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2017年3月26日 (日)

コンサートの記(286) ザ・カレッジ・オペラハウス ブリテン 歌劇「ねじの回転」2011楽日

2011年10月16日 大阪府・豊中市のザ・カレッジ・オペラハウスにて

午後2時から、大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスでベンジャミン・ブリテンの歌劇「ねじの回転」を再度観る。

ベンジャミン・ブリテンの歌劇「ねじの回転」。私はある理由で2階上手通路席を選択した。事前に掛けた電話ではチケットが取れるかどうかわからないとのことだったが、行ってみると、ちゃんとその席は確保されていた。

「ねじの回転」は一昨日も観たので、キャストや筋書きなどは割愛させて頂く。

一つ、前回は気づかなかったが、今日はわかったことがある。マイルズが歌う歌詞の中に「リンゴの木」というものが出てくる。前回は気に留めなかったのだが、今日は、「ああ、これはエデンの園、つまりアダムとイヴの物語だ」ということに気がつく。なぜ前回気がつくことが出来なかったかというと「アダムとイヴが食べたのはリンゴというのは間違いで実はイチジクである」という知識があったからである。知識は邪魔にならないというのは嘘である。知識が邪魔して見えるはずのものが見えなくなることもあるのだ。しかし、今日気づけたのもやはり「以前はリンゴとされていた」という知識があったからで、やはりこれも知識のお陰である。知識は役立つことも邪魔になることもある両刃の剣(もろはのつるぎ)である。

これがわかってしまうと、実はほとんどの謎が解ける。女家庭教師が「私は無垢を汚してしまった」と語るのは教育を施したという意味であり、なぜグロース夫人が亡霊を見ることが出来ないかというと、グロース夫人は教育を受けていないので、教養がある人なら見えていることが見えていないのである。

「リンゴの木」がエデンの園のことだとわかれば、この物語の主題が見えてくるが、その知識がなければ、主題は絶対に見えない。

主題は知性である。悪より悪なものは「知性」である。知性は人を利口にするが、狡猾にもさせる。荀子は性悪説をとなえ、教育によって善に向かうとしているがそれは本当だろうか? 話は変わるが、日本が日清戦争に勝利して台湾を領土にしたとき、台湾の住民に教育を与えるかどうかで、政府の意見は二分している。その時、「教育は両刃の剣」という言葉が使われたこともわかっている。

マイルズは実に頭の良い子供で、女家庭教師が秘密にしていたことも見抜いていて、鎌を掛けてくる。おそらく学校で悪さをしたことは本当で、それが退学処分に値するものであるということも、幼いのに分かっているのだろう。

女家庭教師にはそれまで亡霊が見えていたのにラストで急に亡霊の姿を見失うのは、マイルズへの「愛は盲目」状態になったからだろう。ただ、マイルズを救おうという知性は働いており、これがマイルズの思考を引き裂き、死に追いやったという可能性も考えられる。

頭の良い人は成功しやすいが、不幸にもなりやすいことがわかっている。「知らぬが仏」という諺もある。

ここで、発せられてはいないメッセージが私に届く。「さて、わかってしまったあなた、あなたはそれでいいのですか?」という言葉である。確かに知的に分析して面白いオペラではあるが、主題が分からずに「難解だけど怖かったね」という感想を持った方が遥かに楽しいはずである。

ただ、知性や教育の怖さは知ってはいる。現在では、勤勉であること真面目であることは当然ながら「善」とされている。何の疑問も持つ必要がないかのように思われるが、実は勤勉や真面目が「善」とされたのは産業革命以降のことで、教育によって民衆に教え込まれたことである。実は民衆を労働力として使うために洗脳する必要があったために生まれた価値観なのだ。
江戸時代には日本は世界に冠たる文化大国であり、浮世絵などがフランス絵画に影響を与えた(ラ・ジャポニズム)。しかし、明治以降は一気に文化後進国になってしまった。「富国強兵」が国策になったからである。江戸時代は商人に仕える丁稚でも「あそこの店の丁稚はろくな教養がない」と言われるのを主が嫌い、業務中であっても、当時の教養であった「笛や太鼓の稽古に行け」と主が丁稚に命じたほど文化が重視されたことがわかっており、歌舞伎の大向こうに陣取るのは仕事よりも歌舞伎を優先させる商家の主が多かったことが確認されている。

それが一気に変わる。文化よりも経済や軍事が優先。それが「当たり前のこと」と教育により洗脳される。戦後も、「まず経済を建て直そう」と文化は等閑視され、経済を建て直すための優秀なサラリーマンを増やすのが良いため、「良い高校から良い大学に行って、良い会社に入ること」が善いことだとされ、実際、そういう風に生きるのが一番楽である。そういう社会にしたのだから当然なのであるが、実はこれは落とし穴なのではないのか? 頭が良いことは本当に善いことなのか? それが「当たり前」と思うのは洗脳されたからではないのか? 重要なのは頭が良かったり高学歴であったり高収入であることではなく、幸せは本来は自分で見つけるべきものであることなのに、あたかも絶対的な「幸せ」があるように思い込まされて、思考を停止させていないか? 日本は経済大国であっても文化三流国なので実は先進国とは本当は見なされていないという話も聞く。

そうした考えが「ねじの回転」のように螺旋状にグルグル回りながら頭に突き刺さる。

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