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2007年12月25日 (火)

観劇公演パンフレット(22) 「アンデルセン・プロジェクト」

白井晃が初めて取り組んだ一人芝居でもある「アンデルセン・プロジェクト」。カナダ・ケベック州出身のロベール・ルパージュの作・演出です。テキスト日本語訳は松岡和子。
2006年7月15日、兵庫県立芸術文化センター中ホールで観劇、パンフレット購入。

「アンデルセン・プロジェクト」公演パンフレット デンマークの童話作家、ハンス・クリスティアン・アンデルセンの人生を、アンデルセンその人は出さずに炙り出すという、高度な作劇術を持った作品であり、観ているときや、見終わった直後よりも、観てから数日経ってから、描かれた内容の切実さが、そっと、しかし確実に心に染みてくるというタイプの劇です。パンフレットには、ロベール・ルパージュの演出ノート、翻訳家・松岡和子のエッセイ、白井晃により初の一人芝居に対する思いと「アンデルセン・プロジェクト」という作品ならびにルパージュ演出に寄せる文章、アンデルセンの年表、ケベック文化の紹介などが載っています。

「アンデルセン・プロジェクト」概要および感想

西宮の兵庫県立芸術文化センター中ホールで、白井晃の一人芝居「アンデルセン・プロジェクト」を観る。デンマークの童話作家、ハンス・クリスティアン・アンデルセンの、童話ではなく、アンデルセン本人にスポットを当てた作品。といってもアンデルセンの生涯そのものが描かれるわけではない。カナダ・ケベック州の舞台人にしてマルチクリエーターのロベール・ルパージュの作・演出。翻訳はちくま文庫のシェイクスピア翻訳で知られる松岡和子。            

白井晃は、モントリオールで活躍している作詞家のフレデリック・ラポワント、パリ・オペラ座(バスティーユではなく旧オペラ座の方)のディレクターであるアルノー・ギンブレティエール、モロッコからの移民であるラシド・エルワラシの3人を主に演じる(他にもアンデルセン本人になったり、アンデルセン童話に出てくる女の妖精ドリアーデの格好をしたり、同じくアンデルセン童話の「影(影法師)」に出てくる大学教授とその影を演じたりするが、これらはいずれも説明のために挿入された芝居で、「アンデルセン・プロジェクト」という芝居の本筋とは関係がない)。
意外であるが白井が一人芝居を行うのはこれが初めてだそうだ。

現代、パリ。モントリオールで作詞家をしているラポワントは、パリ・オペラ座からの依頼を受けて、アンデルセン童話を原作とした新作オペラの脚本を書くためにパリにやって来た。パリにはラポワントのロックアーチスト時代の友人であるディディエがいるが、彼は麻薬中毒の治療のためモントリオールを訪れることになり、そのためラポワントとディディエは2ヶ月だけ互いのアパートを交換したのだ。ディディエのアパートメントの一階はブルーフィルム(ポルノビデオ)試写室を営業しており、いかにもいかがわしい雰囲気が漂う。そのブルーフィルム試写室で働いているのがモロッコからの移民であるエルワラシだ。

ラポワントは、オペラ座のディレクターであるアルノー・ギンブレティエールと会う。ギンブレティエールは、アンデルセンの童話「木の精ドリアーデ」を子供のためのオペラに仕立てる計画をラポワントに話す。この場面のギンブレティエールは大変な早口で淀みなく語り、ここにギンブレティエールという男の性格が良く出ている。
実はオペラ座としてはイングリッシュ・ナショナル・オペラと合同でイギリスものをやりたかったのだが、最近、北欧方面がないがしろにされているということで、渋々、デンマークものをやることになったのだ。また、カナダともパイプを繋いでおきたいと思っており、カナダ人のラポワントが呼ばれたのはそのためだった。

「木の精ドリアーデ」オペラ化の会議がデンマークのコペンハーゲンで開かれることになる。しかし本来それに参加するはずのギンブレティエールはミラノ・スカラ座の仕事が入ったため、代理としてラポワントを会議に参加させることにする。

コペンハーゲンでの会議の場で、ラポワントは「木の精ドリアーデ」の主題はセックスであり、生涯、誰とも一度も性的関係を持たなかったアンデルセンの願望が表れていると発言する。しかし、子供向けのオペラなのに、例えそれが真実であったとしてもそういうテーマを持ち出すラポワントに賛成するものはいなかった。丁度その頃、パリ・オペラ座には、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の関係者がアポなしでやって来ており、「木の精ドリアーデ」のオペラ化に興味を示す。コペンハーゲンでの会議の模様とメトロポリタン歌劇場関係者の様子を聞いたギンブレティエールはラポワントを降ろし、ブロードウェイの作家にオペラ台本を依頼することを即決する。実はラポワントは白子であり、ギンブレティエールは密かに差別意識を持っていた……。         

マルチクリエーターであるロベール・ルパージュの演劇は映像の使い方が巧みとのことであったが、私はむしろ舞台装置とその使い方の面白さに感心した。歌舞伎にヒントを得たという早替えが効果的であり、ピアノ線とリードのみを使って、存在しない犬の動きを観客に「見えるかのように」表現してみせるアイデアなども秀逸だ。
白井晃の演技も素晴らしい。
ただ、何かが足りないように思う。それが何なのかと終演後も考えていたのだが、実はルパージュ演劇の特徴である映像の使い方に問題があったのではないか、という答えに行き着く。映像そのものは良いのだが、それらの映像は、実は不必要で、観客の想像力に委ねた方が効果的だったのではないだろうか。映像があると当然ながらイメージは固定されてしまう。例えば、19世紀のパリの絵が映し出される場面。パリの絵は確かに効果的だが、「19世紀のパリ」はその言葉から想像したイメージの方が、映像に映し出される絵よりも美しく、そこに物足りなさが生じたのだと思われる。わかりやすい、本当の意味での目に見えるような表現が却ってあだになるとは皮肉なものだ。

 

劇の内容は深く、重い。白子であるラポワントの姿は、容貌が醜く体も不自由で歩き方がぎこちなかったというアンデルセンの姿と重なる。二人とも子供の頃に差別といじめを受け、人生の生きにくさを早くに知ってしまった。そして、普通とは異なるが故に差別と生きにくさは今も続く。

アンデルセンは生涯誰とも性的関係を持たなかった。ラポワントは「アンデルセンはホモだった。あるいはバイセクシャルだった」と分析しているが、アンデルセンは女性にも恋したことが作中で語られている。その恋はいずれも実らなかったのだが、顔が醜く、体の動きもギクシャクしていて、更に精神病院で亡くなった父親と、虚言癖がありアル中で亡くなった母親との間に生まれたアンデルセンを本気で愛してくれる女性は一人もいなかったのだ。哀れなことに。

オペラ座のディレクター、ギンブレティエールもアンデルセン的な一面を持っている。童話作家であるアンデルセンは実は子供が大嫌いであった。貧しく問題ある家庭に生まれ、しかも醜かったアンデルセンは小学校に上がると同時に手酷いいじめに遭っており、その経験から「子供は残酷な生き物だ」という考えが生涯抜けなかったのだ。ギンブレティエールには妻子がいるが、妻は浮気をしており、娘のイゾルデとギンブレティエールとは一見仲が良いようだが、実はイゾルデはギンブレティエールを本心では嫌っているようだ。
ギンブレティエールにはどうやらサディスティックな傾向があるようで、「離婚したらイゾルデは母親のところに行ってしまう」というセリフから窺うに、幼児虐待の性癖があるのかも知れない。少なくともギンブレティエールが何らかの異常性癖を持っていることは確かで、友人の精神科医にブルーフィルム試写室で「再発した」ということを語る場面がある。

劇はラポワントの独白(スクリーンにはパリ・オペラ座の内部が映されており、ラポワントはオペラ座の客席に向かって話しかけるという趣向だ)で終わる。ラポワントは、「モントリオールにはパリが世界の中心だと信じている人が多い、そんな時代じゃもうないのに」と語る。「しかしヨーロッパで成功しなくては本当の成功とは認められない」という。そしてアンデルセンのことに触れるのだ。アンデルセンもまたそうだったと。当時はヨーロッパの田舎であったデンマークで活躍していたアンデルセン。しかしいくら人々から作品を愛されても本当の意味では尊敬を勝ち得ることは出来なかった。だからアンデルセンはパリに行ったと。当時は正真正銘の文学の首都だったパリでバルザックやビクトル・ユゴーらと交友することで自分が真に優れた文学者であることを示したかったのだと。

ラポワントは自分が滞在していたアパートメントが火事で燃えていることを告げる(ということはこのオペラ座は本当の意味での「架空の存在」なのだろうか)。火に包まれながらこう思ったと。「アンデルセンの童話では欲望や幸せになりたいという願望、上昇志向を持つ者は不幸な結末を迎え、動物や植物だけが生き残る」。

実際にこの解釈でアンデルセン童話を読んでみると、確かにそうである。「人魚姫」では、人魚姫は王子と付き合いたいという願望を持ったが為に海の泡と消える。「マッチ売りの少女」で、少女は幸せな夢を見たがために凍え死ぬ。

 

私はここで更に考えを進めてみたいと思う。童話の主人公達にはアンデルセン自身が投影されており(これはある程度当然だ)、またアンデルセンの願望が込められている。「人魚姫」には足が不自由だったアンデルセンの姿を重ねることが出来るし、「マッチ売りの少女」の貧しい少女の姿は貧しかった子供の頃のアンデルセンそのものだ。また、「みにくいアヒルの子」では、容貌の醜い自分(アンデルセン)であるが、実は白鳥なのだという誇り(劣等感の裏返しであるが)が感じられ、「王子と乞食」でも、乞食だけれど実は王子であるというところに、アンデルセンの「自分を気高い存在なのだと思いたい気持ち」を読み取ることは容易だ。

何故、アンデルセン童話の中では幸せを願うものは不幸になるのか。そこには同時代の成功した作家への嫉妬、子供の頃から抱き続けていた世間へのルサンチマン、そしてそのために幸せを信じられないという心、自戒の念と冷徹な視線などがない交ぜになり、強烈なコンプレックス(観念複合性)が形作られていることが見て取れる。

童話作家として人々から愛されたのに、実生活では女性からの愛を一度も勝ち取ることが出来なかったアンデルセン。アンデルセンには好きになった女性に特別に自伝を書いて送るという癖があった。童話作家としてではなく、人間としての自分を愛して欲しかった。心から受け入れて欲しかったのだろう。しかし、問題ある貧しい両親や苦難に満ちた少年時代のアンデルセンのことを知って、それでも彼を受け入れてくれる女性はいなかった。100%受け入れられることなどないのに、本人もそれはわかっていたはずなのに、それを求めたであろうアンデルセン。

優れた才能に恵まれながら、自意識に苛まれ、自分の望む本当の幸福からどんどん遠ざかっていく、この世で最も哀れな人間の姿が浮かぶ。

「アンデルセン・プロジェクト」はそうした哀れな男の姿を浮かび上がらせる、残酷で且つ優れた舞台であった。遊園地的な単純な面白さはないし、ストーリーは重く、時に退屈だ。だが、見終わってからもずっと心に残り続ける。様々な考えが浮かび、それについてもっと知りたいと思う。そうした意味で真に深く面白い作品であり、蟻地獄のような怖ろしさを持つ演劇でもあった。

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