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2018年5月 3日 (木)

観劇感想精選(240) 二兎社 「歌わせたい男たち」

2008年4月19日 大阪・梅田のシアター・ドラマシティにて観劇

午後7時より、大阪のシアター・ドラマシティで、二兎社の公演「歌わせたい男たち」を観る。作・演出:永井愛。出演:戸田恵子、大谷亮介、中上雅巳、小山萌子、近藤芳正。

高校の保健室が舞台。テーマは国歌斉唱である。もっとも、歌いたくない女を歌わせようとする男達というわかりやすい構造は取らない。そもそも、そんな誰でも思いつく構想の作品だったら、いくら永井愛の作・演出といえども観たいという気にはなれなかっただろう(永井愛も最初は歌いたくない女と歌わせたい男の設定にしようかと思ったそうだが、それでは物語がふくらまないということでやめたとのことだ。正解だと思う)。

音大を出てシャンソン歌手として活動を続けたものの、売れないままいい歳になってしまった仲ミチル(戸田恵子)は、高校の音楽教諭の免許をいかして、何とかかんとか、ある都立高校の音楽教師になることが出来た。音大時代はピアノが得意だったが、長いことろくにピアノを弾いていなかったので、今やピアノの腕は散々。ミスタッチが多いので、生徒に「ミス・タッチ」とあだ名され、与田校長(大谷亮介)なども陰では「ミス・タッチ」と呼んでいたりする。それほどピアノの腕のまずい彼女が音楽教師になれたのには理由があった。前任の音楽教師が、国歌の伴奏を拒否して学校を辞めてしまったのだ。ミチルが着任した高校には、国歌斉唱に反対する教師がおり、音楽教師もその問題にシビアになるため、次々に学校を去っていった。ミチルが音楽教師になれたのは、もう他に音楽教師を探し出すあてがなかったからである。

ミチル自身は国歌のピアノ伴奏をすることに特に抵抗は感じていないのだが、国歌斉唱が義務づけられた状態の都立高校にあって、国歌斉唱に反対の立場を取る拝島(近藤芳正)という教師のいるこの高校では、校長を始めとする教師達は、懲罰を怖れて、何が何でも滞りなく卒業式を終えねばならないとやっきになっていた……。

国歌斉唱が本来の意義からずれて強制を伴うようになり、違反した場合は懲罰まであるという何とも妙な現状が描かれているのだが、主役は誰で、根本は何かが問われないまま、形式だけが奉られる状態はシニカルな笑いを誘う。

あらゆることの根本であり、主役であるのは人間のはずなのだが、このままでは、主役は儀式ということになってしまい、また本来は人間が利用するはずの思想も、いつの間にか固定されてしまって逆に人間を振り回している。

結局、根本が問われないまま、不必要に入り組んだ思考でやっとたどり着くのはねじれにねじれた答え。普通に考えれば、ねじれがなければ出てこない答えは、それそのものが不自然である。そんな不自然な過程を踏まなければならない人間存在は哀れであると同時に滑稽である。

多くのものが転倒する現代社会。戦争反対の思想が争いを生み、存在しないものの方が実在の人間よりも価値が置かれる。

転倒はある意味では歴史の必然である。言葉もなく、意識も不分明だったころの人間を想像してみる。多くの言葉を持たない動物や植物と同じように、その頃の人間にとっては存在こそが価値だったはずだ。ところが人間はもう、価値あるものや価値があるとされるものに奉仕(あえて「奉仕」という言葉を用いる)しなくては存在意義を否定すらされる。完全に価値が転倒してしまっているのだ。これも奇妙といえば奇妙ではある。もう奇妙などとは言っていられないところまで人間は来てしまっているのだが(ただし人間の価値に関していうなら、後戻りが完全に不可能だとは私は考えていない)。

人間は本来もっとシンプルな存在だったはずなのだが、歴史を経て、もともとの意義からずれた場所でずれたことをするようになる。これはある意味避けられない。

国歌斉唱も、最初はそれほど重要な意義はなかったはずだ。あったとしても、富国強兵の日本を打ち立てるための国民意識向上と国威高揚のための国歌としての意義。そして、外国にも国歌があるんだから日本にも国歌があってしかるべきといった程度の認識だったはずだ。しかし戦争を経て、それが大きくねじれてしまう。

ねじれた存在であったとしても、そのねじれた存在として受けいれられる可能性もなくはなかったのだが、思想の闘争により(思想の闘争だってある意味戦争である)、元々の場所から更に遠い場所、もう誰も正確な認識など出来ない場所へと遠ざけられてしまった。
思想も信条も人間を縛るためのものなのか。ある意味そうであり、ある意味そうでない。そうでないなどと断言は出来ない。

しかし、多くの人が「妙だ」と思いながらも思想や信条に推し進められて状況だけが暴走する状態に終止符を打つことは誰にとっても困難である。あらゆる人間は、もうシステム化された社会の下に置かれてしまっているからだ。転倒した社会の中で誰一人として主役になることなく世界は進んでいく。客観的に見た場合、この状況は悲しくも滑稽以外の何ものでもない。
と、劇本来の内容からはずれた場所に私も出てしまっているわけだが、これは私が考えさせてくれる劇を好み、「歌わせたい男たち」がそうした考えさせてくる劇だったからである。

「歌わせたい男たち」というタイトルには二重の意味がある。もっと正確にいえば、歌わせたい曲は最低でも二曲ある。一曲はいうまでもなく「君が代」。もう一曲は……、ここまでバラしてしまうと面白くないか。

役者についていうと、舞台に近い席で観たということもあり、戸田恵子の──テレビからは伝わってこない──チャーミングな魅力を味わうことが出来た。また戸田の歌声はとても素敵だった。

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