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2018年1月の23件の記事

2018年1月18日 (木)

笑いの林(99) タナからイケダ単独ライブ「神方MANZAI~白虎~」

2018年1月12日 道頓堀ZAZA POCKET'Sにて

午後8時45分から、道頓堀ZAZA POCKET'Sで、タナからイケダ単独ライブ「神方MANZAI~白虎~」を観る。
京都府住みます芸人のタナからイケダ。といっても田邊猛德が3児(うち双子一組)の父ということもあり、現在は大阪に戻っているのだが、京都府内のイベントに参加しているほか、祇園花月でのレギュラー公演、KBS京都への番組出演などを継続している。ということで京都府在住者が応援したくなる漫才コンビである。といっても私は京都人ではなくバリバリの関東人なんだけどね。

京都でも単独ライブを行って欲しいのだが、京都でやっても集客が見込めないということもあり、単独ライブは比較的小さなZAZA POCKET'Sを常打ち小屋のようにしている。

隣のZAZA HOUSEには何度も入ったことがあるが、ZAZA POCKET'Sは初めて。いかにもライブハウス然としているZAZA HOUSEに比べてZAZA POCKET'Sはブラックボックスタイプの小劇場のような感じである(実際にそう使われている)。

登場の挨拶に続き、まずは1本目の漫才。
イケダの方の池田周平が、ミュージシャンに憧れているということで、2週間前に音楽家を志したばかりのノセタカシというミュージシャンに扮してサンメゾン502という場所でライブを行う。田邊は観客役である。
サンメゾン502という場所はマンションの一室。しかもノセタカシの自宅だそうである。ノセは「2階席のみんな!」と呼びかける。ロフトにオーディエンスがいるらしい。更に「寝室のみんな!」と言うが返事がない。田邊が「寝てるんじゃないですかね」と言う。ちなみにお隣の501の住民は壁を叩くことで騒音苦情を言ってくる。
ノセは、「いくぞ! いくぞ!」と連呼するが、それが1曲目の「いくぞ」であったという謎の展開。バンドメンバーの紹介になるが、紹介されるのはノセの父と母で単なる家族紹介に終わる。
ノセの小学校、中学校、高校と一緒だった同級生が昨年、ガンで亡くなったという話をするのだが、「47歳の若さで」と語り、田邊に「え?! お前、今、48なん?! そんで2週間前にミュージシャンになったん? きっしょ!」と言われる。

フリップでで8人漕ぎの自転車と、なぜかおじさんが乗っかっている9人乗りの自転車の写真が紹介され、田邊と池田が音声で語る場面の挟み、2つめの漫才。
池田が、「若い女の子の話す日本語が乱れている」という話をするのだが、スターバックスコーヒーのことを「スタコ」と略したり、激怒(「げきど」ではなく「激おこ」)のことを「げきいか」と読んだり、無理に若者言葉を使おうとして変になるというネタである。スターバックスにまんじゅうを持ち込んでいるおじいさんがいたそうで、「まじまんじゅう(まじ卍を間違えて覚えていた)」と言ったかと思えば、「まんじゅう持ち込んだらあきまへん」と急に古くさい言い方になったりする。実はそのおじいさんが親戚だったというオチなのだが、田邊に「なにその謎のオチ」と言われていた。


心霊写真ネタのフリップ&音声ネタは挟んで3つめの漫才。
田邊と池田と後輩芸人2人と計4人で、来週、日帰り旅行に出掛けるそうだが、後輩芸人は二人とも運転免許を持っていないそうで、田邊と池田の二人が運転しなければならないのだが、池田が、「行きしなは俺が運転してやるよ」と言い、田邊に「なに? してやるよ。って俺も行きしなの方が良い。帰り疲れるやん」と言う。池田は「行きしなーいと(息しないと)疲れるよ」とだじゃれで返す。
池田のプランではスキー場に行って6時間スキーをするそうなのだが、その後、温泉に行き(田邊「粋やん!」)、その後、4時間ほど蟹パーティーをしながら酒を飲むのだが、田邊が「俺、飲めへんやん?!」となる。池田は、「俺も飲みたくないねん。でも先輩の俺が飲まんと後輩の二人が飲めへんから」ということで飲むそうで、やはり飲みたいがために田邊を帰りのドライバーにしたいようだ。更にバーに行く予定も入っているようで、田邊に「最初から飲む気満々やん!」と突っ込まれる。


池田がエジプトの滞在2時間の旅行に行ったという設定の写真が出て、音声が流れる。ギザの三大ピラミッドを背景に池田が記念写真に収まっているのだが、ピラミッドを先ほどのおじさんが乗っかった9人乗り自転車が昇ろうとしているという意味不明の絵が出てくる。


最後の漫才。「新幹線のワゴン販売」。田邊がワゴン販売員、池田が客に扮するのだが、池田はワゴンのところまでズンズン歩いてきて注文するというあまりいないタイプの客を演じる。すぐそばにいるひげもじゃのお客さんを池田は、「海賊だ、海賊だ」といじる。田邊は「海賊じゃないですから! 海賊は陸路を通らない!」
で、注文するのだが、「キャベツある? 豚肉ある? 小麦粉ある?」で新幹線の中でお好み焼きを作ろうとする変な客になってしまう。「大阪に住んでて東京に行くのに2時間半掛かるっていうからその間に」お好み焼きを作ろうと考えたそうだ。池田は、大阪銘菓「りくろーおじさん」の焼きたてチーズケーキをお土産として10人分持っているのだが、それだけでは足りないようで、「コーヒー容れて、ホットで10人分」と社内販売のコーヒーをお土産にしようとする。更に先ほどのおじさんを「海賊が陸路を取ってるから、りくろーおじさんだ」と茶化して、田邊はつい「あの人は、りくろーおじさんじゃありません! 海賊です!」と言ってしまう。
田邊はポテトチップスを勧める。関西限定の関西だし醤油味である。やはり10個買おうとする池田だが、田邊に「4000円です」と言われて、「高!」と普通の反応。田邊に突っ込まれていた。


ラストはコーナー。池田軍団格付けランキング。池田の子分のようなものであるTHIS IS パンのTHIS IS 岡下、絶対アイシテルズのラブおじさん、マユリカ・中谷、ニメートルズの欅が参加する。
まずは、池田の良いとこしりとり。池田の良いところをしりとりで挙げていくのだが、池田が指定した「池田の『だ』」に岡下は、「大事な子供を三人抱えて頑張っている」と言って、田邊に「それ俺や!」と突っ込まれていた。その後、語尾が「る」になる言葉が続くのだが、岡下が「ルーマニア人……だっけか」と言って、「ん」でアウトになりそうだったが、結局タイムアウトまで続いた。

次は、「池田が最近、一番驚いたこと早押しクイズ」。タイトル通り、池田が最近、一番驚いたことを当てるのだが、池田自身が答えを忘れているというハプニングがある。答えは、「ニメートルズ・欅の結婚披露宴に行ったところ、客が芸人しかおらず、昔なじみは一人も呼ばれていなかったこと」。欅は余り売れていない芸人だといういうのが恥ずかしくて、昔なじみを一切呼ばなかったらしい。

最後は、様々な飲み物を池田軍団のメンバーが飲んで、飲み残しを池田がちゃんぽんにして一人で飲むというもの。飲み物の中には、コーラ、オレンジジュース、栄養ドリンク、コーヒーなどの他に、だし汁、青汁、タバスコドリンク、センブリ茶などがある。THIS IS 岡下がタバスコドリンクをトマトジュースだと勘違いして一気飲みするというハプニングがあったが、飲み残されたのはコーヒー、青汁、センブリ茶。混ぜて飲むのだが、「ザリガニがいる池みたいな色」と中谷が言い、田邊も「深泥池(京都市の北部に太古からある池。心霊名所としても有名である。読みは「みぞろがいけ」と「みどろがいけ」の2種類があるが、田邊は「みぞろがいけ」を採用していた)の水みたい」と例える。
池田の感想は、「苦いけど、後からコーヒーが鼻に抜けてくるから」案外美味しいらしい。センブリの苦さはコーヒーの苦みによって中和されるようだ。

ランキング1位は、なぜかこの場にいないマルセイユ・津田に決定。池田が津田に向けて書いた「風邪を引いてないですか、私は風邪を引かないよう気をつけていたら、めばちこ(ものもらい)が出来てしまいました」という変な内容の感謝状が朗読された。


タナイケさんも、3年後ぐらいにはM-1チャンピオンを狙えるだけの力はあるように思う。

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「将軍頼家」 頼朝の死、もう一つの説を描く

※ この記事は2017年12月27日に書かれたものです。

1198年12月27日、相模川で行われた供養から鎌倉に戻る途中の源頼朝が落馬し、これが元で翌1月13日に死去したとされます。武家の棟梁たる頼朝が落馬することは考えられず、「平家の呪いか」と噂されました。

しかし、この落馬は創作されたものとする話があります。源頼朝の死には異説が存在するのです。

それは女のもとに通う途中の頼朝が変質者に間違えられて斬られたというものです。

「英雄色を好む」とはよくいわれる言葉ですが、源頼朝も相当な色好みでした。正妻(北条政子)や側室もいましたが、それでも他の女性と逢瀬を重ねたい、ただ正妻の北条政子はご存知の通り怖い人でしたので、頼朝はいわゆる夜這いを重ねていたとされています。夜にこっそりと、しかも顔を隠すように歩いていたらそれは怪しまれても仕方ありません。というわけで斬殺されてしまったというのです。

この説を基に書かれた歌舞伎の演目が「将軍頼家」です。昭和7年初演の新作歌舞伎で、作者は真山青果(まやま せいか)。劇中では頼朝が北条政子お付きの女性に懸想して、女装して会いに生き、重臣の畠山重保に怪しまれて斬られたということになっています。将軍が変態に間違われて殺されたとあっては源氏末代までの恥。

次期将軍になる源頼家は、父の死の真相を知りたがりますが、誰も教えてくれません。息子であり、生まれながらの将軍でありながら父の死の模様を誰も語ってはくれない。そのことで頼家はやけになっています。

結局、源氏の誇りを守るために、北条政子も畠山重保も秘密を押し通し、将軍に対する扱いではないと嘆く頼家を政子(尼御台)は、「人は一代、家は末代」と切り捨てるのでした。

 

実はこの「将軍頼家」、私が初めて観た歌舞伎の演目です。1996年12月、東京・築地の歌舞伎座での上演でした(「将軍頼家」、「積恋雪関戸」、「新皿屋敷月雨暈」の3演目の上演)。頼家を演じたのは5代目坂東八十助(のちの10代目坂東三津五郎)。花のある八十助の容姿が、育ちの良い将軍である頼家の雰囲気をよく表していました。

三津五郎の演技は、京都に来てからも2011年暮れの四條南座での顔見世や現代劇などでも楽しみましたが、その三津五郎も2015年に他界しました。

三津五郎がまだ八十助で頼家の格好をしていたのが昨日のことのように思えるのに、時の流れは速いものです。

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富岡八幡宮案内

残念な事件で有名になってしまった東京都江東区の富岡八幡宮。ただここは東京屈指の名門神社であり、見どころがたくさんあります。今日はそれをご紹介していきたいと思います。

まずは本殿。二階建ての立派なものです。

八幡宮であるため、祭神は当然、八幡神(誉田別命=応仁天皇を合祀)です。

 

境内の花本社には松尾芭蕉が神として祀られています。その名も松尾芭蕉命(まつおばしょうのみこと)。そのまんまですね。

ちなみに私は松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭は暗記していますので、案内のお姉ちゃん相手に暗唱して、ポカーンとさせました。

 

富岡八幡宮は、伊能忠敬が測量の旅に出掛ける前に参拝した神社です。ということで伊能忠敬の銅像もあります。

 

富岡八幡宮の最大の特徴は、大相撲関係の碑が充実していること。まずは横綱力士碑。

 

最近話題の人の名前も勿論あります(左下に注目)。

 

最強の力士といわれながら素行等が問題で横綱になれなかった雷電為右衛門の名前も番外に「無類力士」として刻まれています。

 

富岡八幡宮の一番人気は、横綱でも大関でもなく、強豪関脇碑に刻まれたこの人なんです。

皆が触るので変色してます。

 

そして富岡八幡宮の遺産というべきものが、昭和天皇御製のこの歌です。

「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」

昭和20年3月18日に富岡八幡宮を視察された時の思いがこのお歌に込められたとされています

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2018年1月17日 (水)

伏見の明治天皇

※ この記事は2018年1月9日に書かれたものです。

慶応2年12月25日、京都御所(禁裏)において孝明天皇が崩御。翌慶応3年1月9日(西暦1867年2月13日)、のちに明治天皇となる睦仁天皇が践祚されました。当時14歳でした。京都最後の天皇(即位の礼を京都で執り行った最後の天皇は昭和天皇です)にして東京最初の天皇となった明治天皇。御一新を推し進め、大国との二度の戦争で勝利を収めた時代の天皇として明治大帝と呼ばれることもあります。東京を始め、広島、名古屋、千葉県習志野市などにその足跡を残している明治天皇ですが、この京都市伏見区にも明治天皇ゆかりの場所が存在します。いや、ここ伏見にこそ明治天皇は眠っているのです。

実は京都の人もあまり知らなかったりするのですが、明治天皇の陵墓は伏見に存在します。伏見城本丸跡にある伏見桃山陵がそれです。

「明治天皇に感謝を」

明治天皇の時代から一世一元の制が施行されていますので、明治天皇が崩御されたのは明治45年だとすぐにわかるわけですが、当時の東京市民は明治天皇は東京にお眠り下さるものだと思っていました。しかし明治天皇陵は伏見に築くということが発表され、それも明治天皇が早くからお決めになっていたことだと知った東京市民は動揺。「体は京都に眠るとしても御魂は東京に御止まり頂きたい」ということで、明治神宮の創設計画が立案されるということになります。

明治神宮の話はいずれどこかで書くとして、明治天皇伏見桃山陵の存在こそが伏見という街の価値を一層高めていることは疑いの余地がないでしょう。

伏見桃山陵があるのは先にも書いた通り豊臣秀吉が築城し、徳川家康も居城とした伏見の城跡。伏見城は二度築城されていますが、第一期の指月伏見城ではなく、第二期の木幡山伏見城の方です。徳川家光によって伏見城が廃城になった後、木幡山には桃の木が植えられ、桃山の別名が生まれます。「安土桃山時代」の桃山です。またかつて城があったということも庶民には知られていたようで、幕末の京・伏見の地図を見ると「城山」との記述があります。

その伏見城の本丸に明治天皇は自らの墓陵を築く計画を立てました。

(木幡山)伏見城は築城の名手である豊臣秀吉の最高傑作ともいうべき堅城です。今でも周囲の状況を検分すると、難攻不落ぶりを確認することができます。そして天下人の城だけあって眺望も抜群です。一国の主が眠るには最適の場所と申せましょう。やはり明治天皇は慧眼の持ち主だったと見てよいと思います。

明治天皇伏見桃山陵前からの眺めがこちら。

写真でも眺めの良さは確認できると思いますが、肉眼で見るとまさに絶景。遠く大阪まで眺めることが出来ます。

ちなみに伏見城二の丸跡から本丸跡にある御陵に向かう途中にあるのが、

ご覧の巨大急階段。伏見城本丸がいかに急峻な場所にあったかがわかります。伏見城に籠城する鳥居元忠を攻めた石田三成勢は本丸を落とすのに四苦八苦するわけですが、それもむべなるかなです。

伏見桃山御陵へのアクセスは、近鉄に桃山御陵前駅というそのままずばりの駅があるほか、JR桃山駅、京阪本線の丹波橋駅と伏見桃山駅、京阪宇治線桃山南口駅などから徒歩で向かうこと出来ます。いずれも15分~30分ぐらい掛かるので、アクセス良好というわけではありませんが、人が押し寄せるような観光地でもありませんし、明治帝が心安らかに眠るためには騒がしくない方が良いため、こうした環境は適切だと思われます。京阪丹波橋駅で降りて伏見桃山陵に向かうと、途中で最初の京都天皇である桓武天皇の陵墓(柏原陵)にも立ち寄ることができるのでお薦めです。

少し北に上がったところに近鉄が建てた伏見桃山城天守閣が伏見のシンボルとして聳えている(耐震の問題で、現在は中には入れません)他、その周辺の、以前に伏見桃山城キャッスルランドという近鉄の遊園地があった場所は、現在は京都市によって整備され、伏見桃山城運動公園となっています。ここの野球場では日本女子プロ野球の試合などが行われています。模擬とはいえ天守の見える野球場なので、お城と野球の両方が好きな方にはもってこいです。

明治天皇伏見桃山陵の周辺には他にも乃木希典を祀る(京都)乃木神社が鎮座し、伏見城大名屋敷の名残が地名に残っているなど、日本の歴史を感じられる場所が数多く存在しています。

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悲運の天才指揮者 クラウス・テンシュテット

※この記事は2018年1月11日に書かれたものです。

クラウス・テンシュテット
                    ©NAXOS JAPAN

1998年1月11日、旧東ドイツ出身で、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督として一時代を築いた名指揮者、クラウス・テンシュテットが死去した。71歳と、指揮者としては若くしての死であった。

1926年、ドイツのメルゼブルクに生まれたクラウス・テンシュテット。最初はヴァイオリンを学び、ドイツのハレ歌劇場のコンサートマスターとして活躍したが、指の病気に罹患し、ヴァイオリニストとしての道を諦め、指揮者に転身する。ハレ歌劇場の指揮者を経て、東ドイツ国内の歌劇場の音楽監督を歴任。東ドイツでの活動は順調であったが、旧東側の常として様々な制約があり、不満を抱いたテンシュテットは1971年に西側に亡命。西側諸国で確かな表現力による演奏を行い、間もなく「50代の大型新人指揮者」と呼ばれるようになり、一気に注目を集める。時を追うごとにその強烈な音楽性は評価を高めていき、「帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤンの眼鏡にかない、「カラヤンが直々にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の次期芸術監督に指名するのではないか」という噂が絶えないようになる。

1983年、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任。ロンドンでのテンシュテットの評価は極めて高く、「オットー・クレンペラーの再来」という最大級の賛辞を受ける。「ロンドン・フィルの演奏会はテンシュテットの指揮以外では客が入らない」とまでいわれるようになっていら。ちょうど、80年代にロンドンで暮らしていた友人が、ロジャー・ノリントン指揮のロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴きに行こうとしたところ、ホールの近くにいたイギリス人に、「You Know? You Know?」となんども聞かれたそうである。「テンシュテットの指揮じゃないんだぜ、お前、本当にわかってるのか?」という意味である。テンシュテットがいかにロンドン市民から敬愛されていたかがわかる。

そんなテンシュテットであるが、アルコール中毒だったようで、リハーサルも常にウィスキーの小瓶を忍ばせており、リハーサルが上手くいかなくなると指揮台の上でウィスキーをラッパ飲みしていたという話が伝わっており、それが悪影響をもたらしたのか、喉頭がんに侵されるようになる。

1987年にテンシュテットはロンドン・フィルの音楽監督を辞任。ロンドン楽壇は火が消えたようになり、「テンシュテットのいないロンドン・フィルは、ミック・ジャガーのいないローリングストーンズのようだ」という言葉が新聞紙上に踊った。

その後、癌の状態が好転して指揮台に復帰しては悪化して静養に戻るという細切れの演奏活動が続くも、癌の転移によって動くことすら制限されるようになり、1998年1月11日に他界。十二分な実力に恵まれ、「これから」というときに病魔に倒れたテンシュテットは「悲劇の天才指揮者」として今も音楽ファンの脳裏にその雄姿が焼き付けられている。

 

テンシュテットの代名詞ともいうべき得意レパートリーはマーラー。レナード・バーンスタインらと共に、現代を代表するマーラーのスペシャリストとして著名であり、ロンドン・フィルと「マーラー交響曲全集」をEMIに録音。その後、ライブ録音による全集も出たほか、シカゴ交響楽団との「巨人」なども激賞されている。

生前は、ベートーヴェンの演奏などは必ずしも高くは評価されていなかったが、死後にBBCレーベルとLPOレーベル(ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団自主製作盤)から出た2種の第九はいずれもデモーニッシュな名演であり、録音史上に冠絶する第九としてベストセラーを記録。テンシュテットの名声は死後においてより高まった趣すらある。

 

テンシュテットの名盤としてまず挙げたいのは、バイエルン放送交響楽団を指揮したブルックナーの交響曲第3番「ワーグナー」(Profile)。ワーグナーに捧げられたためこうしたニックネームをもつこの曲の歴代の演奏の中でトップをうかがう出来である。

そのワーグナーでもベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した管弦楽曲集をリリースしており、録音に多少問題があるものの好演を示している。ロンドン・フィルハーモニーとの演奏では、LPOレーベルから放送用音源を基にしたワーグナー演奏も21世紀に入ってからリリースされ、その完成度は多くの音楽ファンを驚かせることになった。

そしてベートーヴェンの第九。先に書いた通り放送音源からCD化されたものが2種類出ているが、いずれも音像の背後に、得体のしれぬエネルギーが満ち満ちたもので、フルトヴェングラーやトスカニーニなど、大巨匠の時代の第九に繋がるものが感じられる凄絶な演奏となっており、必聴である。

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クランベリーズ 「Dreams」

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ヘンデル 歌劇「リナルド」より“私を泣かせてください” カストラート歌手バージョン

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三善晃 こどものピアノ小品集「海の日記帳」 ふたたび

三善晃は私にとって特別な作曲家である。

東京大学文学部仏文科在学中にパリ国立高等音楽院(パリ音楽院。コンセールヴァトワール・パリ)に留学した三善は、東京芸術大学や桐朋学園大学の教員を務めながら作曲活動を開始、支倉常長を主人公にした歌劇「遠い帆」(余談であるが、初演の総監督を務めた故・観世榮夫は私の師の一人であり、2013年の上演で演出を務めている岩田達宗とは知り合いである)、交響三章などのほか、札幌オリンピックのファンファーレやNHK大河ドラマ「春の坂道」の音楽なども作曲している。

そんな三善の作品の中から、今日はピアノ曲集「海の日記帳」を紹介しようと思う。

楽譜「海の日記帳」

「海の日記帳」は、子供のために書かれたピアノ曲集であり、技巧的には平易なものが多い。ただ、「子供のためのピアノ曲は退屈なものが多い」と考えていた三善はこうした楽曲にも本気で取り組み、弾くのは平易で聴き映えのする音楽を作曲。子供たちに親しまれるだけでなく、プロのピアニストもこの曲集の音楽をコンサートで取り上げるほどのクオリティの高さを誇るものを書き上げた。

下にYouTubeの映像を張ってあるので、それをお聴きいただくとして、音楽以外のこの曲集の特徴としては、詩的なタイトルが挙げられる。「海のゆりかご」、「波が二人で……」、「シシリー島の小さな貝がら」、「海の弔列」、「沈んでいった鍵盤」、「シレーヌの機織り歌」、「手折られた潮騒」、「磯波のキャプリス」、「波のアラベスク」など題名を見ただけでどんな曲なのか聴きたくなる楽曲が目白押しであり、曲の内容もそれに十二分に応えるものである。

子供にピアノを教えるならバイエルやブルグミュラーよりも「海の日記帳」を用いたレッスンの方がずっと効果的であるように思われる。

このピアノ曲集には、三善晃が演奏したCDが出ており、三善のピアノ演奏の記録という意味でも貴重なものになっている。

実は私の戯曲「海のソナタ」は、「海の日記帳」に大いにインスパイアされたものである。劇中で実際に主人公が「海の日記帳」の曲を奏でるシーンも存在する。

 

 

 

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バラキレフはお好き

いきなり「バラキレフはお好き?」と聞かれても、そもそもバラキレフが誰なのかご存じない方の方が多いと思われますので、紹介をまず行います。

バラキレフはロシア音楽史上における最重要人物の一人なのですが、現在では作品よりもその存在の歴史的意義においてよく知られています。

バラキレフが活躍した時代、西欧ではロシアは東の果ての謎の国というイメージでした。音楽的にも後進国であり、近代ロシア音楽の父と呼ばれるグリンカが世に出たばかりで、ロシア国内にはまともな音楽教育機関すらないというありさま。1862年にサンクトペテルブルク音楽院が設立されますが、アカデミックで高踏的な同校に対抗し、同年、民衆のための音楽教育機関として無料音楽院を立ち上げたのがバラキレフです。

バラキレフは西欧を真似た音楽よりもロシア人ならではの音楽を作ることに腐心し、それに共鳴して集まってきたのがいわゆる「ロシア五人組」(バラキレフ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディン、キュイ)でバラキレフはロシア五人組の頭目的存在でした。室内楽とピアノ曲という地味なジャンルの作曲に専心したキュイを除き、組曲「展覧会の絵」や歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」のあるムソルグスキー、交響組曲「シェエラザード」がとにかく有名なリムスキー=コルサコフ、歌劇「イーゴリ公」(だったん人の踊りが特に有名)と交響詩「中央アジアの草原にて」などの代表曲のあるボロディンなど、現在でも取り上げられる機会の多い曲を作っている人たちです。そしてバラキレフと交友した最大の人物がチャイコフスキーでした。

彼らに比べると、リーダー格であるバラキレフが地味なことは否めないでしょう。フランス六人組のリーダーであるダリウス・ミヨーも、プーランクやオネゲルに比べると知名度で劣るため、あるいは同じ現象だということも出来ます。リーダーの才能と創作力は必ずしも一致しない、あるいはリーダーであったがために作曲に専心出来なかったということもあるのかも知れません。

バラキレフの作品としては、ピアノ曲である「イスメライ」が有名ですが、ここでは完成までに33年を要したという交響曲第1番より第3楽章を紹介しておきましょう。

ロシア民謡を題材にしたとされる、ノスタルジックで美しい旋律が特徴です。これを聴けばあなたもバラキレフが好きになるかも知れません。

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2018年1月16日 (火)

笑いの林(98) 「笑激的! 年末年始SP~人気芸人たちのネタとコーナーライブ~」2018年1月8日

2018年1月8日 大阪・なんばのYES THEATERにて

午後4時から、大阪・なんばのYES THEATERで、「笑激的! 年末年始SP ~人気芸人たちのネタとコーナーライブ~」を観る。今日は3回公演で、午後2時開演の2回目の公演のチケットも取ったのだが、疲労感があるため、1回勝負限定に決めた。

今日の出演は、ギャロップ、ミキ、ウーマンラッシュアワー、桜 稲垣早希、かまいたち、斜に噛む、ラニーノーズ、おいでやす小田、ネイビーズアフロ。

ギャロップ。例によって林が、「皆さん、生えすぎですね」と言ってからスタート。林の子供が小学校に上がる年齢になったので「運動会なんかを見に行きたい」という話になるのだが、相方の毛利に、「そのまま(禿頭)でか?」と言われる。毛利は、「その頭だと、金網にしがみついて見るのがせいぜい」と言うのだが、「何かと思われるやん」と林は反論する。毛利に、「帽子かぶれ」、「包帯頭に巻け」、「バンダナはどうや?」と言われ、「帽子取れたら恥ずかしいやん」、「6年間ずっと頭に包帯巻いてたら、子供が友達から『お前の父ちゃんどうしたん?』言われるやん。(毛利に「運動会の季節だけや」と言われて)その方が変やん。『お前の父ちゃん、秋口になると毎年怪我するけどあれなんなん』言われるわ」、「バンダナはここ(額)巻くもんやん。ここ(頭頂部)丸出しやん」
ということでカツラを勧められるのだが、「幼稚園からの知り合いおるんやで、『お、小学校に入ったら元からそれだったつもりで行くんか』思われるやん」


姉弟漫才師のミキ。究極の選択ネタ。しかし「サーモンと鮭どっち?」で二人ともサーモンと答えるも、昴生「どっちも一緒や!」、亜生「うちではサーモンと言ってたので」、「うち、一緒や! 三木家、どうなっとんねん!」というように質問が変で答えもかぶる。
無人島に持って行きたいもの、亜生「高速艇とテレビ」、昴生「高速艇や! 無人島には電気がない!」、亜生「じゃあ、高速艇とトランプでは?」、昴生「高速艇や! 高速艇に乗って帰るんや!」、亜生「でも、無人島に誰かいたらトランプの方が楽しめるかも知れない」、昴生「おらん! 無人島や!」


ウーマンラッシュアワー。何度もやっているバイトリーダーネタをやるのだが、途中で村本がセリフを飛ばしてしまい、中川パラダイスと舞台上で打ち合わせを行うシーンがあった。演技かと思ったがそうではないようだ。
そして後半に、年末に話題になったアンチナショナリズムネタをやる。ただ、内容的にはともかくとして、お笑いとしてはこのネタはちっとも面白くないのである。


桜 稲垣早希。今日も「キスから始めよう」をやる。基本的に女性の胸キュンシチュエーションというのは時代の変化に余り左右されないので、多分、10年後にやっても通用するようなネタである。ただその頃に「壁ドン」も生きているのかどうかは不明。


かまいたち。山内が、「この前、UFJに行ったら、ゾンビが出てきて驚いた」と語る。ハロウィンの日だったそうだが、それ以前にUFJではなくUSJである。ということで相方の濱家にそれを突っ込まれるのだが、山内は間違えたのは自分ではなく濱家だという風に強引に持って行こうとする。
途中、スピーカーに音声トラブルがあったりしたが、「もっと引っ張って欲しい」と思うところで終わってしまう。持ち時間の関係だと思うがもっと見たかった。


斜に噛む。元日にも見た、まだ芸歴の浅いコンビである。久保弘樹が「くぼひろきであいうえお作文をする」というのだが、「く、久保弘樹 ぼ、ぼく久保弘樹 ひ、ひっくり返しても久保弘樹 ろはパスで き、Kis-My-Ft2」という、なんだかなーという出来。経験って何より大事だな。


ラニーノーズ。ガールフレンドが自分に何も言わずに海外留学に旅立ってしまうという設定で、引き留めに行く男を演じることになるのだが、二人が奏でるギターのBGMが何故か「世にも奇妙な物語」のテーマだったり、「スーパーマリオ」の音楽だったりする。途中、洲崎がファミリーマートに寄って「大盛況」が流れたり、「本を売るならブックオフ」のテーマが弾かれて、やはり途中で立ち寄るという設定になってしまう。


おいでやす小田。英語教室の講師という設定で、「you」、「want」などの簡単な英単語を関西弁の語尾に置き換えるというネタである。例えば「want」なら「いわんと」のように。ちなみに関西弁はフリップにローマ字で書かれているのだが、そこに含まれる英単語も正しいスペリングではなくローマ字で綴られていた。


ネイビーズアフロ。二人とも京都市立堀川高校を経て神戸大学卒というインテリ漫才師である。皆川が「ちゃんといwant」とおいでやす小田のネタを真似てスタート。
進研ゼミネタ。はじりが進研ゼミを薦めるヒロコという女の子に扮し、皆川がその友人の男子、タケシに扮するのだが、皆川は進研ゼミをやっている生徒と進研ゼミをやらなかった生徒の二人を一人で演じ始める。ちなみに進研ゼミをやることに決めた生徒は5教科のテストで計20点しか取れなかったという設定。国語、社会、数学、理科と0点で、英語だけ20点だそうである。一方、進研ゼミをやる予定のない生徒は、小学校高学年時代のテスト全ての合計点数が20点で、ヒロコを演じるはじりに、「あんなにテストあるのに」と呆れられていた。
進研ゼミをやった生徒は1日にして急成長。1872年に始まった学制制度の恩恵に感謝するという、あり得ないレベルのインテリになる。一方、やらなかった生徒は退化が始まってしまい、出会ってもヒロコの名前が出てこない、歩くのを忘れるという後退ぶりであった。


コーナー。MCを務めるのはおいでやす小田。出演は、ラニーノーズ、斜に噛む、ネイビーズアフロ、桜 稲垣早希。東京でも仕事をしている芸人はこの後も仕事があるので早めに帰ったそうである。かまいたち・濱家はTwitterで「今日は9ステージある」と書いていた。

お客さんへの質問クイズ、3問出してどんどん該当者を減らしていくというもの。ただし、2回目3回目は前回の半数以下にする必要がある。
まずは「初詣に行った人」と聞く。パッと見て9割以上の人が手を挙げる。なんだかんだで初詣の習慣は日本人に根付いているようだ。
半数以下にしなければならないのだが、同じ初詣ネタで行く。「初詣で今年、お賽銭を千円以上入れた人」。一気に3人に減る。
最後は1人狙いで行くのだが、おいでやす小田がいじられ、ネイビーズアフロ・皆川などは「このコーナー、おいでやす小田の司会絶対いるぞという方」と提案して小田に「ゼロになる!」と言われていた。
ラストは「親戚の中に誰もが知っているような有名人がいる。それも会ったことある」で行くことになる。上手の前の方の席で話し合ってる若者がいたのだが、ある運動教育方法の権威である大学教授の息子さんがいた(教育学部で知られるG大学のI教授の息子さんのようだ)。誰もが知っている有名人というわけではないがOKとなった。

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2018年1月15日 (月)

観劇感想精選(227) 「かがみのかなたはたなかのなかに」2018西宮

2018年1月11日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「かがみのかなたはたなかのなかに」を観る。新国立劇場制作の子供のための演劇。といっても今日は子供はほとんど観に来ていなかったが。
作・演出・出演:長塚圭史。出演:松たか子、首藤康之、近藤良平(コンドルズ)。近藤良平は振り付けと音楽も担当する。

海辺のコテージが舞台。海軍将校のたなか(首藤康之)がこの部屋で、出立を待っている。すると鏡の向こうに同じ動きをする者が。たなかは鏡に映った自分かと思ったのだが、そこにいたのは鏡のかなた(近藤良平)。やがてたなかとかなたは電話で会話したり、実際に言葉を交わしたりするようになる。

たなかがピザを頼むと、すぐに呼び鈴が鳴り、ピザ配達人が「ちぇす」と現れる。ピザ配達人の名前はこいけ(長塚圭史)。たなかはこいけをかなたに会わせようとする。するとこいけは二人になり、ピザ配達人の衣装から瞬く間の速替え。こいけは赤いドレスを着て女装し、もう一人のこいけはピンクのドレスを纏った女性、けいこ(松たか子)となる。
たなかもかなたもけいこに惚れ、とりあえすこいけが邪魔だということになるのだが……

どこともわからない場所で繰り広げられる幻想的なお話。幻想的といってもおどろおどろしものではなく、愛らしい感じである。とはいえちょっとグロテスクな発想があったりもする。
生で見る松たか子は、やはり映像で見るより数倍美人である。最近は映像の技術も進化してきたが、それでも松たか子は残念なことに基本的に映像写りが悪い人なので損しているのである。
首藤康之の佇まいや、近藤良平の飄々とした雰囲気も味わいがある。女装したこいけを演じる長塚圭史の演技もコミカルで良かった。


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忌野清志郎+ラフィータフィー 「水の泡」

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2018年1月13日 (土)

今の気分の和歌

人も惜し人も恨めし
あぢきなく世を思ふ故に
もの思ふ身は

後鳥羽上皇

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明日よりは

明日よりは何を書こうぞさみしさよ(金子みすゞ)

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2018年1月12日 (金)

ヴィクトル・スタルヒン散る

その車は、世田谷区三宿の国道246号線を走っていた。そしてそのまま渋谷発二子玉川行きの列車に激突。運転していた男は病院に搬送されたが30分も経たないうちに死亡した。その男、ヴィクトル・スタルヒンは、東京巨人軍、パシフィック、太陽ロビンス、大映スターズ、高橋ユニオンズで活躍し、日本プロ野球初の300勝を挙げ、シーズン42勝の日本記録を持つ大エースだった。

スタルヒンは、白系ロシア人の子供だった。スタルヒンの両親は、ロシア革命から逃れるためにシベリアへ。さらに中国東北部のハルビンを経て北海道・旭川へと渡ってきた。スタルヒンは無国籍であった。

旧制旭川中学校時代に好投手として注目を浴びる。全国中等学校野球選手権(現在の全国高等学校野球選手権)北海道予選では決勝まで進みながら夏の甲子園に届かず。北海道時代に対戦したチームのスタルヒン評が残っているが、「ボールが見えない。煙にしか見えない」というものでスタルヒンの傑出したスピードをうかがい知ることが出来る。
その後、旭川中学校を中退して全日本東京野球倶楽部に参加。スタルヒン自身は旭川中学校に残りたかったが、全日本東京野球倶楽部は恫喝手段を用いてでもスタルヒンを手に入れたがっていた。

そして、東京巨人軍に入団。沢村栄治と共に二枚看板として巨人軍の投手陣を支えた。
無国籍の人間であるスタルヒンは兵隊に取られることはなく、徴兵に応じて戦地に赴いた沢村栄治に代わって巨人軍のエースとして奮闘するも、敵性外国人との評価を受けるようになり、その疑いを晴らすために須田博(すた ひろし)と改名。日本人になろうとするが、「どう見ても日本人じゃない」と申請を却下される。日本で育ち、日本語しか喋れないスタルヒンにとってこの決定はショックであった。

その後、軽井沢の収容所に送られたスタルヒン。約2年間ほど野球から遠ざからざるを得なかった。
戦後の1946年。スタルヒンに巨人軍からの復帰の誘いがある。しかしスタルヒンはこれを断り、パシフィックに入団。この経緯については色々取り沙汰されるが、詳しいことはわかっていない。巨人軍とは確執があったらしいのだが、その内容については事実かどうか確認出来ないものもある。スタルヒンはその後も、一貫して地味なチーム、弱小球団を渡り歩くことになった。

沢村栄治に勝るとも劣らないといわれたスタルヒンのストレート。当時スピードガンがあったら何キロ出ていたのかということがやはり話題になる。巨人軍時代の同僚であった千葉茂や青田昇が、ピッチングマシンを使って、何キロの設定の時にスタルヒンのストレートと同等になるのかをマスコミの依頼で試してみたことがある。二人が「まあこんなもんやろ」と確認しあった時のピッチングマシンの設定は158キロであったといわれる。

運命の1957年1月12日、スタルヒンは旭川中学校の同窓会に出る予定だった。しかし彼が車を走らせたのは同窓会が行わる都心ではなく、郊外へと向かう道だった。最初は同じ会場に向かう同窓生を助手席に乗せていたのだが、途中で降ろし、同窓生に一人で向かうよう告げて車を走らせている。明らかにおかしかった。
そしてスタルヒンの運転する車は列車へと突っ込むのである。状況的にはどう見ても自殺だった。

愛されるキャラクターであったスタルヒンだが、生涯に渡って彼には孤独の影が付きまとう。アイデンティティとしては間違いなく日本人であると確信していたスタルヒンであったが、誰もそうは見てくれなかった。彼は日本人ではなく、外国人でもない無国籍人のデラシネであった。その死に際して、マスコミはスタルヒンの300勝という偉業を秘した。実績が数字になる野球というわかりやすい世界に生き、大記録を打ち立てたにも関わらず、最後まで日本人とは認められず日本人からも認められなかったのだ。

地面に白墨で300と書かれ、その横にしゃがんだスタルヒンが上にあるカメラに視線を送っている写真がある。300勝達成時の写真である。スタルヒンの現役最後のシーズンとなる1955年、高橋ユニオンズ時代に撮られたものだ。
満面の笑顔を浮かべているスタルヒンはとても幸せそうに見える。だがこの時から2年も経たないうちに彼は謎の死を遂げた。その胸に何が去来していたのか今となっては誰にもわからない。


旭川スタルヒン球場前に立つスタルヒンの像

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2018年1月10日 (水)

コンサートの記(337) ハンスイェルク・シェレンベルガー指揮 京都市交響楽団特別演奏会「ニューイヤーコンサート」2018

2018年1月7日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会「ニューイヤーコンサート」を聴く。指揮はハンスイェルク・シェレンベルガー。

オール・モーツァルト・プログラム。「イドメネオ」からのバレエ音楽、オーボエ協奏曲、交響曲第39番が演奏される。

ハンスイェルク・シェレンベンガーは、1948年生まれの指揮者兼オーボエ奏者。ケルン放送交響楽団の首席オーボエ奏者を経て、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者を1980年から2001年まで務めている。1991年にハイドン・アンサンブル・ベルリンを設立し、芸術監督に就任。1994年頃から本格的な指揮者活動に入り、2013年から岡山フィルハーモニック管弦楽団の首席指揮者を務めている。

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに渡邊穣。ニューイヤーコンサートということで女性楽団員達は明るめの色にドレスアップして登場。コントラバス副首席の石丸美佳のように羽織袴の人もいる。一方で首席クラリネットの小谷口直子はいつもの衣装にちょっとしたアクセサリーをつけただけの人もいる。
「イドメネオ」からのバレエ音楽より「シャコンヌ」と「パ・スール」。シェレンベルガーはかなり徹底したピリオドアプローチを採用している。HIPのボウイングによる弦楽の漸強などは古楽器風演奏のお手本のようだ。京響の音色は純度が高く、モーツァルトに最適である。「モーツァルトの京響」のDNAが今も息づいているようだ。


オーボエ協奏曲。シェレンベルガーによる弾き振りである。今日もポディウム席を選んだのだが、ここはオーボエの独奏を聴くにはやはり適していないようだ。音が小さく聞こえる。失敗したな。ただシェレンベルガーの腕の確かさは伝わってくる。

アンコールとして、シェレンベルガーは、ブリテンの「オヴィディウスによる6つの変奏」より第1曲を演奏する。わかりやすい曲ではないが、不思議ともう一度聴いてみたくなるような内容がある。ブリテンの曲は他のものもそうだが、何らかの引っかかりを感じるものが多い。


メインの交響曲第39番。ピリオドということでかなり速めのテンポを採用。ティンパニに意図的に割れるような音を出させているのも興味深い。詳しくはわからないが、皮を緩めに張っているのだろうか。マレットはごく普通のものに見える。
速めのテンポで進めているにも関わらず、シェレンベルガーは、急速な加速と減速を断行。不自然な感じもしたが、フォルムを崩さない計算とそれについて行く京響は見事である。
第3楽章と第4楽章は特に速い。このテンポでまろやかさが出せたら本物だが、まだそこまでは行っていないように感じる。ともあれモーツァルトを聴く楽しみを十分に味わうことが出来た。

アンコールの前にシェレンベルガーが客席に向かって「あけまして」と言い、京響の団員が「おめでとうございます」と続けて、新年を寿ぐ。

アンコール演奏はやはりモーツァルトで歌劇「フィガロの結婚」序曲。もうちょっとロココ風の味わいも欲しくなるが、溌剌とした新年の幕開けに相応しい演奏であった

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「戦艦ポチョムキン」よりオデッサの階段

ロシア暦1898年1月10日(グレゴリオ暦1月23日)、モンタージュ理論の大成者として知られるセルゲイ・エイゼンシュテイン監督がラトヴィア(当時はロシア帝国の領土)のリガに生まれる。

エイゼンシュタイン監督の代表作として知られるのがポチョムキンの反乱を題材とした「戦艦ポチョムキン」である。小林多喜二の「蟹工船」にも似たストーリーを持つということもあり(両者は完全に無関係である)、日本人にもわかりやすい内容ということもあるのか、歴代名画の上位にランクされる作品として知られている。その「戦艦ポチョムキン」に中でも最も有名なシーンが「オデッサの階段」。

ロシアの都市、オデッサでの虐殺劇(史実ではないそうだ)を描いたもの。ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」第3楽章(モスクワでの血の日曜日事件を描いた音楽)が流れる中、逃げ惑う人が大階段(プリモスキーの階段と呼ばれるようです)を駆け下りて行くシーンがまず印象的である。

子供に怪我を負わされた女性が迫りくるコサック兵たちに抗議に向かい、銃殺される(女性の遺体にコサック兵の影が映るのが印象的である)。この後で、音楽はショスタコーヴィチの交響曲第5番第3楽章に切り替わり、ジェノサイドが続く中、ベビーカーに赤ん坊を乗せた女性が階段の上で射殺される(5分12秒付近)。女性が後ろに倒れると同時にベビーカーが押し出され(5分54秒付近)ここからクライマックスである階段落ちが始まる。

画像の切り替え、ストーリー運び、影の用い方、エキストラのみによる演技、悲惨さを訴えかけるメッセージ性などいずれもがサイレント映画として「完璧」の域に達しており、わずか7分程度の映像でありながら、極めて濃密な時間であり、映画史の中で最も有名なシーンの一つに数えられている。

このシーンは後世の作品に様々な影響を与えたことで知られている。

最も有名なのは、ブライアン・デ・パルマ監督の映画「アンタッチャブル」。ケビン・コスナーの出世作として知られるこの作品では、シカゴ駅での階段落ちのシーンがオマージュとして登場する。こちらは著作権が切れていないので映像が載せられないのが残念だが、当時はまだ駆け出しの俳優だったアンディ・ガルシアの演技が実に格好良く(「完璧です」のセリフがいい)、一見の価値ありである。

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2018年1月 8日 (月)

『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』刊行記念「伝説の高速スライダー・伊藤智仁が関西凱旋! プロ野球人生25年をすべてぶっちゃける!」

2018年1月4日 大阪・宗右衛門町のLOFT PLUS ONE WESTにて

午後7時から、大阪・宗右衛門町のLOFT PLUS ONE WESTで、『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』刊行記念「伝説の高速スライダー・伊藤智仁が関西凱旋! プロ野球人生25年をすべてぶっちゃける!」というトークライブに参加する。『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』の主人公である伊藤智仁と著者である長谷川晶一による野球トークである。こちらも東京ヤクルトスワローズのホームレプリカユニフォームに「正装」して臨む。

客席の後ろの方は、伊藤智仁の古くからの知り合いが多いようで(後で知ったが伊藤の実兄も来ていたそうだ)、開演20分ほど前にステージに現れた伊藤智仁は、下手の階段を降りて、客席後方へと歩いて行った。


まず長谷川晶一が登場し、東京ヤクルトスワローズの応援歌「We are the Swallows」の流れる中、伊藤智仁が登場。「俺が歌うの?」とボケる。その後、昨日放送されたTBS系列「消えた天才」をモニターに映す際には、「俺が映すの?」とまたボケていた。


「史上最高の投手は誰か?」という問いに対する答えの中に必ず挙がっている伝説の最強エース・伊藤智仁。エースと書いたものの、実際には伊藤智仁がエースであったことはない。なったことがあるのはリリーフエースだが、それ以上に1993年のルーキーイヤーの輝きが鮮烈である。規定投球回数には足りなかったものの、防御率は驚異の0点台。実働3ヶ月ほどだったにも関わらず、松井秀喜を抑えて新人王を獲得している。
伊藤が三菱自動車京都在籍時代にバルセロナオリンピック壮行プロアマ交歓試合で対戦した古田敦也が「来るとわかっていても打てない」と語った高速スライダーと伸びのあるストレート、プロに入ってから覚えたフォークボールを武器にセリーグの並み居る強打者をなぎ倒して行く姿は、まさにヒーローそのものだった。ただ度重なる故障により、ヒーローは悲劇のヒーローに、エースはガラスのエース、幻のエースに変わっていく。
その悲劇性も相まって生きながら伝説となっている人物である。運動なら何をやっても超一流で「百獣の王」の称号を得ている武井壮は、ラジオ番組で「自分が思う史上最高の投手」として伊藤智仁を挙げており、高速スライダーがいかにして生まれたのかについても触れていた。

伊藤は昨シーズン、スワローズが球団ワースト記録となる96敗で最下位になった責任を取り、投手コーチを辞任。今年からはベースボールチャレンジリーグ(BCリーグ)の富山GRNサンダーバーズの監督に就任する。

まず伊藤のスワローズ入団の経緯。伊藤をドラフト1位指名したのは、ヤクルトスワローズの他に広島東洋カープ、オリックス・ブルーウェーブであった。その中で事前にスカウトが挨拶に来なかった球団がヤクルトだそうである。当時、スワローズフロントは松井秀喜を1位指名することで一本化されていたのだが、当時の野村克也監督が「何が何でも伊藤を獲れ」と厳命。ドラフト会議直前で方向転換している。
伊藤に声を掛けた球団は他にも西武ライオンズ、当時まだ福岡ダイエーだったホークスなどがあるそうだが、これらの球団は焼き肉をおごってくれたりしたそうである。当時からお金がないことで有名だった広島カープからはデニーズに呼ばれたそうで、カープらしいといえばカープらしい話である。それでも一番熱心だったのはカープだったそうで、「練習厳しい、(当時の広島市民)球場汚い、お金出ないという(皮肉を込めて)良い条件」のカープに伊藤は一番の好印象を抱いたようである。
巨人からは「うちはドラフト1位は松井秀喜で行くが、君が巨人にしか行かないと言えばドラフト2位で指名する」という条件(「球界の寝業師」こと根本睦夫がよく用いた手法である。根本は西武ライオンズ時代に目をつけた選手に「プロには行かない」と表明させ、大卒や社会人の選手はドラフト2位か3位、高卒の選手は下位指名で手に入れていた)が出されたが、「自分を高く評価してくれた球団の方がいい」ということで、巨人ファンではあったがこの話には乗らなかった。
スワローズに入団することになったが、神宮球場が東京にあるということも本気で知らなかったという。「三菱自動車京都というところにいたのですが、当時、神宮球場で投げてる」そうなのだが、「宿舎からバスに乗って目を閉じていたら(神宮球場に)着いてる」そうで土地勘が全くなかったらしい。「バルセロナオリンピック壮行試合も神宮球場で投げる」もののやはり神宮球場が東京にあるという認識はなぜかなかったらしい。プロアマ交歓試合で伊藤が投げている試合は私もテレビで見ている。

女房役であった古田敦也についてだが、プロの選手というよりもトヨタ自動車のキャッチャーという認識だったそうで、三菱自動車京都野球部入部して最初の年は予選で日本新薬に敗れてしまったそうだが、出来て間もない東京ドームを見に行きたいということで、新幹線に乗って日本新薬の試合を見に行ったそうである。その時の日本新薬の相手がトヨタ自動車だったそうで、古田ついては「ホームランを打ったんですけど、それ以外よく覚えていない」そうである。入団前の古田敦也の印象についても「打つのは特に凄いわけじゃない。スローイングだけは良い」と評して、長谷川に「なんでそんなに上から目線なんですか?」と突っ込まれていた。

長谷川は、古田にインタビューした際に、「僕が受けたことのあるピッチャーの中では伊藤智仁がナンバーワン」と古田が断言し、「特にスライダーは1番。スライダーという、プロのピッチャーなら10%投げる球の中で1番。松坂のスライダーも受けたことがあるけれど、伊藤のスライダーを見た後では松坂のスライダーも平凡に見えた」と言うのを聞いたそうである。
伊藤は、「松坂のスライダーもダルビッシュのスライダーも凄い」と語り、「ダルビッシュなんて、一度、春先に北海道でやったオープン戦で、春先だから仕上がってるじゃない、3イニング限定とかだし、本気で投げてきたら(ヤクルトのバッターが)打てない、掠りもしないんだもん」とコーチ時代のことを振り返っていた。

入団直後の思い出を語る。ユマキャンプでは古田と同室になったのだが、「古田さん、困ったことにあんまり寝ないんです」とのことで、年下で部屋子の自分が先に寝るわけにはいかないのだが、古田は「寝てていいよ」と言って出掛けてしまう。「寝てていいよ」とは言われたものの本当に眠るわけにもいかず、照明はつけたままにし、本を手にしてページの間に指を挟んで、あたかも「頑張って読書しながら起きてたんだけど寝てしまった」と見せかけて寝ていたそうである。古田も気づいていたはずだが何も言われなかったとのこと。
ユマでは十分に眠れず、日本に帰ってすぐに宮崎県でのキャンプが始まるということですっかり体調を崩してしまい、開幕1軍を逃すことになったそうだ。

ちなみに2軍でのデビューはイースタン・リーグ開幕戦の対ジャイアンツ戦だったのだが、ジャイアンツの1番バッターが松井秀喜という嘘のような顔合わせが待っていたそうだ。その試合なのだが、「松井にホームラン打たれたことしか覚えてない」という「カウントを取りに行ったスライダー」を打たれたそうである。ただ同期のドラフト1位ではあっても、伊藤の登板機会が少なかったということもあって、伊藤智仁と松井秀喜がライバルという感じはほぼない。「18歳だし、まだプロのスピードに慣れていないだろし」ということで伊藤も松井を特に意識してはいなかったようだ。


野村監督について。伊藤が野村監督に怒られたことは余りないそうだが、褒められたこともないそうで、一度、「(野村監督の真似で)『昨日、良かったな』と言われただけ」と語る。怒られるのはもっぱら古田敦也の役目だったそうで、古田はとにかく怒られていたらしい。伊藤の野球人生を象徴するような試合として語られる、1993年6月9日、石川県立球場での対巨人戦で、篠塚和典にサヨナラホームランを打たれた時には、野村が古田に対して激高したそうで、「ベンチ裏で古田さん、ずっと怒られてた。それを傍目で見ながら帰ったんだけど、こっちが引くぐらい怒られてた」そうである。その試合、伊藤は9回2死までにセリーグタイ記録となる16個の三振を奪っていたのだが、野村は「自分で新記録達成になるのを阻止するために篠塚は絶対当てに来る。そういうバッターに対してああいう配球をするとは」と怒り心頭に発したらしい。「誰が悪いって、打たれた僕が悪いんですけど」と伊藤は言う。「バッター篠塚か。ホームランは絶対にないな。せいぜいレフト前のヒットだろう」と舐めていたのも一因らしい。ただ篠塚のホームラン映像を見て、「球場、狭いですよね。70mぐらいしかない」と負け惜しみを言っていた(石川県立球場は確かに狭いしフェンスも低いが70mということはない)。
ドラフト指名以前の野村監督のイメージは、「陰気くさいおっさん」そして「怖そう」だったそうなのだが、入団してもイメージは変わらなかったそうだ。
「消えた天才」では、戸田市民会館で2時間ほどインタビューを受け(しかし使われたのはたった2分ほどだそう)、その後、スタッフに「(ヤクルト)戸田球場に行きましょう」と言われて、「え? なんで?」と思ったものの、行ってみると遠くに「あれ、野村監督じゃない?」という人影が見え、最初は別の取材かと思ったものの、「あれ? 野村監督ってTBSで解説持ってたよな」ということで、そういう番組だということに気づいたらしい。ただ、「僕も業界が長いので」どうやったらテレビ的に良いのかを考えながら「どうしたんですか?」などとしらばくれたそうである。

ルーキー時代のキャンプで、野村監督が打席に入って伊藤の投球を確認し、絶賛したということがあったのだが、伊藤はというと「当てたら困る」というので萎縮しがちになってしまい、野村監督のパフォーマンスを結構迷惑に感じていたそうだ。
また、松井秀喜が始球式で長嶋茂雄をバッターボックスに迎え、安倍晋三(ヤクルトファンとして有名である)が主審の位置に立った時のことを振り返り、「普通は投げられない。まともには投げられない。だからとんでもないとこ行ったじゃない」「よっぽどのアホでない限り投げられない」と語り、同じケースで始球式の話が来たらという振りに「俺だったら断る」と即答していた。


実は出演した時には、タイトルが「消えた天才」になるということも知らないままだったそうである。天才と言われることについては、「ありがたいとは思うけれども自分はそこまでではない」と思っているという。伊藤が「天才なのは自分ではなく」と言って挙げたのはスワローズ黄金期の左腕エース・石井一久である。
入団したばかりの伊藤は先輩の投手達、中でも岡林洋一や西村龍次といったエースピッチャーの投球を観察し、「自分が負けてる部分もあるが勝っている部分もある」と分析、石井一久に関しては「持っているものは凄いけど、荒削りに過ぎる」という印象だったという。「ただその潜在能力が嫉妬するぐらい凄い」そうである。とにかく球が速く、しかも左投手。最初の頃はストライクを取るのに汲々としている状態だったが、「うなりを上げるストレート」は驚異的だったという。「岡林さんや西村さんは真似しようと思えば真似られたけど、石井は真似出来ない、無理」だそうである。そして凄いのは球の速さよりも勢いや力強さだという。確かに90年代の絶好調時の石井一久の投球は相手がお手上げ状態になることがあり、ど真ん中のストレートでも空振り、バットに当たってもなかなか前に飛ばないという調子で、90年代のスワローズのエースといえば勝ち星からいっても石井一久だろうと思われる。1973年生まれの石井は、私と同い年の松井と1歳差であり、松井秀喜のライバルを敢えて挙げるならこれも石井一久ということになるのだろう。

伊藤と同学年のスワローズの投手にエースナンバー17を背負った川崎憲次郎がいた。伊藤曰く、川崎の「球自体はたいしたことない」そうだが、「シュートを覚えてから勝ち始めた。『お前、シュート覚えろ!』って言われてからすぐにものにした」そうである。伊藤はシュートは練習したが投げられなかったそうである。「こっち(スライダー)側に曲げる球は得意だったけど、こっち(シュート側)に曲げられなかった」と手振りを加えながら話す。
スワローズ現役のシュートピッチャーである原樹理と川崎憲次郎の比較になり、伊藤は「球の種類が違う。川崎のシュートはボール1個分しか曲がらない。だからバッターはストレートだと思って打ちに行って芯を外される。原樹理のシュートは結構曲がるが、バッターがシュートだと気づくから見逃す。見逃すとボールになる。ボールになったらいくらいい球でもただのボール。だから原樹理の場合はシュートでストライクが取れないといけない」のだが何度言ってもストライクが取れるようにはならないそうで、「コーチ(つまり伊藤本人)が悪かったんじゃないですか」と言っていた。

1990年代後半に、石井一久、川崎憲次郎と共に伊藤が三本柱に数えられた時には、互いに「あいつには負けない」というバチバチの空気を飛ばし合っていたそうである。

ちなみに野村時代からスワローズはストライクゾーンとその少し周りのボールゾーンを含めて9×9の81分割し、何番にボールを投げるかという作戦や指令があるそうである。ただ81分割というのはあくまで理想論で、実戦では2分割が4分割でやっていたそうである。「ヤクルトの場合は、アウトコースという指令は来ない。番号で来る」そうである。ストライクゾーン付近の81分割というと1個のマスは、「(人差し指と親指で輪っかを作って)これぐらい」だそうだが、「そこまでのコントロールはなかった」
長谷川が、「ライアン(小川)や原樹理も81分割で何番ってわかるんでしょうか?」と聞くと、伊藤は、「ライアンはわかってるだろけど、原樹理はどうかな? ミーティングに鉛筆持ってくるの忘れるような子だから」と答えて、客席から笑いが起こっていた。

野村監督のミーティングについてだが、練習後、午後6時から1時間ほど夕食の時間となり、午後7時からの1時間ほどがミーティングだったそうである。「ノートを見返すと凄いことが書いてある。コーチになってからも何度も見返すほど」だというが、「練習が終わって食事したら眠いじゃないですか」ということで、ノートにも「たまにミミズが這っている」。そして、「うちには、古田というキャッチャーがいたので」難しいことは古田に任せておけばいいかという空気があったという。もし野村ミーティングの凄さに当時気づいていたら「あと、2~3勝は出来た」と伊藤は言う。ちなみに通算で2~3勝である。伊藤曰く「野球は体でやるもので、頭で積み上げられるのはそんな程度」だそうである。


「怒り新党」の3大○○の映像も流れる。「消えた天才」は音声を消しての上映だったか、「怒り新党」は音声付きで、伊藤と長谷川、客席と共に映像を見る。「消えた天才」ではあたかも伊藤の現役生活が1993年の1年だけで終わってしまったかのような描き方だったが、「怒り新党」ではその後のリハビリや復活劇までもちゃんと描いているそうである。
石川県立球場での試合。伊藤の調子は決して良くなかったそうで、「三振でしかアウトが取れない」状態だったという。その証拠に16奪三振を記録したが、被安打は8と多い。
吉原孝介が打席に立っている映像が出たときに、長谷川が「(球数が多いので)バットに当たってとか思わなかったの?」と聞くと、「吉原風情じゃバットに当たらんって」と一笑に付し、伊藤が13イニングスを投げた甲子園での対阪神戦(ちなみに三塁側アルプススタンドはガラガラで笑い声が起こる。「あの頃、阪神弱かったからね」と伊藤)で新庄剛志を三振に打ち取った映像でも、「いっても新庄だよ。メジャーにも行ったけど」と一刀両断。ピッチャーらしい強気の性格は健在のようだ。
和田にヒットを打たれた場面で、伊藤が「後で聞いたら癖がわかってたみたい。だけど誰にも言わなかったって」と言い、長谷川が「いかにもプロという感じですが嫌らしい奴ですね」と話して、会場が爆笑に包まれる。その後も和田がヒットを打つ場面があり、解説の声が「和田、今日4本目の安打です」と言うのを聞いてまた爆笑が起こっていた。

ちなみにラスト登板となったコスモスリーグの対ジャイアンツ戦で伊藤は大胆不敵なことをやってのけるのだが、それは『幸運な男』を読んだ人だけのお楽しみとしておく。

伊藤は、由規のスライダーを「自分より上」と賞したが、「スライダーだけよ、他の球は屁みたいなもん」という。それでも「良くやってる方、あの野球音痴にしては」と言う。由規は入団当時は球の握り方も間違っているような状態であり、「キャッチボールが下手なピッチャーって結構いるけど、並外れて」下手だったそうである。「キャッチボールから教えなきゃいけない」選手だったそうだ。由規は左利きなのだが、右利きの兄のグローブをお下がりで貰って野球を始めたため右投げである(打撃は左で行う)。今はメジャーにいる岩隈久志も左利きだが右投げ、逆に右利きだが左投げの投手には今中慎二がいる。長谷川が「(由規は)左投げだったら良かったんじゃないか」と言うが、伊藤は、「いや、もっと駄目だったんじゃないの?」とつれなかった。


事前アンケートで客席からの質問を募集したのだが、長谷川が、「みんな優しい。『どうしてライアンを抑えに回したんですか?』という質問がない」と言って笑いを誘う。あの時点で「球に力があって、三振も取れて」というピッチャーがライアンしかいなかったため、抑えに起用したのだが、小川泰弘は怪我開けの上にリリーフの適性も欠き、七夕の夜のカープ戦で炎上して大逆転を許し、再び先発をやることになっている。

「寺島(成輝)、高橋(奎二)、梅野(雄吾)は今年活躍しますか?」という質問には伊藤は「今の時点では難しい」と答えた。「高橋は(龍谷大)平安高校から入って3年目かな。その間、怪我でほとんど出られない」という状態である。昨年のフレッシュオールスターなどでは好投したが、「そのうち体が大きくなるかなと思ってたけど、そうでもない」そうで、体力がまだまだのようだ。高橋は「左のライアン」といわれるほどダイナミックなフォームで投げるのだが、それを支えるだけのパワーがまだないのだろう。

「仲のいい外国人選手は誰ですか?」という質問に伊藤は「ハッカミー」と即答。「同い年」だそうである。ヤクルト在籍中は、「ブラット・ピット似の男前」といわれたハッカミーだが、伊藤は「今はデブのハゲだよ」という。
今も連絡を取ってる外国人選手については伊藤は、「ハッカミー、バーネット」と続けるが、最後に「オンドルセク」と言って、長谷川も「オンドルセク?!」とオウム返しになる。オンドルセクは味方の守備のミスに激高してベンチから謹慎を言い渡されるもアメリカに帰ってしまい、そのまま退団したという選手である。伊藤によるとオンドルセクは「ヤクルト球団はまだ怒ってるのか?」と聞いてくるそうで、「(アメリカの球団との)契約が取れないんじゃないですか」とのことだった。

外国人の話になったところで長谷川が、ヤクルトと横浜に在籍した投手で、スワローズ在籍中の2004年には開幕投手も務めたジェイソン・ベバリンの話をする。ベバリンは肘の怪我でヤクルトから自由契約になり、横浜に拾われたのだが肘は回復していなかった.。それでもベバリンは「投げたい」とベンチに直訴。当時の横浜の監督は投手出身の牛島和彦である。当然ながら無理はさせない方針だ。牛島は、「いいか、今投げたら今後投げられなくなるどころか、日常生活にも支障をきたすことになるかも知れないんだぞ。それでもいいのか?」と説き伏せようとしたが、ベバリンは、「いい! 僕は日本に遊びに来てるんじゃないんだ、投げに来てるんだ。投げる」と言って聞かなかったそうだ。
「投手コーチとして、そういう選手がいた場合、伊藤さんは投げさせますか?」と長谷川は聞く。「僕は、投げさせます」と伊藤は断言する。投手の投げたいという本能にあらがうことは出来ないそうだ。

もし怪我しなかったら、もしスポーツ科学の発達した現在、現役の選手だったら何勝出来るか、という話にも当然なるのだが、伊藤は「リハビリも含めて僕」、「勝ち星なんて自分の力でどうにかなるものでもない」ということで、「こだわりがあるのはイニング」だそうで、「200イニング投げたい」という話はしていたが、長谷川に「200イニング投げたら何勝出来ますか?」と聞かれ、「15勝ぐらいは」と答える。長谷川が、「15勝だったら今の時代なら最多勝じゃないですか」と話を振るも、伊藤は「たられば」の話には興味がなさそうな顔をしていた。

そしてヤクルトで一番凄いのは石川雅規だという話になる。伊藤は、「ローテーションをきっちり守ってくれる。投手コーチとしてこれほど頼もしい存在はない」と絶賛。確かに投手も野手も怪我人が多く、誰かしらいないという中で石川だけはいつもいる。無事これ名馬の見本のようである。


打者の話にもなり、伊藤は最も評価している現役のバッターとして読売ジャイアンツの坂本勇人の名を挙げ、「あの内角の捌き方は天才的」と評した。「ショートじゃなかったらもって打ててる」ということで、長年に渡ってスワローズのショートを守り続けていた宮本慎也の話にもなる。スローイングが上手かったそうで、「一場靖弘という出来の悪い子」よりも精密なコントロールを誇っていたという。ただ始めの頃はバッティングが苦手であり、「大体、宮本8番で、俺9番なのよ。その頃、俺、バントしたことない。宮本、塁に出ないから」


関西では初のイベント出演となった伊藤智仁。関西に帰ってきた印象を長谷川から聞かれる。「周り全て、関西弁。変な歩き方してる兄ちゃんがいる」ということで関西らしいと思ったそうだが、「大阪と京都じゃ全然違うんで。京都の方がはんなりしてる」と言って、「また京都の人は、はんなりとか曖昧な言葉使うんだから」と突っ込まれていた。

伊藤は最後に、「アウェーになるのかなと思っていましたが、こうしてみんな集まってくれて嬉しく思います。僕はもういなくなりますが、今年もヤクルトスワローズの応援を宜しくお願いします。そして、暇があったらたまに富山に……」というようなことを話した。

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2018年1月 6日 (土)

追悼 星野仙一

2018年1月4日、元中日ドラゴンズの投手で、中日ドラゴンズ、阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルス、北京オリンピック野球日本代表などの監督を務めた星野仙一が死去。70歳。明治大学の大先輩である。

現在の岡山県倉敷市に生まれた星野仙一。小学生の頃は足が不自由な同級生を毎日背負って登校したという話が有名である。また子供の頃は指導者に恵まれた環境にはなかったそうで、野球の指南書などを読み漁って独学で多くの技術を身に着けたそうである。

倉敷商業高校に進んだ星野は好投手として注目されるようになる。この時代の岡山県にはプロで通算201勝を挙げた平松政次が岡山東商業に、東映フライヤーズで活躍する森安敏明が関西(かんぜい)高校にいるなど激戦区だったが、倉敷商業は岡山県予選を突破。ただ当時は1県1代表ではなく東中国地方大会を勝ち抜く必要があり、星野の甲子園出場は叶わなかった。

倉敷商業卒業後に明治大学に進学。当時の東京六大学野球には、法政大学に田淵幸一、山本浩二、富田勝の「法政三羽烏」がおり、早稲田大学にはのちにチームメイトになる矢沢健一らがいるという華やかな時代。星野は明治大学のエースとして活躍。優勝とは縁がなかったものの大学野球屈指の好右腕という評価を勝ち得る。

六大学野球の野球部というと、例えば法政の田淵幸一のように、大学に行くような素振りをして寮を出るもそのまま映画館に入り、映画三昧で帰ってくるというような不真面目な学生も多いが、星野は真面目に授業に出ており、成績も優秀であった。

大学4年時には、巨人のスカウトから「ドラフト1位は田淵幸一で行くが、外した場合は君を指名する」という確約を貰っていた星野。だがいざドラフト会議が始まると、巨人は無名の高校生投手である島野修(プロ野球選手としてよりも阪急ブレーブスやオリックス・ブルーウェーブのマスコットの「中の人」として有名)をドラフト1位で指名。その報を知った星野は、「シマ野? ホシ野の間違いではないか?」と訝ったという。巨人は「星野は肩を痛めている」という情報を得ており、そのことが指名回避に繋がったようだ。実際、星野は肩を痛めたことがあったという。

巨人の代わりにドラフト1位指名した中日ドラゴンズに入団。チーム事情で当初はリリーフに回ることが多かったが、その後は中日のエースナンバーである20を獲得し、先発にリリーフに大車輪の活躍を見せるようになる。

長嶋茂雄や王貞治が語る星野は、「普段は礼儀正しい奴なのに、グラウンドでは人が変わる」
闘魂を剥き出しにした投球スタイルから「燃える男」の異名を取るようになった。

自身を裏切った読売ジャイアンツ戦に強く、「巨人キラー」と呼ばれた。また阪神タイガースにも強く、阪神の監督に就任する際の会見で飛び出した「現役の頃から阪神が大好きでした。沢山勝たせてくれましたから」という言葉は有名である。

星野は快速球で知られたわけでも代名詞になる変化球があったわけでもない。気で抑え込む投手である。そのため現役を離れて以降は投手としてのスタイルが不明瞭になってしまったきらいがある。「星野仙一ってどんな投手だったの?」と聞かれても上手く答えられないのである。

 

現役引退後は、NHKの野球解説者となる。グラウンドを離れるとやはり温厚な性格で、「仏の星野」とまで見られたが、中日ドラゴンズの監督に就任するや「鬼の星野」に激変。鉄拳制裁で知られるようになる。山本昌によると、「山崎武司やら今中やらが監督室に呼ばれて、口から血を流しながら出てくる」そうで、噂は本当のようだ。

中日の監督として優勝2回、11年間でAクラス8度という監督としては優秀な部類に入る成績を残す。選手時代同様の熱い指揮姿により「闘将」と呼ばれた。

その後、2001年に阪神タイガースの監督に迎え入れられる。星野を阪神の監督に推薦したのは前任者の野村克也だった。当時の阪神の選手たちには甘えが見られたようで、野村の著書『阪神タイガースの黄金時代が永遠に来ない理由』(宝島社新書)によると、「ヤクルトの選手はミーティングで話をよく聞いてくれた。楽天の選手もまあ聞いてくれたが、阪神の選手は聞いてくれない。しきりに時計を気にしていたりするが、この後、タニマチとの待ち合わせでもあるのか」という惨状。後任には「怖い人がいい」ということで星野を推したのだった。

阪神タイガースの監督として2年目になる2003年に星野は胴上げ監督となった。

北京オリンピック野球日本代表監督としては、大学時代からの付き合いである田淵幸一と山本浩二をコーチとして招き、結果が出せずに「お友達内閣」などと揶揄されたが、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督としては3年目の2013年に、この年24勝無敗という空前絶後の成績を残した田中将大などを擁してリーグ制覇。それまでは選手としても監督としても日本シリーズを制した経験がなく、「日本一とは無縁の男」と見る向きもあったが、この年の日本シリーズでは田中将大の熱投で相手の読売ジャイアンツをねじ伏せ、日本一を味わうことにも成功した。

 

私自身は現役時代の星野のピッチングをリアルタイムで見たことはなく、せいぜい珍プレーとして知られる宇野勝のヘディング時のピッチャーとしての認識しかない。そのため、「星野仙一=監督」というイメージである。中日ドラゴンズの監督時代には自身の母校である明治大学の選手を積極的に獲得。中日における明大閥を更に進めたことには賛否両論あるだろう。ただ巨人の独走を阻むために、巨人移籍が濃厚とされていた落合博満を獲得したり、高卒ルーキーの近藤真一(現・近藤真市)の初登板を初先発で飾らせ、ノーヒットノーランまで達成させる、楽天監督時代にはルーキーの則本昂大を開幕投手に指名するといった大胆且つ耳目を引く起用が多く、球界を沸かせた。とにかく話題を生み出せる人だった。そして多くの人から慕われる人物であった。

 

2004年に、星野仙一は母校である明治大学のイメージキャラクターの一人として広告に登場している。慕われるパーソナリティーを買われてのことだった。

そんな星野が好んで揮毫する文字は「夢」。夢を見続け、夢に挑み続けた生涯であった。

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2018年1月 3日 (水)

笑いの林(97) 「新春よしもと寄席」2018

2018年1月1日 道頓堀ZAZA HOUSEにて

午後3時と午後5時から、道頓堀ZAZA HOUSEで、「道頓堀ZAZA 新春よしもと寄席」を観る。
午後3時開演の回の出演者は、スーパーマラドーナ、斜に噛む、くるくるコミック、桜 稲垣早希、マルセイユ、モンスターエンジン(登場順)。午後5時開演の公演は、斜に噛むの代わりにエジソンが出演する。


スーパーマラドーナ。
武智が、「体格が良いのでスポーツ万能だと勘違いされる。全然出来ないのに。フットサルチーム入ってとか、草野球やってとか」というと、田中が、「僕はこう見えてスポーツ万能です」と言ってブレークダンスをしようとするが、寝転んでバタバタしているだけで、武智に「殺虫剤かけられた虫か、お前は?! ゴキブリか?!」と突っ込まれるも、「それ高校時代のあだ名」と応えて、武智「お前、いじめられてたやろ」 田中「いじめられてました」、「思い出させてすまんかった」となる。
スポーツということで、プロ10年目のゴルファーがこれを決めれば初優勝というパットの実況中継をやる。だが、実況担当の田中は、「入りました。優勝です」と無表情な声で言って、「もっとテンションあげえよ!」と武智に突っ込まれる。2回目は田中が最初からハイテンションだが、全てを一息でいおうとしたため、パットが決まった瞬間は酸欠で何も言えなくなってしまう。
1回目は借金取りネタを。2回目は業界用語ネタをやる。

まず借金取りネタ。借金取りに扮した田中は、「ワイを誰だと思ってんのや? 浪花生まれの博多の島人(しまんちゅ)」と自己紹介して、武智に「どこの人? 転校生?」と突っ込まれる。
ドアを蹴破って入るも、跳ね返ってきたドアに頭をぶつける。視力が悪くて誰がいるのかわからないといった失敗を田中は繰り返し、「お前の娘いるな、58歳の」と言って、武智に「年上過ぎる。もっと下や」とダメ出しされるも、「57歳の」と1歳しか下げない。二十歳の娘ということにするが、「上玉や。あの娘なら、コンビニで月10万は稼げる」と言って、「健全やな。風俗でええわ」と返され、「上玉や。風俗で月10万は稼げる」とやり直すも、「風俗で月10万しか稼げんって、不細工なのか?」と突っ込まれた。

業界用語ネタでは、田中が「ちゃんねえ(姉ちゃん)とパンシャン(シャンパン)飲みたい」と、言葉を逆さにして業界風に話すのだが、松崎しげるが松崎しげらないになったりと、人名まで逆にしてしまう。ちなみに、「大学現役合格」の反対がイチローだそうで、武智に「あの人は落ちたわけやない。スーパースターや」と言われる。ちなみに、IKKOの逆は100KOになるそうで(武智「あんなの100人に囲まれたら何されるかわからない」)、郷ひろみの逆はストップひろみになるそうだ。
またない任谷由実(松任谷由実を逆にしたもの)の「卒業写真」を田中は歌うが、サビが「わたしはいつでも近くで笑うわ」になる(武智が、「あなたは時々、遠くで怒って」と訳すが、最後は「怒って」ではなくて「しかって」である)。
スーパーマラドーナの二人は、「ちょっとダルビッシュでした」と自己紹介して終わる。


斜に噛むとエジソンは、若手の漫才コンビであるため、飛躍が多かったりと、まだ芸が板についていない。


くるくるエンジン。2回とも銀行強盗ネタをやる。黒の服装で来いと言われたのだが、よね皮ホホ骨は最初は派手なジャケットで登場。2度目は「さあ、福島区のシンフォニーホールへ」と言って燕尾服姿で出てくる(ザ・シンフォニーホールがあるのは厳密には大阪市北区である。目の前までは福島区だけどね)。吉本の劇場とザ・シンフォニーホールの両方に通う人がいるのだろか? まあ、一人は確実にいるが。あ、今、不倫で話題のあの人も行くな。3度目は学帽付きの学生服で出てきてしまう。
銀行に押し入る時も番号札を受け取ったり、「すんません、銀行強盗です」とやけに下手に出たりする。


桜 稲垣早希。アスカのコスプレで登場。1回目は「貧乳」を2回目は「キスからはじめよう」をやる。
「貧乳」であるが、ネタが飛躍しすぎて笑いないものが多い。「リュックを背負っている人は、スリのターゲットに遭います」というちょっと変な日本語で、「貧乳の人はリュックを前に抱えることが出来るけれど、巨乳の人はそれが出来ないのでスリに遭う」という最初の下りはわかるのだが、巨乳だとラーメンがすすれないだとか、流しそうめんが取れないということはまずないだろう。やくざの抗争で巨乳を撃たれて死ぬというのも新年に相応しくない。というわけで客席の反応も今ひとつである。
「キスからはじめよう」は何度もやっているネタであるため安定感があり、受けはかなり良かった。ギャグアニメのキャラクターがキスする段になると突然劇画風イケメンになるのが可笑しい。今年も早希ちゃんはサイン入りの角切り餅を課題に答えてくれた人にプレゼントしていた。


マルセイユ。ネタを見るのは久しぶりである。津田と別府という、なんとなく広島カープな感じの苗字のコンビである。
別府がダンスを得意としているようで、2回とも別府のダンスが繰り出される。1回目はカップルのドライブデートで、2回目もデートネタ。2回目の冒頭では、別府が「彼女と食事に行ったときに、彼女の歯の間にニラが挟まっていて」と語りだし、「指摘したら彼女が帰っちゃった」というのだが、その時の様子を再現すると別府が「ニラ女! ニラ女!」と責めるというもので、津田に「そら帰るわ!」と呆れられる。


モンスターエンジン。例によって西森が、「中小企業!」と叫んで、「技術!」と返して貰うというネタをやるのだが、西森は「どうせ大抵のお子さんは将来、中小企業に行く」と言って、相方の大林に「そんなことあらへんよ! 大企業に行くかも知れへんやん!」と返されるも、「ここに来ているような子には(大企業に就職できる可能性は)ない」と断言する。ちなみに2回目は西森は、「大量生産!」とやって、「それでも落とせない品質!」と返して貰うのだが、今日は私は返すかどうかは、相方の大林の動きを見て決めることにしている。ちなみにテレビでは3回目をやることもあるそうだが(返す言葉は「言われてみればそうかもね」らしい)、舞台で3回目をやるのは見たことがない。

2回とも、結婚式での娘から両親への手紙朗読ネタをやったのだが、披露宴会場がなぜかサービスエリアの食堂だったりする。西森は、「覚えてる? 小学校3年生の時、日曜の午後にお父さんはゴルフ番組を見ていて、私が『他のチャンネル見たい』と言ったら、お父さんは『お父さんは隣の部屋でテレビ見てくる』と言って」と、大林に「覚えてへんよ!」と突っ込まれる些事を語ったり、反抗期に「お父さんの自転車のブレーキを壊したり、お父さんのコーヒーに洗剤入れたり」と過激になったり、「話しかけられても無視するようになって、お父さんが胸を押さえてうずくまっても無視した」と言って大林から「それ無視したらあかんよ!」と突っ込まれていた。

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2018年1月 2日 (火)

秋山智久 「人間の苦悩と人生の意味」

https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180102212148.pdf?id=ART0009616432

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1月1日 初詣に行ってきました

もう昨日になりますが、初詣に行ってきました。
今年も東山七条(大和大路正面)の豊国神社です。祭神:豊臣秀吉公。
正月三が日は国宝の唐門をくぐって拝殿の前まで行って参拝できます。

豊国神社唐門 内陣からの撮影

内側から見た唐門。天気は良くもなく悪くもなくといったところ。
相殿に祀られている豊臣吉子(北政所。寧々だかお寧だか寧だかいう方)さんにも直接お参りできます。織田信長公に「あのハゲネズミ(秀吉)があなた(北政所)ほどよい女を他に得られるわけがない」と絶賛された方なので、秀吉公より霊験あらたかかも知れません。

豊国神社にて

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2018年1月 1日 (月)

あけましておめでとうございます。

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