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2017年3月16日 (木)

コンサートの記(283) 通崎睦美木琴リサイタル「平岡養一物語」

2017年3月2日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、通崎睦美木琴リサイタル「平岡養一物語」を聴く。エッセイ『天使突抜一丁目』などでも知られる木琴&マリンバ奏者の通崎睦美(つうざき・むつみ)。実際に、天使突抜一丁目出身である。今でこそ「京都にある珍しい地名の一つ」として知られる天使突抜であるが、以前は京都の人でも実際にそういう地名があるということを知らない場合が多く、学生時代に通崎が「天使突抜一丁目」という住所を書いたところ、担任の教師からふざけているのだと思われ、「いいから本当の住所を書け!」などと言われたそうである。

木琴奏者として日本では第一人者である通崎だが、今日のトークで語ったところ、「日本木琴協会というのがあるんですけれど、木琴奏者で登録しているのは私だけで後は全員マリンバ」だそうである。
これもトークで語られたのだが、木琴(シロフォン)はヨーロッパ発祥の楽器、一方のマリンバはアフリカが発祥の地で、黒人奴隷達が連れられていった先の南米で普及させたものだという。1935年に行われたサンフランシスコ万博でマリンバが紹介され、以後はマリンバの方が主流になっていったそうである。
木琴は江戸時代からすでに日本に入っていたそうで、平岡養一などの名奏者を生んだが、戦後すぐに日本に入ってきた宣教師達がマリンバ奏者だったそうで、日本の布教先各地でマリンバを演奏した結果、木琴奏者が音色に魅せられて次々とマリンバに転向してしまい、日本にいる木琴奏者は平岡養一ただ一人という状態になってしまったそうである。平岡は、「絶対にあの楽器に転向はしない」と宣言し、終生木琴奏者で通した。

平岡養一は1907年生まれ。子供の頃に通っていた映画館はまだ弁士と楽士がおり、楽士が演奏していた木琴に惹かれて独学で木琴を習得し、慶應義塾大学在学中にプロ木琴奏者としてデビュー。その後、レコード録音なども行い、その資金を元に渡米。NBCの木琴奏者選抜オーディションを勝ち抜いて、毎朝、NBCラジオ番組で木琴の生演奏を行うようになる。この頃には、「アメリカ全土の子供達は、ヨーイチ・ヒラオカの木琴で目を覚ます」と言われるようになっていた。当時のニューヨークには夜勤の労働者も多くいたそうで、「子供達が目を覚ます一方で、大人達はヨーイチ・ヒラオカの木琴を聴きながら眠りに就く」とも言われたそうだ。名門であるDECCAレーベルとも契約し、レコーディングを行っている。
ただ、日米開戦により平岡は日本に帰国せざるを得なくなる。当時は手荷物が制限されていたが、平岡ファンのアメリカ人の尽力により、特別に木琴と楽譜を日本に持ち帰ることが出来たという。
戦中は慰問演奏にもたびたび出かけたそうだが、北海道に行ったはいいが、青函連絡船が撃沈されたため本州に戻れなくなったり、仙台にいた際には空襲に遭い、木琴を空いている防空壕に入れて自分は別の防空壕に入って共に生きながらえるなど、波瀾万丈の旅だったそうだ。
1962年にニューヨークのカーネギーホールに日本人として初出演。翌年にグリーンカードを取得してカリフォルニア州に移住。その後、アメリカの市民権も得ている。

平岡は1977年に自身の「木琴人生50年」を祝うコンサートを日本全国93ヶ所で行っており、京都ではロームシアター京都サウスホールの前身である京都会館第2ホールでコンサートを行っているという。その時、出演した児童合唱団のメンバーにマリンバを弾ける子がいるというので、そのマリンバが弾ける子=通崎睦美と共演したそうである。
その後、京都会館のステージに通崎が立つことはなく、同じ場所に出来たロームシアター京都サウスホールに今日立ったことで、40年ぶりに同じ場所で演奏することになるのだそうだ。

通崎が現在使用している木琴というのが、その平岡養一が愛用していた楽器なのである。平岡本人から通崎に譲られた木琴であり、側面に「Yoichi Hiraoka」という署名が入っている。

なお、通崎は木琴のみならず楽譜や音盤なども平岡から譲渡されており、サウスホールのホワイエではそれらが展示されていた(通崎曰く「頼まれもしないのに持ってきた」そうである)。


曲目は、モンティの「チャールダシュ」、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、クライスラーの「ベートーヴェンの主題によるロンディーノ」、ハイドンのチェロ協奏曲第1番より第3楽章、ポンセ作曲/ラ・フォルジュ編曲の「エストレリータ」、ビゼー作曲/松園洋二編曲の「カルメン綺想曲」、休憩を挟んで、ストビーのモッキングバード幻想曲、山田耕筰の「日本組曲」より“お江戸日本橋”と“かっぽれ”、ロドリゲス作曲/野田雅巳編曲の「ラ・クンパルシータ」、野田雅巳の「五〇年」、海沼實作曲/野田雅巳編曲の「みかんの花咲く丘」、貴志康一作曲による「日本狂詩曲」より(H・スピアレク&平岡養一編曲)。

ピアノ伴奏を務めるのは松園洋二。松園の本業は作曲家だそうである。


通崎は数種類のマレットを使い分けることで音色の硬軟を変える。第1曲のモンティの「チャールダシュ」(最近、聴く機会が多い)は、40年前に平岡養一と共演した思い出の曲だそうである。
今日は平岡養一関連のプログラムを並べたのだが、最初の3曲の楽譜はボロボロになるまで使い込まれていたのに対して、ハイドンのチェロ協奏曲第1番第3楽章は「楽譜を買ってはみたものの弾いたのかどうかもよくわからない」そうである。おそらくほとんど手を触れたことがないので色が変わっていないのだろう。
平岡はクラシックの楽曲を演奏することを至上命題としてきたそうだが、「エストレリータ」はプロポーズする際に演奏した曲だという。「エストレリータ」はトレモロが多用されているが、ピアノのトレモロが別の音を交互に演奏すること(トリル、バッテリー)なのに対して、打楽器のそれは同音反復になるという。

平岡がレコーディングを行っていたSP盤は、表が収録時間3分、裏も同じく3分の両面で6分であり、「カルメン」の良いところを6分で収められるように纏めたのだが、「今日はSPではないので6分より少し長く」と言って通崎は「カルメン綺想曲」の演奏を開始。超絶技巧のオンパレードに、演奏終了後、客席からはどよめきが起こった。


第2部の1曲目である「モッキングバード幻想曲」では通崎は小型の木琴を使用し、椅子に腰掛けながら演奏する。平岡養一が、1928年に帝国ホテルの演芸室で行い、大成功したコンサートで演奏していたのは、この小さな木琴と同スタイルの楽器だったという。その時は、平岡はまだ、より大きな木琴というものがあるということを知らず、木琴というのは小さな楽器だと思っていたという。だが、大型の木琴の存在を知り、平岡はそれを手に入れるために伝家の家宝を売り払うなど金策に奔走したそうである。

今日の演目の中で、唯一、木琴のために作曲されたのが野田雅巳の「五〇年」である。元々は、通崎が両親の金婚式を祝うための曲として野田に作曲を依頼したそうだが、平岡養一が「木琴人生50年」を祝うコンサートツアーを行い、通崎自身も今年で生誕50年ということで、他の50年にも掛けた50年として演奏を行う。ちなみに野田は会場に来ており、通崎に紹介されて立ち上がり、拍手を受けた。

「みかんの花咲く丘」。戦後すぐの曲というとなんといっても「リンゴの唄」が有名であるが、それとセットで語られるのが「みかんの花咲く丘」だという。今日も客席にはお年寄りの姿が目立つが、「聴くと焼け跡を思い出す」と言われることもあるそうだ。


貴志康一の「日本狂詩曲」より。日本人として初めてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した人物としても知られる作曲家の貴志康一。わずか28歳で病没しているが、残された作品は、今なおコンサートで取り上げられるなど、長命を誇っている。
貴志はペンタトニックを盛んに用いているが、今現在の日本音楽ではペンタトニック(日本の場合は、ファとシの音がない「四七抜き音階」)を採用する方がまれということもあって、「日本ではないアジアのどこか」の音楽のように響く。


アンコールは2曲。まずは木琴独奏で、アール・ハッチの「人力車」。通崎は片手に2本ずつ、計4本のマレットを使って演奏した。

ラストは、ピアノの松園洋二も呼ばれて、平岡養一作曲の「おやすみなさい」が演奏された。

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