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2014年6月27日 (金)

コンサートの記(145) オペラ「夜叉ヶ池」世界初演

2013年6月25日 東京・初台の新国立劇場中ホールにて

東京へ。

午後6時30分から、初台にある新国立劇場中ホール(中劇場)で、新作オペラ「夜叉ヶ池」(原作:泉鏡花、作曲&台本:香月修、演出&台本:岩田達宗)を観る。指揮は十束尚宏(とつか・なおひろ)、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団。

新国立劇場創作委嘱作品で、新作であるため勿論、世界初演。そして今日が初日である。

ダブルキャストによる公演で、27日を除き、公演は30日まで毎日行われる。

今日の出演者は、岡崎他加子、幸田浩子、望月哲也、黒田博、折江忠道、高橋淳、晴雅彦、峰茂樹、竹本節子、加茂下稔、大久保憲、龍進一郎ほか。

合唱は新国立劇場合唱団、児童合唱は世田谷ジュニア合唱団。

 

泉鏡花は、私が大好きな作家の一人。小説「春昼・晴昼後刻」を読んで、その余りの素晴らしさに感動し過ぎた余り、舞台となった神奈川県逗子市を訪れ、小説に出てくる岩殿寺や、「丸眼鏡のような」と表現された入江などを観て歩いた。昨年は金沢に行き、念願だった泉鏡花記念館詣でも果たした。ここで余談。私の好きな日本近代文学の作家は芥川龍之介、中島敦、泉鏡花の3人であるが、3人には接点がある。泉鏡花は芥川の才能を高く評価しており、芥川が自殺した際には追悼文を書いている。また中島敦は泉鏡花のことを誰よりも高く評価した作家であった。

戯曲「夜叉ヶ池」は関西でも比較的上演されることが多く、私も大阪で小劇団による公演と在阪舞台俳優によるプロデュース公演を一回ずつ観ている。が、共に特に工夫というものは感じられない普通の上演だったと記憶している。「夜叉ヶ池」がオペラになると知り、キャストを観ると、十束尚宏の指揮、幸田浩子がヒロインを演じ、そして何より、京都芸術劇場春秋座の「ラ・ボエーム」(ジャコモ・プッチーニ作曲)で初めて上演を観る機会を得て、その後、大阪のザ・カレッジ・オペラハウスでの「ねじの回転」(ベンジャミン・ブリテン作曲)と東京文化会館での「古事記」で終演後や幕間などに興味深い話を聞かせて頂いた岩田達宗(いわた・たつじ)先生が演出を手掛けるということで、好きな作家、指揮者、歌手、そして師とも仰ぐべき先生の演出(演出というのは教わるものではなく観て覚えるものである)ということで、東京まで観に行く決心がついた。

 

新国立劇場は日本初の本格派オペラハウス(オペラ劇場、オペラパレス)を持つことで知られるが(大阪にはザ・カレッジ・オペラハウスというその名の通りオペラ用の劇場があり、専属のオーケストラも持っているが、大阪音楽大学の付属施設ということと、やや小さいということで本格派オペラハウスとは認められていないのかも知れない)、今回の上演は前述の通り中ホールで行われる。中ホールの席に座るのは、以前、劇作の師である松田正隆が本を書いた「涙の谷、銀河の丘」を観に訪れて以来で通算三度目である。ちなみに小劇場もあり、ここではマキノノゾミ演出によるチェーホフの「かもめ」を観ている。

 

新作オペラの上演初日ということで、著名人も何人か観に来ている。新国立劇場芸術監督の尾高忠明(大河ドラマ「八重の桜」のオープニングテーマを指揮しているのはこの人である)は勿論、関西フィルハーモニー管弦楽団桂冠名誉指揮者で日本を代表するワーグナー指揮者の一人である飯守泰次郎、そして敢えて名は伏せるが、有名ベテラン女優さん(やはりオーラが出ていて、「なんか普通と違う感じの雰囲気を感じるな」と思ってふと横を見たら、そのベテラン女優さんが歩いて来るところだった)の姿もある。

 

全2幕、日本語上演、字幕付きである。
泉鏡花というと江戸の草双紙の影響を受けていて、独特の美文調を持つ古くさい作家というイメージを持たれがちだが、どうしてどうして、泉鏡花の正体は前衛作家である。確かに今読むとあらすじ自体は古めかしいものの、使っている手法は師の尾崎紅葉を始めとした同時代の中でも優れて現代的であり、メタ文学として読めば今においても新鮮という作家である。一方で天才肌だったのかムラも多く、不朽の名作と思われるものもあれば、「中学生が書いたものとしてもアウト」と思われるものまで出来不出来が激しい。

処女作は新聞への連載小説であったが、勧善懲悪もので「時代遅れ」のレッテルを貼られ、新聞社から連載打ち切り要請を受けるという憂き目に遭っている。その後、吉永小百合主演で映画化されたことでも知られる「外科室」、後に新派劇「滝の白糸」の原作として知られるようになる「義血侠血」などが好評を得て、今も代表作として挙げられる「照葉狂言」、「高野聖」で人気作家の仲間入りをする。23歳頃から、鏡花独特とされる幻想的な作風が顕著になり(私が鏡花最初の傑作だと思うのは、23歳の時に書かれた「龍潭譚(りゅうたんだん)」である。それ以前には「海上発電」のような比較的硬派な作品も書いている)唯一無二の作風を持つ作家として名声を博することになる。ただ元々ストレスと胃腸が弱かったようで、胃腸の不良を理由に逗子で静養。最初は短気静養の予定であったが、胃腸の病気は回復せず、静養しながら小説を書くという生活が3年以上に及ぶ。逗子は「春昼・春昼後刻」、「草迷宮」などの舞台になった。胃腸の病気であるが病名はおそらく当時はまだ知られていなかった過敏性腸症候群だと思われる。逗子静養中に伊藤すずという名の女性と懇意になり、のちに結婚。ちなみに早世した、泉鏡花の母親の名前も「すず」であり、作風や子供の頃のエピソードを含めて強いマザーコンプレックスを指摘する人は多い。戯曲は「夜叉ヶ池」が事実上の処女戯曲、その後、「海神別荘」、「天守物語」など今でも上演される頻度の高い傑作戯曲を生み出す。基本的にシリアスな作家であるが、晩年には「貝の穴に河童が居る」などユーモラスな作品も書いている。

傾向としては、女性崇拝、胎内回帰願望、夢幻世界の尊さやそれを生み出す想像力の必要性の主張、人間の愚かしさの照射、メタファーの多用などが挙げられる。メタファーの例であるが、鏡花が用いる「水」は羊水と結びついていることが多く、「草迷宮」、「春昼・春昼後刻」ではかなりあからさまな形で出てくる。人間の愚かしさの照射は「天守物語」に顕著で、それが故にわかりやすく、鏡花の戯曲の中では一番人気で最高傑作との声もある。ただ私は「天守物語」は戯曲としては開き過ぎなのではないかという思いが強く、作品としては「夜叉ヶ池」の方がバランスが良くて好きである。

作曲の香月修(かつき・おさむ)は、オペラ「夜叉ヶ池」の構想から完成まで、実に4年以上の歳月を費やしている。芸術監督の尾高忠明からは、「口ずさめるような親しみ易い歌のあるオペラ」をという希望があり、そのため、現代のオペラであるが、現代音楽的な要素は比較的少なく、メロディーのはっきりしたわかりやすい音楽になっている。「江戸子守唄(「柴の折戸」という別名もある)」は歌詞は多くの部分を使用しているが、旋律は東日本の短調のものでも、西日本の長調のものでもなく、香月による完全なオリジナルである。冒頭はオルフの「カルミナ・ブラーナ」に出てくる歌にちょっとだけ似ている(オルフも現代の作曲家であるが、無調のような現代的な作曲方には見向きもせず、調整音楽を追究し続けた)。

鏡花が用いた重要なメタファー「水」であるが、この戯曲では羊水によって生まれる前の純粋な状態への浄化という意味の他に、村が日照りで水を渇望しているということから、現代人が欲するもの、就中、金銭という意味を見出すことが出来る。鏡花が生きた時代である明治初期から昭和初期までは資本主義が万能なものへと変わりつつある過程と一致し、金を求める人々が金に溺れ始めるようになるという時代である。同時に帝国主義が台頭する時代であり、1910年に日本は韓国を併合、「夜叉ヶ池」が書かれた翌年の1914年には第一次世界大戦が勃発している。人間の真に醜い部分が顕わになり始める時代である。

そして現代を振り返れば、時代の先端は新自由主義。それを象徴するようなワールドトレードセンターはイスラムにバベルの塔になぞらえられ、破壊された。演出の岩田達宗も「バベルの塔」という言葉をプロダクションノートに書いているが、9・11はまさにバベルの塔を破壊するという、アメリカへの鉄槌だとウサマ・ビン・ラディンらは考えたのであろう。どちらともといえばどちらも人間としては非常に醜い。どちらも自分が正義だと考えて譲らない人間の傲慢さが現れた出来事であった。

岩田は権力者を登場人物に据え、大いなるものの傲岸さを指弾する。また国か民かという軍国主義とはなんなのかを観る者に考えさせるように仕向ける(私ならそれよりも小さい、企業か個人かという新自由主義を扱うと思うが、いずれにせよ「主義」というものは人命を軽んじても仕方がないという側面を持つことが多く、私は「主義」と名の付く多くのものが基本的に嫌いである)。

また、今、「夜叉ヶ池」を取り上げる際に避けて通れないのが、3・11である。岩田は阪神・淡路大震災で実父を亡くしているということから、東日本大震災にも真摯に対峙している。3・11を演劇で取り上げるのは流行りだが、流行りに乗っかって実がないという作品も多い。ただ、岩田は決壊のシーンに水や幕、映像といったものを用いないとプロダクションノートで宣言している。そういったものを使うのは効果的ではあるが、それだとスペクタクルになってしまう。あれはスペクタクルで終わらせてはいけないことなのだ。

終演後、岩田先生は「幾千幾万の命が犠牲になる」というところ(原作では村一つが流されるだけなので、幾千幾万の命が犠牲になるということはない)で、獣の霊なども含めて幾千幾万をしたとおっしゃっていたが、私も法然院の「東日本大震災追悼の鐘」に参加した際、浄土宗の住職が「獣の命も一緒に弔いました」と述べたことを覚えており、同じような考え方をする人がいるのだなと感慨深く思った。

 

第2幕の冒頭では、妖怪達がコミカルなやり取りを繰り広げる(蟹の妖怪は歌舞伎風のメイクをしており、セリフややり取りにも「あれ? これ歌舞伎関連?」と思うものがあった。終演後、岩田先生に伺おうと思っていたが、つい聞き忘れてしまった。岩田達宗は「ラ・ボエーム」の皆がダンスのシーンに歌舞伎の六法を踏む人物を登場させて笑いを取っており、歌舞伎の手法を取り入れるのに積極的なのかも知れない。また歌舞伎なら幕を波に使う技法があるが、それを使わないということで逆に「スペクタクルにはしない」という真摯さうかがえる)。洪水を起こす妖怪達だが、洪水を起こす理由がわがままというか理不尽というか。私ならもっとオーソドックスに人間の愚かさをそれとなく示すだろう。その方が、百合の犠牲と呼応しやすいということもある。ただ、妖怪が巻き起こす自然災害ななどは、自然のわがままさや理不尽さそのままの現れである。自然なんてわがままで理不尽なものである。何の意図も理由もなく自然は人の命を奪う。だからこれはこれでありだと思う。

 

解釈に多くの文字を費やしてしまったが、音楽は親しみやすく、十束尚宏の棒が引き出す音は時に温かく、時にリリカルで、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏も充実していた。ヒロインの百合を演じる幸田浩子は、日本人としては珍しいコロラトゥーラも難なくこなす本当のソプラノ(日本人は西洋人と比べるとどうしても体型にハンデがあり、日本人ソプラノは西洋人と比べると「ちょっと高めのメゾ・ソプラノ」で本当のソプラノは少ない)であり、歌も演技も万全である。幸田が歌う、「江戸子守唄」の歌詞による「百合の子守歌」は非常に美しいナンバーである。他の歌手陣の歌唱も堂に入っており、オペラとして高水準の出来であった。

 

幕間と終演後に岩田達宗先生とお話しさせて頂く。勉強になった。

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