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2008年1月の31件の記事

2008年1月31日 (木)

アルバン・ベルク・カルテット ドビュッシー&ラヴェル「弦楽四重奏曲」+ストラヴィンスキー「弦楽四重奏のための3つの小品」

今年の世界ツアーを最後に活動に終止符を打つアルバン・ベルク・カルテット(アルバン・ベルク弦楽四重奏団)。「世界最高の弦楽四重奏団」と賞賛された名団体の解散はやはり寂しいものがあります。

アルバン・ベルク・カルテットが録音したディスクから1枚紹介します。ドビュッシーの弦楽四重奏曲ト短調と、ラヴェルの弦楽四重奏曲ハ調、ストラヴィンスキーの「弦楽四重奏のための3つの小品」を収めたCD(EMI)。

アルバン・ベルク・カルテット ドビュッシー&ラヴェル「弦楽四重奏曲」+ストラヴィンスキー「弦楽四重奏のための3つの小品」 室内楽、弦楽四重奏曲というと、「地味」、「聴くよりも弾いて楽しむもの」というイメージがあり、実際そうなのですが、曲によってはチャーミングな旋律や面白い響きを持っていて、他のクラシック音楽同様、若しくはそれ以上に楽しめます。

ドビュッシーの弦楽四重奏曲ト短調は独特の響きが、ラヴェルの弦楽四重奏曲ハ調は洒落た旋律が、ストラヴィンスキーの「弦楽四重奏のための3つの小品」は特異なリズムが魅力的であり、弦楽四重奏曲を初めて聴くなら、ドイツものよりも、こうしたフランスやフランスに影響を受けた作曲家の作品を聴いた方が取っつきやすいと思われます。

ウィーンを本拠地とするアルバン・ベルク・カルテットですが、フランスものへの対応力も高く、並みのフランスの団体よりもエスプリの利いた名演を繰り広げています。

ドビュッシー、ラヴェル/String Quartet: Alban Berg.q +stravinsky

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2008年1月30日 (水)

これまでに観た映画より(17) 『シコふんじゃった。』

DVDで、日本映画『シコふんじゃった。』を観る。周防正行監督作品。出演は本木雅弘、清水美砂、竹中直人、柄本明、田口浩正ほか。
千葉にいた頃はこの映画のセルビデオを持っていて何度も観た。何度観ても勇気づけられる良い映画である。

教立大学(モデルは漢字をひっくり返した立教大学。周防正行監督の母校である)の4年生である山本秋平(本木雅弘)は就職も決まり、所属するシーズンスポーツ同好会の夏合宿である沖縄スキューバツアーを企画して盛り上がっている。しかし遊び学生である秋平は単位が足りず、卒論も書けそうにない。そこで卒論担当教授の穴山(柄本明)は、かって自分が所属していた教立大学相撲部に入って大会に出てくれれば、特別に卒論の単位を出してもいいと提案する。教立大学相撲部には青木(竹中直人)という大学8年目の学生一人しか所属していない。このままでは大会に出られないのだ。
単位と引き替えに相撲の大会に出ることにした秋平は青木とともに部員の勧誘を始めるのだが……。

海外でも評価の高い名画である。1992年の作品。ということで、当然ながら出演者は皆まだ若い。

ライバル校として登場する大学もみな漢字を逆にしただけなのでどこの学校がモデルなのかすぐわかる。北東学院大学、波筑大学、応慶大学、衛防大学校、本日医科大学など。何てイージーな。ちなみに本日医科大学の相撲部員役で無名時代の手塚とおるが出ているのだが、役名は足塚であった。これもまたイージーな。

余談だが、秋平(本木雅弘)の、「沖縄……、スキューバ……」を、青木(竹中直人)が「え? 大きなスケベ?」と聞き違えるという、かなり笑えるシーンがあるのだが、青木のセリフは竹中直人のアドリブだそうである。

周防正行監督はもともとはロシア文学が好きで、ロシア文学科のある早稲田大学に行きたかったのだが、二浪しても(その間、勉強せずに映画ばかり観ていたということもあって)入れなかった。フランス文学も好きだったので、立教大学の仏文科に進んでいる。当時、立教大学には映画評論家として著名な蓮實重彦(のちの東京大学総長)が助教授として籍を置いており、周防監督は蓮實重彦の「映画論」の講義に感銘を受けて映画を撮り始めるようになる。

なぜ、周防監督の経歴について書いたかというと、『シコふんじゃった。』の人間関係における「片思いの連鎖」はチェーホフの『かもめ』の影響なのではないか、と気づいたからだ。周防監督はロシア文学の中でも特にチェーホフが好きであることがわかっている。

それはともかくとして、『シコふんじゃった。』は本当に良い映画だ。私も色々と教わることが多かった。これからも何度も見直したい映画である。

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2008年1月28日 (月)

アフリカを感じるとき

母方の祖父が「野生の王国」というテレビ番組が好きだったということもあり、私も子供の頃は、アフリカのサバンナにおいて繰り広げられる動物たちのドラマが好きだった。

ただ、残念ながら、「動物に興味津々で動物学者になる」というレベルには達しなかった。というよりも、何にでもなることは出来ないわけだし、アフリカの動物以上に興味が持てる対象も多かった。

ただ、幼き日に見たアフリカは、その後、何度か私に幸福をもたらすことになる。

アフリカに行ったことはない。私の知っているアフリカのサバンナはあくまでも私の頭の中に拡がっている世界だ。ただ、「今よりずっと若くて傷つきやすかった時代に」、アフリカが心の支えになることもあった。

「今は、この日本の、この千葉県の、この千葉市の、そのまた狭い世界にいるかも知れない。だが、私の周りの世界だけではなく、世の中にはアフリカのサバンナのように全く違う次元で成り立っている世界がある。だから周りの世界だけにとらわれることはないじゃないか」

言葉にしてしまうとどうしようもなくありきたりで格好悪いものになってしまうが、かっての私が考えていたことをそのまま書き出すとこのようになる。

私の周りの世界が全てだと思っていたら、若い頃の私はもっともっと駄目になっていただろう。
子供の頃にアフリカのサバンナに興味を持っていたこと、アフリカという別の価値次元の大陸を感じていたこと、それはささやかではあるが大切な福音だったのだと、今もそう思うのである。

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金聖響+玉木正之 『ベートーヴェンの交響曲』

講談社現代新書から出ている『ベートーヴェンの交響曲』を紹介します。1970年生まれの指揮者、金聖響(きむ・せいきょう)と玉木正之の共著。ですが、玉木正之は巻頭と巻末に金聖響との対談を行っているだけで、実質的には金聖響一人で書いた本です。

金聖響+玉木正之 『ベートーヴェンの交響曲』(講談社現代新書) 金聖響は大阪府池田市生まれ。在日韓国人三世です(特に関係はないですが、ベートーヴェンはオランダからのドイツ移民三世)。父親は大阪大学に学んだ物理学博士。母親は京都市立芸術大学声楽科の出身。
父親がアメリカの大学と企業での研究を行うことになったことと、「教育は日本よりもアメリカで受けさせたい」という両親の希望により14歳で渡米(日本でもインターナショナルスクールで学んでいたそうですが)。金聖響自身は子供の頃から音楽に興味を持っていましたが、「音楽家になるなんてとんでもない」という両親の反対もあり(聖響という名前は音楽とは関係がないそうです)、まずボストン大学の哲学科で学び、学士号を得て、両親を納得させ、その上でニューイングランド音楽院修士課程と、ウィーン国立音楽アカデミーで指揮を学びました。
夫人は女優のミムラさん。それ以前にも……、あ、これは別にいいですね。

金聖響はこの本で、ベートーヴェン交響曲、全9曲についての解説を行っています(彼は「解釈」という言葉が嫌いだそうなので、解説と書くことにします)。文章は口語調で読みやすく、本人曰く、「ベートーヴェンの交響曲ともっと親しくなりたい」という人のために書いたものだけに、深い音楽的知識がなくても楽しめるものになっています。

金聖響は、ピリオド・アプローチを積極的に行っている指揮者で、大指揮者の時代の「常識」を洗い直すという試みをこの本でも行っています。

文章にちょっとしたミスや、校正の間違い、金聖響の勘違い?(マーラーの交響曲第9番に関する下りなど)などもありますが、ベートーヴェンの交響曲をより身近に、より深く理解出来るようになるという、本書の目的は間違いなく達成されています。
巻末に、ベートーヴェン年譜つき。

金聖響/ベートーヴェンの交響曲

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2008年1月27日 (日)

観劇公演パンフレット(23) マキノノゾミ演出「かもめ」

演劇好きなら知らぬ者のいないというほどの名作、アントン・チェーホフの「かもめ」。
2002年1月にマキノノゾミ演出で行われた「かもめ」の公演のパンフレットを紹介します。会場である新国立劇場小劇場にて購入。

マキノノゾミ演出「かもめ」パンフレット

東京・初台にある新国立劇場で行われた「シリーズ/チェーホフ・魂の仕事」の劈頭を飾る公演でした。出演は、三田和代(アルカージナ)、田中美里(ニーナ)、北村有起哉(トレープレフ)、益岡徹(トリゴーリン)、洪仁順(マーシャ)、坂本あきら(シャムラーエフ)、山野史人(ソーリン)、奥田達士(メドヴェジェンコ)、塩田朋子(ポリーナ)、なべきよしお(ヤーコフ)、鶴田忍(ドーリン)ほか。

テキストは、『コペンハーゲン』、『ノイズ・オフ(ノイゼズ・オフ)』などの戯曲で知られる、イギリスの演劇人、マイケル・フレインが英訳したテキストからの又訳を使用しています。日本語訳:小田島雄志。マイケル・フレイン&小田島雄志による『かもめ』は白水社から出版されています。

パンフレットには、マキノノゾミへのインタビュー、サンクトペテルブルクの演劇事情、「かもめ」初演大失敗に関する考察などが載っています。

田中美里のニーナ、北村有起哉のトレープレフがフレッシュで良い味わいの舞台でしたが、演出には若干の疑問もありました。

トレープレフという人物はいかにも芸術家肌で、嘘つきといいますか、なかなか本当のことを言いません。それを上手く把握していないと、「かもめ」の舞台は奥行きが出ないものになってしまいます。

ニーナも嘘をつきます。ニーナがついた最大の嘘は、ラストのトレープレフとの二人のシーンで語られる、「わたし、あの人(トリゴーリン)をまだ愛しているの」という言葉でしょう。これは嘘です。ある言葉を言い換えたものです。トレープレフを傷つけないように、それでいて本当に言いたいこともわかるようについた嘘です。トレープレフにもその嘘は察せられたことでしょう。

というわけで、ラストのトレープレフとニーナのシーンは心理的に非常にスリリングな場面です(ニーナが、何故トレープレフが劇作家でなく小説家になることを選んだのか全く理解していなかったということがわかる苦い可笑し味のある場面でもあるのですが)。

トレープレフとニーナの嘘がわからない人は、「かもめ」を観ても面白いとは思えないだろう、と私などは感じてしまうのですが、どうなのでしょう。

最後に解決されない謎が一つ。トレープレフはペンネームを使って小説を発表しています。しかしそのペンネームが劇中で明かされることは遂にありません。ただ確実なことが一つ。そのペンネームは、他の誰にもわからなくても、ニーナにだけは立ちどころに作者の正体がわかるものだったことは間違いないと思われます。

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2008年1月25日 (金)

万歩計「平成の伊能忠敬」

万歩計「平成の伊能忠敬」

「万歩計の山佐」こと山佐時計計器株式会社から出ている「平成の伊能忠敬」というゲーム万歩計を愛用しています。

御覧のように液晶画面があり、ここに動く伊能忠敬の姿が表示されます。
ボタンが3つ付いていて、これを押すことにより、様々なデータが表示されます。

万歩計「平成の伊能忠敬」 歩数表示

これが歩数データ。100日間で111万歩歩きました。中段が一日分の歩数。今日は16955歩です。
本当はもう少し歩きたかったのですが、風邪を引いてほとんど歩かない日があったため、歩数はそれほど伸びませんでした。でも1日平均1万1000歩以上ならまずまずかな。

「平成の伊能忠敬」の面白さは、歩くことで日本地図を埋めていくことにあります。1日1万歩、約1ヶ月分歩くと、北海道から鹿児島県までの全ての都道府県を踏破出来るという設定になっています。

現在は愛知県攻略に挑んでいるところ。

右下に「4」という数字が出ていますが、これまでに日本を4周し、現在は5周目に挑んでいます。今日までに全過程の53・8%を達成。

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2008年1月24日 (木)

「なるトモ!」新ご当地ラーメン京都篇「ベジタフルらーめん」

「なるトモ!」新ご当地ラーメン京都篇「ベジタフルらーめん」

なるみと陣内智則が司会を務める関西ローカルの朝番組「なるトモ!」(よみうりテレビ)が日清食品の協力により進めた「新ご当地ラーメンプロジェクト」により、大阪篇と京都篇の2つのカップラーメンが生まれました。その京都篇「ベジタフルらーめん」。

本来の京都ラーメンは脂の浮いたスープが特徴の濃い味のものなのですが、京都の新ご当地ラーメンとして企画された「ベジタフルらーめん」は、ベジタブルをフルに入れた健康志向のラーメン。スープは白味噌ベース。カボチャ、ニンジン、ナスなどの野菜とキノコがたっぷり入っています。
麺には鉄分とカルシウムを入れるなど、栄養のバランスにも配慮。

店頭発売は近畿地区のみに限定されていますが、日清食品のサイトに行くと、日本中どこからでも購入することが出来ます。

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2008年1月23日 (水)

「エクソシスト」のテーマ 本当の曲名は「チューブラー・ベルズ」

ホラー映画「エクソシスト」で使われ、「エクソシスト」のテーマとしても認知されている曲。実際は映画用に作られたものではなく、マイク・オールドフィールドが多重録音を駆使して完成させた「チューブラー・ベルズ」(part1&part2)という曲を「エクソシスト」の制作会社であるワーナーが気に入って映画に用いたのです。

マイク・オールドフィールドは、1953年生まれのイギリスのミュージシャン。「チューブラー・ベルズ」を完成させたのは20歳の頃でした。「チューブラー・ベルズ」は最初は注目されませんでしたが、part1の冒頭部分が「エクソシスト」に使われたことで有名になり、現在までに世界中で3000万枚以上のセールスを記録しているといわれています。

マイク・オールドフィールド 「チューブラー・ベルズ」 マイク・オールドフィールドは、全部で28種類の楽器を一人で演奏。2000回以上の録音を重ねて「チューブラー・ベルズ」(part1&part2)を完成させました。
「エクソシスト」に使われた冒頭部分が有名ですが、「チューブラー・ベルズ」(part1)の本当の面白さは映画では使われなかった後半部分にあります。
詰め込み過ぎの印象はありますが、様々な楽器の音が多くの変転を経て一つのメロディーにまとめられ、クライマックスを迎える様は、ラヴェルの「ボレロ」のようでもあり、独特の快感を覚えます。

なお、チューブラー・ベルとは、音階を奏でられるベル、わかりやすくいうとNHK「のど自慢」で歌い手の出来を示すために打ち鳴らされるあの鐘のことです。

Mike Oldfield/Tubular Bells (Rmt)(Pps)

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2008年1月22日 (火)

夢の中で巻き戻し

現実世界の時間を巻き戻すという奇妙な夢を見た。ビデオテープの巻き戻しのように(DVDの時代ではあるが、DVDの場合は巻き戻しという言葉はしっくり来ないなあ)現実世界と時間が後ろ向きに進み、世界を巻き戻す能力を持った主人公だけがその中で自由に、物事が上手く運ぶよう行動出来るのである。途中、主人公がミスに気付いて、巻き戻しをもう一度行うというおまけ付き。

PTSDの治療法に「巻き戻し療法」というのがあって、衝撃を受けた瞬間の前後の記憶をビデオテープを巻き戻すように後ろ向きに高速でイメージするという治療法なのだそうだが、丁度そのような感じであった(ドラマ「世にも奇妙な物語」に巻き戻し療法をベースにした話があった。稲森いずみ主演だったかな)。

主人公と書いたが、私が見た夢の主人公は私ではなく別の男だった。そして私自身はこれが夢だと意識しており、「ここまで来たら起きよう」と決めていて、実際にその場面で目覚めたのだった。

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2008年1月21日 (月)

フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル 1947年5月27日の第5 2種の音盤

ベートーヴェンの交響曲第5番の歴史的名演として名高い、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による1947年5月27日の録音。放送局による録音であり、ドイツ・グラモフォンがLPとして発売、現在はCDが出ています。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ベートーヴェン交響曲第5番 1947年5月27日録音 ドイツ・グラモフォン盤 フルトヴェングラーの獰猛とも言える悪魔的な情熱にベルリン・フィルが全身全霊で応えた演奏で、随一の迫力を誇り、ベートーヴェンの第5の演奏の決定版に推す人も少なくありません。

ただドイツ・グラモフォンから出ているCDは、マスターテープの経年劣化のためか、情熱溢れる演奏だということはわかるのですが、音が奥にこもった感じが強く、本来の迫力が伝わってこないというもどかしさがありました。
この演奏は、運命主題でクラリネットがフライングするのを始め、縦の線が合わなかったり崩れたりする場面が多く、迫力が伝わらないと、そうしたマイナス面だけが目立つことにもなります。

ベートーヴェン/Sym.5 Great Fugue: Furtwangler / Bpo

最近出たMYTHOS(ミソス)盤は、ドイツ・グラモフォンのLPからの板起こし盤。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ベートーヴェン交響曲第5番 1947年5月27日録音 MYTOS(ミソス)盤 針音が盛大に出ていて、始めのうちはそれが気になるのですが、音が生々しく、迫力は満点。
通常よりも録音レベルを上げているようですが、不自然さはありません。

問題はやはり針音と、生々しさが増した分、オーケストラの乱れも目立つこと。また、音がいくぶん乾いて聞こえます。
1947年5月27日の録音は、圧倒的な爆発力が魅力なので、それを味わえるなら針音やオケの乱れも小さな傷といえるのかも知れません。

版権が切れたということもあり、最近、様々な会社からフルトヴェングラーの録音が復刻されています。あるいは今後、もっと優れた復刻盤が出てくることになるのでしょうか。

ベートーヴェン/Sym.5 Egmont Overture: Furtwangler / Bpo (1947)

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中国の諺

「人生は真実を探求すること、そして世に真実はない」(中国の諺)

この言葉に関する解釈は色々あるようですが、「真実」は「真実という概念」として厳然と存在してはいないと捉えることが出来ます。

真実が真実としてデンと存在していたら、人間はそれ以上は何も求めず、考えず、受け取るだけでいいのです。しかしそんな生き方が面白いでしょうか。

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2008年1月19日 (土)

生誕100年 朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 ブルックナー交響曲第8番(2001年7月 サントリーホールライブ盤)

今年、2008年は、大阪フィルハーモニー交響楽団の指揮者として活躍した朝比奈隆(1908-2001)の生誕100年に当たります。
1908年、東京に小島家の子として生まれた朝比奈隆は、生後すぐ、名前もつけられないうちに、子供のいなかった朝比奈家の養子になりました。子供の頃にヴァイオリンを買い与えられた朝比奈隆は音楽に興味を持ち始めます。旧制東京高等学校を経て、京都帝国大学法学部に入学。京大オーケストラのヴァイオリン奏者として活躍し、卒業後は、阪急電鉄に入社したものの、「本社勤めになったとき、一番手前に新米の私がいて、一番奥に部長がいるでしょう。(中略)ある日こう思った。あそこ(引用者注:部長のポジション)までははるかに遠いなあと。とてもあかんと思った」(朝比奈隆 『指揮者の仕事』より)ということで辞職。京都帝国大学文学部に学士入学し、京大オーケストラの指導者だったエマヌエル・メッテルに就いて、基礎の基礎から音楽をやり直します。

大戦中には、大陸に渡り、当時は西洋人がメンバーの大半を占めていた上海交響楽団やハルビン交響楽団の指揮者として活躍。この時に西洋人達のオーケストラのレベルの高さを身をもって知ります。

戦後、日本に戻った朝比奈隆は、在阪の音楽人から大阪に残るよう勧められ、関西交響楽団を結成。その後、NHKが持っていた大阪フィルハーモニーの商標を買い取り、大阪フィルハーモニー交響楽団としています。在阪の音楽人は、朝比奈が京大卒であり、京大の同期が在阪企業の役職に就いていたために、コネクションを利用しようとしていました。戦後すぐに、「朝比奈君が戻ってくればなんとかなる」と関西の音楽界では話されていたといいます。
大阪フィルの運営に、朝比奈の人脈が生きたことは間違いのないことですが、朝比奈は、「金銭的なパイプ」という周囲の期待以上のことを成し遂げていきます。

朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 ブルックナー交響曲第8番 2001年7月 サントリーホールライブ盤 今日紹介するのは、朝比奈隆の十八番である、ブルックナーの交響曲第8番のCD(EXTON)。朝比奈最後の年となった2001年の7月23日と25日に、東京・赤坂のサントリーホールでライブ収録されたものです。

晩年の朝比奈の実演には私も何度か接していますが、オーケストラの特徴が良く出た純度の高いものでした。
朝比奈は指揮姿からもわかりますが、曲の骨格をガッチリと固めることを優先し、細部には拘泥しませんでした。それ故だと思われますが、音楽を徹底してコントロールするタイプの指揮者とは正反対に、オーケストラのアンサンブルの精度は犠牲になるものの、年齢を重ねるうちに余分なものが削ぎ落とされていき、混じり気のない響きを創造することが可能になっていました。

この演奏も、オーケストラの技術ではなく、音楽の純度の高さにまず感銘を受けます。
大陸で西洋人からなるオーケストラを振ったことで、日本のオーケストラの音の弱さを思い知らされた朝比奈は、何よりも大きな音を出すことを楽団員に要求しました。マーラーのような細かな技術が問われる曲とは違い、ブルックナーの場合は、朝比奈の要求が素朴さと雄大さに繋がり、名演を生む結果となりました。

関西楽壇を支え続けた巨匠の最晩年の記録としても価値が高く、多くの人に聴いて貰いたいCDです。

ブルックナー/Sym.8: 朝比奈隆 / 大阪.po

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コンサートの記(5) 長岡京室内アンサンブル「結成10周年記念コンサート」

2006年7月19日 京都府長岡京市の長岡京記念文化会館にて

長岡京記念文化会館で、長岡京室内アンサンブルの「結成10周年記念コンサート」を聴く。

長岡京室内アンサンブルは、パイヤール室内管弦楽団やフランス国立放送新フィルハーモニー管弦楽団(現・フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団)のヴァイオリン奏者として活躍し、リヨン国立高等音楽院助教授やルーズベルト大学シカゴ芸術大学音楽院教授を務めた森悠子が、東京の一極集中を是正し、長岡京から独自の音楽を発信したいという要望に共鳴して結成したアンサンブルで、メンバーは森の教え子や、森が「是非に」と頼んだ優秀なプレーヤーから成り立っている。いずみシンフォニエッタ大阪や大阪センチュリー交響楽団の首席客演コンサートマスターである高木和弘、ピアニスト舘野泉の息子であるヤンネ舘野(ヴァイオリン)などもメンバーだ。

曲目は、前半がモーツァルトのディヴェルティメントK136と、ヨーゼフ・ハイドンの交響曲第101番「時計」(献呈者であるペーター・ザロモンによる弦楽四重奏とフルート、フォルテピアノによる編曲を基にした弦楽合奏版)という古典派の比較的オーソドックス(それでも「時計」の弦楽合奏版は関西初演だそうだ)なプログラム。
後半は、ヒナステラの弦楽合奏のための協奏曲、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ第9番」という、20世紀の南米を代表する2人の作曲家を取り上げるという意欲的なもの。ラストはサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」で締めくくる。

長岡京文化会館はいわゆる多目的ホールで、残響はほとんどない。それでもホール空間がさほど大きくないので音はちゃんと伝わる。

長岡京室内アンサンブルは小編成の利点を生かした、透明な音と緻密な合奏力を武器とする。モーツァルトのディヴェルティメントK136では、音の強弱の付け方が独特であり、ユニークな演奏を聴かせる。
ハイドンの交響曲でもアンサンブルの緻密さは生きており、指揮者のいるオーケストラとはまた違った合奏の妙味を聴かせてくれる。

前半は森悠子がコンサートミストレスを務めたが、後半は高木和弘がコンサートマスターの位置に陣取る。

ヒナステラというと、情熱的な音楽を思い浮かべるが、弦楽のための協奏曲は前衛的な手法をふんだんに取り入れた作品である。いわゆる現代音楽で、音楽理論が先行しそうなところもあるが、それでも迸る情熱は伝わってくる。というより、前衛的な手法を取り入れてこれほど熱い音楽を書いたのはヒナステラだけではないだろうか。現代音楽と聞いてイメージするクールさとは真逆の音楽がここにある。
最終楽章の狂騒は正に圧倒的で、ラテンの血のたぎりの凄さを実感する。

ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」は知名度が高い割りに耳にする機会が少ないが、今日演奏された第9番は優美で端正なフォルムとやはり南米の作家ならではの熱い内面を合わせ持つ優れた曲であった。

長岡京室内アンサンブルは、各奏者の自発性が良い結果を生み出している。

ラストの「ツィゴイネルワイゼン」では高木和弘がヴィルトゥオーゾぶりを存分に発揮、喝采を浴びた。

アンコールは2曲。グリーグの「ホルベアの時代から」より前奏曲と、滝廉太郎の「荒城の月」弦楽合奏版。
「ホルベアの時代から」の躍動感は素晴らしく、また「荒城の月」を聴くとしんみりしてしまう。やはり私も日本人なのだと実感する。

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観劇感想精選(27) 哀川翔座長公演「座頭市」

2007年12月21日 大阪の梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後6時30分より、梅田芸術劇場で哀川翔初座長公演「座頭市」を観る。B級テイストの作品を次々に生み出し、カルト的な人気を誇る映画監督、三池崇史の演出。主演:哀川翔。出演は、阿部サダヲ、麻路さき、遠藤憲一、長門裕之ほか。

三階の後ろの方の席で、女子高生二人組が、「(今度梅田芸術劇場の舞台に出演する)中村獅童って格好いいよね」と話し合っている。ずいぶん渋好みである。もっとも、哀川翔座長公演を観に来ているという時点でかなりの渋好みなのだが。

東京では新宿コマ劇場で行われた公演。新宿コマで舞台にかかる作品は、だいたいの上演時間があらかじめ決められている場合が多い。「座頭市」も第1幕が1時間20分、第2幕も同じく1時間20分なので、持ち時間は決まっていた可能性が高い。

持ち時間を消化しなければならない(その時間だけ俳優に良い場面を用意しなければならない)という商業演劇の習慣と、慎重にことを運ぼうとしたためか、第1幕の1時間20分はかなり長く感じられた。暗転も多いし、本と役者と演出と商業演劇というスタイルが噛み合っていないところもある。

ただその分、第2幕は楽しめた。
まずは何といっても「座頭市」の一番の見所の殺陣である。映画の殺陣はカットも割るし、長時間といってもそれほど長いことやるわけにはいかない。だが、舞台の殺陣は誤魔化しが利かない一方で、役者の腕の見せ所でもある。それに生の舞台だけに映像とは迫力が違う。

そして、アウトローを生きる人々の描き方、個と社会の関わり、そして人間の愚かしさをあぶり出すことに重点を置いたストーリー設定も深い味わいがある。

座頭・市(哀川翔)の「お前ら本当に目明きなのかい」、「ありもしねえものを見てしまう。それが目明きってことなのかい」というセリフが端的に物語っているように、心が生み出してしまう虚像にとらわれて、やらずもがなのことをしてしまう人間の愚かしさと悲しさが観る者の胸を打つ。
実は客の入りは余り良くなかったのだが、終演後の客席は、1階席はほぼ総立ち。私のいた3階席でも多くの人が立っていた。

市を演じた哀川翔は、これが初座長公演(舞台作品への出演自体もこれが2度目である)とは思えないほど舞台に馴染んでる。もちろん舞台経験が豊富な脇役陣がいたからこそ、哀川翔も安心して舞台を踏むことが出来るのだろうが、それにしても舞台上にいる誰よりも舞台慣れしているように見えるのだから大したものだ。
飄飄としている普段の市と、殺陣の場面での阿修羅の如き剣さばきを見せる市との切り替えと対比が鮮やかである。

映像ならくさくなってしまうであろう長ゼリフや劇中劇の場面(旅芸人一座の女座長・朱〈麻路まき〉の最後のシーン)も舞台でやるなら効果的。三池監督の狙いが上手くはまっていた。

本来ならもっと自由の利く公演スタイルで2時間ぐらいにまとめたものをやれるといいのだろうが、「座頭市」は商業演劇の形を借りた方が舞台にかけやすいので、まあ、仕方ないだろう。
哀川翔を見せるというスタイルの芝居でそれが成功しているのだから、これで十分という気もする。

照明効果の格好良さも印象的だったし、哀川翔の格好良さはそれ以上。終演後の熱烈なスタンディングオベーションもおそらく哀川翔一人に向けられたもの(例の女子高生二人組は哀川翔に向かって「かっこいい!」を連発していた)であるが、座長公演なのだし、それはある程度予想出来るのだから大成功と言っても良いだろう。

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2008年1月17日 (木)

「開幕の祈り」

かってはヘルベルト・フォン・カラヤンやレナード・バーンスタインといった大物指揮者達も、ポピュラーな小品を集めた、いわゆる「名曲集」を作っていましたが、昨今は、その手のアルバムは既成音源の寄せ集めでまかなうことが多くなりました。

今日紹介する「開幕の祈り」(avexクラシックス)は最近では珍しくなったオリジナルの名曲集アルバム。佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏です。

佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団 「開幕の祈り」 結成直後の兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)による演奏ということもあり、個性には欠けますが、その分、色のついていない良さがあり、佐渡の指揮も丁寧です。

マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲、サミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」、マーラーの交響曲第5番より第4楽章“アダージェット”、J・S・バッハの「G線上のアリア」など、弦楽合奏のためのヒーリング系曲目を中心としたセレクト。

結成間もない兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏を収めているということで、史料としても価値があります。

 オムニバス(管弦楽)/佐渡裕 / 兵庫芸術文化センター O 開幕の祈り

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2008年1月16日 (水)

これまでに観た映画より(16) 「オールド・ルーキー」

DVDでアメリカ映画「オールド・ルーキー」を観る。実話を基にしたベースボール・ドリーム・ムービー。

ジミー・モリスは大学を出て、ミルウォーキー・ブリューワーズに入団。130キロ前半のスピードしか出ないピッチャーであり、肩を壊して夢は破れた。35歳になったモリスはテキサスのビッグ・レイク高校で化学の教師と野球部の監督を務めている。昨年、一昨年と1勝しかできなかった弱小チームの監督だ。
しかしモリスの野球への情熱は冷めていなかった。夜毎、一人で金網に向かって投げ込みを続けるモリス。ボールのスピードは常時150キロを超えるようになっていた。
ある日、モリスの豪腕ぶりが生徒に知れる。

試合に負けた日、モリスは、「夢や希望を簡単に捨ててしまうから負けるんだ」と生徒を諭す。しかし生徒からは「夢を捨てたのは監督の方だ」と言われ、もし自分達が優勝したら監督もメジャーの入団テストを受けるという約束を交わす。ビッグ・レイク高校はこれまでの成績が嘘だったかのように勝ち続け、地区大会で優勝。モリスはメジャーのテストを受け、時速156キロを叩き出して合格。デビルレイズ傘下のマイナーチームに入団する。そしてテキサスでの対レンジャース戦でついにメジャーのマウンドに立つのだった。

夢と希望を与えてくれる映画であり、観ていて胸が熱くなる。単なる野球映画やサクセスストーリーではなく、家族の問題や、父と子の関係など、男なら誰でも通過する苦悩を真摯に描き、丁寧な作りで自然な感動を呼ぶ。

「諦めない」というそのことが、いかに大切かを教えてくれる秀作であった。

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2008年1月15日 (火)

シプリアン・カツァリス 「モーツァルト・トランスクリプションズ」

キプロス人を両親に、フランスのマルセイユに生まれたピアニスト、シプリアン・カツァリス。
高度な技巧と卓越した音楽性を誇る演奏家ですが、何よりもピアノを弾くのが大好きな人です。一度、西宮で行われたリサイタルを聴きに行ったことがあるのですが、充実したプログラムの後に、10曲近くもアンコール演奏をしました。サービス精神旺盛なのでしょうが、心からピアノが好きな人でなければこうしたことは出来ません。
そんなカツァリスが弾くモーツァルト。オリジナルのピアノ曲集ではなく、管弦楽のための作品をピアノ用に編曲(トランスクリプション)したものを並べたアルバムです。編曲はモーツァルト本人のほか、フンメル、ジョルジュ・マティアス、ジョルジュ・ビゼー、マシュー・キャメロン、そしてカツァリス本人が行っています。ピアノ21というレーベルからの発売。

シプリアン・カツァリス 「モーツァルト・トランスクリプションズ」 レコード技術が発達する以前、家庭内で音楽を楽しむ場合は、自ら楽器を弾くか、家族が演奏を聴くか、そのいずれかが普通でした。

ピアノ曲や、弦楽器や管楽器の独奏、室内楽などの場合はオリジナルを演奏すれば良かったのですが、オーケストラ曲を聴きたい場合、深田恭子演じる「富豪刑事」のように自宅にオーケストラを招くことの出来る人はそうそういないので、管弦楽曲をピアノ用に編曲したものを聴いて楽しむということが行われていました。

このアルバムには、歌劇「後宮からの誘拐」より序曲(ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト作、編曲)、同じく“ベルモンテのアリア”(シプリアン・カツァリス編曲)、交響曲第40番ト短調(ヨハン・ネーポムク・フンメル編曲)、歌劇「魔笛」より11曲(ジョルジュ・マティアス&ジョルジュ・ビゼー編曲)、セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(マシュー・キャメロン編曲)を収録。

ヴィルトゥオーゾ・ピアニストでもあるカツァリスの技術が冴え渡り、煌めくようなピアノの音がファンタジーを生んでいます。トランスクリプション・アルバムというと、「邪道」のイメージがありますが、カツァリスが生み出す音楽には、そうしたことを感じさせる余地はありません。モーツァルト好きも、ピアノ好きも、カツァリスのファンも満足させる素敵なアルバムです。

モーツァルト/Transcriptions: Katsaris P

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2008年1月14日 (月)

好きな短歌(27)

やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに 石川啄木

この短歌を読むと、シューベルトの歌曲「菩提樹」を連想します。いつの時代でもどこの国でも人間の感情は似通っています。

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観劇感想精選(26) 下鴨車窓 「旅行者」

2006年3月21日 京都芸術センター・フリースペースにて観劇

京都芸術センターへ。下鴨車窓の「旅行者」を観るためである。午後に7時開演。作・演出は田辺剛。

能の橋架かりのように、舞台奥から坂になった橋が下りている。他には細いポールが一本あるだけというシンプルな舞台。こういうシンプルな舞台装置は個人的には大好きである。

いつ、どこともわからぬ「乾いた」場所。遠くには竜巻が不吉な予兆(オーメン)のように「居る」。
生活に困りがちな夫婦(ハラダリャン&金乃梨子)の家に、ある日三人の姉妹がやって来る。姉妹達は、ここが叔父のいる場所だというのだが、夫婦は彼女たちに見覚えがないし、叔父も知らない……。

基本的には「日常(といっても演劇なので「いかにも日常です」という感じではないのだが)」が「非日常」に侵されていく話なのだが、色々な要素が絡んでくる。
まず、「日常」と「非日常」についての私見を述べる。「私」が「日常」と感じている日常は果たして「日常」か? 「私」は社会の中に溶け込みつつ独立した「個」という曖昧な存在である。「私」が知り得る「日常」は社会の一部であり、それでいて「私的」なものだ。「私」の「日常」の範囲は実はかなり狭い。それ故、「私」の外の「日常」が「非日常」である可能性は高いし、外の「日常」から「私」が「非日常」に置き去りにされていることだってある。

この劇からは、二律背反のようでありながら実は両者が溶け込んでいるカオスのようなものを感じた。「文字が読めない女性」や「文学を学んだ女性」が登場人物として出てくるが、文字や文学に代表されるエクリチュールは、ディスクールとはやや趣を異にし、カオスを截然と断ち切り、整序する働きがあるように思う。しかし世界の本質は今も昔もカオスなのだ。そしてある意味そのカオスは優しいともいえる。

実際のところ、人間存在はそれほど強いものではなく、「取り敢えずの制度」によって、己を己たらしめているところがあると思う。人間は時という偉大な旅行者の前では無力であり、その存在は小さく、不確かだ。記憶、証拠、あらゆることを並べても、すなわち「故に我あり」となるのかどうか。記憶がしばしばその持ち主に嘘をつくことは誰もが経験しているだろうし、証拠といっても確固たるものなどあるいは何もないのかも知れない。

そういうカオスの中にありながら、希望へと向かって「旅立つ」者、取り敢えずここを離れる者。思い出を裏切れない者、留まる者。皆それぞれ潔いと思う。儚いけれど意志ある存在としての人間。強くて弱い「存在」としての人間の様々な形を見ることが出来たように思う。

人生を行く我々もまた「旅行者」で、今日の次は明日、明日の次は明後日という、マンネリ的「日常」に常に留まっているわけではない。人間という「存在」に四苦があり、人間という「現象」に愛別離苦があり、怨増得苦があり、求不得苦がある。妙な言い方だが、「非日常」こそが日常なのかも知れない。

と、理屈っぽくなったので、他のことも述べるが、やはり人を動かすのは人を思う気持ちなのだと再確認した。当たり前だが、悲しみは別れるという行為そのものにではなく、別れる人との思い出と、別れる人への思い入れに宿るのである。

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2008年1月12日 (土)

村上春樹 『走ることについて語るときに僕の語ること』

本書はタイトルの通り、基本的に「走ること」について書かれたものである。
主軸となるのは、2005年11月のニューヨーク・シティ・マラソンに向けての準備。33歳の時に走り始めた村上春樹は、ある時点からどれだけトレーニングを重ねてもマラソン大会で好成績を挙げることが難しくなった。しかし2005年のニューヨーク・シティ・マラソンで、少しでも良いタイムを残そうと、村上はトレーニングを続ける。その「走る」トレーニングと「走ること」に関する哲学、そして「走ること」で生まれる哲学の合間合間に、「走ること」以外の記憶と哲学(といっていいと思う)が語られていく。

村上春樹 『走ることについて語るときに僕が語ること』(文藝春秋社)

「走ること」と「小説を書くこと」を重ね合わせている、と受け取るのは簡単であり、しかも間違ってはいない。「小説を書くことは、フル・マラソンを走るのに似ている」と春樹自身も本書の中で述べている。
しかし、「書くことは走ることだ」といったような単純化は、結局のところ、走ったことのない人、頭ばかり回っていて体を使って考えていない人、あるいは体で感じたことのない人が導き出す結論だともいえる。

フィジカルなものを通してしか出来ない発想があり、体でしか書けないものがある。
この本を村上春樹は「メモワールのようなもの」としているが、「走ること」について書いた書物を「メモワール」としているのは、村上春樹本人が体を通した思考を信頼しているからだとも言える。

「体を入れて考えなきゃ駄目なんじゃないか」というようなことを春樹本人はかって(『ねじまき鳥クロニクル』第3部「鳥刺し男編」を書き上げた直後のこと)語っていたけれども、それがどういうことなのかについて考えるとき(「スポーツをしなければ駄目だ」などと受け取るのが論外なのは言うまでもないが)、この『走ることについて語るときに僕が語ること』は良き羅針盤となるように思う。

村上春樹 『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋社) 紀伊國屋書店BookWeb

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2008年1月10日 (木)

繰り返される音の波 「エッセンシャル・マイケル・ナイマン・バンド」

「エッセンシャル・マイケル・ナイマン・バンド」ミニマル・ミュージックの名付け親とされるマイケル・ナイマン。もともとはクラシック畑の作曲家ですが、ピーター・グリーナウェイ監督とのコンビで、映画音楽の作曲家として有名になりました。

最近は、抒情的な作風へと移行しているナイマンですが、このアルバムに収められた、グリーナウェイ監督とのコラボレーション時代は、短い音型をこれでもかこれでもかとばかりに繰り返す「ミニマル・ミュージックの鬼」ともいうべき作風を示していました。

「エッセンシャル・マイケル・ナイマン・バンド」(アーゴ)という名のこのアルバムには、「英国式庭園殺人事件」、「ZOO」、「数に溺れて」、「コックと泥棒、その妻と愛人」、「プロスペローの本」の音楽と、グリーナウェイ監督の初期短編映画のための音楽である「Watet Dances」を収録。映画のオリジナル・サウンドトラックではなく、マイケル・ナイマン・バンドのコンサート用に編曲された楽曲を録音したオリジナル・アルバム。「エッセンシャル・オブ・マイケル・ナイマン」ではなく、「エッセンシャル・マイケル・ナイマン・バンド」というタイトルなのはそのためです。

音楽における繰り返しの面白さを示した好アルバム。マイケル・ナイマンの音楽やミニマル・ミュージックへの入門盤としても適しています。

ナイマン/The Essential Michael Nyman Band

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