« KAN 「まゆみ」 | トップページ | 観劇感想精選(192) 「DISGRACED ディスグレイスト 恥辱」 »

2016年10月 5日 (水)

観劇感想精選(191) 井上芳雄による「夜と霧」~苦しみの果て、それでも人生に然りと云う~

2016年9月7日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて観劇

午後3時から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、井上芳雄による「夜と霧」~苦しみの果て、それでも人生に然りと云う~を観る。ミュージカルのトップスター、井上芳雄による朗読劇。ラストに歌のシーンも用意されている。音楽:宮川彬良、ヴァイオリン演奏:廣川抄子、アコーディオン演奏:大田智美。
アウシュビッツ強制収容所から帰還した精神科医・心理学者ヴィクトール・E・フランクルの体験記で、ロングベストセラーとしても知られる『夜と霧』のテキストを再構成してリーディングの公演を行う。上演台本&演出:笹部博司。
新潟市にある劇場・りゅーとぴあ(新潟市民芸術文化会館)の制作。


井上芳雄は数年前にロームシアター京都のすぐそばにある黒谷こと金戒光明寺で朗読劇「沖田総司」を上演しているが、その時は殺陣なども入る活劇であった。今回はシリアスな心理劇である。


舞台後方の幕に映像が投影される他は、井上が台本を置く証言台のような装置があるだけでセットらしいセットは組まれていない。

今日は上手バルコニー席での観劇。ヴァイオリンとアコーディオンは舞台上手端で演奏するため、上手バルコニー席からだと姿が見えない。音楽の演奏が始まってしばらくすると、真正面の下手バルコニー席に井上芳雄が現れ、ホール内にある階段を下りて客席内をゆっくり歩いた後、ステージに上る。井上芳雄は無表情で虚ろな雰囲気をたたえている。
証言台に立ち、自分について話し始めるのだが、あたかも他人事のように淡々とした語り口である。ここから徐々に感情を高めていくことになる。

精神科医によるアウシュビッツの回想ということになるのだが、アウシュビッツでは医師らしい仕事は最後の数週間を除いてしていないので、医師ではなくただの一個人のアウシュビッツでの体験談として聞いて欲しいと井上芳雄演じるフランクルはまず語りかける。アウシュビッツに着くと持っているものは全て取り上げられ、名前も失い、番号で呼ばれるようになるという。
ユダヤ人80名を2両にギチギチに詰め込んだ列車がアウシュビッツの駅に着くところから話は始まる。彼らはアウシュビッツの名を知っていた。そこから連想される言葉は「ガス室」、「虐殺」など。
ゲートを潜ると、ハンサムな突撃隊高級将校が待ち構えている。彼の前を通る時に、人々は彼の人差し指によって左もしくは右を指される。フランクルはのちに知るのだが、これが最初の関門であった。フランクルと反対方向を示された友人の行方を人に訪ねたところ、空を指さされた。煙突から煙が出ている。友人はすでに殺されていたのだ。
寒いアウシュビッツ。苦役で凍傷になるものも出るが、凍傷になった足の指をピンセントで引っこ抜くという非人間的行為が行われている。
フランクルも最初のうちは、強制労働で働かされている仲間を見て心が痛んだが、次第に何も感じなくなってしまう。そのことに恐れを抱くフランクル。

だが、フランクルはどんな厳しい環境にあっても妻の顔を思い出すと、夢の境地に浸ることが出来た。多くの詩人が書いた「愛の至福」を実感出来たのだ。
収容所に入って二日目、フランクルはヴァイオリンが奏でるもの悲しいタンゴの旋律を耳にする。そのタンゴは妻と重なり、フランクルの頭の中で鳴り続ける。

強制収容所で出会った一人の少女は、「運命に感謝しています。だって私をこんな酷い目に遭わせてくれたんですもの」と言う。「悲しみを知ることが出来たから。何不自由のない時は私は甘えてばっかりの子で自分と向き合ったりはしなかった」
その少女は、「あの木だけが私の友達」と窓の外と木を指さす。そのマロニエの木には永遠の命が宿っていると少女は語るのだった。

一方で、心を殺し、廃人同然になってしまうユダヤ人もいた。フランクルは、今の自分がなぜこの状況下にいるのかということに答えも求めるのではなく、この状況に対して自分はどういう意味を持つのかを問うよう精神科医として意見し、状況が求めるものに正解すれば生きる意味があると説く。そしてこれまで築き上げてきた過去を思い出せ、そこには意味があるだろうと鼓舞する。

解放の日。歓喜はなかった。彼らは虚ろであり、喜びの感情を忘れてしまったかのようだった。やがてあるものは激しい食欲にかられ、感情失禁のような状態になる。

現実は残酷だった。フランクルの妻はすでに死んでいた。家に帰って呼び鈴を鳴らしても迎えてくれる人はもういない。苦しみに耐えた代償はなく、代わりに与えられたのは喜びではなく失意だった。そんな中でフランクルは「狭いところより広いところの神」にどうすれば良いのか聞く。頭の中に響いた神の答えは「全て然れ」であった。


極限化に置かれた人間が書き残したテキストを朗読する語り物である。やはり極限化に置かれた人間を描いた一人芝居「審判」のような、「知られざる人間の一面」が露わになる場面もあるが、「夜と霧」は「審判」のような露悪的なものではなく、最悪の状況にあって人間は何を求め、どう生きれば良いのかが追求される。

結局のところ、ほぼ全てを失った状態で、人間が希望を見いだすには過去の記憶や思い出にすがるしかないのであるが、その中にあるいは極限化でしか気づけない「永遠の命」というべきものを探し出すことは決して困難ではないということも示される。そして自分が生きている限り永遠の命もまた生き続けるのである。


人間というのは時代の流れに振り回されるものである。望ましい時代に生まれてくることが出来なかったという時点で歴史に左右されるのであるが、時には「生まれた人種」などという自分に何の責任もない理由で抹殺の対象になることもある。そこでは生きるも地獄、死ぬも地獄。だが生き残ったとしたらそこにあるのは……。神や時代、出会った人や愛した人の記憶と共に残りの人生を生きていくことは決して地獄ではない。ささやかながら希望はあり、光は差している。


井上芳雄の感情の表出は巧みであり、発声も良い。9割以上、証言台で語っている芝居なので、観客もイメージを膨らませる必要があり、情感豊かな明晰な声であることはなによりもありがたい。

ヴァイオリンの廣川抄子とアコーディオンの大田智美の生演奏も良く、宮川彬良の哀感に満ちた音楽も優れていた。

|

« KAN 「まゆみ」 | トップページ | 観劇感想精選(192) 「DISGRACED ディスグレイスト 恥辱」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/40048/64303853

この記事へのトラックバック一覧です: 観劇感想精選(191) 井上芳雄による「夜と霧」~苦しみの果て、それでも人生に然りと云う~:

« KAN 「まゆみ」 | トップページ | 観劇感想精選(192) 「DISGRACED ディスグレイスト 恥辱」 »