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2015年11月 4日 (水)

観劇感想精選(167) 新作歌舞伎「あらしのよるに」

2015年9月24日 京都四條南座にて観劇

午後4時から、京都四条南座で、新作歌舞伎「あらしのよるに」を観る。実は観る予定のなかった劇なのであるが、真宗大谷派東本願寺(真宗本廟)に礼拝に行った時、ブックストアで戸次公正の『親鸞の詩(うた)が聞こえる エッセンス・正信解』(東本願寺出版部)という本を買い、その本の最初の章に絵本『あらしのよるに』の話が出ているのだ。「『あらしのよるに』は、今、南座でやってるじゃないか!」ということで、チケットを取って観に行くことに決めたのである。偶然なのか回向なのか。それはおくとして、「あらしのよるに」は、歌舞伎としても現代劇としても面白い出来であった。

原作:きむらゆういち、脚本:今井豊茂、演出・振付:藤間勘十郎。出演:中村獅童、尾上松也、中村梅枝、中村萬太郎、市川橘太郎、市川竹松、市川月乃助、尾上徳松、片岡千壽、河原崎権十郎、市川萬次郎ほか。

狼たちと山羊たちの世界の話である。

まず狼たちの兄貴分である“ぎろ”(市川月乃助)らが山羊の群れを襲う計画を立てている。狼“ばりい”を演じる片岡千壽は何故かセリフが関西弁である。
狼たちの踊りは荒々しい荒事で、益荒男ぶりを見せつける。

今度は山羊たちの群れ。“おじじ”(市川橘太郎)、みい姫(市川梅枝)、“たぷ”(市川萬太郎)、“はく”(市川竹松)らが群れに加わり、舞が始まる。こちらは和事で、手弱女ぶりを発揮、と書きたいところなのだが、後ろの方の人達は明らかに稽古不足で、踊りがバラバラであり、優雅さが出ていない。セリフのほとんどないアンサンブルキャストが多いということもあるのだろうが、まがりなりにも歌舞伎俳優を名乗っているのだから舞はせめて見せられるものにして貰わないと。

山羊たちの群れを狼たちが襲う。逃げ遅れた雌山羊の“まつ”(尾上徳松)は、ぎろと一騎打ち。当然、敵うはずはないが、まつは不意を突いてぎろ右耳を食いちぎり、一矢報いて倒れる。右耳を失ったぎろは怒り心頭に発するが、そこの狼たちの長(おさ。お頭とも呼ばれる。澤村大蔵)が戦況を見舞いに来る。長と二人きりになったぎろは千載一遇のチャンスと思いつき、長を槍で突いて殺し、駆けつけた狼たちには、「長は山羊に殺された」と嘘を付く。そして、自身失われた右耳を山羊に襲われた証拠としてしまうのである。しかし、長の遺体のそばに落ちていた槍の穂先がぎろのものであることに気付いた“がい”(河原崎権十郎)は、ぎろに疑いの目を向け……。ここまでが「発端」とされる部分である。

主役である狼の“がぶ”(中村獅童)が登場するのは「発端」から長い月日が経ってからのことである。がぶはぎりに殺された狼の長の息子なのだが、出来が悪く、狼のみんなから馬鹿にされていた。父親は、がぶに「己を信じ、自分らしく生きていれば、必ず自分を信じて認めてくれる友達が出来る」と言い聞かせてきた。だが、今もがぶははぐれ狼である。

山羊の“めい”(尾上松也)が、嵐の夜に、風雨と雷を避け、粗末な小屋に閉じこもっている。めいは山羊たちが襲われる悪夢を見て、バッと跳ね起きる。夢だと気付いて一息ついたところで、やはり嵐を避けて小屋に飛び込んできた者がいる。狼のがぶなのであるが、小屋の中は真っ暗闇、がぶもめいも風邪を引いていて嗅覚ゼロ、ということでめいは相手が同じ山羊だと思っているし、がぶも先客は狼だと思い込んでいる。めいが「さわさわ山に住んでいる」と言うと、がぶは「あそこは良い食べ物が一杯あるでやんす」(語尾を「~でやんす」とするのが、がぶの口調の特徴である)と答える。めいは食べ物が「草」だと思っており、がぶは「山羊」のつもりで言ったのであるが、相手の正体がわからないため、誤解を誤解と気づけないまま話は進む。そして共に「風の歌」という歌が好きだということがわかり、意気投合。明日また会おうということになる。この小屋の前で、合言葉は「あらしのよるに」

暗闇の中で物事が進行する様子を見て、私は夏樹静子の傑作ミステリー小説『第三の女』を連想した。

翌日、小屋の前へとやって来ためい。台風一過で青空が広がっている。めいは相手へのプレゼントにするための四つ葉の幸福草(クローバー)を探しに行く。その直後にがぶが小屋の前にやって来る。相手への贈り物としてやはり四つ葉の幸福草を手にしている。しかし、「あらしのよるに」の合言葉で顔を合わせた二人は吃驚仰天。まさか相手が敵であるとは思いもしていなかったのだ。

がぶは山羊を食べるのが大好きなのであるが、めいとの昨日のやり取りを思い出し、「山羊は食べたことがない」と嘘を付いて、言葉を交わす。ちなみにめいはがぶの手土産である四つ葉の幸福草を食べてしまう(草食であるため)。その後、豊かな草場へとめいを案内したがぶは、めいを食べたいという気持ちを持ちつつもそれを抑えて、友達と接する。

なお、がぶの内面の声は謡(浄瑠璃:竹本蔵太夫、竹本司太夫)が担当するのだが、謡が「食べたい、食べたい」と繰り返すところで、獅童が「うるせーよ! いい加減にしろ!」と毒づき、謡は謡で獅童をおちょくるというシーンがある(今日は簾はなく、相手の姿がはっきりと見えるようになっている。ここは役者の入り口としても使われる)。歌舞伎というものを相対化してみせる面白いやり方である。

「発端」でも、狼や山羊が一階の客席通路が使って舞台に上がったが、がぶの中村獅童とめいの尾上松也も1階客席に降り、通路を使い、その後、おそらく通路ではなく客席と客席の間(南座は古い劇場なのでかなり狭い)を通って花道に戻る。私は今日も三階席に座っていたので、一階で何が起こっていたのかは正確にはわからないのだが、尾上松也が中村獅童に「迷惑なんじゃないですか」と言っていたため、客席と客席の間を通り抜けたと予想される。

ちなみに、中村獅童はたまにであるが、感情を切り替える場面などで、野田秀樹のような喋り方をする。おそらく意図的に野田の演技スタイルを参考にしているのだと思われる。

その後、話は暴君となった狼の新首領ぎろと、羊たちとの戦いへと発展していく。舞台奥の幕は細長い幕を縦に吊したものだが、これが狼たちが奥へと退場する時にくるりと回り、戸板返しの代わりになっている。その他にも、囃子方が上手と下手に分かれ、下手からは邦楽器だけではなく、シンバルなども盛大に鳴らされている。

山羊たちの集会の場面では散開の場面で、囃子方が「メリーさんの羊」を演奏し、「僕ら羊じゃなくて山羊なんですけど」と博学の山羊であるはくに突っ込まれる。

立場が違い、生まれ落ちた時点で天敵という「宿命」をどう乗り越えていくかという「人間」の物語でもある。中村獅童がバリバリにアドリブを入れるなど、コメディー的な要素が満載であり、重くなりすぎないよう、最後までファルスの精神は貫かれているが、テーマ自体は重いものである。

個々のあり方から国家間のスケールまで、我々は「わかり合えない」という業をほとんど生まれながらにして背負っている。もし異質でわかり合えないはずのもの同士が手に手を取って笑顔になれる日が来るとするのなら、そのために最も必要なのは……、存在というものを認めて一対一で対応していくしかないのかも知れない。一対組織、個対集団になってしまった場合、我々は永遠の誤解を繰り返すことになるであろうから。

演出としては、吹雪や雪崩に巨大な白幕を何枚も使うなど、迫力を出す事に成功していた。また役者がポールを伝って降りてくるという場面があり、古典歌舞伎にはまずないことなので、視覚的に面白かった。外連も多いが、歌舞伎とはそもそも外連を競うものであり、そこにはリアリズムを超えた「確固たるもの」が存在していた。

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