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2008年1月14日 (月)

観劇感想精選(26) 下鴨車窓 「旅行者」

2006年3月21日 京都芸術センター・フリースペースにて観劇

京都芸術センターへ。下鴨車窓の「旅行者」を観るためである。午後に7時開演。作・演出は田辺剛。

能の橋架かりのように、舞台奥から坂になった橋が下りている。他には細いポールが一本あるだけというシンプルな舞台。こういうシンプルな舞台装置は個人的には大好きである。

いつ、どこともわからぬ「乾いた」場所。遠くには竜巻が不吉な予兆(オーメン)のように「居る」。
生活に困りがちな夫婦(ハラダリャン&金乃梨子)の家に、ある日三人の姉妹がやって来る。姉妹達は、ここが叔父のいる場所だというのだが、夫婦は彼女たちに見覚えがないし、叔父も知らない……。

基本的には「日常(といっても演劇なので「いかにも日常です」という感じではないのだが)」が「非日常」に侵されていく話なのだが、色々な要素が絡んでくる。
まず、「日常」と「非日常」についての私見を述べる。「私」が「日常」と感じている日常は果たして「日常」か? 「私」は社会の中に溶け込みつつ独立した「個」という曖昧な存在である。「私」が知り得る「日常」は社会の一部であり、それでいて「私的」なものだ。「私」の「日常」の範囲は実はかなり狭い。それ故、「私」の外の「日常」が「非日常」である可能性は高いし、外の「日常」から「私」が「非日常」に置き去りにされていることだってある。

この劇からは、二律背反のようでありながら実は両者が溶け込んでいるカオスのようなものを感じた。「文字が読めない女性」や「文学を学んだ女性」が登場人物として出てくるが、文字や文学に代表されるエクリチュールは、ディスクールとはやや趣を異にし、カオスを截然と断ち切り、整序する働きがあるように思う。しかし世界の本質は今も昔もカオスなのだ。そしてある意味そのカオスは優しいともいえる。

実際のところ、人間存在はそれほど強いものではなく、「取り敢えずの制度」によって、己を己たらしめているところがあると思う。人間は時という偉大な旅行者の前では無力であり、その存在は小さく、不確かだ。記憶、証拠、あらゆることを並べても、すなわち「故に我あり」となるのかどうか。記憶がしばしばその持ち主に嘘をつくことは誰もが経験しているだろうし、証拠といっても確固たるものなどあるいは何もないのかも知れない。

そういうカオスの中にありながら、希望へと向かって「旅立つ」者、取り敢えずここを離れる者。思い出を裏切れない者、留まる者。皆それぞれ潔いと思う。儚いけれど意志ある存在としての人間。強くて弱い「存在」としての人間の様々な形を見ることが出来たように思う。

人生を行く我々もまた「旅行者」で、今日の次は明日、明日の次は明後日という、マンネリ的「日常」に常に留まっているわけではない。人間という「存在」に四苦があり、人間という「現象」に愛別離苦があり、怨増得苦があり、求不得苦がある。妙な言い方だが、「非日常」こそが日常なのかも知れない。

と、理屈っぽくなったので、他のことも述べるが、やはり人を動かすのは人を思う気持ちなのだと再確認した。当たり前だが、悲しみは別れるという行為そのものにではなく、別れる人との思い出と、別れる人への思い入れに宿るのである。

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