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2018年1月22日 (月)

もっと泣いてよフィッツジェラルド

※ この記事は2017年12月21日に書かれたものです。

スコット・フィッツジェラルド

 

1940年12月21日、アメリカの小説家、フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド(一般にはスコット・フィッツジェラルドで知られる)が死去。享年44。

ヘミングウェイらと共にアメリカの「失われた世代(ロストジェネレーション)」を代表する作家であるフィッツジェラルド。23歳にして『楽園のこちら側』でデビューし、前途洋洋かと思われたものの、時代の流れから取り残され、悲劇的な生涯を歩むことになる。

父方の遠縁に、アメリカ国歌「星条旗」の作詞者であるフランシス・スコット・キーがいるという名家の出身。若き日から美男子で知られ、成績が足りなかったものの美貌を買われてプリンストン大学に合格したという本当かどうかよくわからない話もある。

陸軍に所属していた時期に若く美しいフラッパーのゼルダと出会う。このゼルダとの出会いがフィッツジェラルドにとって転機となる。フィッツジェラルドが小説家になろうと本気で志したのは、ゼルダと結婚するためだったといってもよい。

作家として順調なスタートを切ったフィッツジェラルドであるが、自身とゼルダの浪費癖が災いし、常に金銭的問題に悩まされることになった。よく世間も知らないまま若くして作家デビューしてしまったこともマイナスに作用したと思われる。フィッツジェラルド本人は自虐的に「歯医者の待合室での退屈な三十分を共に過ごすにはうってつけの作家」と考えていたが、やがて小説は売れなくなり、歯医者の待ち時間を過ごすための作家ですらいられなくなって、フィッツジェラルドも方向転換を迫られることになる。

一方のゼルダも、フィッツジェラルドの妻というポジションだけにとどまるつもりはなく、幼い頃からレッスンに励んだわけでもないのにバレリーナになろうとしたり、画家を志したり、夫を同じ作家を目指したりするもことごとく失敗(1000部ほどしか売れなかった)。精神を病むようになった。

フィッツジェラルドは、生活のためにハリウッドに渡る。ハリウッド映画の脚本家、といえば聞こえはいいが、文芸大作などにはなかなか起用されず、意に染まない台本を書くのが彼の仕事だった。思うような本が書けないことへの苛立ちから彼はアルコールに溺れ、それが元で命を落とすことになる。

スコット・フィッツジェラルドは、村上春樹が最も影響を受けた作家の一人である、村上春樹は短編集『マイ・ロスト・シティー』や代表作である『グレート・ギャツビー』を翻訳。また『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』という案内本も著している。

「グレート・ギャツビー(華麗なるギャツビー)」は実に5回も映画化されている。その中ではロバート・レッドフォードが主演した3度目の映画化(アカデミー賞衣装デザイン賞受賞)が最も有名であるが、レオナルド・ディカプリオが主演した5度目の映画化も話題を呼んだ。

「最もアメリカ的な小説家」と称されるフィッツジェラルド。だが真に高い評価を得るのは彼が亡くなってからである。享楽的なジャズエイジという「アメリカの青春の時代」を生きた彼の作風は、その後のアメリカの流転を経て、再び注目されるようになった。

ある意味時代のあだ花であったフィッツジェラルドは、あたかも過ぎ去った時代に対する郷愁のように今では読む人を惹きつけている。

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