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2013年8月30日 (金)

観劇感想精選(99) 加藤健一事務所 音楽劇「詩人の恋」2011京都公演

2011年11月5日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、加藤健一事務所の音楽劇「詩人の恋」を観る。加藤健一と畠中洋による二人芝居である。作:ジョン・マランス、テキスト日本語訳:小田島恒志、歌詞日本語訳:岩谷時子、演出:久世龍之介。
「詩人の恋」は加藤健一事務所の代表作の一つで、数々の賞に輝いている。NHK教育テレビ(Eテレ)で放送されたこともあり、私も観ているが、まがう事なき傑作であった。「詩人の恋」は何度も上演されているが、京都では京都会館での京都労演のための上演しか行われていないはずである。それが今回は京都公演があると知り、欣喜雀躍した。欣喜雀躍とはこういうことをいうのかと思った。

 

 

舞台はオーストリアの首都で音楽の都ことウィーンである。かつて神童と謳われたアメリカ人ピアニスト、スティーブン(ドイツ語読みだとステファン。畠中洋)は深刻な芸術的危機状態にある。もう1年以上もの間、満足のいくピアノが弾けず、リサイタルを開いていないのだ。そこで、スティーブンはドイツのミュンヘンにいるシラー教授に教えを乞おうとしたのだが、シラー教授はウィーンのマシュカン教授(加藤健一)に教わるようスティーブンに告げたようで、スティーブンはマシュカン教授のもとを訪れる。マシュカン教授は優れたボイストレーナーだが、盛りは過ぎており、ピアノもミスタッチが多い。

ピアノを教わるものだと思っていたスティーブンだが、マシュカン教授はスティーブンにロベルト・シューマンの連作歌曲「詩人の恋」を歌うようにいう。なぜ歌わなければならないのかと反発するスティーブン。マシュカン教授のピアノが上手くないので自分でスラスラ弾いて見せたりする。スティーブンは、「ウラディミール・ホロヴィッツ」、「アルフレッド・ブレンデル」、「グレン・グールド」といった名ピアニストの真似まで披露。グレン・グールドに関してはノンペダルで、鼻歌までコピーするという念の入れようである。しかし、肝心のスティーブンの本人のピアノは…、というのが鍵である。

スティーブンは実はユダヤ人であるが、他の人には自分はWASPだと言うことにしているらしい。しかし、マシュカン教授には事実を打ち明ける。「ユダヤ人が悲劇的な歴史を持っているからといってそれがどうした。ドイツもオーストリアも歴史上、何度も侵略されている。だから本当の痛みや悲しみがわかる。イギリスはそうではない。侵略された歴史がないから。だからイギリスからは優れた作曲家は生まれない。日本という国も同様だそうだ(日本に関しては明らかに加藤健一事務所の上演のために付け加えられたものである)」というマシュカン教授。「アメリカには侵略の歴史はありませんね」というスティーブンだが、「アメリカには人種差別がある」というマシュカン教授の言葉にハッとして、自分が差別されるユダヤ人であることを告げたのだ。ユダヤ人は経済ではアメリカを牛耳っているが、政治の世界では今なお閉め出されている。アメリカの歴代大統領でWASPでないのはジョン・フィッツジェラルド・ケネディとバラク・フセイン・オバマの二人だけである。ハリウッドでもかつては差別があり、ユダヤ人俳優はWASP風の芸名を用いるのが普通であった。ユダヤ人にも優れた音楽家はいるというスティーブン。ウラディミール・ホロヴィッツやレナード・バーンスタインの名前を挙げるが、マシュカン教授は彼らは偉大ではないと否定する。それでも「マーラーはどうですか」とスティーブンは食い下がる。

マシュカン教授にウィーン国立歌劇場で「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「道化師」のオペラ二本立てをやっているので観に行くように薦められるスティーブン。最初は観に行ったと嘘をついたのだが、本当に観に行くとすっかりとりこになってしまったようで、「道化師」の有名ナンバー“衣装を纏え”を歌いながらマシュカン教授の部屋を訪れ、ピアノで“衣装を纏え”を弾くなど上機嫌である(作者は“衣装を纏え”を敢えて選んでいると思われる)。ウィーン国立歌劇場が昔ながらのままの姿を留めていることに感心するスティーブンであったが、マシュカン教授はウィーン国立歌劇場は戦災で焼け落ちており、現在のものは1955年に往年の形そのままに再現されたものだと告げる。ウィーンの人間にはそうしたところがあるのだという。

最初は「詩人の恋」を歌うことに抵抗を示したスティーブンだが、「詩人の恋」の詩と曲に含まれたメッセージ(詩はユダヤ人のハインリヒ・ハイネによるもの)にマシュカン教授の助言を得て徐々に開眼していく。

だが、シラー教授のもとを訪ねるために、ミュンヘンに行った際、近くにあるダッハウ強制収容所跡を訪ねたスティーブンはこれまでドイツ語圏の美点だと思ってたことが実はそうではないことに気付く。ダッハウ強制収容所跡はミュンヘンから電車で約20分の距離にあった。スティーブンはまさか大都会であるミュンヘンのすぐ近くに強制収容所あるとは想像しておらず、しかも、ダッハウ強制収容所跡が綺麗に整備され、案内もドイツ語のみで、外国人には読めないようになっており、本当に悲惨なことが行われていた場所には入ることが出来ず、おまけにダッハウ強制収容所跡から出るときに「バイエルン地方の自然をお楽しみ下さい」というパンフレットを受け取って、それにはドイツ語だけでなく英語なども記されていたことを告げる。あなた方ドイツ語圏の人間は表面を取り繕っているだけだとマシュカン教授を批難するスティーブン。しかし、マシュカン教授は自分の左手をスティーブンに見せた。そこにはアウシュビッツ強制収容所に送られたものだけが刻まれた入れ墨があった。マシュカン教授もまたユダヤ人であり、ユダヤ人が悲劇的に振る舞うのをよしとせずに、誰かがユダヤ人の悲劇を語ろうとすると、それを敢えて否定していたのだ。ユダヤ人の悲劇は刺激が強すぎるからである…

音楽論として、芸術論として、歴史論として、あらゆる角度から見ても完成度が高いという傑作中の傑作である。加藤健一も畠中洋も子供の頃からピアノを習っていたわけではないが、この劇のために特訓してピアノが弾けるようになっている。実は私もピアノを独学でやっており、プロになるなら話は別だが、ピアノを弾くこと自体はそれほど難しいわけではないということはわかっている。それでもステージ上で披露して恥ずかしくないだけのものに腕を上げた俳優にはまず敬意を表するべきである。そして演技はもう達者を通り越して、演技を演技と感じさせない領域にまで達している。更に声楽も専門家の指導を受けて、10年以上も訓練しているということで、我々はプロ中のプロの技に出会うことになる。

スコアや詩の隠された意味を説き明かす過程はスリリングであり、ラストの歌の途方もなく大きなメッセージ、そしてそれに続くピアノ独奏の意味などが明かされていく場面には心から感心してしまう。ちゃんとした音楽と文学の両方の素養がないと書けない類の本であり、役者も演出もきちんとわかっていないと上演不可能な作品である。

これほど偉大な劇作品にはそうそう出会えるものではない。

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