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2008年6月28日 (土)

観劇感想精選(39) 「身毒丸 復活」

2008年2月28日 大阪の梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後7時より、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「身毒丸 復活」を観る。寺山修司&岸田理生:脚本、蜷川幸雄:演出。藤原竜也、白石加代子:主演。出演は他に、品川徹、石井愃一、蘭妖子など。

寺山修司の代表作の一つである「身毒丸」。「身毒丸」はもともとは中世より伝わる日本の民話(説教節)「しんとく丸」をモチーフにした戯曲で、継母と継子の物語である。

舞台上方に渡された橋状のセットの鉄パイプで出来た欄干を男達がチェーンソーで刻み、火花の飛び散る中を異形の者達が次々に現れる。そうした、いかにもアンダーグラウンド演劇のテイストで蜷川版「身毒丸」は始まる。

身毒丸(藤原竜也)には母がいない。母を恋い慕う身毒丸は、母の写真を持って街行く人々に母の俤を知っている人がいないかどうか訪ねて回っている。
そんな中、身毒丸の父親(品川徹)は、新たな母を探そうとする。旅の一座の女の中から母を選ぼうというのだ。選ばれたのは撫子という名の女(白石加代子)。撫子には「せんさく」という名の連れ子がいる。せんさくは身毒丸にも身毒丸の父親にもよくなつき、身毒丸の父親と撫子の仲も良いのだが、身毒丸は撫子を母と認めることが出来ない……。

身毒丸の父親が再婚する理由は、「家があり、家には父があり、母があって子があるもの。我が家には母だけがいない」というものである。家族のあるべき姿があり、それをなぞって生きるのが人間という、封建的ともいえる考えと、家父長的意識がそこにある。これは寺山と岸田理生が作り出した設定で、そこに寺山版「身毒丸」の重要なテーマの一つがあるのは間違いない。蜷川の演出もそれに沿い、家父長的なものから抜け出た世界の継母と継子の物語として「身毒丸」を描いている。

ただ、おそらく寺山も岸田も蜷川も意識していないであろうことが私には見えた。別に私が彼らより演劇に通暁しているからではなく、私が彼らより若いからというだけの話なのだが、ある意味、家族さえも社会生活上の最小限の単位ではなくなった現在においては、本当に「個」として放浪する人間の姿を「身毒丸」に見出しても決して間違いではないと思うのだ。

人間は、この世界に理不尽に生まれてくる。「個」まで単位を絞れば、人間は世界の継子なのだ。世界は世界であり続けるためにあるのであり、「個」を受けいれるために出来ているわけではいない。受けいれることを条件にしていないというところに実の母ではなく継母的要素がある。理不尽に突きつけられた世界を受けいれられない身毒丸の姿は、「個」に固執するあまり世界を受けいれられない若者の姿に繋がる。

そして世界を受けいれられない若者は、変わりゆく世界に伴って増えてくる条件をもまた受けいれられないことが多い。しかし、これをある程度受けいれられる状態の者は、それを「選択した」ことにより、世界にある程度参加した継母的状況へと移る。

現代の視点から見ると、「身毒丸」は(寺山や蜷川の意図とは別に)、そして身毒丸が撫子と抱き合い、「もう一度、僕を妊娠して下さい」と語るセリフは、「世界の調和」への意志と受け取ることが可能なように思うのだ。

異形の者達の出演、出演者は多いがセリフのある役は少ない、幕がバンバン下りては上がることで切り替わるシーン、次々に鳴る音楽など、アングラ演劇的要素が随所に施された蜷川演出は懐かしくも新鮮であった。
藤原竜也も白石加代子も流石の名演技を見せ、一度は「ファイナル」と名打たれた「身毒丸」の復活も当然と思わせるだけの水準に達していた。

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