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2008年5月の56件の記事

2008年5月31日 (土)

柴田淳 DVD「しば漬け3」

シングル「ふたり」に続き、「しばじゅん」こと柴田淳のミュージックビデオとショートフィルム「HIROMI」を収めたDVD「しば漬け3」(ビクター・エンタテインメント)も紹介します。

柴田淳 DVD「しば漬け3」 収録されているのは、「花吹雪」、「紅蓮の月」、「HIROMI」、「カラフル」、「ふたり」のミュージックビデオ本編とメイキング映像、ショートフィルム(ショートムービー)「HIROMI」(和田聰宏主演。柴田淳も出演)のフルバージョン。

「しば漬け3」とあることからもわかるとおり、柴田淳のミュージックビデオを収めたDVD「しば漬け」の第3弾。「しば漬け3」はビクター・エンタテインメントから出ましたが、「しば漬け」と「しば漬け2」はドリーミュージックから出ています。柴田淳のミュージックビデオはCD「しば裏」(ドリーミュージック)の初回限定盤に入っているDVDでも観ることが出来ます。

確認しましたが、「しば裏」の初回限定盤は、2008年5月31日現在でも入手可能なようです。

柴田淳/しば漬け 3

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柴田淳 シングル「ふたり」

blogパーツでも紹介している柴田淳のニューシングル「ふたり」(ビクター・エンタテインメント)。

柴田淳 「ふたり」 私も購入したので(宣伝しておいて購入しないというのはなしですので)紹介します。

「ふたり」は、希望と不安、縮めたい距離と保ちたい関係、求める心と求めきれない心といったアンビバレントな揺らぎが感じられる歌詞と、シンプルなピアノ伴奏、柴田淳のしっとりとした歌声が三位一体(というほど大袈裟ではないかも知れませんが)となって、リスナーの心を優しく掻き乱します。

優しく掻き乱すとはどういうことか、実感したいなら曲を聴いてみることをお薦めします。実感出来るはずです。

柴田淳/ふたり

Jun Shibata - ふたり - Single

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これまでに観た映画より(23) 山中貞雄監督作品「丹下左膳余話 百萬両の壷」

DVDで1935年制作の日本映画「丹下左膳余話 百萬両の壷」を観る。天才と呼ばれながらわずか28歳(数え年で29歳)で夭逝した山中貞雄監督の満25歳時の作品。大河内傳次郎主演。出演は喜代三(きよぞう。またの名を新橋喜代三〈しんばし・きよみ〉。のちの中山晋平夫人である)、四代目沢村国太郎(長門裕之、津川雅彦の父親)、花井蘭子、深水藤子ほか。大映京都制作。右目と右腕のない剣豪・丹下左膳を主人公にしたコメディー時代劇。カットされた大立ち回りのシーン(ただし音声はなし)も含めた完全版。

「丹下左膳 百萬両の壷」は、津田豊滋監督、豊川悦司の主演でリメイクされているが、やはりオリジナルの方がずっと面白い。大河内傳次郎の丹下左膳は腕は立つが普段は駄目男という丹下左膳像が良く出ているが、トヨエツの場合は駄目男をやらせても格好良すぎて笑えないのである。

当時、当代一の芸者として鳴らし、歌手としても活躍していた喜代三の歌と演技も素晴らしく、江戸女の粋を見事に再現している。

山中演出はシーンの飛ばしや、セリフの間の置き方が絶妙で、観ていて大笑いしてしまうシーンも多数。25歳でこれだけの映画を取ることの出来た山中の早世が今更ながら惜しまれる。

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どうでもいいことかも知れませんが

映画「ロルカ、暗殺の丘」でロルカを演じたアンディ・ガルシアとリッカルド・ムーティは似ていると思いませんか?

アンディ・ガルシアとリッカルド・ムーティの両方を知っている人がどれぐらいいるのかわかりませんが。

アンディ・ガルシアといえば、何といってもケビン・コスナー主演の「アンタッチャブル」が良かったですね。

シカゴ駅での階段落ちの場面、

「狙いは?」
「完璧です」

うーん、格好いい。

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2008年5月30日 (金)

現代演劇の一つのテーマ

生きることに意味なんてないのさ。

草も獣も、山も大地も、海も空も、己の存在意義など感じもせずに存在している。

ただ人間だけが、生きる意味を求めなければ生きることさえ出来ない。

何て哀れな。

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2008年5月29日 (木)

リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 モーツァルト交響曲第39番&第25番

1941年、ナポリに生まれた指揮者リッカルド・ムーティ。現役の指揮者としては人気・実力ともにトップクラスであり、特にイタリアオペラを指揮させたら天下一品です。
しかし、コンサート指揮者としては評価こそ高いものの、「これぞムーティ」という演奏は案外少なく、クラシック好きでも思い浮かべられるのは、フィラデルフィア管弦楽団時代に録音したレスピーギの「ローマ三部作」やスクリャービンの「交響曲全集」などに限られてくると思います。

フィラデルフィアを離れてからのムーティの最高の成果というべきは、やはりウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と録音したモーツァルトの交響曲の数々ではないでしょうか。

今日はその中から、モーツァルトの交響曲第39番と第25番をカップリングしたCDを紹介します。フィリップス・レーベル。

リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 モーツァルト交響曲第39番&第25番 世評は交響曲第25番の演奏の方が高いようなのですが、第1楽章の単に速いだけのテンポが個人的には気に入っておらず、交響曲第39番の演奏の方が遙かに優秀であるように思います。

その交響曲第39番の演奏ですが、ウィーン・フィルのふっくらとした美音を生かした最高水準の出来で、これほど美しい第39番の演奏は滅多にありません。

ピリオド奏法を生かした等身大のモーツァルトも勿論面白いですが、ムーティとウィーン・フィルのような豊かな音色による天国的な美しさをたたえた演奏にも抗しがたい魅力があり、一度は耳にしておきたい演奏です。

モーツァルト/Sym. 25  39: Muti / Vpo

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リッカルド・ムーティ、シカゴ交響楽団音楽監督就任に関して

現在、最も精力的に活躍している指揮者の一人、リッカルド・ムーティ(リカルド・ムーティ)が2010年-11年のシーズンよりシカゴ交響楽団の音楽監督に就任するとのこと。アメリカ最高のアンサンブルという評価を確固たるものとしているシカゴ交響楽団だが、ダニエル・バレンボイムの音楽監督辞任後は、ベルナルド・ハイティンクが首席指揮者に就任したものの、音楽監督の座は空位であった。

ムーティは実力者だけに音楽監督としての能力に問題はないと思われるが、実は彼は以前に米・ベンシルバニア州のフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督を12年にわたって務め、評価は高かったのだが、フィラデルフィア管の本拠地であったアカデミー・オブ・ミュージックの音響が気に入らないという理由で辞任をしている(他に「アメリカ人はイタリア人に比べるとクラシック音楽に対する情熱が」どうのこうのとも言っていたようだが。「イタリア人は『ナブッコ』のメロディーを誰でも口ずさめる」などと言っていたと記憶しているが、アメリカ人にそうしたことを求められてもねえ)。シカゴ交響楽団の本拠地であるオーケストラホールも音響は悪く、またヨーロッパ指向が強くウィーン・フィルの実質的な首席指揮者待遇であるムーティがシカゴで長く音楽監督を続ける気があるのかどうか、といったところが不安定要素として挙げられる。

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2008年5月28日 (水)

クラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団 「ラヴェル管弦楽作品全集」

クラウディオ・アバドが、ロンドン交響楽団の首席指揮者を務めていた1980年代にデジタルで録音した「ラヴェル管弦楽作品全集」(ドイツ・グラモフォン)。ロンドン響時代のアバドを代表する録音です。現在ではドイツ・グラモフォンの「トリオCDs」シリーズの1つとして出ています。

クラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団 「ラヴェル管弦楽作品全集」 ロンドン交響楽団の技術を生かし、アバドらしいノーブルな音楽性を前面に出した演奏。かといって上品なだけではない、高揚感ある音楽を生み出しています。

アバドの巧みな盛り上げ方に興奮したロンドン響メンバーが発した叫び声がそのまま録音されていることで有名な「ボレロ」、アバドのラテン気質がうかがえる「スペイン狂詩曲」、雅やかな「亡き王女のためのパヴァーヌ」、ロンドン響の音色が美しい「マ・メール・ロワ」、やや優等生的な表現が気になるものの音による大伽藍を築き上げている「ダフニスとクロエ」全曲、スマートな「高雅にして感傷的なワルツ」、エスプリの表出の見事な「ラ・ヴァルス」など、名演が盛りだくさんです。

ラヴェル/Orch.works: Abbado / Lso

Claudio Abbado & London Symphony Orchestra

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笠原英彦 『歴代天皇総覧』(中公新書)

『歴代アメリカ大統領総覧』を紹介したので、日本の歴代天皇について書かれた書物も紹介しておく方が良いだろうということで、笠原英彦の『歴代天皇総覧』(中公新書)をアップします。

笠原英彦 『歴代天皇総覧』(中公新書) 神話時代になる神武天皇に始まり、昭和天皇に至るまでの124代の天皇と、「正統ではないとされた」北朝の5人の天皇についての概略が書かれています。
新書であり、天皇の数も多いということで、本当に概略的なものですが、こうした種類の書物は意外に少ないので貴重です。

「万世一系」である(途中怪しいところもありますが)天皇家は、為政者が替わっても存続し続けるということと、天皇親政が行われた時代が極端に短いという二つの特異な面を持つ、世界史的にいっても珍しい存在であり、日本という国の性質を映す鏡でもあります。

『歴代アメリカ大統領総覧』と読み比べて、国家というものの成り立ちの差異について考えてみるのも良いかも知れません。

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ロシア歴史人物占い

ロシア歴史人物占いを紹介します。私の結果がアントン・チェーホフだったので嬉しかったのです。ただそれだけです。

http://bom-ba-ye.com/e.cgi?okunos=1

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2008年5月27日 (火)

佐野真 『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』(講談社現代新書)

昨シーズン、利き腕である左腕の肘の靱帯の手術をし、今季の開幕には間に合わなかったものの、復帰後は5連勝と、さすがの活躍を見せている福岡ソフトバンクホークスの和田毅投手。速球はMAXでも140キロちょっとで、ほとんどが130キロ台。カーブ、スライダー、チェンジアップと、変化球の種類も多くはないのに、東京六大学の通算最多奪三振記録を持ち、プロ入り後も軟投派と見られながらも抜群の奪三振率を誇る和田の投球の秘密に迫ったのが、佐野真の書いた『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』(講談社現代新書)。帯には、「こうすればあなたも速くなる?!」という文句が書かれていますが、結論からいうと速くはなるかもしれませんが、和田のようなストレートを投げるのは無理です。

佐野真 『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』(講談社現代新書) 和田毅が注目されたのは、島根県の浜田高校時代。120キロ台のストレートを相手が打てず、地元のテレビの高校野球解説者も困惑。
和田を擁する浜田高校は、甲子園への切符も二度手にしますが、和田が三年の時の夏の甲子園大会で、強豪・帝京高校に勝ち、帝京の選手が「(和田のストレートは)150キロに見えた」とコメントしたことで、バッターボックスでの体感速度がかなり速いストレートを和田が投げていたことがわかります。

しかし、実際の速度は120キロ台。早稲田大学に進学後、最初の試合でのMAXも129キロであり、和田もチームメイトも落ち込んだそうですが、現在も和田のトレーナーを務める土橋恵秀(当時は早稲田大学1年生の学生トレーナー)のアドバイスにより、その年の夏にはストレートのスピードは142キロをマークするなど急速に伸びています。
和田のストレートが遅かったのは下半身が巧く使えていなかったというのが最大の原因でした。

と、いうことで、投球動作の際の体の使い方は参考になります。巻末には和田が書いた、投球モーションに関する卒業論文を全文掲載されており(文学部出身の私から見ると「こんな短い論文でいいんかいな?」という気にもなりますが、クレバーな論文であることは確かです)、和田本人の身体に関する探求心を窺い知ることが出来ます。

ただ、和田が130キロ台のストレートで次々と三振を奪うことの出来る理由は、和田の持って生まれた身体能力によるところが大きいのも事実です。和田の指は後ろに反らすと90°も曲がり、手首も柔らかく、そのためリリースの際に常識を超えた回転数をボールに与えることが出来、初速は遅くてもスピードが余り落ちないまま打者の手元まで来るので打てないのです。

和田のストレートが打ちにくい理由をここで明かしてしまいましたが、それを明かしたくらいでは面白さが全く減らないのがこの本の良さ。野球ファンは必読です。

佐野真 『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』(講談社現代新書) 紀伊國屋書店BookWeb

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高崎通浩 『歴代アメリカ大統領総覧』(中公新書ラクレ)

現在、世界唯一の超大国としてあらゆる分野に絶大な影響力を持つアメリカ。そのアメリカの国家元首にして内政の統括者という、国王と首相を合わせ持ったような存在として君臨する大統領。
本書は、歴代のアメリカ大統領43代42人(グローバー・クリーヴランドが2度大統領に就任しているため、一人少なくなる)の肖像を追っていく書物です。新書ということもあって概説的な内容ですが、興味深いことも多いので紹介することにしました。

高崎通浩 『歴代アメリカ大統領総覧』(中公新書ラクレ) 超大国アメリカのトップに君臨するということで、たった一人で全世界に影響を与えることも出来るというアメリカ大統領。42人の大統領の中には、アメリカ国内のみならず全世界の尊敬を集める人物もいれば、単なるお飾り的人物、それ以下の人物もいます。

民主主義を金科玉条として掲げるアメリカですが、民衆は時代の空気に流されやすいというのを知ってか知らずか、大統領に相応しい資質(というものがあるのかどうか疑問ですが)を持ち合わせていない人物が大統領候補に立候補して当選するということも決して少なくはないようです。

この書物からは、ある意味、現行の民主主義の限界と同時に、民衆とは懸け離れた場所で、政治が進行している現状をも読み取ることが出来ます。

アメリカは技術大国であり、経済大国であり、軍事大国でありますが、そこに至るまでのフロンティアスピリッツが、「社会進化論」、「アメリカ国内の膨張主義」から「全世界レベルでの膨張主義」、「帝国主義」、「保守主義と新保守主義」、「新自由主義」、「独善主義」、「単純な善悪二元論」など、アメリカ政治と資本主義の病める部分を作り出し、超大国としてそうした病を全世界レベルで広げていることは看過出来ないことです。そうした政策を生み、推し進めた大統領達の歴史を知ることは今後の世界情勢を推し量る上で、重要な作業であることは間違いなく、そのための入門書としても本書は最適であると思われます。

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これまでに観た映画より(22) 「バベル」

2007年6月1日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で、「バベル」を観る。メキシコ出身のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作品。出演は、ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、菊池凛子、二階堂智、役所広司ほか。音楽は既成のものが使われ、ラストシーンでは坂本龍一の「美貌の青空」(ピアノ&ストリングス・バージョン)が流れる。

モロッコ、アメリカ南部とメキシコ、東京を舞台とした作品。3つの場所での出来事が微妙に関わっている。

モロッコで、少年が遊び半分でライフルを撃つ。その弾がアメリカからの旅行客・スーザン(ケイト・ブランシェット)の首に命中する。

アメリカ南部、アメリカ人の家で乳母をしているメキシコ出身のアメリアは、主である夫妻が外国旅行に出ている間、留守と主夫妻の2人の子供を預かっている。しかしメキシコでアメリアの息子の結婚式がある日、代わりに来るはずだった育児担当者が来られなくなってしまう。やむなく2人の子供とともに国境を越えるアメリア。

東京、耳と口の不自由な女子高生・チエコ(菊池凜子)は孤独の底にいた。

モロッコと、アメリカ南部およびメキシコ編は、砂漠という大自然の前に無力な人間の姿が描き出され、ベルトルッチ監督の「シェルタリング・スカイ」を思い起こさせる。ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットが夫婦を演じるモロッコ編は特にそうだ。

東京では、最先端の都市(少なくとも映画の中では東京は世界最先端の街として登場する)に生き、裕福な家庭に育ち、夜景の素晴らしい高層マンションに住みながら、そうした恩恵から遠い少女の姿が描かれる。

別の人が言えないでいる言葉を別の場面にいる他の人間に語らせるなど、意欲的な演出が光る。

本質的には人間存在の不安定さに重点を置いた重い作品である。
やむにやまれぬ事情が重なったということもあるのだが、やらずもがなのことをしてしまう人間という生物の本質でもある「愚かしさ」に歯がゆさを覚え、同時に人間の弱さに胸を痛める。

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2008年5月26日 (月)

香港映画「花様年華」オリジナル・サウンドトラック

王家衛(ウォン・カーウァイ)監督作品「花様年華」のオリジナル・サウンドトラックを紹介します。台湾のロック・レコーズからの発売。

1960年代の香港を舞台にした映画「花様年華」。映画本編も大人の味わいを持つ佳編ですが、オリジナル・サウンドトラックも負けず劣らず充実しています。

「花様年華」オリジナル・サウンドトラック とはいえ、映画のために作られたオリジナル曲は少なく、他の映画のテーマや、ナット・キング・コールの歌うジャズナンバー、中国の民謡や往年のヒット曲などで構成されています。

メインテーマ的に用いられているのは、梅林茂が鈴木清順監督の「夢二」のために書いた「夢二のテーマ」。この曲の持つ夢幻性が映画中でもかなり重要な役割を果たしています。

主演のトニー・レオンとマギー・チャンのセリフも収録。

花様年華/花様年華 In The Mood For Love (特別限定盤) - Soundtrack

花様年華/花様年華 In The Mood For Love - Soundtrack

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すいかグミ

すいかグミ

カバヤから出ている「すいかグミ」を買ってみました。

私はスイカという食物が余り好きではないのですが(食べられないとこはないし、出されれば食べる)、グミだったらどんなものなのだろうという好奇心にかられたわけです。
で、食べた結果ですが、なかなか美味しい。そして味がどことなくメロン味のグミに似ています。スイカは英語ではウォーターメロン。スイカそのものを食べても、スイカを英語でウォーターメロンということに得心がいきませんでしが、グミで食べ比べると納得してしまいそうな。
私一人が納得しても大した意味はないわけですが。

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2008年5月25日 (日)

さよならアルバン・ベルク・カルテット フェアウェルツアー 大阪 ザ・シンフォニーホール公演

現代最高の弦楽四重奏団と呼ばれたアルバン・ベルク・カルテット(アルバン・ベルク四重奏団、アルバン・ベルク弦楽四重奏団、ウィーン・アルバン・ベルク弦楽四重奏団)。
そのアルバン・ベルク・カルテットが今年の世界ツアーをもって解散します。現在、アルベン・ベルク・カルテットは最後となる日本ツアーを行っており、今日(2008/05/25)、私も大阪のザ・シンフォニーホールでの公演を聴いてきました。

アルバン・ベルク・カルテット フェアウェルツアーコンサートパンフレット クラシックコンサートのパンフレットを買うことは滅多にない私ですが、今日はアルバン・ベルク・カルテットを生で聴くのも最後だと思い、購入しました。

曲目は、ハイドンの弦楽四重奏曲第81番、団体名にもなっているアルバン・ベルクの弦楽四重奏曲、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番。

思えば、私が初めて買った弦楽四重奏曲のCDが、アルベン・ベルク・カルテットの演奏するモーツァルトの弦楽四重奏曲第14番と第15番(EMI)。
初めて行った弦楽四重奏団のコンサートも、東京・赤坂のサントリーホールで行われたアルバン・ベルク・カルテットの来日公演でした。1996年のことです。

アルバン・ベルク・カルテットの来日公演を聴くのは、それ以来12年ぶり2度目。そして今日で最後です。

1996年の公演でヴィオラを弾いていたトマス・カクシュカは2005年に亡くなり、現在のヴィオラは、カクシュカの弟子である女流のイザベル・カリシウス。
メンバーが替わっても、アルバン・ベルク・カルテットの精緻にして輝かしいアンサンブルは健在でした。

アンコールは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番より第5楽章“カヴァティーナ”。大阪での最後の演奏を締めくくるのに相応しい、優しさと哀しみに溢れた曲でした。

アルバン・ベルク・カルテット フェアウェルツアー 大阪公演アンコール曲目

今後、アルバン・ベルク・カルテットは、前橋、名古屋、横浜、東京で公演を行い、その後ヨーロッパでのツアーを行って、6月末のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭で最後のコンサートを行います。今年1月のウィーンでの公演では、指揮者のサー・サイモン・ラトルがアンコールに特別参加。ピアノを弾いて、アルバン・ベルク・カルテットと共演したとのこと。もう後、1ヶ月ですが、今後も何か特別な出来事があるかも知れません。

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NAXOSヒストリカル アンドレス・セゴビア第3集 「1950年代アメリカ録音」Vol.1

かつて、イスラムの支配を受けたことから独特の文化が花開いたスペイン。
軍事的にも、トルデシリャス条約でポルトガルと(勝手に)世界を二分するなどの栄光を誇りましたが、アルマダの海戦で無敵艦隊が英国海軍に敗れて以降は衰退。その独自の文化もナポレオンに「ピレネーの向こうはアフリカである」などと半ば見下されるようになります。

音楽とて例外ではなく、クラシック音楽の後進国と見なされていました。

19世紀も後半になって、グラナドス、ファリア、タレガなどの有名作曲家が輩出し、ヴァイオリンのサラサーテ、チェロのカザルス、ギターのセゴビアやナルシソ・イェペスなど、世界的な演奏家も次々に登場しました。

中でもアンドレス・セゴビアは、クラシックギターを芸術の領域にまで高めた演奏家であり、スペイン音楽史の最重要人物の一人です。

アンドレス・セゴビア 「1950年代アメリカ録音第1集」 それまでは「民族楽器」程度にしか思われていなかったギターをヴァイオリンなどと同等のクラシック音楽の楽器と認めさせたアンドレス・セゴビア。世界で初めてコンサートホールで、ギターのリサイタルを開いた人物でもあります。

クラシックギターの芸術性の高さを知らしめるために、セゴビアは、ヴァイオリンやチェロなどの弦楽器用に書かれた曲のギター編曲を盛んに行いました。NAXOSヒストリカルから復刻されたこのCDでは、J・S・バッハの「無伴奏チェロ組曲」、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」のギター用編曲を中心に、ヘンデル、ハイドン、C・P・E・バッハ、グルックの作品のギター編曲版を収めています。1950年代のモノラル録音ですが、音質は比較的良好です。

いずれも格調の高い演奏で、クラシックギターに対するステレオタイプな思い込みを見事に打ち砕いてくれます。

*ギター・オムニバス*/Segovia 1950’s American Recordings Vol.1

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2008年5月24日 (土)

ロドリーゴ 「アランフェス協奏曲」 カルロス・ボネル(ギター) シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団

最もスペイン的なクラシック音楽として真っ先に思い浮かぶのが、ホアキン・ロドリーゴ(1901-1999)の「アランフェス協奏曲」。悲劇的なメロディーが印象的な第2楽章が特に有名ですが、全曲を通して名曲です。今日紹介するのは、カルロス・ボネルがギターを弾き、シャルル・デュトワ指揮のモントリオール交響楽団が伴奏を務めたCD。DECCAレーベル。「ある貴紳のための幻想曲」を併録。

ロドリーゴ 「アランフェス協奏曲」 カルロス・ボネル(ギター) シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団 カルロス・ボネルのギターは音が美しく、それも含めた技術が万全です。

シャルル・デュトワ指揮のモントリオール交響楽団は、極めて洗練されたスタイルで、特に澄んだ弦楽の響きは、どこまでも高く真っ青な空を想起させます。

スペイン的な土俗感からは遠い演奏ですが、誰が聴いても曲の素晴らしさを味わうことの出来る好演でもあります。

ロドリーゴ/Concierto De Aranjuez  Fantasia: Bonell  Dutoit / Montreal.so

カルロス・ボネル(ギター) シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団 「アランフェス協奏曲」の現行版ジャケット

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『ロルカ詩集』(土曜美術社出版販売)

詩が好きにとってはおなじみの、土曜美術社出版販売から出ている『ロルカ詩集』を紹介します。世界現代詩文庫の第21巻として出ているもの。小海永二:訳。

『ロルカ詩集』(土曜美術社出版販売) 小海永二:訳 20世紀のスペイン詩壇を一人で代表しているといっても過言ではない、フェデリコ・ガルシア・ロルカ。
1898年にアンダルシア地方のグラナダ近郊に生まれ、グラナダ市、マドリッド、ニューヨーク、キューバなどで生活。
スペインに戻ってからは、素人劇団を立ち上げて、主に劇作家として活躍しています。

しかし、この素人劇団が左派であった共和政府からの援助を受けていたため、フランコが独裁政権を築くと同時に、ロルカは左派知識人として追われることになり、グラナダの友人宅に潜んでいるところを見つかって、すぐそばのオリーブ畑で銃殺されました。時に38歳。

フランコ政権下のスペインでは、ロルカ作品は発禁となり、長い間読むことが出来ませんでした。
沢木耕太郎の『深夜特急』にも、スペインを訪れた沢木が、「ロルカの詩を読むことは出来るのか?」と現地の人に訊いて否定される場面があります。

濃厚なスペイン情緒とダダイズムなどの影響も受けたロルカの詩。わかりやすい詩とイメージ連鎖が必要な難解な作品が混在していますが、難解なものでも声に出して読んでみると、案外すっと体と心に染み込んでくるところがあり、そこが魅力です。

『ロルカ詩集』(世界現代詩文庫 土曜美術社出版販売) 紀伊國屋書店BookWeb

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2008年5月23日 (金)

観劇感想精選(36) アトリエ・ダンカン・プロデュース「血の婚礼」

2007年5月17日 東京・新大久保の東京グローブ座にて観劇

東京・新大久保の東京グローブ座で、フェデリコ・ガルシア・ロルカ作、白井晃:台本・演出の舞台「血の婚礼」を観る。
スペインが生んだ悲劇の詩人、ロルカの代表的戯曲の上演。大阪での上演もあるが、紀尾井ホールでのコンサートを聴くついでに東京で観ておくことにしたのだ。


「血の婚礼」は午後7時開演。出演は、森山未來、ソニン、浅見れいな、岡田浩暉、尾上紫(おのえ・ゆかり)、陰山泰、根岸季衣、新納慎也、江波杏子。
ギター演奏を渡辺香津美が担当する。

「血の婚礼」は、詩人であるロルカらしく韻文が多用されるなど、上演の難しい作品である。
演出の白井晃はロルカが書いた歌詞をカットし、その代わりにダンスを多く取り入れる。森山未來、ソニンなど、ダンスの達人がキャスティングされているだけに、舞踏のシーンは迫力がある。

最初は、パーツパーツは優れているものの、それが上手く噛み合わないもどかしさがあったが、森山やソニンのダンスはセリフ以上に雄弁であり、詩人ロルカの戯曲上演への期待が良い意味で裏切られる。
「血の婚礼」の“血”には3つの意味があるが、血が持つ因縁を表現するには言葉よりも肉体の動きがより適している。言葉も肉体より発せられるが、肉体そのものの動きの方が、より血に直結しているのは明らかであり、言葉は情熱の血を沸き立たせる媒体でしかない。

婚礼から2人が逃げ去る場面以降は、役者の動きとセリフとが絶妙の止揚(という表現を敢えて用いる)を見せる。

情熱的で呪わしいという“血”の両面を描き出すことに成功した優れた舞台であった。

出演者では、森山未來、ソニン、尾上紫の3人が特に良かった。森山未來は期待通りであるが、ソニンは予想以上に優れた表現を見せ、尾上紫の可憐さと妖しさの両方を兼ね備えた演技にも魅せられた。

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たぎる血の惨劇 森山未來主演 「血の婚礼」

2007年5月に東京・新大久保の東京グローブ座で上演されたアトリエ・ダンカン・プロデュース「血の婚礼」を収録したDVDを紹介します。TBSの制作、ポニー・キャニオンの販売。

「血の婚礼」は、フランコ独裁政権下で殺害された、スペインを代表する詩人、フェデリコ・ガルシア・ロルカが書いた戯曲。韻文が多用されていたり、月の成りをした人物が登場するなど、そのままでは、少なくとも現代の日本で上演することは難しい作品です。

森山未來主演 「血の婚礼」DVD

台本と演出を手掛けた白井晃は、多くのセリフをカットし、ダンスの場面を数多く取り入れています。「血の婚礼」の“血”には少なくとも3つの意味が掛けられていると思いますが、そうした血を表すには言葉よりもダンスの方が説得力があります。たぎる血は言葉よりも肉体により近しく、ダンスを生かした情熱と因縁と愛の迸りが見事です。
音楽は渡辺香津美を起用。渡辺は舞台上でギターを奏で、その熱い演奏も極めて効果的です。

原作:フェデリコ・ガルシア・ロルカ、台本・演出:白井晃、主演:森山未來、ソニン、出演:尾上紫(おのえ・ゆかり)、江波杏子、岡田浩暉、池谷のぶえ、陰山泰、浅見れいな、新納慎也、根岸季衣。

Original Cast/血の婚礼

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2008年5月22日 (木)

生誕100年 オリヴィエ・メシアン 「トゥーランガリラ交響曲」 ケント・ナガノ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ほか

今年(2008年)が生誕100年に当たる、フランスの作曲家オリヴィエ・メシアン(1908-1992)。
詩人である母親が、まだお腹の中にあるメシアンについて「私は、まだ知らない音楽のために痛む」という詩を書いたという伝説に彩られた人物でもあります。

そんなメシアンの代表作が「トゥーランガリラ交響曲」。10楽章からなる大作であり、オンド・マルトノという鍵盤楽器が大活躍することでも有名です。

「トゥーランガリラ交響曲」は20世紀を代表する作品ですので、名盤にも事欠きませんが、私が気に入っているのは、ケント・ナガノがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したCD(TELDEC)。

ケント・ナガノ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ほか メシアン 「トゥーランガリラ交響曲」 現代ピアノ曲を得意とするピエール=ローラン・エマールがピアノを担当、ドミニク・キムがオンド・マルトノを奏でています。

ケント・ナガノ盤の特徴は何といってもベルリン・フィルの輝かしい音。それもいつものドイツ・ゲルマン的な重々しいものではなく、浮遊感を持った精妙な音宇宙をナガノは作り出しています。

ベルリン・フィルの合奏能力の高さは最高水準であり、エマールのピアノと、キムのオンド・マルトノも優れており、更に名盤でありながら廉価で手に入れることが出来るというのもポイントです。

メシアン、オリヴィエ(1908-1992)/Turangalila Symphonie: Nagano / Bpo

ケント・ナガノ

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2008年5月21日 (水)

NAXOS日本作曲家選輯 「日本管弦楽名曲集」

メジャー・マイナーレーベル(というと変ですが)NAXOSの「日本作曲家選輯」シリーズ。昨年までNAXOSの日本代理店だったアイヴィの持ちかけた企画によってスタートしたシリーズですので、アイヴィの撤退により、今後はどうなるのかはわかりませんが、今のところ発売、企画ともに続いています。今日紹介する「日本管弦楽名曲集」は日本作曲家選輯シリーズのパイロット・アルバムとして発売されたもの。沼尻竜典(ぬまじり・りゅうすけ)指揮東京都交響楽団(都響)の演奏。

NAXOS日本作曲家選輯 「日本管弦楽名曲集」 外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」、近衛秀麿編曲の「越天楽」、伊福部昭の「日本狂詩曲」、芥川也寸志の「交響管弦楽のための音楽」、小山清茂の「管弦楽のための木挽歌」、吉松隆の「朱鷺によせる哀歌」の全6曲を収録。

指揮の沼尻竜典は1964年生まれの若手指揮者。桐朋学園大学、ベルリン国立芸術大学で指揮を学び、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝という経歴を持つ俊才です。
現在、日本フィルハーモニー交響楽団の正指揮者、大阪センチュリー交響楽団の首席客演指揮者を務めるほか、びわ湖ホールの芸術監督も務めています。

近畿圏にポストを持つ指揮者というと、大植英次(大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督)、広上淳一(京都市交響楽団常任指揮者)のように、四六時中音楽のことを考えていて、音楽家になること以外は考えられなかったという人が多いのですが、そういう中にあって沼尻は、雑誌インタビューの「音楽家になっていなかったら?」という質問に、「ビジネスマン」と即答してしまったという人。
だからというわけではないのでしょうが、適度な客観性とオーケストラ捌きの見事さを特徴とする指揮者です。

いくつかの作品について紹介しておくと、「管弦楽のためのラプソディ」は、1960年に行われたNHK交響楽団初の世界ツアーのアンコール用曲目として、NHK交響楽団のツアーに同行する指揮者でもあった外山雄三が作曲したもの。最初は20分ほどの曲だったのですが、N響の世界ツアーに同行するもう一人の指揮者であった岩城宏之に「ここはいらない、ここもカット」という要望があり、結局10分弱の作品になりました。「あんたがたどこさ」、「三池炭坑節」、「ソーラン節」、「八木節」など、日本の民謡を取り入れた曲で、初めて聴くと気恥ずかしさを覚えるかもしれませんが、慣れてしまうと楽しい曲です。

伊福部昭の「日本狂詩曲」は、日本人作曲家のために行われたチェレプニン賞で1位を獲得した作品ですが、演奏時間20分以内の作品であることという規定に合わせて、3曲からなる曲だったのに、最初の曲をカットして応募。現在も元々の第2曲と第3曲からなる曲として演奏されています。

吉松隆の「朱鷺によせる哀歌」は、吉松が私淑し、憧れの存在であった武満徹へのリスペクトを込めた曲。「朱鷺のよせる哀歌」を英訳すると「Elegy for NipponiaNippon」になりそうなものですが、吉松自身が「Threnody to Toki」という英訳をつけたのは、武満徹のイニシャルである「T・T」を意識したものだからです。

沼尻指揮の都響もキリリと引き締まった演奏を繰り広げており、現代音楽研究家である片山杜秀による解説も充実。日本人作曲家の作品を知る上で最適のアルバムです。

Japanese Composers Classical/日本作曲家選輯: 沼尻竜典 / 東京都.so

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2008年5月20日 (火)

『求めない』 加島祥造

現代社会は、消費社会であり、消費のために人々は追い立てられています。曰く「~がないと時代に乗り遅れます」、曰く「~があると便利です」、曰く「~なしではもうこれからは通用しません」等々。

さりながら、そうした大きな流れに乗ることで我々は我々自身を見つめる目を曇らせてしまうことが往々にしてあります。加島祥造の詩集『求めない』(小学館)には、そうした大きな流れの中で、あらゆることを求めすぎている自分を見つめ直すのに最適な言葉が散りばめられています。

加島祥造 『求めない』 とてもシンプルな言葉がならんでいます。難しいことは一切書かれていません。しかし、その言葉を読んでいく内に、これまで見聞きしたこと、読んだこと考えたこと、そうしたあらゆる記憶が繋がっていく心地よさがあります。人間なら誰でもこうした繋がりを見つけられるはずです。

求めるという行為には求めて当然という思いがあり、求められるのは求めたことの代償という考えがあり、しかし、それらは極めて産業構造的な考えです。

求めると見えない、それは求めるときは求めるものだけに目を配るからで、ある種の豊饒さから目を背けたことの結果でもあるわけです。

ここにあるものだけでなく、「外のもの」に引きずり回される。あるいはありもしないものに追い立てられる。それは現代人、いや現代に限らず人間の宿命なのかも知れず、それが故に宗教や思想(『求めない』には仏教や老荘思想に通ずるものが多くあります)を生んだのでしょう。
「外のもの」に消費されることだけが人生の在り方なのか。求め、求められという循環の中で生きていることで、本当に大切なことから目を背け、その周囲で延々とデッドヒートを繰り広げる羽目になっていはしないか。

そういう思いに駆られたことのある方に読んで貰いたい本です。

加島祥造/「求めない」加島祥造

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秘すること

演劇好きの若者が、自分の歌舞伎観について述べている文章を読んだことがある。歌舞伎に関する解釈が色々と書かれているのだが、多くは、「そんなこというまでもないこと」であったりする。多くの人はわかっているのだ。そしてわかっていても言わないのだ。何でも語ってしまうのは恥ずべきことだと心得ているから。

自身の演出と解釈について延々と語っていたりもするが、そういうことを堂々と書いてしまうのはよろしくないのではないか。

秘することなく、表に出すことが何故か良いことと語られることが多いのだが、そんなものは私に言わせれば嘘だ。
観客の知と能力を信じていないからそう思ってしまうのか。

人間存在はいつだって薄明の中にあるのだ。秘されたところで真実はそっと語られるのだ。まばゆい光の下で起こることなど、実は大したことではない。

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2008年5月19日 (月)

当たっていそうな四柱推命

占いというのは、基本的にカウンセリングなどと同様で、自信回復や精神のバランスを保つためにあるのだと個人的には思っています。ヨーロッパなどでは占い師迫害の歴史もあるようですが、やはりカウンセリング効果の重要性が認められて、今も占いは盛んです。そういえば、日本でも豊臣秀吉の時代には、陰陽師が「世を惑わす」として迫害されたことがありました。陰陽師はその後、身分を回復することが出来なかったのですが。

Webで当たっていそうな四柱推命占いのページを見つけました。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~masamasa/sityuu/suimei.htm

サンプルは少ないのですが、誕生日を知っている知人を占った結果、多くが当てはまるような。たまたまかな。

占いも、信じ込んでしまうと自己や他者に対する考察や分析の余地がなくなってしまって良くないかも知れませんが、「疑似科学」だと知った上で「面白い」と思う分にはいいですね。当たっていそうな占いを見つけるのも楽しいです。

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駄作でも私が振れば ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 チャイコフスキー「1812年」ほか

ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が、チャイコフスキーの序曲「1812年」と「スラヴ行進曲」、ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利(戦争交響曲)」をレコーディングしたCD。3曲とも祝祭的な曲ですが、駄作という評価が定着していることでも有名。
ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」は、イギリスのウェリントン公がナポレオンに勝ったことを記念し、メトロノームを作ったことでも知られる知人のメルツェルの依頼で書かれたものですが、ベートーヴェンは余り気乗りがしなかったのか、メルツェルにも作曲を手伝わせて、のちに著作権問題の訴訟にまで発展しています。
チャイコフスキーの2曲も祝典用に書かれたためか、かなり媚びた感じを受けます。

そんな3曲を、実は傑作であるとして取り上げたのがマゼール。どこまで本気で傑作と考えているのかはわかりませんが、ウィーン・フィルを使ってこれらの曲を演奏するという贅沢な試みに出ました。ソニー・クラシカルからの発売。

ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィル 「1812年」、「ウェリントンの勝利」 「1812年」では大砲の実音を、「ウェリントンの勝利」ではライフルの音を使用。「1812年」では更に合唱まで加えて華を添えます。
「スラヴ行進曲」は速めのテンポを採用し、攻撃的な演奏を聴かせています。

しかし、そういったことをわざわざしているということは、普通の演奏では聴かせられないような作品であるとマゼールが考えていることを実は暴露してしまっているような……。

ともかく、これらの曲の演奏としてはトップクラスのものが揃っているのは間違いなく、マゼールという指揮者の資質(良いものも悪いものも)を知る上でも重要な録音です。

チャイコフスキー/1812  Marche Slave: Maazel / Vpo

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観劇感想精選(35) 劇団四季 「ウェストサイド物語」

2008年3月22日 京都劇場にて観劇

午後5時30分から京都劇場で劇団四季の公演「ウェストサイド物語」を観る。アーサー・ロレンツ台本、スティーヴン・ソンドハイム作詞、テキスト日本語訳:倉橋健、日本語作詞:岩谷時子、レナード・バーンスタイン音楽、浅利慶太:演出。

これまで劇団四季の「ウェストサイド物語」では、ブロードウェイ初演の振付を担当したジェローム・ロビンスの弟子であるボブ・アーディティの振付による公演を行ってきたが、今回のプロジェクトからはジェローム・ロビンスのオリジナルの振付を再現して公演を行っている。ジェローム・ロビンスの振付再現を行ったのはジョーイ・マクニーリー。
日本人の体格、体力ともに良くなり、オリジナルの振付が可能な時期に入ったと判断があったのかも知れない。

体格は確かに良くなっているだろうが、日本人がジェローム・ロビンスの振付で踊ると、それでもまだ体操のお兄さん的ダンスになってしまう。だが、出演者達が振りに慣れれば更に良くなるだろう。そもそもオリジナルの振付に挑もうという気概がいい。

あらゆる要素の中で、歌の水準が一番高い。英語の歌の日本語訳詞が妙になるのは避けられないが、出演者達は高音も良く伸びていたし、平均的水準も高かった。

ちなみに今日の主な出演者は、トニーに阿久津陽一郎、マリアに花田えりか、ベルナルドに加藤敬二、アニタに団こと葉、リフに松島勇気、チノに玉城任、シュランク警部に志村要、クラプキ巡査に石原義文。

マリアの花田えりかのセリフ回しが多少気になったが、傷というほどではない。

演技も納得のいく水準。私は白人の若手キャストによる公演も観たことがあるが、キャリアがものをいうのか、劇団四季の方が非言語的なものも含めて演技表現の水準は高いと思う。

ダンスについていうと、例えば体育館のマンボの場で白人キャストの公演の時に感じられた「殺気」のようなものは四季の俳優からは感じられない。これはやはり人種の差だろう。ジェット団とシャーク団は敵同士だが、日本人がやるとどうしても互いに協力してその場をつつがないよう進行させているように見える。だが、それはある意味、日常生活で殺気を感じることのほとんどない日本という国の良さの表れなのかも知れない。

ラストのトニーが撃たれるシーンには問題を感じた。互いを見つけたトニーとマリアが走り寄るのだが、その距離が短いため、チノが飛び出してきてトニーを撃つ場面がコントのように見えてしまう。
京都劇場のスペースの問題もあると思うけれど、トニーとマリアにもう少し長い距離を走らせないと、観客に「ひょっとしてうまくいくか」という希望を抱かせる間を取ることが出来ない(「ウェストサイド物語」を観に来る人は結末がどうなるかを知っているとは思うが)。希望を抱かせる間がないままトニーが撃たれしまうと、トニーがおっちょこちょいの間抜けに見えてしまうのだ。

とはいえ、なかなか感動的な舞台になっていた。レナード・バーンスタインの書いた「トゥナイト」の五重唱は日本語詞で聴いてもゾクゾクする。やはりミュージカルの名場面中の名場面といえるだろう。

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2008年5月18日 (日)

讃歌としてのレクイエム サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン放送合唱団ほか ブラームス 「ドイツ・レクイエム」

サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン放送合唱団、ドロテア・レシュマン(ソプラノ)、トーマス・クヴァストホフ(バリトン)によって演奏された「ドイツ・レクイエム」のCDを紹介します。EMIクラシックス。

サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ほか ブラームス「ドイツ・レクイエム」 マルティン・ルターがドイツ語に訳した「旧約聖書」と「新約聖書」をテクストに、ヨハネス・ブラームスが作曲した「ドイツ・レクイエム(ドイツ語によるレクイエム)」。
ブラームスらしい堅固な構造を誇る曲ですが、ラトルはベルリン・フィルから温かくも柔らかな音色を引き出し、異色ともいえる天国的な演奏を繰り広げています。

ライナーノーツでラトルは、「ドイツ・レクイエム」について「『人間のレクイエム』だ」と述べており、神による人間救済との解釈の一端を示していますが、演奏はラトルの意図をも超えたものであり、神と人間の讃歌ともいうべき崇高な音楽に仕上がっています。

他の「ドイツ・レクイエム」の演奏に比べると軟派に聞こえるためでしょうか、評論家筋からの評価は必ずしも高くない演奏ですが、これを秀演かどうかを決めるのは個々の問題であり、新時代の「ドイツ・レクイエム」として多くの人に聴いて貰いたいCDです。

ブラームス/Ein Deutsches Requiem: Rattle / Bpo Roschmann Quasthoff (国内盤)

ブラームス/Ein Deutsches Requiem: Rattle / Bpo Roschmann Quasthoff (輸入盤)

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21世紀のマエストロ ニコラス・ケニヨン著『サイモン・ラトル ベルリン・フィルへの軌跡』(音楽之友社)

世界最高のオーケストラといわれるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の現在の音楽監督、サー・サイモン・ラトル。
1955年、イギリス・リヴァプール生まれの指揮者です。
1980年に、わずか25歳でバーミンガム市交響楽団(CBSO)の音楽監督に就任。以後、CBSOのレベルを飛躍的にアップさせ、世界的な脚光を浴びます。
そして1999年、ラトルはベルリン・フィルの第5代音楽監督への就任を決めました。

ニコラス・ケニヨン著・山田真一訳 『サイモン・ラトル ベルリン・フィルへの軌跡』(音楽之友社)

順風満帆に見えるラトルの音楽人生。しかし、ラトルにもラトルなりの苦労があります。ニコラス・ケニヨンが書いた『サイモン・ラトル ベルリン・フィルへの軌跡』(山田真一訳。音楽之友社)は、生い立ちからベルリン・フィルの音楽監督になるまでのラトルの人生に迫った評伝。

音楽好きの両親のもとに生まれたサイモン・ラトル。特に父親のデニス・ラトルはジャズ・ピアノやギターが得意で、息子のサイモンが成長したらジャズ・ドラムを教えて一緒にバンドを組もうと考えていたようです。しかし、サイモンは4歳の頃からクラシック音楽に興味を示し、ピアノやパーカッションなどを習い始めるとすぐに上達。母親の影響で読書が好きになったサイモンは音楽書や楽譜を貪り読みます。7歳の時の愛読書は何とベルリオーズの『管弦楽法』。「音楽に取り憑かれていた」とサイモン自身も語っています。

出身地のオーケストラであるロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴いたラトル少年は、演奏家になることを決め、15歳で学生オーケストラを指揮する機会を得、それ以降は、指揮者以外の職業に就くという選択肢は彼の中から消えました。

しかし、神童ラトルといえども、指揮者になるには苦難の道が待っています。20世紀前半を代表する指揮者の一人であるブルーノ・ワルターは、「ピアニストやヴァイオリニストは楽器を相手に練習できます。しかし哀れな指揮者はというと、大勢の演奏家達、それも自分より遙かに年上で音楽のキャリアも長い演奏家達の前に立たないと指揮を練習することも出来ないのです。最初は何をしていいかもわからないということになります」とテレビインタビューで語っていましたが、ラトルにとってもそれは同じで、初めてプロのオーケストラの立ったときに彼は、「いったい何をすればいいのかまるで見当がつきませんでした」と本書の中で語っています。
その初めて振ったプロのオーケストラであるボーンマス交響楽団のメンバーの若きラトルへの評価は決して高いものではなく、ラトルはその後もレパートリーの問題も含めて多くの壁にぶつかります。
指揮者として功成り名を遂げた後も、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団やクリーヴランド管弦楽団など、ラトルと上手くいかなかった楽団は存在します。

現代音楽を得意とし、ベルリン・フィルでも積極的に現代音楽を取り入れるラトル。しかし、現代音楽はオーケストラメンバーも含め、音楽愛好家に必ずしも好意的には受け止められていません。
ベルリン・フィルとの新しい時代を築きつつあるラトル。ラトルの音楽性と音楽人生知り、そしてベルリン・フィルとの今後を占う上でも、『サイモン・ラトル ベルリン・フィルへの軌跡』は重要な書籍であるといえます。

Book/サイモン ラトル ベルリン フィル

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2008年5月17日 (土)

大きな子供たちの帝国 若林亜紀 『公務員の異常な世界』(幻冬舎新書)

著者の若林亜紀は、民間の建設企業で3年間OLをした後、厚生労働省の外郭団体である研究所に転職。そこで、異常ともいえる公務員の厚遇をつぶさに見てきた人です。

若林亜紀 『公務員の異常な世界』 『公務員の異常な世界 給料・手当・官舎・休暇』(幻冬舎新書)において若林は、一部の公務員達の常識外れの厚遇と意識を、敢えて丁寧な言葉を選ぶことにより、より辛辣に描写します。

子供でもおかしいと思うようなドグマ的世界観にとらわれている一部の公務員の姿は可笑しいやら腹立たしいやらで、こうした大きな子供が築き上げた帝国が根を張っている日本に住んでいることが情けなくもなります。

ただ、一部の公務員の意識が相当奇妙なのはもちろんとして、民間人や民間の企業は正常なのかというと、それもまた別の問題。公務員世界は治外法権かも知れませんが、第二次大戦後に国から厚遇された企業内にも治外法権らしきものが認められているのが日本の実情であり、問題のある公務員の存在が表面化するのと時を同じくして企業もモラル意識の欠如が浮き彫りになっていたりします。

話を広げすぎると収拾が付かなくなるので、公務員に話を限定しますが、著者の若林亜紀が最も問題視しているのは、公務員に自浄作用がないこと。問題を起こしても役所はつぶれないので指導が徹底されず、公務員達も公務員の常識でことを処理してしまうので、自浄作用はなかなか働きそうにありません。

GDP500兆円のうちの200兆円を税金や社会保険料として徴収している役所。しかし、役所で働く公務員の自己保身のために多額の金銭が無駄に流れてしまっています。

そして、更に問題だと思われるのは、公務員は決して珍しい職種ではないということ。ごく普通の人として社会で暮らしている公務員の意識が一般市民と大きくかけ離れているということは、日本の実情を正しく把握している人がほとんどいないのではないかという不安をも生みます。身内にしか通用しない子供じみた常識を振りかざす帝国が、市井の人々を覆うように繁栄しているということでもあるのです。

思い出すのは、村上春樹のエッセイ集『やがて哀しき外国語』に記されていた、アメリカ・プリンストンでの奇妙な日本人エリートの生態。

日本というのは「大きな子供たちの帝国」なのではないか、という疑念がふくらんでいきます。

『公務員の異常な世界』(幻冬舎新書) 紀伊國屋書店BookWeb

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2008年5月16日 (金)

人生は旅であり、旅とは人生である

本日、5月16日は「旅の日」なのだそうです。

ところで、楽隊用語(オーケストラ関係者が使う言葉)では、演奏旅行のことを「ビータ」といいます。

業界用語によくあるように、「ビータ」とは「たび」をひっくり返して出来た言葉。しかし他の業界とは違い、クラシックの用語は発祥の地であるイタリアの言葉を用いることが多い。イタリア語で「ビータ(vita)」は「人生」を意味します。ということでそれにも引っかけて、奥深い(?)楽隊用語との認定を受けて定着しているようです。

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芸名を付け損ねた男

日本では、苗字と名前から各2文字ずつ取って愛称にするということが良くあります。

「エノケン(榎本健一)」、「キムタク(木村拓哉)」、「トヨエツ(豊川悦司)」など、有名どころを挙げていくとキリがありませんが、省略形が発音しづらい場合は、こうした愛称が付くことは当然ながらありません。

欽ちゃんこと萩本欽一は、苗字と名前から2文字ずつ取ると「ハギキン」になりますが、「ハギキン」というのは発音しづらい。しかし、エノケンに代表されるように、コメディの世界では省略形の愛称があることが人気者の証だと考えていた欽ちゃんは、師匠に相談して、呼びやすい「ササキン」になるように、「佐々木欽一」という芸名を考えて貰いました。

しかし、ご存じの通り、欽ちゃんは佐々木欽一を名乗ることはありませんでした。それは、周りに、「今度から名前が佐々木欽一に変わりました」と一々触れて回るのが面倒やら照れくさいやら、ということだったようです。

ということで、佐々木欽一という名前の人気者は現れることなく、萩本欽一は本名で活躍しているうちにブレークして、「欽ちゃん」の愛称で人気者になりました。

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2008年5月15日 (木)

これまでに観た映画より(21) 「過去のない男」

DVDでフィンランド映画を観る。「過去のない男」。監督は、フィンランド映画といえばこの人、アキ・カウリスマキ。

有名なので書くまでもないことだが、アキ・カウリスマキは男性である。フィンランドではアキ、ミツコ、ミカなどは男性のごく一般的なファーストネームである。

3人組の暴漢に襲われ、記憶をなくした男が主人公。家を借り、仕事を始め、女性を愛するという記憶喪失ものの王道パターンを行くのだが、非常に面白い。記憶喪失者にとって現実は厳しいが、周囲の人との心の交流により(それも比較的淡々とした交流である)、以前よりももっと幸福になるストーリーは心温まる。

主人公は身元が判明し、家に戻るが妻とはすぐに離婚することになる。その帰りの汽車の中で男は寿司を食べ、日本酒を飲むのだが、なぜかその車両にはクレイジーケンバンドの「ハワイの夜」がBGMとして流れている。あのシーンの意味は何なのだろう? 

悲惨な人間像をユーモアを込めた視線で温かく見守るというカウリスマキ監督の作風が最も良く現れた作品である。

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2008年5月14日 (水)

取り敢えずの宣伝

私が25歳の頃に去江与司名義で書いた詩「愛する」が載った詩集『愛の詩集』(彩図社 ぶんりき文庫)という本があります。

『愛の詩集』(彩図社 ぶんりき文庫)

もう8年も前に出版されたものであり、いつ絶版になってもおかしくない状態なので、取り敢えず宣伝しておきます。

ちなみに、楽天ブックスやYahoo!ブックスなどで「愛の詩集」と検索すると私のペンネームである去江与司がヒットします。出来の良い作品をピックアップ、だといいのですが、実際は無作為に選ばれたのでしょう。楽天の宣伝記事もYahoo!の宣伝記事も『愛の詩集』出版直後に出た宣伝記事が基になっているので、同じものがヒットするのです。

『愛の詩集』(ぶんりき文庫) 紀伊國屋書店BookWeb

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子供の耳

人間の聴覚は20歳前後をピークに徐々に衰えていくことがわかっています。一説によると、30歳の人間の聴覚は、20歳頃の60%まで衰えているとのこと。
30歳を過ぎた私も実感はないのですが、聴覚は落ちているのでしょう。

若者にしか聞こえない「モスキート音」なるものを使った携帯の着信音も出来ているそうです。試してみると……、確かに聞こえません。14kHzまでは聞こえるのですが、15kHzになるとほとんど聴き取れません。やはり私の耳ももう若者のそれではないようです。

ちなみに子供の頃の私は、テレビのブラウン管の音を聞き取ることが出来たので、10メートルぐらい離れた場所からでも、家のテレビが着いているどうか知ることが出来ました。子供の耳というのはそれくらい優秀なようです。今では、試したことがないのでわからないのですが、おそらく10メートル離れたところからテレビが着いているかどうかを耳だけで感じることは出来ないと思います。

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坂本龍一 『1996』

坂本龍一のアルバム『1996』を紹介します。タイトル通り1996年に発表されたアルバムで、それまでに坂本が発表した作品をピアノ三重奏の形で演奏しています。

坂本龍一 『1996』 「ラスト・エンペラー」より“メインテーマ”と“Rain”、映画『バベル』でも用いられた「美貌の青空」(『NEO GEO』より)、「戦場のメリークリスマス」、「シェルタリング・スカイ」、「嵐が丘」、「リトル・ブッダ」、「ハイヒール」などの映画音楽の他、オリジナル曲である「1919」(レーニンの演説入り)、「Before Long」、「青猫のトルソ」、「ゴリラがバナナをくれる日」、「A Tribute to N.J.P.」などを収録。

坂本の奏でるピアノは抒情的であり、ヴァイオリンとチェロがそれに彩りを添えたり、主旋律を交代で奏でるという形の編曲が主ですが、曲によっては、弦楽器が現代音楽しているものもあり、若い頃は現代音楽の作曲家を目指していた坂本の原点を知ることの出来るアルバムでもあります。

坂本龍一/1996

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2008年5月13日 (火)

グレン・グールド(ピアノ) J・S・バッハ 「ゴルトベルク変奏曲」(1955年盤)

カナダが生んだ天才ピアニスト、グレン・グールド。J・S・バッハのピアノ曲演奏の現代的な洗い直しを始め、天才ならではの独創的な演奏活動を繰り広げました。しかし、数々の奇行でも知られ、協奏曲の演奏の際には、指揮者とオーケストラと聴衆を待たせて30分も椅子の高さ調整を行うなど、神経質な面も目立ちました。
そして1964年に、若くしてコンサート・ドロップアウト宣言を行い、録音のみによる演奏発表を行います。

「拍手こそが我々音楽家の報酬」と語る音楽家もいる中、聴衆の喝采という美酒から遠ざかることの出来た演奏家はグレン・グールドだけであり、極めて異色の存在です。

スタジオで納得のいくまでピアノを弾き、録音を繰り返して完璧なものを目指すという完璧主義的な演奏活動の在り方はいかにもグールドらしいものですが、あるいはグールドは、聴衆を前にしたパフォーマンスというものが、完璧な音楽追求の妨げになると考えたのかも知れません。

グレン・グールドのデビュー録音となったのが、1955年に録音した、J・S・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」。

グレン・グールド J・S・バッハ 「ゴルトベルク変奏曲」(1955年盤 NAXOSヒストリカル) コロムビア(CBS)によって録音され、CBSの後身であるソニー・クラシカルからもCDが出ていますが、今日紹介するのは、NAXOSヒストリカルから出た復刻盤。マーク・オバート=ソーンによる復刻です。
「ゴルトベルク変奏曲」の他に、1954年にカナダのCBCによって収録された「パルティータ第5番」も収録。

当時は異例の速さといわれた「アリア」を始め、全曲に渡って比較的速めのテンポを採用し、キッパリとした語り口調で弾き進めていきます。ロマンティックな要素を洗い落とし、バッハの音楽の高潔さを浮かび上がらせた秀演。

「ゴルトベルク変奏曲」で録音デビューしたグレン・グールドは、1981年に「ゴルトベルク変奏曲」を再録音。デジタルで録音された新盤は、「アリア」を遅いテンポで甘く奏でるなど、旧盤との対比が鮮やかでしたが、グールドはその翌年に脳溢血のため死去。デビューと最晩年の録音が「ゴルトベルク変奏曲」であったこともグールドというピアニストの神秘性をより強めることにもなりました。

歴史的録音復刻の名手として知られるマーク・オバート=ソーンの復刻により、モノラル録音ながら煌めくようなピアノの輝きが増しています。

バッハ/Goldberg Variations: Gould(P) (1955) +partita.5

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2008年5月12日 (月)

湯浅卓雄指揮大阪センチュリー交響楽団 「ロベルト・シューマン交響曲全集」

スコットランドに居を構えて世界的に活躍している指揮者、湯浅卓雄が大阪センチュリー交響楽団を指揮してライヴ収録した「ロベルト・シューマン交響曲全集」を紹介します。ナミ・レコードのライヴノーツ・レーベルからの発売。ロベルト・シューマンの交響曲第1番から第4番までと、「序曲、スケルツォとフィナーレ」を収録。

湯浅卓雄指揮大阪センチュリー交響楽団 「ロベルト・シューマン交響曲全集」 湯浅卓雄は1949年、大阪府寝屋川市(湯浅本人は枚方だと言い張る)の生まれ、高校卒業後に渡米し、シンシナティ大学で音楽を学んだ後、ヨーロッパに渡り、ウィーン国立音楽大学で、名教師として知られるハンス・スワロフスキー、日本でもおなじみのロヴロ・フォン・マタチッチらに指揮を学んでいます。

マタチッチのアシスタントを務めた後、湯浅はイギリスを中心に指揮活動を始め、現在ではNAXOSレーベルの看板指揮者の一人としても注目されています。

湯浅と大阪センチュリー交響楽団のロベルト・シューマン交響曲チクルスは2006年に神戸新聞松方ホールで行われ、このCDに収められた演奏のうち、交響曲第3番「ライン」を除く全曲の実演に私は接していますが、湯浅の深々とした歌と、大阪センチュリー響の温かくも輝かしい音色が印象的な好演揃いでした。
湯浅と大阪センチュリー響は、やはり神戸新聞松方ホールで、ブラームスの交響曲チクルスを行い、その時も録音が行われてライヴノーツ・レーベルから発売されていますが、「ロベルト・シューマン交響曲全集」は、「ブラームス交響曲全集」を上回る出来を示しています。大阪、関西のみならず、日本全国の音楽ファンに聴いて貰いたい充実した音盤です。

シューマン/Comp.symphonies: 湯浅卓雄 / 大阪 Century So

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コンサートの記(11) ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団来日公演2008大阪

2008年4月11日 大阪・中之島のフェスティバル・ホールにて

大阪は中之島にあるフェスティバル・ホールまで、ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団の来日公演を聴きに出かける。

ケント・ナガノは、1951年、アメリカに生まれた日系三世の指揮者である。アメリカで音楽教育と指揮者としてのキャリアをスタートし、フランスのリヨン国立歌劇場、イギリスのハレ管弦楽団、ベルリン・ドイツ交響楽団などの首席指揮者・音楽監督を経て、2006年からモントリオール交響楽団とバイエルン国立(州立とも書かれる)歌劇場の音楽監督を務めている。夫人は、ピアニストの児玉麻里。
風貌が俳優の岩城滉一にどことなく似ているということもあり、日本でもファンの多い指揮者である。

モントリオール交響楽団の音楽監督にはもっと早期に着任する予定だったのだが、モントリオール響が長期のストライキに入ってしまったため、就任が遅れた。

モントリオール交響楽団は、1978年に音楽監督に就任したシャルル・デュトワのもとで急成長し、その後、約四半世紀に渡ってデュトワとコンビを組み続けて、「フランスのオーケストラよりフランス的」との賞賛を受けてきたカナダの名門だが、人事を巡ってデュトワと喧嘩別れし、その後は給与問題を巡って長期のストライキに入っていた。
ということで、モントリオール交響楽団のアンサンブルが健在なのかを確かめる上でも興味深いコンサートである。

曲目は、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と交響詩(三つの交響的素描)「海」、リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲。

「牧神の午後への前奏曲」はかなりゆったりとしたテンポで始まる。フェスティバル・ホールの音響への配慮があるのだろうか。「牧神の午後への前奏曲」も「海」も、管楽器のミスが思ったより多かったが、弦を中心としたハーモニーは美しく、ミントの香るような清冽な響きがある。さすがはモントリオール交響楽団、ではあるが、これはやはりデュトワの音色である。約四半世紀もの間、ともに仕事をしていたのだから、デュトワによってたたき込まれた音色を変えるのは容易ではないということか。美しい音色なので、それが変わらないこと自体は悪いことではないけれど、ナガノならではの響きも聴いてみたくなる。

そのナガノだが、演出は上手だ。特に盛り上げ方が巧い。自然な盛り上げ方ではなく、ギアチェンジの瞬間が明らかにわかるのだが、それでいて強引な感じは余り受けない。

ナガノの指揮姿は端正で、右手で拍を刻み、左手で指示とイメージをオーケストラに与える。要所要所では大きく腕を振るが、基本的にはビートの幅は他の指揮者に比べて小さめであり、後ろ姿は、数学科の有能な大学教授が、黒板に模範解答を書いている様のようだ。

管楽器に若干の不満はあったが、「牧神の午後への前奏曲」も「海」も秀演だった。

アルプス交響曲(交響曲と銘打たれているが、実際は長大な交響詩である)は更に充実した演奏で、開始早々から音に拡がりがあり、曙光が指す場面では、ステージ上が本当にパッと明るくなったような錯覚すら覚える。「滝」の場面も清々しいし、牧場の長閑さも出ている。「嵐の前の静けさ」の場面では、ナガノはオーケストラの音を弱め、不安定な感じを作り出す。かなり地味になるが、雷雨の強烈さを増すための演出だ。だが、肝心の雷雨の場面は、音は盛大に鳴っているものの、獰猛なまでの迫力は感じられなかった。少し残念。そういえば、ケント・ナガノの演奏も、モントリオール交響楽団の演奏もCDで数多く聴いているが、根源的な迫力を持つ演奏になっていたことはほとんどなかった。両者共に上品なのだ。
ただ、雷雨の場では、本当の意味での迫力はなかったものの、ナガノのオケ捌きの見事さは光っていた。

夕映えは清々しく、日没、終末、夜は、風景だけでなく、登山者の疲れまでも表現しているかのような、ナガノの棒の描写力の細かさが印象的であった。

演奏が終わり、ブラボーと盛んな拍手。晴れ着姿の小さなお嬢ちゃん二人(5歳前後かな)が出てきて、ナガノとコンサートマスターに花束を渡す。ステージ下には、おばさま数人が出てきて、花束を差し出し、これもナガノは受け取った。岩城滉一似とあっては、ナガノがおばさま族に人気があるのも当然という気がする。

アンコールは、「さくら(さくら さくら)」の管弦楽編曲版と、ビゼーの「アルルの女」より“ファランドール”。

「さくら さくら」は“和”ではなく、中国風の編曲に聞こえたが、誰の編曲だったのだろう。

“ファランドール”はノリの良い演奏で、ナガノの美質と、モントリオール響の美点が合致していたように思う。

 

ケント・ナガノ指揮の実演には以前も接したことがある。リヨン国立歌劇場管弦楽団の来日公演で、場所は東京オペラシティコンサートホール。サイド席だったのだが、東京オペラシティコンサートホールはシューボックス型のホールであり、サイド席後方に座ってしまうとステージの半分は見えないということになってしまう。私が座った席からは、指揮台に立つナガノの姿も身を乗り出してやっと見えるというほど視覚面は悪かった。ホールの音自体は残響が適度で悪くなかったのだけれど。
「ヨーロッパの聴衆は視覚は気にしない」と聞いたことがあるけれど、ここは日本だし、私は日本人だからね。

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2008年5月11日 (日)

観劇感想精選(34) 坂東玉三郎特別舞踊公演『阿国歌舞伎夢華&蜘蛛の拍子舞』

2007年5月23日 京都・四条南座にて観劇

午後1時から四条南座で、坂東玉三郎特別舞踊公演『阿国歌舞伎夢華&蜘蛛の拍子舞』を観る。出演は、坂東玉三郎の他、市川笑三郎、市川猿弥、市川段治郎、市川春猿ほか。本日が千穐楽である。

『阿国歌舞伎夢華(おくにかぶきゆめのはなやぎ)』は、タイトル通り出雲阿国を主役とした物語舞踊。京・四条河原で活躍中の出雲阿国(玉三郎)。阿国が踊り疲れて眠りに落ちると、亡き踊りの師で恋人でもあった名古屋山三(市川段治郎)が現れる……。

史実によると、阿国は男装の舞で倒錯の美を作り出したようだが、今回は男装の舞は無し。というより、男である玉三郎が女装して阿国を演じているのに、更に男装すると女装なんだかそのままなんだか、いや玉三郎は女形だからそのままではないのか、もう何だかわからなくなってしまうので史実を尊重する必要はないだろう。
玉三郎が良いのは当然として、笑三郎も良い。ただ、笑三郎は本当に女性のような声が出せるのでセリフも聞きたかったのだが、今回は女歌舞伎衆の一人ということでセリフはなし。残念。

『蜘蛛の拍子舞』は、壬生狂言でもおなじみの「土蜘蛛」を題材にした舞踊劇。
源頼光(市川笑三郎)は近頃原因不明の病に悩まされている。実はその原因は女郎蜘蛛の精(坂東玉三郎)の呪いであった……。
リアリズムからは最も遠い話であり、「そういうものだ」と思って見ていても結構笑える。
頼光のもとに突然若い女・妻菊(実は女郎蜘蛛の精)が現れる。頼光は当然怪しむのだが、何故か一緒に舞を舞い、「女、見事な舞だな」などと言っているのだから呑気なものである。

合間に蜘蛛の着ぐるみを着た役者(誰かはわからない)が現れるのだが、蜘蛛の着ぐるみが実にグロテスクで、子供向けのヒーローものドラマを見ているかのよう。

源頼光四天王のうち、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光の3人は最初からいるのだが、坂田金時はラストにようやく登場する(演じるのは市川猿弥)。てっきり坂田金時が、正体を現した蜘蛛(玉三郎)を退治するのかと思ったら、金時は出てきただけで、直後に頼光があっさりと蜘蛛を刺し貫く。金時さん、あんた何しに出てきたんだい。
これは笑いを誘う技巧であったはずなのだけれど、客席からはほとんど笑いは聞こえず。
伝統芸能、そして憧れの玉三郎様の舞台ということで観客は澄ましているのだろうけれど(金時の「玉三郎に似た化け物を」というセリフでは笑いが起きた)、もっと笑ってもいいと思う。エンターテインメントなんだし。

玉三郎(や後見)が白糸(蜘蛛の糸である)を投げる姿は絵としても実に美しかった。

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2008年5月10日 (土)

ごくせん 熊井ラーメン・カップ麺

ごくせん 熊井ラーメン・カップ麺

仲間由紀恵主演の人気ドラマ「ごくせん」。仲間由紀恵演じるヤンクミこと山口久美子の元教え子、熊井輝夫(脇知弘)が店長をしている熊井ラーメンがカップ麺として登場しました。十勝新津製麺と日本テレビサービスのコラボレーション企画。辛味噌豚骨味と辣醤麺の2種類があります。コンビニで発売中。普通のカップ麺ですが、辛味噌豚骨味はそこそこいけます。辣醤麺は辛すぎるかな。個々の好みによりますが。なお、抽選で熊井ラーメン特製どんぶりが当たるそうです。

辛味噌豚骨味3個と辣醤麺3個のセットは「ごくせん」公式サイトのグッズコーナーでも発売されています。

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ザ・コアーズ 「DREAMS ドリームス:アルティメット・コアーズ・コレクション」

1990年代に一大旋風を巻き起こしたアイリッシュ・ポップ(アイルランドのポップス)。コアー家の四兄妹によって結成されたザ・コアーズも、アイリッシュ・ポップ隆盛の一翼を担った名バンドです。
そんなザ・コアーズの2枚目のベストアルバムが「DREAMS ドリームス:アルティメット・コアーズ・コレクション」(アトランティック・レコーズ)。

ザ・コアーズ 「DREAMS ドリームス:アルティメット・コアーズ・コレクション」 全20曲を収録。ほぼ全ての曲が他のアルバムにも収録されていますが、リミックスバージョンなど、このアルバムでしか聴けないものも多く含まれています。

キャッチーなメロディーの曲が並んでおり、タイトルにもなった「ドリームス」、イ・ウンジュがカバーした「Only When I Sleep(夢の中で抱きしめて)」、「夢を見るだけ」といった夢シリーズは特に秀逸。

フィドル、ティン・ホイッスルなど、アイルランドのトラディショナル音楽にはおなじみの楽器が用いられており、また全世界に影響与えたアイリッシュ・ポップ独特の発声法(香港のフェイ・ウォンや日本の安藤裕子らも強い影響を受けている)の美しさを楽しむことも出来ます。

なお、歌詞と日本語対訳がついていますが、日本語訳は直訳風で、解釈がなされていないため、英語を自分で訳さないと楽しめない曲も含まれているのが難点です。

Corrs/Dreams: Corrs Collection

The Corrs

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2008年5月 9日 (金)

草の絡まるシャベル

昨日に引き続き、ペギー葉山の「学生時代」にまつわる話。

私が「学生時代」という歌を知ったのは小学生の頃でした。テレビ番組で、なぜかはよくわかりませんが、ガッツ石松が「学生時代」を歌っていたのです。

さて、「学生時代」は、“蔦の絡まるチャペルで祈りを捧げた日”という歌い出しですが、小学生の私は、チャペルなんてものが何か全くわからず、蔦も聞き違えて、“草の絡まるシャベルで祈りを捧げた日”という歌い出しなのだと思ったわけです。

“草の絡まるシャベル”といっても何のことかわからないはずなのですが、子供というのは想像力が豊かなので、次の“祈りを捧げた”というところから、「蔓草を絡ませたシャベルを墓標代わりにしたペットのお墓だろう」と勝手に結論づけていました。弔いの歌にしてしまったわけですね。「学生時代」のメロディーが哀愁を帯びていたのも想像を後押ししたのでしょう。

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2008年5月 8日 (木)

学生時代

ペギー葉山が唄った「学生時代」。元のタイトルは「大学時代」(モデルになっているのは青山学院大学)でしたが、この歌が作られた昭和39年当時は大学に進学する人が少なかったことと、ペギー葉山は高等部までは青学にいましたが、大学には行かずに歌手になったということで、発表時に「学生時代」にタイトルが変更になりました。

ただ、学生というと普通は大学生のことを指します。

私は学生を二度やっているわけですが、最初の学生の時の方が学生学生していました。

さて、一度目の学生時代。ペギー葉山は「素晴らしいあの頃 学生時代」と唄っていますが、私の場合は……、
今思い返すと、「素晴らしいあの頃」とは思えないですね。生活自体は楽しかったですけれど、思い出の中に出てくる学生時代の私は……、幼い、知識不足、不安だらけ、自意識過剰と、ろくな人間じゃありません。よくまあ、恥ずかしくなかったものだと思うことも多々。

しかし、ゼミなどは楽しかったですね。ゼミを受けたから今の自分にある程度自身が持てているような気がします。論文を読みまくってましたけれど、翌週のゼミに行くときは、それまでよりずっと賢くなったような気がしていました。気がしていただけかも知れませんけれど。 

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かお占い

顔の輪郭、目、眉、鼻、口、耳、髪型などを選択して占う、「かお占い」を紹介します。無料です。

http://kao.boo.jp/index.php

自分だけでなく、他人も占えます。

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ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団 ウリヤーナ・ロパートキナ主演   チャイコフスキー バレエ「白鳥の湖」

2006年5月から6月にかけて、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で行われた公演を中心に収録された、チャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖」のDVDを紹介します。DECCAレーベル、イギリスのBBC、日本のNHKの共同制作。指揮はワレリー・ゲルギエフ、演奏はサンクトペテルブルク・マリインスキー劇場管弦楽団(旧称:キーロフ劇場管弦楽団)。オデット姫とオディールの二役をウリヤーナ・ロパートキナが舞い、ジークフリート王子をダニーラ・コルスンツェフが踊っています。
マリウス・プティパとレフ・イワーノフが1895年に完成させた振付を基に、コンスタンチン・セルゲーエフが1950年に振付改訂をしたマリインスキー劇場版を使用した公演。

サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場 DVD「白鳥の湖」 ゲルギエフ指揮

ロパートキナとコルスンツェフ、マリインスキー劇場バレエ団の華麗な舞いと幻想的な振付、セットの豪華さも見所ですが、ドラマティックな音楽をスコアから引き出したゲルギエフの指揮が見物、聴き物。第1幕冒頭では、空中にある見えない鍵盤を奏でるかのように指をヒラヒラさせながら指揮をするゲルギエフの独特の指揮姿も見ることが出来ます。

個人的には「白鳥の湖」の全曲盤は聴き通すのに骨が折れるので、DVDを観た方が音楽も楽しめます。ゲルギエフ盤DVDはBBCとNHKの協力による映像も美しく、「白鳥の湖」のDVDとしてはトップランクです。

バレエ&ダンス/Swan Lake(Tchaikovsky): Lopatkina Korsuntsev Gergiev / Kirov Opera (輸入盤)

バレエ&ダンス/Swan Lake(Tchaikovsky): Lopatkina Korsuntsev Gergiev / Kirov Opera (国内盤)

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2008年5月 7日 (水)

アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団 レスピーギ 「ローマ三部作」

伝説の指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)。イタリアのパルマに生まれ、最初はオーケストラのチェロ奏者として活躍。病気になった指揮者の代わりに指揮台に立って成功したのを機に指揮者に転向し、20世紀最高の指揮者の一人として後進にも大きな影響を与えました。
極端な近眼であったトスカニーニですが、伊達男でもあった彼は、当時のお洒落とはお世辞にも言えないレンズの厚い眼鏡をかけることを嫌い、スコアを全て頭に叩き込んで暗譜で指揮するようにしていました。これが格好良かったため、その後、多くの指揮者が暗譜で指揮するようになったとも言われています。

癇癪持ちで、「ノー!」を繰り返すため、「トスカノーノ」と呼ばれて怖れられたトスカニーニ。リハーサルでオーケストラを散々に否定することでも有名で、「トスカニーニ?! ノー! ノー!(トスカニーニとのリハーサルは嫌だ)」ということで、ウィーン・フィルの奏者から陰で「トスカノーノー」と呼ばれていたともいいます。しかしその実力は誰もが認めざるを得ず、ミラノ・スカラ座、メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)、ニューヨーク・フィルと、常に世界第一級のアンサンブルの指揮台に立ち続けました。

そんなトスカニーニの代表盤がNBC交響楽団を指揮した、レスピーギの「ローマ三部作」(「ローマの松」、「ローマの泉」、「ローマの祭り」)。RCAレーベルからの発売。

アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団 レスピーギ 「ローマ三部作」 1936年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任したトスカニーニですが、ヨーロッパでムッソリーニとヒトラーというファシズムを標榜する二人の独裁者が台頭していたことでアメリカに留まることを決意。一旦は引退も表明しますが、トスカニーニにニューヨークに留まって仕事をして欲しかったNBC放送は、彼のために最上級のアンサンブルを組織しようとし、高額の報酬で最高の奏者を集め、NBC交響楽団を組織しました。
トスカニーニはNBC交響楽団を暴君のような権力を振るって鍛え、世界最高のアンサンブルに仕上げて、数々の名盤を世に残しました。

暴君的エピソードには事欠かず、「独裁者は一体誰なんだ?」と皮肉を言われることも多いトスカニーニですが、妥協を許さない音楽作りが「超」のつく名演の数々を生み出していたことも確かです。

クリアな音であるものの1950年代のモノラル録音ということで、音の拡がりに関しては最新の録音に敵わないトスカニーニ盤ですが、NBC響の「ピンポイント」ともいうべき精密さと威力で次々に繰り出される音は聴く者を圧倒。特に「ローマの祭り」における音の精妙な爆発は異次元の演奏を聴く思いがします。

レスピーギ/Roman Trilogy: Toscanini / Nbc.so

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誰も決めてはいない

誰も決めてはいない
自分が生まれてくる国も
自分自身の性別も
自分自身の名前も
「それらしさ」の衣装を纏う前に
気がつけば
そこにあったもの

となれば
存在は認識に先行し
状況に存在は先行する
存在こそが価値である

「実存」と
専門用語を使ってもいいが
日常語で語れるものにわざわざ特別な言葉を持ち込む必然性はない
日常のなかに我々は存在し
我々が味わいうるのは日常だけなのだから

人類は狡猾で
あらゆるものを
ある時は自分さえも
支配下に置こうとする
でも思い出して欲しい
誰も世の中の在り方を決めてはいない
生き方を定めてもいない
送られてくるありとあらゆるシグナルが
我々を惑わし、誘導しようと謀っているけれど
それに従う自由と従わない自由がある
そして「自由」の正体でさえ誰も決めてはいない
(「自由の刑」? いやいやそんな特別な言葉を使う必要だってない。「それ」は言葉にしなくても実感しうるのだから)

超越者のような「誰か」を決めたのは誰か
あるいは誰もその「誰か」さえ決めてはいないのか

「私」は今ここに存在する
しかしここに存在する私は実は私が決めたものではない
それでも存在をするということが
誰からも決められてはいない
人間という存在の本当の価値なのだろうか

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2008年5月 6日 (火)

これまでに観た映画より(20) 「ワンダフルライフ」

DVDで是枝裕和監督の映画「ワンダフルライフ」を観る。この世を去った人々が訪れる天国の入り口にある施設。死者達はこれまでの人生で一番思い出に残る場面を選び、それを撮影してから次の世界に旅立っていく。主演:ARATA、小田エリカ、内藤剛志、寺島進ほか。

旅立ちとは何か、と考えさせられる作品。死者達と面談する施設の人達は実は全員、「一番の思い出」を選ぶことが出来なかったためにここで働いているのだ。

施設で働く青年・望月隆(ARATA)はある老人との面談を担当する。実はその老人は望月のかっての許嫁と結婚した人物であった。望月は容貌こそ22歳だが、太平洋戦争で戦死しており、その老人とは同世代だったのだ。
望月の心の中に起きる旅立ちへの思い。

何を選び、どこへ行くのかという問いは実は人生そのものの問いでもある。岡村孝子の歌にもあるが、「いつかはみな旅立つ、それぞれの道を歩いていく」。何がきっかけで、どの道を選ぶのかは個人個人の最重要問題だ。選択なんて実は出来ないし誰もしてはいないというのもまた真実かも知れないが、信じる道を歩むという決意を常に再認識していくことの大切さを思い出させてくれるドラマである。

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2008年5月 5日 (月)

シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団 「ドビュッシー管弦楽曲集」(2CD)

フランス音楽のオーソリティーであり、NHK交響楽団の常任指揮者、音楽監督、そして現在は名誉音楽監督として日本でもおなじみのシャルル・デュトワが、手兵であったモントリオール交響楽団を指揮して録音した3枚のドビュッシーの管弦楽曲のCDより、ドビュッシーがオーケストレーションも手掛けた曲のみをCD2枚に収めたものを紹介します。英DECCAレーベル、ダブルDECCAシリーズ。

シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団 「ドビュッシー管弦楽曲集」(2CD) 3つの交響的素描(交響詩)「海」、バレエ音楽「遊戯」、交響的断章「聖セバスチャンの殉教」、「牧神の午後への前奏曲」、管弦楽のための「映像」、「夜想曲」、交響組曲「春」を収録。

1978年から2002年までの長きに渡ってコンビを組み、数々の名盤を世に送り出してきたデュトワとモントリオール響の代表盤の一つ。

爽やかで洒落た音色が魅力的なモントリオール交響楽団と、オーケストラを巧みに操るデュトワの高い音楽性が相まって、華麗な音楽絵巻が次々に繰り広げられていきます。

録音も優秀であり、ドビュッシーの管弦楽曲集のCDとしては最上級の仕上がりです。

ドビュッシー/Orch.works: Dutoit / Montreal.so

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同姓同名の他人

一見「具象」について語っているようでありながら、言葉は個々のコンテクストから完全に自由にはなりきれないが故に、ナノ単位のズレからでも、それが拡幅されれば決定的な齟齬が生まれる。

同じことについて語っているつもりでありながら、実は同姓同名の他人について語っているようなものであることがままある。個々の意識の「抽象性」という本質故である。

この性質を知ると知らないとでは大きな違いが生まれる。

我々は畢竟、語り得ず、確認し合えないのかも知れないが、それが故に語り合い、確認し合う意志を持つ必要もある。
今、何について語っているのかを。

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2008年5月 3日 (土)

サー・チャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団&フィルハーモニア管弦楽団 「ベートーヴェン交響曲全集」

サー・チャールズ・マッケラスがスコットランド室内管弦楽団とフィルハーモニア管弦楽団を指揮して完成された「ベートーヴェン交響曲全集」(英ハイペリオン)を紹介します。交響曲第1番から第8番までがスコットランド室内管弦楽団の演奏、交響曲第9番「合唱付き」のみフィルハーモニア管弦楽団の演奏です。2006年のライヴ録音。

サー・チャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団&フィルハーモニア管弦楽団 「ベートーヴェン交響曲全集」 1925年、オーストラリア人の両親のもとアメリカに生まれ、オーストラリアで音楽教育を受けたマッケラスは、シドニー交響楽団のオーボエ奏者として活躍した後、イギリスとチェコに留学、指揮法を学びます。

チェコ留学時にはモラヴィア地方を代表する作曲家であるレオシュ・ヤナーチェクの音楽に傾倒、のちにヤナーチェク演奏の第一人者と評価されることになります。

古楽が盛んなイギリスで指揮法を学んだこともあり、マッケラスはピリオド演奏にも傾倒。古楽器オーケストラであるエイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団も数多く指揮し(主に現代オーケストラを振る指揮者が古楽器のオーケストラを本格的に指揮したのはマッケラスが最初ともいわれる)、またモダン楽器によるピリオド演奏の先駆けともなって、エイジ・オブ・インライトゥメントを指揮するもう一人の現代オーケストラの指揮者であるサー・サイモン・ラトルらに大きな影響を与えました。

マッケラスは1990年代にロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して「ベートーヴェン交響曲全集」をEMIに録音していますが、出来は最新盤であるこのハイペリオン盤の方が上。
マッケラスは、ピリオド奏法を完全に手の内にしており、そのことによってピリオド奏法であることを感じさせないという、モダンオーケストラのピリオド奏法の理想ともいうべき境地に達しています。ピリオド奏法を援用した演奏は逆にアグレッシブな感じを受けるものですが、マッケラスの演奏は自然体であり、それでいて生命力の横溢が感じられるという大変優れたもの。現時点における「ピリオド奏法を援用したモダンオーケストラによるベートーヴェン交響曲全集」の最高峰をなすものとして強くお薦めしたいセットです。

サー・チャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団ほか 「ベートーヴェン交響曲全集」(タワーレコード)

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思考の断片 「理想を説く思考」

「思想書や哲学書や仏教書などを読んで感心しても、街へと一歩繰り出すと、ここがそうした感心の通用する世界ではないことに気付く」

それは当然で、この世界は理想郷ではないから。そして理想郷を求める心にも疚しさがありありと感じられるから。

考えてみれば、宗教にはありがちだけれど、寺院も修道院も人里離れた場所にあることが多い。思考を磨くためには別世界に行く必要があるのだろうけれど、逆に考えれば、そうした精神世界は娑婆にあっては築き得ず、高い場所から宣言が下されてもそれは斯界にあってはリアリティを持ち得ぬということか。

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2008年5月 1日 (木)

ある数字の話

「1は2、3は12、4は10、6は4、8は8、10は6、12は無し」

これだけだと大多数の人は何を言っているのかわからないと思います。関東出身で、京都に住んでいる人はピンと来るかも知れませんが。

実はこれ、テレビのチャンネルの違いを言ったもので、関東のテレビ局のチャンネル番号が京都では何チャンネルに相当するかを示したものです。

東京→京都の順で併記してみると、

NHK総合 1→2
NHK教育 3→12
日本テレビ 4→10 読売テレビ
TBSテレビ 6→4 毎日テレビ
フジテレビ 8→8 関西テレビ
テレビ朝日 10→6 ABCテレビ
テレビ東京 12→ 京都では基本的にテレビ大阪の番組は受信出来ない。

京都のUHF局であるKBS京都テレビは多くの家庭では3チャンネルに入っています。
KBS京都は、以前はテレビ東京の関連局として同じ番組を数多く放送していたようですが、テレビ東京系列の関西キー局であるテレビ大阪が出来てからは独自路線を歩み、テレビ大阪が京都府を視聴地域にしなかった(KBS京都の反発もあって出来なかった)ため、京都ではテレビ東京系列の番組が視聴出来なくなっています。

VHF局とUHF局が共存している関東から見ると奇妙な気もしますが、これが関西流のようです。ただ、VHF局が本社を置く東京には長くUHF局は存在しなかったので、事情がそれほど違うというわけでもないのでしょう。

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「太陽がいっぱい」オリジナル・サウンドトラック

イタリア=フランス合作映画「太陽がいっぱい」のオリジナル・サウンドトラック盤を紹介します。ユニバーサル・ミュージック・フランスから出ているCD。
現在、「太陽がいっぱい」全曲の国内盤は出ておらず、このフランス盤が唯一の全曲盤です。
作曲は、イタリア映画音楽の代表的作曲家であるニーノ・ロータ。

「太陽がいっぱい」オリジナル・サウンドトラック あるいは映画の内容以上の知名度を誇るかも知れないというテーマ曲が有名な「太陽がいっぱい」の音楽ですが、そこはニーノ・ロータの作だけあって、テーマ音楽以外にも美しく、切なく、スリリングな音楽が満載です。全15曲を収録。

オーケストラのみならず、ピアノ、マンドリン、ギターなどの楽器もソロとして大活躍。

フランス盤ですが、ライナーノーツには英語による解説(比較的平易な英語が用いられています)もあります。

太陽がいっぱい/Plein Soleil (Digi)

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