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2015年7月 9日 (木)

観劇感想精選(155) 「敦 山月記・名人伝」(再演)

2006年9月22日 兵庫県立芸術文化センター中ホールにて観劇

午後2時から、阪急西宮北口駅南口にある兵庫県立芸術文化センター中ホールで、「敦 山月記・名人伝」を観る。中島敦の小説を、野村萬斎が舞台に仕立てた作品。野村萬斎が世田谷パブリックシアターの芸術監督就任後、初めて担当した演出作品である。初演は1年前の2005年9月。大好評を得たため、僅か1年後の再演となった。今回は世田谷パブリックシアターの他に、兵庫県立芸術文化センター中ホール、そして北九州芸術劇場中劇場の3箇所で上演される。

中島敦は私が大好きな作家の一人。明治大学文学部入学後、まず研究に取り組んだ作家でもある。ちくま文庫から出ている3巻組の全集を明大1年の時に、夢中になって読んだものだ。
というわけで、思い入れの強い作家であり、中島敦作品の舞台化ということで自然と私の目も厳しくなる。
が、野村萬斎は私の予想を遥かに上回る舞台作品を作った。

基本的に、中島敦の書いたテキストを地の文も含めて、全文を読み上げるというスタイルである。狂言界のプリンスである野村萬斎だけに、尺八と太鼓の生演奏を採り入れており、演劇と狂言の折衷形式の作品に仕上げた。

2階席での観劇。まず、舞台に中島敦の巨大な写真がつり下げられているのが見える。
舞台は中央が円形の回転舞台になっているのがわかる。奥の方が三日月状に高くなっている。回転舞台は漆黒だが、三日月状の部分は本当に三日月の表面のような色をしている。「盈虚(えいきょ)」という中島敦の小説のタイトルが浮かぶ。回転舞台の中央、やや奥よりに棺桶が横たえられ。その上に位牌が載っているのが見える。

野村萬斎のナレーションによる、中島敦の説明が始まり、劇がスタートする。使われる音楽はモーツァルトの「レクイエム」。野村萬斎が中島敦について良く勉強していることがここで明らかになる。中島敦というと、中国を舞台にした作品が多いことで知られ、今日演じられる「山月記」も「名人伝」も中国が舞台にした話だ。そのため、中島敦の小説を舞台化するなら、音楽は中国風のものが相応しいと考える演出家もいるかも知れない。しかし、中島敦は、クラシック音楽に造形の深い人であり、好きが高じて、管弦楽曲のスコアを独学で勉強してたちまちのうちに読みこなせるようになったという逸話を持つ。野村萬斎はそうした知識を得た上で、モーツァルトの音楽を選んだのだろう。これがいかに卓越したアイデアであるかは後に書くことにする。

「山月記」ではまず、野村萬斎が、中島敦のテキストを高度なレベルできちんと読めていることに驚かされる。登場人物の心理、そして中島敦の心理と、サブテキストが完璧に読めている。そんなの当たり前じゃないか、と思う向きもあるかと思うが、実は本がちゃんと読めている演出家は意外に少ない。完璧に読めている人は更に少ない。だが野村萬斎は完璧だった。

野村萬斎自身は中島敦を主に演じ、他に語り部や登場人物の一人を演じたりする。野村萬斎扮する中島敦が、棺桶の奥から立ち上がり、敦の生涯のテーマであった「自意識」について語る。照明は客席方向からは当てず、舞台横からのみ光が当てられているため、野村萬斎の後ろは闇だ。と、その闇の中、野村萬斎の真後ろから一人の男が上手に向かって飛び出す。何と中島敦だ。その直後、やはり一人の男が下手に向かって飛び出す。これも中島敦の格好をしている。結局、野村萬斎を含め、舞台上に四人の中島敦(野村萬斎、深田博治、高野和憲、月崎春夫。全員、野村万作の弟子である)が登場する。自意識の葛藤を描くためには、一人の人物の中にいる幾つもの自分を出すのが一番良いやり方だ。ここでまず感心してしまう。

「山月記」が語られ始める。主人公の李徴を演じるのは野村萬斎の実父にして師である野村万作。今年で74歳とは思えないほどの若々しい演技を見せる。

俊才の誉れも高き李徴。官吏として将来の成功は約束されたも同然だったが、生涯を官吏として終えることをよしとせず、詩人として100年後まで名を残そうという欲望を抱き、官を辞して、詩人としての生活を始める。が、なかなか認められず、結局再仕官することになる。しかし能力においては李徴より遥かに下だったかっての同僚が今は出世して上官となっている。己の才がわかりながら、それが認められない境遇に耐えられなくなった李徴は公務で出張に出ていたある夜、発狂し、宿を飛び出してそのまま帰ってこなかった。

中島敦のテキストを読んでいて感じるのは、「この人は正直な人だな」ということ。太宰治や三島由紀夫のようにテキスト上で演技をするということが全くと言っていいほどない。だから、読み解くのは比較的簡単である。李徴に敦が自分を重ねていることは誰にでもわかる。
しかし、野村萬斎の読みの深さは、「臆病な自尊心」という言葉で表される心理状態を完璧なまでに見抜き、その本質と変化をこれ以上は出来ないというほど巧みに舞台化して見せる。凄いとしか言いようがない。
なぜ李徴は才能は第一級でありながら、詩人としては一流になれないのか。野村萬斎は完全な答えを用意していた。
そして、虎が示すもの、李徴の語る矛盾した言葉が全て本心から出たものであることを萬斎は文学者も顔負けの読解力で見抜いていく。

そして、虎の嘆きの声を他の動物は威嚇としか捉えないという下り。虎の声は、愉悦感の裏に悲しみを湛えたモーツァルトの音楽を連想させる。モーツァルトは悲しみを正直に表さず、音の背後に託した。悲しみを悲しみと表現するベートーヴェンとはそこが違う。野村萬斎がモーツァルトの音楽を用いた理由がここでわかった。人を遠ざけて一人ひたすら思索に没頭するという李徴の姿勢に私はベートーヴェンの姿を連想したが、萬斎は李徴の心理からモーツァルトを起用した。そして、モーツァルトを選んだ方が遙かに効果的なのだ。私は姿勢を主に見たが、萬斎は心理状態に着目していた。これは敵わない。

「山月記」の上演が終了するやいなや、野村萬斎の才能に感動した私は、走って(比喩ではなく本当に走った)1階ロビーに行き、公演パンフレットを買い求める。

休憩を挟んで上演された「名人伝」も素晴らしい出来であった。ユーモラスで教訓的な話である原作であるが、野村萬斎はテキストを冷静に読み込み、抱腹絶倒のコメディーとして仕上げた。中島敦の作品に思い入れがありすぎても出来ないし、そこそこ好きでも余り興味がなくても出来ない。適度な思い入れがあるからこそ生み出すことの出来たアイデアだ。

「名人伝」では野村萬斎は主人公である紀昌を演じる。演技スタイルは小劇場で良く見られるものを採用。シンプルだが実に効果的なスタイルだ。小道具を多用せず、機織り機の動きなどは、萬斎を始めとする数人の俳優がマイムで表現する。

更に、「虱」、「雁」、「矢」などは漢字をそのまま用いたアニメーションで表現する。まるで天野天街のようだ。更に前半と同じ回転舞台がこの作品ではいよいよ回る。そしてその使い方は、野田秀樹が「研辰の討たれ」で用いたものとほぼ同様だ。野村萬斎が各人の舞台を目にして採り入れたのか、はたまた独自に似たアイデアを生み出したのか。いずれにしても並みの才能で出来ることではない。
紀昌の妻と、紀昌の師である飛衛は石田幸雄が一人二役で演じるのだが、飛衛の時は長いあごひげだったものが、紀昌の妻になる時は長髪になる。飛衛が紀昌の妻に一瞬にして化ける様を見て、観客は爆笑する。

ラストも教訓というよりブラックユーモアとして描いて見せた萬斎。これぞまさに「現代狂言」だ。見ているこちらはただただその才能に惚れるのみである。

最後に、再び現れた中島敦の写真に向かって、萬斎は「どうです。中島敦って凄い作家でしょう」という風に手で示す。
野村萬斎もまた凄い男である。

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