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2014年4月30日 (水)

観劇感想精選(120) 加藤健一事務所 「モリー先生との火曜日」

2013年8月31日 京都府立府民ホールALTIにて観劇

午後3時から、京都府立府民ホールALTI(アルティ)で、加藤健一事務所の公演「モリー先生との火曜日」を観る。ベストセラーとなったノンフィクション小説の舞台化。原作&脚色:ミッチ・アルボム、脚色:ジェフリー・ハッチャー、テキスト日本語訳:吉原豊司、演出:高瀬久男。

加藤健一と、実子である加藤義宗による二人芝居。

大道具であるが、樹木などは大がかりだが、他はシンプルなものが使われている。通常よりも少し小型のグランドピアノがあり、これをミッチ・アルボム役の加藤義宗が弾きこなす。

ミッチ・アルボム(加藤義宗)の一人語りで芝居は始まる。ミッチが語るのは一人の大学教授の思い出だ。教授の名前はモリー・シュワルツ(実在の人物。加藤健一が演じる)。アメリカはマサチューセッツ州のブランダイス大学の社会学の教授である。ミッチは成績優秀で、ブランダイス大学には飛び級で入った。それでも年上の学生に学力で負けることはなかったのだから大したものである。ミッチの本名はミッチェルであるが、愛称のミッチで通っている。ブランダイス大学には社会学を学ぶために入ったのだが、最初の講義を受け持っていたのがモリー・シュワルツだったのだ。モリーの授業を受講していたのは僅かに9人。ミッチは驚いて教室を去ろうとするが、大学に入ったばかりで垢抜けない格好をしていたこと、更に他の学生より若いということで目立ってしまう。モリーに招かれたミッチは、本名のミッチェルで呼んだ方が良いのか、それとも略称のミッチで呼ぶのがいいのかとモリーに聞かれる。ミッチは、「ミッチの方が、皆、その名前で呼ぶので」と呼び名をミッチに決める。モリーは普段は皆から「教授」と呼ばれているのだが、「コーチ」と呼ばれた方の良いという考え方を持っていた。ミッチはモリーに師事することになる。モリーは有能な教師であり、優れた卒業生を何人も送り出してきた。

モリーの社会学の講義は毎週火曜日に行われ、それから研究室での談話をするのも火曜日だった。ミッチはピアノが得意であり、よくレッスン室でピアノを弾いていた。モリー教授も感心するほどの腕前だった。ただ両親がピアノを習わせたのではない。伯父が音楽好きであり、ミッチにピアノを教えたもの伯父だった。ミッチはジャズピアニストになりたいという夢を持っていた。

一方、モリーの趣味は社交ダンス。ダンスフリーというソシアル倶楽部に入っており、その名の通り自由にダンスを踊って楽しんでいた。モリーを演じる加藤健一は、ミッチ役の加藤義宗が弾くピアノに合わせて踊る。最初は社交ダンス風に、ベニー・グッドマンの「シング・シング・シング」を義宗が弾いた時は、両手を上に上げて左右に振るという妙なダンスをしてみせる。

そんなミッチにも大学を卒業する日が来る。4年で無事課程を終え、通常より1歳若い21歳での卒業だった。卒業式の後で、ミッチはモリーに贈り物をする。モリーは「これからも私の研究室に来なさい」といい。ミッチも「はい」とは答えたが、それが守られることは以後16年の長きに渡ってなかった。

ブランダイス大学卒業後、ミッチはニューヨークにいる伯父のところに行き、ジャズピアニストとしての生活をスタートさせたのだった。勿論、そう簡単に有名にはなれない。場末のバーなどでピアノを弾き、チャンスが巡ってくるのを待っていた。だが、伯父が急病で倒れる。ミッチが病院に駆けつけたとき、伯父の顔は真っ青を通り越して真っ黄色だった生気をなくしていたのだ。49歳の若さで伯父は亡くなった。

伯父が亡くなってから、ミッチは人生の方向転換を行う。ピアニストへの夢を諦め、ニューヨークにあるコロンビア大学大学院に入学し、ジャーナリズムを専攻。その後、経営学も専攻してMBAを取得した。
院修了後のミッチは順風満帆だった。新聞社に入り、まずは社会部の記者、続いてスポーツの記者となる。その後、自動車の街として有名なデトロイトに移り住み、「デトロイト・フリープレス」のスポーツジャーナリストとして活躍。テレビのコメンテーターやラジオ番組への出演依頼が引っ切りなしにやって来る。スポーツライターとしても高い評価を受け、新聞にいくつものコラムを載せていた。この世の春を謳歌していたミッチだったが、ある日、ニュース番組「ナイトライン」で、恩師であるモリー・シュワルツの特集が組まれていたのを見る。モリーは「筋萎縮性側索硬化症」、略称は「ALS」、俗名の「ルー・ゲーリック病」として知られる、次第に体の筋肉が脳の指示通りに動かなくなり、徐々に体が硬化していって、最後は心肺停止で終わるという不治の病だった。ベーブ・ルースと共にニューヨーク・ヤンキースの強打者として活躍し、来日時には静岡の草薙球場で、沢村栄治から決勝打となるソロホームランを打ったことでも知られるルー・ゲーリックが罹患したことから俗名が生まれた。ルー・ゲーリックは病気のために引退をするが、旧ヤンキースタジアムでの引退式で、「私は世界で最も幸せな男です」と語った。

ミッチは飛行機に乗り、16年ぶりにモリーの下を訪れる。火曜日であった。モリーは病気のためすっかり弱っており、かつては大好物であったエッグサラダも食べることが叶わないという有様だった。一度だけの来訪のつもりだったミッチだが、デトロイトに帰ってから、自分の生き方に疑問を持ち始める。成功はした。しかし、人生というのはそれでいいのか。煩悶したミッチは、翌週の火曜日にもモリーの家を訪れる。ミッチは、「死」、「愛」、「老い」、「家族」、「人生」などについてモリーと話し合う。モリーはいつも哲学的なアドバイスをくれた。ミッチは毎週火曜日にデトロイトからボストンにあるモリーの家に通うようになる

盛り上がる種類の劇ではなく、深く考えさせられるような言葉やケースが次々と語られていくのだが、その淡々とした進行が、観る者を深い思索の中へと導き、ささやかな感動が、小さな花が一つ一つ咲いていくように、そっと、だが確実に観客の心の中に芽生えて行く。
やはり、アメリカの戯曲はレベルが高いと再確認させられた作品でもあった。

動作が少なく、それでいて一番遠くの席まで声を届けばならない加藤健一は熱演。加藤義宗も立ち姿がスッとしていて格好いい。加藤義宗のピアノも達者であった。

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