« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »

2018年1月の57件の記事

2018年1月31日 (水)

楽興の時(18) 「テラの音」浄慶寺20回記念コンサート

2018年1月26日 京都市中京区の真宗大谷派浄慶寺にて

京都御苑の近くにある真宗大谷派浄慶(じょうきょう)寺で、午後7時から「テラの音(ね)」浄慶寺20回記念コンサートを聴く。浄慶寺の中島浩彰住職とヴァイオリニストの牧野貴佐栄(まきの・きさえ)の共同主宰。今回は、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、ソプラノという編成での音楽会である。出演は、牧野貴佐栄、加治屋菜美子(ソプラノ)、森麻衣子(ピアノ)、徳安芽里(チェロ)。牧野、加治屋、森の3人は京田辺にある同志社女子大学学芸学部音楽学科の出身。森麻衣子は昨年から富山市にある桐朋学園大学院大学(昨年、仙川に生まれた桐朋学園大学大学院とは別組織である)に在籍している。徳安芽里は浄土真宗本願寺派の大学である相愛大学音楽学部出身。現在は富山市の桐朋オーケストラアカデミー研修課程に在籍しており、森と同じ学生寮で生活しているそうだ。

曲目は、第1部が、ヘンデルの「水上の音楽」より“アッラ・ホーンパイプ”、サン=サーンスの「白鳥」、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタK.304より第2楽章、モーツァルトのモテットより「アレルヤ」、ヴェルディの「乾杯の歌」、エルガーの「威風堂々」(歌唱付きバージョン)。第2部が、ルロイ・アンダーソンの「シンコペーテッド・クロック」、エンリオ・モリコーネの「ニュー・シネマ・パラダイス」より“愛のテーマ”、千原英喜の「はっか草」、平井康三郎の「さくらさくら幻想曲」、小椋佳の「愛燦燦」

2013年に産声を上げた「テラの音」。浄慶寺では1つの季節に1回のペースで演奏会が行われており、今回で20回目を迎えた。浄慶寺の中島住職が大谷大学在学中にギターの腕で鳴らしたそうで、東本願寺岡崎別院でのコンサートに携わったのだが縁で、「テラの音」をやるようになったという。

演奏の腕というより、間近で奏でられる音楽を愉しむという趣向のコンサート。音楽とは結構残酷なもので同じ楽器であっても演奏者が違えば演奏の出来は何千倍も何万倍も異なってしまう。今、世界の第一線で活躍している演奏家は、確率でいえばそれこそ突然変異級の猛者であり、そうした傑物達と今日の演奏家を比べる方が野暮だといえる。

ミスも多かったりするのだが、そこは大学で音楽を専攻し、現在も音楽に携われている人達なのでレベル自体は保証されている(音大を出ても音楽とはなんの関係もない職に就く人の方が多数派である)。

第2部では、スクリーンに映像が投影され、「ニュー・シネマ・パラダイス」の愛のテーマが流れる中、これまでの「テラの音」の歩みが回想される。私は今日で4回目ぐらいであり、行けなかった回の方がずっと多い。金曜日の夜が多いのだが、金曜日の夜は他用が多い。

アンコールは用意されていなかったが、「乾杯の歌」がもう一度歌われた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

海の写真集 安芸の宮島(6)

海の写真集 安芸の宮島(6)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

海の写真集 安芸の宮島(5)

海の写真集 安芸の宮島(5)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

海の写真集 安芸の宮島(4)

海の写真集 安芸の宮島(4)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

海の写真集 安芸の宮島(3)

海の写真集 安芸の宮島(3)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

海の写真集 安芸の宮島(2)

海の写真集 安芸の宮島(2)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

海の写真集 安芸の宮島(1)

海の写真集 安芸の宮島(1)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月30日 (火)

元禄15年12月14日夜 江戸・両国 本所松坂町で起こった出来事 またそれに至るまでとそれから

※ この記事は2017年12月14日に書かれたものです。

 

播州・赤穂浪士討ち入り 本所・吉良邸跡 本所松坂町公園

元禄15年12月14日(1703年1月30日)赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りを果たす。

そもそもの発端は、播州赤穂浅野家の当主である浅野内匠頭長矩が、江戸城本丸松の廊下で、高家肝煎・吉良上野介義央(よしひさ)に突然斬りつけた事件である。四十七士が吉良邸に討ち入る前年、元禄14年3月14日のことである。

なぜ浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったのかについては諸説ある。吉良上野介は幕府と朝廷の間を取り持つ高家筆頭であり、江戸城を訪れる勅使接待の指南役であった。複数の大名が勅使を接待するための礼儀作法を吉良上野介から伝授される。浅野内匠頭も当然ながら吉良上野介の教えを乞うたわけだが、実は浅野内匠頭は以前にも勅使接待役を仰せつかっており、元禄14年の勅使接待は自身二度目のものであった。この元禄14年の初頭に吉良上野介は年始の挨拶と朝廷との折衝のために京都に赴いている。なんのための折衝かというと、時の将軍・徳川綱吉が母親である桂昌院に従一位の位階を贈りたいと切望しており、吉良が朝廷に働きかけていたのである。ということで、吉良はこの時は浅野内匠頭らに教える時間が十分に取れないという事情があった。勅使接待は複数の大名が行うが、この時は浅野内匠頭が吉良の補佐役であった。このため、儀礼を授かった経験のある浅野内匠頭が吉良のいぬ間に勝手に他の大名に指示を出していた可能性が指摘されている。

浅野内匠頭と吉良上野介にはそもそも因縁があった。徳川吉宗が町火消を創設するまでは、江戸の火事には大名火消といって、火事の延焼を防ぐ役割を大名家が交代で受け持っていたのだが、元禄11年9月、江戸で大火があり、吉良上野介の鍛治屋橋の屋敷も延焼を防ぐために取り壊された。この時の大名火消を担っていたのが実は浅野内匠頭だったのである。この時に吉良が浅野に恨みを持ったのかどうかはわからない。「火事と喧嘩は江戸の華」であり、十分な消火装置のなかった時代にあっては建物を壊されるのは当たり前であるため、いちいち気に留めなかったかも知れない。ただこのことがその後に全く影響しなかったのかどうかも不明なのである。

ちなみに、赤穂浪士が吉良邸に討ち入る時には、大名火消を表すだんだらの羽織で固めているというイメージがあるが、これは「仮名手本忠臣蔵」などで生まれたフィクションであり、事実ではない。

ともあれ、互いにあるいは片方に遺恨があったのか、松の廊下で刃傷事件が起こる。将軍・綱吉にとっては母親に従一位を贈れるかどうか重要な接待の場。それを血で汚されたのであるから、綱吉の怒りが尋常でなかったのもうなずける。

もっとも、殿中で刃傷に及べば切腹なのは当たり前であり、「両成敗」の原則が当てはまるのはどうかも微妙である。ただ浅野内匠頭は十分な取り調べも受けずに即日切腹となった。このことが赤穂浪士の怒りを買いその後の討ち入りを招いたことは確かだと思われる。

さて、ここで吉良家と浅野家の由緒について書いてみたいと思う。

吉良家は高家筆頭であり、足利源氏の血を引く名門である。石高こそ低かったものの、自家よりも格の高い吉良家は徳川将軍家にとって面白くない存在でもあった。

浅野家は、豊臣秀吉の正室である高台院(北政所)が養女に入った家であり、本家は安芸広島42万石の大藩である。豊臣恩顧の大名が次々と改易される中で浅野家だけが命脈を保っていた。赤穂浅野家はその広島浅野家の分家である。そして一族の誰かが問題を起こしたら本家にも類が及ぶ。そういう時代である。

徳川将軍家にとって松の廊下事件は、目障りな吉良・浅野の両家を取り潰す機会でもあったわけである。

しかし、徳川家も吉良上野介には簡単に手出しできない状況があった。吉良上野介の長男・三之助が、米沢・上杉氏の養子に入り、藩主・上杉綱憲となっていたのである。吉良に処分を下すと上杉からの反発があるのは目に見えており、吉良がお咎めなしとなった理由の一つとして出羽国主・上杉氏の存在があったのかも知れない。

さて、当主を失い、浪士となった赤穂の侍たちであるが、当初の目標は吉良への復讐ではなく、長矩の弟、浅野大学長広を次期藩主としてお家の再興であった。しかし、赤穂浅野家の再興は許されず、浅野大学は永蟄居処分。赤穂城にいた浪士たちは芸州広島の浅野本家から大人しく開城するよう命じられ、これに応じている。この頃から巷間でも赤穂の浪士たちが吉良に復讐するのではないかという噂が立つようになった。

吉良邸に討ち入りがあるとしたらリーダーとなるのは当然ながら家老の大石内蔵助良雄をおいて他にない。しかし大石はといえば、京の東にある山科に閑居し(現在、大石の山科邸の後に大石神社が建っている)伏見の橦木町遊郭への出入りを繰り返しており、家老時のあだ名である「昼行燈」そのものの行動を見せる。もっともそれは見せかけだけで、橦木町遊郭では吉良邸討ち入りのための密議が行われていた。ただ大石はなかなか旗幟を鮮明にしない。そうこうしているうちに江戸の堀部安兵衛らが自分達で行動を起こそうとしてるという情報を入る。ちなみに、大石内蔵助が祇園の一力で遊んだという話が広まっているが、一力で遊んだのは「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助で、大石が一力に出入りしたという事実はない。

江戸でも動きがある。吉良上野介が呉服橋から本所松坂町への屋敷替えを命じられたのである。呉服橋は町中の大名屋敷街であったが、本所松坂町は隅田川の東、当時はまだ下総国である新興住宅地。江戸最大の歓楽街である両国がすぐそばに出来るのはまだ先の話である。江戸の渦郭式町並の外でもあり、討ち入ろうと思えばいつでも討ち入れるような守備の手薄な場所でもあったわけである。このことについて、幕府が赤穂浪士に吉良を討たせるよう仕向けたという説も存在する。

討ち入り決行のための環境は整っていた。

元禄15年12月14日は、浅野内匠頭の祥月命日であった。吉良は屋敷を空けることも多く、首を挙げるには吉良が確実に在宅している日を狙う必要がある。この日、吉良邸で吉良も出席する茶会が開かれることを赤穂浪士たちはつかんでおり、吉良上野介が屋敷にいることは明白であった。なお、残念ながらこの日は雪ではない。雪が降っているのは芝居の中だけの話である。

さて、ここからは有名な討ち入りの話となるのだが、「忠臣蔵」が日本を代表する敵討ちの話として人気があり、赤穂浪士たちが忠臣の鑑として褒めたたえられるのもある意味当然といえる。討ち入りがあったその日から、隅田川界隈では町人たちが吉良の首を掲げて泉岳寺へと向かう浪士たちに喝采を送り、握手やサインまで求めたという話が残っており、明治に入ってからも泉岳寺には「忠臣蔵」大好きの川上音二郎が毎月墓参に訪れていたりする。討ち入りの直後から今日に至るまで赤穂義士はずっと人気なのだ。

なのであるが、この「忠臣蔵」、本当に美談なのだろか? 客観的に見れば、一人の老人を四十七人の大の男が追い詰めて殺す話であり、陰険な印象まで受ける。

本所松坂町には現在、小さな公園が出来ており、吉良上野介義央の像が建っており、この像を見て吉良をしのぶ人も少なくないように思う。「悪人吉良を正義の赤穂浪士たちが討ち果たす」果たしてそんな筋書きだけで良いのだろうか?

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園内 吉良上野介義央公像

赤穂浪士には討ち入る大義があるように思われる。主君を自害に追い込まれ、お家の再興もならない。「ならば吉良邸に討ち入って華々しく散ろう」。これが巷間流布されている討ち入りの大義である。しかし、実は浪士たちは自分達全員が切腹処分になると覚悟していた節はどうやらないようなのである。仇の首を取って潔く散るためでなく吉良邸に討ち入った理由が浮上する。浪士になってしまったからには再就職を果たしたいという現実的で切実な理由である。本所松坂町での出来事は再就職のためのデモストレーションだったという説もある。忠義のために行ってはいたであろうが、「忠臣ぶりを発揮して他家に取り立てて貰おう」という計算をしていた浪士が一人もいなかったというのは美談に過ぎるようにも思われる。

討ち入りに至るまでには様々な要素が入り混じっている。将軍・綱吉は母親への従一位贈位に腐心しており、朝廷からの勅使の前でいいところを見せておきたかったのだが、それに冷水を浴び去るような出来事が起こった。そのために浅野内匠頭は即日切腹となるもこれが遺恨となった。刃傷沙汰の理由はわからないものの、吉良上野介は幕府から目を付けられる出自を持っていた。赤穂浅野家再興はならず、お取りつぶしが決まったが広島の浅野本家を守るために抵抗は出来ず、最早やることといえば吉良邸の討ち入りしか見いだせなくなった。幕府も吉良に直接処分を下せば米沢上杉家の離反を招くかも知れないが、赤穂浪士に討ち入らせたなら自らは手を下すことなく目の上のたんこぶである吉良家を取り潰すことが出来る。

歴史というものは一人の作者によって書かれるものではない。トルストイが『戦争と平和』で繰り返し書いたように巨大な流れがあり、人一人はその流れの中の一要素に過ぎないのである。しかし様々な要素がまじりあった結果、一つのストーリーようなものが出来上がる。最も有名なのが「忠臣蔵」として知られるストーリーである。しかしそこには綱吉の姿も、桂昌院への従一位贈与問題も、上杉家の事情も見えない。諸要素が取り除かれて、「悪を正義の士たちが討つ」というわかりやすい話に仕立てられている。あるいはあったかも知れない徳川の陰謀は美談の後ろに消えてしまっているのである。また浪士の志が一つだったとすることで個々の事情なども見えなくなってしまっている。本当は忠義よりも大切なものがあったかも知れないのに。浪士が全員切腹させられたことで小さなストーリーはこの世に証拠すら残すことなく消え去ってしまった。

勧善懲悪のストーリーに、人々は歓呼の声を挙げる。そこにあったかもしれないもう一つの、あるいは複数の物語に思いをはせることなく。

元禄15年12月14日夜、本所松坂町で起こったのは、一人の老人を四十七人の浪士が襲い、首を挙げたということである。悪や正義がどちらにあったのか、あるいはどちらにもあったのかなかったのか。そのことは歴史に準備されたことをなぞっただけだったのかあるいは個人の意思によるものだったのか。彼らが本当に望んでいたことがその他にあったのか。小さな団体が巨大な組織の手のひらで転がされただけなのかあるいは風向きを変えることに成功したのか。

 

その後、四十七士は名誉の切腹となり、吉良上野介義央の孫である義周は事件の責任を取らされて改易処分となった。桂昌院は無事に従一位を賜り、将軍・徳川綱吉は討ち入り事件の6年後に死去。浅野内匠頭の処分に深く関与していたといわれる柳沢吉保は順当に出世し、広島浅野家は英雄となった大石内蔵助の息子・大三郎を家臣として召し抱え、重用した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月29日 (月)

小春について

※ この記事は2017年11月27日に書かれたものです。

 

本日、11月27日は、旧暦で10月10日。晴れてお日様が眩しく、気温も上がって小春日和となりました。
小春というのは旧暦(陰暦)10月の異称であり、新暦の11月から12月に相当することが多く、この時期の晴れて穏やかな、あたかも春のような気候の日を俗に小春日和といいます。春のちょっとした暖かい日という意味ではないのですね。

さて、小春という女性名は比較的ありふれたものですが、小春という名の有名人が果たして旧暦10月相当の生まれなのか調べてみました。Google検索で上位に出てきた方から挙げていきます。

久住小春 女優・歌手 1992年7月15日生まれ いきなり小春生まれではありません

堺小春 女優 堺正章と岡田美里の娘 1994年3月10日生まれ やはり小春生まれではありません

菅原小春 ダンサー 1992年2月14日生まれ バレンタインデー生まれですね。というわけで旧暦10月の異称とは関係がありません

伊藤小春 アイドル 2002年11月7日(旧暦10月3日)生まれ ようやく正真正銘の小春生まれ登場

小春(松永小春) ミュージシャン(チャラン・ポ・ランタン) 1988年11月21日(旧暦10月13日)生まれ この方も小春のほぼ真ん中の生まれです

ということで、5人中、小春生まれの小春さんは2人。有名人限定ですのでサンプル数は少ないですが、小春生まれだから小春と名付けられたというわけでは必ずしもないということはわかります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月28日 (日)

記号の海

HTMLやCSSは順調に書けている時は良いのだが、操作がブラウザに反映されなくなった途端に、深さも広さも知れない記号の海に投げ出されることになる。

英語のスペリングのミスなのか、大文字のところが小文字になっているのか、あるいは別の原因なのか、そもそも根本が間違っているのか。ありとあらゆること、可能性をしらみつぶしに当たってもわからない場合は、恒河沙の一粒を探すような、頭を抱えたくなる作業を続けることになる。

「もういいや」と投げ出せれば楽だろう。実際、一つ間違っていてもなんとかなるケースはある。

だが、ブラウザに目立って崩れた場面がある場合は、絶対に探し出さねばならない鍵を探して、記号の海の中を泳ぎ続けなければならない。

かぐや姫に無理難題を突き付けられた皇子たちはこんな気分だったのだろうと思ってみる。だが、彼らは成功すれば玉女であるかぐや姫を手に入れる権利を得る。だが、我々は蓬莱の玉の枝を探し当てたとしても「それで当然」なのだ。

記号の海は広く、深く、冷たい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月26日 (金)

観劇感想精選(227) 大竹しのぶ主演「欲望という名の電車」

2018年1月6日 大阪の森ノ宮ピロティホールにて観劇

午後5時から、森ノ宮ピロティホールで、「欲望という名の電車」を観る。テネシー・ウィリアムズの代表作。以前に兵庫県立ピッコロ劇団が上演した岩松了演出の「欲望という名の電車」を観たことがあるが、それ以来、二度目の同作観劇である。テキストは小田島恒志(おだしま・こうし)の新訳を使用。演出はフィリップ・ブリーン。出演:大竹しのぶ、北村一輝、鈴木杏、藤岡正明、少路勇輔(しょうじ・ゆうすけ)、粟野史浩、明星真由美(みょうせい・まゆみ)、上原奈美、深見由真、石賀和輝、真那胡敬二(まなこ・けいじ)、西尾まり。

荒っぽい南部の街、ニューオーリンズ。ジャズ発祥の街でもあるここでは安ピアノやサックスの音がしている。ブランチ・デュボワ(大竹しのぶ)は、この街で「欲望」という名の電車に乗り、「墓場」という名の電車に乗り換えて、「天国」と呼ばれる場所にやって来た(これらの名称の電車や地名は実在した)。そこはニューオーリンズの猥雑な下町。ブランチは、妹のステラ(鈴木杏)を頼ってここに来たのだ。ステラは工場で働くスタンリー・コワルスキーというポーランド系の男(北村一輝)と結婚して「天国」という名の街に住んでいる。ブランチとステラは南部の大農園ベル・レーヴで育ったお嬢様だが、ステラは南部の荒くれ男であるスタンリーを結婚相手に選び、粗末なアパートに住んでいた。ブランチはステラと二人となった時に、スタンリーについて、「下品」「小学生並み」「人間以下」「類人猿」と酷評する。だがそれをスタンリーが聞いていて……。

とにかく陰惨な戯曲を書いたテネシー・ウィリアムズ。「欲望という名の電車」は、エリア・カザンの監督、ヴィヴィアン・リーの主演により映画化されているが、「問題あり」とされて大幅なカットを余儀なくされている。戯曲を読んだことがあり、上演を一度観たことがある私の目にもラストシーンなどはかなりショッキングに映った。

今回の大竹しのぶは、あたかも歌うような台詞回し。黒柳徹子が同じような台詞回しをしていたことを思い出す。特徴があるのでセリフが耳に入りやすい。
その大竹しのぶであるが、ブランチの心理状態に合わせて次々と別の女に変貌していくという凄絶な演技を披露。やはりこの人は天才以外の何者でもない。真似しようと思っても無理である。そして大竹しのぶは本当に美しい女優である。

今日は前から2列目の下手端に近い席だったのだが、そのお陰で、鈴木杏の目の演技力を確認することが出来た。ラストにあるわずかな救い。その救いと絶望に引き裂かれそうになりながら佇む鈴木杏の姿はあたかも名画に描かれた人物のようであった。鈴木杏も本当に素晴らしい女優になった。

ワイルドな男の演技を得意とする北村一輝も流石の安定感。現在の日本人俳優の中でスタンリー役が一番似合うのはやはり北村一輝だろう。

ユーニス役を演じた、私と同い年である女優の西尾まり。ラスト近くに出てくるセリフの「人生は続けていかなきゃならないの。何があっても生きていきましょう」という言葉が胸に染みた。

上手袖と下手袖をがら空きにして、舞台中央部にセットが組まれる。二階建ての白壁の建物。芝居が始まると、白壁が描かれた幕が上に上がり、アパートメントの一室が現れる。休憩中には降りていた幕に蛾の羽ばたく影が投影される(「欲望という名の電車」は創作過程においては「蛾」というタイトルが与えられていた)。
袖が開いているため、開演時間が近づいていたときに、鈴木杏さんが下手袖からセットへと歩いて行くのが見え、「お、役者が出てきた」と感じられるのが面白い。
メイン以外のキャストがニューオーリンズ市民としてアパートメントの裏で様々な市民生活を行っているという演出であり、「見えないけれど悲劇はその辺で起こっているのだ」というメッセージを受け取ったような気分になった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

いちご世代の悲哀

※ この記事は2018年1月5日に書かれたものです。


本日、1月5日(執筆時点)は、語呂合わせで「いちご世代」の日です。今では15歳前後の人たちを指す言葉になっているようですが、かつて特定の年代を指して「いちご世代」と称した時代がありました。バブル絶頂の時代に15歳前後で「将来の消費の担い手」とされ、注目されていた団塊ジュニア、更に絞ると1971年生まれから1974年生まれの、出生数が200万人を超えた第二次ベビーブーマーがそれです。

ただこの「いちご世代」が消費者として重要視されたのは彼らが中高生の頃までで、突如として状況が変わります。いうまでもなくバブル経済の崩壊です。

元々世代層が分厚く、人口の多い「いちご世代」は過酷な受験戦争にさらされることになりました。京都府などは総合選抜制度だったので高校受験などはそうでもないようですが(私は個別選抜しかない関東の出身です)大学受験になると、数十倍の倍率は当たり前でした。私も「いちご世代」なので受験大戦ともいうべき体験をしているのですが、最も倍率の高いところは約70倍でした(幸い、突破しましたが)。

ということで、大学に入るのが難しかった世代です。大学進学率は「いちご世代」が18歳前後を迎える1990年代前半に一時的に下がっています。

しかも女子に関しては、「いちご世代」が高校生だった時分に女子大生ブームがあり、「いちご世代」が大学に入学すると今度は女子高生ブームになります。ことごとく光が当たりません。そして大学在学中にバブルが弾けて長きに渡る就職難の時代が到来します。

というわけで、「いちご世代」という可愛らしい愛称は吹き飛んでしまい、「氷河期世代」、「ロストジェネレーション」、「貧乏くじ世代」などという重苦しい名称が生まれて定着するようになりました。「労多くして報い少なし」がこの世代の特徴です。

就職出来たはいいものの、下が入ってこないので、いつまで経っても下っ端という経験をしている人も多いようです。

彼らは第三次ベビーブームの担い手とも期待されたわけですが、思うような就職が出来なかったため、まずお金がない、自由恋愛が王道の時代になっていたのですが日本においては世代に関係なく恋愛強者は3割程度、そして厳しい受験戦争を戦わなければならないということで子供の頃から自主・自立を求められたことが多く(自主や自立は校訓などによく入っていたように思います)故に一人で生きることに慣れている。生き抜くのが大変だったため、我が子に同じ思いをさせたくないなどの理由が重なり、結婚もしなければ子供も作らないという人が多いのが特徴です。マスコミは「草食男子」だの「草食化」などと喧伝しますが、多分、これは的外れで、経済的理由と社会環境、個人もしくは集合的な経験の合算と見るのが適当だと思われます。

というわけでなにかと苦労の多い世代なのですが、単純に数が多いということはメリットでもあります。連帯が苦手であることが特性の一つとされる「いちご世代」、いやもうこの言葉を使うのはよしましょう、「悲運の世代」が幸運を生み出せるとしたら、そのボリュームによって日本を良い方に導ける可能性があるということです。というよりももうすでに40代半ばに達したこの世代が行えることはもうそれしかないのかも知れません。それしかないというのがまた悲運なのか、可能性があるから幸運なのか、それは個人の解釈によって異なってくると思われますが、社会を変える可能性を持っているのは2018年現在においてはこの世代しかいないのも事実です。

この世代にしか出来ないことがある、なら「悲運だから」と肩を落としていないで、まだ未来に賭けられる可能性があることに胸に前進していくことが最良の生き方なのかも知れません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月25日 (木)

コンサートの記(341) ジェームズ・ジャッド指揮 京都市交響楽団第619回定期演奏会

2018年1月21日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第619回定期演奏会を聴く。今日の指揮者はイギリスの名匠、ジェームズ・ジャッド。

曲目は、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番(ヴァイオリン独奏:木嶋真優)とホルストの組曲「惑星」


NAXOSへのレコーディングでもお馴染みのジェームズ・ジャッド。現在はイスラエル交響楽団の音楽監督とテジョン・フィルハーモニック管弦楽団の芸術監督、更にスロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督兼首席指揮者の座にある。これまでにフロリダ・フィルハーモニー管弦楽団とニュージーランド交響楽団の音楽監督を務め、録音も好評を博している。
ロンドン・トリニティ・カレッジ・オブ・ミュージックを卒業後、ロリン・マゼールの下、クリーヴランド管弦楽団のアシスタント・コンダクターを務め、クラウディオ・アバドの推挙によりヨーロッパ・コミュニティ・ユース・オーケストラの副音楽監督も経験している。
レナード・バーンスタインの弟子ではないのに、バーンスタイン作品を取り上げる指揮者としても知られる。純粋に作品として評価しているようである。

プレトークではジャッドは主に組曲「惑星」について解説。ホルストについて「ジーニアス(天才)」という言葉を用いながら楽曲の魅力を語った。


今日のコンサートマスターは渡邊穣、フォアシュピーラーに泉原隆志。


プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番。20世紀に作曲されたヴァイオリン協奏曲としては一二を争うほどの人気曲である。
2016年に第1回アイザック・スターン国際ヴァイオリン・コンクールで優勝した木嶋真優。これまでは「技術面は達者だが表現力がいまいち」という印象だったが見事に成長した。高音の美音はそのままに、女流としては厚めの音を特徴とする淀みのない演奏が繰り広げられる。音楽作りの面では甘さ控えめでリアルに徹している印象も受けた。

アンコールで木嶋は、自身のアレンジによる「ふるさと」を演奏。美しさと力強さを兼ね備えた演奏であった。


ホルストの組曲「惑星」。スケール豊かな演奏となる。第1曲「火星」では、天井の高い京都コンサートホールが飽和するほどの力強い音が鳴り響き、第2曲「金星」などでは神秘的で洗練された音を生み出す。楽曲ごとの対比も上手い。第4曲「木星」の立体感とノーブルさの表出も見事だった。
京都市交響楽団は、持ち前の金管の輝かしさが生きており、木管のクオリティも高い。弦は管に比べると押され気味のような気もしたが音自体は充実したものである。渡邊穣のヴァイオリンソロも味わい深い。
第7曲「海王星」に登場する京響コーラスの声も美しく、秀逸な「惑星」演奏となった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

さよならモーツァルト

※ この記事は2017年12月5日に書かれたものです。

 

 

モーツァルト

1791年12月5日、「神童」ことウォルフガング・アマデウス・モーツァルトがウィーンの自宅にて死去しました。享年35。遺骸はその日のうちに共同墓地に埋葬され、現在に至るまで死因も眠っている正確な場所もわかっていません。その死については一種のミステリーとなっており、映画化もされたピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」などに描かれています。

モーツァルトが生まれたのは、現在のオーストリアのザルツブルク。当時はまだハプスブルク家があり、オーストリアという国家は存在しておらず、モーツァルト自身は「ドイツ語圏の」という意味での「ドイツ人」という認識でした。父親は今では教育パパとして知られるレオポルト・モーツァルト。

ウォルフガングは5歳で初めての作曲を行うなど極めて早熟でした。

当時のザルツブルクは宗教都市であり、コロラド大司教が支配していました。後にモーツァルトはこのコロラド大司教と衝突してザルツブルクを飛び出すことになります。

大司教に関しては、「モーツァルトの作品に対して無理解だった」という説が有力ですが、「モーツァルトの才能を誰よりも理解しており、独占しようとした」という話もあり、文学作品などではそう描かれていることもあります。

ともあれ、モーツァルトはザルツブルクより出奔。ウィーンに移ります。当時の音楽家というのは雇われ仕事で、貴族や宗教家の注文を受けて作曲し、生活を成り立たせていました。しかしモーツァルトは史上初のフリーランスの音楽家を志したのです。

貴族向けの予約演奏会(現在の定期演奏会に当たる)というものを発案し、自作自演を行ったモーツァルト。当初は連日の満員であり、モーツァルトは一晩で貴族の五年分の収入を手にしたともいわれています。

しかし、経済的な成功を得ながら、父親のレオポルトが亡くなった頃からモーツァルトは困窮し、友人に借金を重ねるようになります。モーツァルトも妻のコンスタンツェも経済観念に乏しく、加えてモーツァルトが自身が所属していたフリーメイスンの活動にのめり込み、莫大な寄付を行っていたことも事実のようです。また陽気な性格の教養人ではありましたが社会性には乏しかったようで、「才能は今の半分でいいから、社会的な能力が倍欲しい」と手紙に記していたりします。

予約演奏会を開いても聴衆が集まらないようになったモーツァルトは「レクイエム」を作曲中、困窮のうちに亡くなりました。

 

モーツァルトは幾多の傑作を残しましたが、ここにお薦めの音楽作品を紹介しておきます。

 

歌劇「魔笛」

古今東西あらゆるオペラの中で一番人気とされる「魔笛」。日本での上演機会も多いです。王子タミーノ(日本人という説もあります)が、夜の女王の娘である王女パミーナを救出するために、ザラストロの宮殿に向かうというRPGのような筋書きを持っており、宮本亜門の演出では実際にRPG内のお話として上演されました。自然児のパパゲーノと彼女として現れるパパゲーナの話も笑えます。
夜の女王のアリア(「復讐の心は炎と燃え」)や「パパパの二重唱」など名アリア多数です。

第1幕を定評あるオットー・クレンペラーの指揮でお聴き頂けます。

 

交響曲第25番ト短調

モーツァルトの交響曲は傑作ぞろいで、特に後期六大交響曲と呼ばれる作品群は全て傑作ですが、ここでは敢えて初期の交響曲である25番を紹介しておきます。映画「アマデウス」の冒頭で鳴り響いた作品です。この曲を作曲したとき、モーツァルトはわずか17歳。青春の疾風怒濤がダイレクトに伝わってくる驚異的な作品です。

レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏でお聴きくださいい。

 

ピアノ協奏曲第27番

モーツァルト最後のピアノ協奏曲。まさに至純の境地とも呼べる作品です。みずみずしさあふれる第1楽章、彼岸を見つめる境地のように穏やかな第2楽章、自作の歌曲「春へ憧れ」を基にした愛らしい第3楽章など、聴きどころ満載です。

少し古い録音ですが、ミエチスワフ・ホルショフスキのピアノ、チェリストとしても知られるパブロ・カザルスの指揮するペルピニャン祝祭管弦楽団の伴奏でお楽しみ下さい、

 

セレナード第9番「ポストホルン」

モーツァルトのセレナードというと、第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が最も有名ですが、郵便配達夫が鳴らすポストホルンをモチーフにした音が第6楽章に出てくるこの作品が楽しさでは上です。モーツァルトがザルツブルク時代に最後に書いたセレナードであり、このころにはコロラド大司教とは犬猿の仲で解雇寸前の状態だったようですが、そんなことを微塵も感じさせない愉悦感に満ちた秀作です。

 

ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」

誰もが知っている「トルコ行進曲」を第3楽章に持つピアノ・ソナタ第11番。第3楽章ばかりが有名かもしれませんが、穏やかな主題による変奏曲である第1楽章、軽快な第2楽章も傑作です。
「トルコ行進曲」は元々はシンバル付きの特殊なピアノのために作曲されました。モーツァルトが企図した通りの特殊ピアノ版演奏を収めたCDも出ています。

20世紀最高のモーツァルト弾きの一人であるリリー・クラウスのピアノでどうぞ。

 

「レクイエム」

モーツァルトの絶筆となった「レクイエム(死者のためのミサ曲)」。ヴェルディ、フォーレの作品とともに三大「レクイエム」の一つに数えられています。
モーツァルトは「ラクリモーサ(涙の日)」を作曲中に他界。残りは弟子のフランツ・クサヴァー・ジュースマイヤーが仕上げました。ジュースマイアー補作版はモーツァルト自身が残した指示によってジュースマイヤーが仕上げているため決定版とされていますが、ジュースマイヤー自身の作曲能力に問題があり、またジュースマイヤーがモーツァルトの遺言に従わなかった(もしくは従えなかった)部分があるため、後世の作曲家や音楽学者が補作したバージョンが複数存在します。バイヤー版、モーンダー版、レヴィン版などが比較的知られています。

将来を期待されながら高波にさらわれるという事故で若くして亡くなったイシュトヴァン・ケルテス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ほかの演奏で。

 

「アヴェ・ヴェルム・コルプス」

混声四部合唱のために書かれた宗教曲。演奏時間は短いものの、モーツァルト至高の楽曲の一つとして知られており、「自分の葬儀にはこの曲を流して欲しい」と希望する音楽家が多いことでも有名です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月24日 (水)

コンサートの記(340) ダーヴィト・アフカム指揮 NHK交響楽団神戸公演2018

2018年1月20日 神戸文化ホールにて

午後4時から、神戸文化ホールでNHK交響楽団神戸公演を聴く。指揮は世界的に注目を浴びている俊英、ダーヴィト・アフカム。
1983年、ドイツ・フライブルク生まれのアフカム。インド系の父親とドイツ人の母親を持つ。フライブルク音楽大学とワイマール・フランツ・リスト音楽大学に学ぶ。ベルナルト・ハイティンクによる「若い才能におくる基金」の最初の受賞者に認定され、ハイティンクのアシスタントに抜擢されている。2008年にドナティラ・フリック指揮者コンクールに優勝。2010年のネスレ&ザルツブルク音楽祭ヤング・コンダクターズ・アワード第1位も獲得している。グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラ・アシスタントコンダクターを務めていた2010年には同オーケストラを指揮してCDデビューも果たしている。このCDを私は聴いていて、年齢を考えれば優れた出来だと感じた。


曲目は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番(ピアノ独奏:小山実稚恵)、リヒャルト・シュトラウスの歌劇「ばらの騎士」組曲、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」

今日のNHK交響楽団のコンサートマスターは、マロこと篠崎史紀。私のN響学生定期会員時代からいる奏者はマロの他に、首席オーボエ奏者の茂木大輔、第2ヴァイオリン首席の大林修子、チェロの藤森大統領こと藤森亮一など数えるほどしかいない。藤森亮一夫人である向山佳絵子も一時、N響首席チェロ奏者に就いていたのだが現在は退団したようである。その他の有名奏者としては、私と同い年の池田昭子(オーボエ&イングリッシュホルン、元京都市交響楽団の菊本和昭(首席トランペット)、神田寛明(首席フルート)らがいる。

神戸文化ホールは、東京・渋谷のNHKホールと同じ1973年の竣工。同時期の建築だけに内部がよく似ている。築40年が過ぎているため、神戸市はすでに2025年を目処に、廃館と機能の三宮移転を決めている。
神戸文化ホールに入るのは初めてだが、直接音は比較的良く聞こえる一方で残響はほぼなし。ということで音が生まれる端から消えていくような印象を受ける。そして困ったことに席が小さめで肩をすぼめて座る必要がある、更に客席前が狭く、移動に難儀する。ということで余程のことがない限り、もう聴きに行くことはないと思う。

さて、アフカム指揮のN響であるが、驚嘆すべき水準の合奏を聴かせる。世代交代が進み、更に首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィの手腕故か、音の威力が増し、今日の出来ならロンドン交響楽団に勝るとも劣らない(比較対象が微妙っちゃ微妙だが)レベルに達している。

1曲目の交響詩「ドン・ファン」では煌めくような快演を聴かせたアフカムとN響。ステージの光の加減もあって、一服の金屏風を眺めているような趣である。


モーツァルトのピアノ協奏曲第20番。アフカムとN響はピリオドによる伴奏を展開するが、残響のないホールであるため、場面によっては弦がスカスカに聞こえる。
ソリストの小山実稚恵は、純度の高いピアノを聴かせる。純度が高いためモーツァルトの愛らしさは後退してしまった嫌いがある。短調の曲だからそれでも良いのかも知れないが、何もかも上手くいくというわけにはいかないようだ。
アンコールとして小山はショパンのマズルカ作品67-4を弾く。ショパンの方が小山の個性にずっと合っているように感じた。
彼女の著書である『点と魂と スイートスポットを探して』は出てすぐに読んだが、いかにも音楽ばかりやって来た女性が書いたという感じの本であり、人に薦めるほどのものではないように思う。


リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」組曲、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」も立体的で充実した演奏。特に「ラ・ヴァルス」は音運びが上手い。
アフカム、将来が楽しみな指揮者である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ジャン・シベリウスのいる光景

※ この記事は2017年12月8日に書かれたものです。

ジャン・シベリウス

音楽史上を代表する交響曲作曲家であるジャン・シベリウスが生まれたのは、1865年12月8日のことだった。彼が生を受けたのは、フィンランドのハメーンリンナ。だが、当時、フィンランドはロシアの統治下にあった。

フィンランドの国情も複雑だった。国民の大半はフィン人であったが、政治や文化を担っていたのは少数のスウェーデン系フィンランド人であり、公用語もスウェーデン語だった。シベリウスが生まれたのは、そのスウェーデン系フィンランド人の家系である。

幼い頃のジャン少年(ジャンというのは一種の芸名であり、出生名はヨハネ、愛称はヤンやヨハネである)は自然とヴァイオリンが大好きであり、ヴァイオリン片手に野山を駆け巡るのが何よりも好きだった。一方で、勉強には余り身が入らなかったようで、小学生の時に一度留年している。

フィンランドの民族的高揚が高まっている時期、シベリウスもスウェーデン語の学校からフィンランド語の学校に移って勉強を続けることになる。もっとも、シベリウスは生涯、フィンランド語をスウェーデン語同等に扱うことはできなかったのだが。

ヘルシンキ大学とヘルシンキ音楽院に進んだシベリウス。ヘルシンキ大学では法学部に入ったが、法律の教科書のページを開くことはほとんどなく、ヘルシンキ音楽院に入り浸って作曲とヴァイオリンの演奏に没頭する。ちなみにヘルシンキ音楽院は現在、校名をシベリウス・アカデミーに変えている。

シベリウスの夢は偉大なヴァイオリニストになることだった。だが、子供の頃からヴァイオリニストになるための教育を受けていたわけでもなく、また人前で極端に上がってしまうという性格であったため、ヴァイオリニストになることは断念せざるを得なかった。一方で作曲には熱心に取り組む、ウィーン留学時には、当時、交響曲作家としては全く認められていなかったブルックナーの作風に心酔。弟子入りしようとして断られたりしている。ブルックナーへの弟子入りが叶わなかったシベリウスはゴルトマルクに師事した。

フィンランドには民族的叙事詩「カレワラ」がある。シベリウスは、この「カレワラ」に基づくカンタータ的交響曲であるクレルヴォ交響曲を発表。作曲家としての第一歩を記す。

シベリウスが注目を浴びたのは、「新聞の日」という愛国的イベントのための曲を作曲した時であった。ラストの曲は後に「フィンランディア」というタイトルで知られるものである。

「フィンランディア」は加筆されて交響詩となり、フィンランドの独立への情熱を代弁するものとして熱狂的に受け入れられた。

こうして作曲家として順調なスタートを切ったシベリウスは美しきアイノ夫人を得て、私生活も充実していく。

交響曲第1番の成功を受けて、発表された交響曲第2番は第4楽章が「フィンランド人の意識の高揚と凱歌」と受け取られ、熱狂的な支持を受ける。現在も交響曲第2番はシベリウス最大のヒット作である。

社会的な成功を得たシベリウスだが、生活面では問題を抱えていた。とにかく浪費家だったのである。酒と煙草と芸術を愛してそれらのための金に糸目を付けないシベリウスは多額の借金を抱えるようになる。

見かねた友人たちの助言を受け入れて、シベリウスはヘルシンキを去ることになった。新たな生活の基盤はヘルシンキの北、湖に面した場所にあるヤルヴェンパーである。ここにシベリウスはアイノ夫人に由来するアイノラ荘を建てて、作曲に専念。この頃から作風は明らかに変化する。

 

シベリウスが癌の宣告を受けたのは、1908年、43歳の時だった。喉に腫瘍ができ、咽頭癌を疑われたのだ。腫瘍は良性で、摘出手術を受けて感知するが、この時の絶望は交響曲第4番に色濃く表れている。

交響曲第4番は、1911年に、作曲者自身の指揮によって初演されたが、これが一大事件となる。その内省的な作風に聴取は大いに戸惑い、「客席にこの曲の内容を理解できた人がほとんどいなかった」と評されるほどであった。アメリカ人の音楽評論家が、「酔っぱらいのたわごと(ちなみにこの時期、シベリウスは断酒していた)」と切り捨てる一方で、イギリスの音楽評論家であるセシル・グレイは、「無駄な音が一つもない」と絶賛。後にグレイはシベリウスのことを「ベートーヴェン以降最大のシンフォニスト」と評することになる。

 

その後のシベリウスの作曲活動は順調だった。ある時までは。

1923年、シベリウスは交響曲第6番、第7番、交響詩「タピオラ」を発表する。そしてその後、沈黙の時期に入ってしまうのだ。これが有名な謎となっている「シベリウスの晩年の沈黙」である。

作曲を続けていた形跡はある。交響曲第8番の初演は何度もアナウンスされたが、そのたびごとに延期された。シベリウス本人や娘の証言によると交響曲第8番は一度、もしくは数度完成した。しかし出来に満足しないシベリウスによって総譜は暖炉にくべられたという。

シベリウスはその後、作曲家としての正式な引退宣言を行う。書痙が原因とされるが、無調音楽などの台頭に失望したという説もある。

 

日本は、フィンランド本国、イギリス、アメリカなどの並び、シベリウスの演奏が盛んな国である。渡邉暁雄という世界的なシベリウス指揮者が活躍しており、渡邉の没後も指揮者の尾高忠明らがシベリウスを盛んに演奏している。

 

シベリウスを代表する曲としては、まず問題作でもある交響曲第4番を挙げたい。絶望や孤独といった意識がこれほど純粋に音化された曲は他に例を見ない。

他にお薦めの交響曲としては、第6番と第7番がある。いずれも神秘的にして純度の高い音世界が繰り広げられており、音楽好きにとってこの上ない音の宝となっている。

渡邉暁雄指揮日本フィルハーモニー交響楽団 シベリウス 交響曲第6番

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団 シベリウス 交響曲第7番

小品としては「悲しきワルツ」を推したい。この曲は世界的指揮者であるパーヴォ・ヤルヴィのアンコール演奏の定番となっているため、今後も聴く機会は多いだろうと思われる。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン シベリウス 「悲しきワルツ」

 

「シベリウスの音楽には人がいない」といわれている。その音光景の中に人物が存在しないという意味なのだが、本当にそうなのだろうか。

日本人的な意識に立ってみれば、音に見える自然風景の中に人間が溶けているように思える。西洋においては自然と人間は対立項であるが、日本ではそうではない。

シベリウスの光景は、徹底して自然が描かれているがゆえに最も人間的であると言っても良いのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

理想家レノンは死んだのさ

※ この記事は2017年12月8日に書かれたものです。

 

ジョン・レノン

1980年12月8日、ジョン・レノンが死んだ。享年40。

その日の夜10時40分頃、レノンはニューヨーク市内のスタジオでの作業を終え、夫人のオノ・ヨーコと共に、自宅のある高級マンションのダコタ・ハウスに戻ろうとしていた。レノンがヨーコよりダコタ・ハウスに入ろうとしたときに、若い男が声をかけてきた。「Mr. LENNON!」。そして銃声が響いた。発砲したのはマーク・チャップマンというハワイ出身の男だった。

レノンの声が辺りに響く。「I’m shot,I’m shot!(撃たれた! 撃たれたんだ!)」
ダコタ・ハウスのドアマンであるホセ・ペルドモがチャップマンのもとに駆け寄り、「自分が何をしたのかわかっているのか?!」と叫ぶ。チャップマンは今日の天気でも答えるかのように冷静に言った「ええ、ジョン・レノンを撃ったんですよ」

なお、それより30分前、小説家のスティーヴン・キングはマーク・チャップマンを名乗る男からサインを求められて応じているが、ここでは詳しくは取り上げない。

 

ジョン・レノンは、1940年に、イギリス・リヴァプールの労働者階級の家に生まれた。レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人が全く同じ時期にごくごく近所に住んでいたというのは偶然に過ぎないが、神のお戯れの結果のようにも思える。

とにもかくにも、4人の天才がたまたまリヴァプールという街にいたことで、ザ・ビートルズが生まれる。仲の良かったジョン・レノンとポール・マッカートニーは互いの作品をレノン=マッカートニーの連名で出すことにした。ポール・マッカートニーが一人で作詞・作曲した作品(例えば「Yesterday」)でも、ジョン・レノンが独自で作り上げた曲(例えば「ノルウェーの森」)であっても、名義はレノン=マッカートニーだった。

そんなレノンとマッカートニーの間に亀裂が入るようになったのは、ジョンが愛人のオノ・ヨーコをスタジオに連れてくるようになってからだった。

最初はマッカートニーもヨーコに対しては好意的だった。なんといっても親友の彼女なのだ。

しかし、すぐにヨーコを巡ってメンバーの関係はぎくしゃくし始める。労働者階級出身の彼らとは違い、ヨーコは旧華族階級に生まれた生粋のお嬢様。実家は安田財閥に連なる名家で、貧困とは無縁。現代音楽やら絵画やら芸術関連にやたらと手を出すいわゆる好事家であるが、本気で芸術家になろうしているわけでもない。レノン以外のメンバーが面白い顔をするわけがなかった。

しかし、東洋思想や仏教などに詳しいヨーコにジョンはのめりこんでいく。レノンは一時、音楽活動を休んでいたが、その間のことについてインタビューを受けた際、「輪が回るのを眺めてたんだ」と仏教からの影響が濃厚に感じられる発言を行っている。

反戦に関しても、ヨーコにインスパイアされていた。おりしもベトナム戦争の時代。レノンは反戦を掲げたプラスチック・オノ・バンドを結成するなど、反戦・平和活動ににのめりこんでいく。だがそのためもあってかポール・マッカートニーとの関係は修復不可能なまでに悪化していた。1970年、ザ・ビートルズは解散。レノンはヨーコと共にアメリカに渡る。レノンの思想は更に先鋭化し、平和の伝道師となっていった。

レノンの平和音楽家としての活動はその死によって唐突に終わった。奇矯とも思えるその姿勢は、生前から冷笑されてもいた。ある有名ミュージシャンは後年、こう述懐している。「ジョン・レノンが死んだ日にゃ、腹を抱えて笑ったぜ」

理想家レノンは37年も前に死んだ。そしてその理想は今も実現からはほど遠い。レノンの思想は語るだけ無駄だったのか。

だが、ジョン・レノンの思想は、楽曲として今も生きている。争いのない世界を歌った「イマジン」、戦争終結への思いをつづる「Happy Xmas(War Is Over)」、子供のショーン・レノンへの愛をうたった「Beautiful Boy」、毛沢東の「天の半分を支えるのは女性である」という言葉を冒頭に用いた「Woman」、愛について徹底して語った「LOVE」など。

 

2014年11月、ニューヨークの国際連合より「イマジン」の映像が流れた。2009年に他界した忌野清志郎がカバーした「イマジン」だった。

ジョン・レノンは死に、その思いを受け継いだ忌野清志郎ももうこの世の人ではない。だが「人は僕のことを夢想家と呼ぶかも知れない」(ジョン・レノン)、「夢かも知れない」(忌野清志郎)という自覚がありつつ、理想は受け継がれている。ある意味、理想が死ぬのは全ての人間が理想をあきらめた時であり、理想を描く意思がある限り、それは不滅だといえるのかも知れない。

理想家は死んでも、理想が死ぬことはないのだ。

 

「Imagine」

 

「Happy Xmas(War Is Over)」

 

忌野清志郎 「イマジン」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月23日 (火)

コンサートの記(339) 小林沙羅ソプラノリサイタル2018西宮

2018年1月19日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター神戸女学院小ホールにて

午後7時から、兵庫県立芸術文化センター神戸女学院小ホールで、小林沙羅のソプラノリサイタルを聴く。ピアノ伴奏は河野紘子。

神戸女学院小ホールの名称はネーミングライツによるものであり、神戸女学院のホールというわけではない。
これまで兵庫県立芸術文化センターの大ホールと中ホールには何度も来ているが、小ホールに入るのは今日が初めてである。単純にこれまで訪れる機会がなかった。
神戸女学院小ホールは、コンタクトレンズのような形状の反響板が特徴的なホールである。天井が高い。今日はステージ下手の後方、斜めになった席で聴いたのだが、音はまずまず、悪くはないが特に良いというわけではない。このホールは使い勝手が悪いため、積極的に「また来たい」とは思えなかった。


曲目は、前半が日本の歌曲で、山田耕筰の「この道」、「あかとんぼ」、「からたちの花」、草川信の「揺籃(ゆりかご)の歌」、美智子皇后作詞・山本正美作曲の「ねむの木の子守歌」、別役実作詞・池辺晋一郎作曲の「風の子守歌」、中田喜直の「さくら横ちょう」、「髪」、「悲しくなった時は」、山田耕筰の「風に寄せてうたへる春のうた」、後半はドイツ語歌曲で、リヒャルト・シュトラウスの「矢車菊」、「夜」、「セレナーデ」、シューベルトの「子守歌」、ブラームスの「子守歌」、フリースの「モーツァルトの子守歌」、シュトルツの「プラーター公園の春」、レハールのオペレッタ「メリーウィドゥ」よりヴィリアの歌、カールマンのオペレッタ「チャルダッシュの女王」より“ハイヤ!山こそわが故郷”


2015年に兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで上演された、野田秀樹演出の「フィガロの結婚」にスザンナ(すざ女)役で見たことのある小林沙羅。「題名のない音楽会」への出演でもお馴染みである。東京藝術大学および大学院修士課程修了。2010年から2015年までウィーンとローマで研修と歌唱活動を行っている。

ピアノ伴奏の河野紘子は、桐朋学園大学卒業後、同研究科を修了。オーストリアでマスタークラスやサマーアカデミーなどに参加。「のだめカンタービレ」や映画「神童」で手の吹き替えも行っているそうだ。現在、二期会オペラ研究所ピアニストとして勤務。今日は温かみのあるピアノを聴かせてくれた。


小林沙羅は、フォルムのクッキリした美声を聴かせる。声としての質の高さが窺えるが、何よりも声で聴かせるタイプであるため、山田耕筰の歌などでは感情が十分に伝わってこないもどかしさも感じた。

子守歌が並んでいるが、小林沙羅の1歳半になる子供が、どんなに活発に活動していても子守歌を聴くとストンと眠ってしまうそうで、子守歌を歌う前に小林は、「眠くなったら眠っていいですよ」と冗談で言っていた。

中田喜直の「髪」については、学生の頃にずっと取り組んでいた曲なのだが今ひとつピンとこず、「どこが良いんだろう?」と思いながら勉強していたそうだが、年を重ねることで歌詞や曲の良さが感じられるようになってきたそうである。

レハールの「メリーウィドウ」よりヴィリアの歌では聴衆に協力をお願いして、合唱の部分を歌って貰うという無茶ぶりがある。ただそこは阪神間中心と思われる客層なので、男女ともに「我こそは!」と率先して歌ってくれる人がおり、大成功であった。

更に、カールマンの「チャルダッシュの女王」より“ハイヤ!山こそわが故郷”でも聴衆に手拍子を促し(楽譜に「手拍子をするように」と書いてあるそうである)、「楽譜に踊れって書いてあるので踊ります」と言って、ジプシー風のダンスを舞う。小林はバレエも習っていたので、踊るのも得意なのだろう。


アンコールは3曲。ジーツィンスキーの「ウィーン、我が夢の街」、リヒャルト・シュトラウスの「献呈」、小林沙羅自身の作詞・作曲である「えがおの花」
「ウィーン、我が夢の街」は前半をドイツ語詞で、後半を日本語詞で歌った。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

We Love マタチッチ

※ この記事は2018年1月4日に書かれたものです。

Matacic

1985年1月4日、NHK交響楽団名誉指揮者として知られたロヴロ・フォン・マタチッチが死去しました。享年85。

東欧ユーゴスラヴィアの生まれということもあり、ヨーロッパの中央楽壇では知名度は今一つに終わりましたが、日本のクラシック音楽界においては最大級の功績を残した指揮者です。

マタチッチはウィーンに学んだあと、祖国のザグレブ歌劇場とベオグラード歌劇場の指揮者として活躍。その後もオペラ指揮者としては洋の東西を問わず高く評価され、バイロイト音楽祭にも登場しています。

「ピアノを食べてしまう」といわれるほどピアノが上手であった一方で、手先は不器用であり、生涯を通して靴紐が結べることはなかったといわれています。「ハリー・ポッター」のダニエル・ラドクリフが発達性協調運動障害で、靴紐が結べないことで知られていますので、マタチッチも同じ障害を持っていたのかも知れません。

マタチッチのピアノの上手さには逸話があり、ユーゴスラヴィア建国の父であるチトーに反抗し、投獄されて死刑を宣告されるも、ピアノが抜群に上手かったために赦免されたといいます。

 

日本においては、1965年にスラヴ歌劇場の指揮者として来日してNHK交響楽団を指揮。N響の楽団員から絶賛され、またマタチッチもN響を気に入り、蜜月時代が始まります。1967年にはN響と特別な関係を結んだ指揮者に送られる名誉指揮者の称号を得て、以後は毎年もしくは1年おきに来日してN響を振るようになり、それは死の前年まで続きました。

ブルックナーを得意としたマタチッチは、日本におけるブルックナー演奏の普及に大いに貢献しました。またオペラの指揮台にも登場し、ヘンデルの「メサイア」などの大規模声楽曲の演奏でも高い評価を得ました。

更には珍しいことにマタチッチの自作、対決の交響曲もN響の指揮台で指揮しています。この曲には変拍子があるのですが、音楽評論家の宇野功芳によると不器用なマタチッチは変拍子が上手く振れず、見かねた楽団員が「先生は指揮台の上で泳ぐ真似をしていて下さい。自分達でやりますから」と進言。本番でマタチッチは本当に指揮台の上で泳ぐ真似をしていたといいます。対決の交響曲はDENONからCDがリリースされているため、今でも聴くことが可能です。

 

ご存知の通り、NHK交響楽団は全ての定期演奏会を放送で流しており、放送用音源が残っています。というわけで、近年になってからマタチッチ指揮NHK交響楽団の演奏がキング・レコードやALTUSレーベルなどから次々とCD化されるようになりました。

以前から日本コロムビア(DENON)でリリースされていた、ブルックナーの交響曲第8番、ベートーヴェンの交響曲第2番と第7番に加え、ブルックナーの交響曲第7番、スメタナの「わが祖国」全曲、年末の第九、村上春樹の『1Q84』で有名になったヤナーチェクのシンフォニエッタ、十八番であったワーグナーの序曲集と管弦楽作品集、N響との初顔合わせとなったムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」、ブラームスの交響曲第1番と第3番、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」、チャイコフスキーの交響曲第5番などが発売され、ファンの垂涎の的となっています。

その死から30年以上が経過し、祖国であるユーゴスラヴィアも崩壊・分裂した今となってはマタチッチがこれほど愛されている国は日本をおいて他にないかも知れません。

海外では、スヴャトスラフ・リヒテルがピアノ独奏を務めたグリーグとシューマンのピアノ協奏曲の伴奏(オーケストラはモンテカルロ国立歌劇場管弦楽団)とエリザベート・シュワルツコップが主演したレハールの喜歌劇「メリー・ウィドウ」(フィルハーモニア管弦楽団を指揮)ぐらいでしか知られていないと思われるマタチッチ。しかし日本においては今でもその名がファンの口に上るほど愛されているのです。日本人が真に愛したマエストロ、それで良いではありませんか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

油小路の変 新選組崩壊への道程

※ この記事は2017年12月13日に書かれたものです。

 

伊東甲子太郎

慶応3年11月18日(1867年12月13日)、新選組元参謀(ナンバー2)で、御陵衛士首座の地位にあった伊東甲子太郎(新選組脱退後は伊東摂津と名前を変えていますが、紛らわしいので伊東甲子太郎で統一します)が、新選組局長・近藤勇の私邸での酒席に臨んだ帰りに大石鍬次郎らに襲撃され、油小路の本光寺門裏にて絶命するという油小路の変が起こりました。坂本龍馬暗殺の3日後の出来事です。大石鍬次郎は維新後に伊東暗殺を自白したため、打ち首となっています。

新選組隊士らは、御陵衛士の殲滅を企図し、「士道に背く」ととれる行動に出ます。伊東の遺骸を七条通まで運んで放置。御陵衛士隊士たちが伊東の亡骸を引き取りに来るのを待ち伏せして襲撃し、全滅させようとします。御陵衛士に加わっていた藤堂平助(津・藤堂家のご落胤説あり)は、新選組結成以前の江戸・試衛館時代から近藤の盟友であったため、二番隊組長・永倉新八や十番隊組長の原田左之助らに「平助だけは見逃せ」と近藤や土方からの指示が出ていたといわれていますが、藤堂は逃げることを潔しとせず、討ち死にして果てました。新選組と御陵衛士の戦闘現場となった七条油小路には、御陵衛士らの指など体の一部がいくつも転がっていたと伝わっています。かつてのナンバー2と以前からの盟友が他界することになったこの事件は新選組の終焉を早めた事件とみなすことが出来るように思います。

さて、伊東甲子太郎とは何者かという問題から入りたいと思います。坂本龍馬が暗殺される直前、潜伏先の河原町・近江屋を伊東が訪ねていることがわかっています。伊東は坂本に「新選組があなたの命を狙っているので気を付けるように」との忠告を行ったといわれています。身を潜めていた時期の坂本と会うことが出来ているため、二人が親しい、少なくとも互いの顔を知っている間柄であったことがわかります。

伊東甲子太郎は、最初の名を鈴木大蔵といい、新選組九番隊組長であった鈴木三樹三郎の実兄です。常陸国の出身で水戸で学んでおり、実は近藤によって壊滅させられた芹沢鴨ら水戸派と近しい尊王思想の持ち主でした。江戸に出て、伊東誠一郎に剣術を学び、実力を認めれて師の婿養子となり、伊東大蔵として伊東道場の主となりました。この時期に伊東道場に通っていたのが藤堂平助であり、伊東と藤堂は子弟の関係となっています。伊東の新選組入隊を斡旋したのは藤堂と見てほぼ間違いないと思われます(藤堂平助が伊東に新選組乗っ取りを持ち掛けたという話がありますが真偽不明)。新選組に入隊したのが元治元年が甲子の年であったため、伊東は甲子太郎を名乗ります(「かしたろう」と読みますが、永倉新八はなぜか「きねたろう」を間違って記憶していました)。

伊東は新選組加入に際して実力を大いに認められ、いきなりナンバー2の座として新設された参謀に就任、文学師範も兼任します。それまでのナンバー2は総長の地位にあった山南敬助(さんなん けいすけ)でしたが、伊東の参謀就任により山南は隊内での求心力を失い、切腹へと追い込まれたとする解釈も存在します。

問題は伊東甲子太郎という男の在り方でした。水戸に学んだ伊東甲子太郎は強烈な尊王思想の持主。しかも当時において英語を話し、町を歩けばすれ違う女がみな振り返るといわれるほどの美男子でもありました。同じ美男子でも尊王佐幕で本格的な学問に励んだことのない土方歳三や、同じく尊王佐幕で「御公儀(徳川家)第一」「攘夷」を掲げる近藤勇から見ても文学師範として夷狄の言葉である英語を教え始めた伊東は面白い存在ではなかったはずです。新選組の主導権を伊東に奪われるのではという危機があったかも知れません。

そもそも伊東の新選組入隊の目的は、新選組の戦力をもって朝廷の私兵たらしめるためだったと言われており、まさに清河八郎斎藤正明の建策と軌を一にするものでした。

新選組では脱退は御法度でしたが、近藤も危険人物とみなすようになった伊東の「孝明天皇の陵を守る隊として独立したい」という提案は、平和裏に袂を分かつ手段として体面的には望ましいことだったでしょう。

しかし、新選組の分裂はこれで三度目になります。京都に着いてすぐの新徳禅寺での清河八郎との決別、芹沢鴨ら水戸派の粛清(その前に殿内義雄暗殺もありました)、そして伊東一派の離脱です。伊東には近藤子飼いの藤堂平助も同行。近藤にとってみれば愛弟子に背を向けられたようなものです。このまま行けば新選組の空中分解は避けられそうにありません。新選組三番隊組長で、沖田総司と双璧をなすとまでいわれた剣の使い手である斎藤一をスパイとして御陵衛士に送ったというのはほぼ間違いないでしょう。さすがに本当に斎藤が離反したのだとしたらこの時点で新選組は王手をかけられたことになりますので。

伊東甲子太郎の暗殺に近藤が直接的な命令を下したのかは今でもわかっていません。ただ、私邸の酒宴に呼び出し、酔わせてから暗殺するという手段は芹沢鴨暗殺に似たものがあり、関与を匂わせています。

幕末を駆け抜けた剣豪集団であり、歴女たちのアイドルでもある新選組ですが、その歴史は粛清の歴史であり、その過程も手段も似ています。邪魔になる相手は斬る。それも徹底的にです。新選組が私的警察であり、御公儀に逆らう者の捕縛と最終手段としての殺害を受け持っていたということから、そうした性質を持つのも当然なのかも知れません。しかし味方に対しても容赦なく牙をむき、殲滅を目指す組織が長続きするはずがないのです。三度目の同士討ちを行ったこの時点で新選組の命運は尽きたのかも知れません。その後、新選組は西本願寺に勝手に屯所を移し、その後、新選組を煙たがった西本願寺の出費により(つまりお金を払ってでも出て行ってほしかった)不動堂村に大名屋敷並みといわれた屯所を築きますが、壬生時代のような栄光を取り戻すことは一切できず、約5年という短い歴史に幕を下ろします。

坂本龍馬という人物に関してはまだ謎の部分も多いのですが、彼が合議制による新世界を目指していたことは間違いのないところです。龍馬一人のみならず、時の将軍である徳川慶喜もまた幕藩体制ではなく多くの意見によって築かれる新時代を模索していました。本来、徳川を守る存在であった新選組は徳川将軍家と幕臣たちの意図を汲めず、完全に時代を見誤っただけでなく、隊の保身のために邪魔者を排除し続けるという旧態依然の象徴的存在になってしまいました。ある意味、時代のあだ花です。

実は新選組はその知名度に比して、歴史的な研究がほとんど進んでいない組織としても有名です。歴史家の間では「研究に値しない団体」とまでみなされており、研究対象として注目されるようになったのは、2004年の大河ドラマ「新選組!」放送以降です。

その武勇がクローズアップされがちな新選組ですが、私はむしろ「新選組はなぜ瓦解したのか」に注目したいと思います。会津中将松平肥後守容保からの覚えも目出度く、トップ(近藤勇)とその片腕(土方歳三)が農民階級出身でありながらほぼ全員が幕臣に取り立てられるという異例の出世を遂げた、ある意味「夢の組織」「成功したベンチャー」であった新選組。しかし、「邪魔無駄排除」という思想によって命を縮めました。

邪魔なものや無駄なものを排除する。これは、昨今吹き荒れている新自由主義の発想に似てはいないでしょうか。「スリム化」の美名のもと、多くの企業が無駄を排除する経営を行っています。無駄を許容する体力がないということでもありましょう。しかし世界は多くの無駄なものによって形成されているのです。「排除の理論」が通ったら果たしてどうなるのか。

「排除」という言葉を使ってしまったため選挙に惨敗した政治家がいました。その敗北の姿は新選組にも重なるような気がするのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人前で表現するということ 『西村雅彦の俳優入門』と広上淳一の指揮ワークショップより

※ この記事は2017年12月12日に書かれたものです。

 

12月12日は、俳優の西村まさ彦(本名および旧芸名:西村雅彦)の誕生日です。最近は俳優だけでなく、大正大学表現文化学部の特任客員教授として後進の育成に当たっていたり、生まれ故郷の富山市で市民のための演劇ワークショップの講師としても活躍しています。

私が彼の演技に初めて触れたのは、1993年秋から1994年3月までにかけてフジテレビ系の深夜ドラマとして放送された「マエストロ」での演技でした。それまでも三谷幸喜が主宰する東京サンシャインボーイズの看板俳優として活躍していましたが、この「マエストロ」を目にしたNHKのプロデューサーが大河ドラマ「秀吉」の徳川家康に抜擢を決めてたことで大出世。以後の破天荒な活躍ぶりは今更記すまでもないでしょう。

さて、その西村雅彦の著書である『西村雅彦の俳優入門』と、2016年12月1日に京都市北文化会館で行われた広上淳一(京都市交響楽団常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザー)の指導による立命館大学交響楽団とのワークショップにはいくつもの共通点があり、「表現する」ということに関して重要な示唆があるように感じられましたのでここに記しておきます。

西村まさ彦も広上淳一も、人前で表現をするには恥を捨てなければいけないという意識を共通して持っています。人前で演技するのに恥じらいの気持ちがあってはセリフにも動きにも意識しない抑制が出てしまいます。意図的に抑制して演技が出来るなら名優の域でしょうが、意識しない抑制というのは、つまり声も体も上手く操れていないということですので、表現の敵以外のなにものでもありません。また指揮者というのは、100名ほどもいる楽団員も前で様々な仕草をします。恥の気持ちがあったら動きがぎくしゃくしてしまい、楽団員に意図が全く伝わらないということになってしまいます。指揮者というのは、自分では一切音を出さず、オーケストラメンバーに全ての音を委ねています。意図が伝わらなければ音楽を生み出すこと自体が不可能になってしまうわけです。

恥の意識を破るにはまずどうするか。西村まさ彦も広上淳一も第一歩は共通しています。「大きな声を出すこと」です。大きな声を出すことで自己を開放します。人前で大声が出せるようになれば、人前に出る恥の気持ちや恐怖は薄らいでいくことでしょう。

さて、人前での表現において次に重要なのは、相手にきちんと意思を伝えることです。ちょっと離れた距離にいる人に本を取ってもらうとします。西村まさ彦はまず、相手の顔を見ないでセリフを言うように仕向けます。当然ながら、これではその人が誰に向かって本を取ってくれるよう頼んだのかわかりません。本のそばにいる人は、「自分かな」とは思うでしょうが、確信は持てない。そこで、西村は相手の方を見て、そして相手に向かってきちんと言葉を発するように指導します。これは当たり前のことように思うかも知れませんが、案外できていない人が多いようです。西村はピンポン球を相手に向かって投げながらのダイアローグの練習もします。重要なことを伝える時にはセリフを言うと同時にピンポン球を相手に取りやすいように投げます。また相手に強く訴えかける時は、相手の胸に向かって強く投げます。これによって言葉の重要度を可視化できるようにしているのです。

一方の広上は、立命館大学の学生指揮者の動きに、「全然楽しそうじゃない」とダメ出しして、単に棒を振るだけでなく指揮することで楽団員を鼓舞するよう言います。広上は立命館の学生指揮者に、「鼓舞するってわかる?」と聞き、学生指揮者が「盛り上げるとか」と答えると、「さすが立命館の学生! 頭が良い! うちの学生(東京音楽大学と京都市立芸術大学の学生)に『鼓舞するってわかる?』って聞いたら『昆布ですか?』と返ってきまして。漢字から教えなおさないといけない」

笑い話になってしまいましたが、一体なにを誰に向かってなんのためにということを明確にしておかないといけないということのようです。

さて、「俺は俳優にもならないし、指揮者になるつもりもないから関係ない」と思う方もいらっしゃるかも知れません。しかし、生きるということは人前での表現なのです。全ての人が人前で他人に向かって自分の意図を伝えていくということで人間社会は成り立っています。つまり、相手に向かって正確に伝達できる技術を持たないと、人間関係も世の中も上手く回っていかないということになります。表現する技術はプロの表現者はもちろんのこと、一般人である我々にも、いや我々にこそ必要なのかも知れません。

シェイクスピアの「お気に召すまま(As You Like it)」に、「この世は舞台、人はみな役者」というセリフがあります。実はこのセリフはふさぎの虫である皮肉屋のジェイクイーズのセリフで、マイナスの意味があるのですが、こう受け取ることも出来ます。実は多くに演劇人が解釈しているのですが、「役者には役割がある。舞台にあっては役者は役割を果たさなければならない」

役者である以上、この世界にとっては誰もが重要なのです。そして役割を果たすためには誰かに向かって表現しなければなりません。演劇も音楽も遠く離れた世界の絵空事ではありません。生きるためのヒントがたくさん散りばめられているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月22日 (月)

そして誰もいなくなった

  •  Ten little nigger boys went out to dine,  
      One choked his little self,     
        and then there were nine.
  •  
  •   Nine little nigger boys sat up very late,  ...
      One overslept himself,
        and then there were eight.
  •  
  •   Eight little nigger boys travelling in Devon,
      One said he would stay there,        
        and then there were seven.
  •  
  •   Seven little nigger boys chopping up sticks,
      One chopped himself in half,        
        and then there were six.
  •  
  •   Six little nigger boys playing with a hive, 
      One bumble-bee stung one,          
        and then there were five.
  •  
  •   Five little nigger boys going for law,   
      One got in chancery,            
        and then there were four.
  •  
  •   Four little nigger boys going out to sea,  
      A red herring swallowed one,        
        and then there were three.
  •  
  •   Three little nigger boys walking in the Zoo,
      A big bear hugged one,           
        and then there were two.
  •  
  •   Two little nigger boys sitting in the sun, 
      One got frizzled up,            
        and then there was one.
  •  
  •   One little nigger boy living all alone,   
      He got married,              
        and then there were none.
  • | | コメント (0) | トラックバック (0)

    もっと泣いてよフィッツジェラルド

    ※ この記事は2017年12月21日に書かれたものです。

    スコット・フィッツジェラルド

     

    1940年12月21日、アメリカの小説家、フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド(一般にはスコット・フィッツジェラルドで知られる)が死去。享年44。

    ヘミングウェイらと共にアメリカの「失われた世代(ロストジェネレーション)」を代表する作家であるフィッツジェラルド。23歳にして『楽園のこちら側』でデビューし、前途洋洋かと思われたものの、時代の流れから取り残され、悲劇的な生涯を歩むことになる。

    父方の遠縁に、アメリカ国歌「星条旗」の作詞者であるフランシス・スコット・キーがいるという名家の出身。若き日から美男子で知られ、成績が足りなかったものの美貌を買われてプリンストン大学に合格したという本当かどうかよくわからない話もある。

    陸軍に所属していた時期に若く美しいフラッパーのゼルダと出会う。このゼルダとの出会いがフィッツジェラルドにとって転機となる。フィッツジェラルドが小説家になろうと本気で志したのは、ゼルダと結婚するためだったといってもよい。

    作家として順調なスタートを切ったフィッツジェラルドであるが、自身とゼルダの浪費癖が災いし、常に金銭的問題に悩まされることになった。よく世間も知らないまま若くして作家デビューしてしまったこともマイナスに作用したと思われる。フィッツジェラルド本人は自虐的に「歯医者の待合室での退屈な三十分を共に過ごすにはうってつけの作家」と考えていたが、やがて小説は売れなくなり、歯医者の待ち時間を過ごすための作家ですらいられなくなって、フィッツジェラルドも方向転換を迫られることになる。

    一方のゼルダも、フィッツジェラルドの妻というポジションだけにとどまるつもりはなく、幼い頃からレッスンに励んだわけでもないのにバレリーナになろうとしたり、画家を志したり、夫を同じ作家を目指したりするもことごとく失敗(1000部ほどしか売れなかった)。精神を病むようになった。

    フィッツジェラルドは、生活のためにハリウッドに渡る。ハリウッド映画の脚本家、といえば聞こえはいいが、文芸大作などにはなかなか起用されず、意に染まない台本を書くのが彼の仕事だった。思うような本が書けないことへの苛立ちから彼はアルコールに溺れ、それが元で命を落とすことになる。

    スコット・フィッツジェラルドは、村上春樹が最も影響を受けた作家の一人である、村上春樹は短編集『マイ・ロスト・シティー』や代表作である『グレート・ギャツビー』を翻訳。また『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』という案内本も著している。

    「グレート・ギャツビー(華麗なるギャツビー)」は実に5回も映画化されている。その中ではロバート・レッドフォードが主演した3度目の映画化(アカデミー賞衣装デザイン賞受賞)が最も有名であるが、レオナルド・ディカプリオが主演した5度目の映画化も話題を呼んだ。

    「最もアメリカ的な小説家」と称されるフィッツジェラルド。だが真に高い評価を得るのは彼が亡くなってからである。享楽的なジャズエイジという「アメリカの青春の時代」を生きた彼の作風は、その後のアメリカの流転を経て、再び注目されるようになった。

    ある意味時代のあだ花であったフィッツジェラルドは、あたかも過ぎ去った時代に対する郷愁のように今では読む人を惹きつけている。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月21日 (日)

    外国語を学ぶということ

    私も人と同じように義務教育で英語を勉強しました。今は小学生から英語を学ぶようですが、私の時代は英語の授業が始まるのは中学校からでした。苦手ながらも中学高校と英語を学び、大学受験のための勉強もして、大学でも3年ほど英語を学びました。

    第二外国語では中国語を取りました。アルファベットで書かれた言語が苦手だったということもありますが、1989年6月4日の第二次天安門事件をリアルタイムで目撃したものとしては、中国という大国の謎の一端に触れてみたいという思いもありました。

    中国語の学習は自分に向いているように思いましたので、授業のみでなく、NHKの外国語講座テキストを買って勉強したり(当時はまだ音声ソフトはCDではなくカセットテープでした)、中国語の短編小説を買ってきて読んだり、チャイニーズポップの歌詞を翻訳したりしていました。

    しかし、中国語の学習に自分が向いているというのは、結局のところ誤解だったように思います。その後色々あって私は中国語の学習をやめました。

    大学に入ってすぐの頃、村上春樹の『やがて哀しき外国語』というエッセイ集を読みました。高校生の頃からペーパーバックを読み漁り、現在では英米文学の翻訳も手掛けている村上春樹が、「アメリカ人なら子供でも自分より流暢な英語を話す」、「ラジエーターって英語でなんていうんだっけ」という経験をして、残された時間を考えると外国語学習よりもずっと優先すべきことがあると考えるに至るまでが描かれています。

    私も「やがて哀しき外国語」という思いは強いです。今はもう外国語学習への意欲も割く時間もありません。

    では、外国語を学んだ時間は全くの無駄だったのでしょうか。

    そうは思っていません。外国語を学ぶ第一の意義は、外国語を使って他の文化圏の人々とやり取りをすることですが、そもそも日本語のコミュニケーションが苦手で、日本人相手でもうまく話せないという人、私もそれに当てはまるのですが、そういう人はいくら外国語を学んでも上手く話せるようにはなりません。もしコミュニケーション能力を高めるために外国語を学びたいという人がいたらそれは本末転倒な気がします。

    しかし、外国語でのやり取りをすることだけが外国語を学ぶ目標ではありません。言語とは思考体系です。その言語でしか思考しえない事柄というものが存在します。日本語にはあっても外国語にはない言葉や言い回しがあり、逆もまた然りです。

    日本語だとうまく理解できない文章があったとします。しかし、その文章を英語や中国語に置き換えるとすんなりと理解できるというケースは案外多いのです。新たな思考形態を得たことで文章に対する新たなアプローチ方法を獲得し、結果として読解力は飛躍的に上がります。

    読解力が上がればあらゆる方面に関する理解力、分析力も当然ながら上昇します。ひいては世界を把握する力そのものが変わるのです。

    世界は言葉で分析できます。世界が分析できれば世界そのものは変わらなくても世界観と世界に対するアプローチが変化します。

    外国語を学ぶということは、世界と己の関係を転換させることでもあるのです。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    プロ野球 セントラル・リーグの愉しみ(3) ドラゴンズ、スワローズ編

    ※ この記事は2017年12月15日に書かれたものです。


    中日ドラゴンズは、中京圏唯一のプロ野球団です。大都市圏に1チームというのは恵まれていることでもありますが、タニマチが幅を利かせやすいという難点があり、ドラゴンズの場合はタニマチがスターティングオーダーに容喙することが問題視されたりもしました。

    名古屋でメイダイといえば名古屋大学(名大)のことなのですが、ドラゴンズはメイダイではメイダイでも明治大学(明大)出身者が多いのが特徴です。「燃える男」星野仙一を始め、初代エースの杉下茂、初優勝時の監督である天知俊一、牧野茂、川上憲伸、筒井壮(星野仙一の甥)、小笠原孝、岩田慎司、柳裕也らが明治大学野球部OBです。

    本拠地は中日球場、ナゴヤ球場を経て、現在はナゴヤドームでホーム試合を行っています。

    1954年の初優勝・初日本一以降、リーグ優勝はするものの日本一は逃すというパターンが続いていましたが、2007年はシーズン2位ながらクライマックス・シリーズで逆転、日本シリーズでも山井大介、岩瀬仁紀の継投パーフェクトがあるなど北海道日本ハムファイターズを圧倒して実に53年ぶりの日本一になりました。ただシーズン1位通過での日本一は今なお1954年が最後です。

    近年では広いナゴヤドームを本拠地としていることもあり、投手力を徹底して補強する守りのチームとなっています。

    エースナンバーを20とするなど、独自の系譜を持っている球団でもあります。読売ジャイアンツのV10を阻止したチームでもあり、それ以来のファンが多いのも特徴です。

     

    野村克也を監督に据えた1990年代にID野球で球界を席巻した東京ヤクルトスワローズ。本拠地としているのは学生野球のメッカでもある明治神宮球場です。

    1950年に社会人野球の強豪だった国鉄鉄道局がプロ化を目指し、外郭団体などを親会社とするウルトラCの手段でプロ球団・国鉄スワローズとなりました。しかしチームのメンバーは国鉄鉄道局の選手が主体。アマチュアでは強豪でもプロでは心もとない。「名古屋にとてつもなく速い球を投げる少年がいる」という話を聞きつけた西垣徳雄監督がその少年・金田正一をスカウト。金田は享栄商業(現・享栄高校)を中退して国鉄入りします。

    金田正一という大エースがいたものの、エース一人ではどうにもならず、国鉄は万年Bクラス球団でした。金田も親会社がサンケイグループに変わるのを機にBクラス球団所属10年制度を使ってジャイアンツに移籍します。

    サンケイスワローズ、サンケイアトムズ、アトムズ時代もパッとしなかった球団ですが、チーム名をヤクルトスワローズに変えてから4年目の1978年に広岡達郎監督のもとで初優勝。絶対的エースの松岡弘、「ペンギン」安田猛といった投手陣に、「赤鬼」チャーリー・マニエル、「月に向かって打て」大杉勝男、「小さな大打者」若松勉らの打線がかみ合い、日本シリーズでも阪急ブレーブスを下して日本一に輝きました。ただ、この時は神宮球場の優先使用権が東京六大学野球にあったため、日本シリーズのホームゲームでは後楽園球場を使用しています。

    神宮球場で日本シリーズが開催されるようになったのはやはり1990年代で、投手では岡林洋一、西村龍次、川崎憲次郎、石井一久、伊藤智仁、高津臣吾、打者では広沢克己、池山隆寛、古田敦也、飯田哲也、稲葉篤紀、土橋勝征、真中満らが神宮球場で躍動。チーム層が薄かったため、優勝の翌年には疲れ果てたのかBクラスに転落、その翌年にまた優勝というエレベーターチームではありましたが、一時代を築きました。日本一に輝いた回数は5回で、これはさりげなくセ・リーグ単独2位の記録だったりします。

    ヤクルトの企業イメージそのままの「ファミリー球団」を指向しており、明るくのびのびとしたチームカラーで、退団後にヤクルト本社でお世話になる選手もいます。「そんな体質だから弱いんだ」という声もありますが、球界のオアシスのような存在であり、「アンチのいない不思議な球団」としても知られています。

    近年では徹底した打のチームであり、2013年には総得点数が12球団1位なのに投手陣が崩壊していたために最下位という珍記録(総得点1位のチームが最下位になるのは日本プロ野球史上初)を生みました。

    東京に本拠地を構えるセ・リーグ球団同士としてジャイアンツのことは強く意識しており、慶大罰の強いジャイアンツに対抗して早稲田大学出身の選手を多く取る傾向が以前はありました。

    背番号の象徴的意味合いは他のチームよりも濃く、1が「ミスタースワローズ」の背番号(若松勉→池山隆寛→岩村明憲→青木宣親→山田哲人)。エースナンバーは17(松岡弘、川崎憲次郎、川島亮、成瀬善久ら)で、23は藤井秀悟、青木宣親、山田哲人と引き継がれた出世番号です。

    日本のプロ野球では、高卒か高卒社会人経由の投手がエースを張ることが多いのですが、21世紀入ってからのスワローズでは、青山学院大学出身の石川雅規、日本大学出身の館山昌平、創価大学出身の小川泰弘といったように大卒エースの系譜が出来ているのも大きな特徴です。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    プロ野球 セントラル・リーグの愉しみ(2) ジャイアンツ、タイガース編

    ※ この記事は2017年12月15日に書かれたものです。


    現存するプロ野球チームの中で最長の歴史を誇る読売ジャイアンツ。大日本東京野球倶楽部を前身とし、かつては後楽園球場を、今は東京ドームを本拠地としています。

    リーグ優勝回数はセパ両リーグ中ダントツとなる45回、日本一に輝いた回数も22回と他を圧倒しています。

    ジャイアンツというニックネームは、当時、アメリカで最も強く、人気もあったニューヨーク・ジャイアンツ(現在のサンフランシスコ・ジャイアンツの前身)に由来しており、元々は大日本東京野球倶楽部が渡米した際に付けられた臨時名称でしたが、すぐに公式ニックネームに採用されています。

    日本プロ野球が発足する際、「プロ野球が世間の信頼を得るためには大学のスター選手を入れないといけない」ということで、早稲田大学の三原修、慶應義塾大学の水原茂を相次いで加入させます。三原と水原は不仲というわけではなかったのですが、のちに三原がジャイアンツを去り、水原が監督に就任したことで、その後長きに渡るジャイアンツの慶応閥が始まりました。

    ジャイアンツは好き嫌いは別として日本最高の名門球団であることは間違いないため、名選手が綺羅星の如く並んでいます。沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒン、中島治康(日本プロ野球における初代三冠王)、川上哲治(赤バット。打撃の神様)、千葉茂(猛牛)、青田昇、別所毅彦、中尾碩志(初代背番号18のエース。ちなみに左腕である)、藤本英雄(日本プロ野球完全試合達成者第1号)、城之内邦雄(エースのジョー)、金田正一、長嶋茂雄(ミスタージャイアンツ)、王貞治(世界最多本塁打記録保持者)、藤田元司、堀内恒夫(V9のエース。悪太郎)、高橋一三(元祖・左のエース)宮田征典(八時半の男)、江川卓(怪物)、西本聖、原辰徳、桑田真澄、斎藤雅樹(平成の大エース)、槙原寛巳(ミスターパーフェクト)、松井秀喜(ゴジラ)、清原和博、高橋由伸、上原浩治。これらがジャイアンツのユニフォームに袖を通した選手たちです。

    永久欠番の数も12チーム最多で、1(王貞治)、3(長嶋茂雄)、4(黒沢俊夫)、14(沢村栄治)、16(川上哲治)、34(金田正一)と実に6つもの永久欠番が存在します。

     

    ジャイアンツとの対戦が「伝統の一戦」として盛り上がるのが阪神タイガース。日本で2番目に長い歴史を誇る球団です。本拠地はいわずと知れた阪神甲子園球場。旧称は大阪タイガースであり、大阪の球団というイメージが強いタイガースですが、阪神甲子園の所在地が兵庫県西宮市ということで、保護区域は兵庫県ということになっています。

    タイガースというニックネームは、当時、アメリカで強かったデトロイト・タイガースに由来します。

    実はジャイアンツの応援歌(「読売ジャイアンツの歌(闘魂込めて)」)とタイガースの応援歌(「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」)は作曲者が一緒(古関裕而)だったりします。

    大阪を中心に、ジャイアンツと人気を二分しているタイガースですが、必ずしも強いチームというわけでもなく、セ・リーグ制覇は9回あるものの、日本一に輝いたのは1985年のわずか1度だけです。ただその1985年のタイガース優勝は社会現象になりました。

    所属選手にも人気者・実力者が並びます。景浦将(沢村栄治のライバル)、若林忠志(元祖背番号18のエース)、藤村富美男(物干し竿)、吉田義男(今牛若丸。ムッシュ)、藤田平、小山正明(針の穴をも通すコントロール)、村山実(ザトペック投法)、江夏豊(シーズン奪三振世界記録保持者)、田淵幸一、掛布雅之(ミスタータイガース)、真弓昭信(史上最強の1番バッター)、岡田彰布、ランディ・バース(史上最強の助っ人外国人)、小林繁、赤星憲広、井川慶、金本知憲、藤川球児、今岡誠、福留孝介、鳥谷敬といった選手が挙げられます。

    打高投低のシーズンが多く、1985年の日本一の年もエース不在で、この年のタイガースは今に至るまで「打だけで日本一を勝ち取った唯一のチーム」といってもいいでしょう。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    プロ野球 セントラル・リーグの愉しみ(1) ロビンス、ベイスターズ、カープ編

    ※ この記事は、2017年12月15日に書かれたものです。

     

    1949年12月15日、セントラル・リーグが成立。それまで1リーグ制だった日本プロ野球は2リーグに分裂します。日本プロ野球への新球団参入を認めないチームがセントラル・リーグ(セ・リーグ)を立ち上げたわけですが、数合わせのためもあって、複数の新球団がセ・リーグに加わりました。

    セ・リーグ結成時の球団は、読売ジャイアンツ、松竹ロビンス、中日ドラゴンズ、大阪タイガース(現・阪神タイガース)、広島カープ(現・広島東洋カープ)、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)、西日本パイレーツ(1年限りで活動停止)、そして期限ぎりぎりで加入したのが国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)です。

    国有会社である国鉄がプロ野球団を持っていたことを不思議に思う方もいらっしゃると思いますが、さすがに国鉄本体がプロ野球チームを持つことは許されず、国鉄の外郭団体である交通協力会を中心に、鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社(現・JTB)などが親会社になっています。

     

    1950年、第1回のセ・リーグ公式戦でチャンピオンに輝いた松竹ロビンスは、実は京都に本拠地を置く球団でした。フランチャイズは衣笠球場。この球場は現在・立命館大学衣笠キャンパスになっている場所にありましたが、今は往時をしのばせるものは何も残っていません。立命館大学衣笠キャンパスは今でも交通アクセスが不便なことで知られていますが、それは昔も変わらず、本拠地球場として登録されていながら、実際はロビンスは難波駅の目の前にある交通至便な大阪球場でホームゲームのほとんどを行っていました。
    松竹ロビンスは後に大洋ホエールズと合併します。

    その大洋ホエールズ。大洋漁業を親会社とするチームで、当初の本拠地は山口県下関市に置かれていました。ホエールズは3年間、下関市営球場(現存せず)でホームゲームを行っていましたが、松竹との合併により、本拠地を大阪球場に移転。更に川崎球場時代を経て、現在の横浜スタジアムを本拠地とするに至っています。
    大洋ホエールズはとにかく弱い球団でした。1960年に、知将・三原修の三原マジックによりセ・リーグ制覇と日本一を達成しますが、その後は鳴かず飛ばず状態。カミソリシュートでお馴染みの平松政次が長年に渡ってエースを張り、通算201勝で名球会入りを果たしていますが、平松は優勝の経験がありません。名球会入りしている投手でリーグ優勝経験がないのは平松一人だけです。

    今も記憶に新しい1998年。権藤博監督率いる横浜ベイスターズはマシンガン打線と呼ばれた強力打撃陣と、「ハマの大魔神」こと佐々木主浩を守護神とした投手陣の踏ん張りで38年ぶりのセ・リーグ制覇を達成。日本シリーズでも西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)を4勝2敗で下して日本一に輝きました。この1998年の横浜ベイスターズの快進撃は社会現象となり、1998年は「横浜ベイスターズの年」として記憶されているといっても過言ではないほどです。

    横浜の市民球団を目指していた横浜ベイスターズですが、TBSが撤退し、DeNAが親会社となることで横浜市民球団としての色彩は後退しました。ただDeNAは野球に力を入れており、ファンも増加。今年、2017年にはリーグ3位ながらクライマックス・シリーズを勝ち上がって日本シリーズに進出。福岡ソフトバンクホークスに敗れはしたものの、健闘は称えられました。

    大洋ホエールズ、横浜ベイスターズ、横浜DeNAベイスターズの名選手というと、先に挙げた平松政次が第一に挙がるでしょうが、「ハマの番長」として横浜ファン以外にも愛された三浦大輔、「ハマの大魔神」佐々木主浩、ウォーレン・クロマティに「メジャーでも通用する」と断言された遠藤一彦、打者ではスーパーカートリオと呼ばれた俊足の高木豊、加藤博一、屋敷要が有名です。

     

    日本初の市民球団として知られるのが広島東洋カープです。広島市と広島県をフランチャイズとして、かつては広島市のど真ん中にあった広島市民球場、現在はメジャーリーグの球場を参考にしたマツダズZoomZoomスタジアム(新・広島市民球場)を本拠地としています。

    創設に当たって樽募金が行われたことが有名ですが、この樽募金は実は今も続いています。

    カープな長年に渡ってセ・リーグのお荷物扱いされていましたが、1975年に古葉竹織監督の下で初優勝。この広島カープ初優勝も社会現象になりました。ただ日本シリーズでは阪急ブレーブスに敗れています。

    カープが日本一に輝いたのは、1979年のことです。3勝3敗で迎えた日本シリーズ最終戦。舞台は今はなき大阪球場ですが、ここで今も語り草になっている「江夏の21球」がありました。1点リードで迎えた9回裏、広島の守護神となっていた江夏豊がノーアウト満塁のピンチを招きながら一死後、スクイズをカーブの握りのまま外すという離れ業で三塁ランナーをタッチアウトとして二死。そして石渡茂を空振り三振に切って取り、日本を決めました。

    広島東洋カープは1980年代には投手王国を築いて常勝球団となりましたが、1991年の優勝を最後にリーグ制覇から遠ざかり、2016年に実に四半世紀ぶりのセ・リーグ王者となっています。

    広島の名選手というと、ともに名球会入り&永久欠番となっている「ミスター赤ヘル」山本浩二(背番号8)と「鉄人」衣笠祥雄(背番号3)が双璧でしょう。山本浩二はオールスターでのホームランが14本で歴代1位、衣笠祥雄は連続出場試合日本記録保持者です。

    投手で鮮烈な記憶に残っているのは、「炎のストッパー」津田恒実(津田恒実)。全球ストレート勝負で三球三振に打ち取られたバースは、「津田はクレージーだ」という言葉を残しました。

    投手王国と呼ばれた時代の広島には、その他にも「精密機械」北別府学、「月に向かって投げる」大野豊、「奪三振マシーン」川口和久ら錚々たるメンバーが揃っていました。比較的最近の選手として大きな業績を残した投手に、前田健太、黒田博樹(背番号15は永久欠番に)らがいます。

    打者では、「天才」前田智徳、「曲者」達川光男、そして今では「史上最強のセカンド」菊池涼介や「神ってる」鈴木誠也がカープの顔となっています。

    カープの野球は伝統的にディフェンス重視で、レベルの高い投手と守備陣で失点を最小限に抑える野球を行う傾向にあります。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月20日 (土)

    これまでに観た映画より(96) 「DESTINY 鎌倉ものがたり」

    2018年1月15日 MOVIX京都にて

    MOVIX京都で、日本映画「DESTINY 鎌倉ものがたり」を観る。「ALWAYS 三丁目の夕日」の西岸良平の漫画を、「ALWAYS 三丁目の夕日」の山崎貴の監督で映画化。出演:堺雅人、高畑充希、安藤サクラ、堤真一、吉行和子、田中民(民はさんずいに「民」)、要潤、大倉孝二、神戸浩、國村隼、鶴田真由、三浦友和、市川実日子、ムロツヨシ、瀬戸たかの、木下ほうか、薬師丸ひろ子、橋爪功、中村玉緒ほか。声の出演:古田新太。音楽:佐藤正紀。主題歌:宇多田ヒカル「あなた」

    妖怪や幽霊の出る架空の鎌倉(パトカーにも神奈川県警ではなく鎌倉警察と書かれている)が舞台。
    三文ミステリー小説家の一色正和(堺雅人)と出版社のアルバイトをしていた亜紀子(高畑充希)は新婚。代々、民俗学の学者をしていた一色家で新が婚生活を送ることになるのだが、鎌倉には妖怪や幽霊が出る。初めて河童を見た亜紀子は震え上がってしまい、トイレにも一人でいけなくなってしまう。
    ある日、正和と亜紀子は化け物が繰り広げる夜市で、優子(吉行和子)に出会う。実は優子はすでに他界しているのだが、死神(安藤サクラ)との話し合いで、旦那(橋爪功)が他界するまでこの世に居させて貰っているという。
    そして、一色家には貧乏神(田中民)忍び込んでいて……。

    基本的にはファンタジー映画だが、黄泉国に向かうところなど、アドベンチャーの要素も盛り込んでいる。黄泉国ではその人の心象によって風景がガラリと変わるそうだなのだが、これはエマニュエル・スウェーデンボルグの発想であり、そうしたポイントもちゃんと押さえているの好印象である。

    高畑充希演じる亜紀子の人物造形が実にチャーミングに出来ており、もはや「ずるい」領域である。あんな子ともう会えなくなるなんて考えたら、自然に涙が出ちゃうよね。三十歳を越えたら涙腺が弱くなってるんだから、無闇に泣かせたりしないで欲しい。ちなみにファーストカットは亜紀子の顔のアップからなのだが、亜紀子の魅力は一貫してぶれることがない。

    堺雅人はお得意の飄々とした男を演じており、今回もはまっている。死神を演じる安藤サクラは若い頃はそうでもなかったが、今ではとても魅力的な女優になった。

    「龍馬伝」などの佐藤正紀の音楽もやや大仰ながらゴージャス感に溢れ、スケール雄大。明らかにハリウッド映画を意識した音楽作りである。

    また観に行きたくなる映画であった。私は映画のパンフレットはまず買わないのだが、今日は購入。帰りに河原町OPAのタワーレコードでサウンドトラックも購入した。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    コンサートの記(338) 「渾身!!ラフマニノフ 長富彩 ピアノ・リサイタル vol.2」

    2018年1月13日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

    午後7時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、「渾身!!ラフマニノフ 長富彩 ピアノ・リサイタル vol.2」を聴く。埼玉県出身で、結婚後は神戸市在住のピアニスト、長富彩のザ・シンフォニーホールでの2度目のリサイタルである。タイトル通りオール・ラフマニノフ・プログラム。当初は聴く予定がなかったのだが、全曲ラフマニノフのピアノリサイタルを聴く機会はそうそうないだろうし、長富彩の新譜も出たのでサインでも貰うか、ということで出掛けてみる。前回の、ベートーヴェン&リストのリサイタルで、細部をしっかり描いていたというのも好印象であった。

    今回もザ・シンフォニーホールの1階席のみの利用で、2階席は開放していない(録画スタッフがカメラを構えているのが確認出来る)が、入りは上々である。

    曲目は、絵画的練習曲「音の絵」Op.33-1よりヘ短調とOp.39-1ハ短調、6つの歌より「ひなぎく」、楽興の時Op.16、パガニーニの主題による狂詩曲より第18変奏、幻想的小品集より第1曲「エレジー」、第2曲「鐘」、ピアノ・ソナタ第2番。


    長富は、上が金色のラメ、下が深紅というドレスで登場。弾き始める前にちょっと神経質な仕草を見せる。

    演奏であるが、音を一切流すことなく、一音一音を丁寧に積み上げて堅固なフォルムを作り上げていく。この方法はラフマニノフだけに極めて有効である。また音楽を横の流れでとらえるのではなく、音像の縦の線を編みだし続けているという印象を受けた。流れの人、例えば指揮者でいうと広上淳一とは真逆の音楽性である。
    こうしたことをどこまで自覚的にやっているのか気になったので、終演後のサイン会の時にそれとなく探りを入れてみたのだが、「この人はどうやら自分のピアノスタイルをよく把握していないようだ」ということがわかったため、自覚していなくても才能で出来てしまうということであるらしい。YouTubeやサイン会での話し方を見ると、長富彩はけっこうな不思議ちゃんである。同い年の萩原麻未もインタビューで「何言ってんのかわからない」ことがあるため、女性ピアニストとして珍しいことではないのかも知れない。

    パガニーニの主題による狂詩曲より18変奏でのリリシズムの表出も上手いし、有名曲となった「鐘」(ラフマニノフの生前は有名で、20世紀最高のピアニストでもあったラフマニノフのリサイタルでは、聴衆がアンコールで「鐘」を弾くまで帰ろうとしなかったらしい)の哀感の描き方も巧みである。

    ラフマニノフというと甘美だの映画音楽的だのと言われるが、彼の音楽の本質は「苦悩の果てでギリギリ踏みとどまっている」もののように思える。


    アンコールは、リムスキー=コルサコフの「くまんばちの飛行」(ラフマニノフ編曲)。高度なメカニックを味わうことが出来た。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月19日 (金)

    これまでに観た映画より(95) 「火花」

    2018年1月16日 MOVIX京都にて

    MOVIX京都のレイトショー上映で、日本映画「火花」を観る。吉本興業の制作。板尾創路監督作品。原作は又吉直樹の芥川賞受賞作。
    出演:菅田将暉、桐谷健太、木村文乃、川野修士、三浦誠己、加藤諒、高橋努、日野陽仁、山崎樹範ほか。

    テレビのお笑い番組に出たりはするものの、うだつの上がらない芸人・スパークスの徳永(菅田将暉)と、先輩芸人・あほんだらの神谷(桐谷健太)の物語。徳永はサッカーの大阪選抜に選ばれたことがあるという設定であり、又吉直樹自身が投影されている。

    日曜日(2018年1月14日)に見た「新生紀ドラゴゲリオンZ」でR藤本が映画「火花」を紹介しており、「芸人の又吉の原作を芸人の板尾が監督しているため、芸人が見るとリアルすぎて痛い」と語っていた。興味を持った。
    お笑いの話であるが、終始一貫して悲しみに包まれている。お笑いは感情を動かすことだが、悲しみはより普遍的に感情を突き動かしていく。その関係を例えるなら二卵性双生児のようなものだ。

    自分に素直であろうとして壁に当たり、尊敬していた先輩の醜態を知る。そしてこれまで同格であった芸人の出世を見せつけられる辛さ。表現に生きる男達のひりつくような痛みが、そこには確かにある。
    ただこれは悲劇ではない。お笑いの世界に生きた意味が強く肯定されているポジティブな映画だ。


    私は常々、世界というのは一つの山脈のようなものであり、個々の人間はその一つの峰のようなものであると考えてきた。ユングの影響もあるのかも知れないが、そうした考えをある意味、肯定してくれているような映画だった。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    西郷どんの顔

    ※ この記事は、2017年12月18日にかかれたものです。

     

    Saigo

    1898年12月18日、上野公園で西郷隆盛銅像除幕式がありました。作は高村光雲(高村光太郎の実父としても有名です)。西南戦争での西郷の自刃から21年後のことです。ただこの時、西郷未亡人の糸さんが除幕式に立ち合い、「宿んし(主人)はこげんなお人じゃなかった」と語ったというエピソードは有名です。また西郷を高く評価していた板垣退助は、上野の銅像の出来に不満であり、自らが動いて西郷の顔によく似た肖像画を作らせています(現在は行方不明)。

    2018年の大河ドラマ「西郷(せご)どん」の主役である西郷隆盛。木戸孝允、大久保利通と共に「維新三傑」の一人に数えられ、知名度も抜群の人なのですが、本当はどんな顔をしていたのか、今になってはわからないという人でもあります。西郷は写真嫌いであり、俗に「幽霊と西郷には写真がない」といわれている通り、あの時代にありながら写真を一枚も残しませんでした。戊辰戦争時に東征大総統府下参謀などを務めた西郷ですが、文字通り参謀的な役割を担うことが多く、自身の顔が広まるのを嫌ったという話もあります。

    西郷隆盛の顔としてよく知られているものは、上半分が西郷の実弟である西郷従道(じゅうどう)、下半分が西郷の従兄弟の大山巌の顔を参考に、明治天皇の肖像画などで知られるイタリア人画家のキヨッソーネの手がけた銅版画で、あくまでも肖像画であり、写真ではありません。キヨッソーネは西郷と面識はなかったそうで、あの顔は想像の産物です。西郷隆盛の軍服などが残っているのですが、それから推察すると従来のイメージほどには肥満体型の人ではなかったことがわかります。

    一方で、生前の西郷に会ったことがある人が描いた肖像画がいくつか残っていますが、西郷隆盛の顔のイメージから大きく離れたものという印象を受けないのも確かです。意志の強そうな大きな目、角張った顔立ち、大きな耳が共通した特徴です。ともあれ、肖像画も西郷本人を目の前にして描いたものはないようで、決定版といえるものは存在せず、今後も現れることはないでしょう。

    ただ、西郷隆盛の実際の顔がわからないということは、同時代の偉人達の多くが写真を残しており、本当はどんな顔をしていたのかわかっているからこそ問題になるわけで、それ以前の肖像画しか残っていない歴史上の人物と同列だと考えれば、特に問題ではありません。考えてみれば政治家の場合、顔が違ったら成したことも変わっていただろうと思われるケースは、ジョン・F・ケネディなど少数にとどまるはずで、顔の影響を重要視するのは、マスメディアが発達した時代の考え方なのかも知れません。

    「それでも西郷の本当の顔が知れたいんだ!」という方(果たして何人いることやら)には、西郷の曾孫である西郷隆文氏の写真をご覧になることをお薦めします。肖像権侵害の可能性があるのでここには載せませんが、こちらのサイトなどで見ることが出来ます。「ああ西郷の顔だ」と納得される方が多いと想像します。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    月と文化

    ※ この記事は2017年12月4日に書かれたものです。

     

    「でっかい月だな」

    「月見れば千々にものこと悲しけれ 我が身一つの秋にはあらねど」(大江千里。おおえのちさと)

    「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」(西行)

     

    昨夜、12月3日の満月は、スーパームーンといって特別に大きな月でした。

    私は深草にある京セラ美術館に行った帰りにスーパームーンを見ましたが、東山の山の端に鎮座まします満月は威厳があるというか、主張が強いというか、とにかく独特の風情がありました。

    月は、人類の歴史において、常に特別な存在であり続けました。

    日本においての月の神様は、月読神です。物静かな神様なので、姉の天照大神(太陽神)、弟の素戔嗚命(元々は海の神)に比べると地味な印象ですが、伊勢の月読宮は立派な社ですし、京都・松尾の月読神社(松尾大社摂社)は、安産の神様として、厚い信仰を集めています。

    月は満ちてはかけるため、気まぐれな性質の象徴となっており、ギリシャ神話のヘカテーは、後世、魔女として扱われることになりました。

    月にまつわる話として日本で有名なのは、なんといっても「竹取物語」。月に帰っていくかぐや姫の物語です。

    さて、このかぐや姫の性格を「満ちては欠ける月のように気まぐれで、どうしようもなくわがままな箱入り娘」とする解釈がありますが、それにはどうしても承服できかねる部分があるので、独自の解釈を示してみたいと思います。

    かぐや姫を月の国からのスパイだと仮定してみましょう。彼女は日ノ本の国での情報収集のために遣わされました。さて、見目麗しい赤子としておじいさんに拾われ、この国で生活するための基盤を築きますが、その美貌が災いして、多くの美男子より求婚されることになります。結婚してしまったら任務を遂行することも月に帰ることも叶わなくなってしまう。そこでかぐや姫は求婚者たちに絶対に実現不可能な要求を突きつけます。達成されることはないので結婚に漕ぎつけられることはないだろうし、相手を傷つけず、無理なく結婚の申し込みを断ることが出来る。それでも向う見ずにも宝を探すための危険を冒して命を落としてしまう者や、嘘をついて宝物を獲得できたなどの吹聴する輩が出てきてしまうわけですが、これはかぐや姫側の問題というよりも求婚者の浅ましさと見るべきでしょう。かぐや姫は放恣な性格のとんでも女ではなく、思慮深く相手思いな女性だったように思われます。

    かぐや姫が月に帰る場面でも、多くの人が「月には返すまじ」と戦っているので、彼女は人々からあたかも月そのもののように愛されていたことがうかがえます。

    最後に、月に対する大和心を表していると思われる、吉田兼好の『徒然草』からの一説を紹介して締めたいと思います。

     

    「長月廿日の比、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。

    よきほどにて出で給ひぬれど、なほ、事ざまの優に覚えて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口をしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。

    その人、ほどなく失うせにけりと聞き侍りし」

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    A rolling stone gathers no moss

    ※ この記事は2017年12月2日に書かれたものです。

     

    「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」

    12月2日の誕生花は苔です。京都の西芳寺の苔の美しさは有名ですし(拝観には事前申し込みが必要)、国歌「君が代」においても苔は年を経ためでたさの象徴として称えられています。

    さて、イギリスのことわざに“A rolling stone gathers no moss.”というものがあります。ロックバンド、ザ・ローリングストーンズの由来となったことわざですね。日本語訳は「転石苔を生ぜず」

    比較的よく知られたことわざですが、イギリスとアメリカでは受け取り方が違うことでも有名です。

    イギリスでの“A rolling stone gathers no moss.”は、「転んでばかりの石、つまりあちこち転々をしたり落ち着きがないものは、苔むすような貫禄や安定とは縁がない」という意味です。ザ・ローリングストーンズは一種の皮肉として自分達のバンド名にこのことわざを使っています。

    一方のアメリカでの“A rolling stone gathers no moss.”は、「フットワークが軽ければ、苔がむすようなことはない」といった意味にとられることが多いようです。苔がマイナスイメージで、苔むすことは「機敏さがなくなる」という受け取り方のようです。

    さて、日本ですが、国歌で苔は「よきもの」ととらえられていますので、イギリス寄りの解釈がなされることが多いようですが、私が若い頃(約数十年前)から「今の若者は『転石苔を生ぜず』の意味を逆にとらえている」と嘆かれていました。解釈がアメリカ寄りになっているのですね。アメリカナイズされたからなのか、学校の事情なのか(お察しください)単に苔のイメージが変わったのかはわかりませんが、苔にマイナスと解釈されるようになってきているようです。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月18日 (木)

    筒井筒

    「筒井筒井筒にかけしまろが丈 過ぎにけらしな妹(いも)見ざるまに」(在原業平)

    この歌は、現在の奈良県天理市の在原神社境内にある井戸(筒井筒)について詠まれたものと言われています。昔、当地には在原氏の屋敷がありました。

    一組の男女の歌です。子供の頃、男女はいつも仲良く遊んでいました。そしてこの筒井筒で背比べをし、背の高さをこっそりと刻んでいたりもしました。

    しかし、やがて思春期が訪れ、男女は互いを意識し始めてなかなか会わないようになってしまいます。

    そうこうするうちに、結婚適齢期となった(といっても当時は十代半ばですが)女のもとに結婚話が舞い込みます。男女は今も相思相愛なのですが、横槍が入りそうになったわけですね。

    男は女に筒井筒の歌を送ります。「昔は筒井筒の横に立って背の高さを測ったものでしが、あなたと会わないでいる間に、筒井筒の井桁よりも背が高くなってしまいました」

    これに対して女は、「くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずしてたれか上ぐべき(あなたと比べてきた振り分けの髪も肩を過ぎる長さになりました。この髪をあなた以外の誰のために結い上げるべきでしょう)」と返し、二人は親の反対を振り切って結ばれることになりました。

     

    これだけなら物語として特に珍しい展開にはならないのですが、この男というのが稀代のプレイボーイである在原業平であるため、当然、浮気に走ってしまうということになるのです。しかし、妻の夫思いの様子に気づいた男が浮気をやめるという展開が続きます(浮気をする業平に妻は「風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ 」と詠んで夫の身の上を心配した)。

     

    さて、能の大成者として知られる世阿弥(観世元清)が、「筒井筒」を題材にした「井筒」という能の演目を作っています。世阿弥の自信作の一つです。

    ここでは歌が、「筒井筒井筒にかけしまろが丈 生いにけらしな妹見ざるまに」に変わっています。「生い」は「老い」に掛かっています。

    設定は、「筒井筒井筒にかけしまろが丈 過ぎにけらしな妹見ざるまに」という歌が詠まれてから100年ほど経った時代。亡き在原業平の邸宅の後は在原寺という寺院になっていたのですが、すっかり荒廃しています。夜、旅の僧が、筒井筒のところにやってきて、業平とその妻を弔います。

    そこへ在原業平の妻である紀有常の女(むすめ)の幽霊が現れて、自身と業平との往時の逢瀬を語ります。「筒井筒井筒にかけしまろが丈 生いにけらしな妹見ざるまに」という恋の歌を思い出した女は、自身がもう老いてしまったことに気づき、浮き立つような恋を重ねた若い頃には戻れないのを嘆くのでした。

    能「井筒」では、業平と紀常有の女のその後がどうなったのかについての直接的な説明はありません。幽霊になって出るくらいですから、何らかの妄念はあるのでしょうが、僧に回向を頼むという能のお決まりのパターンはありません。女はただ業平との在りし日を偲び、業平の格好をして舞うだけです。

    あるいは、女と業平との最上の日々を、疑問の余地もなく愛し合っていた二人のことを伝えたかったのかも知れません。ただ正確な答えは用意されないまま、能は夢幻のうちに終わっていきます。

    何年か前に、夜の筒井筒を訪れたことがあります。在原神社があるのは天理市の外れ。とても寂しいところでした。闇の中に浮かぶ筒井筒は不気味でもありましたが、同時に歴史の証人としての貫禄が備わっていました。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    笑いの林(99) タナからイケダ単独ライブ「神方MANZAI~白虎~」

    2018年1月12日 道頓堀ZAZA POCKET'Sにて

    午後8時45分から、道頓堀ZAZA POCKET'Sで、タナからイケダ単独ライブ「神方MANZAI~白虎~」を観る。
    京都府住みます芸人のタナからイケダ。といっても田邊猛德が3児(うち双子一組)の父ということもあり、現在は大阪に戻っているのだが、京都府内のイベントに参加しているほか、祇園花月でのレギュラー公演、KBS京都への番組出演などを継続している。ということで京都府在住者が応援したくなる漫才コンビである。といっても私は京都人ではなくバリバリの関東人なんだけどね。

    京都でも単独ライブを行って欲しいのだが、京都でやっても集客が見込めないということもあり、単独ライブは比較的小さなZAZA POCKET'Sを常打ち小屋のようにしている。

    隣のZAZA HOUSEには何度も入ったことがあるが、ZAZA POCKET'Sは初めて。いかにもライブハウス然としているZAZA HOUSEに比べてZAZA POCKET'Sはブラックボックスタイプの小劇場のような感じである(実際にそう使われている)。

    登場の挨拶に続き、まずは1本目の漫才。
    イケダの方の池田周平が、ミュージシャンに憧れているということで、2週間前に音楽家を志したばかりのノセタカシというミュージシャンに扮してサンメゾン502という場所でライブを行う。田邊は観客役である。
    サンメゾン502という場所はマンションの一室。しかもノセタカシの自宅だそうである。ノセは「2階席のみんな!」と呼びかける。ロフトにオーディエンスがいるらしい。更に「寝室のみんな!」と言うが返事がない。田邊が「寝てるんじゃないですかね」と言う。ちなみにお隣の501の住民は壁を叩くことで騒音苦情を言ってくる。
    ノセは、「いくぞ! いくぞ!」と連呼するが、それが1曲目の「いくぞ」であったという謎の展開。バンドメンバーの紹介になるが、紹介されるのはノセの父と母で単なる家族紹介に終わる。
    ノセの小学校、中学校、高校と一緒だった同級生が昨年、ガンで亡くなったという話をするのだが、「47歳の若さで」と語り、田邊に「え?! お前、今、48なん?! そんで2週間前にミュージシャンになったん? きっしょ!」と言われる。

    フリップで8人漕ぎの自転車と、なぜかおじさんが乗っかっている9人乗りの自転車の写真が紹介され、田邊と池田が音声で語る場面の挟み、2つめの漫才。
    池田が、「若い女の子の話す日本語が乱れている」という話をするのだが、スターバックスコーヒーのことを「スタコ」と略したり、激怒(「げきど」ではなく「激おこ」)のことを「げきいか」と読んだり、無理に若者言葉を使おうとして変になるというネタである。スターバックスにまんじゅうを持ち込んでいるおじいさんがいたそうで、「まじまんじゅう(まじ卍を間違えて覚えていた)」と言ったかと思えば、「まんじゅう持ち込んだらあきまへん」と急に古くさい言い方になったりする。実はそのおじいさんが親戚だったというオチなのだが、田邊に「なにその謎のオチ」と言われていた。


    心霊写真ネタのフリップ&音声ネタは挟んで3つめの漫才。
    田邊と池田と後輩芸人2人と計4人で、来週、日帰り旅行に出掛けるそうだが、後輩芸人は二人とも運転免許を持っていないそうで、田邊と池田の二人が運転しなければならないのだが、池田が、「行きしなは俺が運転してやるよ」と言い、田邊に「なに? してやるよ。って俺も行きしなの方が良い。帰り疲れるやん」と言う。池田は「行きしなーいと(息しないと)疲れるよ」とだじゃれで返す。
    池田のプランではスキー場に行って6時間スキーをするそうなのだが、その後、温泉に行き(田邊「粋やん!」)、その後、4時間ほど蟹パーティーをしながら酒を飲むのだが、田邊が「俺、飲めへんやん?!」となる。池田は、「俺も飲みたくないねん。でも先輩の俺が飲まんと後輩の二人が飲めへんから」ということで飲むそうで、やはり飲みたいがために田邊を帰りのドライバーにしたいようだ。更にバーに行く予定も入っているようで、田邊に「最初から飲む気満々やん!」と突っ込まれる。


    池田がエジプトの滞在2時間の旅行に行ったという設定の写真が出て、音声が流れる。ギザの三大ピラミッドを背景に池田が記念写真に収まっているのだが、ピラミッドを先ほどのおじさんが乗っかった9人乗り自転車が昇ろうとしているという意味不明の絵が出てくる。


    最後の漫才。「新幹線のワゴン販売」。田邊がワゴン販売員、池田が客に扮するのだが、池田はワゴンのところまでズンズン歩いてきて注文するというあまりいないタイプの客を演じる。すぐそばにいるひげもじゃのお客さんを池田は、「海賊だ、海賊だ」といじる。田邊は「海賊じゃないですから! 海賊は陸路を通らない!」
    で、注文するのだが、「キャベツある? 豚肉ある? 小麦粉ある?」で新幹線の中でお好み焼きを作ろうとする変な客になってしまう。「大阪に住んでて東京に行くのに2時間半掛かるっていうからその間に」お好み焼きを作ろうと考えたそうだ。池田は、大阪銘菓「りくろーおじさん」の焼きたてチーズケーキをお土産として10人分持っているのだが、それだけでは足りないようで、「コーヒー容れて、ホットで10人分」と社内販売のコーヒーをお土産にしようとする。更に先ほどのおじさんを「海賊が陸路を取ってるから、りくろーおじさんだ」と茶化して、田邊はつい「あの人は、りくろーおじさんじゃありません! 海賊です!」と言ってしまう。
    田邊はポテトチップスを勧める。関西限定の関西だし醤油味である。やはり10個買おうとする池田だが、田邊に「4000円です」と言われて、「高!」と普通の反応。田邊に突っ込まれていた。


    ラストはコーナー。池田軍団格付けランキング。池田の子分のようなものであるTHIS IS パンのTHIS IS 岡下、絶対アイシテルズのラブおじさん、マユリカ・中谷、ニメートルズの欅が参加する。
    まずは、池田の良いとこしりとり。池田の良いところをしりとりで挙げていくのだが、池田が指定した「池田の『だ』」に岡下は、「大事な子供を三人抱えて頑張っている」と言って、田邊に「それ俺や!」と突っ込まれていた。その後、語尾が「る」になる言葉が続くのだが、岡下が「ルーマニア人……だっけか」と言って、「ん」でアウトになりそうだったが、結局タイムアウトまで続いた。

    次は、「池田が最近、一番驚いたこと早押しクイズ」。タイトル通り、池田が最近、一番驚いたことを当てるのだが、池田自身が答えを忘れているというハプニングがある。答えは、「ニメートルズ・欅の結婚披露宴に行ったところ、客が芸人しかおらず、昔なじみは一人も呼ばれていなかったこと」。欅は余り売れていない芸人だといういうのが恥ずかしくて、昔なじみを一切呼ばなかったらしい。

    最後は、様々な飲み物を池田軍団のメンバーが飲んで、飲み残しを池田がちゃんぽんにして一人で飲むというもの。飲み物の中には、コーラ、オレンジジュース、栄養ドリンク、コーヒーなどの他に、だし汁、青汁、タバスコドリンク、センブリ茶などがある。THIS IS 岡下がタバスコドリンクをトマトジュースだと勘違いして一気飲みするというハプニングがあったが、飲み残されたのはコーヒー、青汁、センブリ茶。混ぜて飲むのだが、「ザリガニがいる池みたいな色」と中谷が言い、田邊も「深泥池(京都市の北部に太古からある池。心霊名所としても有名である。読みは「みぞろがいけ」と「みどろがいけ」の2種類があるが、田邊は「みぞろがいけ」を採用していた)の水みたい」と例える。
    池田の感想は、「苦いけど、後からコーヒーが鼻に抜けてくるから」案外美味しいらしい。センブリの苦さはコーヒーの苦みによって中和されるようだ。

    ランキング1位は、なぜかこの場にいないマルセイユ・津田に決定。池田が津田に向けて書いた「風邪を引いてないですか、私は風邪を引かないよう気をつけていたら、めばちこ(ものもらい)が出来てしまいました」という変な内容の感謝状が朗読された。


    タナイケさんも、3年後ぐらいにはM-1チャンピオンを狙えるだけの力はあるように思う。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    「将軍頼家」 頼朝の死、もう一つの説を描く

    ※ この記事は2017年12月27日に書かれたものです。

    1198年12月27日、相模川で行われた供養から鎌倉に戻る途中の源頼朝が落馬し、これが元で翌1月13日に死去したとされます。武家の棟梁たる頼朝が落馬することは考えられず、「平家の呪いか」と噂されました。

    しかし、この落馬は創作されたものとする話があります。源頼朝の死には異説が存在するのです。

    それは女のもとに通う途中の頼朝が変質者に間違えられて斬られたというものです。

    「英雄色を好む」とはよくいわれる言葉ですが、源頼朝も相当な色好みでした。正妻(北条政子)や側室もいましたが、それでも他の女性と逢瀬を重ねたい、ただ正妻の北条政子はご存知の通り怖い人でしたので、頼朝はいわゆる夜這いを重ねていたとされています。夜にこっそりと、しかも顔を隠すように歩いていたらそれは怪しまれても仕方ありません。というわけで斬殺されてしまったというのです。

    この説を基に書かれた歌舞伎の演目が「将軍頼家」です。昭和7年初演の新作歌舞伎で、作者は真山青果(まやま せいか)。劇中では頼朝が北条政子お付きの女性に懸想して、女装して会いに生き、重臣の畠山重保に怪しまれて斬られたということになっています。将軍が変態に間違われて殺されたとあっては源氏末代までの恥。

    次期将軍になる源頼家は、父の死の真相を知りたがりますが、誰も教えてくれません。息子であり、生まれながらの将軍でありながら父の死の模様を誰も語ってはくれない。そのことで頼家はやけになっています。

    結局、源氏の誇りを守るために、北条政子も畠山重保も秘密を押し通し、将軍に対する扱いではないと嘆く頼家を政子(尼御台)は、「人は一代、家は末代」と切り捨てるのでした。

     

    実はこの「将軍頼家」、私が初めて観た歌舞伎の演目です。1996年12月、東京・築地の歌舞伎座での上演でした(「将軍頼家」、「積恋雪関戸」、「新皿屋敷月雨暈」の3演目の上演)。頼家を演じたのは5代目坂東八十助(のちの10代目坂東三津五郎)。花のある八十助の容姿が、育ちの良い将軍である頼家の雰囲気をよく表していました。

    三津五郎の演技は、京都に来てからも2011年暮れの四條南座での顔見世や現代劇などでも楽しみましたが、その三津五郎も2015年に他界しました。

    三津五郎がまだ八十助で頼家の格好をしていたのが昨日のことのように思えるのに、時の流れは速いものです。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    富岡八幡宮案内

    残念な事件で有名になってしまった東京都江東区の富岡八幡宮。ただここは東京屈指の名門神社であり、見どころがたくさんあります。今日はそれをご紹介していきたいと思います。

    まずは本殿。二階建ての立派なものです。

    富岡八幡宮本殿

    八幡宮であるため、祭神は当然、八幡神(誉田別命=応仁天皇を合祀)です。

     

    境内の花本社には松尾芭蕉が神として祀られています。その名も松尾芭蕉命(まつおばしょうのみこと)。そのまんまですね。

    富岡八幡宮花本社

    ちなみに私は松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭は暗記していますので、案内のお姉ちゃん相手に暗唱して、ポカーンとさせました。

     

    富岡八幡宮は、伊能忠敬が測量の旅に出掛ける前に参拝した神社です。ということで伊能忠敬の銅像もあります。

    富岡八幡宮伊能忠敬銅像

     

    富岡八幡宮の最大の特徴は、大相撲関係の碑が充実していること。まずは横綱力士碑。

    富岡八幡宮横綱力士碑

     

    最近話題の人の名前も勿論あります(左下に注目)。

    千代の富士貢、貴乃花光司、若乃花勝らの銘

     

    最強の力士といわれながら素行等が問題で横綱になれなかったという説のある雷電為右衛門の名前も番外に「無類力士」として刻まれています。

    雷電為右衛門の銘

     

    富岡八幡宮の一番人気は、横綱でも大関でもなく、強豪関脇碑に刻まれたこの人なんです。

    強豪関脇碑力道山光浩の銘

    皆が触るので変色してます。

     

    そして富岡八幡宮の遺産というべきものが、昭和天皇御製のこの歌です。

    富岡八幡宮昭和天皇御歌

    「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」

    昭和20年3月18日に富岡八幡宮を視察された時の思いがこのお歌に込められたとされています

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月17日 (水)

    伏見の明治天皇

    ※ この記事は2018年1月9日に書かれたものです。

    慶応2年12月25日、京都御所(禁裏)において孝明天皇が崩御。翌慶応3年1月9日(西暦1867年2月13日)、のちに明治天皇となる睦仁天皇が践祚されました。当時14歳でした。京都最後の天皇(即位の礼を京都で執り行った最後の天皇は昭和天皇です)にして東京最初の天皇となった明治天皇。御一新を推し進め、大国との二度の戦争で勝利を収めた時代の天皇として明治大帝と呼ばれることもあります。東京を始め、広島、名古屋、千葉県習志野市などにその足跡を残している明治天皇ですが、この京都市伏見区にも明治天皇ゆかりの場所が存在します。いや、ここ伏見にこそ明治天皇は眠っているのです。

    実は京都の人もあまり知らなかったりするのですが、明治天皇の陵墓は伏見に存在します。伏見城本丸跡にある伏見桃山陵がそれです。

    「明治天皇に感謝を」

    明治天皇の時代から一世一元の制が施行されていますので、明治天皇が崩御されたのは明治45年だとすぐにわかるわけですが、当時の東京市民は明治天皇は東京にお眠り下さるものだと思っていました。しかし明治天皇陵は伏見に築くということが発表され、それも明治天皇が早くからお決めになっていたことだと知った東京市民は動揺。「体は京都に眠るとしても御魂は東京に御止まり頂きたい」ということで、明治神宮の創設計画が立案されるということになります。

    明治神宮の話はいずれどこかで書くとして、明治天皇伏見桃山陵の存在こそが伏見という街の価値を一層高めていることは疑いの余地がないでしょう。

    伏見桃山陵があるのは先にも書いた通り豊臣秀吉が築城し、徳川家康も居城とした伏見の城跡。伏見城は二度築城されていますが、第一期の指月伏見城ではなく、第二期の木幡山伏見城の方です。徳川家光によって伏見城が廃城になった後、木幡山には桃の木が植えられ、桃山の別名が生まれます。「安土桃山時代」の桃山です。またかつて城があったということも庶民には知られていたようで、幕末の京・伏見の地図を見ると「城山」との記述があります。

    その伏見城の本丸に明治天皇は自らの墓陵を築く計画を立てました。

    (木幡山)伏見城は築城の名手である豊臣秀吉の最高傑作ともいうべき堅城です。今でも周囲の状況を検分すると、難攻不落ぶりを確認することができます。そして天下人の城だけあって眺望も抜群です。一国の主が眠るには最適の場所と申せましょう。やはり明治天皇は慧眼の持ち主だったと見てよいと思います。

    明治天皇伏見桃山陵前からの眺めがこちら。

    「明治天皇伏見桃山陵のある伏見城本丸跡付近からの眺め」

    写真でも眺めの良さは確認できると思いますが、肉眼で見るとまさに絶景。遠く大阪まで眺めることが出来ます。

    ちなみに伏見城二の丸跡から本丸跡にある御陵に向かう途中にあるのが、

    「本丸は落とせないだろうな。」

    ご覧の巨大急階段。伏見城本丸がいかに急峻な場所にあったかがわかります。伏見城に籠城する鳥居元忠を攻めた石田三成勢は本丸を落とすのに四苦八苦するわけですが、それもむべなるかなです。

    伏見桃山御陵へのアクセスは、近鉄に桃山御陵前駅というそのままずばりの駅があるほか、JR桃山駅、京阪本線の丹波橋駅と伏見桃山駅、京阪宇治線桃山南口駅などから徒歩で向かうこと出来ます。いずれも15分~30分ぐらい掛かるので、アクセス良好というわけではありませんが、人が押し寄せるような観光地でもありませんし、明治帝が心安らかに眠るためには騒がしくない方が良いため、こうした環境は適切だと思われます。京阪丹波橋駅で降りて伏見桃山陵に向かうと、途中で最初の京都天皇である桓武天皇の陵墓(柏原陵)にも立ち寄ることができるのでお薦めです。

    少し北に上がったところに近鉄が建てた伏見桃山城天守閣が伏見のシンボルとして聳えている(耐震の問題で、現在は中には入れません)他、その周辺の、以前に伏見桃山城キャッスルランドという近鉄の遊園地があった場所は、現在は京都市によって整備され、伏見桃山城運動公園となっています。ここの野球場では日本女子プロ野球の試合などが行われています。模擬とはいえ天守の見える野球場なので、お城と野球の両方が好きな方にはもってこいです。

    本保 弘人さんの写真

    明治天皇伏見桃山陵の周辺には他にも乃木希典を祀る(京都)乃木神社が鎮座し、伏見城大名屋敷の名残が地名に残っているなど、日本の歴史を感じられる場所が数多く存在しています。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    悲運の天才指揮者 クラウス・テンシュテット

    ※この記事は2018年1月11日に書かれたものです。


    クラウス・テンシュテット

    1998年1月11日、旧東ドイツ出身で、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督として一時代を築いた名指揮者、クラウス・テンシュテットが死去した。71歳と、指揮者としては若くしての死であった。

    1926年、ドイツのメルゼブルクに生まれたクラウス・テンシュテット。最初はヴァイオリンを学び、ドイツのハレ歌劇場のコンサートマスターとして活躍したが、指の病気に罹患し、ヴァイオリニストとしての道を諦め、指揮者に転身する。ハレ歌劇場の指揮者を経て、東ドイツ国内の歌劇場の音楽監督を歴任。東ドイツでの活動は順調であったが、旧東側の常として様々な制約があり、不満を抱いたテンシュテットは1971年に西側に亡命。西側諸国で確かな表現力による演奏を行い、間もなく「50代の大型新人指揮者」と呼ばれるようになり、一気に注目を集める。時を追うごとにその強烈な音楽性は評価を高めていき、「帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤンの眼鏡にかない、「カラヤンが直々にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の次期芸術監督に指名するのではないか」という噂が絶えないようになる。

    1983年、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任。ロンドンでのテンシュテットの評価は極めて高く、「オットー・クレンペラーの再来」という最大級の賛辞を受ける。「ロンドン・フィルの演奏会はテンシュテットの指揮以外では客が入らない」とまでいわれるようになっていた。ちょうど、80年代にロンドンで暮らしていた友人が、ロジャー・ノリントン指揮のロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴きに行こうとしたところ、ホールの近くにいたイギリス人に、「You Know? You Know?」となんども聞かれたそうである。「テンシュテットの指揮じゃないんだぜ、お前、本当にわかってるのか?」という意味である。テンシュテットがいかにロンドン市民から敬愛されていたかがわかる。

    そんなテンシュテットであるが、アルコール中毒だったようで、リハーサルも常にウィスキーの小瓶を忍ばせており、リハーサルが上手くいかなくなると指揮台の上でウィスキーをラッパ飲みしていたという話が伝わっており、それが悪影響をもたらしたのか、喉頭がんに侵されるようになる。

    1987年にテンシュテットはロンドン・フィルの音楽監督を辞任。ロンドン楽壇は火が消えたようになり、「テンシュテットのいないロンドン・フィルは、ミック・ジャガーのいないローリングストーンズのようだ」という言葉が新聞紙上に踊った。

    その後、癌の状態が好転して指揮台に復帰しては悪化して静養に戻るという細切れの演奏活動が続くも、癌の転移によって動くことすら制限されるようになり、1998年1月11日に他界。十二分な実力に恵まれ、「これから」というときに病魔に倒れたテンシュテットは「悲劇の天才指揮者」として今も音楽ファンの脳裏にその雄姿が焼き付けられている。

     

    テンシュテットの代名詞ともいうべき得意レパートリーはマーラー。レナード・バーンスタインらと共に、現代を代表するマーラーのスペシャリストとして著名であり、ロンドン・フィルと「マーラー交響曲全集」をEMIに録音。その後、ライブ録音による全集も出たほか、シカゴ交響楽団との「巨人」なども激賞されている。

    生前は、ベートーヴェンの演奏などは必ずしも高くは評価されていなかったが、死後にBBCレーベルとLPOレーベル(ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団自主製作盤)から出た2種の第九はいずれもデモーニッシュな名演であり、録音史上に冠絶する第九としてベストセラーを記録。テンシュテットの名声は死後においてより高まった趣すらある。

     

    テンシュテットの名盤としてまず挙げたいのは、バイエルン放送交響楽団を指揮したブルックナーの交響曲第3番「ワーグナー」(Profile)。ワーグナーに捧げられたためこうしたニックネームをもつこの曲の歴代の演奏の中でトップをうかがう出来である。

    そのワーグナーでもベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した管弦楽曲集をリリースしており、録音に多少問題があるものの好演を示している。ロンドン・フィルハーモニーとの演奏では、LPOレーベルから放送用音源を基にしたワーグナー演奏も21世紀に入ってからリリースされ、その完成度は多くの音楽ファンを驚かせることになった。

    そしてベートーヴェンの第九。先に書いた通り放送音源からCD化されたものが2種類出ているが、いずれも音像の背後に、得体のしれぬエネルギーが満ち満ちたもので、フルトヴェングラーやトスカニーニなど、大巨匠の時代の第九に繋がるものが感じられる凄絶な演奏となっており、必聴である。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    クランベリーズ 「Dreams」

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    ヘンデル 歌劇「リナルド」より“私を泣かせてください” カストラート歌手バージョン

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    三善晃 こどものピアノ小品集「海の日記帳」 ふたたび

    三善晃は私にとって特別な作曲家である。

    東京大学文学部仏文科在学中にパリ国立高等音楽院(パリ音楽院。コンセールヴァトワール・パリ)に留学した三善は、東京芸術大学や桐朋学園大学の教員を務めながら作曲活動を開始、支倉常長を主人公にした歌劇「遠い帆」(余談であるが、初演の総監督を務めた故・観世榮夫は私の師の一人であり、2013年の上演で演出を務めている岩田達宗とは知り合いである)、交響三章などのほか、札幌オリンピックのファンファーレやNHK大河ドラマ「春の坂道」の音楽なども作曲している。

    そんな三善の作品の中から、今日はピアノ曲集「海の日記帳」を紹介しようと思う。

    楽譜「海の日記帳」

    「海の日記帳」は、子供のために書かれたピアノ曲集であり、技巧的には平易なものが多い。ただ、「子供のためのピアノ曲は退屈なものが多い」と考えていた三善はこうした楽曲にも本気で取り組み、弾くのは平易で聴き映えのする音楽を作曲。子供たちに親しまれるだけでなく、プロのピアニストもこの曲集の音楽をコンサートで取り上げるほどのクオリティの高さを誇るものを書き上げた。

    下にYouTubeの映像を張ってあるので、それをお聴きいただくとして、音楽以外のこの曲集の特徴としては、詩的なタイトルが挙げられる。「海のゆりかご」、「波が二人で……」、「シシリー島の小さな貝がら」、「海の弔列」、「沈んでいった鍵盤」、「シレーヌの機織り歌」、「手折られた潮騒」、「磯波のキャプリス」、「波のアラベスク」など題名を見ただけでどんな曲なのか聴きたくなる楽曲が目白押しであり、曲の内容もそれに十二分に応えるものである。

    子供にピアノを教えるならバイエルやブルグミュラーよりも「海の日記帳」を用いたレッスンの方がずっと効果的であるように思われる。

    このピアノ曲集には、三善晃が演奏したCDが出ており、三善のピアノ演奏の記録という意味でも貴重なものになっている。

    実は私の戯曲「海のソナタ」は、「海の日記帳」に大いにインスパイアされたものである。劇中で実際に主人公が「海の日記帳」の曲を奏でるシーンも存在する。

     

     

     

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    バラキレフはお好き

    いきなり「バラキレフはお好き?」と聞かれても、そもそもバラキレフが誰なのかご存じない方の方が多いと思われますので、紹介をまず行います。

    バラキレフはロシア音楽史上における最重要人物の一人なのですが、現在では作品よりもその存在の歴史的意義においてよく知られています。

    バラキレフが活躍した時代、西欧ではロシアは東の果ての謎の国というイメージでした。音楽的にも後進国であり、近代ロシア音楽の父と呼ばれるグリンカが世に出たばかりで、ロシア国内にはまともな音楽教育機関すらないというありさま。1862年にサンクトペテルブルク音楽院が設立されますが、アカデミックで高踏的な同校に対抗し、同年、民衆のための音楽教育機関として無料音楽院を立ち上げたのがバラキレフです。

    バラキレフは西欧を真似た音楽よりもロシア人ならではの音楽を作ることに腐心し、それに共鳴して集まってきたのがいわゆる「ロシア五人組」(バラキレフ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディン、キュイ)でバラキレフはロシア五人組の頭目的存在でした。室内楽とピアノ曲という地味なジャンルの作曲に専心したキュイを除き、組曲「展覧会の絵」や歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」のあるムソルグスキー、交響組曲「シェエラザード」がとにかく有名なリムスキー=コルサコフ、歌劇「イーゴリ公」(だったん人の踊りが特に有名)と交響詩「中央アジアの草原にて」などの代表曲のあるボロディンなど、現在でも取り上げられる機会の多い曲を作っている人たちです。そしてバラキレフと交友した最大の人物がチャイコフスキーでした。

    彼らに比べると、リーダー格であるバラキレフが地味なことは否めないでしょう。フランス六人組のリーダーであるダリウス・ミヨーも、プーランクやオネゲルに比べると知名度で劣るため、あるいは同じ現象だということも出来ます。リーダーの才能と創作力は必ずしも一致しない、あるいはリーダーであったがために作曲に専心出来なかったということもあるのかも知れません。

    バラキレフの作品としては、ピアノ曲である「イスメライ」が有名ですが、ここでは完成までに33年を要したという交響曲第1番より第3楽章を紹介しておきましょう。

    ロシア民謡を題材にしたとされる、ノスタルジックで美しい旋律が特徴です。これを聴けばあなたもバラキレフが好きになるかも知れません。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月16日 (火)

    笑いの林(98) 「笑激的! 年末年始SP~人気芸人たちのネタとコーナーライブ~」2018年1月8日

    2018年1月8日 大阪・なんばのYES THEATERにて

    午後4時から、大阪・なんばのYES THEATERで、「笑激的! 年末年始SP ~人気芸人たちのネタとコーナーライブ~」を観る。今日は3回公演で、午後2時開演の2回目の公演のチケットも取ったのだが、疲労感があるため、1回勝負限定に決めた。

    今日の出演は、ギャロップ、ミキ、ウーマンラッシュアワー、桜 稲垣早希、かまいたち、斜に噛む、ラニーノーズ、おいでやす小田、ネイビーズアフロ。

    ギャロップ。例によって林が、「皆さん、生えすぎですね」と言ってからスタート。林の子供が小学校に上がる年齢になったので「運動会なんかを見に行きたい」という話になるのだが、相方の毛利に、「そのまま(禿頭)でか?」と言われる。毛利は、「その頭だと、金網にしがみついて見るのがせいぜい」と言うのだが、「何かと思われるやん」と林は反論する。毛利に、「帽子かぶれ」、「包帯頭に巻け」、「バンダナはどうや?」と言われ、「帽子取れたら恥ずかしいやん」、「6年間ずっと頭に包帯巻いてたら、子供が友達から『お前の父ちゃんどうしたん?』言われるやん。(毛利に「運動会の季節だけや」と言われて)その方が変やん。『お前の父ちゃん、秋口になると毎年怪我するけどあれなんなん』言われるわ」、「バンダナはここ(額)巻くもんやん。ここ(頭頂部)丸出しやん」
    ということでカツラを勧められるのだが、「幼稚園からの知り合いおるんやで、『お、小学校に入ったら元からそれだったつもりで行くんか』思われるやん」


    姉弟漫才師のミキ。究極の選択ネタ。しかし「サーモンと鮭どっち?」で二人ともサーモンと答えるも、昴生「どっちも一緒や!」、亜生「うちではサーモンと言ってたので」、「うち、一緒や! 三木家、どうなっとんねん!」というように質問が変で答えもかぶる。
    無人島に持って行きたいもの、亜生「高速艇とテレビ」、昴生「高速艇や! 無人島には電気がない!」、亜生「じゃあ、高速艇とトランプでは?」、昴生「高速艇や! 高速艇に乗って帰るんや!」、亜生「でも、無人島に誰かいたらトランプの方が楽しめるかも知れない」、昴生「おらん! 無人島や!」


    ウーマンラッシュアワー。何度もやっているバイトリーダーネタをやるのだが、途中で村本がセリフを飛ばしてしまい、中川パラダイスと舞台上で打ち合わせを行うシーンがあった。演技かと思ったがそうではないようだ。
    そして後半に、年末に話題になったアンチナショナリズムネタをやる。ただ、内容的にはともかくとして、お笑いとしてはこのネタはちっとも面白くないのである。


    桜 稲垣早希。今日も「キスから始めよう」をやる。基本的に女性の胸キュンシチュエーションというのは時代の変化に余り左右されないので、多分、10年後にやっても通用するようなネタである。ただその頃に「壁ドン」も生きているのかどうかは不明。


    かまいたち。山内が、「この前、UFJに行ったら、ゾンビが出てきて驚いた」と語る。ハロウィンの日だったそうだが、それ以前にUFJではなくUSJである。ということで相方の濱家にそれを突っ込まれるのだが、山内は間違えたのは自分ではなく濱家だという風に強引に持って行こうとする。
    途中、スピーカーに音声トラブルがあったりしたが、「もっと引っ張って欲しい」と思うところで終わってしまう。持ち時間の関係だと思うがもっと見たかった。


    斜に噛む。元日にも見た、まだ芸歴の浅いコンビである。久保弘樹が「くぼひろきであいうえお作文をする」というのだが、「く、久保弘樹 ぼ、ぼく久保弘樹 ひ、ひっくり返しても久保弘樹 ろはパスで き、Kis-My-Ft2」という、なんだかなーという出来。経験って何より大事だな。


    ラニーノーズ。ガールフレンドが自分に何も言わずに海外留学に旅立ってしまうという設定で、引き留めに行く男を演じることになるのだが、二人が奏でるギターのBGMが何故か「世にも奇妙な物語」のテーマだったり、「スーパーマリオ」の音楽だったりする。途中、洲崎がファミリーマートに寄って「大盛況」が流れたり、「本を売るならブックオフ」のテーマが弾かれて、やはり途中で立ち寄るという設定になってしまう。


    おいでやす小田。英語教室の講師という設定で、「you」、「want」などの簡単な英単語を関西弁の語尾に置き換えるというネタである。例えば「want」なら「いわんと」のように。ちなみに関西弁はフリップにローマ字で書かれているのだが、そこに含まれる英単語も正しいスペリングではなくローマ字で綴られていた。


    ネイビーズアフロ。二人とも京都市立堀川高校を経て神戸大学卒というインテリ漫才師である。皆川が「ちゃんといwant」とおいでやす小田のネタを真似てスタート。
    進研ゼミネタ。はじりが進研ゼミを薦めるヒロコという女の子に扮し、皆川がその友人の男子、タケシに扮するのだが、皆川は進研ゼミをやっている生徒と進研ゼミをやらなかった生徒の二人を一人で演じ始める。ちなみに進研ゼミをやることに決めた生徒は5教科のテストで計20点しか取れなかったという設定。国語、社会、数学、理科と0点で、英語だけ20点だそうである。一方、進研ゼミをやる予定のない生徒は、小学校高学年時代のテスト全ての合計点数が20点で、ヒロコを演じるはじりに、「あんなにテストあるのに」と呆れられていた。
    進研ゼミをやった生徒は1日にして急成長。1872年に始まった学制制度の恩恵に感謝するという、あり得ないレベルのインテリになる。一方、やらなかった生徒は退化が始まってしまい、出会ってもヒロコの名前が出てこない、歩くのを忘れるという後退ぶりであった。


    コーナー。MCを務めるのはおいでやす小田。出演は、ラニーノーズ、斜に噛む、ネイビーズアフロ、桜 稲垣早希。東京でも仕事をしている芸人はこの後も仕事があるので早めに帰ったそうである。かまいたち・濱家はTwitterで「今日は9ステージある」と書いていた。

    お客さんへの質問クイズ、3問出してどんどん該当者を減らしていくというもの。ただし、2回目3回目は前回の半数以下にする必要がある。
    まずは「初詣に行った人」と聞く。パッと見て9割以上の人が手を挙げる。なんだかんだで初詣の習慣は日本人に根付いているようだ。
    半数以下にしなければならないのだが、同じ初詣ネタで行く。「初詣で今年、お賽銭を千円以上入れた人」。一気に3人に減る。
    最後は1人狙いで行くのだが、おいでやす小田がいじられ、ネイビーズアフロ・皆川などは「このコーナー、おいでやす小田の司会絶対いるぞという方」と提案して小田に「ゼロになる!」と言われていた。
    ラストは「親戚の中に誰もが知っているような有名人がいる。それも会ったことある」で行くことになる。上手の前の方の席で話し合ってる若者がいたのだが、ある運動教育方法の権威である大学教授の息子さんがいた(教育学部で知られるG大学のI教授の息子さんのようだ)。誰もが知っている有名人というわけではないがOKとなった。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月15日 (月)

    観劇感想精選(227) 「かがみのかなたはたなかのなかに」2018西宮

    2018年1月11日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

    午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「かがみのかなたはたなかのなかに」を観る。新国立劇場制作の子供のための演劇。といっても今日は子供はほとんど観に来ていなかったが。
    作・演出・出演:長塚圭史。出演:松たか子、首藤康之、近藤良平(コンドルズ)。近藤良平は振り付けと音楽も担当する。

    海辺のコテージが舞台。海軍将校のたなか(首藤康之)がこの部屋で、出立を待っている。すると鏡の向こうに同じ動きをする者が。たなかは鏡に映った自分かと思ったのだが、そこにいたのは鏡のかなた(近藤良平)。やがてたなかとかなたは電話で会話したり、実際に言葉を交わしたりするようになる。

    たなかがピザを頼むと、すぐに呼び鈴が鳴り、ピザ配達人が「ちぇす」と現れる。ピザ配達人の名前はこいけ(長塚圭史)。たなかはこいけをかなたに会わせようとする。するとこいけは二人になり、ピザ配達人の衣装から瞬く間の速替え。こいけは赤いドレスを着て女装し、もう一人のこいけはピンクのドレスを纏った女性、けいこ(松たか子)となる。
    たなかもかなたもけいこに惚れ、とりあえすこいけが邪魔だということになるのだが……

    どこともわからない場所で繰り広げられる幻想的なお話。幻想的といってもおどろおどろしものではなく、愛らしい感じである。とはいえちょっとグロテスクな発想があったりもする。
    生で見る松たか子は、やはり映像で見るより数倍美人である。最近は映像の技術も進化してきたが、それでも松たか子は残念なことに基本的に映像写りが悪い人なので損しているのである。
    首藤康之の佇まいや、近藤良平の飄々とした雰囲気も味わいがある。女装したこいけを演じる長塚圭史の演技もコミカルで良かった。


    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    忌野清志郎+ラフィータフィー 「水の泡」

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月13日 (土)

    今の気分の和歌

    人も惜し人も恨めし
    あぢきなく世を思ふ故に
    もの思ふ身は

    後鳥羽上皇

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    明日よりは

    明日よりは何を書こうぞさみしさよ(金子みすゞ)

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月12日 (金)

    ヴィクトル・スタルヒン散る

    その車は、世田谷区三宿の国道246号線を走っていた。そしてそのまま三宿駅に停車中の渋谷発二子玉川行きの列車に激突。運転していた男は病院に搬送されたが30分も経たないうちに死亡した。その男、ヴィクトル・スタルヒンは、東京巨人軍、パシフィック、太陽ロビンス、大映スターズ、高橋ユニオンズで活躍し、日本プロ野球初の300勝を挙げ、シーズン42勝の日本記録を持つ大エースだった。

    スタルヒンは、白系ロシア人の子供だった。スタルヒンの両親は、ロシア革命から逃れるためにシベリアへ。さらに中国東北部のハルビンを経て北海道・旭川へと渡ってきた。スタルヒンは無国籍であった。

    旧制旭川中学校時代に好投手として注目を浴びる。全国中等学校野球選手権(現在の全国高等学校野球選手権)北海道予選では決勝まで進みながら夏の甲子園に届かず。北海道時代に対戦したチームのスタルヒン評が残っているが、「ボールが見えない。煙にしか見えない」というものでスタルヒンの傑出したスピードをうかがい知ることが出来る。
    その後、旭川中学校を中退して全日本東京野球倶楽部に参加。スタルヒン自身は旭川中学校に残りたかったが、全日本東京野球倶楽部は恫喝手段を用いてでもスタルヒンを手に入れたがっていた。

    そして、東京巨人軍に入団。沢村栄治と共に二枚看板として巨人軍の投手陣を支えた。
    無国籍の人間であるスタルヒンは兵隊に取られることはなく、徴兵に応じて戦地に赴いた沢村栄治に代わって巨人軍のエースとして奮闘するも、敵性外国人との評価を受けるようになり、その疑いを晴らすために須田博(すた ひろし)と改名。日本人になろうとするが、「どう見ても日本人じゃない」と申請を却下される。日本で育ち、日本語を母語とするスタルヒンにとってこの決定はショックであった。

    その後、軽井沢に強制移住させられたスタルヒン。約2年間ほど野球から遠ざからざるを得なかった。
    戦後の1946年。スタルヒンに巨人軍からの復帰の誘いがある。しかしスタルヒンはこれを断り、パシフィックに入団。この経緯については色々取り沙汰されるが、詳しいことはわかっていない。巨人軍とは確執があったらしいのだが、その内容については事実かどうか確認出来ないものもある。最も大きな要因としては実父のように慕っていた藤本定義が巨人から捨てられ、パシフィックの監督に就任したということが挙げられる。スタルヒンはその後も、一貫して地味なチーム、弱小球団を渡り歩くことになった。

    沢村栄治に勝るとも劣らないといわれたスタルヒンのストレート。当時スピードガンがあったら何キロ出ていたのかということがやはり話題になる。巨人軍時代の同僚であった千葉茂や青田昇が、ピッチングマシンを使って、何キロの設定の時にスタルヒンのストレートと同等になるのかをマスコミの依頼で試してみたことがある。二人が「まあこんなもんやろ」と確認しあった時のピッチングマシンの設定は158キロであったといわれる。

    運命の1957年1月12日、スタルヒンは旭川中学校の同窓会に出る予定だった。しかし彼が車を走らせたのは同窓会が行われる東中野方面とは真反対の道だった。最初は同じ会場に向かう同窓生を助手席に乗せていたのだが、途中で降ろし、同窓生に一人で向かうよう告げて車を走らせている。明らかにおかしかった。
    そしてスタルヒンの運転する車は列車へと突っ込むのである。状況的にはどう見ても自殺だった。

    愛されるキャラクターであったスタルヒンだが、生涯に渡って彼には孤独の影が付きまとう。アイデンティティとしては間違いなく日本人であると確信していたスタルヒンであったが、誰もそうは見てくれなかった。彼は日本人ではなく、外国人でもない無国籍人のデラシネであった。その死に際して、マスコミはスタルヒンの300勝という偉業を秘した。実績が数字になる野球というわかりやすい世界に生き、大記録を打ち立てたにも関わらず、最後まで日本人とは認められず日本人からも認められなかったのだ。

    地面に白墨で300と書かれ、その横にしゃがんだスタルヒンが上にあるカメラに視線を送っている写真がある。300勝達成時の写真である。スタルヒンの現役最後のシーズンとなる1955年、高橋ユニオンズ時代に撮られたものだ。
    満面の笑顔を浮かべているスタルヒンはとても幸せそうに見える。だがこの時から2年も経たないうちに彼は謎の死を遂げた。その胸に何が去来していたのか今となっては誰にもわからない。


    旭川スタルヒン球場前に立つスタルヒンの像

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月10日 (水)

    コンサートの記(337) ハンスイェルク・シェレンベルガー指揮 京都市交響楽団特別演奏会「ニューイヤーコンサート」2018

    2018年1月7日 京都コンサートホールにて

    午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会「ニューイヤーコンサート」を聴く。指揮はハンスイェルク・シェレンベルガー。

    オール・モーツァルト・プログラム。「イドメネオ」からのバレエ音楽、オーボエ協奏曲、交響曲第39番が演奏される。

    ハンスイェルク・シェレンベンガーは、1948年生まれの指揮者兼オーボエ奏者。ケルン放送交響楽団の首席オーボエ奏者を経て、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者を1980年から2001年まで務めている。1991年にハイドン・アンサンブル・ベルリンを設立し、芸術監督に就任。1994年頃から本格的な指揮者活動に入り、2013年から岡山フィルハーモニック管弦楽団の首席指揮者を務めている。

    今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに渡邊穣。ニューイヤーコンサートということで女性楽団員達は明るめの色にドレスアップして登場。コントラバス副首席の石丸美佳のように羽織袴の人もいる。一方で首席クラリネットの小谷口直子はいつもの衣装にちょっとしたアクセサリーをつけただけの人もいる。
    「イドメネオ」からのバレエ音楽より「シャコンヌ」と「パ・スール」。シェレンベルガーはかなり徹底したピリオドアプローチを採用している。HIPのボウイングによる弦楽の漸強などは古楽器風演奏のお手本のようだ。京響の音色は純度が高く、モーツァルトに最適である。「モーツァルトの京響」のDNAが今も息づいているようだ。


    オーボエ協奏曲。シェレンベルガーによる弾き振りである。今日もポディウム席を選んだのだが、ここはオーボエの独奏を聴くにはやはり適していないようだ。音が小さく聞こえる。失敗したな。ただシェレンベルガーの腕の確かさは伝わってくる。

    アンコールとして、シェレンベルガーは、ブリテンの「オヴィディウスによる6つの変奏」より第1曲を演奏する。わかりやすい曲ではないが、不思議ともう一度聴いてみたくなるような内容がある。ブリテンの曲は他のものもそうだが、何らかの引っかかりを感じるものが多い。


    メインの交響曲第39番。ピリオドということでかなり速めのテンポを採用。ティンパニに意図的に割れるような音を出させているのも興味深い。詳しくはわからないが、皮を緩めに張っているのだろうか。マレットはごく普通のものに見える。
    速めのテンポで進めているにも関わらず、シェレンベルガーは、急速な加速と減速を断行。不自然な感じもしたが、フォルムを崩さない計算とそれについて行く京響は見事である。
    第3楽章と第4楽章は特に速い。このテンポでまろやかさが出せたら本物だが、まだそこまでは行っていないように感じる。ともあれモーツァルトを聴く楽しみを十分に味わうことが出来た。

    アンコールの前にシェレンベルガーが客席に向かって「あけまして」と言い、京響の団員が「おめでとうございます」と続けて、新年を寿ぐ。

    アンコール演奏はやはりモーツァルトで歌劇「フィガロの結婚」序曲。もうちょっとロココ風の味わいも欲しくなるが、溌剌とした新年の幕開けに相応しい演奏であった

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    「戦艦ポチョムキン」よりオデッサの階段

    ロシア暦1898年1月10日(グレゴリオ暦1月23日)、モンタージュ理論の大成者として知られるセルゲイ・エイゼンシュテイン監督がラトヴィア(当時はロシア帝国の領土)のリガに生まれる。

    エイゼンシュタイン監督の代表作として知られるのがポチョムキンの反乱を題材とした「戦艦ポチョムキン」である。小林多喜二の「蟹工船」にも似たストーリーを持つということもあり(両者は完全に無関係である)、日本人にもわかりやすい内容ということもあるのか、歴代名画の上位にランクされる作品として知られている。その「戦艦ポチョムキン」に中でも最も有名なシーンが「オデッサの階段」。

    ロシアの都市、オデッサでの虐殺劇(史実ではないそうだ)を描いたもの。ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」第3楽章(モスクワでの血の日曜日事件を描いた音楽)が流れる中、逃げ惑う人が大階段(プリモスキーの階段と呼ばれるようです)を駆け下りて行くシーンがまず印象的である。

    子供に怪我を負わされた女性が迫りくるコサック兵たちに抗議に向かい、銃殺される(女性の遺体にコサック兵の影が映るのが印象的である)。この後で、音楽はショスタコーヴィチの交響曲第5番第3楽章に切り替わり、ジェノサイドが続く中、ベビーカーに赤ん坊を乗せた女性が階段の上で射殺される(5分57秒付近)。女性が後ろに倒れると同時にベビーカーが押し出され(6分43秒付近)ここからクライマックスである階段落ちが始まる。

    画像の切り替え、ストーリー運び、影の用い方、エキストラのみによる演技、悲惨さを訴えかけるメッセージ性などいずれもがサイレント映画として「完璧」の域に達しており、わずか7分程度の映像でありながら、極めて濃密な時間であり、映画史の中で最も有名なシーンの一つに数えられている。

    このシーンは後世の作品に様々な影響を与えたことで知られている。

    最も有名なのは、ブライアン・デ・パルマ監督の映画「アンタッチャブル」。ケビン・コスナーの出世作として知られるこの作品では、シカゴ駅での階段落ちのシーンがオマージュとして登場する。こちらは著作権が切れていないので映像が載せられないのが残念だが、当時はまだ駆け出しの俳優だったアンディ・ガルシアの演技が実に格好良く(「完璧です」のセリフがいい)、一見の価値ありである。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月 8日 (月)

    『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』刊行記念「伝説の高速スライダー・伊藤智仁が関西凱旋! プロ野球人生25年をすべてぶっちゃける!」

    2018年1月4日 大阪・宗右衛門町のLOFT PLUS ONE WESTにて

    午後7時から、大阪・宗右衛門町のLOFT PLUS ONE WESTで、『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』刊行記念「伝説の高速スライダー・伊藤智仁が関西凱旋! プロ野球人生25年をすべてぶっちゃける!」というトークライブに参加する。『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』の主人公である伊藤智仁と著者である長谷川晶一による野球トークである。こちらも東京ヤクルトスワローズのホームレプリカユニフォームに「正装」して臨む。

    客席の後ろの方は、伊藤智仁の古くからの知り合いが多いようで(後で知ったが伊藤の実兄も来ていたそうだ)、開演20分ほど前にステージに現れた伊藤智仁は、下手の階段を降りて、客席後方へと歩いて行った。


    まず長谷川晶一が登場し、東京ヤクルトスワローズの応援歌「We are the Swallows」の流れる中、伊藤智仁が登場。「俺が歌うの?」とボケる。その後、昨日放送されたTBS系列「消えた天才」をモニターに映す際には、「俺が映すの?」とまたボケていた。


    「史上最高の投手は誰か?」という問いに対する答えの中に必ず挙がっている伝説の最強エース・伊藤智仁。エースと書いたものの、実際には伊藤智仁がエースであったことはない。なったことがあるのはリリーフエースだが、それ以上に1993年のルーキーイヤーの輝きが鮮烈である。規定投球回数には足りなかったものの、防御率は驚異の0点台。実働3ヶ月ほどだったにも関わらず、松井秀喜を抑えて新人王を獲得している。
    伊藤が三菱自動車京都在籍時代にバルセロナオリンピック壮行プロアマ交歓試合で対戦した古田敦也が「来るとわかっていても打てない」と語った高速スライダーと伸びのあるストレート、プロに入ってから覚えたフォークボールを武器にセリーグの並み居る強打者をなぎ倒して行く姿は、まさにヒーローそのものだった。ただ度重なる故障により、ヒーローは悲劇のヒーローに、エースはガラスのエース、幻のエースに変わっていく。
    その悲劇性も相まって生きながら伝説となっている人物である。運動なら何をやっても超一流で「百獣の王」の称号を得ている武井壮は、ラジオ番組で「自分が思う史上最高の投手」として伊藤智仁を挙げており、高速スライダーがいかにして生まれたのかについても触れていた。

    伊藤は昨シーズン、スワローズが球団ワースト記録となる96敗で最下位になった責任を取り、投手コーチを辞任。今年からはベースボールチャレンジリーグ(BCリーグ)の富山GRNサンダーバーズの監督に就任する。

    まず伊藤のスワローズ入団の経緯。伊藤をドラフト1位指名したのは、ヤクルトスワローズの他に広島東洋カープ、オリックス・ブルーウェーブであった。その中で事前にスカウトが挨拶に来なかった球団がヤクルトだそうである。当時、スワローズフロントは松井秀喜を1位指名することで一本化されていたのだが、当時の野村克也監督が「何が何でも伊藤を獲れ」と厳命。ドラフト会議直前で方向転換している。
    伊藤に声を掛けた球団は他にも西武ライオンズ、当時まだ福岡ダイエーだったホークスなどがあるそうだが、これらの球団は焼き肉をおごってくれたりしたそうである。当時からお金がないことで有名だった広島カープからはデニーズに呼ばれたそうで、カープらしいといえばカープらしい話である。それでも一番熱心だったのはカープだったそうで、「練習厳しい、(当時の広島市民)球場汚い、お金出ないという(皮肉を込めて)良い条件」のカープに伊藤は一番の好印象を抱いたようである。
    巨人からは「うちはドラフト1位は松井秀喜で行くが、君が巨人にしか行かないと言えばドラフト2位で指名する」という条件(「球界の寝業師」こと根本睦夫がよく用いた手法である。根本は西武ライオンズ時代に目をつけた選手に「プロには行かない」と表明させ、大卒や社会人の選手はドラフト2位か3位、高卒の選手は下位指名で手に入れていた)が出されたが、「自分を高く評価してくれた球団の方がいい」ということで、巨人ファンではあったがこの話には乗らなかった。
    スワローズに入団することになったが、神宮球場が東京にあるということも本気で知らなかったという。「三菱自動車京都というところにいたのですが、当時、神宮球場で投げてる」そうなのだが、「宿舎からバスに乗って目を閉じていたら(神宮球場に)着いてる」そうで土地勘が全くなかったらしい。「バルセロナオリンピック壮行試合も神宮球場で投げる」もののやはり神宮球場が東京にあるという認識はなぜかなかったらしい。プロアマ交歓試合で伊藤が投げている試合は私もテレビで見ている。

    女房役であった古田敦也についてだが、プロの選手というよりもトヨタ自動車のキャッチャーという認識だったそうで、三菱自動車京都野球部入部して最初の年は予選で日本新薬に敗れてしまったそうだが、出来て間もない東京ドームを見に行きたいということで、新幹線に乗って日本新薬の試合を見に行ったそうである。その時の日本新薬の相手がトヨタ自動車だったそうで、古田ついては「ホームランを打ったんですけど、それ以外よく覚えていない」そうである。入団前の古田敦也の印象についても「打つのは特に凄いわけじゃない。スローイングだけは良い」と評して、長谷川に「なんでそんなに上から目線なんですか?」と突っ込まれていた。

    長谷川は、古田にインタビューした際に、「僕が受けたことのあるピッチャーの中では伊藤智仁がナンバーワン」と古田が断言し、「特にスライダーは1番。スライダーという、プロのピッチャーなら10%投げる球の中で1番。松坂のスライダーも受けたことがあるけれど、伊藤のスライダーを見た後では松坂のスライダーも平凡に見えた」と言うのを聞いたそうである。
    伊藤は、「松坂のスライダーもダルビッシュのスライダーも凄い」と語り、「ダルビッシュなんて、一度、春先に北海道でやったオープン戦で、春先だから仕上がってるじゃない、3イニング限定とかだし、本気で投げてきたら(ヤクルトのバッターが)打てない、掠りもしないんだもん」とコーチ時代のことを振り返っていた。

    入団直後の思い出を語る。ユマキャンプでは古田と同室になったのだが、「古田さん、困ったことにあんまり寝ないんです」とのことで、年下で部屋子の自分が先に寝るわけにはいかないのだが、古田は「寝てていいよ」と言って出掛けてしまう。「寝てていいよ」とは言われたものの本当に眠るわけにもいかず、照明はつけたままにし、本を手にしてページの間に指を挟んで、あたかも「頑張って読書しながら起きてたんだけど寝てしまった」と見せかけて寝ていたそうである。古田も気づいていたはずだが何も言われなかったとのこと。
    ユマでは十分に眠れず、日本に帰ってすぐに宮崎県でのキャンプが始まるということですっかり体調を崩してしまい、開幕1軍を逃すことになったそうだ。

    ちなみに2軍でのデビューはイースタン・リーグ開幕戦の対ジャイアンツ戦だったのだが、ジャイアンツの1番バッターが松井秀喜という嘘のような顔合わせが待っていたそうだ。その試合なのだが、「松井にホームラン打たれたことしか覚えてない」という「カウントを取りに行ったスライダー」を打たれたそうである。ただ同期のドラフト1位ではあっても、伊藤の登板機会が少なかったということもあって、伊藤智仁と松井秀喜がライバルという感じはほぼない。「18歳だし、まだプロのスピードに慣れていないだろし」ということで伊藤も松井を特に意識してはいなかったようだ。


    野村監督について。伊藤が野村監督に怒られたことは余りないそうだが、褒められたこともないそうで、一度、「(野村監督の真似で)『昨日、良かったな』と言われただけ」と語る。怒られるのはもっぱら古田敦也の役目だったそうで、古田はとにかく怒られていたらしい。伊藤の野球人生を象徴するような試合として語られる、1993年6月9日、石川県立球場での対巨人戦で、篠塚和典にサヨナラホームランを打たれた時には、野村が古田に対して激高したそうで、「ベンチ裏で古田さん、ずっと怒られてた。それを傍目で見ながら帰ったんだけど、こっちが引くぐらい怒られてた」そうである。その試合、伊藤は9回2死までにセリーグタイ記録となる16個の三振を奪っていたのだが、野村は「自分で新記録達成になるのを阻止するために篠塚は絶対当てに来る。そういうバッターに対してああいう配球をするとは」と怒り心頭に発したらしい。「誰が悪いって、打たれた僕が悪いんですけど」と伊藤は言う。「バッター篠塚か。ホームランは絶対にないな。せいぜいレフト前のヒットだろう」と舐めていたのも一因らしい。ただ篠塚のホームラン映像を見て、「球場、狭いですよね。70mぐらいしかない」と負け惜しみを言っていた(石川県立球場は確かに狭いしフェンスも低いが70mということはない)。
    ドラフト指名以前の野村監督のイメージは、「陰気くさいおっさん」そして「怖そう」だったそうなのだが、入団してもイメージは変わらなかったそうだ。
    「消えた天才」では、戸田市民会館で2時間ほどインタビューを受け(しかし使われたのはたった2分ほどだそう)、その後、スタッフに「(ヤクルト)戸田球場に行きましょう」と言われて、「え? なんで?」と思ったものの、行ってみると遠くに「あれ、野村監督じゃない?」という人影が見え、最初は別の取材かと思ったものの、「あれ? 野村監督ってTBSで解説持ってたよな」ということで、そういう番組だということに気づいたらしい。ただ、「僕も業界が長いので」どうやったらテレビ的に良いのかを考えながら「どうしたんですか?」などとしらばくれたそうである。

    ルーキー時代のキャンプで、野村監督が打席に入って伊藤の投球を確認し、絶賛したということがあったのだが、伊藤はというと「当てたら困る」というので萎縮しがちになってしまい、野村監督のパフォーマンスを結構迷惑に感じていたそうだ。
    また、松井秀喜が始球式で長嶋茂雄をバッターボックスに迎え、安倍晋三(ヤクルトファンとして有名である)が主審の位置に立った時のことを振り返り、「普通は投げられない。まともには投げられない。だからとんでもないとこ行ったじゃない」「よっぽどのアホでない限り投げられない」と語り、同じケースで始球式の話が来たらという振りに「俺だったら断る」と即答していた。


    実は出演した時には、タイトルが「消えた天才」になるということも知らないままだったそうである。天才と言われることについては、「ありがたいとは思うけれども自分はそこまでではない」と思っているという。伊藤が「天才なのは自分ではなく」と言って挙げたのはスワローズ黄金期の左腕エース・石井一久である。
    入団したばかりの伊藤は先輩の投手達、中でも岡林洋一や西村龍次といったエースピッチャーの投球を観察し、「自分が負けてる部分もあるが勝っている部分もある」と分析、石井一久に関しては「持っているものは凄いけど、荒削りに過ぎる」という印象だったという。「ただその潜在能力が嫉妬するぐらい凄い」そうである。とにかく球が速く、しかも左投手。最初の頃はストライクを取るのに汲々としている状態だったが、「うなりを上げるストレート」は驚異的だったという。「岡林さんや西村さんは真似しようと思えば真似られたけど、石井は真似出来ない、無理」だそうである。そして凄いのは球の速さよりも勢いや力強さだという。確かに90年代の絶好調時の石井一久の投球は相手がお手上げ状態になることがあり、ど真ん中のストレートでも空振り、バットに当たってもなかなか前に飛ばないという調子で、90年代のスワローズのエースといえば勝ち星からいっても石井一久だろうと思われる。1973年生まれの石井は、私と同い年の松井と1歳差であり、松井秀喜のライバルを敢えて挙げるならこれも石井一久ということになるのだろう。

    伊藤と同学年のスワローズの投手にエースナンバー17を背負った川崎憲次郎がいた。伊藤曰く、川崎の「球自体はたいしたことない」そうだが、「シュートを覚えてから勝ち始めた。『お前、シュート覚えろ!』って言われてからすぐにものにした」そうである。伊藤はシュートは練習したが投げられなかったそうである。「こっち(スライダー)側に曲げる球は得意だったけど、こっち(シュート側)に曲げられなかった」と手振りを加えながら話す。
    スワローズ現役のシュートピッチャーである原樹理と川崎憲次郎の比較になり、伊藤は「球の種類が違う。川崎のシュートはボール1個分しか曲がらない。だからバッターはストレートだと思って打ちに行って芯を外される。原樹理のシュートは結構曲がるが、バッターがシュートだと気づくから見逃す。見逃すとボールになる。ボールになったらいくらいい球でもただのボール。だから原樹理の場合はシュートでストライクが取れないといけない」のだが何度言ってもストライクが取れるようにはならないそうで、「コーチ(つまり伊藤本人)が悪かったんじゃないですか」と言っていた。

    1990年代後半に、石井一久、川崎憲次郎と共に伊藤が三本柱に数えられた時には、互いに「あいつには負けない」というバチバチの空気を飛ばし合っていたそうである。

    ちなみに野村時代からスワローズはストライクゾーンとその少し周りのボールゾーンを含めて9×9の81分割し、何番にボールを投げるかという作戦や指令があるそうである。ただ81分割というのはあくまで理想論で、実戦では2分割が4分割でやっていたそうである。「ヤクルトの場合は、アウトコースという指令は来ない。番号で来る」そうである。ストライクゾーン付近の81分割というと1個のマスは、「(人差し指と親指で輪っかを作って)これぐらい」だそうだが、「そこまでのコントロールはなかった」
    長谷川が、「ライアン(小川)や原樹理も81分割で何番ってわかるんでしょうか?」と聞くと、伊藤は、「ライアンはわかってるだろけど、原樹理はどうかな? ミーティングに鉛筆持ってくるの忘れるような子だから」と答えて、客席から笑いが起こっていた。

    野村監督のミーティングについてだが、練習後、午後6時から1時間ほど夕食の時間となり、午後7時からの1時間ほどがミーティングだったそうである。「ノートを見返すと凄いことが書いてある。コーチになってからも何度も見返すほど」だというが、「練習が終わって食事したら眠いじゃないですか」ということで、ノートにも「たまにミミズが這っている」。そして、「うちには、古田というキャッチャーがいたので」難しいことは古田に任せておけばいいかという空気があったという。もし野村ミーティングの凄さに当時気づいていたら「あと、2~3勝は出来た」と伊藤は言う。ちなみに通算で2~3勝である。伊藤曰く「野球は体でやるもので、頭で積み上げられるのはそんな程度」だそうである。


    「怒り新党」の3大○○の映像も流れる。「消えた天才」は音声を消しての上映だったか、「怒り新党」は音声付きで、伊藤と長谷川、客席と共に映像を見る。「消えた天才」ではあたかも伊藤の現役生活が1993年の1年だけで終わってしまったかのような描き方だったが、「怒り新党」ではその後のリハビリや復活劇までもちゃんと描いているそうである。
    石川県立球場での試合。伊藤の調子は決して良くなかったそうで、「三振でしかアウトが取れない」状態だったという。その証拠に16奪三振を記録したが、被安打は8と多い。
    吉原孝介が打席に立っている映像が出たときに、長谷川が「(球数が多いので)バットに当たってとか思わなかったの?」と聞くと、「吉原風情じゃバットに当たらんって」と一笑に付し、伊藤が13イニングスを投げた甲子園での対阪神戦(ちなみに三塁側アルプススタンドはガラガラで笑い声が起こる。「あの頃、阪神弱かったからね」と伊藤)で新庄剛志を三振に打ち取った映像でも、「いっても新庄だよ。メジャーにも行ったけど」と一刀両断。ピッチャーらしい強気の性格は健在のようだ。
    和田にヒットを打たれた場面で、伊藤が「後で聞いたら癖がわかってたみたい。だけど誰にも言わなかったって」と言い、長谷川が「いかにもプロという感じですが嫌らしい奴ですね」と話して、会場が爆笑に包まれる。その後も和田がヒットを打つ場面があり、解説の声が「和田、今日4本目の安打です」と言うのを聞いてまた爆笑が起こっていた。

    ちなみにラスト登板となったコスモスリーグの対ジャイアンツ戦で伊藤は大胆不敵なことをやってのけるのだが、それは『幸運な男』を読んだ人だけのお楽しみとしておく。

    伊藤は、由規のスライダーを「自分より上」と賞したが、「スライダーだけよ、他の球は屁みたいなもん」という。それでも「良くやってる方、あの野球音痴にしては」と言う。由規は入団当時は球の握り方も間違っているような状態であり、「キャッチボールが下手なピッチャーって結構いるけど、並外れて」下手だったそうである。「キャッチボールから教えなきゃいけない」選手だったそうだ。由規は左利きなのだが、右利きの兄のグローブをお下がりで貰って野球を始めたため右投げである(打撃は左で行う)。今はメジャーにいる岩隈久志も左利きだが右投げ、逆に右利きだが左投げの投手には今中慎二がいる。長谷川が「(由規は)左投げだったら良かったんじゃないか」と言うが、伊藤は、「いや、もっと駄目だったんじゃないの?」とつれなかった。


    事前アンケートで客席からの質問を募集したのだが、長谷川が、「みんな優しい。『どうしてライアンを抑えに回したんですか?』という質問がない」と言って笑いを誘う。あの時点で「球に力があって、三振も取れて」というピッチャーがライアンしかいなかったため、抑えに起用したのだが、小川泰弘は怪我開けの上にリリーフの適性も欠き、七夕の夜のカープ戦で炎上して大逆転を許し、再び先発をやることになっている。

    「寺島(成輝)、高橋(奎二)、梅野(雄吾)は今年活躍しますか?」という質問には伊藤は「今の時点では難しい」と答えた。「高橋は(龍谷大)平安高校から入って3年目かな。その間、怪我でほとんど出られない」という状態である。昨年のフレッシュオールスターなどでは好投したが、「そのうち体が大きくなるかなと思ってたけど、そうでもない」そうで、体力がまだまだのようだ。高橋は「左のライアン」といわれるほどダイナミックなフォームで投げるのだが、それを支えるだけのパワーがまだないのだろう。

    「仲のいい外国人選手は誰ですか?」という質問に伊藤は「ハッカミー」と即答。「同い年」だそうである。ヤクルト在籍中は、「ブラット・ピット似の男前」といわれたハッカミーだが、伊藤は「今はデブのハゲだよ」という。
    今も連絡を取ってる外国人選手については伊藤は、「ハッカミー、バーネット」と続けるが、最後に「オンドルセク」と言って、長谷川も「オンドルセク?!」とオウム返しになる。オンドルセクは味方の守備のミスに激高してベンチから謹慎を言い渡されるもアメリカに帰ってしまい、そのまま退団したという選手である。伊藤によるとオンドルセクは「ヤクルト球団はまだ怒ってるのか?」と聞いてくるそうで、「(アメリカの球団との)契約が取れないんじゃないですか」とのことだった。

    外国人の話になったところで長谷川が、ヤクルトと横浜に在籍した投手で、スワローズ在籍中の2004年には開幕投手も務めたジェイソン・ベバリンの話をする。ベバリンは肘の怪我でヤクルトから自由契約になり、横浜に拾われたのだが肘は回復していなかった.。それでもベバリンは「投げたい」とベンチに直訴。当時の横浜の監督は投手出身の牛島和彦である。当然ながら無理はさせない方針だ。牛島は、「いいか、今投げたら今後投げられなくなるどころか、日常生活にも支障をきたすことになるかも知れないんだぞ。それでもいいのか?」と説き伏せようとしたが、ベバリンは、「いい! 僕は日本に遊びに来てるんじゃないんだ、投げに来てるんだ。投げる」と言って聞かなかったそうだ。
    「投手コーチとして、そういう選手がいた場合、伊藤さんは投げさせますか?」と長谷川は聞く。「僕は、投げさせます」と伊藤は断言する。投手の投げたいという本能にあらがうことは出来ないそうだ。

    もし怪我しなかったら、もしスポーツ科学の発達した現在、現役の選手だったら何勝出来るか、という話にも当然なるのだが、伊藤は「リハビリも含めて僕」、「勝ち星なんて自分の力でどうにかなるものでもない」ということで、「こだわりがあるのはイニング」だそうで、「200イニング投げたい」という話はしていたが、長谷川に「200イニング投げたら何勝出来ますか?」と聞かれ、「15勝ぐらいは」と答える。長谷川が、「15勝だったら今の時代なら最多勝じゃないですか」と話を振るも、伊藤は「たられば」の話には興味がなさそうな顔をしていた。

    そしてヤクルトで一番凄いのは石川雅規だという話になる。伊藤は、「ローテーションをきっちり守ってくれる。投手コーチとしてこれほど頼もしい存在はない」と絶賛。確かに投手も野手も怪我人が多く、誰かしらいないという中で石川だけはいつもいる。無事これ名馬の見本のようである。


    打者の話にもなり、伊藤は最も評価している現役のバッターとして読売ジャイアンツの坂本勇人の名を挙げ、「あの内角の捌き方は天才的」と評した。「ショートじゃなかったらもって打ててる」ということで、長年に渡ってスワローズのショートを守り続けていた宮本慎也の話にもなる。スローイングが上手かったそうで、「一場靖弘という出来の悪い子」よりも精密なコントロールを誇っていたという。ただ始めの頃はバッティングが苦手であり、「大体、宮本8番で、俺9番なのよ。その頃、俺、バントしたことない。宮本、塁に出ないから」


    関西では初のイベント出演となった伊藤智仁。関西に帰ってきた印象を長谷川から聞かれる。「周り全て、関西弁。変な歩き方してる兄ちゃんがいる」ということで関西らしいと思ったそうだが、「大阪と京都じゃ全然違うんで。京都の方がはんなりしてる」と言って、「また京都の人は、はんなりとか曖昧な言葉使うんだから」と突っ込まれていた。

    伊藤は最後に、「アウェーになるのかなと思っていましたが、こうしてみんな集まってくれて嬉しく思います。僕はもういなくなりますが、今年もヤクルトスワローズの応援を宜しくお願いします。そして、暇があったらたまに富山に……」というようなことを話した。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月 6日 (土)

    追悼 星野仙一

    2018年1月4日、元中日ドラゴンズの投手で、中日ドラゴンズ、阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルス、北京オリンピック野球日本代表などの監督を務めた星野仙一が死去。70歳。明治大学の大先輩である。

    現在の岡山県倉敷市に生まれた星野仙一。小学生の頃は足が不自由な同級生を毎日背負って登校したという話が有名である。また子供の頃は指導者に恵まれた環境にはなかったそうで、野球の指南書などを読み漁って独学で多くの技術を身に着けたそうである。

    倉敷商業高校に進んだ星野は好投手として注目されるようになる。この時代の岡山県にはプロで通算201勝を挙げた平松政次が岡山東商業に、東映フライヤーズで活躍する森安敏明が関西(かんぜい)高校にいるなど激戦区だったが、倉敷商業は岡山県予選を突破。ただ当時は1県1代表ではなく東中国地方大会を勝ち抜く必要があり、星野の甲子園出場は叶わなかった。

    倉敷商業卒業後に明治大学に進学。当時の東京六大学野球には、法政大学に田淵幸一、山本浩二、富田勝の「法政三羽烏」がおり、早稲田大学にはのちにチームメイトになる矢沢健一らがいるという華やかな時代。星野は明治大学のエースとして活躍。優勝とは縁がなかったものの大学野球屈指の好右腕という評価を勝ち得る。

    六大学野球の野球部というと、例えば法政の田淵幸一のように、大学に行くような素振りをして寮を出るもそのまま映画館に入り、映画三昧で帰ってくるというような不真面目な学生も多いが、星野は真面目に授業に出ており、成績も優秀であった。

    大学4年時には、巨人のスカウトから「ドラフト1位は田淵幸一で行くが、外した場合は君を指名する」という確約を貰っていた星野。だがいざドラフト会議が始まると、巨人は無名の高校生投手である島野修(プロ野球選手としてよりも阪急ブレーブスやオリックス・ブルーウェーブのマスコットの「中の人」として有名)をドラフト1位で指名。その報を知った星野は、「シマ野? ホシ野の間違いではないか?」と訝ったという。巨人は「星野は肩を痛めている」という情報を得ており、そのことが指名回避に繋がったようだ。実際、星野は肩を痛めたことがあったという。

    巨人の代わりにドラフト1位指名した中日ドラゴンズに入団。チーム事情で当初はリリーフに回ることが多かったが、その後は中日のエースナンバーである20を獲得し、先発にリリーフに大車輪の活躍を見せるようになる。

    長嶋茂雄や王貞治が語る星野は、「普段は礼儀正しい奴なのに、グラウンドでは人が変わる」
    闘魂を剥き出しにした投球スタイルから「燃える男」の異名を取るようになった。

    自身を裏切った読売ジャイアンツ戦に強く、「巨人キラー」と呼ばれた。また阪神タイガースにも強く、阪神の監督に就任する際の会見で飛び出した「現役の頃から阪神が大好きでした。沢山勝たせてくれましたから」という言葉は有名である。

    星野は快速球で知られたわけでも代名詞になる変化球があったわけでもない。気で抑え込む投手である。そのため現役を離れて以降は投手としてのスタイルが不明瞭になってしまったきらいがある。「星野仙一ってどんな投手だったの?」と聞かれても上手く答えられないのである。

     

    現役引退後は、NHKの野球解説者となる。グラウンドを離れるとやはり温厚な性格で、「仏の星野」とまで見られたが、中日ドラゴンズの監督に就任するや「鬼の星野」に激変。鉄拳制裁で知られるようになる。山本昌によると、「山崎武司やら今中やらが監督室に呼ばれて、口から血を流しながら出てくる」そうで、噂は本当のようだ。

    中日の監督として優勝2回、11年間でAクラス8度という監督としては優秀な部類に入る成績を残す。選手時代同様の熱い指揮姿により「闘将」と呼ばれた。

    その後、2001年に阪神タイガースの監督に迎え入れられる。星野を阪神の監督に推薦したのは前任者の野村克也だった。当時の阪神の選手たちには甘えが見られたようで、野村の著書『阪神タイガースの黄金時代が永遠に来ない理由』(宝島社新書)によると、「ヤクルトの選手はミーティングで話をよく聞いてくれた。楽天の選手もまあ聞いてくれたが、阪神の選手は聞いてくれない。しきりに時計を気にしていたりするが、この後、タニマチとの待ち合わせでもあるのか」という惨状。後任には「怖い人がいい」ということで星野を推したのだった。

    阪神タイガースの監督として2年目になる2003年に星野は胴上げ監督となった。

    北京オリンピック野球日本代表監督としては、大学時代からの付き合いである田淵幸一と山本浩二をコーチとして招き、結果が出せずに「お友達内閣」などと揶揄されたが、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督としては3年目の2013年に、この年24勝無敗という空前絶後の成績を残した田中将大などを擁してリーグ制覇。それまでは選手としても監督としても日本シリーズを制した経験がなく、「日本一とは無縁の男」と見る向きもあったが、この年の日本シリーズでは田中将大の熱投で相手の読売ジャイアンツをねじ伏せ、日本一を味わうことにも成功した。

     

    私自身は現役時代の星野のピッチングをリアルタイムで見たことはなく、せいぜい珍プレーとして知られる宇野勝のヘディング時のピッチャーとしての認識しかない。そのため、「星野仙一=監督」というイメージである。中日ドラゴンズの監督時代には自身の母校である明治大学の選手を積極的に獲得。中日における明大閥を更に進めたことには賛否両論あるだろう。ただ巨人の独走を阻むために、巨人移籍が濃厚とされていた落合博満を獲得したり、高卒ルーキーの近藤真一(現・近藤真市)の初登板を初先発で飾らせ、ノーヒットノーランまで達成させる、楽天監督時代にはルーキーの則本昂大を開幕投手に指名するといった大胆且つ耳目を引く起用が多く、球界を沸かせた。とにかく話題を生み出せる人だった。そして多くの人から慕われる人物であった。

     

    2004年に、星野仙一は母校である明治大学のイメージキャラクターの一人として広告に登場している。慕われるパーソナリティーを買われてのことだった。

    そんな星野が好んで揮毫する文字は「夢」。夢を見続け、夢に挑み続けた生涯であった。


    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月 3日 (水)

    笑いの林(97) 「新春よしもと寄席」2018

    2018年1月1日 道頓堀ZAZA HOUSEにて

    午後3時と午後5時から、道頓堀ZAZA HOUSEで、「道頓堀ZAZA 新春よしもと寄席」を観る。
    午後3時開演の回の出演者は、スーパーマラドーナ、斜に噛む、くるくるコミック、桜 稲垣早希、マルセイユ、モンスターエンジン(登場順)。午後5時開演の公演は、斜に噛むの代わりにエジソンが出演する。


    スーパーマラドーナ。
    武智が、「体格が良いのでスポーツ万能だと勘違いされる。全然出来ないのに。フットサルチーム入ってとか、草野球やってとか」というと、田中が、「僕はこう見えてスポーツ万能です」と言ってブレークダンスをしようとするが、寝転んでバタバタしているだけで、武智に「殺虫剤かけられた虫か、お前は?! ゴキブリか?!」と突っ込まれるも、「それ高校時代のあだ名」と応えて、武智「お前、いじめられてたやろ」 田中「いじめられてました」、「思い出させてすまんかった」となる。
    スポーツということで、プロ10年目のゴルファーがこれを決めれば初優勝というパットの実況中継をやる。だが、実況担当の田中は、「入りました。優勝です」と無表情な声で言って、「もっとテンションあげえよ!」と武智に突っ込まれる。2回目は田中が最初からハイテンションだが、全てを一息でいおうとしたため、パットが決まった瞬間は酸欠で何も言えなくなってしまう。
    1回目は借金取りネタを。2回目は業界用語ネタをやる。

    まず借金取りネタ。借金取りに扮した田中は、「ワイを誰だと思ってんのや? 浪花生まれの博多の島人(しまんちゅ)」と自己紹介して、武智に「どこの人? 転校生?」と突っ込まれる。
    ドアを蹴破って入るも、跳ね返ってきたドアに頭をぶつける。視力が悪くて誰がいるのかわからないといった失敗を田中は繰り返し、「お前の娘いるな、58歳の」と言って、武智に「年上過ぎる。もっと下や」とダメ出しされるも、「57歳の」と1歳しか下げない。二十歳の娘ということにするが、「上玉や。あの娘なら、コンビニで月10万は稼げる」と言って、「健全やな。風俗でええわ」と返され、「上玉や。風俗で月10万は稼げる」とやり直すも、「風俗で月10万しか稼げんって、不細工なのか?」と突っ込まれた。

    業界用語ネタでは、田中が「ちゃんねえ(姉ちゃん)とパンシャン(シャンパン)飲みたい」と、言葉を逆さにして業界風に話すのだが、松崎しげるが松崎しげらないになったりと、人名まで逆にしてしまう。ちなみに、「大学現役合格」の反対がイチローだそうで、武智に「あの人は落ちたわけやない。スーパースターや」と言われる。ちなみに、IKKOの逆は100KOになるそうで(武智「あんなの100人に囲まれたら何されるかわからない」)、郷ひろみの逆はストップひろみになるそうだ。
    またない任谷由実(松任谷由実を逆にしたもの)の「卒業写真」を田中は歌うが、サビが「わたしはいつでも近くで笑うわ」になる(武智が、「あなたは時々、遠くで怒って」と訳すが、最後は「怒って」ではなくて「しかって」である)。
    スーパーマラドーナの二人は、「ちょっとダルビッシュでした」と自己紹介して終わる。


    斜に噛むとエジソンは、若手の漫才コンビであるため、飛躍が多かったりと、まだ芸が板についていない。


    くるくるエンジン。2回とも銀行強盗ネタをやる。黒の服装で来いと言われたのだが、よね皮ホホ骨は最初は派手なジャケットで登場。2度目は「さあ、福島区のシンフォニーホールへ」と言って燕尾服姿で出てくる(ザ・シンフォニーホールがあるのは厳密には大阪市北区である。目の前までは福島区だけどね)。吉本の劇場とザ・シンフォニーホールの両方に通う人がいるのだろか? まあ、一人は確実にいるが。あ、今、不倫で話題のあの人も行くな。3度目は学帽付きの学生服で出てきてしまう。
    銀行に押し入る時も番号札を受け取ったり、「すんません、銀行強盗です」とやけに下手に出たりする。


    桜 稲垣早希。アスカのコスプレで登場。1回目は「貧乳」を2回目は「キスからはじめよう」をやる。
    「貧乳」であるが、ネタが飛躍しすぎて笑いないものが多い。「リュックを背負っている人は、スリのターゲットに遭います」というちょっと変な日本語で、「貧乳の人はリュックを前に抱えることが出来るけれど、巨乳の人はそれが出来ないのでスリに遭う」という最初の下りはわかるのだが、巨乳だとラーメンがすすれないだとか、流しそうめんが取れないということはまずないだろう。やくざの抗争で巨乳を撃たれて死ぬというのも新年に相応しくない。というわけで客席の反応も今ひとつである。
    「キスからはじめよう」は何度もやっているネタであるため安定感があり、受けはかなり良かった。ギャグアニメのキャラクターがキスする段になると突然劇画風イケメンになるのが可笑しい。今年も早希ちゃんはサイン入りの角切り餅を課題に答えてくれた人にプレゼントしていた。


    マルセイユ。ネタを見るのは久しぶりである。津田と別府という、なんとなく広島カープな感じの苗字のコンビである。
    別府がダンスを得意としているようで、2回とも別府のダンスが繰り出される。1回目はカップルのドライブデートで、2回目もデートネタ。2回目の冒頭では、別府が「彼女と食事に行ったときに、彼女の歯の間にニラが挟まっていて」と語りだし、「指摘したら彼女が帰っちゃった」というのだが、その時の様子を再現すると別府が「ニラ女! ニラ女!」と責めるというもので、津田に「そら帰るわ!」と呆れられる。


    モンスターエンジン。例によって西森が、「中小企業!」と叫んで、「技術!」と返して貰うというネタをやるのだが、西森は「どうせ大抵のお子さんは将来、中小企業に行く」と言って、相方の大林に「そんなことあらへんよ! 大企業に行くかも知れへんやん!」と返されるも、「ここに来ているような子には(大企業に就職できる可能性は)ない」と断言する。ちなみに2回目は西森は、「大量生産!」とやって、「それでも落とせない品質!」と返して貰うのだが、今日は私は返すかどうかは、相方の大林の動きを見て決めることにしている。ちなみにテレビでは3回目をやることもあるそうだが(返す言葉は「言われてみればそうかもね」らしい)、舞台で3回目をやるのは見たことがない。

    2回とも、結婚式での娘から両親への手紙朗読ネタをやったのだが、披露宴会場がなぜかサービスエリアの食堂だったりする。西森は、「覚えてる? 小学校3年生の時、日曜の午後にお父さんはゴルフ番組を見ていて、私が『他のチャンネル見たい』と言ったら、お父さんは『お父さんは隣の部屋でテレビ見てくる』と言って」と、大林に「覚えてへんよ!」と突っ込まれる些事を語ったり、反抗期に「お父さんの自転車のブレーキを壊したり、お父さんのコーヒーに洗剤入れたり」と過激になったり、「話しかけられても無視するようになって、お父さんが胸を押さえてうずくまっても無視した」と言って大林から「それ無視したらあかんよ!」と突っ込まれていた。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月 2日 (火)

    秋山智久 「人間の苦悩と人生の意味」

    https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180102212148.pdf?id=ART0009616432

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    1月1日 初詣に行ってきました

    もう昨日になりますが、初詣に行ってきました。
    今年も東山七条(大和大路正面)の豊国神社です。祭神:豊臣秀吉公。
    正月三が日は国宝の唐門をくぐって拝殿の前まで行って参拝できます。

    豊国神社唐門 内陣からの撮影

    内側から見た唐門。天気は良くもなく悪くもなくといったところ。
    相殿に祀られている豊臣吉子(北政所。寧々だかお寧だか寧だかいう方)さんにも直接お参りできます。織田信長公に「あのハゲネズミ(秀吉)があなた(北政所)ほどよい女を他に得られるわけがない」と絶賛された方なので、秀吉公より霊験あらたかかも知れません。

    豊国神社にて

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2018年1月 1日 (月)

    あけましておめでとうございます。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    « 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »