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2013年11月 9日 (土)

コンサートの記(108) ウラディーミル・フェドセーエフ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第468回定期演奏会

2013年5月23日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時より、ザ・シンフォニーホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第468回定期演奏会を聴く。今日の指揮者はロシアを代表する名匠、ウラディーミル・フェドセーエフ。

プログラムは前半がハイドンの交響曲第91番「熊」、後半がチャイコフスキーの交響曲「マンフレッド」という、いささか地味なもの。少なくとも共に人気曲ではない。クラシックファンでもCDを持っている人の方が少ないのではないかと思えるほど、演奏、録音共に行われる回数は少ない。

ということもあってか、今日のザ・シンフォニーホールはいつもより空席が目立つが、フェドセーエフの指揮だから「熊」と「マンフレッド」でもこれだけ客が入ったとも言える。

前半のハイドンの交響曲第91番「熊」。フェドセーエフはロシアの指揮者としては最も洗練された音楽を引き出す指揮者の一人だが、オーケストラは大編成、演奏は完全なロマンスタイルで、ピリオドアプローチなどは眼中にないようだ。以前、同じザ・シンフォニーホールで、同じくロシアを代表する指揮者であるゲルギエフ指揮のモーツァルトを聴いたことがあるが、ゲルギエフもまた、「ピリオドなんて知ったことか」という風にロマンスタイルで通していた。ロシアではピリオドはまだ異端なのかも知れない。

今日のフェドセーエフは前後半ともにノンタクト、楽譜を見ながらの指揮である。

大編成で奏でられるハイドンはフェドセーエフの洗練された音楽性もあり、ゴージャスな音色に彩られ、小編成での演奏やピリオドが普通になった今では旧来のこうしたアプローチが逆に新鮮に感じられる。今日の大フィルは絶好調。特に弦の滑らかな響きは、食べ物に例えると実にジューシーで、口元が弛みそうになる。

 

後半、チャイコフスキーの交響曲「マンフレッド」。チャイコフスキーの交響曲第4番と第5番の間に書かれた交響曲であるが、正式には交響曲(交響詩)「マンフレッド」で、交響詩として扱うこともあるようだ。そのため、チャイコフスキーの交響曲全集にも「マンフレッド」は入っていないことがある。というよりも全部を調べたわけではないが、入っていないことの方が多いと書いた方が適当かも知れない。
余り知られていない交響曲なので前書きが長くなる。興味のない方は飛ばして読んで頂きたい。


チャイコフスキーは交響曲第4番を書き上げた後なかなか交響曲第5番を発表することが出来なかった。期間は10年以上にも及び、これにはスランプ説、躁鬱病説などがあるが、作曲自体が出来なかったわけではなく、「弦楽セレナード」、「イタリア奇想曲」、序曲「1812年」、4つの管弦楽組曲などを作曲している。ただ、「弦楽セレナード」や管弦楽組曲の数曲はメロディーの美しさで知られるが、「イタリア奇想曲」も序曲「1812年」も現在では「通俗名曲」、はたまた駄作と見る向きもあり、創作活動は決して順調ではなかったことがわかる。

交響曲「マンフレッド」はその逆風の期間とも言うべき時期に書かれたが、初演は決して成功とはいえず、チャイコフスキー自身も自信を喪失し、曲を取り下げようとまで考えたという。曲の取り下げは何とか免れ、楽譜は今日まで残り、表題交響曲として「マンフレッド」を高く評価する人もいる。フェドセーエフもその一人である。ただ世間一般の評価はなかなか覆らないものである。
私自身は演奏さえ良ければまずまずの出来と評価したいが、演奏が良くないと聴き映えがしないことも確かで、「マンフレッド」のCDは何種類か持っているが、良い演奏としてすぐ浮かぶのはチャイコフスキーを得意とする小林研一郎が名古屋フィルハーモニー交響楽団を指揮したCDぐらいである。実演にも接したことがあるが、今は歴史の長さだけが取り柄になってしまった上海交響楽団の演奏ということもあり、「チャイコフスキーでもこんな冴えない曲を書くのか」と感じたことを憶えている。

実際問題として、作曲家にとって交響曲第5番を書くということは大変なプレッシャーを伴う作業である。何といっても交響曲第5番にはベートーヴェン作曲という超大物が存在し、それと比較されることは免れないからだ。実際、有名な交響曲第5番はベートーヴェンのものになぞらえて、「苦悩から勝利へ」という筋書き設定がなされたものが多い。ショスタコーヴィチのものが最も有名だが(ただ、現在では第4楽章が本当に勝利の凱歌であるのかどうか疑問視されている)、プロコフィエフ、そして苦悩こそないが最後にささやかな凱歌が奏でられるシベリウスもこの系統に入るだろう。葬送から生の充実という筋書きを持つマーラーの交響曲第5番も入れても良いかも知れない(実際、冒頭でトランペットが奏でる「タタタター」という旋律はベートーヴェンの俗に言う「運命主題」のパロディーだと思われる)。
チャイコフスキーもそのような交響曲を書きたかったし、実際に書いたのだが、完成させるまでに長い空白がある。この間にチャイコフスキーが「霊感がわかない」「才能が枯渇したのではないか」などという苦悩の手紙を弟に書いたことがわかっており、その後、「霊感が浮かんだ」という、フォン・メック夫人(チャイコフスキーのパトロンでありながら終生一度も顔を合わすことなく、文通のみを頻繁に交わしたという不思議な関係を続けたことで知られる富豪の女性である)宛の手紙も残っている。

交響曲「マンフレッド」もあるいはチャイコフスキーは交響曲第5番として構想したのかも知れないが、最終的にチャイコフスキーはこの交響曲に番号を与えなかった(結果として名作として名高く、また「苦悩から勝利」への筋書きも備えた作品が交響曲第5番となった)。

 

さて、肝心の演奏の中身であるが、流石はフェドセーエフというしかない。冒頭の苦悩の表情、第2楽章と第3楽章の豊かな広がり(第3楽章にはビートルズの「ノルウェイの森」に似たメロディーが登場する)、そして最終楽章の威力と最後に繰り返される苦悩(フェドセーエフは西欧でよく用いられるパイプオルガンを使った救いのコラールがあるものではなく、チャイコフスキー自身が書いた「原典版」の楽譜を使用している。原典版は、チャイコフスキー自身が第4楽章が長すぎるためカットすることにした版などと言われるが詳細は不明らしい。原典版は苦悩の再現のみで終わり、救いはない)の切実さなど、どの楽章をとっても肉に血の通った優れた演奏を示す。ロシアの指揮者らしく、金管を思いっきり咆吼させるが、バランスが崩れることはなく、また大阪フィルの金管群も力強い演奏でフェドセーエフの指揮に応える。これまで私が聴いたCDや実演のどれよりも高いレベルにフェドセーエフは作品を昇華させることに成功していた。
曲自体はやはり、後期三大交響曲(交響曲第4番、5番、6番「悲愴」)には及ばないというのが実感であるが、このクラスの演奏が世界中で可能ならば、交響曲「マンフレッド」ももっと注目を浴びる存在になってもおかしくないと思える。

演奏を終え、客席からの大喝采を浴びたフェドセーエフ。会心の出来映えだと確信したはずだ。

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