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2007年9月30日 (日)

観劇感想精選(18) 兵庫県立ピッコロ劇団 「KANADEHON 忠臣蔵」

2006年1月30日 兵庫県西宮市の兵庫県立芸術文化センター中ホールにて観劇

西宮に行く。阪急西宮北口駅南口という紛らわしい場所にある兵庫県立芸術文化センター中ホールで上演されるピッコロ劇団の公演、「KANADEHON 忠臣蔵」を観るためである。

兵庫県立芸術文化センター中ホールに入ると、演出の加納幸和氏がロビーに立っているのが目に入る。演出だけならともかく、加納さんは出演もするのである。しばらくすると脚本の石川耕士氏もやって来て二人で談笑を始めた。「余裕あるなあ」と感心する。

午後7時、「KANADEHON 忠臣蔵」開演。脚本は市川猿之助一門の歌舞伎台本の補筆や脚色などを担当した石川耕士。演出は花組芝居の加納幸和。主役の大星由良之助を演じるのは渡辺徹。渡辺徹というと「太ったおじさん」というイメージしか持っていない人もいるかも知れないが、彼は文学座に籍を置く、れっきとした新劇俳優である。おかると勘平の勘平を演じるのは花組芝居の各務立基。その他の役はピッコロ劇団のメンバーが演じる。

石川耕士のテキストレジによる全段上演である。「仮名手本忠臣蔵」は全段を上演すると12時間以上かかるのだが、それを2時間30分にまとめている。ただ石川は元のセリフになるべく忠実になるよう気を配っている。

面白いことが起きる。役者の発音が明瞭なのに何と発音しているのかわからないという現象がたびたび起こったのである。何故かというと、江戸時代には日常語であったが今では滅多に使われない言い回しや単語がどんどん出てくるのだが、こちらの頭の中にそれに適応する単語がないか、奥に引っ込んでいるためである。数秒のタイムラグを経てやっと頭の中で言葉がリンクして、「ああ、こう言っていたのか」とわかることも多かった。

登場人物は、舞台に出てくると同時に、自分が誰で何をしに出て来たのか語ることが多いため、非常にわかりやすい。しかも観ているこちらもそれが嫌ではないのである。「これはそういう決まり事だから」と、些末なことにはとらわれないのである。
そう、私は、いや私に限らず観客は舞台上に現実の続きを求めてはいない。だから不自然さや、作り物めいていることなど気にしないのである。

ということは、現代の劇作法にも絶対などあり得ないということである。

維新後、新派と呼ばれる演劇が台頭した。新派があるなら旧派もあるわけで、旧派とは歌舞伎のことである。新派は歌舞伎を否定し、新しい劇を作ろうとした。その新派を否定すべく登場したのが新劇であり、新劇を否定したのがアングラ(アンダーグラウンド演劇)である。
新しいものを作るためには前世代のものを否定する必要が出てくる。取って代わろうとするなら全否定もする。
しかし全否定など本来は出来るはずがないのだ。全否定しようとしたら、全否定しようとする側の寄って立つ基盤をも、少なくともその一部は否定しなくてはならなくなるからである。
それでも取って代わろうとするなら、全否定するくらいの勢いがないと何も成せない。しかし、その結果、無理が生じ、溝が出来たのである。発生した無理は修正され、溝は埋める努力をする必要があった。しかし、それは上手くいかなかった。

そして、あり得ない「絶対」が生まれ、その「絶対」が更に純化され、演劇は大切な何かを置き忘れることになったのではないだろうか。

今日の劇は、「こういうものだから」というお決まりに沿って観た。ある意味、積極的に騙されようとしたのである。騙され方の上手い観客は、良い観客の手本ではないだろうか。そして、騙されると同時に騙している側の本質を捉えている。これが良き観客の理想である。そしてこの理想は絵空事ではない。実際、こういった優れた観客は何人も存在するはずだ。

「KANADEHON 忠臣蔵」に話を戻そう。基になった「仮名手本忠臣蔵」は大坂で人形浄瑠璃のために書かれ、歌舞伎の義太夫狂言として江戸で大当たりを取った作品である。歌舞伎なので出演者は当然全員男性である。
しかし、「KANADEHON 忠臣蔵」は普通の劇団による上演であり、女の登場人物を演じるのは加納幸和以外は全員女優である。

女優が女性を演じると、当然ながら自然である。女性心理の表出も的確だ。しかし、その一方で、「流れが良すぎるな」とも感じるのである。

女形は男が女を演じる。女形は女っぽい男性が務めることが多いが、いくら女っぽいとはいえ、体格も容貌も男である。だから無理と窮屈さが生まれる。しかしこの窮屈さが、不思議な色気を持っているのも事実であり、今日、それを再確認した。女形には様式美が持つ妖しさがあると確認したと書くと、より正確だろうか。

加納幸和は、主宰する劇団・花組芝居で「ネオかぶき」という独自のスタイルの上演を続けていて、高い評価を得ている。しかし、今回の劇では、歌舞伎色を前面に押し出すことなく、「義」や「道」といった日本人の精神を浮かび上がらせることを重視していたようだ。

蝶をモチーフにした舞台美術の意図が最初はわからなかったが、討ち入りの場面になってわかった。なかなか効果的である。

政治史においても、経済史においても、文学史でも音楽史でも、人間は過ちを繰り返してきた。演劇だけが誤ることなく、滞りなく進んでいるとは思えない。演劇だけがいつも正しい歴史を歩んできたのだとしたら、その方が不自然である。
我々は本当に大切なものを見失っているのではないか。そういう考えが浮かぶ。

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