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2017年1月23日 (月)

コンサートの記(268) 堺シティオペラ第29回定期公演 歌劇「黄金の国」

2014年11月29日 ソフィア・堺 ホールにて

堺へ。南海高野線の車窓からは紅葉した大仙古墳(大山古墳。伝仁徳天皇陵)が見える。
 

午後2時から大阪府堺市にあるソフィア・堺(正式名称:堺市教育文化センター)のホールで、堺シティオペラ第29回定期公演「黄金の国」を観る。原作戯曲:遠藤周作、作曲・テキスト・指揮:青島広志、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)。演奏:ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団(室内楽編成での演奏。さほど大きくない多目的ホールでの演奏なので室内楽編成でも音が飽和状態になることがあった)、合唱:神戸市混声合唱団、ピアノ:關口康佑。今日明日と公演があり、ダブルキャストであるが、今日の出演は、萩原寛明、田邉織恵、井上美和、桝貴志、菊田隼平(きくた・じゅんぺい)、松原友(まつばら・とも)、水谷雅男、鳥山浩詩、片桐直樹、松澤政也、森寿美(もり・としみ。男性)、橋本恵史(はしもと・けいし)ほか。ほぼ全員、関西にある芸大や音大、音楽学部や音楽コース、高校の音楽科などの出身者である。出身は関西でない人もいるが、関西と一切関係のない人はキャストに含まれていない。

テレビなどでもお馴染みの青島広志は1955年、東京生まれ。東京藝術大学音楽学部を首席で卒業後、同大学大学院修士課程も首席で修了。今日上演される歌劇「黄金の国」は、大学院の修了制作として作曲されたものであるという。
見た目だけだとそうは思えないが、実は青島は坂本龍一の後輩なのである。

原作戯曲である遠藤周作の「黄金の国」は遠藤周作の処女戯曲であり、誰でも一度は読んだことがあるであろう有名小説『沈黙』と共に姉妹作をなすものである。内容的には「黄金の国」の方が「沈黙」よりも一歩踏み込んでいるのであるが、その部分は青島は採用していない。
戯曲「黄金の国」は上演すると約3時間を要する大作であるが、それをそのままオペラにすると最低でも上演時間6時間ぐらいの超大作になってしまう。ということで、青島は、遠藤周作のセリフはほとんど変えることなく大幅にカットしたり順番を入れ替えたりして上演時間1時間半、2幕のコンパクトなオペラにまとめた。

演出の岩田達宗先生とは知り合いなので、上演前に挨拶をし、握手を交わす。岩田先生によると、遠藤周作の原作とは別物になっているそうで、パンフレットに全テキストが載っているので買うように勧められる。ということでパンフレットも買う。

傍らでは作曲者の青島広志が著作販売とサイン会を行っている。

テキストについてであるが、遠藤周作が一番力を込めたであろうメッセージは抜け落ち、恋愛ドラマが多少色濃くなっている。第1幕と第2幕の間はかなりバッサリとカットされており、「想像すればわかる」と観客に委ねてしまっている。

開演前に青島広志がマイクを持って登場し、「指揮だけをするという公演は今回が初めてなんです。いつもはピアノを弾いたり、歌ったり踊ったりしながらやるのですが、今日は指揮だけ。それだけだとちょっとというので、こうしてお話ししているわけです。堺シティオペラには20年ほど前にお世話になったことがございまして、その時は髪がまだあったんですが、今は完全になくなってしまいまいした。私は来年還暦を迎えます。体の一部分はもう還暦を過ぎてしまっていますが。それから、静岡県の方でオペラを指揮しましたときに、ピットが浅かったものでしたから、お辞儀をした途端に、子どもから『あ、ハゲ!』と言われたことがありまして、事前にハゲだとお見せしている具合でございます。このオペラはもう40年近く前に書かれたものでして、当時の作曲界は難しく、『ドミソ』で音楽を書いてはいけなかったんです(前衛音楽真っ盛りの時期である)。「○★※△~」というような難しい音楽を書かないと駄目だったんです。私の先生、宍戸睦郎といいますが、もう亡くなっておりますので名前も出していいと思います。宍戸先生も「○★※△~」というような曲でないと良い点をくれなかったんです。私は、良い点を取らなくてもいいからもっとわかりやすいものが書きたかったんですが、宍戸先生が教え子の成績が悪いと立場上困るというわけで、私も「○★※△~」という曲を書いてしまいました。当時は演奏が難しくて演奏者が上手く弾けないということも多かったのですが、演奏技術の向上は目を見張るものがありまして、今日の、大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の皆さん、スラスラ演奏してしまいます。編成も小さいですが、あの方がコンサートミストレス(赤松由夏)でヴァイオリンが一番上手いんです。皆さんご存知の通り、ヴァイオリンは指揮者に近い人が一番上手くて後ろに行くほど下手になるのよね(実はそうとも限らないのだが)。管楽器も一番奏者、二番奏者、三番奏者とだいたい三人いるんですけれど、今日は全員、一番の方です(ここで観客に拍手を求める)。それから、岩田達宗先生が演出して下さっていて、岩田先生のお顔御覧になりましたか? プログラムには写真が載っていると思いますが、俳優であってもおかしくないような、おかしいっちゃおかしいんですが、男前でとても嬉しいです。私は顔だけでいいんです。他はどうでもいいんです」などと前説を行った。それにしてもテレビで音楽の解説をする人にはどうしておねえ口調の人が多いのだろう?

音楽であるが、確かに前衛の香りはするものの、今聴くとメロディアスで美しいものである。歌唱も半音ずつ下がっていくような難しいものだが、歌手達は満点とはいえないものの上手く歌っていた。

江戸時代の長崎が舞台であるが、岩田達宗の演出は、納屋の壁、掛け軸、カーテンを上から降ろすだけで、あとは三面とも西洋風の白いカーテンを使っていた。これは少なくとも私にとっては効果的であった。私は「黄金の国」の原作戯曲を読んでいるため、青島版「黄金の国」ではセットが西洋風でないと不可思議に見えてしまうのだ。

青島のオペラ「黄金の国」では、デウスはただ黙っているのではなく、自分に寄り添っているのだという解釈で終わる。だが、実は遠藤周作の原作戯曲にはそれを射貫くセリフがあるのだ。パーデレ・フェレイラのそのような解釈を聞いた長崎奉行所の井上筑後守は、「それは切支丹のものとは思えぬ(中略)日本にもある弥陀の慈悲。あれと、切支丹のデウスの慈悲と、どうにもならぬ己の弱さから、衆生がすがる弥陀の慈悲。これを救いと日本では教えておる。だが、あの折り、パーデレははっきりと申した。切支丹のデウスの慈悲はそれとは違うとな」と語るのである。
そう、青島がカットした部分にフェレイラがクリスチャンでありながら浄土真宗的発想をしてしまったことを指摘するセリフがあったのである(その指摘を受けて落胆するフェレイラに希望の光が差すようにして劇は終わる)。

ということで、日本家屋的セットであったら、私には切支丹の劇ではなく、浄土真宗礼賛物語の亜種に見えてしまったことだろう。

歌手の演技についてもやはり解釈が異なり、私はパーデレ・フェレイラ役にはもっと素朴で繊細な演技を求めたと思う。人々に温かく接したことさえも傲慢と思い返すような内省的で、狂気を孕むかのような線の細い人物。今日、フェレイラを歌った桝貴志は、ミュージカルで山口祐一郎がよく行うような演技をしていた。

さて、青島は、切支丹への刑を、水刑(溺れ死に)から火刑(焼け死に)変えているが、その理由はよく分からない。火刑にしてしまうと後に来るのセリフと上手く繋がらないように思えるのだが。逆に水刑にすると希望と救いが増すはずである。あるいは初演時の演出上の都合だろうか。

遠藤周作の原作と比べなければ、良いオペラだったと思う。

岩田先生には色々伺いたいこともあったのだが、お忙しそうだったので握手して別れる。

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