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2016年7月26日 (火)

多くは語りたくないのだが

 例えば優生学などは時代と共に形を変えて存在するものであり、一定の「正しい」という支持を得やすいという性質を持つのも確かである。ナチスが「生きるに値しない命」という「正義感」のもとにかつて行ったことの亡霊が急に現れたようにも思われるのだが、福祉大国として知られる北欧諸国が知的障害者の女性に対する避妊手術の強要(断種法)を「良いこと」として比較的最近まで行ってきたことはその変奏であり、しかも「常に存在し続け、これからも更なる変遷を経て『あり続ける』だろう」という心が暗くなるような想像が、自分自身の罪のような強迫感とともに繰り返されている。
 そして今は「起こってしまった」という事実に対し、翼をなくした鳥のように呆然とたたずむことしか出来ないでいる

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