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2017年1月30日 (月)

史の流れに(1) 特別展覧会「坂本龍馬」

2016年11月9日と11月16日 京都国立博物館平成知新館にて

11月9日

京都国立博物館平成知新館で、特別展覧会「坂本龍馬」を観る。没後150年展覧会であるが、没後150年となる2017年に展示が行われるのは、長崎歴史文化博物館、江戸東京博物館と徳川慶喜家のお膝元である静岡市美術館に於いてであり、京都国立博物館での展示は今月中に終わる。

      龍馬の愛刀として知られる陸奥守吉行(坂本家の子孫が北海道に移住し、釧路にいた際に火災に遭ったために磨き直されたものである。刃こぼれがあるが、近江屋事件の時のものか正確には不明であると思われる。なお、坂本家の子孫である坂本弥太郎という元プロ野球選手と同じ名前の人が陸奥守吉行について、西郷吉之助の刀を龍馬が貰ったものだとしている。ただ、龍馬は実兄である坂本権平直方に、西郷経由で家宝の吉行を受け取ってことが書かれているので、坂本弥太郎の誤解であると思われる)や、近江屋で龍馬と中岡慎太郎が襲撃された際に血が飛び散った板倉筑前介(のちの淡海槐堂。説明書きには「板倉槐堂」とあったが、「淡海槐堂」四文字で号なので正確には誤り)の筆による掛け軸(「梅椿図」掛け軸)、同じく猫の部分に血が付着した屏風、坂本龍馬の手紙や三吉慎蔵の日記、芹沢鴨光幹(みつもと)と近藤勇昌宜(まさよし)が鴻池屋に借金した際の証文、永倉新八による「浪士文久報国記事」(芹沢鴨は、「水戸天狗党の出身」と自称していたが永倉の記述には「天狗隊隊長」と記されている)、山内容堂が「松平容堂」「山内土佐守」として出てくる「大政奉還意見書」。海援隊雄魂録(犠牲になった志士の欄に、宮部鼎蔵、橋本左内、頼三樹三郎、吉田寅次郎(松陰)などの名がある)などが展示されている。手紙には漢字書き下し文が付いているものも多く、じっくり読んでいたため、全部見るの約2時間20分を要した。

      龍馬が授けられた北辰一刀流の長刀免許目録(伝・千葉貞吉筆)もある。免許皆伝目録も実在したことは確かなようである。
      土佐上士は神田お玉が池の千葉周作の千葉道場(玄武館)で、土佐下士は千葉周作の弟、千葉貞吉による桶町千葉道場で学んだとされるが、千葉貞吉が道場を開いたのは龍馬が初めて江戸に遊学した時よりも後であり、龍馬は最初は玄武館で剣術を学んだが、千葉周作が亡くなったために千葉貞吉に師を替えたというのが真相に近いようである。
      北辰一刀流の免許目録には、最初に千葉周作の先祖である千葉常胤(平常胤、千葉介常胤)の名が記されており、その後の周作の先祖の名前も連なっている。玄武館で龍馬と同門だった清河八郎(齋藤元司のちに齋藤正明。清河八郎は偽名である)の免許皆伝目録(伝・千葉周作筆)にも同様に千葉常胤以来の千葉氏当主の名前が記されている。

      平成知新館3階は坂本龍馬が創設した亀山社中の地、長崎・亀山で制作された亀山焼きの展示であり、坂本龍馬関連の本格的な展示が行われているのは2階と1階である。亀山焼きの中には、見た目は漆器(JAPAN)だが、実際は陶器(CHINA)という手の込んだものもある。

      長府藩出身で龍馬の用心棒を務めた三吉慎蔵の日記には、寺田屋を襲撃したのは「肥後守ノ上意」を受けた者達との記述があり、松平肥後守容保の命だったという認識があったようだ。当時の伏見奉行もややこしいことに肥後守(林肥後守忠交)だったのだが、三吉慎蔵がそのことを知っていた可能性は低いと思われる。

      龍馬の師である勝海舟関連の展示もあるが、勝海舟は氏は「物部」としていたようである。坂本龍馬のように氏を「紀」としている人も珍しいが、物部氏の人はもっと珍しい。海舟の日記によると文久二年十二月二十九日に千葉重太郎(諱は一胤。因幡鳥取藩剣術指南役)と共に坂本龍馬が会いに来たことが記されている。

      備後・鞆の浦付近で起こった「いろは丸事件」(大洲藩の船を海援隊が借り上げて、「いろは丸」と名付けた船舶に紀州の明光丸が追突、いろは丸が沈没した事件)に関しては、龍馬は紀州藩をなじる記述をしており、「二三回挨拶に来て、頭を下げられたがそれでは済まぬ」「(紀州の対応は)女のいゝぬけのよふ」と怒り心頭に発している。

      龍馬は署名に、「坂本龍馬」、「龍馬」、「坂本龍」、「龍」、「りよふ」、「才谷梅太郎」、「才谷」、「梅」、「坂本直陰」、「直陰」、「坂本直柔(なおなり)」、「直柔」、「大濱涛次郎」、「取巻の抜六」、「自然堂(じねんどう)」など様々な名を使い分けている。「才谷」は坂本家の本家筋の商家・才谷家から取ったものであり、「大濱」は龍馬の先祖が名乗った苗字である。「自然堂」は下関における土佐の定宿で本陣を運営していた豪商・伊藤助太夫(伊藤九三)家の一室から採った、龍馬の号である。

      坂本龍馬は、後藤象二郎のことを一貫して「後藤庄次郎」と記しているが、一通だけ、「藤藤庄次郎」と誤記した手紙がある。また新選組に関しては、近藤勇が龍馬と懇意にしていた永井玄蕃頭尚志と共に広島に行ったということを記した手紙の中で、近藤の名は出さすに「みぶ浪人」という記述を一回だけしている。

11月16日

再び、京都国立博物館で行われている特別展覧会「坂本龍馬」を観る。2度目なので、読み飛ばしたところもあるのだが、それでも必要な展示を見て回るのに、約2時間10分かかった。

      坂本龍馬の先祖についてだが、郷氏となり、坂本を名乗ったのは龍馬の曾祖父である坂本八平直海である。それ以前の記述には、山城国出身で戦火を免れて土佐の才谷村に移り住み、才谷村の字である大濱から大濱姓を名乗ったとある。才谷も大濱も地名なのだが、坂本という苗字がどこから来たのかは不明である。大濱を名乗ったのも偽名として大濱涛次郎を名乗った龍馬だけになっているが、先祖も坂本姓だったかのような細工が行われたためのようである。近江坂本に居城を構えた明智光秀の家臣・明智左馬助秀満(明智光秀の親族である可能性は低いそうだ)の流れというのも先祖の誰かが言い出したことで、まず関係ないとされる。

      展示で気になったのは、「べきである」とされている解釈のある、龍馬の手紙である。龍馬が姪の春猪に宛てた悪口満載の手紙なのであるが、男というのは年下の異性親族にこうした手紙は普通に書くと思われるのだが(逆に年下の異性親族宛以外には書かない内容である)。
      おどけた調子がわかり、字面だけ追ったのとは異なる内容であると思われる。

      武市半平太が、山本琢磨(のちの沢辺琢磨)が時計を盗んだとされる事件について書いた文章もあるのだが、皆、「山本覚馬じゃないのか」という反応である。実は山本琢磨は大河ドラマ「龍馬伝」に出てくるのだが、もう忘れられているようだ(山本琢磨は龍馬の従兄弟であり、のちに函館の聖ハリストス正教会司祭となった人物で、「龍馬伝」では、坂本龍馬が山本琢磨を逃がすシーンがあり、番組の最後の「龍馬紀行」では山本琢磨が紹介された)。

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