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2018年3月の29件の記事

2018年3月29日 (木)

没後100年 ドビュッシー アニメーション「月の光に乗せてたどるその生涯」(ピアノ:チョ・ソンジン、アニメーション制作:アンディ・ポッツ)

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コンサートの記(366) 広上淳一指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2017(年度)「魔法のオーケストラ」第4回“音楽の魔法”

2018年3月25日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2017(年度)「魔法のオーケストラ」第4回“音楽の魔法”を聴く。今日の指揮者は京都市交響楽団常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一。ナビゲーターはガレッジセールの二人。

本番に先駆けてロビーコンサートがある。京響の各奏者が自分たちのパート以外の楽器に挑戦していたが、ラストに登場する出雲路橋カルテットのメンバーとして広上淳一が登場、モンティの「チャルダッシュ」でピアニカ(鍵盤ハーモニカ)でソロを取る。アゴーギク使いまくりのユーモラスな演奏。京響のメンバーもロビーにいて演奏を聴いており、私の近くには中山航介君(この間、出原さんに付き合って女装してコンサートに参加したらしい。京響も最近は飛んでるなあ)がいたのだが、ずっと笑いっぱなしだった。
スマホで映像を撮っている熱心な人がいるなあと思ってよく見たら大阪フィルハーモニー交響楽団の福山修事務局次長であった。大阪フィルでもこうした試みは行いたいだろう。


今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。京響の二人いるコンサートマスターのうちの一人である渡邊穣はこの3月で卒団。泉原も指の怪我から復帰して半年ほどで調子は十全ではないと思われる。尾﨑平のアシスタント・コンサートマスターからの昇格もなさそうである。ということで、新たにコンサートマスターを連れてくる必要がある。泉原が怪我で1年ほど抜けていた間に何人か客演のコンサートマスターが試されたが、合格者がいたのかどうかはまだわからない。


今日の演目は、ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」よりメインタイトル、ベートーヴェンの交響曲第5番より第1楽章、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲より第1楽章(ヴァイオリン独奏:辻彩奈)、ブラームス(シュメリング編曲)のハンガリー舞曲第5番、チャイコフスキーの交響曲第5番より第4楽章。


先日、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団への客演で大成功を遂げた上淳一。すでに次回の客演も決まったという。


ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」よりメインタイトル。スケール豊かなシンフォニックな演奏であり、映画音楽というよりクラシックの音楽作品と捉えたような立派な出来である。リズムと響きのバランスにも広上らしい明晰さが見られた。

演奏終了後、ガレッジセールの二人が登場。ゴリが「あそこの窓から見てたんですが、広上さんがだんだんヨーダに見えてきた」と言うと広上は「ヨーダのようだ」と冗談を言って、ゴリに「先生、今日、最初から飛ばしますね!」と言われる。

広上が、「ゴリちゃん、川ちゃん、二人はなんで漫才師やってるの?」と聞き、川田が「僕らは楽しいからやってます」と言うもゴリが「正直、お金になるから」と言って、川田に「最低だな、お前!」と突っ込まれる。広上は、「舞台に出るのが楽しいからやってるんでしょ。僕らもそうなんです」と言う。

続いて、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」の楽曲解説。ベートーヴェンの父親がDVを行っていたという話から始まる。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの父親であるヨハン・ヴァン・ベートーヴェンは有能なテノール歌手だったのだが、「ここぞという時にいつも失敗してしまう」ということでうだつが上がらず(酷い上がり症だったという説もある)その不満を息子にぶつけていた。ベートーヴェンの祖父は同じ名前のルートヴィヒでボン市の音楽長を務めた名音楽家。そのためベートーヴェンの母親は息子がDVに遭うたびに祖父の話をして慰めたと広上は語る。ヨハンにしてみれば父親も名音楽家、息子も名音楽家でそのために余計ストレスが溜まったという話もあったりする。
「運命」の冒頭のジャジャジャジャーンは父親との決別を描いたものという説を広上は明かす。

ベートーヴェンの交響曲第5番は広上の十八番の一つであり、京響でも何度も取り上げているが、今日の演奏は三連符を強調するような、これまでに聴いたことのない解釈であった。


メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。ソリストの辻彩奈は、1997年生まれの新進ヴァイオリニスト。岐阜県大垣市に生まれ、2009年の第63回全日本学生音楽コンクールヴァイオリン部門小学校の部で全国1位を獲得。2013年の第82回日本音楽コンクールヴァイオリン部門でも1位を獲得。2015年の第11回ソウル国際音楽コンクールで第2位(最高位)、2016年のモントリオール国際音楽コンクールで優勝と若くして華々しいキャリアを誇っている。現在は東京音楽大学に特別特待奨学生として在学中。1年後にアンサンブルホールムラタでのリサイタル開催も決まっている。

真っ赤なドレスで登場した辻彩菜。話すのは余り得意ではないようで、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲に関しても、「誰でも一度は聴いたことあります。よね?」と広上に聞いて、ゴリに「なんで一々、広上先生を頼るんですか?」と突っ込まれていた。ゴリは辻を「恥ずかしがり屋さんですね」と評したが、広上は「ヴァイオリンはそうじゃない」と答える。

辻のヴァイオリンであるが、高音の切れ味と輝かしい音色、きっぱりとした歌い方が特徴である。二十歳にしてはかなり音楽性が高い。パウゼの取り方も独特である。


後半。ブラームスのハンガリー舞曲第5番。広上はガレッジセールの二人を指揮台のそばに立たせたまま序盤を指揮。ゆったりとしたテンポからアッチェレランドしていく演奏である。広上は左手でゴリの顔を撫でるように指揮しておどける。続いて、「ブラームス先生が書いたとおりに」ということでインテンポの演奏を行う。楽譜に全てが書けるわけではなく、解釈の余地があるということを示したのであるが、全曲演奏することなく次のチャイコフスキーの曲に進んでしまおうとする。京響の楽団員達は顔を見合わせていた。
実際にブラームスがどんな演奏を望んでいたかを知る術は最早なく、ブラームスがタイムマシーンに乗ってここにやって来たら、「広上! なに勝手なことやってんだよ!」と言われるかも知れないし、「よく理解してくれた」と褒められるかも知れないと語る。「我々はブラームス先生の思いを『忖度』して演奏するだけ」
ハンガリー舞曲第5番全曲の演奏であるが、まずは自然体でスタートし、再現部でタメにタメてアッチェレランドというスタイルであった。


チャイコフスキーの交響曲第5番第4楽章。広上は鞄を持ってきており、中から別のジャケットやらカツラやらサングラスやらを取り出す。まずは金髪アフロのカツラを被り、サングラスをしてロシア人指揮者「ヒロカミンスキー」に扮して疑似ラスト付近の部分を演奏する。本編の疑似ラストで拍手が起こるのを防ぐ狙いもあるだろう。だがサングラスをしたため楽譜が見えず、練習番号を確認していたりする。カツラやサングラスは昨日、LOFTで買ってきたそうだ。
ヒロカミンスキーの演奏。新即物主義的な解釈であり、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団の前身であるレニングラード・フィルハーモニー交響楽団に半世紀に渡って君臨したムラヴィンスキーを意識した演奏を行っていることがわかる(チャイコフスキーの交響曲第5番はエフゲニー・ムラヴィンスキーの十八番である)。
今度は、茶髪でロン毛のカツラを被り、「日本人指揮者、名前は言いませんが、こういう髪型をした」ということでコカミを名乗り、濃厚な演奏を行う。明かされることはなかったが、どう考えてもコバケンこと小林研一郎の物真似である(チャイコフスキーの交響曲第5番は小林研一郎の十八番でもある)。
同じ曲でもイメージが大きくことなることを示した後で、広上指揮京響のオリジナルの演奏。今日はどこかを強調するということはなく比較的端正な演奏であった。


アンコールはチャイコフスキーの「白鳥の湖」より「スペインの踊り」。比較的短い曲だが、曲調の変化を丁寧に描き分けた演奏となった。

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2018年3月28日 (水)

レナード・スラットキン指揮デトロイト交響楽団 ガーシュウィン 「パリのアメリカ人」

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ロームシアター京都 「いま」を考えるトークシリーズ Vol.4「AI(人工知能)と音楽の未来」

2018年3月24日 ロームシアター京都3階共通ロビーにて

午後5時から、ロームシアター京都3階共通ロビーで、「いま」を考えるトークシリーズ Vol.4 「AI(人工知能)と音楽の未来」を聞く。作曲家で情報科学芸術大学院大学(IAMAS)の教授である三輪眞弘と、ソフトウェア技術者でNTTデータセキスイシステムズに勤務する山崎雅史によるトーク。

三輪眞弘は1958年生まれ。東京都立国立高校を卒業後、ベルリン国立芸術大学に進学。子供の頃から音楽をやっていたというわけではなかったので日本の音楽大学に進める可能性はほぼなかったが、ベルリン国立芸術大学は実技必須ではなかったため入学できたという。ベルリン国立芸大では尹伊桑に師事。その後、ロベルト・シューマン音楽大学にも学ぶ。「あかずきんちゃん伴奏機」という作品集のCDでデビューしたが、「レコード芸術」詩で推薦も準推薦も得られず、がっかりコメントが載ったこともある。その後、芥川作曲賞、芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞している。

山崎雅史は早稲田大学で西洋哲学を専攻。エマニュエル・レヴィナスを研究し、佐藤眞理人に師事するが、構造主義を減ることでコンピューターに魅力を感じ、NTTに入社。入社時はプログラミングの知識はなかったが、その後、コンピューター部門の第一線で活躍するようになる。また音楽にも造詣が深く、マーラーや現代音楽についての論評を行うほか、共感覚(音に色が付いて見えるという特殊能力。ランボー、シベリウス、スクリャービンなどが共感覚を持っていた)の持ち主でもある。

AIの技術だが、山崎によると、「5年前には囲碁でコンピューターが人間の名人を任すにはあと20~30年は掛かると言われていたのが、ついこの間、コンピューターが囲碁の名人に勝った」ということで日進月歩であることがわかる。
三輪はコンピューターを使って作曲しているのだが、プログラミングして作曲した作品を、必ず人間の体を通して発表する(例えば人間が演奏する)ことにしており、「逆シミュレーション音楽」と称して、コンピューターで作った音楽に物語を与え、架空の伝承などを作るなどして色づけを行っており、コンピューター音楽でありながらコンピューター音楽そのものに留めないような工夫を行っているようである。

山崎はずっとAIに携わってきたため、「AIは春の時代と冬の時代の繰り返し」だと述べる。今のAIに繋がるものが始まったのは1950年代。クセナキスなどはいち早く、コンピュータを取り入れた作曲を行っている。日本では1980年代に国家プロジェクトとしてAIに取り組んだが結果として上手くいかず、その後、冬の時代に突入。現在では情報を大量に取り入れるシステムを構築したことでまた春の時代になりつつあるそうである。

作曲に関しては、J・S・バッハの全ての宗教曲の全てのデータを読み込み、バッハらしい楽曲を作ろうと思えばすぐに出来る水準、またWaveNetでは音声そのものを認識して、譜面ではなく、音としてそれらしいものの作曲が可能になっているという。

ここまで発達したAIによる音楽だが、「AI芸術は可能か」という問いには二人とも否定的である。山崎はコンピューターはデータの取り入れと分析、楽曲の模倣は出来るが「意外性のあるもの」に弱いため、「次はもっと良い作品を書こう」といった意思や「新しい楽曲を書こう」という挑戦力に欠けるため、人間の作曲の水準にはならないというような結論を出し、三輪は「機械が音楽を聴く」ということ自体に否定的であった。
コンピューターは体を持たないため、寿命や死などという観念を持ち得ず、そのため過去や未来に対する想像力を欠きがちで、そのことが芸術的活動においてマイナスとなるようである。

囲碁でコンピューターが人間に勝ったというが、コンピューターは自身が囲碁をやっているという意識があるのかということ自体が問題だそうで、仮にコンピューターが独自に作曲をしたとして、その行為自体をコンピューターが作曲と認識するのかというのもやはり疑問になると思われる。

人間は、意識と無意識を巧みに使い分け(山崎が紹介したジュリアン・ジェインズによると、実は3000年ほど前のイーリアスの時代の西洋人の意識は現代人とは違ったものだったそうで、片方で神の言葉を聞きながら、もう片方で人間としての行動を司るという意識(二分心というそうだ)だったようだ。神の声というのは幻聴らしい)、無意識の要素を整序して意識化し、それを創造に生かしたりも出来るのだが、コンピューターにはそもそも意識も無意識もないため(無意識ということを意識できるのは意識というものが確固としてあればこそである)、人間並みの創造力を発揮するのはほぼ永久に不可能だということになるようだ。

意識・無意識というのはフロイトの提唱に始まった比較的新しい学問であり、科学のベースで人間の心を探究するにはまだ道半ばであり、フロイトやユングの考えもまだ十分に点検出来ているわけでもないようである。なお、コンピューターの意識・無意識の把握については三輪と山崎の間で相違が見られ、三輪が「音楽を聴いて感動するのは無意識によるものだがコンピューターには意識しかない」としたのに対して山崎は「コンピューターがやる囲碁のようなものは全て無意識」と認識しているようである。コンピューターには意識の顕在化というものがないという解釈のようだ。

人間個人が把握できない人間の意識と無意識の豊穣さが、ある意味、芸術活動に貢献しているような気もする。



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2018年3月27日 (火)

観劇感想精選(236) 文楽京都公演2018「桂川連理柵」より“六角堂の段”“帯屋の段”“道行朧の桂川”

2018年3月23日 京都府立文化芸術会館にて観劇

午後4時から、京都府立文化芸術会館で、文楽京都公演「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」を観る。今回の文楽公演は「桂川連理柵」と「曽根崎心中」の二本立てなのだが、「曽根崎心中」の方はスケジュールが合わず諦める。以前に「曾根崎心中」は2度観たことがある。

「桂川連理柵」はタイトルからも分かる通り、桂川のある京都が舞台となっている。帯屋の主である長右衛門38歳が隣の信濃屋の娘お半14歳と恋仲になってしまうという、今ならそれだけで犯罪という話だが、お半は長右衛門の子を宿しており、長右衛門は金策と大名から預かった刀剣の紛失で追い詰められ、心中を選ぶことになる。
長右衛門には義母のおとせと義理の弟である儀兵衛がいるのだが、この二人が実に嫌な人物として描かれている。
後半である「六角堂の段」「帯屋の段」「道行朧の桂川」の上演。20分弱の六角堂の段の後に15分の休憩が入り、その後はラストまで通される。お絹に横恋慕する儀兵衛とお半に恋している長吉の動きがコミカルだ。主遣いが冷静な表情でコミカルな動きを付けてるので更に可笑しくなる。「洟垂れ」などと言われる長吉はピエロそのものでああるが、儀兵衛にもそうした要素はある。
長右衛門が最後までお半の命を助けようとするのが人間的でもあり、彼の性格が出ていて良かったと思う。

文楽の場合、人形が主役ということでビジュアルが絵画的であり、ここぞというときは文字通り絵になる。俳優を使った演劇の場合は大半は役者の力量によって絵になっているのだが、人形は場面そのものが混じりけのない絵になっている。勿論、人形の作者や人形遣いの技量も加わっているのだろうが、それ以上に人形そのものの美が表に出ている。世界中の人形劇を観たわけではないが、おそらく文楽こそが世界で最も美しい人形劇であると思われる。



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2018年3月25日 (日)

コンサートの記(365) 舘野泉ピアノリサイタル2006京都

2006年9月16日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタにて

午後2時から京都コンサートホール アンサンブルホールムラタで、舘野泉のピアノリサイタルを聴く。

舘野泉(男性です)は1936年、東京に生まれたピアニスト。東京藝大を首席で卒業し、1964年からは拠点をフィンランドに移している。
特に北欧ものを得意として数々のコンサートや録音で活躍。フィンランドでは最も有名な日本人の一人となっている。

しかし、2001年、コンサートでの演奏中に脳溢血を起こし、そのコンサートは弾き終えたものの、直後に倒れ、右半身不随となった。その後、2年半におよぶリハビリを行い、右半身は何とか動くようにはなったが、右手はピアノを弾けるまでには恢復しなかった。
舘野が選んだのは引退ではなく、左手一本のピアニストとして演奏活動を続けることだった。左手一本のピアニストに先達がいたことも励みになったのだろう。
今日演奏される演目も全て左手で演奏されるために書かれたピアノ曲。全5曲中、3作は舘野のために書き下ろされた新作である。

まずはJ・S・バッハが作曲した『無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ』よりパルティータ第2番最終楽章「シャコンヌ」をブラームスが左手のためのピアノ曲に編曲したものが演奏される。
テクニックは完璧とはいかず、ミスタッチも多いが、骨太で情熱的な演奏に圧倒される。
続いて、スクリャービンの「前奏曲・夜想曲 左手のための2つの小品」が演奏される。スクリャービンはモスクワ音楽院在学中にピアノの練習をし過ぎて右手を故障したことがあり、その時期に左手一本で弾けるよう作曲したのがこの曲だという。
舘野のピアノは立体感に富み、タッチもクリアで爽快な気分にさせてくれる。

前半ラストは吉松隆が舘野のために書いた「タピオラ幻想」(館野泉に捧ぐ)。メロディアスでポピュラリティーもあるリリカルな作品。隆は隆でも加古隆の曲のようでもある。日本人ピアニストとして最高のリリシストの一人である舘野の魅力を最大限に生かす曲であり、舘野の演奏も吉松の期待に十二分に応えるものになっていた。

後半は林光の「花の図鑑・前奏曲集 ピアノ(左手)のために」(館野泉に捧ぐ)、とフィンランドの若手作曲家であるヴェリ・クヤラの「左手のための3つの舞曲集」(館野泉に捧ぐ)が演奏される。副題からもわかるとおり、いずれも舘野のために書かれた作品。
林光作品の語り口の上手さ。クヤラ作品で見せる情熱。舘野のピアノの素晴らしさを堪能することが出来た。

アンコールは谷川賢作の作品と、チェコ出身で第二次大戦期に強制収容所で亡くなった作曲家(舘野さん自身がマイクを手にして紹介を行ったが、作曲家の名前は出さなかった)の「アリア」という曲が演奏される(あとで調べたところ、シュールホフという作曲家の作品であることがわかった)。
ピアノ演奏の素晴らしさを堪能すると同時に、希望を持つことと情熱の大切さを教えられたような演奏会であった。

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2018年3月24日 (土)

コンサートの記(364) アレクサンドル・タロー ピアノ・リサイタル2018京都 J・S・バッハ 「ゴルトベルク変奏曲」

2018年3月22日 京都コンサートホール小ホール アンサンブルホールムラタにて

午後7時から、京都コンサートホール小ホール アンサンブルホールムラタで、アレクサンドル・タローのピアノ・リサイタルを聴く。J・S・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」1曲勝負。

1968年、フランス生まれのピアニストであるアレクサンドル・タロー。日本デビュー時には「フランス人だけどタローです」という親しみやすい苗字を売りに出したコピーが用いられていたが、今やフランスの中堅を代表するピアニストに成長している。出身地であるフランスものを始め、バッハ、ショパン、モーツァルト、ラフマニノフといったCDを発売している。

J・S・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」は、タローの最新アルバムに収録されている楽曲である。

譜めくり人を使用し、楽譜を見ながらの演奏を行う。

冒頭のアリアで端正な演奏を行い、変奏に入ってからは高い技術を前面に出していく。かといってヴィルトゥオーゾ的ではなく、見通しのよい涼やかな演奏を行うところがフランス人ピアニストらしい。スケールは大きめで、時にはバッハ的領域をはみ出したロマンティックなものになるが、それはそれで説得力がある。バッハだからバッハ的スタンスに止まらなければならないというわけでもないのであるし。
第25変奏の痛切さも良く出ているが、音の光を失わないのがタローらしいところである。
ラストの「アリア」も穏やかさと懐かしさに溢れた味わい深いものになっている。

アンコールはラモーのクラブサン組曲より「野蛮人たち」。典雅な演奏であった。



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2018年3月21日 (水)

コンサートの記(363) ジャンルイジ・ジェルメッティ指揮 京都市交響楽団第621回定期演奏会

2018年3月17日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第621回定期演奏会を聴く。今回の指揮者はイタリアの名匠、ジャンルイジ・ジェルメッティ。

1945年ローマ生まれのジェルメッティ。イタリア国内でセルジュ・チェリビダッケ、フランコ・カラーラに学び、ウィーンではハンス・スワロフスキーに師事。シュトゥットガルト放送交響楽団の常任指揮者時代に注目される。特にロッシーニのオペラを得意としており、若い頃はレコーディングも行っていてソニーに録音したロッシーニの歌劇「泥棒かささぎ」などは絶賛された。ただ、その後はチェリビダッケの弟子ということもあってかレコーディングには消極的である。シエナのキジアーナ音楽院とローマ・サンタ・チェリーチア・アカデミーで教師としても活躍。門下に三ツ橋敬子や園田隆一郎がいる。

曲目は、ロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲、ドヴォルザークのチェロ協奏曲(チェロ独奏:ルイジ・ピオヴァノ)、ラヴェルの「道化師の朝の歌」、「亡き王女のためのパヴァーヌ」、「ボレロ」。ラヴェル作曲の3曲は途中で拍手をしないで欲しい旨がアナウンスされている。

プレトークでジェルメッティは「こんにちは」と日本語で挨拶をする。京都コンサートホールのスピーカーはアナウンス用のものしかなく、今日は通訳の方が早口だったので、何を言っているのか上手く聞き取れない。ただ、ラヴェルの3曲は組曲的な解釈で演奏することはわかった。

コンサートマスターは渡邊穣。渡邊穣は今回の定期演奏会をもって退任予定である。フォアシュピーラーは泉原隆志。第2ヴァイオリンの客演首席としてザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団コンサートミストレスの赤松由夏が入る。

ジェルメッティの十八番であるロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲。この曲では京響の各奏者の技術の高さが光った。ジェルメッティの設計が適切であるため、京響の奏者も存分に力を発揮出来るのだろう。

ドヴォルザークのチェロ協奏曲。ソリストのルイジ・ピオヴァノは、ローマ・サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団の首席チェロ奏者でもある。イタリアのペスカーラ生まれ。スイスのメニューイン国際音楽アカデミーで学び、パリのヨーロピアン音楽院でも学位を取得。イタリアのフレンターノ夏の音楽祭の芸術監督を務めるほか、自身が結成したカンパニア室内オーケストラの指揮者としても活動しているという。

ピオヴァノはイタリア人だけに朗々としたチェロを予想したのだが、思いのほか渋くタイトなチェロを奏でる。
ジェルメッティの指揮はエネルギー重視。縦の線が合っているのかどうか微妙な場面も比較的多いのだが、それを補って余りある情報と音楽のパワーに溢れている。

ピオヴァノのアンコール演奏は、「イタリア・アヴルッツォ地方の子守歌」。途中からピオヴァノの歌(ヴォカリーズ)も飛び出した。

ラヴェルの「道化師の朝の歌」、「亡き王女のためのパヴァーヌ」、「ボレロ」。「ボレロ」は通常とは異なり、スネアドラムを3台使用しての演奏である。
ジェルメッティの音楽性が持つ活気と情熱、鮮やかな色彩感が発揮された演奏となる。ラヴェルの情熱と狂気が炙り出された「道化師の朝の歌」、上品な歌と響きが印象的な「亡き王女のためのパヴァーヌ」、そしてアタッカで開始された「ボレロ」ではラヴェルの音楽の多彩さと斬新性がくっきりと浮かび上がる。なお上手に置かれた2台目のスネアはヴァイオリンが入るところから、下手の3台目のスネアはトランペットの開始と同時に鳴り始め、ハイな状態をいや増しに増す。ジェルメッティの演出力も光る演奏会となった。



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2018年3月20日 (火)

観劇感想精選(235) ミュージカル「舞妓はレディ」

2018年3月18日 福岡・中洲川端の博多座にて観劇

12時から博多座でミュージカル「舞妓はレディ」を観る。周防正行監督の同名ミュージカル映画の舞台化。原作:周防正行&アルタミラピクチャーズ、脚色:堀越真、演出:柴﨑秀臣、作曲・編曲:周防義和、作詞:周防正行&種ともこ。出演:唯月ふうか、榊原郁恵、平方元基(ひらかた・げんき)、蘭乃はな、多田愛佳(おおた・あいか)、片山陽加(かたやま・はるか)、土屋シオン、谷口浩久、湖月わたる、辰巳琢郎ほか。

映画「舞妓はレディ」でのナンバーの他に新曲も含めた上演が行われる。博多座オリジナルのミュージカルであり、京都が舞台ではあるが上演は博多座でしか行われない。

主人公の西郷春子(舞妓としては小春)を演じる唯月(ゆづき)ふうかは北海道札幌市生まれの21歳。本名の川上桃子名義で歌手としてデビューしたが現在はミュージカルを主舞台として活動している。唯月ふうかという芸名はどことなく宝塚っぽいが宝塚歌劇とは一切関係がない。

宝塚出身なのは湖月(こづき)わたると蘭乃はなであり、男役出身の湖月わたるには男装するシーンも用意されている。

映画にもAKBグループのアイドルがバイト舞妓役で出演していた(武藤十夢と松井珠理奈)が、今回も元HKT48の多田愛佳と元AKB48の片山陽加が同じ役で出演。映画ではラップ調の曲が用意されていたが、今回はその代わりに新曲「アイドルになりたい」(作詞:寺﨑秀臣、作曲:佐藤泰将)が歌い上げられた。

メイン楽曲である「舞妓はレディ」に乗せて、芸舞妓役の女優による舞でスタート。上手の花道(今回は客席を横切る形のいわゆるメインの花道は使用しない)から旅装の春子が登場し、舞台の中央へ。回り舞台が反時計回りして奥へと消えていく。

舞台は京都の架空の花街・下八軒。下八軒は小さな花街であり、後継者不足に悩んでいる。現役の舞妓は桃春(蘭乃はな)一人だけ。しかも桃春は現在29歳で、本来ならとっくに芸妓に上がっているところを舞妓が他にいないために留任させられている。イベントでは舞妓が足りないのでバイト舞妓の福葉(多田愛佳)や福名(片山陽加)を駆り出さねばならない有様だ。そんな下八軒の老舗置屋である万寿楽に春子が訪ねてくる。 「舞妓になりたい」と語る春子は鹿児島弁と津軽弁をちゃんぽんで話す。京大学の言語学者・京野法嗣(平方元基)は春子に興味を覚え、春子に京言葉を仕込むことに決める。京野のバックアップを受けて、下八軒で仕込み(見習い)として働くことになった春子だったが……。

映画「舞妓はレディ」よりも春子と京野の恋愛路線が前面に押し出されており、ミュージカル的な味わいが増している。
そのため、春子(小春)という人物の不可解さはこの劇ではほとんど触れられておらず、掘り下げられることも当然ながらない。
映画「舞妓はレディ」を観て春子の出自について疑問を持った方もいらっしゃると思われる。春子は薩摩弁と津軽弁をネイティブ並みに話す。祖父が鹿児島県出身で祖母が青森県出身、現在は津軽地方在住。両親は共に他界しており、祖父母に育てられる。そのため不思議な話し方になる。ただ津軽でずっと暮らしていたら津軽弁が強くなるのが普通である。そして映画では京野が津軽の春子の実家に行くシーンがある(今回のミュージカルでは音声のみによって処理されている)のだが雪深く、他に何もないような場所。そしてそこに住む春子の社会性の乏しさ。本当に友達がいるのだろうか? そもそも不登校なのではないか? そんな印象も受ける。もっとも仮にそうだったとしてもそうした設定が明かされることはないだろう。春子が本当にそういう性格だったとしても、花街側、少なくとも京都の五花街は「舞妓はそういう子がなるもの」という誤解を受けることを怖れるはずである。わかる人にはわかるはずなので、それがシンデレラストーリーに繋がっていると見ることも出来るのだが、今回のミュージカルではそうした要素はなく、「マイ・フェア・レディ」同様のピグマリオンのみが展開の軸となる。

舞妓・小春となる春子を演じた唯月ふうかは芸達者なようで、歌もダンスも見事にこなす。冒頭の素朴さや襟替えしてからの華やかさなど、演じ分けも堂に入っている。ただ、これは彼女の責任ではないのだが、「やはり上白石萌音って凄かったんだなあ」と思ったのも事実である。

万寿楽の女将、小島千春は榊原郁恵が演じているのだが、その配役によって舞台の明るさとコミカルさが増す。存在しているだけで雰囲気が作れるのが榊原郁恵の良いところである。
幕間にご主人である渡辺徹さんとすれ違う。話していたのは息子さんかな? その後、渡辺徹さんとその関係者が私と同じ4列目のセンター付近で鑑賞されているのが確認出来た(私は下手端の方である)。

ミュージカル俳優として売り出し中の平方元基。福岡県出身である。学者の息子である長谷川博己のような見るからにインテリ然とした雰囲気は出せていないが、京野の若さと才気の表現は十分に出来ており、歌も万全である。

湖月わたると蘭乃はなの元宝塚コンビは歌にダンスに大活躍。映画スターを演じるダンスシーンでの湖月わたるの男装は本物の男よりも格好がいいくらいだ。

終幕とカーテンコールでタイトル曲「舞妓はレディ」の歌とダンスが行われるのだが、何度も行われるので、前の方のお客さんは振りを覚えてしまい、一緒に踊っていた。私も見ているだけでは悔しいので少しだけ踊った。



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2018年3月19日 (月)

コンサートの記(362) 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトⅩⅥ ラヴェル 歌劇「子どもと魔法」&プッチーニ 歌劇「ジャンニ・スキッキ」

2018年3月16日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後7時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトⅩⅥ ラヴェル 歌劇「子どもと魔法」&プッチーニ 歌劇「ジャンニ・スキッキ」を観る。
当初、「子どもと魔法」は小澤征爾が指揮する予定だったが、急病ということで、公演の副指揮者であり昨夏のセイジ・オザワ松本フェスティバルでも「子どもと魔法」を指揮したデリック・イノウエが代役を務める。小澤の降板によるチケット払い戻しや減額はないが、本来は有料のパンフレットが入場者全員に無料で進呈されることになった。

パンフレットには、2000年からの小澤征爾音楽塾塾生の名簿が載っており、その中には泉原隆志(京都市交響楽団コンサートマスター)、滝千春(ヴァイオリニスト)、長原幸太(読売日本交響楽団コンサートマスター)、林七奈(大阪交響楽団コンサートミストレス)、宮本笑里(ヴァイオリニスト)、遠藤真理(チェリスト。読売日本交響楽団ソロ・チェロ奏者)、宮田大(チェリスト)、難波薫(フルーティスト。日本フィルハーモニー交響楽団&紀尾井ホール室内管弦楽団メンバー)、上田希(クラリネット奏者。いずみシンフォニエッタ大阪&アンサンブル九条山メンバー)、金子平(読売日本交響楽団首席クラリネット奏者)、小谷口直子(京都市交響楽団首席クラリネット奏者)、吉岡奏絵(日本センチュリー交響楽団クラリネット奏者)、稲垣路子(京都市交響楽団トランペット奏者)、朴葵姫(ギタリスト)、十束尚宏(副指揮者)、三ツ橋敬子(副指揮者)、村上寿昭(副指揮者)らの名を見つけることが出来る。

当初は「ジャンニ・スキッキ」が前半、小澤の振る「子どもと魔法」が後半の予定だったが、順番は入れ替わっている。

演奏は、小澤征爾音楽塾オーケストラ。日本、中国、台湾、韓国を中心としたアジア諸国からオーディションを勝ち抜いた若者達によって編成された祝祭管弦楽団である。「子どもと魔法」には、日本人の若者から選抜された小澤征爾塾合唱団と、京都市少年合唱団が加わる。

まず、ラヴェルの歌劇「子どもと魔法」。私は以前に、大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で演奏会形式による上演を聴いたことがある。
指揮はデリック・イノウエ。演出:デイヴィッド・ニース(メトロポリタン歌劇場首席演出家)。出演:エミリー・フォンズ、駒田敏章、マリアンヌ・コルネッティ、キーラ・ダフィー、清水多恵子、町英和、キース・ジェイムソン、栗林瑛利子、藤井玲南(ふじい・れな)、山下未沙ほか。

指揮のデリック・イノウエは日系カナダ人の指揮者。メトロポリタン歌劇場でたびたびタクトを執っている他、日本のオーケストラの指揮台にも登場。京都市交響楽団の定期演奏家にも客演したことがあり、私も聴いている。1985年のヴィットリオ・グイ指揮者コンクールで優勝。イタリアのキジアーナ音楽院でフランコ・フェラーラに師事。桐朋学園大学留学時とタングルウッド音楽祭で小澤征爾に師事している。桐朋学園では秋山和慶と尾高忠明にも学んだ。

そのデリック・イノウエであるが、急の代役ということもあってか、小澤征爾音楽塾オーケストラからラヴェルに相応しい輝かしい響きは引き出せず、苦戦気味である。

ラヴェルの歌劇「子どもと魔法」はファンタジーであり、筋書きらしい筋書きはない。家具だの動物だのが言葉を使って騒ぎ出すという話である。
物語が展開されるわけでははいので、オーケストラの魅力を欠くと、苦しくなってしまう。デイヴィッド・ニースの演出は、ぬいぐるみなども使った賑やかなものだったが、やはり「子どもと魔法」は演奏会形式で行った方がイメージが拡がって良いようにも感じた。

プッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」。プッチーニ唯一の純喜劇オペラであり、「外套」「修道女アンジェリカ」と共に三部作として構想・初演されたものである。初演は1918年にメトロポリタン歌劇場で行われたが、「ジャンニ・スキッキ」のみ好評だったと伝えられている。私は5年ほど前に河内長野で「ジャンニ・スキッキ」の上演を観たことがある(井村誠貴指揮、岩田達宗演出)。

指揮はジョセフ・コラネリ。メトロポリタン歌劇場の常連であり、特にイタリアものを得意としている。現在は、グリマーグラスフェスティバル音楽監督とニューヨーク・グリニッジ・ヴィレッジのオペラ芸術監督。演出は引き続きデイヴィッド・ニースが担当。出演:ロベルト・ディ・カンディア、サラ・タッカー、マリアンヌ・コルネッティ、アレッサンドロ・スコット・ディ・ルツィオ、キース・ジェイムソン、清水多恵子、デイヴィッド・クロフォード、ドナート・ディ・ステファノ、駒田敏章、エミリー・フォンズ、塙翔平、寺田功治、松澤佑海(まつざわ・ゆみ)、後藤春馬(ごとう・かずま)、石田天星、北村穂乃香。

ダンテの「神曲」に由来する話。台本はジョヴァッキーノ・フォルツァーノが手掛けているが、これが実によく出来た汎用性のあるシチュエーションコメディーに仕上がっている。
フィレンツェの富豪であったブオーゾ・ドナーティの遺産を巡る話で、設定では一応、1299年のフィレンツェということになっているが、普遍的な話なので時代設定を変えて行われることも多い。今回も舞台を1960年代に変えての上演となる。ということで、登場人物の格好も現代風だったり、一昔前の映画に出てきそうな趣を持っていたりする。

ジョセフ・コラネリの指揮する小澤征爾音楽塾オーケストラは、生き生きとして瑞々しい張りのある音を奏でる。「子どもと魔法」の時と同じオーケストラのはずなのだが、まるで違って聞こえる。作曲家の資質の違いを考える必要もあるが、指揮者の能力に残酷なほどの差があるということなのだろう。

ニースは紫色の毒々しいソファーを用いることで、ブオーゾの親族達の俗っぽさを表している。みなブオーゾの遺産が欲しい。人間なら当然のことでもあり、特別に非難されることでもないのだが、ブオーゾが全遺産に修道院に寄付しようとしていたことが混乱と笑いを生み、リヌッチオ(アレッサンドロ・スコット・ディ・ルツィオ)とラウレッタ(サラ・タッカー)という恋する若き二人の美しさが強調されることになる。ちなみにジャンニ・スキッキと娘のラウレッタはフィレンツェ市出身者ではないようで、とかく見下されているようだ。フィレンツェは京都市の姉妹都市であるが、京都もまたそうしたところのある街である。フィレンツェを京都の鏡と見立てた上演も出来そうだ(というより、5年前にそのことを私は岩田達宗さんに提唱していたりします)。

このオペラでは、ラウレッタが歌う「ねえ、私のお父さん」というアリアがとても有名である。実はカラオケのJOYSOUNDにはこの曲が入っていて、私はたまに歌うことがある。



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2018年3月17日 (土)

観劇感想精選(234) 「シャンハイムーン」2018西宮

2018年3月14日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「シャンハイムーン」を観る。作:井上ひさし、演出:栗山民也。中国現代文学の父である魯迅(中国文学おける現代は日本の現代とは違い、中華民国建国から1948年以前までを指す。1949年以降は「当代」を用いる)を主人公にした会話劇である。出演:野村萬斎、広末涼子、鷲尾真知子、土屋佑壱、山崎一、辻萬長(つじ・かずなが。愛称は「つじ・ばんちょう」)。声の出演:浅野和之ほか。

舞台は1934年の上海。北四川路底にある内山書店の二階倉庫である。上海で内山完造と美喜の夫妻が始めた内山書店。東京・神田のすずらん通りにある内山書店は完造の弟である内山嘉吉が東京で始めたものである。すずらん通りにある内山書店は、私が明大生の頃、毎週のように通っていた懐かしい場所である。
魯迅は、蒋介石率いる国民党に追われて、計4度の逃亡生活を送るが、「シャンハイムーン」ではその4度が1回に纏められている。

仙台医学専門学校(後の東北帝国大学医学部。現在の東北大学医学部)に学んだ魯迅(本名は周樹人。演じるのは野村萬斎)であるが、上海に住む今は反日的思想の持ち主である。日本の近代化には蘭学医が西洋の考え方を採り入れることで貢献したと考え、医学を学んだが、今では日本人は西洋人に残酷さを学んだと考えている。西洋の「優勝劣敗」の思想に感化された日本人は欧米列強に倣って上海に進出、租界を拵えて我が物顔で振る舞っている。魯迅は国民党と共産党が組んで日本の勢力を中国から追い出すべきだと考えているが、共産党を潰したい国民党にとって、それは受け入れがたいことであり、そのため魯迅は国民党に追われることになる(国共合作が実現するのはもっと後のことである)。

魯迅と現在の妻の許広平(広末涼子)は、内山完造(辻萬町)とみき(鷲尾真知子)の夫妻に匿われることになるのだが、魯迅は多くの病に体を蝕まれており、「病気の百貨店」状態。そこで日本人医師の須藤五百三(すどう・いおぞう。山崎一)に診て貰おうとしたのだが、困ったことに魯迅は仙台医学学校出身にも関わらず大の医者嫌い。「嫌いなものは、一にお医者様、二に歯医者様、三四がなくて五が蒋介石の国民党)という状態である。大の魯迅ファンでもあった須藤は、医師であるということを隠し、ただの魯迅ファンとして近づき、握手した隙に脈を測ったり、内山完造と許広平に合図を送ってあくびをさせ、魯迅がつられてあくびをした際に口内の状態を調べようとする。それでも結局は、医師だと名乗り出た須藤への協力を拒否。マートン(阪神タイガースにいた外国人バッターではなく、おまるのこと。中国では室内ではおまるを使うことが多かった)への用便(医師はそれを見て健康状態を把握する)すら拒否する。

今度は、肖像画家を名乗って魯迅に近づく男が一人。歯医者の奥田愛三(土屋佑壱)である。奥田は笑気ガスを魯迅に吸わせて気絶させ、その間に魯迅の体調を診ようとするのだが、笑気ガスを吸った魯迅は幻覚を見る。その場にいる人が過去に出会った他人に見えるという「人物誤認症」である。「藤野先生」こと藤野厳九郎を始めとする過去の人々に魯迅は苛まれ、ひたすら詫びるのだが……。

「シャンハイムーン」というのは魯迅が構想していたという設定の架空の小説のタイトルである。人間というものは全くわかり合えないということをテーマにした小説であるが、繋がっていく命を知ることで、魯迅は「シャンハイムーン」の構想を翻すことになる。人種や国籍、出身地に拘泥することなく、命や思想を繋げていくことが尊いというメッセージがある。

野村萬斎の持ち前の飄々としたところを生かした魯迅像がコミカルでもあり、なんとも魅力的である。失語症になった魯迅の場面では笑いを次々に取っていく。状況的にはシリアスな場面で笑いを取るというのが、いかにも井上ひさしの戯曲らしいところであり、野村萬斎の技量も存分に発揮されている。
ベテラン陣によるアンサンブルも万全。色男の奥田愛三を演じる土屋佑壱も様になっていた。広末涼子は瞬間最大風速的にはかなり強烈な演技力を持っているだが、持続力にはやや欠けるような気もした。やはり映像の人なのだろうか。
ただもう、とにかく私は彼らのような人々が好きだ。とても好きだ。



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2018年3月16日 (金)

観劇感想精選(233) 「プルートゥ PLUTO」2018大阪

2018年3月12日 森ノ宮ピロティホールにて

午後7時から、森ノ宮ピロティホールで「プルートゥ PLUTO」を観る。原案:手塚治虫、原作:浦沢直樹、上演台本:谷賢一、演出&振付:シディ・ラルビ・シェルカウイ。出演:森山未來、土屋太鳳、大東駿介、吉見一豊、吹越満、柄本明。ダンサーズ:上月一臣、大植真太郎、池島優(まさる)、大宮大奨(だいすけ)、渋谷亘宏(しぶや・のぶひろ)、AYUMI、湯浅永麻(えま)、森井淳、笹本龍史(りょうじ)。監修:手塚眞。プロデュース:長崎尚史。

手塚治虫の「鉄腕アトム」と「史上最大のロボット」を浦沢直樹と長崎尚史がリメイクした漫画「プル-トウ PLUTO」を原作とした舞台。
演出と振付を担当したシディ・ラルビ・シェルカウイは、ベルギー出身の演出家兼振付家兼ダンサーである。1976年、アントワープ生まれ。父はモロッコ人、母はベルギー人である。アラン・プラテル・バレエ団在籍中の2000年に振付家としてデビュー。幼い頃から日本のマンガとアニメのファンであり、2011年には手塚治虫の生涯を描いた「テ ヅカ TeZukA」の演出も手掛けている。「プルートゥ」は2015年に初演、今回は再演となるが1月の東京公演の後、2月にヨーロッパでの公演が行われており、大阪での上演は凱旋公演となる。

人間とロボットが共存する近未来が舞台。第39次中央アジア紛争から5年が経っていた。戦場での平和維持活動も行った7体の最先進ロボットのうち5体が立て続けに殺害されるという事件が起こる。残るは2体、ユーロポールの特別捜査員であるゲジヒト(大東駿介)と日本の少年ロボット・アトム(森山未來)である。事件を知ったゲジヒトは日本に向かうことにする。ゲジヒトの妻であるヘレナ(やはりロボットである。演じるのは土屋太鳳)は日本に旅行に行きたいという願いを持つが、申請を行ったところ、奇妙な事実に行き当たる。
天馬博士(柄本明)に作られたアトムであるが、元々は博士の息子で事故死したトビオの再生ロボットとして作られたのだが、トビオとはまるで異なるために捨てられてしまい、お茶の水博士(吉見一豊)に引き取られる。お茶の水博士はアトムの妹ロボットしてウラン(土屋太鳳二役)を作っていた。ある日、ウランは道端に倒れていた男(池島優)と出会う。男は花畑の抽象画を描く……。

第39次中央アジア戦争では、トラキア合衆国のアレクサンダー大統領が「ペルシャ王国が大量破壊ロボット兵器を隠し持っている」として侵攻するという設定なのだが、これはイラク戦争そのものである。結局、大量破壊ロボット兵器は発見されず、大義なき戦いとなったのだが、その責任を取る者はいなかった。それに端を発するペルシャ王国側の復讐、更にアレクサンダー大統領(渋谷亘宏)を操る人工知能Dr.ルーズベルト(声を演じるのは吉見一豊。テディベアの格好をしている)によるロボット帝国の野望などが入り交じり壮大な陰謀劇が展開されるが、ラストでは憎しみの連鎖ではなく「砂漠を花で埋め尽くす」ような平和と愛が謳われる。

振付家でもあるシディ・ラルビ・シェルカウイの演出ということで、ダンスが効果的に用いられる。9人の本職のダンサーに加え、森山未來と土屋太鳳という日本の若手俳優の中でトップクラスのダンススキルと身体能力を誇るコンビが配され、華麗なダンスが繰り広げられる。俳優より先にダンサーとして頭角を現した森山未來のダンスが見事なのは勿論だが、日本女子体育大学舞踊学専攻出身の土屋太鳳のダンスも秀逸。土屋太鳳は初舞台であるが、大人の女性であるヘレナと少女ロボットのウランを見事に演じ分け、想像以上の演技力を示した。流石、若くして認められただけのことはある。新しい才能の誕生を歓迎したい。

ダンスの他に浦沢直樹の原画の投影、影絵、パペットなど様々な表現が試みられた舞台であり、若手とベテランの俳優陣が四つに組んだ見事な展開。終演後はオールスタンディングとなった。



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2018年3月15日 (木)

コンサートの記(361) 團伊玖磨 歌劇「夕鶴」2018西宮

2018年3月10日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、團伊玖磨の歌劇「夕鶴」を観る。作:木下順二、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)。園田隆一郎指揮ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の演奏。今日明日と公演があり、ダブルキャストだが、今日の出演は、佐藤美枝子、松本薫平、柴山昌宣、豊島雄一(とよしま・ゆういち)。児童合唱は夙川エンジェルコール。美術:島次郎。副指揮者に広上淳一の弟子で第2回ニーノ・ロータ国際指揮者コンクールで優勝した石﨑真弥奈の名前がクレジットされている。

日本のオペラとしてはトップクラスの上演回数を誇る「夕鶴」。木下順二の戯曲を「一字一句変えることなく」という条件でオペラ化したものだが、今では純粋な演劇公演として取り上げられることはほとんどなく、専らオペラ版で親しまれている。元の戯曲が子ども達の合唱で始まり、モノローグが多用されるなど、オペラ向きということもその一因だろう。

指揮者の園田隆一郎は関西でのオペラ公演で活躍することも多い。東京藝術大学音楽学部指揮科卒、同大学院修了。イタリア・シエナのキジアーナ音楽院に留学。その後、ローマでも学び、現在もローマ在住。指揮を遠藤雅古、佐藤功太郎、ジェイムズ・ロックハート、ジャンルイジ・ジェルメッティ、アルベルト・ゼッタらに師事。ロッシーニのオペラを十八番とし、現在は、藤沢市民オペラの芸術監督の座にある。

木下順二の原作は、助けた鶴と結婚して幸せに暮らしている与ひょうが、資本主義の権化のような惣どと相方のような運ずに唆されて妻に鶴の羽で出来た織物を作るよう命令し、更に機を織っている妻の姿をのぞいてしまったことで別れることになるという物語である。純粋な二人が資本絶対主義、第一主義によって引き裂かれるという解釈で良いだろう。木下順二もそうした想定で書いたはずである。ただ、「作者が意図した通りに読むのが正解」というわけでは必ずしもない。そもそも正解のある文学作品など面白くもなんともない。

民話の「鶴の恩返し」と違うのは、鶴が恩返しのために機を織るのではなく、人間に惚れて押しかけ妻になっているところであり、異種交際の物語となっているところである。最も古い形としては「日本書紀」にも登場する箸墓伝説(旦那の正体が実は蛇であったという話)に見られ、安倍晴明伝説(母親が信太狐の葛の葉)でも知られる。
岩田達宗の演出ノートによると、「本来全ての生き物は種を存続させるために生きている。だから種を超えた恋は、自然の摂理を犯す行為であり、生命の円環を破壊する恐ろしい行為だ(中略)「夕鶴」の主人公つうはその罪を犯した鶴だ」と述べられている。「葛の葉は」などの書き出すと話がややこしくなるので出さずにおく。とにかくそれは「人智を超え、自然の摂理を凌駕する激しい恋の物語だったのだ」(岩田達宗の演出ノートよる)
更に、つうが織る「鶴の千羽織」は、主人公二人の子供に見立てられた解釈がなされている。舞台の後半で千羽織を織り上げたつう(佐藤美枝子)が、千羽織二反を赤子を抱くように抱えているのを見れば、その解釈が徹底されているのがわかる。人間と鶴の間に子供は出来ないので(やはり葛の葉の件は棚上げとしておく)千羽織を代わりに生むのだ。そして千羽織を売り飛ばして金を得るという行為は人身売買にすら見立てられている。

とまあ、岩田さんの解釈を書いたが、ここからは私自身の考えを述べていく。与ひょうは千羽織を売ることで金銭を得ていた。昔は貧乏ながら働き者だったが、今は寝て過ごしていても苦労はしていない。少なくとも惣どや運ずのところにも話が伝わっているほどには大金を得ている。ただ、家を新築するというではなし、食べ物が豪勢になったということでもなく、妻のつうと二人で睦まじく暮らせればいいというだけの素朴な青年のように見受けられる。つうがもう千羽織は織れないと言っても特に文句はなく納得してしまっている。金にさほど執着はないのだ。つうが黄金を貯めた袋を開けて驚く場面があるが、与ひょうは金を貯めるだけで散財はしていないという見方も出来るわけで、与ひょうが金のために魂を売ったというつうの考えは勘違いなのかも知れないのである。与ひょうの態度も惣どに言われたままにやっただけで、本意からとは思えない。朴訥ゆえに上手く操られてしまったのだろう。

与ひょうとつうの関係は、所詮人間と鶴であり、そのそもの考え方にすれ違いが見られ、悲劇という形で終わるしかないものだったともいえる。
つうは、与ひょうが惣どにたぶらかされて千羽織を売った金で都に行っていまい、自分は捨てられると考えた。だが、実際は与ひょうが金を得たいと思った理由は、つうと二人で都に行きたい、そして二人で今よりも良い暮らしをしたいからであり、つうと別れる気は微塵もないのである。与ひょうが「つうのために」と思っていることがつうには伝わらない。そしてつうが千羽織のためにいかに苦痛に耐えているかを与ひょうは知らない。完全にすれ違いのドラマ、そう見た方が奥行きが出る。
つうは与ひょうと別れたくないがために最後の千羽織を織ることにするのだが、皮肉にもそのことが原因で自分から与ひょうの下を去る羽目になり、与ひょうはつうと幸せになりたいがためにつうを永遠に失うことになるのである。そしてそれはあくまで決定打であり、最初からすれ違っていた以上、破局は必定で、この時でなくともいつかは訪れるはずのものなのだ。

つうも与ひょうも望んでいるのはイノセントな幸福だ。二人とも子供が好きで子供達と仲良く遊んでいることからもそれはわかる。だが、そんなイノセントな夢がいつまでも続くのだろうか。まして人間と鶴の関係である。昔話なら「いつまでも幸せに暮らしましたとさ。目出度し目出度い」でいいのかも知れないが、リアリスティックに考えれば、この無邪気な喜びは、いつか破られることが決まっている。いつまでも子供のように生きてはいられない。惣どの功利的な考えやその存在が全く理解出来ない大人など存在しないだろう。汚れなき世界の喪失は、誰もがなんらかの形で経験することである。幸か不幸か良い年になっても王様や女王様でいられる人も皆無ではないが、大多数の人は痛みと共に夢幻の楽園を去って行く。

だからこのオペラは若い人にこそ観て貰いたい、若い人にこそ、喪失の痛切さがありありと分かるはず、なのだが若い人は余り来ていない。オペラはチケット料金がネックのようである。

ロームシアター京都では、毎年、新国立劇場の主催による高校生のためのオペラ鑑賞会教室を行っている。京都市交響楽団の演奏で、指揮は広上淳一や高関健といった京響の常任指揮者達が務めている。残席がある場合は一般向けの当日券が発売されるのだが、「(仮に行ったとしても)高校生ばかりの中でオペラを観ても居心地が悪い。みんな若い若い! オレ浮いてる浮いてる! 『なんや? あのおっさん?』と思われたらどうしよう?(実際、思われるだろうが)」という話を開演前に岩田さんと話した。
なお、今年ロームシアター京都で行われる新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室・関西公演は園田隆一郎指揮の「魔笛」が予定されている。

解釈ばかり書いていても仕方ないので、作品自体をもっと具体的に語ると、島次郎による舞台は比較的シンプルなものである。つましく暮らしている夫婦なのでこれで十分であろう。余りセットに凝られると歌い手に目がいかない可能性もある。

つうを演じた佐藤美枝子は声も佇まいも良い。与ひょうとの別れの場面などは絵になっていた。
それこそ資本の権化のようないかめしい惣ど(つうの正体が鶴であることを知っても驚きも悪びれもしない)をいかめしく演じた豊島雄一も好演である。

園田隆一郎のしやなかにして浮遊感のある音楽作りも好感が持てるものだった。

阪急中ホールの音響だが、それほど空間が大きくないということもあり、声もオーケストラの音も良く通っていたように思う。



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コンサートの記(360) 広上淳一指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第399回定期演奏会

2006年6月15日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

大阪へ。ザ・シンフォニーホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴く。今回の指揮者は広上淳一。卓越した表現力が魅力の指揮者である。

プログラムは、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」、グヴァイドゥーリナのフルート協奏曲「希望と絶望の偽りの顔」(フルート独奏:シャロン・ベザリー。日本初演)、ロベルト・シューマンの交響曲第3番「ライン」。

「弦楽のためのレクイエム」はもとから予定されていた曲目だが、先日亡くなった岩城宏之氏と、今朝亡くなった佐藤功太郎氏という二人の指揮者のため、特別に追悼曲として演奏された。純粋なコンサートピースとしてではなく、追悼曲、鎮魂曲として演奏される曲は、前後に拍手をせず、死者の冥福を祈るというのがマナーである。
しかし今回は、プログラムに「弦楽のためのレクイエム」を追悼演奏とする旨が書かれた紙は挟んであったものの、事前のアナウンスがなかったため、広上氏が演奏の主旨を述べて指揮棒を振り始める前と演奏後に拍手が起こってしまった。会場には当然ながらコンサートビキナーもいる。マナーを知らない人のためにも事前のアナウンスは必須のはずなのだが。
10年前の3月。NHK交響楽団の定期演奏会で、その年の2月20日亡くなった武満徹追悼のために、やはり「弦楽のためのレクイエム」演奏された(ハインツ・ワルベルク指揮)。この時はアナウンスがあったため、演奏前にも後にも拍手は起こらず、日本を代表する作曲家の逝去を悼む雰囲気がNHKホールを満たしていた。

グヴァイドゥーリナはロシアの作曲家。現代の女流作曲家としては最も著名な人物である。フルート協奏曲「希望と絶望の偽りの顔」は2005年5月に世界初演が行われたばかりの新曲。今日、フルート独奏を務めるシャロン・へザリーのために書かれている。
フルートは通常のフルートの他に、アルト・フルート、バス・フルートの2本を加えた3本が交代で吹かれる。

まずティンパニを始めとする打楽器群がプリミティブな迫力に満ちた音で会場を満たす。日本人である私の耳にはまるで陣ぶれの太鼓のように聞こえる。そしてフルートの独奏が入るのだが、これも日本人である私には、戦を前にして、武将が一人、瞑想しながら吹いている笛の音に聞こえる。
現代音楽は一回聴いてわかるものは少ないので、こちらで勝手にイメージを膨らまして聴いた方が面白い。

そうするうちに、騎馬が疾駆しているようなリズムが現れる。広上の指揮姿も独特であり(指揮というより何かのスポーツをしているように見える)、こちらのイメージ展開に拍車をかける。

弦楽の響きはあたかも武満作品のよう、というより明らかに武満の影響を受けているのがわかる。広上さんもそれが故に、武満作品とこの曲をセットでプログラミングしたのだろう。

そして音が激しさを増し、あたかも戦いを描いているような音楽世界が拡がっていく。
音楽はその後、内省的になるが、これは夜になって休戦しているようにも聞こえるし、夜討ちの機会を窺っているようでもある。
夜が明け、城攻めが始まる(もちろん、これは私のイメージでしかない)。ラストのチェレスタの独奏は、炎上する天守の上を、地上のことは我関せずとばかりに優雅に舞う鳥を表現しているかのようだ。
と恣意的な想像をしてみた。作曲者の意図は別にあるのだろうが、音楽自体はイメージ喚起力豊かであり、独自の解釈で楽しむことの出来るものだった。映画好きや、小説を読んでイメージを膨らませることに慣れている人はこういう曲は好きだろう。
もちろん、そういう人ばかりではないので、演奏中眠っている人もいたし、演奏終了後にブーイングをする人もいた(奏者にではなく曲に対して起こったブーイングだろう)。

メインであるシューマンの交響曲第3番「ライン」は実に爽快な演奏であった。とにかくオケが良くなる。ロベルト・シューマンの交響曲というと「憂いに満ちた」だとか「神経質な」と形容されることが多いが、広上のシューマンはそんな固定観念をあっさりと打ち破ってみせる。
テンポが速く、音色も明るく、健康的な演奏だ。大阪フィルはいつもホルンがやや弱いのだが、今日のホルンは朗々と響き渡る。
広上の指揮も「ユニーク」という言葉では足りないほど独特だ。指揮棒を溌剌と振り回していたかと思うと、両手を上に上げて喜びの表情を見せたり、空手チョップのような動きをしたり、首を左右に振り、更には指揮棒を手放してダンスのような動きで指揮台でステップを踏む。
ここまでくると指揮とは思えないほどだが、表現力は確かであり、腕のちょっとした動きで音楽のニュアンスを変えてみたり、単純な音型を魅力的なものに昇華したりと、現役日本人指揮者最高峰とも言われる実力をいかんなく発揮してみせる。
何よりも、広上自身が、音楽が面白くて面白くてたまらないという表情を見せるのが良い。見ているこちらの頬も緩む。
広上を見ているうちに、何故か名馬を自在に操る騎手の姿が目に浮かんだ。広上は背が低く、ずんぐりむっくり体型で、燕尾服を着た姿はペンギンを連想させ、騎手からは遠いイメージなのに不思議である。

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2018年3月14日 (水)

コンサートの記(359) ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック来日演奏会2018京都

2018年3月11日 京都コンサートホールにて

午後3時から、京都コンサートホールで、ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックの来日演奏会を聴く。

アメリカ最古のオーケストラであるニューヨーク・フィルハーモニック。1842年創設。ビッグ5の一角である(ニューヨーク・フィルの他に、ボストン交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団、シカゴ交響楽団、クリーヴランド管弦楽団)。グスタフ・マーラーやヴィレム・メンゲルベルク、アルトゥーロ・トスカニーニを常任指揮者としており、歴史が感じられる。最盛期は今年で生誕100年を迎えるレナード・バーンスタインの時代(1958-1969)。アメリカが生んだ初の大指揮者であるバーンスタインとのコンビは輝けるアメリカの象徴でもあった。
バーンスタインの後を受けたピエール・ブーレーズは、お得意の現代音楽を多く演奏したが人気は低迷。続くズービン・メータはニューヨーク・フィル史上最長となる13年間に渡って音楽監督を務めたが竜頭蛇尾に終わり、離任後に何の肩書きも贈られなかった。その後、11年間音楽監督を務めたクルト・マズアは好評であったが、期待されたロリン・マゼールとは着任早々に不仲が噂されるなど波に乗れなかった。日米ハーフで日本でもお馴染みのアラン・ギルバートの時代を経て、今年の9月からヤープ・ヴァン・ズヴェーデンが音楽監督に就任する予定である。

1960年、オランダ生まれのヤープ・ヴァン・ズヴェーデン。ジュリアード音楽院でヴァイオリンを学び、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートマスターとして活躍。その後、指揮者に転向している。インタビューで語っていたが、指揮者に専念するため今はヴァイオリンを弾くことはないそうだ。
オランダ・フィルハーモニー管弦楽団ほかを指揮した「ブラームス交響曲全集」(ブリリアント・クラシックス)で注目を浴び、その後、日本のEXTONレーベルへの録音を開始。ストラヴィンスキー作品などで高い評価を受けている。現在は香港フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督の座にある。ズヴェーデンと香港フィルは昨年、初来日を果たしている(丁度、サントリーホールなど東京の主要ホールが改修工事で閉鎖されていた時期であり、大阪公演のみが行われた)。
遠目なのではっきりとはわからないのだが、ズヴェーデンはどうやら小柄な人物のようで、身長は女性団員と同じぐらい。指揮台は高めのものを用いていた。


曲目は、ワーヘナールの序曲「シラノ・ド・ベルジュラック」、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:五嶋龍)、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」

ニューヨーク・フィルのメンバーは開演まで三々五々ステージに出てきて各々が攫う。開演前になると照明が暗くなってメンバーの楽器演奏が終わり、コンサートマスター(アジア系である)が登場して拍手というシステムである。


ワーヘナールの序曲「シラノ・ド・ベルジュラック」。ワーヘナールという作曲家の名前を聞くのは初めてだが、ズヴェーデンの祖国であるオランダの作曲家だそうである。1862年、ユトレヒト生まれ。ベルリンなどで音楽を学び、ユトレヒト音楽院の教師やユトレヒト大聖堂のオルガニストとして活躍。晩年にはハーグ音楽院の院長も務めている。1941年、ハーグに没す。
序曲「シラノ・ド・ベルジュラック」であるが、どことなくリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」を連想させるような曲調である。後で調べると、やはりワーヘナールはリヒャルト・シュトラウスの作風からかなりの影響を受けたようである。
天才詩人シラノ・ド・ベルジュラックの才気煥発な様子が描かれている。ただ、シラノ・ド・ベルジュラックは色男のドン・ファンとは違い、容貌醜悪で女には全くもてなかった。
ニューヨーク・フィルであるが、弦、管ともに音の輪郭がクッキリしているのが特徴。日本のオーケストラのように音がぼやけるということが一切ない。技術もさることながら、音に対する感度の違いのようでもあり、だとすると日本のオーケストラが欧米の一流のオーケストラに追いつくには相当の困難が予想される。無理して追いつく必要もないわけだが。
弱音の雄弁さも日本のオーケストラにはないものだ。


メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。ソリストの五嶋龍は「題名のない音楽会」の司会などでお茶の間でもお馴染みの存在である。
五嶋のヴァイオリンは一音一音を丁寧に刻んでいく。音も美しいが美音に溺れることなく、音楽の核心を確実について行くスタイルである。ムードに流されずにメンデルスゾーンの造形美に光を当てた演奏とも言える。ズヴェーデン指揮のニューヨーク・フィルも五嶋のスタイルに合わせた堅実な演奏を聴かせた。

喝采を浴びた五嶋だが、最後はヴァイオリンを持たずに登場。アンコール演奏を行わないことを示した。


ズヴェーデンの十八番であるストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」。ズヴェーデンの巧みなタクト捌きと豊かな音楽性が光る演奏となった。
ニューヨーク・フィルのクリアな響きが生きており、全ての音に勢いと生命力が宿っている。バランス感覚やリズム感にも秀でており、切っ先の鋭い音が最大レベルの音量になってもうるさく響くことはない。上質の「春の祭典」である。バーバリズムを描いた「春の祭典」であるが、ズヴェーデンが手掛けると迫力十分ながらどことなく上品な音楽になる。ズヴェーデンがコンサートマスターを務めていたコンセルトヘボウ管弦楽団はノーブルな音が特徴だが、繋がるものがあるのかも知れない。


アンコール演奏は、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」。香港フィルと「ニーベルングの指輪」全曲録音を行っているズヴェーデン。十全のワーグナーであった。

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2018年3月13日 (火)

コンサートの記(358) 井上道義指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第516回定期演奏会

2018年3月9日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第516回定期演奏会を聴く。指揮は大フィルの前首席指揮者であった井上道義。

曲目は、バーバーのピアノ協奏曲(ピアノ独奏:アレクサンデル・ガジェヴ)、ショスタコーヴィチの交響曲第2番「十月革命に捧げる」と交響曲第3番「メーデー」。井上道義が得意としているショスタコーヴィチの交響曲が並ぶ。交響曲第2番、3番ともに上演機会は少なく、実演に接するのは初めて。バーバーのピアノ協奏曲を生で聴くのも初となるはずである。

今日のコンサートマスターは田野倉雅秋。

バーバーのピアノ協奏曲。ソリストのアレクサンドル・ガジェヴは1994年生まれという若いピアニストである。登場したときは少し頼りなげに見えたがピアノに向かうと高度なメカニックを武器とした情熱的な演奏を繰り広げる。
幾何学模様のように不可思議な第1楽章、リリカルな第2楽章、怒濤のように音が押し寄せる第3楽章と、独自の魅力を持った曲である。井上指揮の大フィルも充実した伴奏を聴かせる。

井上に促されるようにしてガジェヴはアンコール演奏を行う。ラフマニノフのエチュード「音の絵」より作品39の5。ペダリングに問題があるのか音が濁り気味であったが、技術は優れている。

後半。大阪フィルハーモニー合唱団のメンバーが入場するのに少し時間がかかるということもあってか、井上がマイク片手にトークを行う。井上道義が大阪フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者就任披露演奏会のメインに選んだのはショスタコーヴィチの交響曲第4番。「その年は、ハイドンの交響曲第44番やブラームスの4番など4の付く曲ばかりやりまして、縁起でもないなあと思っていたら病気になりまして」

井上はバーバー本人に会ったことがあるそうだ。井上が17歳の時、師である齋藤秀雄と共にロサンゼルスに行き、齋藤がバーバーの弦楽のためのアダージョを指揮したところ、演奏終了後に熱心にスタンディングで拍手を送るおじさんがいたそうだが、「あれがバーバーだよ」と説明された井上は、「え? 作曲家で生きている人いるの?!」と驚いたそうである。当時の井上は作曲家というのは全員死んでいるものだと思っていたらしい。

ショスタコーヴィチの交響曲第2番と第3番は共に作曲者が二十代前半の頃に作曲されているのだが、「二十歳の頃は大人が馬鹿に見え」と井上は自身と多くの多くの若者の気持ちを語り、若きショスタコーヴィチのとんがった気持ちを代弁する。とんでもない速度で書かれており、「人間に演奏できるのか?」と思える箇所もあるが、ショスタコーヴィチは自身が天才で出来る人だったため、他の人にも出来ると思い込んでしまったようなところがあると指摘する。「ショスタコーヴィチは、スターリンとかそんなんじゃなく、オーケストラのメンバーに総スカンを食らったのだと思います。オーケストラのメンバーは保守的で、『お前さんのやろうとしていることはわからないよ』」と反発を受けたらしい。ロシア革命からレーニンの死までのソ連はかなり自由な時代であり、ロシアンアバンギャルドが隆盛を誇っていた。
井上道義は交響曲第3番「メーデー」に関して、「マーラーの『大地の歌』やショスタコーヴィチの交響曲第9番の要素などが散りばめられているので、プロの聴き手の方は探してみて下さい」と語る。

交響曲第2番「十月革命に捧ぐ」と交響曲第3番「メーデー」。共に合唱付きの交響曲である。字幕付きでの演奏。

井上が十八番としているショスタコーヴィチだけあって音が生き生きしている。大阪フィルの演奏は力強く、超速で駆け抜ける場所も破綻を来すことなく見事な疾駆を見せる。
交響曲第3番は交響曲第2番の続編として構想されたということもあって2曲とも曲調は似ており、ショスタコーヴィチ的音楽性がすでに刻印されているが、交響曲第3番の方には後に書かれることになるショスタコーヴィチの交響曲の様々な要素の発芽が見られる。今聴いてもかなり先鋭的な交響曲群である。衒学的要素も多分に感じられるが、若い頃はこれほど暴れ回らないと大作曲家にはなれないのかも知れない。
大阪フィルハーモニー合唱団も充実した歌を聴かせ、国内のおけるショスタコーヴィチ演奏としては間違いなく第一線のものとなるだろう。

喝采を浴びた井上。最後はステージ下手でくるりとターンして引き上げるなど、お馴染みの外連を見せていた。

なお、天井からデッカツリーが下がり、舞台上の要所要所にマイクが立っていたため、EXTONによるライブ収録が行われたものと思われる。



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2018年3月10日 (土)

コンサートの記(357) サカリ・オラモ指揮BBC交響楽団来日演奏会2018大阪

2018年3月7日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールでサカリ・オラモ指揮BBC交響楽団の来日演奏会を聴く。

曲目は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏:小菅優)とマーラーの交響曲第5番。

BBC交響楽団の配置はヴァイオリン両翼だが、コントラバスが上手の第2ヴァイオリンの後ろに2列で並ぶところが古典配置とは異なる。

サカリ・オラモは、1965年生まれのフィンランドの中堅を代表する指揮者。シベリウス音楽院でヴァイオリンを学び、フィンランド放送交響楽団のコンサートマスターとして活躍。その後、名教師、ヨルマ・パヌラに指揮を師事し、1993年に急病になった指揮者の代役として指揮台に上がって大成功するという「バーンスタイン・ドリーム」の体現者の一人となった。1999年にサー・サイモン・ラトルの後任としてバーミンガム市交響楽団の音楽監督に就任。私が京都に来てから初めて聴いたコンサートがサカリ・オラモ指揮バーミンガム市交響楽団の来日公演であった。
その後、かつて自らが在籍していたフィンランド放送交響楽団の首席指揮者を経て、ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団やBBC交響楽団など複数のオーケストラのシェフを務めている。

プロムスでお馴染みのBBC交響楽団。NHK交響楽団のイギリス版として知名度も高い。ただロンドンの五大オーケストラの中ではずっとBクラスに甘んじている。1930年にエイドリアン・ボールトによって創設され、アンドリュー・デイヴィスが首席指揮者を務めた1990年代に一時代を築くが、21世紀に入ってからのレナード・スラットキンやイルジー・ビエロフラーヴェク時代は相性が今ひとつということもあって低迷気味であった。2013年からはサカリ・オラモが首席指揮者を務めている。オラモとの顔合わせでは初来日となる。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。出だしをアルペジオで開始した小菅優は、しっかりとした構築力と結晶化された音色を生かした正統派の演奏を展開する。デュナーミクの処理も上手い。
オラモ指揮のBBC交響楽団はいかにもイギリスのオーケストラらしい渋めの音色を基調としている。時折、合奏能力を高めて透明な音を出すが、これが効果的である。
オラモの指揮は造形はそれほど重視せず、流れに重きを置いている。管の音の通りが良く魅力的だが、リアルに過ぎる箇所があったのは気になった。

小菅優はアンコールとしてショパンの練習曲作品25の1を演奏。耳が洗い清められるような清冽な演奏であった。

マーラーの交響曲第5番。オラモはこの曲をバーミンガム市交響楽団とライブ録音しており、私も京都コンサートホールでオラモにサインして貰ったCDを持っているのだが、録音、演奏ともに今ひとつであった。
チェロとコントラバスを離しているということもあってか、低弦を強調しない摩天楼型のバランスである。金管がパワフルであるが時にバランスを欠いてうるさく響きこともある。

細部を整序せずむしろ強調することでマーラーの書いた音楽の異様性を明らかにしていくような演奏であり、初めてマーラーの音楽を聴いた聴衆の衝撃が理解出来そうでもある。
第2楽章はアタッカで突入。流れ重視の音楽が効果的である。
第3楽章では一時期、首席ホルン奏者を指揮者の横に立たせてホルン協奏曲のように演奏することが流行ったが、曲の性質から行けばホルン奏者が横一列に並んだ方が効果が上がるように思う。
第4楽章のアダージェットは少し速めのテンポで淡く儚く展開。この楽章だけでなくユダヤ的な濃厚さは抑えた演奏になっており、都会的ですらある。
最終楽章のラストはアンサンブルの精度よりも勢いを重視。熱狂的に締めくくる。
この曲でも、ここぞという時に聴かれる透明な音色が抜群の効果を上げていた。

聴衆の熱狂的な拍手に応えたオラモは、「シベリウス、アンダンテ・フェスティーヴォ」と言ってアンコール演奏が始まる。
これが音色といいテンポといい表情付けといい実に理想的な演奏である。フィンランド出身の指揮者とシベリウスを愛するイギリスのオーケストラの相乗効果であろう。マーラーをはるかに凌ぐ極上の演奏であった。今度があるなら、このコンビによるシベリウスの交響曲を聴いてみたい。



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2018年3月 9日 (金)

コンサートの記(356) 坂本龍一ソロピアノコンサート「/05」大阪

2005年12月15日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

京阪七条駅から特急に乗って大阪へ。フェスティバルホールで坂本龍一のソロピアノコンサート「/05」を聴くためである。他のコンサートに比べると、年齢層が幅広いことがわかる。10代からお爺さんお婆さんまで。
私の左隣にはお婆さん(といっても50代半ばぐらい)が座ったのだが、まるでヨン様を見る韓流ファンように、坂本龍一を憧れの眼差しで「龍様」と言わんばかりに見つめていた。

10分押しで午後7時10分にコンサートが始まる。章子怡出演のCMでおなじみの「アジエンス」に始まり、「戦場のメリークリスマス」、「ラスト・エンペラー」といった映画音楽から、「美貌の青空」のように歌をピアノ用にアレンジしたもの。「アモーレ」、「エナジー・フロー」などCMでお馴染みのもの。そしてアルバムに収録された曲など、バラエティーに富んだ選曲。
客席からの「教授! 『シェルタリング・スカイ』を弾いて下さい!」というリクエストに応じるという場面もあった。

私が坂本龍一の音楽を本格的に聴き始めたのは中学生の時だから、なんやかんやでファン歴は15年以上になる。坂本のピアノを聴きながら、流れた月日を思い起こしたりもする。「89年のクリスマスにテレビ朝日の番組で坂本がピアノを弾いていたっけ」、「高校の頃、ヨーロッパツアーの模様がテレビで流れていたな」、「高校2年の時に音楽の授業のピアノ発表会で『シェルタリング・スカイ』を弾いたよな」、「YMO再結成の時は興奮したな」という風に。勿論、それに付随して、坂本とは直接には関係のない「当時の記憶」も蘇ってくる。

坂本のMCも聞きもので、「ええと、業務連絡になってしまうのですが、ちょっと(ステージ上の温度が)寒いんですけれど。2℃ほど上げてもらえますか」、「こう見えても気が弱いので、緊張を和らげるために、開演前にワインを飲むことにしていたのですが、昨日、飲み過ぎて失敗してしまったので今日は飲んでません」、「2年前に煙草をやめたのですが、煙草の匂いは好きなので、今はシガー、葉巻ですね。を楽しんでいます」など、坂本ファンには興味深い話を聴くことが出来た。

アンコールも拍手に応えて何曲も何曲もやる。それでも拍手は鳴りやまない。最高のコンサートである。坂本の音楽とそれにまつわる私自身の記憶が重なり、溶け、脳内麻薬のように気分を高揚させる。「今、ここで死んでしまっても構わない」とまで思う。
実際は私も責任ある立場なので、ここで死んだら多くの人に迷惑をかけることになり、死ぬわけにはいかないのだけれど。

終演後、隣りの龍様お婆さんが「良かったなあ」と私に語りかける(自分の好きなアーチストに向かって、私が熱心に拍手しているのが嬉しかったのだろう)、「素晴らしかったですねえ」と私は応える。一瞬だけど心が、坂本龍一という存在を媒介にして、通い合う。

スタンディングで拍手したときは、同じくスタンディングオベーションを送る人々と目が合い、「同志ですね」と目で語り合うことが出来る。
演奏家との、そして聴衆同士の言葉によらない交信と交流。コンサート会場に来なくては、CDを聴いていただけでは絶対に得られない経験と喜びがここにある。

人は生まれる場所も時代も選べない。しかし私と、今日コンサート会場にいた多くの人が、「今、この時代にこの国に生まれ、坂本龍一と同じ時代を生きて、彼の音楽をリアルタイムで楽しめる。良かった」という幸せと、自己肯定のようなものを獲得したはずだ。そしてそういう気持ちにさせてくれる坂本龍一という存在は私にとってやはり特別なのである。

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2018年3月 8日 (木)

コンサートの記(355) 下野竜也指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団京都特別演奏会2006

2006年3月11日 京都コンサートホールにて
 
午後3時から、京都コンサートホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団京都特別演奏会を聴く。

今日、大阪フィルを指揮するのは下野竜也。1969年、鹿児島生まれの若手指揮者である。2001年にブザンソン指揮者コンクールを制し、一躍注目を浴びた。大阪フィルとはナクソスに大栗裕作品をレコーディングしており、高い評価を受けている。またユニークなblogを書き、彼の文章のファンも多かったが、残念ながらblogは今年の2月をもって更新を停止した。

ウェーバーの歌劇「魔弾の射手」序曲、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」というポピュラーなプログラムのためか、会場はほぼ満員。

大阪フィルは京都でも開演30分前ごろから団員が思い思いにステージに出て来て楽器をさらいはじめ、ステージ上の団員数が段々増えていき、最後にコンサートマスター(今日のコンサートマスターはロバート・ダヴィドヴィッチ)が出て来るというスタイルを採っていた。こういうスタイルを持つ楽団は、少なくとも私が知る限り大阪フィルだけである。開演直前に楽団員が袖から並んで出てくる、というのが一般的な登場スタイルだ。なぜ大阪フィルだけが一般的でないスタイルを採っているのだろうか。

今日はヴァイオリンが両翼に来る古典的配置が採用されていた。

下野竜也の実演に接するのは今日が初めてである。下野は見た目からして「薩摩隼人」というタイプの指揮者だった。本州の人間とは顔も体つきも違う。

2階のステージ下手後方、もう少しでP席という場所で聴いていたので、下野の指揮姿がよく見える。下野の棒は流麗ではないが非常にわかりやすい。どの楽器にどんな音を要求しているのかすぐにわかる。楽団員も演奏しやすいだろう。
そのためかどうか、普段の大阪フィルの演奏に比べて精度は高く、音も輝かしい。

「魔弾の射手」では、下野は造形重視の指揮を見せる。よく整った演奏だ。だが、単なる優等生的演奏ではなく、クライマックスでは情熱的な指揮ぶりを披露。好感の持てる指揮者だ。

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(通称:メンコン)のソリストは玉井菜摘。京都生まれで、世界各国のコンクールを制覇し、現在は東京藝大の助教授も務めているという。
玉井のヴァイオリンは非常にスマートだ。テクニックも完璧。ただ冒頭などはスマートすぎて、憂いに欠けるきらいがあり、最終楽章でももっとチャーミングな表情が欲しいと思った。今のところは、表現よりもテクニック先行の奏者という印象を受けた。

メインの「新世界より」。下野は速めのテンポを基に飛ばす。非常に若々しく魅力的な表現だ。「基に」と書いたのはたまにテンポをぐっと落とすところがあるからだ。この曲での下野は表現重視の指揮を見せる。ただ、ブラスを煽りすぎなのが気になった。第4楽章では、金管を強調する余り、一瞬、音型とバランスが崩れる場面もあった。

アンコールはメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」から第3楽章という非常に渋い選曲。曲同様、演奏にも派手さはないが、細部まで仕上げが丁寧である。下野竜也という指揮者、今のところカリスマ性は感じないが独特の個性が光っており、将来が楽しみである。

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コンサートの記(354) 小山実稚恵&広上淳一指揮京都市交響楽団「ピアノ3大協奏曲の夕べ」2005

2005年11月3日 京都コンサートホールにて

京都コンサートホールまで、京都新聞社が主催する「トマト倶楽部コンサート」を聴きに行く。
今回は、ピアニスト・小山実稚恵のデビュー20周年記念演奏会を兼ねる。

トマト倶楽部コンサートは、安い値段で良質の演奏を聴くことが出来るのが特徴。しかし、その分、コンサート初心者が多く、マナーを知らない人も多いので、冷や冷やもする。今日もビニール袋をくしゃくしゃとさせる音が頻繁に聞こえたり、演奏中にドカドカと足音を鳴らして退場するおばちゃんなどがいて、集中力が殺がれる。

プログラムは、ピアノ協奏曲3曲という、豪華というか豪勢というか、とにかくボリュームある内容だ。
「ピアノ3大協奏曲の夕べ」と題されているが、ショパンのピアノ協奏曲第1番、チャイコフスキーの同第1番は当然として、一般的には知名度の低いスクリャービンのピアノ協奏曲を3大協奏曲の中に入れたのが小山らしい。
指揮は才人・広上淳一。広上の演奏を生で聴くのは8年ぶりである。

ショパンのピアノ協奏曲第1番は、ショパン自身が書いたオーケストラ伴奏の鳴りが悪いことで知られる。20世紀半ばまでは、指揮者がショパンのスコアに手を加えた独自の楽譜で演奏するのが常であったが、最近はそういうことをする指揮者は減った。
3階席、左のかなり後ろの方で聴いたのだが、視覚的にも聴覚的にも難のある席。ステージの左半分は見えないし、オーケストラの音も直接音が届き難い。ただでさえ響きにくいショパンの伴奏なのに、更にハンデがある。
ただ、ピアノは驚くほど良く聞こえる。というわけで、目を閉じて聴くと、ピアノとオケが10メートルぐらい離れて演奏しているように感じてしまう。
小山のピアノは表情が豊かで、強弱の付け方も理想的。ミスタッチがあり、完璧ではなかったが、私は完璧さなど求めていないので満足。

スクリャービンのピアノ協奏曲では一転して、オケが良く鳴る。広上は指揮姿がユニークなことで知られるが、今日もメトロノームの針や自動車のワイパーを連想させる体の揺らし方など、見ていて面白い。ただ、指揮棒や腕のちょっとした動きでオーケストラを自在に操っているのがわかる。音色が魔術でもかけられたかのように、めくるめく変化を遂げる。広上を高く評価する人が多いのも納得がいく。
スクリャービンを得意とする小山のピアノが悪いはずがない。

ショパンとスクリャービンを演奏するときはエメラルドグリーンのドレスを着ていた小山だが、ラストのチャイコフスキーではローズピンクのドレスで登場し、ハレの舞台を演出してみせる。女性奏者は得である。
男性奏者はこうはいかない。着替えても嫌みに見えるだけだ。色つきの衣装に着替えでもしたら、漫才師の登場の見えてしまう。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。広上はオケを豪快に鳴らし(といっても日本のオケだけに限界はあるのだが)、小山は女性ピアニストとは思えないほどの強靱なタッチで立ち向かう。京都市交響楽団は特に金管が優秀で、音の輝きは最上の部類に入るだろう。
一音一音がジャンプしているような活きの良い小山のピアノと、それを受け止めて、更に個性豊かにして返す広上の才能が止揚を生む。
秀演であった。

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これまでに観た映画より(99) 「紳士協定」

DVDで映画「紳士協定」を観る。グレゴリー・ペック主演。監督は後に赤狩り問題で裏切りを演じたことでハリウッドから総スカンを食らうことになる、エリア・カザン。1948年のアカデミー賞作品賞受賞作。
反ユダヤというタブーを描いた社会派の作品である。

内容が紋切り型に見えるが、社会は想像するよりずっと紋切り型に出来ているので、あるいは我々の認識よりも、この映画に描かれた社会の方がより事実に近いのかも知れない。そもそもアメリカは徹底した宗教国家であり、ダーウィンの進化論を学校で教えることを禁じている州もあるほどだ。もの凄く保守的なのである。

黎明期からそうだが、ハリウッドにはユダヤ系が多い。日本でもそうだが、芸能界は実業界よりも差別が少ないからだ。ただ、往時はユダヤ人俳優はWASP風の芸名をつけることが常であった。
アカデミー作品賞に輝く作品でありながら、この 画が日本で上映されたのは、アメリカで封切られてから実に40年も後のこと。ハリウッド側がアメリカの暗部を晒したくなかったためと思われる。

問題は、何かというとキスシーンに持ち込んでしまうこと。恋愛を絡めるのも重要だけれど、甘口になりすぎてしまうのが惜しい。

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2018年3月 7日 (水)

観劇感想精選(232) 加藤健一事務所 「審判」2005京都

2005年10月24日 京都府立府民ホールALTIにて観劇

京都府立府民ホールALTI(アルティ)で、加藤健一事務所の「審判」を観る。主宰である加藤健一の一人芝居。
イギリスの劇作家、バリー・コリンズの代表作を青井陽治が翻訳。この戯曲はかっては出版されていて、加藤健一は本屋でこの戯曲と巡り会い、感動して、自ら演じることを思い立ったという。加藤健一による「審判」は1980年に初演、以来、四半世紀に渡り、加藤健一は「審判」を演じ続けている。今年は、下北沢の本多劇場を皮切りに全国ツアーを行い、最後の仙台での公演で、公演回数は通算239回に達するという。

舞台は第二次大戦中のポーランド。ドイツ軍の捕虜になった7人のロシア軍将校が修道院の狭い地下室に閉じこめられる。そこでは食料も何も与えられなかった。そしてドイツ軍はその地を去る。地下室に閉じこめられた将校達は、一人を殺してはその肉を食べ、血を啜って、生き残る。まさに地獄絵図である。この地獄から生還したアンドレイ・ヴァホフ(加藤健一)が裁判の証言台に立つ。

作者のバリー・コリンズによると、登場人物は架空であるが、やはり第二次世界大戦下で起きた似たような事件を下敷きにしているという。
上演時間2時間半。その間、加藤健一は休むことなく語り続ける。彼の肉体と言葉から発せられる全てがこちらの想像力を掻き立てる。

加藤健一の俳優としての実力にまず感服。ものが違う。彼と同じレベルでヴァホフを演じられる俳優は少なくとも京都にはいないだろう。
私も俳優の真似事をしていた時期があるのだが、一生かかっても「審判」をかくも見事に演じることは無理であろう。神業を見る思いであった。

内容は非常に血なまぐさく、人間存在の暗部を抉る。そして時折垣間見られる奇妙な静謐さが、作品に奥行きを与えている。緻密な心理描写が、人間描写が雑なジャパニーズ・ホラームービーとは比較にならないほど深く、見るものを恐怖に駆り立てる。

人間がいかに弱く、且つ残酷な存在であるか。またそうした状況に人類を追い込む、戦争の凄惨さ、不気味さが、鈍いナイフのように胸にじんわりと突き刺さる。演じ手も観客も大変な集中力を必要とする作品であるが、加藤の熱演により、見応え十分であった。

今まで地下に眠っていた巨大なクレバスが、口を広げて墜ちてくるものを待っているような、不気味なイメージを想起させる作品であり、弱く残酷な人間の姿も実は自らの鏡像である、という人間存在への追求が──その暗いが確固とした主題が、こちらの胸を打つ。

また、加藤健一の直筆サイン入りの公演パンフレットには、渡辺美佐子、柄本明、毬谷友子ら一人芝居の名人達のメッセージが収録されていて、読み応えがある。

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2018年3月 6日 (火)

コンサートの記(353) 龍角散Presents レナード・バーンスタイン生誕100周年記念 パーヴォ・ヤルヴィ&N響 「ウエスト・サイド・ストーリー」(演奏会形式)~シンフォニー・コンサート版~

2018年3月4日 東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールにて

午後3時から、渋谷のBunkamuraオーチャードホールで、龍角散Presents レナード・バーンスタイン生誕100周年記念 パーヴォ・ヤルヴィ&N響 「ウエスト・サイド・ストーリー」(演奏会形式)~シンフォニー・コンサート版を聴く。レナード・バーンスタインの弟子であり、現在NHK交響楽団首席指揮者の座にあるパーヴォ・ヤルヴィが師の代表作を取り上げる。

龍角散Presentsということで、入場者には龍角散ダイレクトのサンプルが無料配布された。

1957年に初演された「ウエスト・サイド・ストーリー」。まさに怪物級のミュージカルである。ミュージカルは一つでも名ナンバーがあれば成功作なのだが、「ウエスト・サイド・ストーリー」の場合は名曲が「これでもかこれでもか」とばかりに連なり、「全てが有名曲」といっても過言でないほどの水準に達している。とにかく世界的にヒットしたということに関していえば20世紀が生んだ舞台作品の最右翼に位置しており、超ドレッドノート級傑作である。

出演は、ジュリア・ブロック(マリア)、ライアン・シルヴァーマン(トニー)、アマンダ・リン・ボトムズ(アニタ)、ティモシー・マクデヴィット(リフ)、ケリー・マークグラフ(ベルナルド)、ザカリー・ジェイムズ(アクション)、アビゲイル・サントス・ヴィラロボス(A-ガール)、竹下みず穂(ロザリア)、菊地美奈(フランシスカ)、田村由貴絵(コンスエーロ)、平山トオル(ディーゼル/スノー・ボーイ/ビッグ・ディール)、岡本泰寛(ベビー・ジョン)、柴山秀明(A-ラブ)。東京オペラシンガーズ(ジェッツ&シャークス)、新国立歌劇場合唱団(ガールズ)

今日のNHK交響楽団はチェロ首席奏者の藤森亮一がステージ前方に来るアメリカ式の現代配置を基調とした布陣である。コンサートマスターは客演のヴェスコ・エシュケナージ。N響はステージ後方に陣取り、舞台前方に歌手が出てきて歌ったりちょっとした演技をしたりする。

久しぶりとなるオーチャードホール。中に入るのは2度目だが、実はここでコンサートを聴くのは初めて。前回は「カタクリ家の幸福」という映画の完成披露試写会で訪れている。忌野清志郎が「昨日」というタイトルのどこかで聴いたことがあるような曲をギターで弾き語りしていた。

オーチャードホールの音の評判は良くないが、今日聴いた2階席4列目には残響は少なめだが素直な音が飛んできていた。ステージは遠目だが思っていたほど悪くはない。

第1部が60分、第2部が35分という上演時間。合間に30分の休憩がある。

N響は音には威力があるが、余り慣れていないアメリカものということもあり、ジャジーな場面では金管などに硬さが見られる。パーヴォは打楽器出身であるためリズム感は抜群のはずなのだが、N響からノリを思うままに引き出せていないようにも感じられる。
一方でリリカルな音楽では弦の艶やかな音色が生き、歌も秀逸で、万全に近い出来を示していた。パーヴォの棒もやはり上手い。

歌手陣の大半はクラシック畑出身。トニー役のライアン・シルヴァーマンはブロードウェイを活躍の主舞台としており、三役で出演の平山トオルもミュージカル出身だが、他は純然たるクラシックの歌手かミュージカルにも出たことがあるクラシック歌手である。バーンスタイン自身がドイツ・グラモフォンにレコーディングした「ウエスト・サイド・ストーリー」に聴かれるように、クラシックの歌手が歌った場合は声が肥大化してしまって余り良い結果が出ないのだが、今回は歌手達は健闘した方だと思う。ただジェッツやシャークスが集団で出てきて歌う時は、ギャングなのに首を振って音楽を聴いているだけでそれらしさが出ず、違和感がある。かといってクラシックの歌手達が踊れるはずもなく、粋なパフォーマンスを繰り広げるというわけにもいかないのでどうしようもない。そういう上演なのだと思うしかない。

コンサート上演を前提にしたものであり、ストーリーは飛び飛びになっているが、それでもラストに感動していまうのは音楽の力ゆえあろう。

残念ながらBunkamuraオーチャードホールは渋谷のど真ん中にあり、JR渋谷駅に向かうためには道玄坂の人混みを突っ切る必要がある。コンサートの余韻に浸れる環境にはない。出来ることなら別の会場で、パーヴォ指揮の「ウエスト・サイド・ストーリー」を聴いてみたい。



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2018年3月 5日 (月)

コンサートの記(352) ヘスス・ロペス=コボス指揮 日本センチュリー交響楽団第187回定期演奏会

2013年12月3日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、ザ・シンフォニーホールで、日本センチュリー交響楽団の187回定期演奏会を聴く。今日の指揮者はスペインを代表する名匠ヘスス・ロペス=コボス。「ス」で韻を踏んだ(?)粋な名前(??)の指揮者である。スペインは、器楽演奏などにはパブロ・カザルス(チェロ。晩年は指揮者としても活躍))、ナルシソ・イエペス(ギター)など世界最高と謳われた名手も多く(特にクラシックギターでは他国の追随を許さない)、作曲家にもファリア、アルベニス、グラナドス、ロドリーゴ、モンポウなど大物がいるが、指揮者に関しては、ヘスス・ロペス=コボスとラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスの二人が突出した存在で、他に巨匠クラスはおらず、指揮者大国というわけではない。スペインの若手指揮者で、京都市交響楽団に客演したパブロ・ゴンザレスがおり、彼はなかなかの実力者であると思われる。

曲目は、レスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」第3番、レスピーギの交響詩「ローマの噴水」、ファリアのバレエ音楽「三角帽子」。

安めのチケットを買ったら、1階席の最前列であった。最前列は演劇なら特等席であるが、クラシック音楽の場合、指揮者の動き、特に手の動きがほとんど見えず、音響もオーケストラ奏者に近すぎてバランスが悪いため、安い値段で売られることがある。場合によっては発売すらされない。
だが、そこは世界に名高いザ・シンフォニーホール。視覚的には今一つであったが、響きは最前列であってもバランス良く響く。

ロペス=コボスの指揮であるが、極めて丁寧であり、澄み切った美しい響きをセンチュリー響から引き出す。立体感もあり、極上のサウンドだ。

レスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」第3番は弦楽のみの作品。バロック以前の作曲家がリュート(ギターの先祖のようなもの)のために作曲した作品の主題を基にオーケストラのために書いたものである。
ロペス=コボスは韻を踏んだ(??)風流な名前(???)の通り、風通しの良い、雅やかな演奏を展開する。

レスピーギの交響詩「ローマの噴水」。川の源流のように澄み切った音をロペス=コボスはセンチュリー響から掬い上げる。繊細な演奏であり、強弱の付け方も細やか且つ自然である。

メインであるファリアのバレエ音楽「三角帽子」。ソプラノの歌が入る曲が2曲あり(そのうち1曲は作曲者の指定で、舞台袖で歌い、姿は見せない)福原寿美枝が歌う。
「三角帽子」はストラヴィンスキーの作風に影響を受けていることがよくわかり、変拍子も多用される。ただ、旋律や響きは紛れもないスペインのものである。第1曲はオーケストラ団員による手拍子と掛け声付きである。
ファリア自身も他の作曲家の作風に影響されすぎたという自覚があったのか、ベートーヴェンの交響曲第5番の冒頭を敢えてパクる場面もある。
ロペス=コボスの指揮であるが、やはりスペインものは十八番、音の美しさとスペイン的な土俗感を止揚して、ローカル且つ普遍的という高度な技を成し遂げる。やはり世界的な指揮者にお国ものを振らせると、第一級の音楽が生まれることを再確認する。センチュリー響もパワフルな演奏で、ロペス=コボスの指揮に応え、福原寿美枝の歌も表情豊かで良かった。

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2018年3月 4日 (日)

コンサートの記(351) アンサンブル九条山コンサート vol.5 「波形 スペクトル楽派―新音響言語の誕生」

2018年2月28日 京都芸術センター講堂にて

午後7時から、京都芸術センター講堂で、アンサンブル九条山(くじょうやま)コンサート vol.5 「波形 スペクトル楽派―新音響言語の誕生」を聴く。

曲目は、ジャチント・シェルシの「ホウ」よりⅠ,Ⅱ,Ⅴ(ソプラノのための)、カイヤ・サーリアホの「灰」(アルト・フルート、チェロ、ピアノのための)、フィリップ・ユレルの「ループスⅡ」(ヴィブラフォンのための)、トリスタン・ミュライユの「沈みゆく太陽の13の色」(フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、エレクトロニクスのための)、ジャン=リュック・エルヴェの「外へ」(クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための)、フィリップ・ルルーの「恋しい人、よろしければ ……18世紀のフランス民謡から」(ソプラノのための)、ジェラール・グリゼーの「タレア」(フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための)

出演は、アンサンブル九条山(フルート・若林かをり、クラリネット・上田希、ヴァイオリン・石上真由子、チェロ・福富祥子、ソプラノ・太田真紀、打楽器・畑中明香、ピアノ・森本ゆり)、有馬純寿(ありま・すみひさ。エレクトロニクス。ミュライユ作品のみ)、若林千春(男性。若林かをりの旦那さん。指揮。グリゼー作品のみ)

フランスを中心に生まれたスペクトル楽派に分類される作曲家の作品が並ぶ。現代音楽の中でも比較的新しい潮流の作品群であり、耳に馴染みの良い音楽ではないだろうが、新しい響きを追求した作品だけにそれは当然であるとも言える。

私が名前を知っていてCDも持っているのはフィンランド出身のサーリアホだけだが、他の作曲家の作品も興味深い。
畑中明香(はたなか・あすか)のヴィブラフォン独奏によるフィリップ・ユレルの「ループスⅡ」はミステリアスな音響が印象的だし、サーリアホ作品の微妙なグラデーション(ピアノの森本ゆりがピアノの弦に直接触れて音を出すという特殊奏法もある)、トリスタン・ミュライユの「沈みゆく太陽の13の色」における宇宙的な拡がり、ジェラール・グリゼーの「タレア」では突然現れる民謡風の旋律などが耳に新しい。

スペクトル派の音楽を聞き込んでいるわけではないので、「わかりにくい」と感じたことも事実だが、現代音楽を得意とする演奏家達の好演により、純粋に音楽として楽しめる仕上がりとなっていた。もっと内容を掘り下げて書けたら良かったのだが、わからないものを「わかる」とは言えないのである。



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2018年3月 2日 (金)

観劇感想精選(231) 兵庫県立ピッコロ劇団第60回公演「マルーンの長いみち ~小林一三物語~」

2018年2月27日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後7時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで兵庫県立ピッコロ劇団第60回公演「マルーンの長いみち ~小林一三物語~」を観る。阪急、宝塚歌劇団、東宝の創業者である小林一三(いちぞう。「かずみ」と読んだ場合はケラリーノ・サンドロヴィッチの本名になる)の一代記。「マルーン」とは「栗」のことであり、阪急電車の車両の色を表している。作:古川貴義、演出:マキノノゾミ。出演:瀬川亮(客演)、若杉宏二(客演)、平井久美子、平みち(特別客演)、今井佐和子、岡田力(おかだ・つとむ)、木全晶子(きまた・あきこ)、菅原ゆうき、孫高宏、橘義(たちばな・ただし)、野秋裕香(のあき・ゆか)、浜崎大介、三坂賢二郎、森万紀、吉村祐樹ほか。吉村祐樹演じる小西酒造の小西新右衞門を狂言回しとして物語は展開される。

幕が上がると、出演者達が総出演で、完全停止状態からゆっくりと動き出す。上手と下手に光で文字が浮かび上がり、小林一三の前半生が説明される。小林一三(この劇では瀬川亮が演じる)は1873年1月3日、山梨県北巨摩郡韮崎町(現在の韮崎市)生まれ。誕生日の1月3日にちなんで一三と名付けられている。慶應義塾(この当時はまだ大学ではなく各種学校から旧制専門学校に昇格したばかり)を卒業後、新聞記者を志すも果たせず三井銀行に入社、大阪支店に勤務。この時代に後に夫人となる丹羽コウ(この劇では平井久美子が演じる)と出会っている。名古屋支店に転勤後、再度大阪へ。物語はこの時、小林一三が数えで27歳の年に始まる。
小林はアキという女性と見合い結婚したばかりだが、早くも不仲であり、アキは東京の実家に帰ってしまう。三井銀行大阪支店に転勤したばかりの小林だが、早々に3日連続で無断欠席。実は小林は丹羽コウと有馬温泉に行っていたのだ。名古屋時代から小林の家政婦として働いている、かよ(今井佐和子)は小林とコウに結婚を勧める。

小林は東京に転勤。その後、北浜銀行の創設者である岩下清周(いわした・きよちか。演じるのは若杉宏二)に請われて新設の証券会社の支配人に着任すべく大阪に戻るが、折からの不況で話自体がなくなってしまい、34歳にして浪人生活に。小林は電鉄事業に可能性を見いだし、箕面有馬電気軌道(略称:箕有「きゆう」鉄道。現在の阪急宝塚線の前身)の設立に尽力。岩下清周はこの時、多額の設立資金を出資し、小林の要請により箕有鉄道の初代社長に就任する。
自身は箕有鉄道の専務となった小林。梅田から箕面を経て宝塚まで伸びる箕有鉄道であったが、箕面は田園地帯。必要性があって作られる鉄道ではあったが採算の取れる見込みはない。田舎を走るため「ミミズ列車」などと開業前から笑われていたが、小林は池田市を中心とした土地を買い上げ、そこに住宅街を作ることで街と乗客を一度に生み出すという奇策を発案、成功する。こうして鉄道事業を軸に乗せた小林は、宝塚に新たなレジャー施設を開設。室内プールをメインとするこの宝塚新温泉パラダイスは失敗に終わるが、丁度、流行っていた三越少年楽団にヒントを得て、室内プールを劇場に改装した宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)の第1回上演「どんぶらこ」(桃太郎を題材にした喜歌劇)は大成功を収める。その後も、豊中グラウンドでの全日本中等学校野球選手権大会(現在の全国高等学校野球選手権大会の前身)、宝塚での職業野球チームの結成(のちの阪急ブレーブス)、ビジネス街であった梅田に阪急百貨店を創設するなど、アイデアを次々を形にしていく。私利私欲と誹られることもあったが、小林は岩下の「実業家には二種類ある。一つ目は金銭を第一に考えるもの。二つ目は国民の幸せを願うもの」という言葉を胸に、「二つ目でありたい」と強く願っていた。

谷崎潤一郎や大澤壽人などに代表される阪神間モダニズムそのものの生みの親ともいうべき小林一三。阪神間に限らず、関西地方在住なら観ておきたい芝居である。劇そのものはともかくとして小林一三という男の人生はとにかく面白い。

元宝塚の平みちは、まず宝塚の男役スターとして登場して、「モン・パリ」を歌う。その後、与謝野晶子としても登場。ラストでは「スミレの花咲く頃」のリードボーカルと取った。

阪急創業者の話を阪急中ホールで行うということで、開演前のベルは阪急電車のアナウンスがあるときのもの、開演時のベルは阪急電車発着時のものが使われていた。また第2幕開演前には「スミレの花咲く頃」のチャイムが流れた。



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2018年3月 1日 (木)

Happy Birthday! ショパン 「24の前奏曲」より第24番(ピアノ:園田高弘)

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好きな短歌(38)

明日ありと思う心の徒桜
夜半に嵐の吹かぬものかは(親鸞聖人)

親鸞聖人が9歳の時に、青蓮院で得度する前に詠んだ歌と伝わる。

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笑いの林(102) 「超・笑激的!SP! ~人気芸人達のネタとコーナーライブ~」 2018年2月24日

2018年2月24日 大阪・なんばのYES THEATERにて

午後2時から、大阪・なんばのYES THEATERで、「超・笑激的!SP! ~人気芸人達のネタとコーナーライブ~」を観る。
出演は、ネイビーズアフロ、ラニーノーズ、吉田たち、桜 稲垣早希、ゆりやんレトリィバァ、見取り図、学天即、かまいたち、モンスターエンジン(登場順)。今回はコーナーはネタの出演者とは別の若手芸人達が務める。

ネイビーズアフロ。二人とも京都市立堀川高校を経て神戸大学を出ている高学歴コンビである。皆川が「誕生日当日に振られた」というので、はじりが彼女に扮してその時の様子を再現するのだが、はじりが演じる彼女が「ハッピーバースデー! お誕生日おめでとう!」と言うと、皆川が「同じこと2回いうの? サハラ砂漠と一緒? サハラも砂漠って意味だから砂漠砂漠だもんね? あ、フラダンスもそうだ! フラはダンスって意味だからダンスダンス」と蘊蓄がうるさい。はじりが「お手紙書いてきた」というと皆川も「俺も!」と返すが、皆川が書いたのは未来の自分への手紙。そして午前0時になると自分が自分宛に書いた手紙を読み始めるなど、明らかに袖にされそうな男子を演じていた。

ラニーノーズ。ギターネタが多いラニーノーズだが、今回は音楽ネタであるがギターは用いない。
ヒロミという女性に振られた山田は、洲崎と共に登山に来る。山田が「ヤッホー!」と叫ぶと山彦が帰ってくるのだが、「It's a Beautiful Day」と言っても山彦は帰ってこない。
洲崎は「山に登り慣れてるから山彦操れるねん」と言って、「下手なボイスパーカッション」をやるとパーカッションで奏でた音が帰ってくる。そして、洲崎はヒロミとつき合い始めたことを告白する。

一卵性双生児の漫才コンビ、吉田たち。こうへいが「歌が上手いとモテる」というので、一人カラオケなどで練習しているというが、歌ってみると上手くない上に、ゆずの「夏色」の歌詞を「ゆっくりゆっくり火を付ける」と1番と2番をごっちゃにしたものを歌って、ゆうへいに「なんや、そののんびりした放火魔は?」と突っ込まれる。
KinKi Kidsをキンキキキキッズと言い間違え、「硝子の少年」を歌い出すが、出だしを2番冒頭のメロディーで歌ってしまい、2番を歌うと「絹のようなバスストップ」と1番の歌詞を混ぜて歌ってしまう。ゆうへい「なんやその上質そうなバスストップは? シルキーバスストップか?」

桜 稲垣早希。今日は「キスから始めよう」をやる。持ち時間が短めであるため、エヴァンゲリオンネタはカットして、途中のアンパンマンとバタコさんの下りから行う。「ドラえもん」のジャイアンとしずかちゃんの壁ドンはかなり受けていた。今日は、一休さんの「慌てない慌てない一休み一休み」というセリフがラブホテルで一休みという意味で使われるというネタが久しぶりに復活していた。

ゆりやんレトリィバァ。街角で見かけるちょっと迷惑な人ネタをやる。「傘、横に持つな!」、「エスカレーターで昇っている人、一番上でちょっと止まるの止め!」といった人達を挙げる。その後で突然踊り出して笑いを取るのだが、どういう動きをしたら人が笑うのかよくわかているようだ。

見取り図。盛山が「都道府県あるある」というゲームをやろうと提案する。都道府県の名称を挙げて、その都道府県にゆかりのものを挙げていくというゲームである。「大阪だったらたこ焼きという風に」。相方のリリーが都道府県の名前を言い、盛山が答えるのだが、
リリー「愛媛」
盛山「みかん」
リリー「香川」
盛山「うどん」
リリー「徳島」
盛山「鳴門」
リリー「高知」
盛山「坂本龍馬」
リリー「愛媛」
盛山「なんで、四国だけ?」
となる。
今後は盛山が都道府県を挙げることになるが、
盛山「鳥取」
リリー「鳥取砂丘」
盛山「山形」
リリー「山形砂丘」
盛山「宮城」
リリー「宮城砂丘」
と砂丘だらけになってしまう。
今度はリリーが「出雲大社以外で、島根」と言うが盛山は「ないよ! 無理!」

楽天即。四条が小学校時代のことを聞かれて、「賢かった。勉強出来た。図工、音楽、体育、道徳みな100点」と言って、奥田に「みんな副教科」と指摘される。
奥田が「トントンとやって振り返ってたら指立ててる」という小学生がよくやるいたずらを語るが、四条が奥田の肩をトントンとやり、奥田が振り向くと四条は思いっきり中指を立ててみせ、奥田に「違う違う、お前の中学校、治安悪かったん? デトロイトの中学校やったん? よく道徳100点やったな」と言われる。

かまいたち。山内が「この間、UFJ行ったらゾンビが出てきて」とハロウィンの話をするが、濱家に「UFJやなくてUSJやろ。UFJにゾンビ出たら、そりゃびっくりするわ。ゾンビが残高確認してるのか」と突っ込まれる。だが山内は自分ではなく濱家がUSJとUFJを間違えたという展開に持ち込もうとして、「僕が言い間違えたとしたらなんでこんなに堂々としてるの?」と開き直る。
だが、山内が再度、同じ話をしようとすると「UFJ」とまた間違えてしまい、濱家に「間違えてるやん!」と頭をはたかれて終わる。

モンスターエンジン。西森が、「最近は芸人も副業をしていることが多いので副業を始めたい。パン屋をやりたい」というのだが、特にパンに詳しいわけでも思い入れがあるわけでもない。目指すパンに関しても「外はもちっと中はかりっと」など理想論を述べるばかり。新しいパンに関してもマヨネーズコーンなど、すでのあるパンを語ったり、卵ロールの上に蟻を乗せるなど、誰も買いに来そうにないパンを提案したりしてしまう。店名は「ノーパンライフ」だそうだが、相方の大林が「ノーパン、ノーライフやろ(パンは英語ではないので、そうした言い方も存在しないのだが)。ノーパンライフやったらノーパンでの生活や」と突っ込むも西森は「そのつもりだった」と答えていた。


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