« いちご世代の悲哀 | トップページ | 記号の海 »

2018年1月26日 (金)

観劇感想精選(227) 大竹しのぶ主演「欲望という名の電車」

2018年1月6日 大阪の森ノ宮ピロティホールにて観劇

午後5時から、森ノ宮ピロティホールで、「欲望という名の電車」を観る。テネシー・ウィリアムズの代表作。以前に兵庫県立ピッコロ劇団が上演した岩松了演出の「欲望という名の電車」を観たことがあるが、それ以来、二度目の同作観劇である。テキストは小田島恒志(おだしま・こうし)の新訳を使用。演出はフィリップ・ブリーン。出演:大竹しのぶ、北村一輝、鈴木杏、藤岡正明、少路勇輔(しょうじ・ゆうすけ)、粟野史浩、明星真由美(みょうせい・まゆみ)、上原奈美、深見由真、石賀和輝、真那胡敬二(まなこ・けいじ)、西尾まり。

荒っぽい南部の街、ニューオーリンズ。ジャズ発祥の街でもあるここでは安ピアノやサックスの音がしている。ブランチ・デュボワ(大竹しのぶ)は、この街で「欲望」という名の電車に乗り、「墓場」という名の電車に乗り換えて、「天国」と呼ばれる場所にやって来た(これらの名称の電車や地名は実在した)。そこはニューオーリンズの猥雑な下町。ブランチは、妹のステラ(鈴木杏)を頼ってここに来たのだ。ステラは工場で働くスタンリー・コワルスキーというポーランド系の男(北村一輝)と結婚して「天国」という名の街に住んでいる。ブランチとステラは南部の大農園ベル・レーヴで育ったお嬢様だが、ステラは南部の荒くれ男であるスタンリーを結婚相手に選び、粗末なアパートに住んでいた。ブランチはステラと二人となった時に、スタンリーについて、「下品」「小学生並み」「人間以下」「類人猿」と酷評する。だがそれをスタンリーが聞いていて……。

とにかく陰惨な戯曲を書いたテネシー・ウィリアムズ。「欲望という名の電車」は、エリア・カザンの監督、ヴィヴィアン・リーの主演により映画化されているが、「問題あり」とされて大幅なカットを余儀なくされている。戯曲を読んだことがあり、上演を一度観たことがある私の目にもラストシーンなどはかなりショッキングに映った。

今回の大竹しのぶは、あたかも歌うような台詞回し。黒柳徹子が同じような台詞回しをしていたことを思い出す。特徴があるのでセリフが耳に入りやすい。
その大竹しのぶであるが、ブランチの心理状態に合わせて次々と別の女に変貌していくという凄絶な演技を披露。やはりこの人は天才以外の何者でもない。真似しようと思っても無理である。そして大竹しのぶは本当に美しい女優である。

今日は前から2列目の下手端に近い席だったのだが、そのお陰で、鈴木杏の目の演技力を確認することが出来た。ラストにあるわずかな救い。その救いと絶望に引き裂かれそうになりながら佇む鈴木杏の姿はあたかも名画に描かれた人物のようであった。鈴木杏も本当に素晴らしい女優になった。

ワイルドな男の演技を得意とする北村一輝も流石の安定感。現在の日本人俳優の中でスタンリー役が一番似合うのはやはり北村一輝だろう。

ユーニス役を演じた、私と同い年である女優の西尾まり。ラスト近くに出てくるセリフの「人生は続けていかなきゃならないの。何があっても生きていきましょう」という言葉が胸に染みた。

上手袖と下手袖をがら空きにして、舞台中央部にセットが組まれる。二階建ての白壁の建物。芝居が始まると、白壁が描かれた幕が上に上がり、アパートメントの一室が現れる。休憩中には降りていた幕に蛾の羽ばたく影が投影される(「欲望という名の電車」は創作過程においては「蛾」というタイトルが与えられていた)。
袖が開いているため、開演時間が近づいていたときに、鈴木杏さんが下手袖からセットへと歩いて行くのが見え、「お、役者が出てきた」と感じられるのが面白い。
メイン以外のキャストがニューオーリンズ市民としてアパートメントの裏で様々な市民生活を行っているという演出であり、「見えないけれど悲劇はその辺で起こっているのだ」というメッセージを受け取ったような気分になった。

|

« いちご世代の悲哀 | トップページ | 記号の海 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/40048/66325362

この記事へのトラックバック一覧です: 観劇感想精選(227) 大竹しのぶ主演「欲望という名の電車」:

« いちご世代の悲哀 | トップページ | 記号の海 »