« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月の30件の記事

2008年12月31日 (水)

柴田淳 DVD「jun shibata TOUR2007 ~しばじゅん、はじめました!~」

柴田淳の2007年のライブツアー「しばじゅん、はじめました!」の東京厚生年金会館における追加公演の模様を収録したDVDを紹介します。ビクターエンタテインメント。

柴田淳 DVD「柴田淳 TOUR2007 しばじゅん、はじめました」

「しばじゅん」こと柴田淳がデビュー6年目にて初めて行ったライブツアー。ということで、ツアータイトルは、「しばじゅん、はじめました」。

「おかえりなさい。」に始まり、ブラックコメディ「王子様」シリーズのメドレー、「かなわない」「真夜中のチョコレート」「片想い」「月光浴」など大人のムードに溢れた楽曲の数々、ショートフィルム「HIROMI」からの映像ハイライトとシングル曲「HIROMI」、インディーズ時代の曲である「パズル」など、全15曲、18チャプターを収録。見応え聴き応え十分です。

途中、メンバー紹介でメンバーの名前をど忘れしたり、「花吹雪」の1番で2番の歌詞を歌ってしまったため、続きの歌詞が飛んでしまい、20秒ほど歌えなくなるところなど、「カットしてもいいんじゃないか」と思うところもそのまま収録しているのが、しばじゅんさんらしくて逆に好感が持てます。

小栗旬のラジオ番組に出演した際に、しばじゅんさん自身が、「(歌が終わって)MCになると(聴衆が)みんなこける」と発言している通り、トークになると確かに、「素人の人出てきちゃったなあ」という感じになりますが、音楽の才能とルックスに恵まれて、その上、トークも抜群だったら却って嫌みになるかも知れず、しばじゅんさんの持ち味である親しみやすさが、商品化され得ないタイプのトークによって逆に生きているとも評価できます。

ともかく名曲揃いのライブ、お薦めです。お楽しみ下さい。

柴田淳/Jun Shibata Tour 2007: しばじゅん、はじめました!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月30日 (火)

DVD 演劇集団キャラメルボックス 「きみがいた時間ぼくのいく時間」

演劇集団キャラメルボックスの公演「きみがいた時間ぼくのいく時間」を収録したDVDを紹介します。2008年4月、東京・池袋のサンシャイン劇場での収録。NHKエンタープライズの発行・販売。

「黄泉がえり」の梶尾真治の同名小説の舞台化。脚本・演出:成井豊。主演:上川隆也、西山繭子。出演は、西川浩幸、温井摩耶、阿部丈二、渡邊安理、筒井俊作、坂口理恵、岡田達也、左東広之、青山千洋、三浦剛、小林千恵。出演&ストーリーテラー:岡内美喜子。

演劇集団キャラメルボックスは、内容のわかりやすい劇をやっていて、それゆえに人気を博していますが、基本的に若者向けであり、演劇入門者をも意識した芝居作りをしているので、演劇を見慣れた方には「煩わしい」と思えるほどの説明過多の部分や、ストーリーと直結したセリフの用い方などの特徴があり、苦手と感じる人も多い団体です。

この「きみのいた時間ぼくのいく時間」でもそうした傾向は変わりませんが、この劇の場合は、主演である上川隆也の魅力で見せるという意図があり、ストーリー自体も感動できる要素が多く、多くの人に薦められます。DVD映像特典として、上川隆也、西山繭子、坂口理恵、成井豊、西川浩幸による座談会の模様(約38分)が収められています。

DVD 演劇集団キャラメルボックス「きみがいた時間ぼくのいく時間」(NHKエンタープライズ) 私は大阪厚生年金会館芸術ホールでの公演を観ていますが、客層が普段とキャラメルボックスとは明らかに違い、上川隆也ファンと思われる女性が多いのが印象的でした。上川隆也は青年期から老年まで、メイクを一切変えず、声と動作の変化だけで年齢の移り変わりを表現していますが、これが実に巧み。演劇人にも参考にして貰いたいDVDです。

演劇集団キャラメルボックス「きみがいた時間ぼくのいく時間」の概要と感想

2008年4月23日 大阪・新町の大阪厚生年金会館芸術ホールにて観劇

午後7時より、大阪・新町にある大阪厚生年金会館芸術ホールで、演劇集団キャラメルボックスの公演「きみがいた時間 ぼくのいく時間」を観る。
梶尾真治の同名の短編小説の舞台化。脚本・演出:成井豊。共同脚本・演出:隈部雅則。主演:上川隆也、西山繭子。出演は、西川浩幸、温井摩耶、阿部丈二、渡邉安理、筒井俊作、坂口理恵、岡田達也、左東広之、青山千洋、三浦剛、小林千恵。出演&ストーリーテラー:岡内美喜子。

人気劇団である演劇集団キャラメルボックスであるが、ここの芝居が苦手な人も多い。
かくいう私もその一人。キャラメルボックスは、東京のUHF局である東京MXテレビと契約を結んでいて、過去の公演が頻繁に放送される。関東にいた頃は私もなるべく観るようにしていたのだが、本当に面白いと思えたのは「また逢おうと龍馬は言った 1995」ぐらい。「嵐になるまで待って」も良かったかな。

公演を観に行ったのは、「カレッジ・オブ・ザ・ウィンド」(2000)以来だから8年ぶりになる。

キャラメルボックスが苦手な理由は、何といっても成井さんの作風で、舞台が開かれすぎている、別の言い方をすると登場人物の性格やストーリーの展開がステレオタイプに陥る確立が非常に高いということ。学生演劇のノリを頑なに守り続けているという気もする。

またキャラメルボックスは、早稲田演劇の一番悪い部分を継承してしまってもいて、俳優の発声が思いっ切り演劇していたり、身振り手振りが大きく且つ説明的だったり、セリフも説明に傾きすぎていたり。

俳優の発声が思いっ切り演劇しているというのは、俳優、特に女優さんにとっては問題で、とにかく大声を出して喉を潰してそれでも発声して、ということをするために、声の良い女優さんがほとんどいないのである。舞台女優にとって声が魅力的であることはルックス以上に重要なので、これは何とかしないと。

キャラメルの女優陣の声は以前よりも良くなっているけれど、それでも客演の西山繭子の声が一番綺麗というのは劇団としてまずいのではないかと思うのだが。

今回の公演は、原作があり、上川隆也が3年ぶりに出て、ヒロインを西山繭子(伊集院静の次女。小説家としても活躍している)が務めるということで観に出かけてみた。

キャラメルボックスの演劇の常として、受け狙いの身振り、余計だったり思いっ切り不自然で説明的だったり体がかゆくなるほどくさいセリフがあったりしたが、そういうのは観なかった聞かなかったことにして、ストーリーに集中。不満なところもイメージ補正して観る。お陰でいつも以上に疲れたけれど。

キャラメルボックスの公演は、これまでずっと一幕休憩なし、上演時間2時間以内だったが、今回は上演時間が2時間を超えるということで、キャラメルボックス史上初の途中休憩あり公演となった。上演時間は15分休憩を含めて2時間40分という大作である。

ストーリー自体に特に新鮮味はないし、基本的にはメロドラマ(実際にメロディーはずっと流れているし)路線でもあるけれど、今回の公演はキャラメルの芝居とは思えないほど感動的な仕上がりになっていた。原作があるということもあるだろうけれど、成功の大半は上川隆也の力。
キャラメルボックスは二枚看板で、西川浩幸という、これまた良い俳優がいるけれど、今回の劇は上川以外の主役は考えられない。
上川隆也はそれほどに良かった。

それに上川隆也は、その演技技術を盗みたくなる俳優でもあり、盗める俳優であるとも思う。他の劇団の舞台俳優も上川の演技はなるべく見るようにして、技術を向上させて欲しい。

演劇集団キャラメルボックス 「きみがいた時間ぼくのいく時間」2008年版

| | コメント (0) | トラックバック (0)

コンサートの記(32) 佐渡裕指揮 モーツァルト 歌劇「魔笛」

2007年8月4日 兵庫県立芸術文化センター大ホールにて

兵庫県立芸術文化センター大ホールまで、モーツァルトのオペラ「魔笛」を観に行く。
佐渡裕と兵庫芸術文化センター管弦楽団によるオペラシリーズ。昨年の「蝶々夫人」(変換したら「町長夫人」と出た。そんなオペラは嫌だよ)は大好評で、2008年春の再演が決定している。

今年の新作は、オペラ史上おそらく人気ナンバー1だと思われる「魔笛」。私は昨年(2006年)の暮れにポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場の「魔笛」を観ているが、比較してみたかったし、私も「魔笛」は大好きなので今日も観に出かけたのだ。今後も、「魔笛」が関西で舞台にかかったら観に行くと思う(海外の有名歌劇場の引っ越し公演は除く。何しろチケット代が高すぎる。2008年の7月にパリ国立歌劇場が兵庫県立芸術文化センターと、東京・渋谷の東急文化村オーチャードホールで初の来日公演を行うが、チケットは最低でも2万円である)。

オペラではアルバン・ベルクの「ヴォツェック」も好きだが、関西で舞台にかかることは当分ないだろうな(原作であるゲオルク・ビューヒナーの「ヴォイツェック」は舞台にかかったようだが、観に行かなかった)。

白人歌手&日本人歌手の日と、オール日本人キャストの日があるのだが、今日はオール日本人キャスト。

演奏はもちろん佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団。演出はフランス出身の女性演出家、エマニュエル・バステ。舞台美術はイギリス生まれで、全ヨーロッパとアメリカで活躍するアントニー・マクドナルド。

バステの演出は、夜の女王の支配する世界を母性の世界、ザラストロの支配する昼の世界を父性の世界とし、マクドナルドの舞台美術はこれを受けて、前者では床に水を張り(羊水ということだろう)、後者では巨大な書棚のある部屋(男性的支配の象徴である言語=書籍という意図だろう)を舞台としている。
シリアスな演出であり、人間ドラマ(といっても「魔笛」なのでさほど大した人間ドラマではないのだが)を描くには適していた。

個人的には、ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場がやった、おもちゃの世界のような舞台構築の方が「魔笛」に似合うのではないかと思うのだが、メルヘンチックな「魔笛」ばかりでは面白くないので、たまにはこうした舞台美術と演出を観るのも良いと思う。

ちなみに、冒頭に登場する怪物は大蛇でもライオンでもなく巨大な蛸(吸盤のある数本の足)であった。

佐渡の指揮はモーツァルトには余り向いていないのではないかと思っていたが、激しすぎる部分はあるものの、ドラマティックであり、バステの演出した「魔笛」の世界には良く合っていた。

歌手では、パミーナ役の天羽明惠(あもう・あきえ)と、夜の女王を歌った飯田みち代が良かった。天羽の伸びやかな歌声とチャーミングな演技は魅力的であり、飯田の夜の女王は貫禄十分で妖艶であった。

ラストでは、合唱が、1階席の通路に出てきて歌う。ホール全体に声が朗々と響き、効果的な演出であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月29日 (月)

中国ロックのカリスマ崔健 「崔健 1986-1996」

中国ロック界のカリスマであり、世界的にみても稀なほど本格的なロックアーティスト、崔健(ツイ・ジェン CUI Jian)。
1961年、朝鮮族自治区出身の父親と韓国人の母親との間に北京に生まれた崔健は、トランペット奏者だった父親の影響で、14歳からトランペットを始め、北京交響楽団に入団してトランペット奏者として活躍しましたが、次第に周囲のブルジョワ的な雰囲気に疑問を持ち始め、ロックに転身します。中国ではまだ本格的なロック音楽は根付いておらず、崔健は中国におけるロックのパイオニアともなりました。
1980年代、時あたかも中国に民主化運動の風が流れ始めていた時、体制変革のメッセージを歌詞の裏側に隠しているとされた崔健の歌は当時の中国の若者に熱狂的に受けいれられ、1989年の天安門でのデモの際には、崔健の「一無所有(俺にはなにもない)」が若者の間でテーマソングのように口ずさまれました。

6月4日の第二次天安門事件が起こった直後には、崔健が逮捕されたのではという噂が北京を駆け巡りましたが、それはデマであり、崔健はその後も、そして今も中国を代表するミュージシャンであり続けています。

そんな崔健が1986年から1996年にかけて発表した楽曲を集めたベスト盤「崔健 1986-1996」。

崔健(ツイ・ジェン) 「崔健 1986-1996」 崔健の代表曲である「一無所有(俺には何もない)」、「一塊紅布(紅い布)」など13曲を収録。

ロックとは変革の音楽であり、変革期にあった中国にあって、崔健の音楽の生み出す音楽は抜群の説得力を持ちました。力強いサウンドと歌はもちろんのこと、多用な解釈が出来る「玉虫色」と称された歌詞、そして敢えて早口で歌い、何と言っているのか北京人にすら聞き取れないという独特の歌唱法。時代の貴重な証言となる可能性も秘めています。

実は私は日本で崔健のステージに接したことがあり、特に1995年、新宿にあった日清パワーステーションでの崔健ソロライブは今も記憶に鮮やかです。日本人と中国人のオーディエンスが一緒になって崔健を応援しました。不安定になってしまった今の日中関係を思うと夢のような瞬間でした。

Best Of 1986-1996

参考のために崔健作品の歌詞を2つ掲載しておきます。

「俺には何もない(一無所有)」

そうだろ何度も訊いただろ
いつになったら付いてくる?
だが、おまえはいつも笑うだけ。「何にもないでしょ? あなたには」

夢をあげると言っただろ、自由だって欲しいだろ? だけどおまえは笑うだけ。「何にもないのよ。あなたには」

ああ、いつになったら付いてくる?
どれだけ待たせりゃいいんだよ?

大地は回り続けるし、川の流れはとまらない
でも、おまえは笑いをとめはしない。「一文無しでしょ。あなたって」

なんでそんなに笑うんだ?
こんなに必死である俺を

おまえの前じゃ永遠に
俺は無能のままなのか?

ああ、とっとと俺に付いてこい
今すぐ俺のものになれ

もう充分に待ったはず。これが最後の通告だ
俺はおまえの両手を取る。さっさと俺に付いてこい

そしたらおまえは震えてた。涙もこぼれ落ちていた

まさかそんなじゃないだろな。無力な俺が好きなのか?

ああ、今からおまえは俺のもの
今すぐ俺に付いてこい

詞:崔健 日本語訳:本保弘人

「紅い布」 詞:崔健

あの日あなたは紅い布で 私の両目と天を覆った
「何が見える?」とあなたは訊いた 「幸せが」と私は答えた

それはとても心地良い感覚だった 私の今の立場も忘れさせてくれたから
「何が欲しい?」とあなたは言った 「あなたとともに歩ける道が」、私の答えはそれだった

あなたの姿が見えないまま 道のりもわからぬまま 私はあなたの手を握りしめていた
「何がしたい?」とあなたは問うた 私は答えた「あなたの望むことを」

私は感じた あなたは鉄ではないけれど、鉄のように強靭だと
あなたには血が通っている そうも感じた 握りしめたあなたの手が熱かったから

とても居心地が良かった 居場所がなかったということも忘れてしまうくらい
「何がしたい?」とあなたが訊く 答えはこう、「全てお任せ」

ここは荒野ではない そう思った
大地がひび割れているかどうかも見えないというのに

そして感じた 喉が渇いたと
しかし私の口はあなたの唇によって塞がれてしまっていた

進む足は止まった 泣こうにも泣けなかった 涙さえも枯れ果ててしまっていたのだ
私は永遠にあなたに寄り添っていたい あなたの痛みを誰より知っているのは他ならぬ私なのだから

日本語訳:本保弘人

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自然は直線を嫌う

“自然は直線を嫌う”(ウィリアム・ケント)

“自然は曲線を創り、人間は直線を創る”(湯川秀樹)

自然界には直線的なものはほとんどありません。山稜は緩やかなカーブを描き、川は蛇行している。草木は優雅な曲線を誇っている。

しかし、人間は直線的なものを好みます。いや、「人間は」というより、「近現代社会の人間は」と言った方がより適当でしょうか。

それはともかくとして、人間は直線的なものを好みます。日用品から建築にいたるまで直線的なデザインがほとんどです。直線的なものの方が、曲線のあるものよりも取り扱いやすいからでしょう。

直線は理論とも通じています。大抵の理論は直線的に効率的に答えを求め、弾き出します。しかし、そうして弾き出された結論が、現実になじむかというとそうはなりません。

完璧に構築された理論に基づいた実験を行っても、理論通りにことが運ぶことはほとんどありません。

学校の理科の授業で行った実験でも教科書とは違った結果がしばしば出てしまうのはご存じの通り。

というわけで、ウィリアム・ケントが言ったのとは別の意味で、自然は直線を嫌うのです。人間が好む、もしくは創り出した直線的なものや理屈や結論に自然は従いません。

人間もまた自然の一部だと考えたとき、人間だけが直線的なものに惹かれるというのはむしろ異常にも思えてきます。そして、実験結果に裏切られているのに直線的な理論に拘泥しているというのも奇妙です。

あるゆる整然とした理論は美しいものです。たとえそれが直線でなく曲線であったとしても、フォルムの完璧さは自然が持つ曲線とは別種のものです。

しかし、そうした整然とした美しい理論からは、「自然の一部として人間存在」が抜け落ちていることがあります。人間は理屈通りに動かない。人間は理論で導き出されたほど完璧な存在でもない。

ということは、人間が創りだした直線に人間を当てはめるというは無理をしているのではないか。そうした考えが浮かぶのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

コンサートの記(31) 広上淳一指揮京都市交響楽団 特別演奏会「第九コンサート」2008

2008年12月26日 京都コンサートホールにて

日本の年末といえば第九。年末に限らず、第九がこれほど演奏されるのは世界広しといえど日本だけですが、年末というと日本中のオーケストラが必ず第九を演奏します。
戦前、NHK交響楽団の前身である日本交響楽団の指揮者だったローゼンシュトックが、「ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などでは毎年年末に第九をやっている」と日本に紹介したのが最初とされ、終戦直後に、尾高尚忠指揮日本交響楽団が楽団員の餅代稼ぎも含めて年末に第九を演奏したところ聴衆に大好評だったため、NHK交響楽団では毎年年末に第九を取り上げるようになり、定着したといわれています。

年末の第九はもうとっくにファッションと化してしまっており、それが嫌で、例年は会場まで聴きに行くことはないのですが、今年の京都市交響楽団の第九は広上淳一の指揮ということでコンサートホールまで出かけました。

広上淳一指揮京都市交響楽団 第九2008 午後7時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会第九コンサートを聴く。広上淳一指揮。合唱は京都市民合唱団。独唱は、ソプラノ:釜洞祐子、アルト:菅有実子、テノール:市原多朗、バリトン:河野克典。

ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が当然ながらメインだが、その前にモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が演奏される。

「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、やはり小編成の合唱で聴くのに適しており、第九用サイズの合唱団ではきめが粗くなるが、全体的な出来としてはまずまずだったのではないだろうか。

メインであるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」。公演パンフレットに、演奏時間65分と記されており、速めのテンポを採用していることがこの時点でわかった。

広上が引き出す京響の音は極めて明晰。第1楽章の冒頭は敢えてぼかす解釈を取る指揮者もいるが、広上は最初から解析度の高い演奏を展開する。スケールはさほど大きくないが音に活気があり、ハーモニーも美しい。普通の指揮者なら流すであろうところに敢えてギクシャクとした表情を入れてみせるのも個性的である。

第2楽章では、第1楽章とは逆にスケールの大きな音の運動を展開し、第3楽章ではしなやかな歌が印象的であった。

最終楽章では、広上の合唱コントロール力の高さが発揮される。ノンタクトで腕を動かし、手を下から上に押し上げるような独特の仕草で、合唱の音量もまた押し上げる。京都市民合唱団はプロではないし、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」ではそう上手いとも思わなかったのだが、第九では高度な音楽性を発揮。これも広上マジックだろうか。

第九演奏会ということで、普通はアンコールはないはずなのだが、今日は特別に大河ドラマ「篤姫」のテーマ曲が演奏された。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月27日 (土)

観劇感想精選(59) 文学座 「シラノ・ド・ベルジュラック」

2006年11月1日 兵庫県西宮市の兵庫県立芸術文化センター中ホールにて観劇

午後7時より、西宮の兵庫県立芸術文化センター中ホールで、文学座の公演「シラノ・ド・ベルジュラック」を観る。エドモン・ロスタン作、辰野隆・鈴木信太郎:翻訳、鵜山仁:演出。出演は江守徹、高橋礼恵、浅野雅博ほか。
実在のフランスの小説家・詩人のシラノ・ド・ベルジュラックの生涯をエドモン・ロスタンが戯曲化した。

17世紀のパリ。文才に秀で、剣術の才にも恵まれたシラノ・ド・ベルジュラック(江守徹)。しかし鼻が異様に大きいという容貌のため、恋愛には恵まれなかった。

シラノが愛したのは従妹であるロクサアヌ(高橋礼恵)。しかし容貌の醜さを自覚しているため恋心を打ち明けることが出来ない。

ある日シラノは、ロクサアヌがシラノの所属するガスコン青年隊に入隊したばかりの美青年クリスチャン(浅野雅博)に夢中であることを知る。一方のクリスチャンもロクサアヌに惚れていて相思相愛。シラノは落胆する。

ロクサアヌに一目惚れされたクリスチャンであるが、実は話術や文才に著しく欠けている。このままではロクサアヌに嫌われることは必至。ロクサアヌの幸せを願うシラノはクリスチャンのために恋文を代筆し、闇夜に乗じて愛の告白をも受け持つ。ロクサアヌとクリスチャンは結婚。シラノも、これでいいのだと思う。

しかし、ロクサアヌに横恋慕しているド・ギッシュ伯爵は恋路に敗れた腹いせから、クリスチャンとシラノの所属するガスコン青年隊を戦地に派遣することを決めてしまう。クリスチャンに戦場から手紙を送って欲しいと頼むロクサアヌ。勿論、戦場からの手紙もシラノが代筆することになる。

スペイン軍との戦い。兵糧は尽き、ガスコン青年隊の所属するフランス軍の戦況は不利だ。そこへ、ロクサアヌがやってくる。シラノが代筆したクリスチャンの手紙に感動したロクサアヌはいてもたってもいられず、兵糧を持って戦地に駆けつけたのだ。
再会を喜ぶクリスチャンとロクサアヌ。しかしそれも束の間、クリスチャンは銃弾に倒れる。戦死する直前、クリスチャンはシラノに、手紙の差出人の正体をロクサアヌに明かすよう告げる。しかし、シラノはロクサアヌに事実を告げることはなく…。

エドモン・ロスタンが1897年に発表した「シラノ・ド・ベルジュラック」。当然、戯曲のスタイルは現在のそれとは大きく異なっており、展開も直線的ではない。複雑な話ではないのだが、説明のために色々寄り道をするため、15分の休憩時間を含めて上演時間3時間20分の大作になっている。

序章ともいうべきシーンが今日の視点からすると異様に長い。まるでバルザックの小説のようだ。しかも肝心の主役であるシラノがなかなか登場しない。妙な印象を受けるが、例えばトルストイの小説「アンナ・カレーニナ」も、タイトルにまでなっている主役のアンナ・カレーニナがなかなか登場しないことで知られる。当時はこういったスタイルも普通だったのだろう。

新劇ということで、発音のスタイルが普段接している劇とは異なるため、最初のうちは戸惑ったが直に慣れる。多少堅苦しさを感じさせる演技スタイルではあったが、役者陣の水準は総じて高く(最高ではなかったが)、さすがは文学座、と思わせる。江守徹も絶好調ではないようだが、長ゼリフで見せた妙技、存在感の確かさなど、納得のいく演技であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月26日 (金)

ペーター・マーク指揮パドヴァ・ヴェネート管弦楽団 モーツァルト 交響曲第40番&交響曲第41番「ジュピター」

ペーター・マーク(1919-2001)。モーツァルトを得意とした指揮者で、東京都交響楽団の指揮者であり、またNHK交響楽団や読売日本交響楽団とも共演するなど、日本でもお馴染みの指揮者でした。

スイスに生まれ、指揮をエルネスト・アンセルメとヴィルムヘルム・フルトヴェングラーに師事したマークは、若くしてモーツァルト指揮者として認められ、英国の大手レーベルDECCAと契約するなど順風満帆なスタートを切りますが、この人はどうも商業主義に全く合わなかった人だったようで、ある日、音楽関係者と打ち合わせをしている時に、スケジュールで埋まった手帳を見ながら、仕事に追われてばかりいる生活に疑問を持ち、音楽のキャリアを捨てて、ギリシャの修道院で修業、更には香港に渡って寺院で禅に打ち込みます。
その後、禅寺の住職から、「あなたは音楽でコミュニケートすることに秀でているようだから、音楽に戻りなさい」と勧められ、音楽界に復帰。しかし、それ以降は、華々しいキャリアには興味を示さず、自分の好きな場所で好きな音楽に打ち込むようになります。
キャリアを中断させなければ、20世紀屈指のモーツァルト指揮者としてスターになれたのかも知れませんが、それもマークにはどうでもいいことだったようです。

ペーター・マーク指揮パドヴァ・ヴェネート管弦楽団 モーツァルト交響曲第40番&第41番「ジュピター」 そんなペーター・マークが晩年に、イタリアの廉価レーベルARTSに録音した、モーツァルトの交響曲集。

その中でも傑出しているのは、モーツァルト最後の交響曲となった交響曲第41番「ジュピター」の演奏。

パドヴァ・ヴェネート管弦楽団の技術は必ずしも上級とはいえないかも知れませんが、マークの指揮により、スケールが大きく味の濃い演奏になっています。

音楽性だけを取れば、大手レーベルから出ている名指揮者の演奏に一歩も引けを取らない名演です。

併録の交響曲第40番は、悠然としすぎているところが個人的には不満ですが、モーツァルトのスペシャリスト、マークの老境を伝える記録としては貴重です。

モーツァルト/Sym.40  41: Maag / Padova Veneto.o

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月25日 (木)

「青い紅玉」

子供の頃はシャーロック・ホームズ・シリーズが好きでした。今でも嫌いではありませんが。

クリスマスシーズンになると『シャーロック・ホームズの冒険』に収録された「青い紅玉」という短編を思い出します。クリスマスに食べられるガチョウを利用して、盗んだ「青い紅玉」という貴重な宝石を運ぼうとする事件を扱ったものです。

ところで、紅玉というのはルビーのことで、ルビーと同じ元素で青い宝石のことをサファイアといいます。だったら、「青い紅玉」はサファイヤのことになってしまうじゃないか、特に貴重ということでもないじゃないか。
ということで、最近では「青い紅玉」は誤訳ということになり、「青いガーネット」という訳が用いられるようになっています。

それはともかくとして、ホームズがわざと賭に負けて真相を掴みだし、一人笑い転げるシーンはとても印象的です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月23日 (火)

観劇感想精選(58) モダンスイマーズ 「夜光ホテル ─スイートルームバージョン─」

2008年11月2日 大阪・なんばの精華小劇場にて観劇

午後6時より、大阪・なんばの精華小劇場で、東京に本拠を置く劇団、モダンスイマーズの公演「夜光ホテル ─スイートルームバージョン─」を観る。蓬莱竜太:作・演出。
出演は、萩原聖人とモダンスイマーズの団員(古山憲太郎、津村知与支、小椋毅、西條義将)。

注目の若手演劇人、蓬莱竜太:作・演出の舞台には何度か接しているが、彼が所属するモダンスイマーズの公演は、モダンスイマーズの関西公演自体が今回が初めてということもあり、観るのは初めて。

映画「CURE」で演じた記憶喪失の殺人伝道師・間宮邦彦役が余りに鮮烈だったからか、これまでに観た2度の公演でいずれも記憶に障害を持った青年役をやっていた萩原聖人だが、今回は記憶に問題のある役ではない。

函館にあるビジネスホテルの一室。東京の日暮里で「八ガラス」と呼ばれた、肩にカラスの刺青のある8人のかつての悪童のうち3人が泊まっている。中学生の時に暴力団員の早乙女に見込まれ、肩に刺青を入れてから16年経った今も、篠崎賢治郎(萩原聖人)、澤田春文(古山憲太郎)。上島直人(津村知与支)らはチンピラを続けており、函館にはホテルの部屋に届けられる箱を東京まで車で届けるという、詳細は明かされないが、間違いなくヤクザな稼業をするために来ているのだ。

16年前に「八ガラス」から抜けて、今では青森で林檎農園を営んでいる月原英樹(小椋毅)が部屋に呼ばれてくる。篠崎らに車を貸すよういわれて函館まで来た月原だったが、もう「八ガラス」には関わりたくないようだ。だが、篠崎らは東京まで一緒に来るように言う。日暮里時代、月原は重大な事件を起こしたまま「八ガラス」から逃走していた。しかし、月原が思っていた以上に起こした事件は大きく……

男性俳優だけによる硬派な味わいのドラマである。登場人物全員が袋小路に追い込まれており、それであるがゆえに人生の一断面が強烈に浮かび上がる。

流されるままに生きる、いや生きてもいずに存在しているだけではなく、自分の意志で真に生きた人生を獲得する重要性が確固としたメッセージとして伝わってくる。

俳優陣はみな、セリフに感情が適度に乗っていて、臨場感が抜群であった。若手劇団ではあっても東京はやはり凄いのが揃っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第九あれこれ 2008 その2 山田一雄指揮京都市交響楽団盤

山田一雄指揮京都市交響楽団、京都市立芸術大学音楽学部合唱団、ベリョースカ合唱団ほかの第九。1983年12月21日、京都会館第1ホールで行われたライブの収録。ビクターの録音、タワーレコードからの再発売。
山田一雄はフルトヴェングラーを尊敬しており、テンポ設定などにはフルトヴェングラーの影響がうかがわれます。

山田一雄指揮京都市交響楽団、京都市立芸術大学音楽学部合唱団ほか ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱付き」(タワーレコード) 情熱的な音楽作りを特徴とした山田一雄。この第九の演奏でも情熱は十分に発揮されていますが、情熱に任せて突っ走ってしまうことはなく、第2楽章などは造形美を優先させた演奏になっています。

演奏会場である京都会館第1ホールは音響の悪さで知られています。現在はクラシックコンサートの会場として使われることはほとんどありませんが、ポピュラーコンサートの会場としては使われており、私もポピュラーのコンサートで行ったことがありますが、コンクリート打ちっ放しの天井に、傘が開いた形の反射板と吸音盤が所狭しと並んでいて、音響に苦労したことがわかりました。

その京都会館第1ホールの音響が影響しているのか、それとも1983年当時の京響の実力なのか、音の潤いなどは今一つですが、京響も山田の棒に良く応えています。

ベートーヴェン:交響曲第9番/山田一雄、京都市交響楽団

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月22日 (月)

シーラカンスの日

色々な日があるもので、本日12月22日は「シーラカンスの日」なのだそうです。

生きている化石として知られるシーラカンス。

Mr.Childrenの曲に「シーラカンス」というものがあります。

その「シーラカンス」に出てくる詞、

“ある人は言う君は滅びたのだと、ある人言う根拠もなく生きていると”(作詞:桜井和寿)

滅びたのか生きているのかわからないもの。桜井和寿はその正体に形を与えていませんが、桜井和寿の意図とは別にしても、「化石のようではあるけれど生きている」観念というものに目を向けてみるのも、生きる作業の中では大切なのかも知れません。

そうしたことは、日常にかまけているとなかなか見つかりません。常識や世間に縛られていても発見できません。

「歴史」という縦の観念も必要になりますし(例えば「伝統」だとか「慣習」といったものを考える上では必須です)、空間という横の広がりも要ります(「美意識」や「風土」といったものは、空間の意識がないと考えづらくなります)。

語り継がないと途絶えてしまうかも知れない「シーラカンス」。生きるというのは先の人から受け継いだものを次の人に渡すという作業でもあります。「シーラカンス」を生かすも殺すも自分の代にかかっているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月21日 (日)

コンサートの記(30) 「クリスティアン・ゲルハーヘルが歌う シューベルト『冬の旅』」

2008年2月7日 大阪・京橋 いずみホールにて

大阪は京橋の「いずみホール」で行われる、「クリスティアン・ゲルハーヘルが歌う シューベルト『冬の旅』」というコンサートに出かける。
タイトル通り、ドイツ出身のバリトン歌手、クリスティアン・ゲルハーヘルが、シューベルトの連作歌曲「冬の旅」全曲を歌う。

クリスティアン・ゲルハーヘルは、1968年生まれ。名前の片仮名表記は色々あり、最初は、「クリスティアン・ゲルハーハー」だった。しかし、それが仮に原音に近い表記だとしても、嘔吐して苦しんでいるような名前で、可笑しい。
だからか、のちに「クリスティアン・ゲルハーエル」に表記が変わった。そして、今回のコンサートでは「クリスティアン・ゲルハーヘル」という表記になっている。

ゲルハーヘルは、アルテ・ノヴァという廉価レーベルから「冬の旅」のCDを出している。このCDは1000円以下で手に入れることが出来るが、名盤といっていいだろう。安いアルテ・ノヴァ・レーベルからCDを出していたゲルハーヘルだが、売れっ子になったため、アルテ・ノヴァの親会社であるBMGの意向により、BMG内のより高いレーベルであるRCAに移っている。残念。

それはともかく期待出来るコンサートだ。

ピアノ伴奏はCDと同じ、ゲロルト・フーバー。
休憩はなし、全24曲を一作品として捉える解釈のようである。

ゲルハーヘルは、小さな声で、第1曲である「おやすみ」を歌い始める。声を張り上げるのは要所要所だけで、知的コントロールの行き届いた歌唱である。

休憩なしのコンサートということで、拍手はどうするのだろうと思っていた。「おやすみ」を歌い終えた後、小さな拍手が起こるが、ゲルハーヘルは手を挙げてそれを抑えるような仕草をした。「24曲で一作品という解釈なので、拍手は全て歌い終えてからに」ということだろう。「冬の旅」を聴きに来るような人に、クラシック・コンサートの初心者がいるはずもないので、聴衆もゲルハーヘルの意図を全て了解したようである。

ゲルハーヘルの解釈はリアリスティック。追われるようにして街を出て旅をする若者を的確に描写していく。表情も厳しい。

面白いことに、ピアノ伴奏のゲロルト・フーバーはゲルハーヘルとは対照的に音楽にのめり込んでいるような表情を見せる。伴奏なので、自分だけの世界に入ってしまうことはしないが、夢見るような表情でピアノを弾き、時々、声は出さずに唇だけ動かして「冬の旅」を歌っている。
というわけで、二人の表情の違いを見続けるのも面白い。

終演後、盛んな拍手が起こる。良いコンサートだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月20日 (土)

銀河占い Webお試し版

「銀河占い」なるものを発見しました。http://www.gingauranai.jp/

四柱推命に十干などを組み合わせたもののようです。詳しいことは本を買わないとわからないようですが、Webのお試し版でも十分かも、てなことをいうと営業妨害になるので、断言はしませんが。

私の結果は、「光河惑星第54」だそうな。“女の子なら誰もが憧れるピンクを守護色に持つ光河惑星(こうがわくせい)”。
でも俺、男なんだけどな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月19日 (金)

東京駅発のブルートレイン全廃へ

東京駅発のブルートレインが全廃になるとのこと。

私は、小学生の時にブルートレインの格好良さに惹かれたことがあります。小学生向けのブルートレイン図鑑などを買って読んでいました。すぐに飽きてしまったのですが。

東京発、西鹿児島行の「はやぶさ」には特に憧れました。外観と名前が格好良かった。

その後、「はやぶさ」は走行区間が「東京~熊本」間に短縮され、そして、廃止が決まりました。時の流れを感じます。

ちなみにブルートレインには一度だけ乗ったことがあります。1995年だったか1996年だったか。上野駅発、金沢行きのブルートレインでした。思い出は「夜、眠れなかった」ということ。その夜は、仕方がないので、田村隆一の詩集を読んでいたのを憶えています。懐かしいな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月18日 (木)

さよならリチャード・ヒコックス 「リチャード・ヒコックス CBE(英国上級勲爵士)受勲記念CD」

去る11月23日、心臓発作のために60歳という指揮者としては大変若い年齢で死去したリチャード・ヒコックス。
1948年生まれ、ロンドンの王立音楽院と、ケンブリッジ大学クイーンズ・カレッジで音楽を学び、1971年にはシティ・オブ・ロンドン・シンフォニアを結成して独自の指揮活動を開始しています。
イギリス音楽のスペシャリストとして、のみならず驚くほど広範なレパートリーの持ち主として活躍したヒコックス。シャンドス・レーベルの看板指揮者として膨大な量の録音を残してもいます。

リチャード・ヒコックス指揮 「リチャード・ヒコックス CBE(英国上級勲爵士)受勲記念CD」(シャンドス) そんなリチャード・ヒコックスのシャンドス・レーベルへの録音を集めたCDが、2002年に発売された「リチャード・ヒコックス CBE(英国上級勲爵士)受賞記念CD」。
タイトル通り、ヒコックスがCBEを受勲した記念盤として発売されたものです。国内盤にはヒコックスの150枚を超えるディスコグラフィーが付いていました。

いわゆるダイジェスト盤ではありますが、ほとんど名を知られていないイギリス人作曲家の作品も多く収録されており、イギリス音楽入門盤としての価値があります。

写真に見る容貌通りの、明るく、溌剌とした音楽作りを特徴としたヒコックス。地味なイギリス音楽のスペシャリストというイメージが強く、本人もそうしたイメージ通りの活動を望んだということもあって、国際的知名度は必ずしも高くありませんでしたが、旺盛な録音活動を中心とした独自の活動を展開しており、あと10年もすれば、「音盤の巨匠」として世界的な尊敬を集めることは間違いないと思われていました。

しかし、膨大な量の録音を行うということは、それだけ仕事量が増えるということでもあり、特にマイナーなイギリス音楽を音盤に残す(世界初録音も多数手掛けました)ためには、スコアリーディングを含めた相当な量の勉強をする必要があったと思われます。おそらくヒコックスは過労死でしょう。

将来の世界的名声を確実のものとしながら、それを見ることなく亡くなってしまったヒコックス。悲運の人なのかも知れませんが、それだけに彼の名前を憶え続けることは音楽ファンの使命なのかも知れません。

Richard Hickox - A Celebration

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月16日 (火)

第九あれこれ 2008 その1 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 バイロイトの第九(オルフェオ盤)

1951年7月29日。第二次世界大戦での敗北により中断されていた、バイロイト音楽祭の復活を祝う演奏が行われました。曲目はこうしたセレモニーの定番であるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団&合唱団ほかにより演奏されたこの第九は、圧倒的なスケールとフルトヴェングラーの熱を帯びた音楽作りによる大変優れたものであり、フルトヴェングラーの死後にEMIから発売されたその録音は「永遠の第九」と呼ばれるほどの評判となりました。
「永遠の第九」の難点はただ1カ所。終結部分がフルトヴェングラーの猛烈なアッチェレランドのせいでずれてしまっていること。

しかし、最近になって、EMIではなく、バイエルン放送が録音した同じ日付の演奏がフルトヴェングラー・センターから世に出ます。これが問題になりました。ずれているはずの終結部がずれていなかったのです。フルトヴェングラー・センターから出たものは会員のみに配布されただけであり、店頭では手に入れることが出来なかったのですが、その後バイエルン放送による録音がオルフェオ・レーベルから発売されました。

フルトヴェングラー バイロイトの第九(オルフェオ盤) 同一のはずの演奏内容に違いが出るというのは普通は考えられません。そこで、「同じ日に2回公演があったのでは?」という説が出たのですが、それはどうやらないようです。しかし、オルフェオから発売された録音にも聴衆の咳などが混じっており、ライブ録音であることは間違いありません。
そこで、「公開リハーサルという形での演奏があったのではないか」という説も出ましたがこれもはっきりしないようです。

結局、今になっても真相は藪の中。1951年のバイロイト音楽祭のメインは、ヘルベルト・フォン・カラヤンによるワーグナー作品の上演であり、EMIのプロデューサーであるウォルター・レッグはフルトヴェングラーとカラヤンの両方と仕事をしていましたが、この時期はカラヤン寄りの姿勢を見せていて、フルトヴェングラー指揮の第九は、「ついでに録音しておくか」といった扱いであり、しかもレッグは第九の演奏の内容に満足せず、当初は録音を発売しない予定でした。そのため、発売がフルトヴェングラーの死後になってしまい、指揮していた当の本人の許可がないままの発売となったことも、真実を結果としては覆うことになっています。

フルトヴェングラーは基本的に録音嫌いで、細部の録り直しということをしない人でした。だから、ずれたラストだけを取り直して入れ替えるということは考えられません。フルトヴェングラーが生きている間に発売となっていたら、ラストのずれに関してフルトヴェングラーが何らかの証言をしていたかも知れませんが、巡り合わせが悪く、それも叶いませんでした。

とはいえ、EMI盤もオルフェオ盤も見事な出来であり、出来るなら両方持っていたいところです。

ベートーヴェン/Sym.9: Furtwangler / Bayreuther Festspielhaus O

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月14日 (日)

観劇感想精選(57) 「表裏源内蛙合戦」

2008年12月12日 大阪・京橋のイオン化粧品シアターBRAVA!にて観劇

午後2時から、シアターBRAVA!で、井上ひさし:作、蜷川幸雄:演出の公演「表裏源内蛙合戦」を観る。主演:上川隆也、勝村政信。出演は、高岡早紀、豊原功補、篠原ともえ、高橋努、大石継太、立石涼子、六平直政ほか。音楽:朝比奈尚行。

数々の業績を残しながら、いずれも広く浅くであったため奇人と呼ばれ、希代の天才かペテン師かと評価の分かれる平賀源内の一代記。

途中休憩20分を含めて、上演時間約4時間10分という大作であるが、長さは全く気にならなかった。

「表裏源内蛙合戦」

平賀源内という人が、はったりと外連で生きたような人なので、井上ひさしの本も、蜷川幸雄の演出もそれを体現しており、劇構造自体が平賀源内という人のハチャメチャぶりを示しているかのようだ。

基本的には喜劇路線でありながら、実際は悲劇の様相も帯びている。

井上ひさしは、ストーリーに大嘘を交えたり、劇中歌に、掛詞や、韻を踏んだ歌詞、四字熟語を並べた歌詞などをふんだんに用いて、徹底して遊んでみせる。

幕が開くと、出演者全員が揃っての前口上。歌舞伎の襲名披露のようで、まずはったりをかます。前口上のセリフにも「シアターBRAVA!」と会場の名前が出てきたり、井上ひさしの本への揶揄が加わっていたりして、舞台の虚構性とエンターテインメントの味わいを前面に出す。

讃岐国高松藩の足軽の子として生まれた平賀源内(上川隆也。「オギャー、オギャー」と産声を上げる出生時から平賀源内を上川隆也が演じていて笑わせる)。幼時から突出した利発さを見せた源内は、高松藩主松平氏に気に入られ、若殿(のちの松平頼恭)の鬼役(教育係兼毒味役)として仕える。この高松松平氏の若殿というのが馬鹿殿(という設定)で、自慰にふけってばかりいる。高松松平の若殿ばかりでなく、時の将軍、九代目徳川家重と十代目の徳川家治もこちらは史実通りの馬鹿殿。のちに源内に出仕の話を持ちかける、秋田久保田藩主:佐竹曙山(曙山は号。諱は佐竹義敦)も藩の農民が疲弊にあえいでいるのに、自身は洋画を描いてばかりという政治的に無能な藩主として描かれる。

幼き日、平賀源内の中にもう一人、裏の平賀源内(勝村政信)が現れる。裏の源内は立身出世のために手段を選ばないという、源内の影の部分の現れである。

長崎留学(長崎名物の中に、「ピカドン」として長崎原爆が含まれていたりする。また隠れキリシタンという日陰の存在にも触れている。2つは「浦上」というワードで繋がっている)を経て、江戸に出た源内は、高松藩から脱藩。しかし、高松藩主松平頼恭は、源内の脱藩は認めたものの、他の藩への仕官は認めず、源内は浪人となる。

今でいう博覧会を開いたり、当代随一の本草学者としての知恵を生かして、オランダ貿易に頼るしかなかった作物を日本で栽培することに成功したり、ある時は戯作者、ある時は蘭学者、またあるときは医学者、画家、発明家、そして今の時代でいうコピーライターのような仕事までこなす超人・源内。しかし、田沼意次に申し出ていた御公儀への仕官は叶わず、また、源内の生み出した多くのものは、町人によって消費されるだけで世に貢献することはなかった。

一方で、吉原で苦労する遊女のために妙案を考えるなど、ちょっとした貢献はした。

秋田藩主:佐竹義敦に仕官の話を持ちかけられ、秋田に赴く源内。しかし、久保田城に向かう途中、疲弊しきった農民達に一揆のやり方を教えて欲しいとせがまれる。農民達の考えに同調しかけた源内だが、そこに影の源内が現れ、城に向かうよう告げる。源内は結局、農民達を見殺しにすることになった……。

無能な者が上にいるという身分社会にあって、己一人の力で人生を切り開こうとする源内の爽快さと悲哀が描かれていく。

舞台奥が楽屋になっていて、開場直後から、役者達がそこに出入りして服を選んだりしている。また、舞台袖はわざと見切れるようになっていて、役者やら黒子やらが歩いているのがわかる。蜷川が良くやる、舞台の虚構性の強調である。

また、「コリオレイナス」の時同様、開演後は、楽屋になっていた場所の前に巨大な鏡が出現して、舞台と客席の観客が映る。この鏡は、置き道具の裏を映して虚構性の強調を手伝ったり、幕の裏で行われる場面を客席から見えるようにしたり、時代と舞台の一方の主役が観客や庶民であることを告げる役割を担ったりと、かなり効果的に用いられる。

町民には才能を消費され、救いを求める農民の役には立てなかった源内。庶民と才人の関わりが大きなテーマの一つになっている。

また、源内は仕官することが叶わず、浪人、今でいう無職者として過ごすしかなかった。

そして、社会の変革への希望を役者達が歌うという、いかにも井上ひさしらしいラスト。

リストラの嵐が吹き荒れ、「蟹工船」のようなプロレタリア文学が注目を浴びる時代にあって、「表裏源内蛙合戦」を上演する意義とそれを観る意義は大きい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月13日 (土)

ザ・ビートルズ 「マジカル・ミステリー・ツアー」

テレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」用のサウンドトラックとして書かれた6曲に、同時期に発表されたシングル曲5曲を加えて発表されたアルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」(EMI)。

ザ・ビートルズ 「マジカル・ミステリー・ツアー」 映画「マジカル・ミステリー・ツアー」は、その難解な内容も手伝って、散々な酷評を受けますが、実験的内容だけにポール・マッカートニーもすぐに受けいれられるとは思っていなかったようで、ガリレオ・ガリレイをモデルにした「フール・オン・ザ・ヒル」という、理解されない苦悩を歌ったナンバーが入っているのはそのせいなのかも知れません。

映画のサントラではない曲にも、理解し合えない不幸を歌った「ハロー、グッバイ」や、理解されない孤独をテーマにした「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」などが入っており、音楽は愉悦に満ちていますが歌詞には孤独が宿っているという内省的なアルバムに「マジカル・ミステリー・ツアー」はなりました。
様々な企業のCM曲として使われ、再度ポピュラーになった、「愛こそはすべて(オール・ユー・ニード・イズ・ラブ)」も収録。

Beatles/Magical Mystery Tour

| | コメント (0) | トラックバック (0)

わたしがさびしいときに

“わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの”

金子みすず(金子みすゞ)の「さびしいとき」という童謡の一節です。

金子みすゞは浄土真宗の檀徒(門徒)で、浄土真宗(や浄土宗)の「ともいき」の思想が出ていると見ることも出来ます。

それはそれとして、他者と感情を共有できる動物というのはあるいは人間だけなのかも知れません。共感する能力というのは実はかなり高度なものなのかも知れないですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月11日 (木)

プリーストリー 『夜の来訪者』(岩波文庫)

イギリスの、ジャーナリスト、小説家、劇作家、批評家であるジョン・ボイントン・プリーストリー(1894-1984)の代表的戯曲『夜の来訪者』(安藤貞雄訳 岩波文庫)

プリーストリー 『夜の来訪者』(安藤貞雄訳 岩波文庫) 『夜の来訪者』が初演されたのは1946年。1954年には映画化もされている。

『夜の来訪者』の舞台になっているのは、第一次世界大戦前夜、1912年のイギリス・ミッドランドの街、ブラムリー。

ブラムリーの大工場主、バーリング家の食堂。バーリング家の娘であるシーラと、バーリング家と同じく大工場主の家であるクロフト家の息子のジェラルドとの婚約パーティーが行われている。そこへ、グールという名の警部の来訪がある。グールは、2時間ほど前に、エヴァ・スミスという女性が自ら命を絶ったことを伝え、バーリング一家とジェラルドが、エヴァ・スミスの自殺に関与していることを告げる……。

他者への想像力の欠如が犯罪へと繋がっていく過程を解き明かしていく傑作スリラーであり、社会派の戯曲である。半世紀以上も前に書かれたものであるが、その内容は全く古びておらず、むしろ21世紀の現代社会が抱える問題の根本を突くといっても過言ではないほどの鋭さを持った本である。

プリーストリー 『夜の来訪者』(安藤貞雄訳 岩波文庫) 紀伊國屋書店BookWeb

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月10日 (水)

コンサートの記(29) びわ湖ホール「ファジル・サイ ピアノリサイタル」2008

2008年11月30日 大津市の滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

びわ湖ホール大ホールにて午後3時からの公演を鑑賞する。「ファジル・サイ ピアノリサイタル」。

びわ湖ホール「ファジル・サイ ピアノリサイタル」2008

数少なくなった変人系天才ピアニスト、ファジル・サイ。1970年生まれのトルコ人ピアニストである。最近では何故か山口智子と噂になるなど、音楽以外でも話題になっていたりする。

びわ湖ホールのホワイエのモニターには、ファジル・サイのドキュメンタリー映像が流れていた。今もトルコを活動の拠点としているファジル・サイ。ドキュメンタリー中のインタビューによると、若い頃にはアメリカに拠点を置いたこともあったというが、田舎町での演奏旅行をこなさなければならず、「それならアナトリアで弾いていた方がよっぽどましだと思った」と語っていた。

曲目は、前半が、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」。後半は、作曲家でもあるファジル・サイの作品、「ブラック・アース」、「パガニーニ・ジャズ」、「トルコ行進曲・ジャズ風」、「3つのバラード」。そしてガーシュイン作曲、ファジル・サイ編曲の「サマータイム・ファンタジー」と「ラプソディ・イン・ブルー」。

ファジル・サイのピアノリサイタルには2年前にも接しているが、その時に比べるとファジル・サイは長髪になり、髪の色も白っぽくなっている。

ステージ上では相変わらず変人ぶりを発揮。片手で弾いている時は、もう片方の手を無意味に顔の付近に上げる、あるいはピアノに向かって指揮をする。上を向いて反っくり返ってピアノを弾いていたかと思えば、今度は客席をじっと見つめて弾き始める。弾きながら鼻歌を唄う。

それでいて生まれる音楽は個性的でありつつも上質である。

組曲「展覧会の絵」は一台のピアノによる演奏であるにも関わらず、並の管弦楽版演奏よりも多彩で表現力豊かだ。

ちなみにファジル・サイ、「テュイルリーの庭」の前の置かれた「プロムナード」の最後の3つの音を、鍵盤を弾くのではなく、ピアノの弦をそのまま手で弾いて出していた。「えー! そんなのありなの?」と思ったが、ファジル・サイがやると様になる。そして「ブィドロ」では足踏みを鳴らしながらも堂々とした演奏を繰り広げる。「卵の殻をつけた雛のバレエ」「リェージュの市場」などの速いパッセージをファジル・サイは圧倒的なテクニックと煌めくような音、いや煌めく音で駆け抜ける。「キエフの大門」の演奏も、適当なプロオーケストラの演奏よりもずっと巨大で迫力がある。

後半の自作の演奏。ファジル・サイが作曲家としても天才的であることを存分に知らせる出来である。ファジル・サイのファンにはおなじみの「ブラック・アース」での片手でピアノの弦を押さえることで弦楽器的な音色を出すというアイデア、「パガニーニ・ジャズ」や「トルコ行進曲・ジャズ風」の垢抜けた雰囲気、「3つのバラード」の美しい旋律など、いずれも面白い。「3つのバラード」などはそのまま映画音楽に転用できそうなほどメロディアスである。

ところでファジル・サイ、作風が坂本龍一を思わせるという話を以前ここに書いたことがあるが、今のファジル・サイは髪も白くて長くなり、衣装も黒いので、遠目に見ると風貌も坂本龍一に似て見える。もちろん坂本龍一は、視線をあっちこっちに飛ばして演奏したりはしないけれど。
それに、ファジル・サイの歌声も、実は坂本教授の声に似ているのだった。

「サマータイム・ファンタジー」ではアンニュイながら深い音楽性を示し、「ラプソディ・イン・ブルー」は「展覧会の絵」同様、下手な協奏曲バージョン演奏などよりもずっと彩り豊かである。

アンコールでもファジル・サイは自作を弾く。イスラエルの国歌に似たメロディーを持つ、哀愁に満ちた音楽だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 9日 (火)

名前と性格

今年度の新生児の名付けランキング。男子は「ヒロト」という名が1位になったようだ。

私も「ヒロト(弘人)」という名前である。ヒロトという名前は私の世代ではそう多くはなかったが、いつの間にか最もポピュラーな名前になってしまったようだ。

ところで先日、電車の中で、二十歳前後と思われる女の子達がこんな話題で盛り上がっていた。

「うちのお母さんが、ヒロトって名前の人は憎めない人が多いって言ってた」
「へぇー、名前ってそういうのあるんだね」

……君達、何だってヒロトという名前で盛り上がっているんだ? 近くにヒロトという名前の人がいたりしたらどうするんだ。いや、いたりしたらじゃなくて、ここにいるぞ。

肝心の「ヒロトという名前の人はなぜ憎めない人が多いのか」については話していなかった。気になるなあ。

名前と性格に関連があるのかどうか、随分前に廃刊になった「クォーク」という雑誌が特集を組んでいたことがあった。名前の頭文字の母音によって性格が異なる可能性がなきにしもあらずということだった。微妙な判定である。
ま、「クォーク」が廃刊になったという事実が、信憑性が低いということを示しているのかも知れないけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

女性なら喜ぶのだろうけれど

先日、電車の中で京都造形大時代の後輩に出会い、少し話をした。

その時、「本保さん、全然変わらないですね」と言われたのである。見た目がということらしい。ちなみに6年前に比べてということのようである。

女の人ならそういわれて素直に喜べばいいのだろうけれど、私は男である。内面の成熟が表に出た方が喜ばしいのではないだろか。それとも俺は成熟していないのかな? ガキか? ガキなのか?

ともあれ、顔に責任持つまでにはまだ後6年ある。その時にはそれ相応の顔つきになっていたいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 7日 (日)

観劇感想精選(56) 劇団M.O.P. 「エンジェル・アイズ」

2007年8月25日 京都府立文化芸術会館にて観劇

午後2時から京都府立文化芸術会館で、劇団M.O.P.の公演「エンジェル・アイズ」を観る。作・演出:マキノノゾミ。
アメリカ・アリゾナ州トゥームストンを舞台とした西部劇。

かつては金が出て、発掘者が押し寄せ、繁栄したトゥームストン。数年前にはOK牧場の決闘があり、全米中に名を轟かせたが、その後は斜陽の一途をたどっている。
青年新聞記者のエリオット・ホープ(大原やまと)は、トゥームストンの惨状を見かね、人気作家のマーク・トウェインことサミュエル・クレメンズ(奥田達士)に手紙を送った。
クレメンズは、二度目のOK牧場の決闘を行うことを計画する……。

あらすじだけにしてしまうと荒唐無稽な物語のように思えてしまうのだが、実際は上質のエンターテインメントである。全員がギターやバンジョーをかき鳴らしながら「ローハイド」を歌う冒頭からサービス精神旺盛。MONOの奥村泰彦の舞台装置も効果的で、実に格好いい芝居である。

西部劇的な面白さはもちろん、人間の悲哀や、人間の持つ愚かしさや汚らしさも描かれている。

戦闘シーンはもっと格好良さが欲しく、自分ならどう演出しようかと考えながら観ていた。M.O.P.の場合は役者が良いので、銃撃されてすごすごと引っ込んでもそれはそれで絵になっているのだけれども。

ラストは昨年の「ズビズビ。」同様、ブラスを交えた演奏。役者達がブラスやギター、フィドルなどを演奏する様は、 「上海バンスキング」のようで楽しいことこの上ない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より良い社会を諦めるな 山口二郎 『若者のための政治マニュアル』(講談社現代新書)

山口二郎の『若者のための政治マニュアル』(講談社現代新書)。この本には特別なことは何も書かれていません。全ては当然の、それでいながら多くの人が見逃していることが書かれています。

山口二郎 『若者のための政治マニュアル』(講談社現代新書) あたかも絶対不変の現実が存在するかのように、我々団塊ジュニアに教育を行った世代は言ってきました。
しかし、社会も現実も人間が作り出したものであり、人間とは関係性の生き物であり、それを作り出す側も我々とは無関係の存在ではありません。

少なくとも現代の日本は、民主主義が前提の社会であり、普通選挙法が実施されている国です。人々は全くの無力ではないのです。

今の日本は歴史的な転換期に来ています。この時代をどう乗り切るかで、今後の日本は変わってきます。

『若者のための政治マニュアル』は、我々に多くの「当然」を示しています。全てを信じる必要もありませんし、受けいれるいれないは個々の選択にかかっています。

しかし、私はより良い世界を諦めたくありませんし、この世界がこのままで良いのだとも思っていません。

私と同じような思いを抱いている人には、この種の本を読んで色々と考えてみることをお勧めします。

山口二郎 『若者のための政治マニュアル』(講談社現代新書) 紀伊國屋書店BookWeb

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 5日 (金)

サー・チャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団&スコットランド室内合唱団 モーツァルト 「レクイエム」(レヴィン版)

1925年生まれのサー・チャールズ・マッケラスの指揮、スコットランド室内管弦楽団とスコットランド室内合唱団ほかの演奏によるモーツァルトの「レクイエム」(レヴィン版)のCDを紹介します。LINNレコーズ。

モーツァルト 「レクイエム」(レヴィン版) サー・チャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団&スコットランド室内合唱団ほか モーツァルトの「レクイエム」は、モーツァルトの弟子であり、モーツァルト本人から「レクイエム」が未完に終わることを考えて、全体の構想を告げられていたフランツ・クサバー・ジュースマイヤーの補筆版(ジュースマイヤー版)での演奏が一般的ですが、ジュースマイヤーの作曲的技量への疑問は常につきまとい、独自の補筆版を作曲する者も何人か出ています。

このCDではアメリカの音楽学者にして鍵盤楽器奏者のロバート・レヴィンが補筆したバージョンによる演奏が行われています。
全く新しい補筆バージョンを作った作曲家もいますが、レヴィンはジュースマイヤーの筆の至らないところを補うという姿勢を基本としています。例えば、モーツァルト本人が構想しながらジュースマイヤーが指示を守らなかった(のか守れなかったのか)「ラクリモーサ」の後の「アーメンフーガ」を加えています。

プラハ室内管弦楽団と「モーツァルト交響曲全集」を完成し、スコットランド室内管弦楽団ともモーツァルトの交響曲を録音しているサー・チャールズ・マッケラスの指揮は、1925年生まれとは思えないほどの若々しさと推進力を兼ね備えながら、音と表情に大袈裟でない哀感を湛えた至芸とも呼ぶべき水準に達した優れたものです。

モーツァルト/Requiem  Adagio & Fugue: Mackerras / Scottish.co & Cho  Etc (Hyb)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

goo天気 過去の天気

gooの天気予報のページで、過去47年分の天気を知ることが出来ます。

「過去の天気 goo天気」 http://weather.goo.ne.jp/past/

ちなみに私の生まれた1974年11月12日の千葉市の天気は曇り。その週はずっと晴れていたのに、12日だけ曇りです。何か悔しいな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 2日 (火)

観劇感想精選(55) プロペラ犬 「マイルドにしぬ」

2007年12月8日 大阪・梅田のHEPホールにて観劇

午後6時30分より、大阪・梅田のHEPホールで、プロペラ犬の旗揚げ公演「マイルドにしぬ」を観る。
プロペラ犬は女優の水野美紀が放送作家の楠野一郎とともに立ち上げた演劇ユニット。楠野一郎の脚本と水野美紀の主演だけが固定で、その他は、公演ごとにゲストを招くというシステムで公演を続ける予定だという。今回は河原雅彦との二人芝居。演出は入江雅人。共演の河原も演出の入江も、ともに水野の人選だという。

「マイルドにしぬ」は事前の情報に乏しかったが、ナンセンスなショートコメディーのオムニバス公演であった。オムニバスとはいえ、それぞれの話には繋がりがある。

笑えた。水野美紀がナンセンス・コメディーをやっているというので笑える要素も多いし(つまり無名の俳優が同じことをやっても笑えない)、河原雅彦の受けの芝居が良いと言うこともある。しかし何といっても(こういうことを書くと二人には却って失礼に当たるかも知れないが)水野美紀と河原雅彦の役者としての抜群の上手さ、これに尽きる。二人が舞台に立っているだけで演劇空間が作れてしまうのである。この二人ならどんな本でも、あるいは本なしセットなしのエチュードだけでもかなり面白いものが出来てしまうはずだ。

水野美紀の舞台には最近立て続けに接しているし、河原雅彦の舞台を生で観るのは5年ぶりだが(前回は木野花が演出した、鴻上尚史の「トランス」。紅谷先生役を演じたのは、ともさかりえで、この共演がきっかけとなって河原はともさかと結婚することになる)舞台を収録したDVDはいくつか観ていた。だが、これほど良い俳優だとは今日の今日まで気がつかなかった。

水野と河原の場合、その演技は演じているというよりも、あるべきものがあるべきところに嵌るという感覚に近い(指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンが岩城宏之に語ったという「ドライブするのではなくキャリーするんだ」という言葉があるが、音楽ではなく演劇でその言葉の意味を実感できたのはこれが初めてである)。更に、間近で観ていたからわかったのであるが、並の舞台俳優なら10の手順を要して表現するところを二人は2つか3つの段取りで出来てしまう。「凄い役者というのは本当に凄いんだな」と感心してしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 1日 (月)

音楽とはかくも怖ろしいもの ヘルベルト・ケーゲル指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団 ビゼー「アルルの女」「子供の遊び」「カルメン」

「音楽とは素晴らしいものだが、それを職業にしようというのは怖ろしいことである」(ジョルジュ・ビゼー)

ビゼーのこの言葉は、彼が作曲家として生前に評価を得ることが出来なかったことに由来しています。ビゼーというのもまた不幸な人で、オペラ史上最高の有名作である「カルメン」の作曲家でありながら、その「カルメン」の初演は無残なまでの失敗。
その原因は、スペイン情緒を多く取り入れた音楽に聴衆が戸惑ったことと、主人公が貧しい労働者階級の女であることが不評を買ったとされています。「カルメン」の初演時の批評が残っており、中には「舞台上で殺人を繰り広げるなどなんて不謹慎だ」という、「お前はアホか」と言いたくなるような勘違い批評があることはかなり有名ですが、その他にも「旋律がない」「深みがない」「音楽的価値が皆無」という今から見ると首をかしげたくなるような批評に満ち溢れています。「カルメン」は再演では大成功しますが、その時にはビゼーは病気ですでに世を去っており、結局、彼自身が成功の美酒に酔うことはありませんでした。

そのビゼーの作品を指揮しているヘルベルト・ケーゲル。この人も不幸な人です。

ヘルベルト・ケーゲル指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団 ビゼー「アルルの女」「子供の遊び」「カルメン」 声楽家としての才能をまず見出されたケーゲルですが、児童合唱団などに属するには年齢制限にひっかったため、ピアニストを目指し、それも第二次大戦に兵隊として参加した際に手を負傷したため叶わず、指揮者になりますが、指揮者として最も必要な資質である人心掌握術にケーゲルは長けてはいませんでした。このCDで演奏しているドレスデン・フィルハーモニーとも後に険悪な関係に陥ります。

そんな不幸な音楽家同士の組み合わせによる演奏。これが異様な演奏になっています。

ケーゲルの指揮するドレスデン・フィルは完璧なアンサンブルを聴かせますが、余りに完璧すぎるため、聴いているうちに怖くなってくるほどです。また音も非常に美しいのですが、楽器が鳴らしているのに人間の声に聞こえるような「この世ならぬ」と形容したくなるような美しさに満ちた表情を見せる瞬間が何度もあります。

「アルルの女」は劇付随音楽、「子供の遊び」はタイトルからもわかるとおり愛らしさを追求した作品、「カルメン」はオペラのための音楽で、いずれもエンターテインメント指向の音楽のはずですが、ケーゲルの指揮すると楽しさは余り感じられず、逆に「彼岸の響き」のようなゾッとする音楽に触れることになります。

拳銃で頭を撃ち抜いて自殺するという、壮絶な最期から、「狂気の名指揮者」として再評価が進むケーゲル。しかし、狂気を剥き出しにするタイプの指揮者ではなかったため、残された音盤の全てに狂気が刻印されているわけではありません。しかしながら、このビゼー作品集だけは誰もがその特殊性を聞き分けることの出来る特異な音盤です。

音楽とは実は怖ろしいものです。その怖ろしさを知りたくない人は、このCDは聴かないで下さい。

ビゼー/L’arlesienne Suites.1  2  Jeux D’enfants  Carmen Prelude: Kegel / Dresden.po

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »