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2009年3月 6日 (金)

観劇感想精選(66) 「リア王」

2008年2月22日 大阪のシアター・ドラマシティにて観劇。

午後6時30分より、大阪のシアタードラマシティで蜷川幸雄演出の公演「リア王」を観る。タイトルロールを演じるのは平幹二朗、コーディリアに内山理名、ゴネリルは銀粉蝶、リーガンにとよた真帆、グロスター伯に吉田鋼太郎、エドマンド:池内博之、エドガー:高橋洋、ケント伯に嵯川哲朗、道化に山崎一。テキストはいつも通り松岡和子の翻訳を使う。

「リア王」のようなよく知られたテキストを使うとなると、蜷川幸雄演出といえども完全に納得がいくというところまで行き着くは困難だ。

平幹二朗のリア王は、狂気の演技が想像以上に素晴らしく、リア王としては最高レベルと言っても過言ではないだろう。ただ、嵐の場面での狂乱の場は意外に迫力が出ていなかった。それよりも嵐の場面では天井から石が次々落とされて、それはそれで迫力は出ていたが、落ちる石の数が多すぎて、観る側としても俳優の演技に集中しづらいということもあった。

コーディリアに内山理名はちょっと違うんじゃないかと思ったが、コーディリアの不器用さを強調するような演出であり、小細工はむしろ不要なので、冒頭の場面などは嵌っていた。

ゴネリルとリーガンは良い味を出していたが、ゴネリルのキャラクター造形にピントが絞られていなかったため、最後のシーンが唐突に感じられた。コミカルな要素を増やそうという演出の意図はわかるし、ある程度成功もしていたが、もう少し詰められたはずなのだが。

魅力的な悪役であるエドマンドを演じる池内博之。凄みはあったが、奸智に長けたところ(更にいうと自分の才に酔ったナルシストなところ)も出せるともっと良かった。池内はエドマンドに惚れ込んでいたのか(エドマンド役には多くの俳優が惚れ込むと思うが)ストイックに過ぎる場面が見られた。

エドガーを演じたニナガワ・スタジオ出身の高橋洋、グロスター伯役の吉田鋼太郎は予想を上回る好演。山崎一は道化役というイメージではないが、あれはあれで良いのではないか。

山崎一が演じる道化役は狂言の所作を取り入れており、他にも舞台背景に能舞台にあるような松が描かれていたり、邦楽を使ったりと「和」のテイストが今回も出ていた。登場人物が毛皮を着ていたのは、蜷川の「リア王の登場人物=蛮族」という解釈ゆえだろう。

リア王&ゴネリル&リーガン&コーディリアと、グロスター&エドガー&エドマンドの相似形はシェイクスピア研究者に良く言われることだが、そこもある程度はわかりやすく示されていた(勿論、露骨にではない)し、それゆえにリアとグロスター二人の場面の悲惨さも際立っていた。

第1幕、第2幕の後に休憩が入り、第3幕、第4幕、第5幕が後半として上演されたが、前半はかなりの完成度で、後半はそれに比べると全体的な水準では落ちていた。ただ平幹二朗は後半になって演技に一層の冴えが出て、全体のレベルを押し上げていたように思う。

「リア王」には人間の愚かしさ(冒頭の、リア王が娘達にいかに自分を愛しているか語らせるという場面からして、あらゆる意味における人間の愚劣さが噴出している)、ピカレスクとしての要素(特にエドマンド)、それらがない交ぜになった悲惨さ、といった主題があるが、蜷川演出はそれらを等しく出そうとして、逆に全体としての輪郭がぼやけてしまったところがあるようだ。「やれることはやれるだけやってやろう」と意気込みは買えるけれど、一つの主題(「人間の愚かしさ」が一番だと思う)に収斂させる方向も可能なので、そうした方が良かったのではないだろうか。しかしそれをやっている蜷川は蜷川ではないという見方も出来る。そこが明らかに演出家がトップに来る(演出家が一番の売りである)公演の難しさでもある。

とにかく今回の公演は平幹二朗のリア王が最大の見所であることだけは間違いないだろう。

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