« 観劇感想精選(2) 燐光群 「スタッフ・ハプンズ」 | トップページ | 共通語 »

2007年3月10日 (土)

宿命としての誤読

「文学とは誤読の歴史である」

などを書くと大仰なようだが、それほど的外れな考えとも思っていない。例えば、明治期に自然主義文学が台頭した時期に多くの作家が、自然主義やリアリズムといったものを誤解し、西洋の作品を誤読した。そうして日本近代文学は初歩の初歩でねじ曲げられてしまったわけだが、当時の文学者達が総じて目の利かない人であったと言い切ることも出来ない。

文章は誤読を前提としなければならないところがある。

日本人が書いた文章を読むというと、日本語が出来さえすれば可能と思いがちだが、当然ながらそんなことない。文章を十全に理解するとは他者を完全に理解するということに近い。他者を100%理解することなど不可能である。理解しようと努力することは必要だが、それでも人間の能力には限りがあり、完全など絵空事に過ぎない。

ならば最も良く文章を理解する方法は、自己に引きつけて読むということになるのであるが、完全に同じ思考体系を持った人は複数いないので、読んだ結果には、作者と読者の間においても、読者同士の間であっても、当然ながら齟齬と乖離が生じる。自己を絶対化できる楽観的な人はともかくとして、幅の差こそあれ、そこに溝が生じることは避けられない。

しかしその溝がある瞬間、ほんの一部分だけ埋まることがある。共感というべきか共振というべきか、書き手と読み手の繋がる瞬間だ。あたかも普段は海によって隔てられた島と陸とが、潮の関係によって繋がることがあるように。

誤読があるということは、より成長できる可能性を秘めているということでもある。一度「わかった」と思えたことが、時を経て「わかっていなかった」と思えること、あるいは「更によくわかった」嬉しくなることがある。時を経たから正確性が増すというものでは必ずしもないので、それを成長と言い切ることは出来ないのだが(退化することもあり得るので)、別のステージに移行するしたと断言することは可能だろう。そして仮に退化したとしても、誤読が却って新しいものを生むことは少なくない。化学の場合は実験の失敗が発明に繋がることもある。文学もまた同様だ。そうしたことがある故に、文学は研究対象として成り立ち無限の可能性を秘めているのである。

誤読は、生み出しもする。何を誤読とするかによって人というものがわかる。また誤読は鎮痛剤にもなる。リアルすぎるリアルを直視できるほど、人間は強いものではない。
誤読するということはある意味においては悦ばしき宿命であるともいえるのだ。

|

« 観劇感想精選(2) 燐光群 「スタッフ・ハプンズ」 | トップページ | 共通語 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/40048/14216024

この記事へのトラックバック一覧です: 宿命としての誤読:

« 観劇感想精選(2) 燐光群 「スタッフ・ハプンズ」 | トップページ | 共通語 »