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2018年2月 5日 (月)

コンサートの記(342) 細川俊夫 オペラ「班女」2018広島

2018年1月28日 広島市のJMSアステールプラザ中ホールにて

午後2時から、JMSアステールプラザ中ホールで、細川俊夫のオペラ「班女(はんじょ)」を観る。2004年にフランスのエクスプロヴァンス音楽祭で初演されたもの。原作は三島由紀夫(『近代能楽集』より「班女」)、台本・作曲:細川俊夫、テキスト英語訳:ドナルド・キーン、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)。川瀬賢太郎指揮広島交響楽団の演奏。出演は、柳清美(ユウ・チョンミ)、藤井美雪、折河宏治(おりかわ・ひろはる)。



私の初舞台は『近代能楽集』に収められている「綾の鼓」なのである。演出は観世榮夫と無駄に豪華であった。その時の観世榮夫はもう相当なお年だったのだが、鼓を投げ渡す時のアイデアなどは上手くはまり、「やっぱり凄いんだな」と皆で確認したものである。ちなみに私が演じた藤間春之輔は女形という設定だったのだが、どう考えても私に女形は無理なので、デフォルメして普通じゃない人を勝手に演じてしまった思い出がある。

三島由紀夫の「班女」は初演時には英訳したもので行われている。原典は世阿弥の「班女」。美濃国の遊女・花子が吉田少将なる人物と恋に落ち、扇を交換して別れたことに端を発する物語で、二人は京で再会することになる。この花子は狂言「花子」にも登場、更に歌舞伎舞踊「身替座禅」へと転じている。「花子」の主人公や「身替座禅」の山陰右京のモデルは後水尾天皇、怖ろしい奥さんのそれは東福門院和子といわれている。私は「身替座禅」は二度ほど観ている。

武満徹亡き後、海外で最も名を知られた日本人作曲家の一人となっている細川俊夫。広島市の出身で、国立音楽大学中退後、渡独。ベルリン芸術大学で尹伊桑(ユン・イサン)に師事。その後、フライブルク大学でも学んでいる。

能舞台を使用。橋懸りの下に広島交響楽団の楽団員が陣取る。開演前に本田実子(じつこ)役の藤井美雪が能舞台の上に現れ、新聞紙をハサミで切り刻んでいく。
下手から指揮者の川瀬賢太郎が現れ、演奏がスタート。この上演では冒頭と第4場で地下鉄の駅で録音された轟音が鳴り響く。騒音の暴力性と21世紀の環境を感じさせる音として細川が指定したものである。

細川俊夫は個性が強い作曲家であり、その作品には「細野節」ともいうべき音響が刻印されている。今回もキュルキュルと鳴る弦楽の音に細野らしさが宿っている。特徴なのはバスフルートの用い方で、尺八に似た音を出しながら随所で効果的に用いられていた(フルート:森川公美)。
日本センチュリー交響楽団を経て広響コンサートミストレスに就任した蔵川瑠美を始めとする弦楽群が鋭く且つきめ細かい響きを発し、夢と現の間を彷徨うかのような音像を作り上げていく。

英語による上演であるが、セリフの部分にはところどころ日本語が用いられており、対比の手法が用いられている。そういえば三島由紀夫と親交のあった観世榮夫も「もっと対比させろ!」と言っていた。

恋い焦がれて狂女となった元遊女の花子(柳清美)と彼女を独占しようと企む四十路の売れない画家・実子(藤井美雪)の名前からして「花と実」という好対照のものである。花のように咲いては散ってしまいそうな儚い花子と、毒々しい生命力を持つ実子のコントラストの妙である。

実子は夢見る存在の花子を囲って、いわば隠棲のような暮らしをしている。それが新聞報道によって掻き乱されるのだが、今回の上演では実子はラップトップパソコンを使って情報収集しているという設定である。また花子を「奪いにくる」吉雄(折河宏治)は タブレット端末を手に登場。あたかも「情報化社会」=「正義面した外界」の化身のようだ。

私個人の話になるが、インターネットを始める前、二十代前半の頃と今を比べると、情報が手軽に入るようになってからは便利になったが、人間の核になる部分が―「実」と言い換えてもいいかもしれないが―薄くなったようにも思えるのだ。ある意味、情報の洪水に押し流されて掻き乱されて、「間違えようがなく私個人である部分」 が不鮮明になったというべきか。前回、広島に来たときはまだガラケーを使っており、広島駅で降りてすぐに駅ビルの書店で広島の観光案内を買ったのだが、今回はスマートフォンでなんでも検索できてしまうので楽なのは楽なのだが、「生きている手応え」のようなものを感じにくくなっているような気もするのだ。 「自我が外部に浸食されている」。そして普段はそれを感じなくなってしまった恐怖が、こうした作品に触れることでふいに突きつけられたように思える。

岩田達宗の演出は、情報過多な世界と浸食される人間の内面の競り合い、つまり内外の戦いを前面に出したものだが、もし私が同様の演出をするなら(同様の演出はしないと思うが)、すでに半ばハイジャックされた形の内面における内々の葛藤、そして内部にいる「他」の排斥と自己の回復(内戦)を描いたと思う。そこが違いである。おそらく私がSNSを徹底して使い倒すタイプだからだろう。
藤井美雪演じる実子は感情の激しい人物として描かれており、三島のテキストから見てもこれは妥当なのであるが、これも私だったら氷のように凜然としている女として舞台に立たせたい。単純にクールな女が打ち崩されていく様が見たいということでもある。

そして自分が花子=「夢見ることを許されている存在」に肯定されていくのだ。

細川俊夫、岩田達宗、川瀬賢太郎によるアフタートークでは、ラストがハッピーエンドなのかどうかという話になっていたが、私が思うに実子に関しては「そこにしかいけないよね」という印象が強い。嵌まるべき場所に嵌まったということだと思う。社会的にはともかくとして文学的にはそれは大団円だと言えるのだろう。「許された存在」によって「許された」のだから。
柳清美の可憐さ、藤井美雪の恐ろしさ、折河宏治の存在感などもありキャストについては演劇的には満点である。なお、藤井美雪は福山市在住(広島市中区幟町にあるエリザベト音楽大学声楽科講師)、折河宏治は広島市在住(同じくエリザベト音楽大学准教授)で地元キャストが活躍している。昨日の上演でも吉雄役は広島市在住の山岸玲音(やまぎし・れおん)が歌っており、広島音楽界の充実がうかがえる。


アフタートークでは、細川俊夫が広島交響楽団の演奏について「これまで60何回演奏された(「班女の)演奏の中で最高」と褒め称え、賞賛を受けた指揮の川瀬賢太郎が冗談でガッツポーズを繰り出す場面があった。川瀬は「班女」がオペラ指揮デビューであり、同じオペラの再演で指揮を執るのも今回の「班女」が初めてだそうである。
演出の岩田達宗が川瀬と初めて一緒に仕事をしたのはモーツァルトの「フィガロの結婚」だそうだが、フィガロと「班女」の共通点についても語った。また能の仕草の内実についても語り、能舞台がキャストに与えた影響についても話していた。岩田は能や歌舞伎の要素を取り入れた演出を行うことが多いのだが(奥さんの影響らしい)、今回、能舞台を使った演出をすることで、「倒錯」ともいうべき状態が起こっていたことも明かされた。

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