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2018年1月23日 (火)

油小路の変 新選組崩壊への道程

※ この記事は2017年12月13日に書かれたものです。

 

伊東甲子太郎

慶応3年11月18日(1867年12月13日)、新選組元参謀(ナンバー2)で、御陵衛士首座の地位にあった伊東甲子太郎(新選組脱退後は伊東摂津と名前を変えていますが、紛らわしいので伊東甲子太郎で統一します)が、新選組局長・近藤勇の私邸での酒席に臨んだ帰りに大石鍬次郎らに襲撃され、油小路の本光寺門裏にて絶命するという油小路の変が起こりました。坂本龍馬暗殺の3日後の出来事です。大石鍬次郎は維新後に伊東暗殺を自白したため、打ち首となっています。

新選組隊士らは、御陵衛士の殲滅を企図し、「士道に背く」ととれる行動に出ます。伊東の遺骸を七条通まで運んで放置。御陵衛士隊士たちが伊東の亡骸を引き取りに来るのを待ち伏せして襲撃し、全滅させようとします。御陵衛士に加わっていた藤堂平助(津・藤堂家のご落胤説あり)は、新選組結成以前の江戸・試衛館時代から近藤の盟友であったため、二番隊組長・永倉新八や十番隊組長の原田左之助らに「平助だけは見逃せ」と近藤や土方からの指示が出ていたといわれていますが、藤堂は逃げることを潔しとせず、討ち死にして果てました。新選組と御陵衛士の戦闘現場となった七条油小路には、御陵衛士らの指など体の一部がいくつも転がっていたと伝わっています。かつてのナンバー2と以前からの盟友が他界することになったこの事件は新選組の終焉を早めた事件とみなすことが出来るように思います。

さて、伊東甲子太郎とは何者かという問題から入りたいと思います。坂本龍馬が暗殺される直前、潜伏先の河原町・近江屋を伊東が訪ねていることがわかっています。伊東は坂本に「新選組があなたの命を狙っているので気を付けるように」との忠告を行ったといわれています。身を潜めていた時期の坂本と会うことが出来ているため、二人が親しい、少なくとも互いの顔を知っている間柄であったことがわかります。

伊東甲子太郎は、最初の名を鈴木大蔵といい、新選組九番隊組長であった鈴木三樹三郎の実兄です。常陸国の出身で水戸で学んでおり、実は近藤によって壊滅させられた芹沢鴨ら水戸派と近しい尊王思想の持ち主でした。江戸に出て、伊東誠一郎に剣術を学び、実力を認めれて師の婿養子となり、伊東大蔵として伊東道場の主となりました。この時期に伊東道場に通っていたのが藤堂平助であり、伊東と藤堂は子弟の関係となっています。伊東の新選組入隊を斡旋したのは藤堂と見てほぼ間違いないと思われます(藤堂平助が伊東に新選組乗っ取りを持ち掛けたという話がありますが真偽不明)。新選組に入隊したのが元治元年が甲子の年であったため、伊東は甲子太郎を名乗ります(「かしたろう」と読みますが、永倉新八はなぜか「きねたろう」を間違って記憶していました)。

伊東は新選組加入に際して実力を大いに認められ、いきなりナンバー2の座として新設された参謀に就任、文学師範も兼任します。それまでのナンバー2は総長の地位にあった山南敬助(さんなん けいすけ)でしたが、伊東の参謀就任により山南は隊内での求心力を失い、切腹へと追い込まれたとする解釈も存在します。

問題は伊東甲子太郎という男の在り方でした。水戸に学んだ伊東甲子太郎は強烈な尊王思想の持主。しかも当時において英語を話し、町を歩けばすれ違う女がみな振り返るといわれるほどの美男子でもありました。同じ美男子でも尊王佐幕で本格的な学問に励んだことのない土方歳三や、同じく尊王佐幕で「御公儀(徳川家)第一」「攘夷」を掲げる近藤勇から見ても文学師範として夷狄の言葉である英語を教え始めた伊東は面白い存在ではなかったはずです。新選組の主導権を伊東に奪われるのではという危機があったかも知れません。

そもそも伊東の新選組入隊の目的は、新選組の戦力をもって朝廷の私兵たらしめるためだったと言われており、まさに清河八郎斎藤正明の建策と軌を一にするものでした。

新選組では脱退は御法度でしたが、近藤も危険人物とみなすようになった伊東の「孝明天皇の陵を守る隊として独立したい」という提案は、平和裏に袂を分かつ手段として体面的には望ましいことだったでしょう。

しかし、新選組の分裂はこれで三度目になります。京都に着いてすぐの新徳禅寺での清河八郎との決別、芹沢鴨ら水戸派の粛清(その前に殿内義雄暗殺もありました)、そして伊東一派の離脱です。伊東には近藤子飼いの藤堂平助も同行。近藤にとってみれば愛弟子に背を向けられたようなものです。このまま行けば新選組の空中分解は避けられそうにありません。新選組三番隊組長で、沖田総司と双璧をなすとまでいわれた剣の使い手である斎藤一をスパイとして御陵衛士に送ったというのはほぼ間違いないでしょう。さすがに本当に斎藤が離反したのだとしたらこの時点で新選組は王手をかけられたことになりますので。

伊東甲子太郎の暗殺に近藤が直接的な命令を下したのかは今でもわかっていません。ただ、私邸の酒宴に呼び出し、酔わせてから暗殺するという手段は芹沢鴨暗殺に似たものがあり、関与を匂わせています。

幕末を駆け抜けた剣豪集団であり、歴女たちのアイドルでもある新選組ですが、その歴史は粛清の歴史であり、その過程も手段も似ています。邪魔になる相手は斬る。それも徹底的にです。新選組が私的警察であり、御公儀に逆らう者の捕縛と最終手段としての殺害を受け持っていたということから、そうした性質を持つのも当然なのかも知れません。しかし味方に対しても容赦なく牙をむき、殲滅を目指す組織が長続きするはずがないのです。三度目の同士討ちを行ったこの時点で新選組の命運は尽きたのかも知れません。その後、新選組は西本願寺に勝手に屯所を移し、その後、新選組を煙たがった西本願寺の出費により(つまりお金を払ってでも出て行ってほしかった)不動堂村に大名屋敷並みといわれた屯所を築きますが、壬生時代のような栄光を取り戻すことは一切できず、約5年という短い歴史に幕を下ろします。

坂本龍馬という人物に関してはまだ謎の部分も多いのですが、彼が合議制による新世界を目指していたことは間違いのないところです。龍馬一人のみならず、時の将軍である徳川慶喜もまた幕藩体制ではなく多くの意見によって築かれる新時代を模索していました。本来、徳川を守る存在であった新選組は徳川将軍家と幕臣たちの意図を汲めず、完全に時代を見誤っただけでなく、隊の保身のために邪魔者を排除し続けるという旧態依然の象徴的存在になってしまいました。ある意味、時代のあだ花です。

実は新選組はその知名度に比して、歴史的な研究がほとんど進んでいない組織としても有名です。歴史家の間では「研究に値しない団体」とまでみなされており、研究対象として注目されるようになったのは、2004年の大河ドラマ「新選組!」放送以降です。

その武勇がクローズアップされがちな新選組ですが、私はむしろ「新選組はなぜ瓦解したのか」に注目したいと思います。会津中将松平肥後守容保からの覚えも目出度く、トップ(近藤勇)とその片腕(土方歳三)が農民階級出身でありながらほぼ全員が幕臣に取り立てられるという異例の出世を遂げた、ある意味「夢の組織」「成功したベンチャー」であった新選組。しかし、「邪魔無駄排除」という思想によって命を縮めました。

邪魔なものや無駄なものを排除する。これは、昨今吹き荒れている新自由主義の発想に似てはいないでしょうか。「スリム化」の美名のもと、多くの企業が無駄を排除する経営を行っています。無駄を許容する体力がないということでもありましょう。しかし世界は多くの無駄なものによって形成されているのです。「排除の理論」が通ったら果たしてどうなるのか。

「排除」という言葉を使ってしまったため選挙に惨敗した政治家がいました。その敗北の姿は新選組にも重なるような気がするのです。

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