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2018年1月30日 (火)

元禄15年12月14日夜 江戸・両国 本所松坂町で起こった出来事 またそれに至るまでとそれから

※ この記事は2017年12月14日に書かれたものです。

 

播州・赤穂浪士討ち入り 本所・吉良邸跡 本所松坂町公園

元禄15年12月14日(1703年1月30日)赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りを果たす。

そもそもの発端は、播州赤穂浅野家の当主である浅野内匠頭長矩が、江戸城本丸松の廊下で、高家肝煎・吉良上野介義央(よしひさ)に突然斬りつけた事件である。四十七士が吉良邸に討ち入る前年、元禄14年3月14日のことである。

なぜ浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったのかについては諸説ある。吉良上野介は幕府と朝廷の間を取り持つ高家筆頭であり、江戸城を訪れる勅使接待の指南役であった。複数の大名が勅使を接待するための礼儀作法を吉良上野介から伝授される。浅野内匠頭も当然ながら吉良上野介の教えを乞うたわけだが、実は浅野内匠頭は以前にも勅使接待役を仰せつかっており、元禄14年の勅使接待は自身二度目のものであった。この元禄14年の初頭に吉良上野介は年始の挨拶と朝廷との折衝のために京都に赴いている。なんのための折衝かというと、時の将軍・徳川綱吉が母親である桂昌院に従一位の位階を贈りたいと切望しており、吉良が朝廷に働きかけていたのである。ということで、吉良はこの時は浅野内匠頭らに教える時間が十分に取れないという事情があった。勅使接待は複数の大名が行うが、この時は浅野内匠頭が吉良の補佐役であった。このため、儀礼を授かった経験のある浅野内匠頭が吉良のいぬ間に勝手に他の大名に指示を出していた可能性が指摘されている。

浅野内匠頭と吉良上野介にはそもそも因縁があった。徳川吉宗が町火消を創設するまでは、江戸の火事には大名火消といって、火事の延焼を防ぐ役割を大名家が交代で受け持っていたのだが、元禄11年9月、江戸で大火があり、吉良上野介の鍛治屋橋の屋敷も延焼を防ぐために取り壊された。この時の大名火消を担っていたのが実は浅野内匠頭だったのである。この時に吉良が浅野に恨みを持ったのかどうかはわからない。「火事と喧嘩は江戸の華」であり、十分な消火装置のなかった時代にあっては建物を壊されるのは当たり前であるため、いちいち気に留めなかったかも知れない。ただこのことがその後に全く影響しなかったのかどうかも不明なのである。

ちなみに、赤穂浪士が吉良邸に討ち入る時には、大名火消を表すだんだらの羽織で固めているというイメージがあるが、これは「仮名手本忠臣蔵」などで生まれたフィクションであり、事実ではない。

ともあれ、互いにあるいは片方に遺恨があったのか、松の廊下で刃傷事件が起こる。将軍・綱吉にとっては母親に従一位を贈れるかどうか重要な接待の場。それを血で汚されたのであるから、綱吉の怒りが尋常でなかったのもうなずける。

もっとも、殿中で刃傷に及べば切腹なのは当たり前であり、「両成敗」の原則が当てはまるのはどうかも微妙である。ただ浅野内匠頭は十分な取り調べも受けずに即日切腹となった。このことが赤穂浪士の怒りを買いその後の討ち入りを招いたことは確かだと思われる。

さて、ここで吉良家と浅野家の由緒について書いてみたいと思う。

吉良家は高家筆頭であり、足利源氏の血を引く名門である。石高こそ低かったものの、自家よりも格の高い吉良家は徳川将軍家にとって面白くない存在でもあった。

浅野家は、豊臣秀吉の正室である高台院(北政所)が養女に入った家であり、本家は安芸広島42万石の大藩である。豊臣恩顧の大名が次々と改易される中で浅野家だけが命脈を保っていた。赤穂浅野家はその広島浅野家の分家である。そして一族の誰かが問題を起こしたら本家にも類が及ぶ。そういう時代である。

徳川将軍家にとって松の廊下事件は、目障りな吉良・浅野の両家を取り潰す機会でもあったわけである。

しかし、徳川家も吉良上野介には簡単に手出しできない状況があった。吉良上野介の長男・三之助が、米沢・上杉氏の養子に入り、藩主・上杉綱憲となっていたのである。吉良に処分を下すと上杉からの反発があるのは目に見えており、吉良がお咎めなしとなった理由の一つとして出羽国主・上杉氏の存在があったのかも知れない。

さて、当主を失い、浪士となった赤穂の侍たちであるが、当初の目標は吉良への復讐ではなく、長矩の弟、浅野大学長広を次期藩主としてお家の再興であった。しかし、赤穂浅野家の再興は許されず、浅野大学は永蟄居処分。赤穂城にいた浪士たちは芸州広島の浅野本家から大人しく開城するよう命じられ、これに応じている。この頃から巷間でも赤穂の浪士たちが吉良に復讐するのではないかという噂が立つようになった。

吉良邸に討ち入りがあるとしたらリーダーとなるのは当然ながら家老の大石内蔵助良雄をおいて他にない。しかし大石はといえば、京の東にある山科に閑居し(現在、大石の山科邸の後に大石神社が建っている)伏見の橦木町遊郭への出入りを繰り返しており、家老時のあだ名である「昼行燈」そのものの行動を見せる。もっともそれは見せかけだけで、橦木町遊郭では吉良邸討ち入りのための密議が行われていた。ただ大石はなかなか旗幟を鮮明にしない。そうこうしているうちに江戸の堀部安兵衛らが自分達で行動を起こそうとしてるという情報を入る。ちなみに、大石内蔵助が祇園の一力で遊んだという話が広まっているが、一力で遊んだのは「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助で、大石が一力に出入りしたという事実はない。

江戸でも動きがある。吉良上野介が呉服橋から本所松坂町への屋敷替えを命じられたのである。呉服橋は町中の大名屋敷街であったが、本所松坂町は隅田川の東、当時はまだ下総国である新興住宅地。江戸最大の歓楽街である両国がすぐそばに出来るのはまだ先の話である。江戸の渦郭式町並の外でもあり、討ち入ろうと思えばいつでも討ち入れるような守備の手薄な場所でもあったわけである。このことについて、幕府が赤穂浪士に吉良を討たせるよう仕向けたという説も存在する。

討ち入り決行のための環境は整っていた。

元禄15年12月14日は、浅野内匠頭の祥月命日であった。吉良は屋敷を空けることも多く、首を挙げるには吉良が確実に在宅している日を狙う必要がある。この日、吉良邸で吉良も出席する茶会が開かれることを赤穂浪士たちはつかんでおり、吉良上野介が屋敷にいることは明白であった。なお、残念ながらこの日は雪ではない。雪が降っているのは芝居の中だけの話である。

さて、ここからは有名な討ち入りの話となるのだが、「忠臣蔵」が日本を代表する敵討ちの話として人気があり、赤穂浪士たちが忠臣の鑑として褒めたたえられるのもある意味当然といえる。討ち入りがあったその日から、隅田川界隈では町人たちが吉良の首を掲げて泉岳寺へと向かう浪士たちに喝采を送り、握手やサインまで求めたという話が残っており、明治に入ってからも泉岳寺には「忠臣蔵」大好きの川上音二郎が毎月墓参に訪れていたりする。討ち入りの直後から今日に至るまで赤穂義士はずっと人気なのだ。

なのであるが、この「忠臣蔵」、本当に美談なのだろか? 客観的に見れば、一人の老人を四十七人の大の男が追い詰めて殺す話であり、陰険な印象まで受ける。

本所松坂町には現在、小さな公園が出来ており、吉良上野介義央の像が建っており、この像を見て吉良をしのぶ人も少なくないように思う。「悪人吉良を正義の赤穂浪士たちが討ち果たす」果たしてそんな筋書きだけで良いのだろうか?

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園内 吉良上野介義央公像

赤穂浪士には討ち入る大義があるように思われる。主君を自害に追い込まれ、お家の再興もならない。「ならば吉良邸に討ち入って華々しく散ろう」。これが巷間流布されている討ち入りの大義である。しかし、実は浪士たちは自分達全員が切腹処分になると覚悟していた節はどうやらないようなのである。仇の首を取って潔く散るためでなく吉良邸に討ち入った理由が浮上する。浪士になってしまったからには再就職を果たしたいという現実的で切実な理由である。本所松坂町での出来事は再就職のためのデモストレーションだったという説もある。忠義のために行ってはいたであろうが、「忠臣ぶりを発揮して他家に取り立てて貰おう」という計算をしていた浪士が一人もいなかったというのは美談に過ぎるようにも思われる。

討ち入りに至るまでには様々な要素が入り混じっている。将軍・綱吉は母親への従一位贈位に腐心しており、朝廷からの勅使の前でいいところを見せておきたかったのだが、それに冷水を浴び去るような出来事が起こった。そのために浅野内匠頭は即日切腹となるもこれが遺恨となった。刃傷沙汰の理由はわからないものの、吉良上野介は幕府から目を付けられる出自を持っていた。赤穂浅野家再興はならず、お取りつぶしが決まったが広島の浅野本家を守るために抵抗は出来ず、最早やることといえば吉良邸の討ち入りしか見いだせなくなった。幕府も吉良に直接処分を下せば米沢上杉家の離反を招くかも知れないが、赤穂浪士に討ち入らせたなら自らは手を下すことなく目の上のたんこぶである吉良家を取り潰すことが出来る。

歴史というものは一人の作者によって書かれるものではない。トルストイが『戦争と平和』で繰り返し書いたように巨大な流れがあり、人一人はその流れの中の一要素に過ぎないのである。しかし様々な要素がまじりあった結果、一つのストーリーようなものが出来上がる。最も有名なのが「忠臣蔵」として知られるストーリーである。しかしそこには綱吉の姿も、桂昌院への従一位贈与問題も、上杉家の事情も見えない。諸要素が取り除かれて、「悪を正義の士たちが討つ」というわかりやすい話に仕立てられている。あるいはあったかも知れない徳川の陰謀は美談の後ろに消えてしまっているのである。また浪士の志が一つだったとすることで個々の事情なども見えなくなってしまっている。本当は忠義よりも大切なものがあったかも知れないのに。浪士が全員切腹させられたことで小さなストーリーはこの世に証拠すら残すことなく消え去ってしまった。

勧善懲悪のストーリーに、人々は歓呼の声を挙げる。そこにあったかもしれないもう一つの、あるいは複数の物語に思いをはせることなく。

元禄15年12月14日夜、本所松坂町で起こったのは、一人の老人を四十七人の浪士が襲い、首を挙げたということである。悪や正義がどちらにあったのか、あるいはどちらにもあったのかなかったのか。そのことは歴史に準備されたことをなぞっただけだったのかあるいは個人の意思によるものだったのか。彼らが本当に望んでいたことがその他にあったのか。小さな団体が巨大な組織の手のひらで転がされただけなのかあるいは風向きを変えることに成功したのか。

 

その後、四十七士は名誉の切腹となり、吉良上野介義央の孫である義周は事件の責任を取らされて改易処分となった。桂昌院は無事に従一位を賜り、将軍・徳川綱吉は討ち入り事件の6年後に死去。浅野内匠頭の処分に深く関与していたといわれる柳沢吉保は順当に出世し、広島浅野家は英雄となった大石内蔵助の息子・大三郎を家臣として召し抱え、重用した。

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