年生まれの出世頭です。

タイトル通り、「広く深い心」と「強く動じない心」、つまり「不動心」を理想とする松井。スター選手でありながら決して傲ることなく謙虚に誠実に生きる松井選手のスタイルと野球哲学、そして野球だけではない哲学の根幹に触れることが出来ます。

松井秀喜 『不動心』

2006年5月11日、対ボストン・レッドソックス戦でダイビングキャッチをした際に左手首を骨折してしまった松井選手。復帰に向けての不安との戦い、マイナスとなる要素を悔いることなく、より成長するための機会と考える思考の切り替えなど、読者が知りたいこと学びたいことが記されています。
星陵高校の山下監督、巨人の長嶋茂雄監督、そして松井の両親など、松井秀喜という人間の人格形成に影響を与えた人々の姿に接することが出来、また松井選手が読者に対するサービス精神にも欠けていないことがわかる一冊です。

松井選手の人間としての生き方に感心すること、学ぶことも多く、野球ファンでない方にも一読をお薦めします。

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2007年3月14日 (水)

潮風を運ぶ音楽 遊佐未森『Small is beautiful』

遊佐未森 「Small is beautiful」 遊佐未森のアルバム『Small is beautiful』(イースト・ワールド)を紹介します。

全12曲を収録したアルバムですが、そのほとんどの歌詞に海を連想させる言葉(「海」、「潮風」、「波」など)が入っています。「海」のコンセプト・アルバムとは言い切れないかも知れませんが、室内に潮の香りを運び、頭の中に海を広げる音楽です。

小さな幸せを歌う表題作の他、失恋を歌った「ココア」、学生時代の恋人への温かで切ないメッセージソング「旅立ち」、東京を離れる女性の心境を歌った「サヨナラ東京」、空を彩っては消える花火と失った恋人への日本的感情を重ねた「空に咲く花」など、安らぎに満ちた歌と曲の数々に耳と心が波に洗われるような気持ちになること請け合いです。

遊佐未森

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2007年3月13日 (火)

シベリウスの年に(4) サカリ・オラモ指揮バーミンガム市交響楽団 「シベリウス交響曲全集」

サカリ・オラモ指揮バーミンガム市交響楽団 「シベリウス交響曲全集」 シベリウス交響曲全集3組目(昨年も含めると4組目)は、サカリ・オラモ指揮バーミンガム市交響楽団により2000年から2003年にかけて録音された比較的新しいものを紹介します。今はワーナー・クラシックスに吸収されてしまったエラートというフランスのレーベルが制作した全集で、エラートがシベリウスの交響曲全集を作るのはこれは初めてだったそうです。そしてエラート・レーベルの消滅により、エラート唯一のシベリウス交響曲全集となってしまいました。

サカリ・オラモは1965年生まれのフィンランドの俊英指揮者です。シベリウス・アカデミーで名教師のヨヌマ・パヌラに指揮法を学び、また同アカデミーでヴァイオリンを副専攻として練習に励んでいます(シベリウス・アカデミー指揮科では副専攻として他のオーケストラ楽器も学ぶようです)。フィンランド放送交響楽団のコンサートマスターとして活躍中のある日、予定されていた指揮者が病気で指揮台に立てなくなったため急遽指揮者としてデビューし、成功を収めています。その後、サー・サイモン・ラトルの後任としてバーミンガム市交響楽団の首席指揮者、音楽監督として活躍。バーミンガム市響との契約は今シーズン限りで満了となりますが、フィンランド放送交響楽団の首席指揮者、ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督として北欧を拠点とした活躍が始まります。

オラモは現代音楽を得意としているためか、シベリウスを指揮する時も他の指揮者なら滑らかにしてしまう細部を鋭く演奏し、シベリウスが20世紀の作曲家であることを再確認させてくれます。特に交響曲第1番の快速テンポと勢いを重視した演奏にそれが現れています。

交響曲第1番、第2番、第6番、第7番が特に優れていますが、全7曲が全て高い水準で演奏されており、強くお薦めしたい名盤です。

シベリウス/Comp.symphonies Etc: Oramo / City Of Birmingham.so

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好きな俳句(2)

春雨やものがたりゆく蓑と傘  与謝蕪村

情景が目に浮かぶような絵画的もしくは映像的な句です。

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2007年3月12日 (月)

取り敢えず、ジャイロ風ボールを投げてみる

先の記事でジャイロボールについて書いたので、私も実際にジャイロ回転のボールを投げてみることにしました。というよりジャイロボールの存在については以前から知っていたので真似事は以前からやっていたのですが。

ストレートを投げる時に、バックスピンを意識せず、リリースする際に手のひらを右投手なら右側に向けるようにすると、取り敢えずジャイロ風ボールは投げることが出来ます。しかし私の投げるジャイロ風ボールは、普通のストレートより明らかに遅く、しかもコントロールが利きません。というわけでいわゆるジャイロボール、より的確に言うとジャイロファーストボールを投げるのは私にはやはり無理でした。

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ジャイロボール

ジャイロボールが話題になっていますが、あれは変化球ではなくただのストレートです。ごく一般的なストレートとは回転が違うだけであり、また意識して投げられるものではありません。一種のクセ球であり、ジャイロボールではなく「ジャイロ回転しているストレート」といった方がより実際に近いと思われます。

日本のプロ野球にも、「ストレートが遅く、緩急をつけているわけでもないのに何故か空振りを取れるピッチャー」は何人もいましたが、彼らの多くは「ナチュラル・ジャイロボーラー」だったと思われます。

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歌詞検索

歌詞を検索するために当サイトにお越しになる方が多いようですが、それにはこのサイトが便利です。

歌ネット」 http://www.uta-net.com/

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2007年3月11日 (日)

好きな短歌(19)

淡海(あふみ)の海(み)夕波千鳥汝(な)が鳴けば情(こころ)もしのに古(いにしへ)思ほゆ  柿本人麻呂

優れた歌ですが、読みにくい漢字が並んでいます。

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観劇感想精選(3) WANDERING PARTY 「21世紀旗手」

2006年1月27日 京都のアトリエ劇研にて観劇

アトリエ劇研で「WANDERING PARTY」の『21世紀旗手』を観る。タイトルは太宰治の「20世紀旗手」から取られており、そこからもわかる通り太宰を主人公とした演劇である。井伏鱒二、川端康成といった文学界の巨星も実名で登場する。

一つ一つのシーンは面白い。全体の流れもいい。ただ、ラストが物足りない。もっと続きが観たいし、本当に大切なのは、そこ(ラスト)から先にあるのではないか、という考えも浮かぶ。
平岡君や丸山君といった人々が登場する。もちろん平岡君こと平岡公威の正体や、女っぽい男でシャンソン歌手の丸山君の現在の名前、太宰の娘・里子の将来などを「観客は一般常識としてわかっている」という前提でこの劇は進められている。そう思わないと演劇なんて出来ない。ただ、今日の観客はその部分で笑わなかったので、あるいは説明が必要だったのかも知れない。残念ながら。

戦後が舞台なのだが、最新式のオーディオ機器なども登場し、タイトル通り「21世紀(第二の敗戦後)」が第二次大戦後に重ねられている。効果的だったかどうかは疑問だが、表現としては面白い。でも、「銀巴里」を出すのなら(「銀巴里」は太宰の没後にオープンしたので、本当なら太宰がそこにいるはずはないのだけれど)、時代は少し飛ぶけれど中西禮三君も登場させて欲しかった。

熱海にいる太宰から「借金が返せない」という連絡が来たので、美知子夫人は太宰の友人である壇一雄(作家。女優・壇ふみの父親)に金を届けるよう頼む。しかし貰った金を太宰は豪遊に使ってしまい、やはり借金が払えない。そこで壇を人質として旅館に置き、太宰が金を借りに東京へ戻る、という、太宰ファンの間では「走れ太宰事件」として有名になっているエピソードも盛り込まれている。太宰はメロスとは違って戻ってこなかったのだけれど。
ちなみに今日の劇ではその舞台が京都になっていた。太宰は京都には来たことがないはずだが、京都のアトリエ劇研でやる劇なので別にいいのだろう。時代も飛んでるし、歴史考証の劇ではないのだから。
といいながら書くけれど、平岡君がボクシングの話をするが、平岡君は安部譲二に出会うまでは「ボクシング」というものを知らなかったはずである。

この劇は衒学的ではない。しかし衒学的に見えてしまう人がいることも察しがつく。それくらい、今の若者は文学的知識に乏しい。

太宰の遺書を使ったギャグがあったが、太宰の遺書を知らない人が意外に多かったようで、笑ったのは私を含めて数人ほどだった。

最後になるが、セットは相変わらず凝っていて感心する。

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2007年3月10日 (土)

共通語

石川啄木は、「悲しみは世界の共通語である」と言った。確かに。

私も言おう、「痛みは世界の共通語である」と。より肉体的であることを意図して。

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宿命としての誤読

「文学とは誤読の歴史である」

などを書くと大仰なようだが、それほど的外れな考えとも思っていない。例えば、明治期に自然主義文学が台頭した時期に多くの作家が、自然主義やリアリズムといったものを誤解し、西洋の作品を誤読した。そうして日本近代文学は初歩の初歩でねじ曲げられてしまったわけだが、当時の文学者達が総じて目の利かない人であったと言い切ることも出来ない。

文章は誤読を前提としなければならないところがある。

日本人が書いた文章を読むというと、日本語が出来さえすれば可能と思いがちだが、当然ながらそんなことない。文章を十全に理解するとは他者を完全に理解するということに近い。他者を100%理解することなど不可能である。理解しようと努力することは必要だが、それでも人間の能力には限りがあり、完全など絵空事に過ぎない。

ならば最も良く文章を理解する方法は、自己に引きつけて読むということになるのであるが、完全に同じ思考体系を持った人は複数いないので、読んだ結果には、作者と読者の間においても、読者同士の間であっても、当然ながら齟齬と乖離が生じる。自己を絶対化できる楽観的な人はともかくとして、幅の差こそあれ、そこに溝が生じることは避けられない。

しかしその溝がある瞬間、ほんの一部分だけ埋まることがある。共感というべきか共振というべきか、書き手と読み手の繋がる瞬間だ。あたかも普段は海によって隔てられた島と陸とが、潮の関係によって繋がることがあるように。

誤読があるということは、より成長できる可能性を秘めているということでもある。一度「わかった」と思えたことが、時を経て「わかっていなかった」と思えること、あるいは「更によくわかった」嬉しくなることがある。時を経たから正確性が増すというものでは必ずしもないので、それを成長と言い切ることは出来ないのだが(退化することもあり得るので)、別のステージに移行するしたと断言することは可能だろう。そして仮に退化したとしても、誤読が却って新しいものを生むことは少なくない。化学の場合は実験の失敗が発明に繋がることもある。文学もまた同様だ。そうしたことがある故に、文学は研究対象として成り立ち無限の可能性を秘めているのである。

誤読は、生み出しもする。何を誤読とするかによって人というものがわかる。また誤読は鎮痛剤にもなる。リアルすぎるリアルを直視できるほど、人間は強いものではない。
誤読するということはある意味においては悦ばしき宿命であるともいえるのだ。

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2007年3月 9日 (金)

観劇感想精選(2) 燐光群 「スタッフ・ハプンズ」

2006年2月6日 大阪・周防町(すほうまち)のウイングフィールドにて観劇

大阪・周防町にあるウィング・フィールドという小劇場で、燐光群の「スタッフ・ハプンズ」を観る。イギリスの劇作家、デイヴィッド・ヘアーの戯曲(日本語訳:常田景子)を燐光群主宰である坂手洋二が演出した。タイトルの「スタッフ・ハプンズ」とは、「ろくでもないことは、おきるものだ」という意味で、アメリカのラムズフェルド国防長官のコメントから取られている。

アメリカを始め各国の政治家達が実名で登場、イラク戦争に至るまでの舞台裏を描く虚実ない交ぜの政治劇であり、会話劇であり、歴史劇である。虚実ない交ぜとは書いたが、公の場での発言は一切手を加えることなく、セリフ化しているという。

主要登場人物は、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ米国大統領、リチャード・チェイニー副大統領、コンドリーザ・ライス国家安全保障担当大統領補佐官(現・国務大臣)、コリン・パウエル国務大臣(イラク戦争当時)、ドナルド・ラムズフェルド国防長官、ポール・ウォルフォウイッツ国防副長官(現・世界銀行総裁)、トニー・ブレア英国首相、ジャック・シラク仏国大統領、コフィー・アナン国連事務総長など。

硬質の芝居であり、入り込むまでには少し苦労する。役者達も慣れない単語だらけのセリフを発するのに難儀している様子が見て取れた。だが一度入ってしまうと興味深く面白い劇である。

納屋の内部のようなセット、一人何役も演じ分けるストーリーテラーの存在など、リアリズムの芝居ではないが、「迫真」の芝居である。

ネオコンの人達が悪代官や悪徳商人のように見えるのは難ありとも捉えられるのだが、案外彼らの本質は本当に悪代官や悪徳商人に近いのかも知れない。

ブッシュ大統領が傀儡(くぐつ)として描かれているが、それは真実であろう。

長々と感想を語るよりも、自分の中で反芻し、ゆっくり消化しながら味わうべき劇であるため、多くを書くつもりはないが、興味深い内容だったということだけは伝えておきたい。「神」、「自由」、「正義」、「平和」、「秩序」、「民主主義」など、甘い匂いで人々を惹きつける単語がセリフの中に散りばめられている。が、これらの言葉が持つ二面性と危険性に作家も演出家も自覚的であるため、単なるイラク戦争とアメリカ政治の概要や説明でなく、奥行きと力強いメッセージを持つ「演劇」にまで高めることに成功していた。

上演時間2時間半の大作であるが最後まで観る者を惹きつけていた、と書けるといいのだが、政治に興味のない人や演劇を見慣れていない人にはわかりにくかったかな、とも思う。

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2007年3月 8日 (木)

シャーロック・ホームズの晩年

今日、3月8日は語呂合わせでミツバチの日だそうです。

さて、「世界文学史上最も有名な探偵は?」と訊かれると多くの人が、「シャーロック・ホームズ」と答えると思われますが、そのシャーロック・ホームズは晩年に養蜂をしながら隠遁生活を送ったということになっています(『最後の挨拶』より)。50歳を手前にしてのリタイアだそうで、意外に早く探偵稼業を辞めているのですね。

ところでシャーロキアン(熱心なシャーロック・ホームズ・ファン)の協会(例えば、米ベーカーストリート・イレギュラーズ、英シャーロック・ホームズ協会など)に「シャーロック・ホームズは今どうしているのですか?」と問い合わせると、必ず「今もサセックス州で養蜂をして過ごしています」という答えが返ってくるというのですが本当かな?

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完璧主義者カラヤンの振る完璧なロッシーニ ロッシーニ「オペラ序曲集」

カラヤン指揮 ロッシーニ「序曲集」 20世紀最大の指揮者であるヘルベルト・フォン・カラヤンが1971年に手兵であるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と録音した、ロッシーニの「オペラ序曲集」を紹介します。ドイツ・グラモフォン・レーベル。

カラヤンが20世紀を代表する指揮者であり、史上最も有名な演奏家であることを否定する人はいないでしょうが、カラヤンの作る音楽に異を唱える人は多くいます。カラヤンという指揮者は音楽のフォルムを極限まで追求した演奏家ですが、それゆえに「外面的」、「浅い」という評価を受けることにもなりました。特にオーストリア人でありながら、ドイツ・オーストリア系の音楽を必ずしも得意としなかったことで、独墺音楽贔屓からは厳しい批判も受けています。

しかしながらカラヤンの良さは完璧主義であったが故に、どんな音楽を指揮する時でも決して手を抜かなかったことで、例えばこのロッシーニの序曲のように、深遠な芸術家は見向きもしない音楽に対しても真摯な態度で接しています。

イタリア人のオペラ作曲家で、晩年のベートーヴェンを脅かす存在であったことでも知られるジョアキーノ・ロッシーニは、18歳でオペラ作曲家としてデビューし、「天才」の名声をほしいままにしますが、本人は作曲にさほどの情熱を持っていなかったのか、37歳でオペラ作曲家としての筆を折り、40代前半で音楽界からも引退して、後半生は趣味の美食や料理研究、レストラン経営などをして過ごしました。

「音楽に対して誠実でなかった」というそしりを受けても仕方のないロッシーニさんですが、そんなロッシーニさんの気軽に書いたオペラ序曲をカラヤンは芸術へと昇華してみせます。

「セビリアの理髪師」、「泥棒かささぎ」、「セミラーミデ」、「ウィリアム・テル」、「アルジェのイタリア女」、「絹のはしご」の序曲、全6曲を収録。
ロッシーニはイタリアの作曲家だけに、クラウディオ・アバドやリッカルド・ムーティなどのイタリア人指揮者の演奏が良いように思いがちですが、イタリア人指揮者は得てしてカンタービレが強引であり、彼らの指揮するロッシーニは必ずしも万人向けではありません。
一方、カラヤンはロッシーニに深い思い入れがないということもあってか、聴き映えのする、耳に馴染みやすいロッシーニを生み出します。歌、迫力、バランス、ロッシーニ・クレッシェンドなどどれをとっても完璧であり、ロッシーニ序曲の永遠のスタンダードともいうべき演奏を繰り広げています。旋律の甘美な味わいという点においてカラヤンを上回る指揮者は当分現れないものと思われます。

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20歳の頃の自分に会う

現在、他のページに今から12年前、私が20歳だった頃の詩を載せている。詩とはいっても詩の体を成していないものから、そこそこの鋭さを感じさせるものまで色々だ。今の私に比べると思考が浅くて、勢いだけはあるという感じがする。救いがたく下手なものもあるけれど、今の私にはない実験精神を感じさせる作品も多い(そういった実験精神を感じさせるものは大抵ボツにはなっているのだけれど)。

12年前の原稿用紙を見ていると、原稿に向かっている20歳の頃の自分に出会ったような気分になる。懐かしい。

20歳の頃の私にはこう言ってやりたい。
「君、自分で思っているより倍は賢いからもっと勉強しなさい」と。

20歳の頃の私に今の私のことを聞かれたら、
「まあまあだね。思っていたほどではないけれど」と答えるだろう。

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2007年3月 6日 (火)

観劇公演パンフレット(9) 「フール フォア ラブ」

女優の寺島しのぶ氏がご結婚ということで、彼女の最新舞台のパンフレットを特別に紹介します。
アメリカを代表する劇作家の一人、サム・シェパードが1983年に発表した「フール フォア ラブ」。1983年度のオビー賞最優秀作品賞を受賞した作品です。
今回の演出を手がけたのは映画監督の行定勲。出演は寺島しのぶ、香川照之、甲本雅裕、大谷亮介の4人。大阪・茶屋町のシアター・ドラマシティにて観劇。

サム・シェパード作 行定勲演出 香川照之、寺島しのぶ主演 「フール フォア ラブ」公演パンフレット

ニューメキシコ州モハーヴェ砂漠にあるモーテルの一室が舞台です。そこに泊まっていたメイ(寺島しのぶ)をエディ(香川照之)という男が追いかけてきたところから物語は始まります。

「フール フォア ラブ」の感想

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2007年3月 5日 (月)

観劇公演パンフレット(8) 「ひばり」

ジャン・アヌイ作、蜷川幸雄演出、松たか子主演の舞台「ひばり」の公演パンフレットを紹介します。ジャン・アヌイは20世紀のフランスを代表する劇作家。彼の代表作である「ひばり」は英仏百年戦争の英雄、ジャンヌ・ダルクを主人公にした作品で、1953年に初演され大成功を収めています。

松たか子主演 蜷川幸雄演出 「ひばり」公演パンフレット

今回の「ひばり」は、2007年2月7日から28日まで、東京・渋谷のシアターコクーンでの公演。出演は松たか子のほか、山崎一、益岡徹、橋本さとし、小島聖、月影瞳、品川徹ほか。
パンフレットには、ジャン・アヌイと戯曲「「ひばり」の概説、百年戦争に関する解説、演出家の蜷川幸雄や出演者へのインタビュー、フランスを舞台にした歴史小説を多く書き、『ジャンヌ・ダルクの生涯』という作品も書いている藤本ひとみのジャンヌ論などが収録されています。

舞台「ひばり」の感想

午後7時からシアターコクーンで、松たか子主演の舞台「ひばり」を観る。作:ジャン・アヌイ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、演出:蜷川幸雄。松たか子と蜷川幸雄が組むのは9年ぶり、そして松たか子が演じるのはジャンヌ・ダルクという注目の舞台である。現在の日本で松たか子ほどジャンヌ・ダルクを演じるのに適任である女優はいない。ということもあり必見の舞台だ。松たか子をはじめ、益岡徹、山崎一、小島聖、橋本さとし、品川徹、月影瞳ほかが出演。

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2007年3月 4日 (日)

Who are You?

私は知りたい。どこから来たのか、何故来たのか、これからどこへ向かうのかを。あらゆる位相において意味において。それが叶わぬことと知りながら、いや叶わぬが故に。

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2007年3月 3日 (土)

イ・ウンジュ 『ONLY ONE』

イ・ウンジュ 「ONLY ONE」 2007年2月22日、韓国の女優、イ・ウンジュの2周忌に当たる日に発売されたアルバム、LEE EUN J∞『ONLY ONE』を紹介します。

イ・ウンジュの遺作映画となった『スカーレット・レター』で彼女が歌っていた「Only when I Sleep」の未発表音源を復刻、新人歌手のキム・テフンとのデュエット版と、イ・ウンジュのソロ版の2種を収録しています。故人が残した音源を復刻して発売するのは韓国史上初だそうです。

2005年2月22日に自らの手で24年の短い人生を閉じたイ・ウンジュ。韓国の若手女優の中でも演技力の高さには定評があり、まだまだこれからの人でした。5歳の頃からピアノを習っており、高校生の頃の将来の夢は音大に入ってピアニストになることだったというウンジュ。17歳の時にテレビドラマに出演したのがきっかけで演技の魅力にとりつかれ、女優へと進路を変更しますが、ピアノや歌のレベルも相当なものであり、その実力がこのアルバムで発揮されています。「Only when I Sleep」で聴かせるチャーミングな歌声、そして彼女がピアノ演奏を担当した「永遠の片想い(原題:恋愛小説)」テーマ音楽の優しさ溢れる表情などは韓国映画ファン必聴です。

「Only when I sleep」を歌うイ・ウンジュ
「Only when I Sleep」を歌うイ・ウンジュ(映画『スカーレット・レター』)

イ・ウンジュ 「ONLY ONE」ライナーノーツより
イ・ウンジュ アルバム「ONLY ONE」ライナーノーツより

関連サイト 韓国「Mnet」(「Only when I Sleep」のビデオクリップを見ることが出来ます)
http://www.mnet.com/Ver2/AlbumBoom/albumBoomPage/20070214_lee/leeDetail.php

※写真はいずれもアルバム『ONLY ONE』に掲載されたものです。二次転載を禁じます。勝手に持って帰らないで下さい。

イ ウンジュ/Only One: Tribute To イ ウンジュ

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2007年3月 2日 (金)

観劇感想精選(1) 遊園地再生事業団+ニブロール 「トーキョー/不在/ハムレット」

2005年1月28日 京都芸術劇場“春秋座”にて観劇

京都芸術劇場春秋座で遊園地再生事業団+ニブロールの「トーキョー/不在/ハムレット」を観る。宮沢章夫作・演出。上演時間2時間45分(途中休憩なし)の大作である。

舞台は埼玉県の北川辺町。ある日、利根川に少女の死体が浮かぶ、上流の渡良瀬川で入水自殺したものが流れ着いたようなのだが…。
タイトルには「トーキョー」、「不在」、「ハムレット」と3つのワードが並ぶが、これはトーキョーの話でも、不在を主題とする物語でも、ハムレットのパロディでもない。
「不在」と打つことで浮かび上がるのは人間の存在の不確かさだ。物語は重層性を帯び、重厚でありながら、そうは感じさせず、むしろ軽さが浮かび上がる。透明なガラスを通して朧気なものを見ているような不安定感。二律背反のものを同時に抱え込んだ人間の不確かさが目に迫る。
ストーリーは明確ではなく、人間関係も複雑だが、それでいながら何かが脳の中でほどけていくような快感がある。
これはミステリーだが解く意味のないミステリーだ。人生そのもののように。
映像、モノローグを多用し、また舞台上を手前と奥の二つに分け、奥を映像ブースにするなど意欲的な試みもある。演劇の幅が広がったような気がする。それが良いことなのかどうかは書かないが。
テキストには芥川龍之介の短編小説によく似たシーンが入っていたが意識したのか、偶然か。多分偶然だろうな。
宮沢自身が手がけた美術、桜井圭介の音楽も効果的。ラストのロウソクやマッチの火を使ったシーンも印象的だが、これは私も考えたことがあるので新鮮な感じはしない。
北川辺の隠れキリシタン伝説を用いて奥行きをつけているが、まるで京都造形芸術大の同僚であった松田正隆の芝居のようなところもある。「おらしょ」を伝える主人公の家の名字は「松田」だが意識したのだろうか。ちなみに「トーキョー/不在/ハムレット」は明日も上演され、公演終了後に行われるシンポジウムには松田正隆も出席する。

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楽譜ネット

楽譜をお探しの方は以下のサイトをご利用になると便利です。

楽譜ネットhttp://www.gakufu.ne.jp/

検索機能も充実しています。

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2007年3月 1日 (木)

芥川龍之介の誕生日

今日、3月1日は、大正から昭和初期にかけて活躍した小説家、芥川龍之介の誕生日です。

私が生まれて初めて好きになった日本の文豪が芥川龍之介。小学生の頃は、「トロッコ」、「羅生門」、「杜子春」、「魔術」、「白」、「保吉の手帳から」、「蜜柑」、「鼻」、「蜘蛛の糸」などに夢中になり、大学生になってからは筑摩文庫版の「芥川龍之介全集」を購入して全作品を読んでいます。

芥川龍之介という人は、実は不器用な作家で、初期から中期にかけては駄作の数が傑作のそれをはるかに上回っています。芥川はデビューして間もない頃に広津和郎から、「はやくも濫作をはじめたか」と文芸批評誌で批判を受けたそうですが、それもむべなるかなとしか言えないほどの駄作揃いです。
また芥川という作家は長編小説を一編もものに出来ませんでした。一番長い小説は平安時代を舞台にした呪術を巡る物語なのですが、これは芥川の力不足により未完に終わっています。

芥川の作品で私が優れていると感心するのは晩年の作品群。「歯車」などのかなり「来ている」作品です。当時、芥川は精神的にかなり病んでおり、親しい女性に心中を持ちかけるなど、まともとは思えない行動が目立つようになっていましたが、そのある種の狂気が、大正から昭和初期の時代の文学的限界を打ち破る原動力になったことも否めないように思います。
これだから文学は恐ろしくも面白く、私は文学と芥川龍之介という作家に惹かれるのです。

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