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2008年10月の29件の記事

2008年10月31日 (金)

セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 ショスタコーヴィチ交響曲第1番&第9番、バーバー「弦楽のためのアダージョ」

セルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)は20世紀に活躍した指揮者の中でも最も異色の活動を行った人です。
ルーマニアに生まれたチェリビダッケは、若くしてベルリン・フィルに認められ、一時はベルリン・フィルの1シーズンをほとんど一人で振るほどでしたが、癇癪持ちで口の悪い彼は次第に楽団員の反感を買うようになり、フルトヴェングラーの後継者争いに敗れて、カラヤンにベルリン・フィルの常任の地位を奪われました。

カラヤンが録音活動を通して全世界に認められていくことに反発したのか、チェリビダッケは、レコード用の録音というものを一切認めず、コンサートの模様を収めた映像作品に関しても「あれは音楽ではなくてスペクタクルショーだ」と言い放ちました。

演奏活動においても、常識外れに長いリハーサル時間を要求し、どんなオーケストラでも自分自身の音色に染め抜くことに専心しました。

チェリビダッケは、通俗的な作品を嫌いましたが、彼が多く仕事をしたのは、通俗的な曲の演奏も多く行う放送局のオーケストラ。これは放送局のオーケストラは資金が潤沢で、リハーサルに多くの時間を割けるという理由も大きかったようです。ということで、レコード用の録音には否定的だったチェリビダッケも、放送用のライブ録音は多く残しています。

そんなチェリビダッケも晩年になると、自分が死んだら放送用の録音の発売を許可することを仄めかすようになり、実際、チェリビダッケの死後、遺族が「海賊盤が多く出ることを懸念する」という理由でメジャーレーベルからのCD発売を許可し、チェリビダッケの正規録音が世に出ることになります。

セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 ショスタコーヴィチ交響曲第1番&第9番、バーバー「弦楽のためのアダージョ」 今日紹介するCDも放送用音源からCD化されたもの。

ショスタコーヴィチの交響曲第1番と第9番、サミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」が収録されています。EMIからの発売。

チェリビダッケの演奏の特徴は、低音をしっかりと築き、その上を磨き抜かれた高音が駆け巡るというもので、重厚な味わいがありますが、音はクリアです。

ショスタコーヴィチの交響曲第1番は、ショスタコーヴィチ17歳時の作品ですが、チェリビダッケのどっしりとしたアプローチゆえか、若い作曲家の作品ではなく、成熟した音楽として聞こえてきます。

ショスタコーヴィチの交響曲第9番は、歪んだユーモアを特徴とする曲ですが、チェリビダッケはしなやかさと迫力を合わせ持つ独特のアプローチを示しています。

バーバーの「弦楽のためのアダージョ」は、ミュンヘン・フィルのストリングスの壮絶なまでに美しくも優しい、慈愛に満ちた音が聴く者の胸を揺さぶります。

ショスタコーヴィチ/Sym.1  9: Celibidache / Munich.po+barber: Adagio

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中川右介 『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書)

クラシック音楽界最高の地位と多くの人が認めるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者(音楽監督)。ハンス・フォン・ビューロー、アルトゥール・ニキシュという伝説の指揮者の跡を継いで三代目のベルリン・フィル首席指揮者となったヴィルヘルム・フルトヴェングラー。20世紀最高の指揮者と今でも目されているフルトヴェングラーであるが、生来の優柔不断さからナチス台頭期に身の振り方に苦悩する。その頃、ドイツ国内で話題になっている一人の青年指揮者がいた。彼の名はヘルベルト・フォン・カラヤン。オーストリアのザルツブルク出身のカラヤンは最初のポジションであるウルムの歌劇場では失敗したが、その後は着実にキャリアを重ねており、1938年、30歳の時には「奇蹟のカラヤン」との演奏会評を受けるまでになっていた。自分の息子のような年齢のカラヤンにフルトヴェングラーは脅威を抱く。

中川右介 『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書)ナチス時代のドイツを舞台にベルリン・フィル首席指揮者の座を巡って巻き起こる様々な欲望と陰謀。その二人の主人公、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとヘルベルト・カラヤン、そして第三の男ともいうべきセルジュ・チェリビダッケの活躍を時系列的に配した、中川右介の『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎文庫)。カラヤンとフルトヴェングラーによるベルリン・フィル首席を巡るドラマはクラシックファンの間ではよく知られたものであり、この書物に書かれていること自体にはさほど新鮮味はないが、三人の心の葛藤を描くという「人間ドラマ」的切り口が巧みであり、権力や陰謀を描いたサスペンス小説のような面白さがある。

「『カラヤンとフルトヴェングラー』概要」
実演の実力では誰にも負けないフルトヴェングラー、しかし当時の録音技術では彼の演奏の素晴らしさを捉えることが不可能であることはフルトヴェングラーもよくわかっていた。そこへ現れたカラヤン。カラヤンはフルトヴェングラーとは逆に当時の録音技術に適した個性を持っており、そのことをカラヤン本人もフルトヴェングラーもよく知っていた。結果、22歳も年下のカラヤンにフルトヴェングラーは嫉妬にも似た感情を覚える。時あたかもナチス政権下。ナチスに反抗的であったフルトヴェングラーと、ナチス党員であったカラヤン。次第に立場が危うくなり、ベルリン・フィルの指揮台に立つ回数が減っていくフルトヴェングラーに対し、カラヤンは着実な歩みを見せていたが、ヒトラーの御前演奏でカラヤンは致命的なミスを犯し、ヒトラーに嫌われてしまった。こうしてベルリン・フィルの指揮者陣が手薄になっていく。そして、終戦直後、ナチスへの関与により公式活動を禁止されたフルトヴェングラーとカラヤンの不在期に一人の名もないルーマニア人若手指揮者がベルリン・フィルの演奏会で大成功する。そのルーマニア人若手指揮者の名はセルジュ・チェリビダッケといった。

中川右介 『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書) 紀伊國屋書店BookWeb

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2008年10月30日 (木)

深く潜る

一つ一つ積み重ねることが美徳とされる傾向がある。人生においても教育においても。

しかし、出来合いの登山道を歩くように、既成のブロックを積み上げるように、上を目指し、築き上げることが人間の本能なのかと疑わしくなることがある。

出来るなら、時にはあらゆるものから下りて、深く潜ってみたい。鼓膜の奥の音に耳を澄まし、目の裏側の像を見つめながら、根源にまで下りてみたくなるのだ。

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2008年10月29日 (水)

こら! ニフティ

佐原は伊能忠敬が商人として活躍したところではあっても、彼が生まれ育ったところじゃないぞ!

http://golog.nifty.com/cs/catalog/golog_article/catalog_004176_1.htm?10291800

本文には「育ったところ」となっているのに、序文ではなぜ「生まれ育った」になっているのだろう?

元千葉県民

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2008年10月28日 (火)

コンサートの記(25) ファジル・サイ・ピアノリサイタル2006神戸

2006年10月4日 神戸新聞松方ホールにて

神戸へ。神戸新聞松方ホールで、トルコ出身のピアニスト、ファジル・サイのリサイタルを聴くためである。

神戸新聞松方ホールのソワレは、午後7時15分という他のホールとは違った時間に始まることが多い。今日のファジル・サイのリサイタルもやはり午後7時15分に始まった。

曲目は、前半がモーツァルトの「ああ、お母さん聞いて」による12の変奏曲(通称:キラキラ星変奏曲)とピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」、J・S・バッハの「パッカサリアハ短調 BWV.582」。前半は当初、オール・モーツァルト・プログラムの予定であったが、3曲目の「幻想曲ニ短調 K397」が外され、代わりに大バッハの作品が入れられた。後半は、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番より「シャコンヌ」ピアノ編曲版(ピアノ編曲:ブゾーニ)とベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番「熱情」という組み合わせ。

1970年、トルコの首都アンカラに生まれたファジル・サイは当地の音楽院で学んだ後、ドイツ・デュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽院、更にベルリン芸術大学で学んでいる。作曲家でもあり、アンコールでは自作も演奏された。

さて、このファジル・サイ。かなり変わった人だとは聞いていたが、百聞は一見にしかず。グレン・グールドも真っ青の変人ピアニストであった。

まず、ピアノを弾きながら歌う。左手を無意味に高く上げる。観客の方を向きながら、反っくり返るようにしてピアノを弾く、かと思ったら、誰もいない後方をずっと見つめながら弾き出す(私には見えなかったがモーツァルトの霊でもいたのだろうか)。ピアノに向かって投げキッスを繰り返す。ピアニッシモを奏でる時は口に指を当てて「シーッ」という仕草をする、などなど、数え上げたらキリがないほど多くの奇行を見せる。この手の変人ピアニストは20世紀で絶滅したかと思っていたが、まだ生きていた。優等生的なピアニストが大多数を占めている中で、ファジル・サイのようなピアニストは貴重である。

キラキラ星変奏曲では、旋律を強調し、別の曲のようににしてしまった。しかし、才能は確かで、基本的にモノクロームの楽器と言われるピアノから多彩な色合いの音を引き出す。テクニックも素晴らしい。弱音の美しさ、強奏の迫力なども特筆ものである。

ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」も自在な表現。曲想の描き分けの上手さ、ノリノリのトルコ行進曲の楽しさなど、ピアノ演奏の醍醐味を味わわせてくれる。ただ全てが素晴らしいというわけではなく、第1楽章などでは余りに乱暴な演奏に唖然とさせられたりもした。本当のモーツァルト好きが聴いたら怒り出すんじゃないだろうか。

J・S・バッハの2曲は一転して壮絶な演奏であった。「パッカサリア」ではバッハの音楽には不釣り合いなほど雄大なスケールの演奏を展開し、天才という触れ込みが嘘でないことを確認する。

「シャコンヌ」は更に優れている。ブゾーニ編曲のピアノ版「シャコンヌ」は様々なピアニストのコンサートで採り上げられる曲であり、録音も比較的多い。しかし、ファジル・サイの「シャコンヌ」演奏はこれまで聴いたことのあるどのピアニストの演奏とも違う、桁外れの名演であった。雄大なスケール。深い音色。一音符毎に変わる表情。
これまで、「シャコンヌ」はあくまでヴァイオリン用の曲で、ブゾーニの編曲は、そのエッセンスをピアノに移植しただけに過ぎないと思っていた。ブゾーニのピアノ編曲版は原典のヴァイオリン版には勝てないと。しかし、ファジル・サイの演奏するピアノ版「シャコンヌ」は平凡なヴァイオリニストが奏でるそれよりも数段上であった。ファジル・サイのテクニックは完璧であるが、それよりも音楽性の豊かさが目立つ。曲の掘り下げも素晴らしい。となるとピアノの音量は、ヴァイオリンなど比較にならないほど豊かであり、ヴァイオリンを上回る演奏が生まれたとしても不思議ではない。その不思議ではないことが私の前で初めて起きたのだ。

ベートーヴェンの「熱情」ソナタも最上級の名演。音の強弱を極端なほどにつけた演奏であったが、それが不自然とは全く思われないというところに、ファジル・サイというピアニストの傑出したセンスが現れている。

アンコールは3曲。まず、ファジル・サイの作曲作品である「ブラック・アース」が演奏される。左手でピアノの弦に直接触れて震動を抑え、右手でその部分の鍵盤を押すことであたかも弦楽器をつま弾いているような音色を出すという面白い曲である。作風はどことなく坂本龍一に似ている。

続いて、ガーシュインの「アイ・ガッタ・リズム」変奏曲。ジャズも演奏するというファジル・サイだけにノリがいい。

そして最後は、モーツァルトの「トルコ行進曲」ジャズ編曲。ファジル・サイの才能がピアノから噴き出す様が見えるような快演。聴衆が大いに沸く。

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2008年10月26日 (日)

ウラ県民性診断

「ウラ県民性診断」なるものをやってみました。

http://enmusubi.yahoo.co.jp/imap/uraken/

結果は、

Yahoo!縁結び - ウラ県民性診断 性格から見たウラ県民性は……鹿児島県タイプ
ウラ県民性診断

鹿児島か。大河ドラマで話題ですね。行ったことないなあ。「チェスト!」

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2008年10月25日 (土)

柴田淳 『ひとり』

「しばじゅん」こと柴田淳の発表したアルバムの中でも最も内省的な1枚、サードアルバム『ひとり』(ドリーミュージック)。
しばじゅんさんは1976年生まれ、私は1974年生まれで2歳違いです。正確な世代区分でいうと微妙に異なったりしますが、同世代といっていいでしょう。『ひとり』には「我らの世代の歌」ともいうべき痛切さをもった楽曲が並んでいます。

柴田淳 『ひとり』 アルバムタイトルからして『ひとり』ですが、「未成年」や「今夜、君の声が聞きたい」など壮絶なまでの孤独感が伝わってくる曲があり、“あなたの信じてるもの、それで私は壊されてしまったの”“こんな私責められない日が来るから”いった歌詞の出てくる「虹」、幸せな時代の思い出からの急転直下と偽りの幸せの告白が痛々しい「あなたとの日々」、元カレへの決別を歌う「コンビニ」、“私がひとりぼっちになって引退を余儀なくされそうになった時があった”というしばじゅんさんの告白を裏付けるような「ひとり歩き」など、人間の内面を突く曲が、これでもかとばかりに並んでいます。

中でも「今夜、君の声が聞きたい」は我々の世代の感情のど真ん中を突く直球で、1970年代生まれの人は必聴といっても過言ではありません。

柴田淳/ひとり

柴田 淳 - ひとり

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悪い記憶も私の一部なのだが

米国の科学者チームが、マウスの記憶を選択的に消去する実験に成功したとのことである。この技術が人間にも応用できるのではないかとのこと。

忘れてしまいたいことは、どんな人でも多いと思われる。PTSDなどで地獄の苦しみを味わっている人も存在する。

私も例に漏れず、悪い記憶に苦しめられることは多い。忘れられたら楽になるだろうという忌まわしい記憶。

しかし、その悪い記憶が結果的に生んだ枝葉状になっている良い思い出もまた、記憶を消去した場合消えてしまうということになるのだろうか。マイナスが生んだプラスをも私は得ているのだ。そのプラスの部分もなかったということになるのだとしたら。

結局のところ、人間は記憶にしろその他の部分にしろ、複雑すぎて、一部を消すことで失いたいことと同時に得たものもまた手放すことになるのだろう。

ならば悪い記憶も私の一部として受け止めていけるよう、努力する方が、記憶を消すことよりも重要なように私には思えるのだ。

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矛盾

人間って何だ?

頭ばかり発達させて、

そのことで自分を苦しめているんじゃないか。

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2008年10月24日 (金)

湯浅卓雄指揮アルスター管弦楽団 アルヴォ・ペルト 「タブラ・ラサ」、「バッハの主題によるコラージュ」、交響曲第3番

エストニア生まれの世界的作曲家、アルヴォ・ペルトの「タブラ・ラサ」、「バッハの主題によるコラージュ」、交響曲第3番を収めたCDを紹介します。湯浅卓雄指揮アルスター管弦楽団ほかによる演奏。NAXOSレーベル。

アルヴォ・ペルト 「タブラ・ラサ」ほか 湯浅卓雄指揮アルスター管弦楽団 アルヴォ・ペルトは、1935年エストニア生まれ。初期は当時の流行にならって前衛的な作品を書いていましたが、次第に独自の路線を歩むようになり、ロシア正教に改宗してからは宗教的崇高さを目指したとも思える美しい作品を作っていきます。癒しのムードに満ちた作品の数々は1990年代に一世を風靡しました。

そんなペルトの作品から、「タブラ・ラサ」、「バッハの主題によるコラージュ」、交響曲第3番を演奏しているのが湯浅卓雄指揮のアルスター管弦楽団。

「白いボード(生まれたばかりの人間の喩え)」という意味の「タブラ・ラサ」は2つのヴァイオリンと管弦楽のための作品で、ヴァイオリン独奏は、レズリー・ハットフィールドとレベッカ・ヒルシュ。疾駆する2つのヴァイオリンと、それを支えるオーケストラの対比から生まれる独特の世界観が魅力的です。

「バッハの主題によるコラージュ」は、J・S・バッハの主題によるバロックそのままの音響と、現代的な不協和音の音楽が繰り返される意欲的な作品。

交響曲第3番は、繰り返される弦楽の刻みが、深層意識の海を潜水艦で進んでいるような、独特のイメージを引き起こします。

大阪生まれで、NAXOSの看板指揮者の一人である湯浅卓雄の指揮する北アイルランドのアルスター管弦楽団の演奏も見事です。

ペルト/Sym.3: 湯浅卓雄 / Ulster.o

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自画像

自画像を描いてみた

最初は手でもって描いた

しかしデッサンは消しゴムで消され

水彩画は雨に洗われ

砂絵は風に吹かれて

完成を見ることはなかった

そこで手を使わずに描いてみた

血の色を変えて彩りを生み

細胞の一部でもって厚みを与え

鏡の視線でもって輪郭を整えた

それは完成しながらも永遠に完結しない絵

しかしこれがわたしの自画像

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2008年10月22日 (水)

自分騙し

何もかもわかっていると言うことの世界の狭さ偽りの日々

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エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立交響楽団 カリンニコフ 交響曲第1番

わずか35歳(満34歳)で亡くなったヴァシリー・カリンニコフ(1866-1901)。
彼の交響曲第1番は、余りにもロマンティックな旋律が特徴で、隠れた名曲でありました。
ネーメ・ヤルヴィ盤やテオドル・クチャル盤の登場により、知名度も上がったカリンニコフの交響曲第1番ですが、以前より決定盤とされていたのは、エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立交響楽団盤。

エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソビエト交響楽団 カリンニコフ交響曲第1番 1975年の録音ですが、旧ソ連は軍事や宇宙開発競争に力を入れすぎたためか、音楽大国でもありながら、録音技術は貧弱で当盤も録音に関しては満足のいくものではありません。

ただ、演奏の良さは録音の悪さを超えて伝わってきます。スヴェトラーノフ、ソビエト国立交響楽団ともに祖国の作曲家への深い共感を持って演奏しており、この曲の欠点ともいうべき若書き的生硬さも良く補われています。

スヴェトラーノフには、NHK交響楽団を指揮したライブ盤があり、録音はそちらの方がずっと優秀ですが、コテコテのドイツ派オーケストラであったN響の音はこの曲をやるには重心が重く、カリンニコフの青春の息吹はソビエト国立響盤の方がより鮮明に伝わってきます。

「エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソビエト交響楽団 カリンニコフ交響曲第1番の現行盤CD」

カリンニコフ/Sym.1  2: Svetlanov / Ussr State So

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2008年10月21日 (火)

雪男・雪女

ネパールで雪男のものではないかという足跡が発見されたそうですが、雪女というと美しくも怖ろしい妖怪なのに、雪男というとなぜか毛むくじゃらの未確認生物というイメージになってしまうのが不思議といえば不思議ですね。そもそも雪男にはオスしかいないのか? それだったら繁殖が出来ないじゃないか。

話は変わりますが、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの怪談「雪女」は、現在の東京の多摩地方に伝わる話を基にしたもの。ということで物語に出てくる川は多摩川なのです。雪国の話ではないというのが意外です。

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2008年10月19日 (日)

神農幸&キダ・タロー 「はじまりは中之島」

本日、10月19日、京阪電鉄(京阪電車)の中之島線が開通ということで、それを記念したキャンペーンソング「はじまりは中之島」(中之島レコーズ)を紹介します。ヴォーカルは3代目おけいはんこと神農幸。作曲はモーツァルト北浜役で京阪のCMに出演しているナニワのモーツァルトことキダ・タロー。

神農幸&キダ・タロー 「はじまりは中之島」 「はじまりは中之島」は、新たに開通した京阪中之島線の4つの駅とその周辺の紹介も含めた歌です。
派手なサビで曲は始まりますが、その後は意外に落ち着いた若しくは地味な展開をします。

カップリングは「鴨リバーサイド物語」。中之島線開通と時を同じくして駅名が変更になる京都市内の3つの駅(「丸太町→神宮丸太町」、「四条→祇園四条」、「五条→清水五条」)の周辺を歌う、大人のムード(?)の曲です。

神農幸さんは、プロフィールに「趣味 声楽」とありますが……、あ、編集者さん何か適当に書いておいて下さい。

ジャケットの紹介をしますと、左のおっさん、じゃなかったおじさまがキダ・タロー、右のお嬢さんが神農幸です。重要文化財に指定されることが決まった大江橋の上での撮影。右側が中之島で、右端に写っているのは大阪市役所です。左は堂島。橋の下を流れるのは堂島川、後方の橋は水晶橋です。

おすすめCDではありませんが紹介だけでは不親切なので、このサイトからも注文できるようにしておきます。

神農幸/はじまりは中之島

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2008年10月18日 (土)

木下半太 『悪夢のエレベーター』

大阪出身の木下半太が書いた『悪夢のエレベーター』。先に書いた記事の舞台の原作でもあります。原作での舞台は大阪のようで、登場人物のほとんどが大阪弁を話します。

木下半太 『悪夢のエレベーター』 停止したエレベーターに乗り合わせた、富永、槙原、小川、カオルの4人。そこで繰り広げられるブラックにしてコミカルな出来事の数々。
それが3人の視点により、3つの章で語られていきます。ある人の視点からはよくわからなかったことが、次の章で種明かしされ、おまけに笑いも誘うなど作品構成も見事です。

木下半太は演劇界の出身。長く大阪演劇界で活躍した後、今は本拠を東京に移して演劇活動を続けています。停止したエレベーターという舞台的空間の生かし方が抜群なのも、木下が演劇界出身であることと無関係ではないでしょう。

なお、『悪夢のエレベーター』はWeb上で続きを読むことが出来ます。(http://blog.qlep.com/blog.php/114535)。本編読了後はWeb上で続きを楽しむのも良いでしょう。

木下半太 『悪夢のエレベーター』(幻冬舎文庫) 紀伊國屋書店BookWeb

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観劇感想精選(52) 「悪夢のエレベーター」

2008年9月25日 大阪・茶屋町のシアタードラマシティにて観劇

午後7時から梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「悪夢のエレベーター」を観る。原作・脚本:木下半太、演出:ダンカン。

吹越満、片桐仁(ラーメンズ)、中村倫也、高橋真唯による4人芝居である。

15階建てのマンションのエレベーターが停止、乗り合わせた、富永(吹越満)、小川(片桐仁)、牧原(中村倫也)、カオル(高橋真唯)の4人が閉じ込められている。小川はしばらくの間気絶していて、エレベーターが停止した瞬間を憶えていない。

やがてエレベーターの電気が消える。4人は気を紛らわすためにゲームを始める。「告白ゲーム」。これまで誰にも話したことのない、誰にも話せない秘密を打ち明けるというゲームだった……。

ジャンルをいうと、サスペンス・ブラック・コメディーとなるのだろうか。役者4人の個性がともに生きていて、ラストのどんでん返しも効果的。良くできた舞台だった。

エレベーターの中に閉じ込められるという設定で、自分ならどういう展開にするかを考えつつ観ていたのだが、「俺ならこうする」という展開にまさになってしまったので、本と私の発想のオリジナリティに問題を感じてしまったのだが、本の方は、その後は練りに練られた展開を見せ、ブラックな味わいも利いていた。私が書くならもっと別の意味でブラックなものになると思うが。

構成作家、プロデューサー、映画監督としては評価を受けているダンカンだが、舞台演出家としてもしっかりした仕事をする人であることがわかった。

カーテンコールには客席にいたダンカンも舞台に上がる。

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2008年10月16日 (木)

中広全延 『カラヤンはなぜ目を閉じるのか』

ヘルベルト・フォン・カラヤンは1908年生まれであるため、今年2008年が生誕100年に当たります。その年に敢えて出版された、カラヤンと自己愛を巡る、精神科医の書いたエッセイ、『カラヤンはなぜ目を閉じるのか 精神科医から診た“自己愛”』(新潮社)。

中広全延 『カラヤンはなぜ目を閉じるのか』(新潮社~ 「帝王」としてクラシック音楽界の頂点に君臨したヘルベルト・フォン・カラヤン。カラヤンの指揮の特徴は目を閉じて指揮するということでしたが、「アイコンタクトが取れず演奏しにくい」という声がオーケストラ奏者からもありました。指揮するときに目を閉じた指揮者は世界広しといえどもカラヤンだけです。
なぜカラヤンが目を閉じるのかについて、カラヤン本人は「見ることをやめて、まったく別の世界に入っていくのです」と答えている。ではその入っていくまったく別の世界とはどこなのか?

本書では、カラヤンは自己愛性人格障害(著者である中広全延によると、カラヤンの場合は「自己愛性人格」障害)、若しくは自己愛性人格を持つ人と仮定して、この「まったく別の世界」の正体に迫っています。

完璧を求め、自身が音楽世界の中心であることを望み、事実その座に君臨し、君臨し続けるためにあらゆる手法を駆使したカラヤン。20世紀という「指揮者の世紀」に現れるべくして現れたカラヤンという人間の側面にアプローチする好著です。

中広全延 『カラヤンはなぜ目を閉じるのか』(新潮社) 紀伊國屋書店BookWeb

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2008年10月14日 (火)

ルネ・レイボヴィッツ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 「ベートーヴェン交響曲全集」

ルネ・レイボヴィッツ(1913-1972)がロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して完成させた「ベートーヴェン交響曲全集」を紹介します。元々は、初心者向けの会員制レーベル、リーダーズ・ダイジェストのための録音されたものですが、現在は、SCRIBENDUMから出ています。

ルネ・レイボヴィッツ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 「ベートーヴェン交響曲全集」 現代音楽の解釈者として定評のあったルネ・レイボヴィッツが何故かリーダーズ・ダイジェストに録音した「ベートーヴェン交響曲全集」。初心者向けということもあってか、普通はベートーヴェンの交響曲全集などには入っていない「アテネの廃墟より“トルコ行進曲”」なども収録されています。

1961年の録音ということで、音がややかさつき気味なのが難点ですが、ベートーヴェンのメトロノーム指定に徹底して従った解釈は今聴いても新鮮です。

ベートーヴェンのメトロノーム指示に従っているということで、かなり速めのテンポによるキレのある演奏が示されています。ピリオド的な解釈を取り入れている昨今の演奏に相通じる、あるいは昨今の解釈の先駆ともいうべき優れた全集です。

ベートーヴェン/Comp.symphonies: Leibowitz / Rpo

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2008年10月12日 (日)

誰だって苦しむのはいやだけれど

苦しみの中にある時の方が人生の実相により触れているというのも経験上確かなことのように思えるのだ。

楽なときは何もしないが、苦しいときはそれを乗り越えようとする。ただそれだけのことなのかも知れないが。

この世は誰か一人のためにあるのではなく、誰か一人の楽しみのためにあるのでもない。世は多くの人とのせめぎ合い。とすれば自然と苦しみが増すのが道理。苦しむ人が増えるのも道理。とすれば、苦が世の人との触れ合いに寄与するものであるのもまた道理。

楽よりも苦の方が分かち合える。

とはいえ、苦よりは楽の方がいいのもまた事実であるが。

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2008年10月10日 (金)

アカバナージュース

アカバナージュース

大阪のザ・シンフォニーホールに行った時は、たいていカフェ・ラウンジでドーナツとウーロン茶を注文するのですが、新たにアカバナージュースというのがメニューに加わったので頼んでみました。

アカバナージュースとは、ハイビスカスの一種であるアカバナを原料にした沖縄のジュースで甘酸っぱい独特の味がします。ザ・シンフォニーホール以外で見かけたことはないので、沖縄以外ではまだポピュラーではないのでしょう。

ザ・シンフォニーホールのコンサートに行った時はまた注文してみようと思っています。

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2008年10月 9日 (木)

23%似てる?

おなじみの「顔ちぇき!」をやってみようと思い、メールに携帯電話のカメラで撮った自分の写真を添付して送りました。が、自分の顔の写真を添付したつもりが、間違えて隣りに保存していたカレンダーの写真を添付してしまいました。下の画像です。

23%似てる?

そして、返信のメールがありました。「顔らしきものを認識できませんでした」という答えかと思いきや、結果はなんと、「久保田利伸さんに23%似ています!」?!!

良かったなあ、カレンダー君。久保田利伸に23%似てるってさ。ところで、人間の顔でもないのに23%似ているとはどういうことなのか?

ご存じのように「顔ちぇき!」は似ている有名人のトップ3が発表され、久保田利伸の他に名前が出てきたのは、亀田大毅と高橋克典。みんな顔が角張っていて長細い。というわけで、似ているのは輪郭? 輪郭なのか?

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2008年10月 7日 (火)

観劇公演パンフレット(33) さよなら緒形拳 緒形拳ひとり舞台「白野 ─シラノ─」2007

今月5日に逝去された緒形拳氏の一人芝居(ひとり舞台)「白野 ─シラノ─」の2007年版のパンフレットを紹介します。2007年11月15日、大阪・京橋の大阪ビジネスパーク円形ホールにて購入。

緒形拳ひとり舞台「白野 ─シラノ─」公演パンフレット 「白野 ─シラノ─」はエドモンド・ロスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」を、幕末の日本を舞台に置き換えて作られた「白野弁十郎」を、緒形拳独自の一人芝居として作り替えたものです。

パンフレットには、緒形拳のへのインタビューのほか、山田洋次、豊川悦司から緒形拳へのメッセージ(なお、緒形拳はトヨエツのことを、「豊川→豊川稲荷」ということで、「お稲荷さん」と呼んでいたとのことである)。串田和美、内野聖陽、竹内まりや、真田広之、竹野内豊、Gackt、秋元康、堤幸彦、池部良、三國連太郎からの緒形への応援メッセージなどが収められています。

緒形拳ひとり舞台「白野 ─シラノ─」概要と感想

午後7時30分より大阪・京橋の大阪ビジネスパーク円形ホールで、緒形拳ひとり舞台「白野 ─シラノ」を観る。エドモンド・ロスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」を額田六福と澤田正二郎が幕末を舞台にした芝居として翻案し、島田正吾が一人舞台として構成した「白野弁十郎」を基に、相手役のセリフまで語る緒形拳独自のバージョンである。
2006年に緒形版「白野」は初演され、教育テレビでも放映された。今回は再演となる。
演出は鈴木勝秀、音楽:朝比奈尚之、チェロ独奏:ウォルター・ロバーツ。

幕末の京。
京都守護職松平容保に率いられて入京している会津藩朱雀隊士の白野弁十郎。鼻が異様に大きいという特異な容貌をした男である(緒形拳は普通は用いる付け鼻なしで演じている)白野。剣を取っては京でも一、二、算術、詩作なんでもござれの多芸多才の人であるが、自身の容姿の醜さゆえに女にはからっきしである。白野は従姉妹の千種に恋しているが思いを打ち明けられないでいた。

四条南座で役者相手の大太刀回りを演じた翌日、白野は千種に祇園の店に呼び出される。機を得たりとばかりに千種に恋文をしたためる白野。しかし千種から好きな人がいると告白された白野は結局、恋文を渡しそびれる。千種が恋したのは会津藩朱雀隊に入隊したばかりの色男、来栖生馬であった。しかし、この来栖、色男だが田舎育ちで気の利いたことは一つも言えないし書けない。

来栖の後見人になると千種から約束させられた白野は、来栖も千草に恋していることを知る。しかし歌の一つも詠めない来栖を見るに見かねた白野は、自分の語る言葉をそのまま来栖に真似させることで来栖を教養と詩心に溢れる青年に仕立て、また千草への恋文も全て代筆してやることにするのだった……。

緒形拳の舞台を観るのは久しぶり。2002年に京都府立文化芸術会館で行われた「子供騙し」以来だと思う。

緒形は声は小さいが発音は明瞭でセリフは聴き取りやすい。余り声音を変えずに複数の役を演じるので、観る方も集中力と想像力がいるが、緒形は人を惹き付ける力があるので、大して難しいことではない。そもそも緒形拳が一人で演じるのだから、こちらも真剣勝負にならざるを得ない。

恋を語る場面の緒形拳の若々しさといったら、まるで青年のよう。こういう芝居を観ると、役者っていいな、素晴らしい仕事だなと心から思う。

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2008年10月 6日 (月)

林美智子(メゾ・ソプラノ) 「地球はマルイぜ ─武満徹SONGS─」

武満徹が残した歌曲全21曲をメゾ・ソプラノの林美智子が歌ったアルバム「地球はマルイぜ ─武満徹SONGS─」(ビクターエンタテイメント)を紹介します。編曲は野平一郎と野平多美。

林美智子 「地球はマルイぜ ─武満徹SONGS」─ 生前、「ポール・マッカートニーのような作曲家になりたい」と話していた武満徹。しかし、武満は何よりも「響き」の作曲家であり、メロディーメーカーとして評価を受けることは結局ありませんでした。

「歌」の人ではなかったということで、武満が残した歌曲は多くありません。ここに収められた21作品でほぼ全てです(中でも「MI.YO.TA」は武満の没後に、武満が遺したメロディーに谷川俊太郎が詞を書いて歌曲としたもので最初から歌曲として書かれたものではありません)。

クラシックの歌曲としては格調が高くなく、ポピュラーとしてはメロディーが親しみやすくないという、中途半端な作品という評価も出来ますが、世界中の作曲家に影響を与えた武満徹という人物が書いた、誰にも似ていない作品群ということで、その個性には絶対的なものがあります。

タイトルにもなった“地球はマルイぜ”という歌詞の出てくる「○と△の歌」、「めぐり逢い」、「燃える秋」、「翼」、、「『他人の顔』よりワルツ」、「死んだ男の残したものは」など、現代音楽の作曲家としてではない、もう一人の武満徹の世界に触れることの出来るCDです。

武満徹(1930-1996)/Comp.songs: 林美智子(Ms) 野平一郎(P) 大萩康司(G) 松野弘明(Vn) Etc

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2008年10月 5日 (日)

京都の文学青年の夢

京都に住む文学青年の夢。それは梶井基次郎の小説「檸檬」の舞台となった京都の丸善にレモンを置いてくること。

ということで数年前に私もやりました。

京都・丸善で梶井基次郎の真似をする

「檸檬」の主人公がレモンを買った寺町二条の八百卯でレモンを買い、ちゃんと丸善の画集売り場に行って、画集を積み重ねて(さすがに堆く積み上げることは出来ませんでしたが)上にレモンを乗せました。店員さんが、「ああ、またやってるのがいるな」という感じで見ているのがわかりましたが。

今は京都の丸善は閉店してしまったので、京都の文学青年の夢が一つ消えてしまったことになります。

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2008年10月 4日 (土)

小林香織 DVD「Kaori Kobayashi LIVE」

フュージョン系ジャズ・アルトサックス&フルート奏者の小林香織が2006年6月28日にSTB139で行ったライヴを収録したDVDを紹介します。その名もずばり「Kaori Kobayashi LIVE」(ビクター・エンタテインメント)。

小林香織 DVD「Kaori Kobayashi LIVE」 実力とアイドル性を兼ね備えたジャズサキソフォンプレーヤーとして注目される小林香織。基本的にはアルト・サキソフォンを演奏しますが、カバー曲である「FREE」はフルート一本で演奏しています(アルバム「FINE」には、フルートとサックスを重ねたバージョンが収められています。しかし、ライヴではフルートとサックスを同時に演奏するわけにはいかなですからね。三谷幸喜の「オケピ!」じゃないんだから)。

演奏そのものも音も良いですが、小林香織が実に楽しそうに演奏しているのも見所の一つ。ライヴの醍醐味の一つとして、プレーヤー同士のアイコンタクトを確認する楽しさがありますが、小林香織と他のプレーヤーとのアイコンタクトは見ているこちらも微笑んでしまうほど好感が持てます。
バックを務めるのは、笹路正徳(キーボード)、天野清継(エレキ・ギター)、日野賢二(エレキ・ベース)、村上“ポンタ”秀一(ドラムス)。

「SOLOR」、「BIRD ISLAND」、「KIRA-KIRA」、「FREE」、「MOMENT OF LONELINESS」、「ENERGY」ほか全12曲13テイクを収録。ボーナスフィーチャーとして(時間は短いですが)舞台裏の様子なども収められています。そして何故か、小林香織と一緒にドライブした気分になれるスライドショー付き。

小林香織/Live At Stb139

Kaori Kobayashi LIVE

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2008年10月 2日 (木)

コンサートの記(24) 広上淳一指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 いずみホール特別演奏会

2008年3月27日 大阪・京橋 いずみホールにて

大阪へ。京橋の「いずみホール」で、広上淳一指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の、いずみホール特別演奏会を聴く。午後7時開演。

ハイドンの交響曲第60番「うっかり者」、ショスタコーヴィチのバレエ組曲第1番より3曲とバレエ組曲第2番より2曲、バレエ組曲「ボルト」より3曲、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「プルチネルラ」というプログラム。

いずれも「型を崩したおかしみ」のある曲だが、そもそも型を知らないとそれを崩したおかしみもわからない。ということで通向けのプログラムである。

ホールによって固定客というのがいる。いずみホールのお客さんは大阪フィルの本拠地であるザ・シンフォニーホールに来るお客さんよりもお上品な人が多い。いずみホールの公演もザ・シンフォニーホールでの公演も両方聴けばいいと思うのだが、どういうわけか(もっともホールの雰囲気が好きか嫌いかが理由だろうと察しは付くのだが)複数のホールに通うという人は意外に少なかったりする。

これは東京でも同傾向で、例えばNHKホールのお客さんは男女ともに白髪の方が多く(NHK交響楽団の定期会員にはご年配の方が多いのでそうなるのだが)、紀尾井ホールは場所柄ゆえか、全身から「私、良家のお嬢さんです」オーラが出ている若い女性の聴衆が多かったりする。

今日のいずみホールは空席が目立った。せっかく面白い曲を面白い指揮者が振るのに。

広上淳一がいずみホールの指揮台に立つのはこれが初めてだという。「どうも、おまっとさんでした」とばかりにポンと一つ手を叩いて広上登場。

広上の振る大フィルは潤いのあるきめ細やかな音を出す。私が今日座ったのは前から三列目の左側だったので、ファーストヴァイオリンのニュアンスの変化がよくわかって興味深い。その分、視覚的には死角があって、と冗談を言ってしまうが、管楽器の奏者の顔はヴァイオリン奏者の陰になって見えず、今日は誰が吹いているのかわからなかったりする。

広上の指揮はユーモラスだが、強弱の付け方やニュアンスの変化のさせ方がよくわかり、見ていて大変勉強になる。
私は別に指揮者ではないので、勉強になっても、さほど得にはならないのだけれど。

ハイドンの交響曲第60番「うっかり者」は同名の劇付随音楽として書かれたものを6楽章の交響曲にまとめたという作品。第6楽章には、弦楽奏者達がチューニングをするという仕掛けがある。
第6楽章演奏開始前に、広上がコンサートマスターの長原幸太に「よろしくお願いします」と小声でいうのが聞こえたので何かやるなと思ったが、チューニングの場面で長原が立ち上がり、広上がそれに驚いて(驚いた振りをして)楽譜をめくって今どこの場面を演奏しているのかを探し、タオルで禿頭の冷や汗を拭うという演技をした。
笑った。井上道義もこうした演技をよくやるが、広上の方がずっと笑える。広上の方が井上より小柄で指揮姿もユーモラスだからだが、聴衆へのアピールを感じさせる井上に対して、広上は何よりも自分が楽しむためにやっているというのがわかるからでもある。

ショスタコーヴィチのバレエ組曲は、しかめっ面しておどけているような屈折したユーモアを特徴とする曲だが、広上はその屈折したユーモアという曲の内面と、堂々と鳴り渡る響きという曲の外面の両方を巧みに表現していた。大フィルの金管がかなり怪しかったのだけが難点である。

ストラヴィンスキーの「プルチネッラ」は、イタリアのバロック時代の作曲家であるペルコレージらの曲をディアギレフの依頼によりストラヴィンスキーが編曲したもの。とはいえ、もっと単純な編曲を希望していたディアギレフの依頼を遙かに飛び越える仕掛けをストラヴィンスキーが施してしまったため、ストラヴィンスキーのオリジナル曲とされている。古典派以前の造形美をモチーフにしながら、本当の古典派以前の作曲家は絶対に使わない特異なオーケストレーションを用いているのが特徴。これも大人のユーモア感覚に溢れた作品だ。

大人のユーモア感覚に溢れた曲を、ユーモラスな大人である広上が振るのだから悪い演奏になるはずがない。

バレエ組曲「プルチネルラ」はメインの曲にしては軽いし、演奏時間も少し短いので、アンコールに何かやって欲しかったが、「プルチネルラ」は内容のみならず編成も独特で、同じ編成で出来る曲がないためか、アンコール演奏はなし。それでも楽しいコンサートだった。

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麻木久仁子に何とか勝って

昨日の「クイズ!ヘキサゴンⅡ」、ケータイサイトで公開されている予選50問で46点を取り、45点だった麻木久仁子さんに何とか勝ちました。

え? そんなのどうでもいいって?

確かにどうでもいいことなのですが。

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2008年10月 1日 (水)

観劇公演パンフレット(32) 加藤健一事務所 「レンド・ミー・ア・テナー」2008

加藤健一事務所の公演「レンド・ミー・ア・テナー」2008年公演のパンフレットを紹介します。2008年7月3日、京都府立府民ホールALTIにて購入。

加藤健一事務所「レンド・ミー・ア・テナー」2008公演パンフレット「レンド・ミー・ア・テナー」の副題は“オペラ騒動記”。歌唱力は抜群でありながら、内面は子供のままのようなオペラのテノール歌手が登場(現実にも内面が子供のまま生涯を終える音楽家は案外多いのです。例えば、ホ×ヴィッ○だとか、グー△ドなど。更にはクラシック界には「テノール馬鹿に……」といったような言葉もあり、高音を出すテノールは脳みそが余り詰まっていないので頭蓋骨に声がよく響くのだという、悪口もあったりします)。

そうした音楽家の生態に題材を取った抱腹絶倒(というのも古い言葉ですが、この作品にはこの言葉が一番ピッタリ来ます)のコメディーが「レンド・ミー・ア・テナー」。加藤健一と大島宇三郎の朗々としたアリアも見所の一つです。

パンフレットには出演者のインタビュー、題材となったヴェルディのオペラ「オテロ」の紹介。翻訳者である小田島雄志・若子夫妻へのインタビューなどが載っています。

「レンド・ミー・ア・テナー」の概要および感想

午後7時から、京都府立府民ホールALTIで、加藤健一事務所の公演「レンド・ミー・ア・テナー オペラ騒動記」を観る。「バッファローの月」「クレイジー・フォー・ユー」などを書いているケン・ラドウィッグの作、小田島雄志&小田島若子のテキスト日本語訳、久世龍之介の演出。出演は、加藤健一、日下由美、塩田朋子(文学座)、有福正志、大峯麻友、横山利彦、一柳みる(劇団昴)、大島宇三郎。

加藤健一事務所による「レンド・ミー・ア・テナー」は1990年と1996年に上演されており、今回は12年ぶりの上演とのことである。

1930年代のアメリカ・クリーヴランドが舞台。

クリーヴランド・グランド・オペラ・カンパニーは、イタリア人の偉大なテノール歌手であるティトー・メレリ(大島宇三郎)を迎えて、ヴェルディのオペラ「オテロ」を上演することになっている。しかし、肝心のティトーの到着が遅れており、オペラ・カンパニー総支配人のソーンダーズ(有福正志)も総雑用係のマックス(加藤健一)も気が気でない。

やっとのことでティトーが二人の待つホテルに到着する。しかし、このティトー、歌は上手いのだが、子供がそのまま大きくなったような人物。そしてティトーの奥さんであるマリアという女性が女帝のような性格。

マックスはオペラ・カンパニーの万年雑用係のような人物だが、長年に渡ってオペラ・カンパニーの公演に接しており、今回上演される「オテロ」の歌とセリフを全て憶えてしまうほどのオペラ好きでもある。

そんなマックスとティトーはなぜか馬が合い、マックスがオペラ好きだと知ったティトーは即席のレッスンをマックスに施す。

だがティトーは女好きであり、ティトーに憧れて訪ねて来た女性達にちょっかいを出すため、怒ったマリアは書き置きを残して、ホテルの部屋を出て行ってしまう。

マリアに去られて、絶望したティトーは自殺しようとするが、マックスが止める。疲れているのでぐっすり眠りたいというティトーのために、マックスは睡眠薬をワインに入れて出すが、ティトーも睡眠薬をすでに飲んでおり、効き目が強すぎて、ティトーは死んだようにぐっすり眠り込んでしまう。

叩いても揺さぶっても目を覚まさないティトーを見、マリアの書き置きをティトーの遺書と勘違いして、ティトーが自殺してしまったと思い込んだマックスとソーンダーズ。公演を中止にしようと考えた二人だが、ソーンダーズにある考えが浮かぶ。今日の演目は、ムーア人が主役の「オテロ」。オテロを演じる歌手は顔を黒塗りにするため、遠目からは誰がオテロをやっているのかわからないはず。そこでマックスをティトーだということにして、オテロを歌わせようと目論む……

加藤健一事務所が上演したケン・ラドウィッグの作品は、「バッファローの月」を観たことがあり、これも優れたコメディーであったが、「レンド・ミー・ア・テナー」は「バッファローの月」よりも更に笑える傑作コメディーであった。

加藤健一と元劇団四季の大島宇三郎によるアリアも聴き応えがあり、ストーリーも役者陣も最高。この公演を観に来なかった京都の演劇人が可哀想になる。と書くと反感を買いそうだが、私以外の京都の演劇人も、この作品を観たのなら同じような思いを抱くはずだ。

出演者全員によるアフタートークも面白く、良き夜を過ごすことが出来た。

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