闇の映像
目を閉じないと物事を思い浮かべることが出来ない人がいるということを知ったのは、私が二十歳頃のこと。それまでは、そんな人がいるとは思わずにいた。どうやら読書の習慣がないと、目を開けたままイメージを見つめるというのは難しい作業のようだ。
私の場合は、明るい場所で目を閉じると、逆に浮かび上がる白っぽい残層が気になって、イメージの世界に没頭出来なかったりする。
でもたまに、夜中に電気を消してイメージの世界を広げていくという作業は良いものだ。余り頻繁に行うと、心が沈みがちになるので、それは避けた方がよいと思うが。
闇の映像は、時に具体的で現実以上に鮮明で、あるいは抽象的で非現実的で、ときおり哲学的であり、メタ哲学的であったりする。
あらゆる感覚を研ぎ澄ますと、ある種の世界のエッセンスがそこに浮かぶのを感じることがある。それは真実ではないかも知れないが、私個人の答えだ。これまで経てきた記憶と今生まれる思考が相まって、闇の中に啓示を見る。そうしたことは頻繁には起きない。むしろ頻繁に起きたのなら嘘くさい。宗教じゃないんだから。
単なる「インスピレーション」、そういう見方も出来る。ただ、闇の映像に浮かぶ啓示は、日常生活で得るインスピレーションより、一層濃厚であることが多い。あるいはかつて夜行性であったという人間の、より本能に近い場所からの発想がそこに加わるためなのか。
人間社会は次第に闇の領域を削り、人々が闇の映像を見る時間も奪う。しかし、人間が闇を殺せば殺すほどに、人間の領域が狭まっていくように感じるのは気のせいなのだろうか。闇の中で、人々は多くのイメージを生み、イマジネーションの能力を高めていた。生産社会において、イマジネーションの能力の高さは必ずしも求められない。生産中に個々のイメージに浸られた困るからである。しかし、世界の流れが変わると、追放した闇の領域が人間を苦しめることになるのかも知れない。物質生産の時代ではなく、イメージ性の強い生産品が主流になる時代は近い。しかし、一般の人々がそうした流れに簡単についていけるようになるとは思えないのだ。
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