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2011年7月29日 (金)

メジャーリーグ挑戦の代償 伊良部秀輝の死

元千葉ロッテマリーンズのエースで、メジャーリーグのニューヨーク・ヤンキース、阪神タイガースなどで活躍した伊良部秀輝元投手が、27日、ロサンゼルスの自宅で死去していたことがわかった。遺体は首を吊った状態で発見され、自殺と見られる。享年42。

伊良部秀輝はその苗字からわかるとおり沖縄県の生まれ。伊良部島ではなく、宮古島の生まれである。父親は在日米軍の兵士であるが、結婚の意思はなく、伊良部は母子家庭で育つことになる。母親が職を求めたためか、生後間もなく兵庫県尼崎市に移住。そのため出身地は尼崎とされることが多い。野球留学で体育科のあった、香川の尽誠学園高校に進学。甲子園に出場し、剛速球投手として脚光を浴びる。この頃は細身であった。

ドラフト1位でロッテオリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)に入団。ロッテオリオンズ時代は球速で注目され、西武ライオンズにいた清原和博に対して投じた156キロのストレート(西武球場)は今でも有名である(その後、伊良部と清原の対決は「平成の名勝負」と謳われ、パリーグの名物となる)。しかし、本格的にチームの主軸となるのはチームが川崎から千葉に本拠地を移して以降である。

1993年5月3日の対西武戦(西武球場)で清原相手に投げた一球が、スピードガン導入後、日本最速となる158キロをマーク(その後、山口和男、五十嵐亮太が158キロをマークして日本タイ記録となり、昨年、東京ヤクルトスワローズの由規投手が神宮球場で161キロをマークして記録は更新された)。それまでの最速は、中日ドラゴンズの与田剛投手がマークした157キロだった。この年、当時の日本ハムファイターズの大沢啓二監督により伊良部クラゲと表現され、以降、「伊良部クラゲ」の名で親しまれるようになる。
翌1994年に15勝を挙げて最多勝に輝く。奪三振も最多であった。1995年には最優秀防御率賞を受賞。2年連続で最多奪三振の栄誉も手に入れる。この年、優勝を目前に控えたオリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)とのグリーンスタジアム神戸(スカイマークスタジアム)での三連戦三連勝にも登板しており、今でも語り種になっている。
1996年にも最優秀防御率賞を受賞し、押しも押されもせぬ千葉ロッテのエースとなる。
千葉ロッテの選手なので私も彼のピッチングを遠目からではあるが生で見たことがあり、150キロ台のストレートを連発してマリンの観衆を沸かせていたことを憶えている。
この頃までは記者との関係も良く、「好青年」との声があった。また、対戦相手やチームメイトからも「見かけによらず繊細な投球術」「24時間野球のことを考えている真面目な男」との評価があった。一方で、ベンチとは上手くいっていないことも周知の事実であった。

96年のオフ、前年にロサンゼルス・ドジャーズに移籍して活躍した野茂英雄の影響を受けてメジャーリーグに挑戦することを希望。ロッテ球団と争いとなる。ロッテはサンディエゴ・パドレスとのトレードを認めるが、伊良部はニューヨーク・ヤンキースへの移籍に固執。これをマスコミが「わがまま」と書いたことから、記者達との関係は暗転。記者に向かって粗暴な言葉を吐き、「俺たち友達だよな! な!」と言って記者の肩を全力で叩くなどしたため、全てのマスコミを敵に回すことになる。ロッテ球団との交渉が長引いたためトレーニングに支障が出て激太りしたことも批判の対象となった。
結局、三角トレードという不自然な形でニューヨーク・ヤンキースへの移籍を決めるが、日本の野球好きからも白眼視されるようになった。オープン戦(この時はマイナーリーグ)で159キロをマークしたとされ、ヤンキースのワンマンオーナーであるスタインブレーナーから賞賛されるが、日本マスコミや野球ファンは「スピードガンの故障」「話題作り」などと否定的だった。伊良部本人も調整段階のオープン戦で自己最速タイ(1994年7月19日に西武球場で行われたオールスター戦で159キロを出しているが、公式戦ではないので除外されている)が出たことに疑問を持ち、「本当に出たの?」と懐疑的な発言をしている。
旧ヤンキースタジアムでの初登板で初勝利を挙げ、スタンドからの拍手にベンチで立ち上がり、脱帽して応えるなど出だしは順調。メジャー挑戦者の先輩である野茂英雄との関係も良好であった。しかし、「日本最高の投手」「野茂英雄以上」という前評判ほどには成績が上がらず、KOされてベンチに戻る際にファンに唾を吐いたことが「許し難い冒涜」としてやり玉に挙がる(伊良部は「ファンではなく、審判に唾を吐いた」と釈明)など、フロントやファン、英語を覚えようとしないことからチームメイトからも悪評を受けるようになり、「稀代のヒール」に成り下がって、カナダのモントリオール・エクスポス(のちにモントリオールから撤退して、アメリカの首都ワシントンD.C.を本拠地とする、ワシントン・ナショナルズとして再スタート)に移籍する。その後、テキサス・レンジャーズに移籍するが、いずれの球団でも注目に値する成績を残すことはなかった。

2002年のオフに帰国し、阪神タイガースに入団。翌2003年に13勝を挙げて阪神優勝に貢献する。帰国後初勝利のヒーローインタビューでの「甲子園は世界一です」との言葉は例えリップサービスだったとしてもメジャー経験者のものとして説得力があった。
翌2004年は怪我で不振に終わり、オフに戦力外通告を受ける。伊良部は阪神球団と粘り強く交渉を続けていたが、突然、怪我が治らないことを理由に引退することが明らかになり、渡米して実業家に転身する意志が伝えられた。

しかし、2008年8月、渡米していたはずの伊良部は大阪市内のバーで暴力事件を起こして逮捕され、世間を驚かせる。この時、アメリカでの、うどん屋チェーン店経営に失敗していたことが判明する。バーでは灰皿を投げつけ、「150キロの灰皿」などと揶揄されることになった。

いずれの球団でもフロントやベンチと上手くいかなかった伊良部には指導者の道など開けるはずもなく、2009年に投手として米独立リーグに復帰することを選択。実はこの年の登板で150キロをマークしており、年齢やブランクを感じさせない驚異的な身体能力の持ち主であることを証明している。同年夏に日本の独立リーグである四国・九州アイランドリーグの高知ファイティングドックスに移籍。しかし、怪我で2試合の登板に留まり、再引退を表明した。

その後、アメリカで交通事故を起こすなど、醜聞が伝わってきた他は、消息はようとして知れなかったが、このたびの自殺で波乱の人生に幕が下ろされた。

素行の悪さは早くから指摘されており、高校時代にレイプ事件を起こしたという噂がある。このことから真の味方も少なく、高額の年俸も事業に失敗してふいにしてしまった可能性が高く、実業家としては一度失敗していることから再チャレンジは不可能に近く、かといって、メジャー移籍の際に日本の全マスコミを敵に回し、アメリカのマスコミからも受けが悪かった伊良部が野球解説者などに転身することは絶望的であった。

もう道はなかったのかも知れない。

進退窮まっての死は、11年前の高野光の飛び降り自殺を連想させる。

「もし、たら、れば」はないがもし伊良部がメジャー移籍を希望せず、日本でのプレーを続けていたなら違う未来があったのかも知れない。マスコミと犬猿の仲になることもなく、日本を代表するピッチャーとしてヒーローでいられたのかも知れない。だがそうはならず、近年の球界を代表するヒールのイメージのまま生涯を終えた。

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