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2008年1月12日 (土)

村上春樹 『走ることについて語るときに僕の語ること』

本書はタイトルの通り、基本的に「走ること」について書かれたものである。
主軸となるのは、2005年11月のニューヨーク・シティ・マラソンに向けての準備。33歳の時に走り始めた村上春樹は、ある時点からどれだけトレーニングを重ねてもマラソン大会で好成績を挙げることが難しくなった。しかし2005年のニューヨーク・シティ・マラソンで、少しでも良いタイムを残そうと、村上はトレーニングを続ける。その「走る」トレーニングと「走ること」に関する哲学、そして「走ること」で生まれる哲学の合間合間に、「走ること」以外の記憶と哲学(といっていいと思う)が語られていく。

村上春樹 『走ることについて語るときに僕が語ること』(文藝春秋社)

「走ること」と「小説を書くこと」を重ね合わせている、と受け取るのは簡単であり、しかも間違ってはいない。「小説を書くことは、フル・マラソンを走るのに似ている」と春樹自身も本書の中で述べている。
しかし、「書くことは走ることだ」といったような単純化は、結局のところ、走ったことのない人、頭ばかり回っていて体を使って考えていない人、あるいは体で感じたことのない人が導き出す結論だともいえる。

フィジカルなものを通してしか出来ない発想があり、体でしか書けないものがある。
この本を村上春樹は「メモワールのようなもの」としているが、「走ること」について書いた書物を「メモワール」としているのは、村上春樹本人が体を通した思考を信頼しているからだとも言える。

「体を入れて考えなきゃ駄目なんじゃないか」というようなことを春樹本人はかって(『ねじまき鳥クロニクル』第3部「鳥刺し男編」を書き上げた直後のこと)語っていたけれども、それがどういうことなのかについて考えるとき(「スポーツをしなければ駄目だ」などと受け取るのが論外なのは言うまでもないが)、この『走ることについて語るときに僕が語ること』は良き羅針盤となるように思う。

村上春樹 『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋社) 紀伊國屋書店BookWeb

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