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2018年1月21日 (日)

外国語を学ぶということ

私も人と同じように義務教育で英語を勉強しました。今は小学生から英語を学ぶようですが、私の時代は英語の授業が始まるのは中学校からでした。苦手ながらも中学高校と英語を学び、大学受験のための勉強もして、大学でも3年ほど英語を学びました。

第二外国語では中国語を取りました。アルファベットで書かれた言語が苦手だったということもありますが、1989年6月4日の第二次天安門事件をリアルタイムで目撃したものとしては、中国という大国の謎の一端に触れてみたいという思いもありました。

中国語の学習は自分に向いているように思いましたので、授業のみでなく、NHKの外国語講座テキストを買って勉強したり(当時はまだ音声ソフトはCDではなくカセットテープでした)、中国語の短編小説を買ってきて読んだり、チャイニーズポップの歌詞を翻訳したりしていました。

しかし、中国語の学習に自分が向いているというのは、結局のところ誤解だったように思います。その後色々あって私は中国語の学習をやめました。

大学に入ってすぐの頃、村上春樹の『やがて哀しき外国語』というエッセイ集を読みました。高校生の頃からペーパーバックを読み漁り、現在では英米文学の翻訳も手掛けている村上春樹が、「アメリカ人なら子供でも自分より流暢な英語を話す」、「ラジエーターって英語でなんていうんだっけ」という経験をして、残された時間を考えると外国語学習よりもずっと優先すべきことがあると考えるに至るまでが描かれています。

私も「やがて哀しき外国語」という思いは強いです。今はもう外国語学習への意欲も割く時間もありません。

では、外国語を学んだ時間は全くの無駄だったのでしょうか。

そうは思っていません。外国語を学ぶ第一の意義は、外国語を使って他の文化圏の人々とやり取りをすることですが、そもそも日本語のコミュニケーションが苦手で、日本人相手でもうまく話せないという人、私もそれに当てはまるのですが、そういう人はいくら外国語を学んでも上手く話せるようにはなりません。もしコミュニケーション能力を高めるために外国語を学びたいという人がいたらそれは本末転倒な気がします。

しかし、外国語でのやり取りをすることだけが外国語を学ぶ目標ではありません。言語とは思考体系です。その言語でしか思考しえない事柄というものが存在します。日本語にはあっても外国語にはない言葉や言い回しがあり、逆もまた然りです。

日本語だとうまく理解できない文章があったとします。しかし、その文章を英語や中国語に置き換えるとすんなりと理解できるというケースは案外多いのです。新たな思考形態を得たことで文章に対する新たなアプローチ方法を獲得し、結果として読解力は飛躍的に上がります。

読解力が上がればあらゆる方面に関する理解力、分析力も当然ながら上昇します。ひいては世界を把握する力そのものが変わるのです。

世界は言葉で分析できます。世界が分析できれば世界そのものは変わらなくても世界観と世界に対するアプローチが変化します。

外国語を学ぶということは、世界と己の関係を転換させることでもあるのです。

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