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2013年6月の5件の記事

2013年6月24日 (月)

コンサートの記(91) レイフ・セーゲルスタム指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第465回定期演奏会二日目

2013年2月8日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時からザ・シンフォニーホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第465回定期演奏会を聴く。本当は今日だけ聴く予定だったのだが、昨日間違えて、ザ・シンフォニーホールまで行ってしまい、仕方なく当日券で公演を聴いたのだ。大阪フィルハーモニー交響楽団は、同一プログラムを2回演奏するのが大植英次が音楽監督になってからの慣例なので、昨日と同じ曲目を聴くことになる。

レイフ・セーゲルスタムの指揮。曲目は、グリーグのピアノ協奏曲(ピアノ独奏:小山実稚恵)、セーゲルスタムの交響曲第248番「Errorings of Mirrorings...」、シベリウスの交響曲第5番。

開演の前にプレトークがある。他の楽団はステージ上にマイクを持った当日の指揮者や音楽評論家がプレトークを行うのだが、大阪フィルの場合は2階ホワイエの一部を用いて、大阪フィルの事務局員が曲目の紹介と質疑応答などを行う。演奏事業部部長の福山修氏による曲目の紹介が行われ、セーゲルスタムの交響曲第248番はパートごと、部分ごとに複数の旋律が用意されていて、どれを選ぶかはオーケストラの団員に任されており、結果、オーケストラによって同じ曲が全く別のものになるのだという。
質疑応答。実は昨日も私はプレトークが行われているのを確認しており、その際、大植英次の後任が誰になるのかという質問がなされていたのを聞いている。昨日は軽食を取るため、最後まで話を聞かないで通り過ぎてしまったので、同じ質問を私から福山氏にしてみる。福山氏によると後任を探す作業は行われているが、朝比奈隆、大植英次という伝統を受け継げるだけの指揮者を探しているために時間がかかっているとのことだ。大指揮者から選ぶのか、それとも若い指揮者を抜擢して共に成長する方光を選ぶのかという質問もしてみるが、両方とも大事にしたいという答えだったので、後任はまだまだ見つかっていないようである。そもそも大植英次の後任として万人が納得する指揮者というと大野和士ぐらいしか思い浮かばないが、大野さんが大フィルのシェフを引き受けるとは思えない(後記:大野和士は2015年4月に東京都交響楽団の音楽監督に就任することが2013年5月31日に決定した。フランスのリヨン国立歌劇場の音楽監督との兼任になると思われ、大野が大阪フィルの次期シェフになる可能性は事実上消滅した)。ちょっと異色ながら上岡敏之という手もあるが、上岡さんも大フィルの指揮者になる可能性は低そうである。
個人的には元大フィルの研究生で、若い下野竜也を抜擢して、ともに成長していくという路線が一番納得がいくのだが、こればかりは私が意見してもどうなるものでもない。

今日は指揮者と対面する席での鑑賞である。指揮者と対峙する席は音が散るというデメリットがあるが、指揮者の指示を観察することが出来る、音が立体的に聞こえるという利点もある。今日は下手端の席だったので、ピアノ独奏の小山実稚恵の手の動きを見ることも出来た。

同じ演奏家による演奏なので、急に変わるはずはないが、こちら側の席が変わると、別物に聞こえる。これがライブの良さでもあり、難しさでもある。

グリーグのピアノ協奏曲では、昨日感じたオーケストラのもっさりした感じは受けず、終始、抒情に満ちた演奏に聞こえた。小山美稚恵の超絶技巧も冴えに冴えており、昨日よりは力強さが勝った感じに聞こえた。

小山がアンコールで弾いた、セーゲルスタムの「SEVEN QUESTIONS TO INFINITY」も、小山の手元が見えたので、あの独特の音楽がどうやって生み出されたのかを知ることが出来た。また、最後の鍵盤以外の部分を叩いて出す音は、最初にピアノの右端を叩いてから蓋を閉じ、蓋を叩くという奏法であることがわかった。

 

セーゲルスタムの交響曲第248番「Errorings of Mirrorings...」。昨日聴いたときはどう評価していいのかよくわからなかったが、二日連続で聴くと、独特の美しさを持った曲であることがわかった。繰り返される音の波から不思議な幻想美が浮かび上がる。ただ、ラストでのコンサートマスターによる音階の上昇旋律はなかったので、昨日とは違う譜面で演奏されたのかも知れない。

 

シベリウスの交響曲第5番。昨日とは違って、骨太の演奏に聞こえる。弦の音の時に涼やかで時に透明だ。この曲はホルンが重要で、大フィルはホルンが弱点だったのだが、昨年、若い女性奏者が入ってからホルンも安定した演奏をするようになった。メンバー表によると蒲生絢子という奏者である。逸材なのかも知れない。
今日も充実したシベリウスの演奏。ただ、セーゲルスタムは昨日のように両手を広げて客席からの喝采に応えることはなく、一通りメンバーを立たせると、解散を命じ、コンサートは終了となった。

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コンサートの記(90) レイフ・セーゲルスタム指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第465回定期演奏会初日

2013年2月7日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、ザ・シンフォニーホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第465回定期演奏を聴く。大阪フィルは同一プログラムで2回公演を行っており、私は初日のチケットを取ることが多かったので、今日もそのつもりで行ったら、実は取っていたのは明日の券であったことが入り口で判明。思い込みは怖ろしいもので、今日だと信じて疑わず、チケットもよく確認していなかった。馬鹿である。

そのまま帰ろうかと思ったが、交通費がまるまる無駄になってしまうので、当日券を取って聴こうと、戻る途中のJR大阪駅バスターミナルで思い直し、二日連続で公演を聴くことにする。メインがシベリウスの交響曲だったというのも大きい。ベートーヴェンかシベリウスの交響曲なら二日同じコンビを聴いても飽きはこないだろう。それに明日体調が良いという保証もない。

大阪フィルの公演は俗にP席(ポディウム席、若しくはパイプオルガン側席の略とされる。基本的に安い席だが、西本智実が指揮台に立ったら、容姿目当ての聴衆が増えてプレミアム席になるという冗談があり、それがなんと現実のものとなってしまったことがある)で聴くのだが、明日P席に座ることはわかっているので、今日は正面の席を選ぶ。ピアノ協奏曲がプログラムにあり、正面席ならピアノの音が直接届くというメリットもある。

 

今日の指揮は、パーヴォ・ベルグルンド亡き後、世界最高峰のシベリウス指揮者と目されるフィンランド人指揮者、レイフ・セーゲルスタム。容貌魁偉という言葉がピッタリくる指揮者である。

プログラムは、グリーグのピアノ協奏曲(ピアノ独奏:小山実稚恵)、セーゲルスタムの交響曲第248番「Errorings of Mirroring.s..(鏡に映された歪み...)」、シベリウスの交響曲第5番。

大植英次の音楽監督時代にコンサートマスターとして大フィルの顔であった長原幸太は大植と共に今年3月いっぱいで大フィルを去り、今日は首席コンサートマスターの崔文洙(チョ・ムンス)がコンサートマスターを務める。大フィルのコンサートマスターはこの4月から3人制で、崔の他に特別客演コンサートマスターとして田野倉雅秋が、コンサートマスター(コンサートミストレス)として渡辺美穂がそれぞれ就任している。ちなみに昨年の3月に山田和樹の指揮で大フィルのコンサートを聴いたときにはコンサートマスターは女性だったのでおそらく彼女が渡辺美穂だったのだと思われる。

グリーグのピアノ協奏曲のソリストである小山実稚恵は現在、名実共に日本人女性ピアニストのトップに君臨する人。よく中村紘子を称して「日本人ピアニストの女王」と呼んだりするが、現在の実質的な日本人ピアニストの女王は小山実稚恵であると思って間違いない(日本国籍であるが、欧州生活が長く、中身はヨーロッパ人の内田光子は例外とする)。

情熱的な演奏が特徴の小山は、冒頭から鋭いテクニックを披露。一音一音を的確に捉え、現前に峻険なフィヨルドが屹立する様が見えるかのよう。小山はペダリングにも特徴があり、他の奏者に比べてダンパーペダルの使用が少ない。力強い演奏であるが、力任せの演奏ではなく、弱音には寂しさが滲み出ていて特徴的である。第1楽章のカデンツァではテンポを遅めに取り、じっくりとした演奏を聴かせた。第2楽章でも音の煌めきは目立ち、第3楽章ではテクニックが冴える。

肥満体のため椅子に座って指揮する(おそらく力士よりも体の面積は大きい)セーゲルスタムの棒に応えて大阪フィルはヒンヤリとした音を出すが、どこかもっさりしているのが大フィル風である。

小山実稚恵はアンコールとして、セーゲルスタムの「SEVEN QUESTIONS TO INFINITY」を弾く。同じような音型を繰り返すことで音が泉のように湧き出るかのように聞こえ、最後はピアノの鍵盤以外の部分を叩くという異色のピアノ曲であった。

セーゲルスタムの自作自演、世界初演となる交響曲第248番「Errorings of Mirrorings...」。舞台下手端と上手端にそれぞれ一台ずつ蓋を完全に開けた状態のピアノが置かれ、ピアノ奏者は距離を隔てて対峙する格好となる。下手側のピアノソロを務めるのはセーゲルスタムで、指揮台には指揮者がいない状態で演奏される。ピアノ同様、ハープも上手端と下手袖に一台ずつ置かれ、打楽器としてハンマーを用いたり、ミュージカルソー(鋸)が使われたりと、編成からしてユニークな曲である。それにしても、第248番という番号は凄い。交響曲の父と呼ばれるヨーゼフ・ハイドンの番号付き交響曲は第104番までなので、その倍以上の数の交響曲をセーゲルスタムは書いていることになる。248曲も交響曲を書いた作曲家は他にいるのか? ひょっとしたらセーゲルスタムが世界最高記録保持者なのかも知れない。

まず打楽器が盛大に打ち鳴らされ、弦も管も激しい音を奏でて、マグマのようなカオスが生まれる。ハンマーが打楽器として使われ、何度も重い音が響く。やがて弦楽器が不安定な旋律を奏で始め、鏡に映された歪みを描写する。ミュージカルソーが独自の音を奏でる。フルート奏者とピッコロ奏者が立ち上がるという、視覚的オーケストレーションもあり。再度盛り上がった後で、最後はコンサートマスターが音階を奏で、二台のピアノがそれに呼応して終わる。

クラシックでは、歴史的傑作の初演が大失敗に終わるという例に事欠かないので、この曲が成功作なのかどうかは判断出来ない。ただ、独自の音世界を作り上げていたのは確かである。

 

メインのシベリウスの交響曲第5番。セーゲルスタムは「シベリウス交響曲全集」を2度録音している。最初はデンマーク国立放送交響楽団を指揮したもので、水彩画のようなあっさりとしたシベリウスである。だが、二度目の「シベリウス交響曲全集」、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したそれは、絵の具をたっぷり使った油絵のような濃い演奏で、とても同じ指揮者によるシベリウス演奏とは思えないほどだった。

ということで、今回はどんなアプローチで来るのかと色々想像を巡らせていたが、二つの録音の丁度中間、基本的には濃くはないが、アッチェレランドなどは激しい(特に第1楽章最後の追い込み)という演奏で来た。
大フィルの音にはグリーグ時に感じたもっさりした感じが影をひそめ、時に水晶のように冷たく、時に春風のように暖かい音が奏でられる。大フィルの弱点である金管も充実した響きを奏で、高水準のシベリウスを楽しむことが出来た。

演奏終了後、セーゲルスタムは両手を広げて、客席からの喝采に応えた。

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コンサートの記(89) ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団第648回定期演奏会 「シベリウス・チクルスⅠ」

2013年3月15日 東京・溜池山王のサントリーホールにて

午後7時から、東京・赤坂のサントリーホールで、日本フィルハーモニー交響楽団の第648回定期演奏会に接する。フィンランド出身で日フィル首席客演指揮者のピエタリ・インキネンによるシベリウス・チクルスの第1回である。

曲目は、シベリウスの交響曲第1番と第5番。まずは他のコンサートでも良く取り上げられる曲で勝負してきた。

日本フィルハーモニー交響楽団は、創設に関わり長きに渡って関係を保ち続けた日本とフィンランドのハーフである指揮者、渡邉暁雄が好んでシベリウスを取り上げたという歴史を持っており、世界初のステレオ録音によるシベリウス交響曲全集、世界初のデジタル録音によるシベリウス交響曲全集を発表したのはいずれも渡邉&日フィルのコンビである。
ということで、シベリウスの演奏に関しては、日フィルも自信を持っている。

サントリーホールに来るのはおそらく15年ぶり。内装も「こんな感じだったかな?」と記憶が朧気である。残響が長いのが特徴だが、響き自体は大阪のザ・シンフォニーホールの方が良いと思う。

ピエタリ・インキネン指揮日本フィルハーモニー交響楽団第648回定期演奏会 「シベリウス・チクルスⅠ」

交響曲第1番。スマートな演奏だ。日フィルは東京のオーケストラの中では上位とは呼べないが、シベリウスの演奏に関しては流石である。インキネンの大風呂敷を広げすぎない解釈も良い。

交響曲第5番は、先月、レイフ・セーゲルスタム指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏で聴いたばかりだが、セーゲルスタムのシベリウスを表現美のシベリウスとすると、インキネンのシベリウスは解釈美のシベリウスだ。スケール壮大なセーゲルスタムに比べるとインキネンは細部のアンサンブルを重視しており、造形の確かなシベリウスを確立していた。

「シベリウス・チクルスⅡ」の感想は右下にある「コンサートの記」ではなく、「シベリウス」のカテゴリーをクリックして御覧下さい。

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2013年6月14日 (金)

低成長時代の消費者努力 AKB選抜総選挙というビジネスモデル

結果が全ての社会になりつつある。ある程度努力すれば何とかなるという時代は終わった。また結果が出なくても努力の過程が認められるということも少ない。これは今に始まったことではない。だから昔から力はあっても、結果が全てという社会に嫌気がさして進んで降りてしまう人(明治時代の小説家にはこのタイプが多い)、努力の嘘に気づいてグレてしまう人、結果が出せなくて鬱になってしまう人は昔からいた。だが、これまでは「頑張っているから」ということで認められることも多く、昨今ほど殺伐とした社会ではなかったように思う。

努力が結果に結びつくまでには時間が掛かる。簡単に成し遂げられることを人は努力とは呼ばない。だが、努力した結果が成功に結びつくとは限らない。残酷な話だが、努力と結果が常にリンクするような人は100人に1人か2人である。

「これだけ努力したのに」「あの努力は何だったの」と思う人は実は多数派なのだ。

これに反して、ちょっと努力をすれば結果に結びつき易いものというのが社会には存在する。
AKB選抜総選挙はその最も代表的な例だ。AKBグループのメンバーが自身の魅力をアピールし、ファンは直前に発売されるシングルCDに1枚挿入されている選挙用紙を投票するとことで好きなメンバーの順位を上げることが出来る。ただ、CDを何枚買っても、何枚投票しても有効というところに、巨額の金を生むシステムが機能している。
例えば、好きなメンバーにお金を渡してもそれを努力だと思う人はいない。逆に意地汚い奴だと軽蔑されるだけである。しかし、投票券というものが介在することにより、あたかも「たくさん投票した」「たくさんお金を使った」ことを「努力した」と勘違いしやすい土壌が出来上がる。そして、たとえばお気に入りのメンバーの順位が上がればメンバーの努力もさることながら、投票した人自身の努力も認められたような気になる。そして同じ推しメンを持つ仲間同士で、応援を努力として分かち合うことも出来るのだ。実際はお金を使っただけなのだが、投票券が間に入ることで、「お金を使った」というやましさも中和される。

AKBグループのメンバーは総選挙で上位に入るために常に努力を怠らない。もちろん、例外はいる。しかし、ファンの人が認めてくれれば、それは努力が認められたということになるのだ。AKBグループのメンバーも得票は努力の結果だと思う。お金を大量に消費させたという罪悪感を持つほど知恵のまわるメンバーは余りいないだろう。つまり、ファンもメンバーも「努力が認められた」という点において一体感を得ることが出来るのであり、単にお金儲けの道具にされたとは考えないだろう。

低成長で努力が認められにくい時代にあって、努力という名の消費が結果に反映される。スピードと効率化をキーワードに、本来ならなかなか努力が実らない分野であっても早急に結果を出すことが求められる社会である。そんな社会にあって、AKB選抜総選挙は消費が努力と名を変えて認められやすいという、搾取する側とされる側がどちらも偽りの幸福に浸れるというビジネスモデルなのである。

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2013年6月 9日 (日)

指原莉乃 アイドル界の革命児

初めに記しておくが、私はAKBのファンではない。AKBのCDも持っていないし、ましてやグッズも所持していない。カラオケのレパートリーにAKBの曲は何曲か入れているが、それは確実に受けるからであって好きだから歌っているわけではない。AKBの楽曲は歌唱力はさほど必要とせず、聴き映えがするという音楽的には最も優れたものが多い。もっとも秋元康は歌詞の書きすぎで年々クオリティが下がっているのは否めないが。

そんなAKBファンでもない自分でも、メンバーの中には注目に値する人物が数名いることはわかる。いわゆる天才に分類される子もいる。天才というのはありふれた存在ではないため、私が本当の天才だと確信しているのは約1000倍といわれるオーディションを勝ち抜いた猛者揃いのAKBグループ中でも3人だけだ。才能のある順に、松井珠理奈、高橋みなみ、そして指原莉乃である。

今日は、AKB総選挙で1位になった指原莉乃について書いてみたい。

指原莉乃はAKBの中でも異色の存在だ。敢えて美人は揃えないという方針のAKBグループの中にあっても、指原は美人の部類からは遠い存在である。ただ、これまでもAKBの裏エースとしての活躍はあった。かつてのAKB48の二枚看板である前田敦子や大島優子さえ持てなかった、自分がメインのバラエティー番組を持っていたこと(「さしこのくせに」。関東ローカルのため私は見たことはない)、そして指原をモデルにした漫画が存在するなど、実質的にはこれまでもAKBの看板の一人だった。

指原の武器は何といってもAKB随一といわれるトーク力だ。バラエティ番組にはAKBの代表として参加することが多かった。バラエティ番組でアイドルというと、どちらかといえばお飾り的になることが多いのだが、指原の場合は自ら率先して笑いを取りにいっていた。

もちろん、これまでにも容姿よりもトーク力を武器にしてきたバラエティアイドル、いわゆるバラドルはいた。だが、指原はバラドルとも違う。全く新しいタイプのアイドルなのだ。

アイドルというと、多芸多才を売りにする場合も多いが、指原はトーク力以外には芸らしい芸は持っていない。アイドルオタクでアイドルには詳しいらしいが、それは武器にはならない。そんな指原の特徴はとにかくビビり、臆病であるということだ。そのためか秋元康がいうように「何をやってもことごとく駄目」であり、「へたれ」というアイドルらしからぬレッテルを張られることになる。しかし、指原が凄いのは「へたれアイドル」というニュージャンルを確立しつつあるということだ。「へたれアイドル」などと呼ばれるアイドルはこれまでの芸能史の中には存在しなかった。いや「へたれアイドル」に該当する人物は存在していたかもしれないが売れないアイドルとして終わっていた。しかし、指原は駄目な自分を隠さないことで、逆に男性の本能をくすぐるということに成功した。多くのAKBファンは思ったはずだ。「この子には俺がついていないと駄目だ」と。

しかし、指原はそれほど弱い存在ではないし、かといって強靭な精神力の持ち主でもない。

男性絡みのスキャンダルもネタにしてしまうほどの強かさを持ちながら、ネガティブ発言の数々で、「前へ前へ」というアイドルに必要とされる押しの強さが中和される。アイドルらしからぬ子がアイドルになっている。

もちろん、AKBグループの一員であったからこそ、現在の人気を勝ち得たのは事実だ。だが、AKBグループの中でも序列はあり、指原のようなタイプは普通なら総選挙で1位を獲れるとは考えにくい。しかし指原は1位を取るほどの人気を勝ち得た。

これまではアイドルと言えば顔が命であった。しかし指原はそんな常識をいとも簡単に覆してみせた。指原こそがアイドル界の革命児である。

昨今、容姿偏重主義が跳梁跋扈しているとしかいえないような勢いで浸透している。しかし指原はそんな風潮にアンチテーゼを掲げる。本人は無意識のうちに。

トーク力に秀でていること、己の弱さを隠さないこと、それでいて強かであること。この絶妙の「アンバランス」さこそが指原の魅力だ。

指原莉乃は英語が得意である。AKBのオーディションに合格出来なかったらアメリカに語学留学に行く予定だったと聞いている。一方、数学は大の苦手で一桁の計算でも間違うほどだ。学力でもアンバランスなのである。

しかし、そんなアンバランスな状態の人物に人は惹かれる。アンドリュー・ワイエスが敢えてバランスの悪い構図で画を描いたように、アンバランスさには「見ていなければ危うい」という気持ちを人々に抱かせ、結果として視線が対象物に向かうことになる。

そしてそれが計算されたものでないからこそ、指原は天才の称号に値するのである。
指原の持つ強さと弱さのアンバランスさは見ているものをハラハラさせる。そんな「放っておけない」駄目な子が人気を集める。優秀なサラリーマン製造のためにバランスの取れた人間になるよう教育を施された日本人に対して、指原はここでも無意識にアンチテーゼを掲げてみせる。とにかく指原というのは凄い存在なのだ。

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