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2007年8月18日 (土)

美しいとは、「美しいという固定的状態」にあるのではなく、「美しくありたい」という願望と行為の中にあると思われるのです。

そして、「美しくありたい」という目標にある美しさとは、絵葉書的な美しさではなく、絶えず移り変わる美しさであると思います。それは気構えであり、姿勢であり、行動です。

固定的な美を求めよるとする願望は美とは正反対の卑しい願いに陥る可能性があります。それは自己愛であり、権威欲であり、ドグマであり、ある意味怠惰です。

生きるとは常に「過程」です。流動的なものです。過程に美を見いだせないならそれはそれで寂しいことです。

ただ、そう思いながらも私は恐怖もまた感じるわけです。チェーホフの言葉を借ります。
「わたしたちの時代は過ぎてゆく」(『かもめ』より 神西清:訳)

あるいは美意識とは過ぎゆくものへの恐怖が生み出したものなのかも知れません。
権威者が必要以上に固定的な美に拘るのも、恐怖心の裏返しなのでしょうか。

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