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2009年8月の26件の記事

2009年8月31日 (月)

わからない者

わからない者は幸いだ。わからない者は気楽だ。そして彼らは永久に進歩しないだろう。

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2009年8月30日 (日)

『教如上人と東本願寺創立』(東本願寺出版部)

本願寺は江戸時代(正確には織豊時代末期)東本願寺と西本願寺に分裂しました。従来、本願寺の東西分裂は本願寺の内部抗争に乗じた徳川家康の策謀という説が有力でしたが、それに異議を唱えているのが東本願寺出版部から出ている『教如上人と東本願寺創立』です。

『教如上人と東本願寺創立』(東本願寺出版部) 慶長7年(1602)に徳川家康から東六条の地を賜い、東本願寺を創立した教如上人。本願寺第十一世・顕如の長男として生まれた教如上人ですが、本願寺十二世となった直後に豊臣秀吉から弟の准如に位を譲るようにいわれ、隠退しました。しかし、実際には教如は本願寺十二世としての活動を続けており、大坂に大谷本願寺を築こうとするなど、表立っての活躍も目立っていました。

東本願寺の寺地を与えたのは徳川家康ですが、関ヶ原の戦いの前に、上杉景勝討伐のために下野国小山にいた家康を教如上人はわざわざ京都から訪ねており、関ヶ原の戦い後、天下人となった家康のもとにも教如は足繁く通っており、もともと教如自体が本願寺分派の意図を持っており、家康は教如の意志に応えただけなのではないかと本書は結論づけています。

従来の、本願寺分派は家康の陰謀だとする説に一石を投じる好著です。

『教如上人と東本願寺創立』(東本願寺出版部) bk1

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2009年8月29日 (土)

わかりあえず

世の人の読解力のなさを知る我彼ついにわかりあえず

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私は英語教育の初歩の初歩で落ちこぼれました

中学校1年の1学期ですでに英語の授業でつまずいていました。今にして思えばLD(学習障害)だったのだと思われます。不幸にして日本にはまだLDの観念がなく、学習不足として責められもしました。「出来ない」ということを理解されないというのは、おそらく一番辛いケースの一つです。

私はLDに関しては算数障害の認定を受けています。おそらく記号を扱うのが駄目なのでしょう、英語もスペルをきちんと綴ること、憶えることが出来ませんでした。

それでも中学生の時は家庭教師について貰うなど、単語を憶える力が弱くても、文法など他の部分で何とか点を取ることは出来ました。高校の英語の授業も好きでした。点数は平均点がやっとでしたが。

フォニックスという英語教育法があります。詳しくは下のファイルを見ていただきたいのですが、

http://www.jrc.sophia.ac.jp/kiyou/ki22/mask.pdf

英語をスペルではなく、発音から理解していこうという教育法のようです。ご存じの通り、英語は綴りと発音が必ずしも一致しません。発音と綴りが同一でないものを記憶するのは困難がともないます。私のような英語ノイローゼに陥る人を一人でも少なくしたいとの思いから、フォニックスという教育法を紹介してみました。誰かの役に立てれば幸いだと思います。

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2009年8月28日 (金)

無明の日々(11) 選択など出来ない

いつの間にか私はここにいた。特に流された覚えもなく、二本の足で方向を選び抜いたわけでもない。

様々な要素が入り交じり、私には私自身の姿が見えなくなりつつある。幾層にも色は重ね塗りされ、包帯を巻かれ、傷口をテープで塞いできた。

わかりつつあるのは、選択など出来ないということ。きっと選んだつもりでも選んでなどいないのだ。選ばされているのだ、大いなる力に。その大いなる力の正体もわからぬまま。

世界は巨大すぎ、人々は目の前のことに汲々としている。世界はもはや全ての人間の手を離れて暴走しているのかも知れない。いや、きっとそうなのだ。

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2009年8月26日 (水)

カラオケの採点機について

カラオケの採点機について

最近のカラオケには、採点機能のついているものもあります。
「機械に歌なんてわかるわけがない」と馬鹿にしていましたが、試しに歌って採点してもらいました。

全て私の敬愛する柴田淳(女性です)の曲。一番歌い慣れている「今夜、君の声が聞きたい」が91点。これまた歌い慣れている「ぼくの味方」が90点。初めて歌う「愛をする人」が86点で、歌うのが二度目の「幻」が89点でした。

点数自体の高さはともかくとして、点数の順位は私自身が思った感覚と一致していました。機械だからといって馬鹿には出来ないのかも知れません。

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2009年8月23日 (日)

レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団 「チャイコフスキー後期三大交響曲&管弦楽曲集」

レナード・バーンスタインが晩年にニューヨーク・フィルハーモニックを指揮してライブ録音した、チャイコフスキーの後期三大交響曲と「フランチェスカ・ダ・リミニ」、「ロメオとジュリエット」。イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してライブ収録した「ハムレット」、「スラブ行進曲」、「イタリア奇想曲」、序曲「1812年」をまとめたBOXセットを紹介します。ドイツ・グラモフォン。

レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック チャイコフスキー後期三大交響曲&管弦楽曲集 ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮した、チャイコフスキーの交響曲第4番、交響曲第5番、交響曲第6番「悲愴」はいずれも極端に遅いテンポと巨大なスケールを持った演奏で、チャイコフスキーよりもバーンスタインを感じさせる演奏ですが、凄まじい思い入れを込めた唯一無二の個性的な芸術となっています。中でも1時間近くを費やす「悲愴」の演奏は、指揮者のクリストフ・フォン・ドホナーニに、「バーンスタインは特別な指揮者であり、『悲愴』を1時間かけて演奏したとしてもそうする権利がある」と言わしめた怪演です。

一方、イスラエル・フィルを指揮した管弦楽曲集は、摩天楼型のバランスが特徴的で、人によって好みが分かれると思われます。

レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック チャイコフスキー後期三大交響曲ほか(HMV) icon

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2009年8月21日 (金)

無明の日々(10) 現象としての人生

生まれ出ずる以前にもうあらかたは決着がついているのかも知れない。遺伝の要素は自分自身で自覚しているようもずっと強いようだ。

ならば生きるということは字義通りの生み出すということではなく、ただあること、つまり現象ではないのか。

現象としての自我。まるで宮沢賢治のようだが、私というのは現象なのだ。

この現象を受けいれるべきか否か。いや、受けいれるしかないのではなかろうか。あらゆることは無意味、ということを根本とし、それを超越して有意味となる可能性があるのだから。

無意味であるということが有意味なのだ。例えば、私は私を超えられないが故に私なのであり、それ故に私たり得るというように。

ならば私は私たり得るために現象としてただあるべきなのだ。おそらくそれが本当のことなのだ。

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京のラーメン店(7) らー麺亭桜

京のラーメン店 ラーメン桜

叡山電鉄元田中駅のそばにある「らー麺亭桜」。ほんのりとした甘さを持つ麺が特徴である。

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2009年8月19日 (水)

京のラーメン店(6) らーめん「梟」

京のラーメン店 らーめん「梟」

百万遍上がる西側にあるラーメン店「梟」。
味噌とんこつラーメンが売り。赤味噌とんこつラーメンと白味噌とんこつラーメンがあり、ともに650円。

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2009年8月17日 (月)

街の想い出(27) 神田・御茶ノ水界隈その8 明治大学12号館

街の想い出(27) 明治大学12号館

明治大学第二文学部文学科文芸学専攻は、今はなき5号館、6号館、7号館と、1994年に竣工した12号館を中心に授業を行っていました。

12号館の教室からはライトアップされた東京タワーが見えました。東京タワーを見ながら勉強というのはロマンティックでしたね。夜の部は学生が少ないということもあり、私語もなく(私語をするような学生はそもそも授業に出てこないということもある)講義内容も充実したものでした。

ちなみに文芸学専攻とは、日本文学と演劇学を軸に、英米仏独露の各国語の文学を学ぶ場所で、早稲田大学の文芸専修や日本大学芸術学部の文芸専攻とは趣を異にします。私は日本文学に軸を置いていましたが、戯曲研究などの演劇系科目、仏文学史や独文学史なども学んでいました。だから、外国語こそ中国語が多少出来るくらいですが、翻訳文学に関する知識はオールマイティです。

夜間のみにあった文芸学専攻は、夜間部廃止と同時に文芸メディア専攻に改組され、教育の内容は少し変わったようです。ちなみに学費は倍になりました。

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観劇感想精選(74) アトリエ・ダンカン・プロデュース 「鴨川ホルモー」

2009年6月24日 京都芸術劇場・春秋座にて観劇

午後6時30分より、京都芸術劇場春秋座にてアトリエ・ダンカン・プロデュース公演「鴨川ホルモー」を観る。原作:万城目学、脚本・演出:鄭義信、出演:石田卓也、芦名星、中川真吾、秋山奈々、上田悠介、上原香代子、白井義将、高畑こと美、根本大介、札内幸太、松下太亮、山口龍人、見上寿梨。休憩時間15分を含んで上演時間3時間近い大作である。

万城目学の小説「鴨川ホルモー」は映画化もされていて、石田卓也と芦名星は映画版「鴨川ホルモー」にも出演している。映画では芦屋を演じた石田卓也が今回の舞台では安倍を演じ、芦名星は映画と同じく早良京子を演じる。

映画ではCGを駆使したスペクタクルが見所となった「鴨川ホルモー」であるが、舞台版ではオニを出すことが出来ないので、ホルモーの戦いはメインにならず、学生達の日常生活、特に恋愛に重点が置かれている。同じ小説から異なった味わいの映画と舞台が出来、どちらも原作から大きく外れてはいないというのが興味深い。

原作や映画と違うのは、三好三人衆ならぬ三好兄弟が三好姉妹に置き換わっているところ。三好姉妹と高村(中川真吾)との間に恋愛を絡めることで、より青春的要素を深めている。また、原作ではほとんど描かれていない松永(白井義将)や坂上(札内幸太)が居酒屋「べろべろばあ」のアルバイト店員として結構重要な役割を務めている。
原作にはほとんど登場しない芦屋(山口龍人)の彼女(佐野菜月)も比較的出番が多く、恋愛劇に一役買っている。

舞台は二段に組まれている。安倍(石田卓也)がまず現れて、ホルモーの由来などを説明したのち、下の舞台に居酒屋「べろべろばあ」が現れ、京大青龍会の新入生歓迎会の場面になる。居酒屋「べろべろばあ」のシーンは各自がてんでにセリフを喋っていて雑然としたカオスを生み出しており、臨場感がある。

吉田代替わりの儀では本当に裸になるのだろうかと思っていたが、本当にみな裸になった(そのすぐ後に15分間の休憩に入った)。

登場するのが京大の学生に絞られているのが原作や映画とは違うところだが、これはこれで良くできた舞台になっている。鄭義信が同志社出身ということもあってか、京都の大学生の生態もリアルで、完成度の高さに感心してしまった。

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2009年8月16日 (日)

西原祐治監修 『わが家の仏教・仏事としきたり 浄土真宗』(日東書院)

お盆ですので、お墓参りをされる方も多いと思います。そこで今日は西原祐治監修による『わが家の仏教・仏事としきたり 浄土真宗』(日東書院)を紹介します。

西原祐治監修 『わが家の仏教・仏事としきたり 浄土真宗』(日東書院) 釈迦牟尼に始まる仏教の歴史と日本仏教史に続き、浄土真宗(真宗)の開祖である親鸞の生涯と著書そして親鸞の弟子である唯円の書いた「歎異抄」の紹介、「正信偈」などのお経の紹介、真宗十派の本山案内、浄土真宗における日々のおつとめと葬儀のやり方などが記されています。

「門徒もの知らず」といわれるように、浄土真宗の葬儀の仕方は独特で、例えば線香は立てずに折って寝かせたり、「冥福を祈る」という言葉を使わなかったりと、他の宗派の人からは風変わりだと見られることも多くあります。

浄土真宗の人は亡くなると同時に阿弥陀仏の国である極楽浄土に生まれ変わるという考え方をするので、死は忌むべきことではなく、浄めの塩なども用いません。

今日8月16日は京都の五山送り火の日で、5つある送り火にはそれぞれの宗派が割り当てられていますが、浄土真宗の送り火だけはありません。浄土真宗では人は亡くなると極楽に生まれ変わり、この世に霊となって帰ってくることはないと考えるためです。帰ってこないので送ることもしないのです。

西原祐治監修 『わが家の仏教・仏事としきたり 浄土真宗』(日東書院) bk1

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2009年8月15日 (土)

犯罪者を許すな

その男を許すな。

ある大学の大学院と劇場を私物化し、今また死後においても一つの演劇賞を私物化しようとしている極悪人を許すな。

犯罪者を神のように崇めるという愚行はするな。

死者だからといって手加減する必要はない。彼を許すな。

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サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団、CBSO合唱団ほか ブリテン「戦争レクイエム」

現在のベルリン・フィルの芸術監督であるサイモン・ラトルが1983年にバーミンガム市交響楽団やCBSO合唱団ほかを指揮して録音した、ブリテンの「戦争レクイエム」のCDを紹介します。EMI。

サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団ほか ブリテン「戦争レクイエム」 録音時、ラトルは28歳の若手指揮者でした。

イギリスが生んだ、クラシックの作曲家としては唯一の天才というべきベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」には作曲者自身の指揮するロンドン交響楽団ほかによる決定盤ともいわれている名盤がありますが、現役の指揮者によるものとしては、このラトル盤が最上でしょう。

「戦争レクイエム」は第二次世界大戦の犠牲者を慰霊するために書かれた作品で、通常のレクイエムに使われるラテン語の詩の他に、ウィルフレッド・オーエンによる戦争を題材にした詩も用いられており、戦争の悲惨さも歌われています。

録音当時はかなり若かったラトルですが、オーケストラや合唱のコントロールは見事であり、指揮者としてはすでにかなりの実力を身につけていたことが確認出来るCDです。

サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団ほか ブリテン「戦争レクイエム」(HMV) icon

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2009年8月14日 (金)

中川右介 『世界の10大オーケストラ』(幻冬舎新書)

音楽書を多く出しているアルファベータ社の代表取締役でもある中川右介の『世界の10大オーケストラ』(幻冬舎新書)。

中川右介 『世界の10大オーケストラ』(幻冬舎新書) 選ばれたオーケストラは、シュターツカペレ・ベルリン、ニューヨーク・フィルハーモニック、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、イスラエル・フィルハーモニック管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団、パリ管弦楽団。

世界の10大オーケストラにどの楽団を選ぶかは、それぞれに様々な意見があると思われますが、著者である中川右介は、彼自身が最もよく聴いた指揮者であるヘルベルト・フォン・カラヤンを軸に10のオーケストラを選んでいます。
シュターツカペレ・ベルリンは、カラヤンが初めてレコーディングを行ったオーケストラ、ニューヨーク・フィルハーモニックはライバルであるレナード・バーンスタインの手兵、ベルリン・フィルはカラヤンが芸術監督、ウィーン・フィルは母体であるウィーン国立歌劇場の総監督を務めており、フィルハーモニアは結成時にカラヤンが深く関わっています。その他の5つの楽団はカラヤンと疎遠だったということで特徴的なオーケストラが選ばれています。

オーケストラの歴史を辿るということで、当然、政治史や国家の背景が影響しています。例えばチェコ・フィルは政変の度に常任指揮者が亡命しており、政治の流れにオーケストラが無縁でないことがよくわかります。

またナチ党員だったカラヤンを軸に据えることで、当然ながらナチスドイツの問題も深く関わってきます。

音楽の書物でありながら、政治背景も追うことで、これまで余り知られてこなかったエピソードなども数多く記されることになりました。

音楽書ではないため、これを読めば音楽がよりわかるようになるというものではありませんが、音楽の背景にあるものを知ることで、音楽が歴史という縦軸の中で生まれたものであるということを確認することの出来る好著です。

中川右介 『世界の10大オーケストラ』(幻冬舎新書) bk1

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2009年8月12日 (水)

青なじみ

青痣のことを私の故郷の千葉県では「青なじみ」という。おそらく、語源は「青な染み」であると思われる。茨城県でも青痣のことを「青なじみ」というようだ。ちなみに西隣の東京では「青たん」という。「青いたんこぶ」の略だと思われる。

今日の夕方、散歩からの帰りに、自宅のドアに、手の指を挟んでしまい、右手の薬指の爪に青なみじが出来た。痛みはそれほどでもないので、こうしてタイピングで文章を書くことも出来る。そして、「青なじみ」という言葉を思い出したことで、京都に住んでいても私が千葉の人間であることを深く印象づけられたのであった。

言葉はその土地と密接に結びついている。言葉はその土地に根付き、同時に言葉はその土地を生み出す。世界は言葉によって整序されているともいえる。

そんな言葉にまつわる出来事を、今日の夕方の怪我によって思い起こした。

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2009年8月11日 (火)

前の携帯

前の携帯

DOCOMOのN903iの水色モデル。「恋するマドリ」という映画で新垣結衣が使っていたのと同じモデルです。

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2009年8月 7日 (金)

バナナの日ということで

バナナの日ということで

8月7日はゴロ合わせで「バナナの日」ということで、チョコバナナクレープを買ってみました。チョコバナナという味は好きで、子供の頃はチョコレートやアイスクリームでもチョコバナナ味をよく買っていました。

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夏休みの宿題はあとでやる

コネタマ参加中: 夏休みの宿題、先にやる派? 後にやる派?【ココログ選手権】

学校嫌いでしたので、夏休みの間は学校のことは忘れようとしていました。だから宿題もなるべく後回しにしていました。学校嫌いで夏休みの宿題を先にやるという人は少ないんじゃないでしょうか。

それでも自由研究などは母の故郷である千葉県旭市で虫取りなどをして早めに終えていたという記憶はあります。自由研究は学校の授業とは直接関連していないからでしょうね。

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2009年8月 6日 (木)

無明の日々(9) 私は何も知らないのだ

夏目漱石の『三四郎』において、広瀬先生は、「世界よりも頭の中の方が広いでしょう」というようなことを言った。それは確かにそうなのだが、何といっても世界は広いのである。

ちょっと興味を持って、南米のことについて調べてみようと思った。調べ初めて、自分が南米についてほとんど何も知らないことに気付いた。学校で南米の歴史に触れることはまずないので(そういう授業を行う学校があってもいいと思うのだが)知らないのは当たり前といえば当たり前なのだが、南米の最重要人物の一人である、シモン・ボリバル将軍についてさえ、私は名前しか知らなかったのだ。これでは全くの無知と同じことである。頭の中に南米世界が入っていないのだ。

日本人の南米に関する知識水準がどれほどなのかはよくわからないが、ボルヘスやガルシア=マルケスを読んで興味を惹かれたこともある私の知識レベルがほとんど無知状態というのは問題なのかも知れない。

世界は広く、知らないことは余りにも多い。

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2009年8月 5日 (水)

ほんのちょっとしたことでも

ほんのちょっとしたことでも、空気のように当たり前の存在だと思っているようなことでも、一つ一つを取り上げてその因果を辿っていくと、気が遠くなるほどの複雑な手続きを踏んでいることに気付く。命という営みの複雑な過程。人間と同じものを人工的に作り出そうとする試みが未だに成功していないのもむべなるかなという気もする。

そう考えると、生きるということがいかに大いなる恩寵のもとに行われているのかがわかる。命を生み出すということ、命を燃焼させるということ、それは実は類い希なることなのではないか。

考えてみれば、地球に生物というものが存在するということ自体が奇跡のようなものだ。奇跡的な世界で、我々は奇跡的な一秒一秒を生きている。いや生かされているというべきか。

その奇跡や恩寵やらに応えるべく、我々は生きているのかも知れない。奇跡や恩寵があって私というものが存在するということを考えると、私自身の命は私だけのものではないのであるし、この世のあらゆる出来事が「私だけのため」「自己中心」という鎖を離れて、より大きな形で立ち上がってくるようにも思われるのだ。

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2009年8月 4日 (火)

山田太一 『異人たちとの夏』(新潮文庫)

山田太一の小説『異人たちとの夏』(新潮文庫)を紹介します。

山田太一 『異人たちとの夏』(新潮文庫) 基本的には怪談路線でありながら、人間の温かさと怖さの両方に触れることの出来る作品です。山本周五郎賞受賞作。

シナリオライターの原田英雄は、妻と19歳になる息子と別れたばかり。家を妻に譲ったので、仕事場として借りていたマンションの一室に移り住む。環状八号線沿いで少々やかましいそのマンションは主に事務所として使われており、夜になると人がほとんどいなくなってしまう。

ある日、ふと浅草に出かけた原田は、36年前に事故で亡くなった父にそっくりの男と出会う。誘われるままに男の住むアパートに行くと、そこには原田の母そっくりの女が待っていた…。

映画や舞台にもなっている作品です。映画の方はレンタルできるので観ることをお薦めします。秀作です。脚本は山田太一本人ではなく、市川森一が担当しています。

山田太一 『異人たちとの夏』(新潮文庫) bk1

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これまでに観た映画より(45) 「TAKESHIS'」

DVDで北野武監督作品「TAKSHIS’」を観る。
まず始めに言っておくが、これは実験映画である。それをわからずに観て酷評する人がいるけれど、実験映画であることはすぐにわかるはずであり、それがわからないで北野監督を責めるのは間違いである。

実は、1993年に刊行され、1996年に文庫化された『シネマでヒーロー監督編』(武藤起一・編。ちくま文庫)という本がある。北野武、竹中直人、周防正行ら5人の映画監督へのインタビューをまとめたもので(1993年刊行されたものは『映画愛』というタイトルで、10人にインタビューを行っていた。『シネマでヒーロー』はその中から5人を選び、1996年に行った再インタビューも交えて構成されている)、読み応えのある本なのだが、96年6月25日に行われた北野武監督へのインタビューで、すでにのちに「TAKESHI’」となる作品の構想が語られている(このインタビューでは「座頭市」の構想についても語られており、興味深い。映画ファンは必読である)。数学のフラクタル幾何学なるものを取り入れた入れ子構造の映画構想であり、それを知っていた私は、「TAKESHI’」が発表された時に、「遂に撮ったか」と思った。しかし観劇にお金を回していたため、映画館に行く余裕がなく、「TAKESHI’」をロードショーで観ることは出来なかった。DVDも予約が一杯で、今日になってようやくTSUTAYADISCASからDVDが届き、視聴することが叶った。

難解といわれる作品だが、あるシーン(ここが鍵となっている)を見逃さなければこの映画が入れ子構造を持った実験映画であることがわかり、内容も比較的簡単に理解できる。

映画監督・北野武の前に、ある日、北野監督そっくりの男で売れない役者のキタノが現れる。北野監督の頭の中でキタノを題材にした妄想が始まる。そして北野監督の妄想の中のキタノの妄想が連想ゲームのように展開されていく。

映画も妄想の産物と言ってしまっていいと思うが、いわゆる普通の映画を一次的妄想とすると、この映画では一次的妄想の下に二次的妄想、三次的妄想があるということになる。北野武が妄想した北野武監督が妄想したキタノは北野映画のマニアなので、これまで発表された北野映画の断片が次々に出てくる。これはかなり笑える。だが、当然ながらいい加減に作っているのではなく、ちゃんと筋は通っているし、説明しようと思えば説明できるようになっている。

京野ことみと寺島進が夫婦漫才のようなことをするという妄想は、現実の北野武監督の経験からの発想であろう。

松村邦洋と内山信二がいつもわけのわからない役で出てくるのは映画の中の北野監督の妄想であり、キタノが演じる格好良いキタノは勿論キタノの妄想である。しかし、売れない役者であるキタノの妄想レベルが低いというのは現実の北野監督の発想であろう。

妄想レベルのメタレベルが深化を続け、最後はメタレベルが一段ずつ現実に近づいて終わるという構造も常套的ではあるが良くできている。
問題は北野武という男の妄想にどれだけ付き合えるか、ということでそれが好悪を分けることになるだろう。

ストーリーは余り面白くないが、映画を観ながら知的操作を楽しむには良い作品だ。ちなみに頭を使わないとわからない映画なので、ボケーッと眺めていては駄目である。

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2009年8月 2日 (日)

コンサートの記(47) 佐渡裕プロデュースオペラ「カルメン」

2009年6月28日 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

西宮に行く。兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで午後2時開演の佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2009「カルメン」を観るためである。

午後1時ちょっと前に兵庫県立芸術文化センターに着いて、今回の「カルメン」の案内展示などを見る。午後1時15分開場。

今回の「カルメン」も恒例のダブルキャストである。今日、タイトルロールを歌うのは、期待の若手メゾ・ソプラノ歌手である林美智子。出演はその他に、佐野成宏、成田博之、安藤赴美子、吉村美樹、田村由貴絵、桝貴志、松本進、大川信之、初鹿野剛、真野郁夫、ジャン=ガブリエル・デュピェイ、ドゥニーズ・マッセ(声の出演)、小林由佳、浜田和彦、二期会合唱団のメンバー、ひょうごプロデュースオペラ合唱団のメンバー、ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団のメンバーなど。

演奏は、佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団。演出:ジャン=ルイ・マルティノーティ。

毎年夏に上演される佐渡裕プロディースによるオペラ公演。今年は待望の「カルメン」である。これまでは西宮だけの上演だったが、今年は同じキャストで、名古屋と東京でも公演を行う(オーケストラは名古屋が兵庫芸術文化センター管弦楽団、東京は東京フィルハーモニー交響楽団)。

カルメンの第1幕前奏曲は2つの部分からなるが、後半が始まったところで幕が開き、台本には書かれていない結末の部分が演じられる。

舞台装置(ハンス・ジャヴェルノホが担当)は鏡や映像、紗幕などを駆使した興味深いものである。鏡の使用は実に効果的であったが、映像は時にやり過ぎと感じられるところもある。

佐渡裕の指揮は思ったよりも流れを重視。ここぞというときのダイナミックさはいかにも佐渡らしかったが、その他の部分は思いの外あっさりしている。

舞台である19世紀の風俗と現代のそれがない交ぜになった演出で、それが意外にマッチしている。例えば密輸団のアジトは現代的なバーなのだが、そこにいる人達の格好は19世紀風。しかしそれが奇妙ではない。

歌手も演奏も充実していた。だが、それ以上に「カルメン」という作品の力に感心させられる。特にラストなどは観ていて体の芯が震えて止まらなかった。やはり「カルメン」というのは凄いオペラなのである。

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京都のラーメン店(5) 「中華そば 東龍」

京都のラーメン店(5) 「中華そば 東龍」

北白川別当下がる東側にある「中華そば 東龍(とんりゅう)」。冬場には行列ができるほどの人気店です。塩ベースの東龍そばと、醤油ベースの昔ながらの中華そばがあり、どちらも美味です。京都のラーメン店としては比較的あっさりとした味付けで食べやすいです。

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