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2016年3月27日 (日)

コンサートの記(233) 上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団大阪特別公演2016

2016年3月18日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで新日本フィルハーモニー交響楽団の大阪特別公演2016を聴く。指揮は昨年4月から新日フィルのアーティスティック・アドバイザーを務め、今年の9月には同楽団の音楽監督に就任予定の上岡敏之。

シューベルトの交響曲第1番とマーラーの交響曲第1番「巨人」という、有名作曲家の交響曲処女作を並べるという意欲的なプログラム。マーラーの「巨人」は演奏会の定番曲目となっているが、シューベルトの交響曲第1番は習作に近いということもあって演奏会で取り上げられることはほとんどなく、私も生で聴くのは初めてである。

    
新日本フィルハーモニー交響楽団の実演に接するのはおそらく三度目。指揮者は朝比奈隆、小澤征爾、そして今日の上岡敏之である。上岡敏之の実演は昨年暮れに同じくザ・シンフォニーホールで行われた読売日本交響楽団の第九演奏を聴いている。

今日の新日フィルのコンサートマスターはソロ・コンサートマスターの崔文珠。崔文珠は様々な楽団と契約しているため、大阪でも姿を見ることは多い。先日も大阪フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターを務めたばかりである。
ドイツ式の現代配置での演奏。

今日は下手側3階席の補助席。ということで視覚面は悪く、ステージの下手側半分が見えない。その代わり天井には近いので残響の長さはよくわかる。

シューベルトの交響曲第1番。
独特の解釈で知られる上岡だが指揮姿も個性的。背面のポールに手を置いて軽く振っていたかと思うと、突然身振りが大きくなったり、体の向きを急速に180度変えたりする。ジャンプも飛び出す。全て暗譜で譜面台を置いていないため、前方に大きく振る仕草も可能で、左手でポールを握り、指揮棒を握った右手を前方に突き出して前のめりになり、フェンシングような姿勢を立て続けに繰り出したりする。

シューベルトの交響曲第1番は、シューベルトが15~16歳の時に書かれたものであり、若書きである。シューベルトというのも不思議な人で、歌曲の短い作品が多いということもあるが、31年の短い人生で800を超える作品を書いている。尋常でない多作家だったわけだ。それでいて音楽家として大成功していたというわけでもなく、寄宿制学校時代の友人達がシューベルトの作曲家としての才能に惚れ込み、色々と便宜を図ってくれ、ついには友人の家で暮らすようになり(シューベルトは晩年まで自分で家を買ったり借りたりして住んでいたわけではなかった)、結局死ぬまで友人の援助で暮らした。その友人には音楽家も含まれており、高く評価してくれる人もいたが、生前は楽譜の出版も思うようには出来ない作曲家だったのである。「未完成」交響曲や「ザ・グレイト」は彼の死後に発見された作品であり、生前のシューベルトはそれらの交響曲が演奏されるのを実際に聴いたことすらなかったのである。

上岡の指揮するシューベルトの交響曲第1番を聴いて驚いたのは、特に第1楽章においてだが、影、毒、不吉さなどがすでの楽曲に盛り込まれていることである。普通の作曲家ならそれらの存在にすら気づいていない年頃に書かれた曲にである。作品自体はそれこそ若書きで、聴いている間は「十代の作曲家の作品にしてはなかなかだ」と思えるものの、次の楽章になると「あれ? 前の楽章、どんな音楽だったっけ?」と忘れてしまうほど没個性で(シューベルトの作曲の師はアントニオ・サリエリであるが、サリエリも個性の欠如については指摘していたようだ)、インパクトにも欠けるのだが、人間の闇の部分をこの歳で描けていることには驚いてしまう。シューベルトの交響曲第1番は録音では何種類か聴いたことがあるが、仄暗さを感じたことはないので、そうした要素を炙り出してくれた上岡はありがたい存在である。
ノンビブラートを意識した演奏ではあったが、ピリオドを前面に押し出した演奏ではなかった。


マーラーの交響曲第1番「巨人」。「巨人」というタイトルは実はマーラーは最終的には撤回しているのだが、日本でも他の国のいくつかでもタイトルとして定着している。ジャン・パウルの小説『巨人』という長編小説(90年代に神田すずらん通りの東京堂書店で売られているのを見たが、読む気をなくすほどの分厚い小説であった。私も未読)に想を得て作曲されたのだが、何度も校訂を繰り返すうちに小説の内容とは無関係になったとしてマーラーはタイトルを削除したのである。ただ、日本ではジャン・パウルの『巨人』を読んだことのある人はほとんどいないため、小説の内容も知られておらず、タイトルに振り回される可能性は極めて低いため、タイトルがあったとしても解釈は変わらず、罪のないタイトルではある。

上岡は指揮台に上がり、聴衆に向かって一例して振り向くともう音楽が始まっている。これほどさりげない出だしをする指揮者も珍しい。
明るめの音色による演奏であるが、これは新日フィルが前身である日本フィルハーモニー交響楽団(現在のものとは微妙に異なる。詳しくは「日フィル争議」で検索して下さい)時代からアメリカのオーケストラを模範とした音楽作りを目指していたためである可能性が高く(上岡はオーケストラの音色を自在に帰られるので断言は出来ないが、朝比奈隆指揮や小澤征爾指揮で聴いた時も新日フィルの音は明るかった)、上岡が新日フィルの個性を生かしたのであろう。
上岡らしい強弱をはっきりと付け、テヌートとスタッカートの対比を生かすなど、個性的な演奏である。音のバランスも独特だ。
だが、驚いたのは、第1楽章でチェロがグリッサンドを用いたこと。これまでグリッサンドを用いた「巨人」の演奏など聴いたことがない。上岡が音符や指示を足した可能性もあるが、先日、マーラーの交響曲第6番「悲劇的」が演奏された京都市交響楽団の定期演奏会で、指揮者の高関健が「新しい楽譜が出た(当日用いられたのは2010年に出版された楽譜)」と話していたたため、マーラーが何度か校訂した「巨人」の中にグリッサンドの指示が書かれたスコアがあったのかも知れない。マーラーの指揮者としての弟子で、マーラーの交響曲普及に貢献したウィレム・メンゲルベルクやブルーノ・ワルターはポルタメントを頻用していたため、師であるマーラーの指揮も同スタイルで、自作の中にポルタメントを予めグリッサンドとして指示していた可能性もある。

第2楽章は輝かしくスマートな演奏であったが、これは第3楽章への伏線である。第3楽章は出だしのティンパニの音が極めて小さく、コントラバスのソロも意図的に稚拙に演奏される。コントラバスのソロは前例があるので上岡独自のものではないが、上岡は主題が管楽器に移っても意図的に野暮ったい歌わせ方をしていた。この楽章はもともと猟師の遺体を獣たちが運ぶ場面を描いた葬送行進曲であり、獣たちの洗練されていない足取りをこうした手段で表したのだろう。

間は取ったが指揮棒は下ろさずに突入した第4楽章。新日フィルの明るい音色も手伝い、爽快な演奏となる。青春の痛手は薄まったかも知れないが、ラストの「勝利の確信」の輝きは痛快の一言である。
奇妙ではあるが面白いマーラーであった。シューベルトも奇妙で面白い人だが、別に関係はないだろう。

上岡は演奏終了後も舞台下手でオーケストラメンバーに立つよう指示し(私の席からは上岡の姿は見えなかった)、最後はステージ中央へと進んでオーケストラと共に一礼したが、指揮台に上がることはなかった。そういう習慣なのだろう。

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