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2018年5月の25件の記事

2018年5月26日 (土)

観劇感想精選(243) 「1984」

2018年5月16日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「1984」を観る。ジョージ・オーウェルのディストピア小説の舞台化。脚本:ロバート・アイク&ダンカン・マクミラン、テキスト日本語訳:平川大作、演出:小川絵梨子。新国立劇場の制作。出演:井上芳雄、ともさかえり、神農直隆(かみの・なおたか)、曽我部洋士(そがべ・ひろし)、武士太郎(たけし・たろう)、山口翔吾、森下能幸(もりした・よしゆき)、宮地雅子、堀元宗一郎、下澤実礼。

近未来。人々がオーウェルの『1984』を読んで語らっている。彼らから少し離れたところにいるウィンストン・スミス(井上芳雄)は、監視された世界の住人としてエクリチュールを試みているうちに、オーウェルが書いた1984年の世界に入っていく。そこでは世界がオセアニアとユーラシア、イースタシアの3国に分かれて争っている。ウィンストンのいるオセアニアでは巨大政党が専制を行っており、国民は全て監視下にあった。ニュースピークという言葉が使われているのだが、それは年々、語彙が減っており、簡潔になっている。思想統制が行われており、ビッグ・ブラザーに刃向かう者は思考犯(思想犯ではない)として拷問され、あるいは抹殺されていた。無謀にもビッグ・ブラザーに反旗を翻そうとしてウィンストンは、ジュリアという美しい女性(ともさかりえ)と出会い、勇気づけられるのであったが……。

映像やマジックミラーなどを効果的に用いた演出である。

個がシステムに飲み込まれ、思考すること自体が犯罪となる世界を描いた舞台である。そこでは個人であるということが否定され、個々は全体の一つでしかない。
ウィンストンは、最後まで個の尊厳を守ろうとするのが、メリッサを裏切ることで、最後の砦を失ってしまう。

大きな流れの中にあること、ものを考えなくてもよいことは楽で心地よく、人から支持されやすいだけに人々は飲み込まれやすい。そういえばマクロビオティック狂信者になっていた時代の×××は思考を放棄しただけあって実に生き生きとしていた。そう、ポピュリズムとは快活なものなのだ。そして極めてプライベートであるが故に広汎性を持ち、受け入れられていく。まさに思考警察化だ。
そして、もし自分が演劇的、文学的、芸術的でありたいと欲する人間は、思考犯であるべきだと当然ながら思う。そうなれない表現者はビッグ・ブラザーに魂を売ったのだ。いや、見渡してみれば、もうビッグ・ブラザーに魂を売った、というよりも自分がビッグ・ブラザーとうそぶく人ばかりだが。
ビッグ・ブラザーは特定の誰かではなく、我々民衆の総体なのだ。



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2018年5月25日 (金)

コンサートの記(389) クシシュトフ・ペンデレツキ指揮 大阪センチュリー交響楽団第132回定期演奏会

2008年6月30日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時より、ザ・シンフォニーホールで、大阪センチュリー交響楽団の第132回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、現役最高の作曲家の一人であるクシシュトフ・ペンデレツキ。自作2曲とメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」を振る。

開演20分前からプレトーク。しかし今日の担当者は異様に早口な上、マイクも性能が良くないようで、私が座った2階席後方では何を言っているのかはっきりとは聞き取れないところがあった。1階席の前の方では良く聞こえていたようで、担当者のジョークに笑い声を上げている人も多かったが、2階席はやはり聞こえない人が多いようで、1階席とは別の空気が漂っていた。
それでも、ペンデレツキが左利きでタクトも左手に持つという話は聞こえた(今日のコンサートでは全曲ノンタクトだったが)。左利きの比率はどの人種においても約十人に一人なので、左利きの指揮者も少なくないのだが、左手に棒を持たれるとオーケストラが戸惑うことが多いので、左利きでも指揮棒は右手という人がほとんどである。朝比奈隆もそうだった。
左利きで左手に指揮棒を握る有名指揮者は、パーヴォ・ベルグルンドなど、数えるほどしかいない。

先日、下野竜也指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏会でも作品が取り上げられたペンデレツキ。その繋がりなのか、先日の大阪フィルのコンサートで客演コンサートミストレスを務めた四方恭子が、今日は何と大阪センチュリー交響楽団のゲスト・コンサートミストレスに招かれている。


まずは、ペンデレツキの弦楽のための小交響曲。刻みのトゥッティの後、ヴィオラ、チェロ、ヴァイオリンの順に首席奏者がソロを奏で、やがて各楽器群が高度な技術を要する合奏を展開する。特にチェロは左手も右手も大忙しで、難曲であることがよくわかる。
切れ目なしで第2楽章に続く。第2楽章は単純な音型が繰り返されるミニマル・ミュージックのテイスト。旋律自体は硬派だが、リズミカルな曲調であり、硬質のダンス曲といった趣である。


続いて、ペンデレツキのホルン協奏曲「ヴィンターライゼ(冬の旅)」。先月5日に世界初演が行われたばかりという、ペンデレツキの新作。5日前に東京において日本初演が行われ、今日のコンサートでの演奏が関西初演となる。
ホルン独奏は、名手ラドヴァン・ヴラトコヴィチ。見るからに聴くからに高度な技術が必要な曲であるが、ヴラトコヴィチはこれをスイスイ吹いてのける。音量も豊かで音色も輝かしい。
ホルン協奏曲「ヴィンターライゼ」は、わかりやすいとは言えないが、SF映画の音楽を思わせるところもあったりして、取っつきにくい曲ではない。この曲も2つの楽章が続けて演奏される。

ヴラトコヴィチはアンコールとして、メシアンの「峡谷から星たちへ」からの1曲を演奏。これが、ホルンという楽器の可能性を極限まで追求したような曲であり、高音、怖ろしいほどの弱音など、ホルンが出しているとは思えないような音が次々に繰り出される。ヴラトコヴィチの超絶技巧に、客席から惜しみない拍手が送られる。


メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。この曲も作曲者の指示により、4つの楽章が楽章間の小休止を挿まずに連続して演奏される。考えてみれば、今日演奏された曲は全て楽章間に小休止がない。

ペンデレツキの指揮はかなり情熱的であり、ティンパニの強打、金管の強奏も目立つ。ペンデレツキは指揮者としてはどうやら力強い音を好んでいるようである。大阪センチュリー交響楽団は中編成のオーケストラなのだが、ペンデレツキは全ての楽器を強く弾かせるため、分厚い音が出る。その一方で、全てのパートに対して均等に強い音を要求するため、浮き上がらせた方が良いはずの旋律が埋もれてしまったりと、細かいところがわかりにくくなる上に一本調子にもなる。今日CDで聴いたアクセルロッドとは正反対のアプローチである。

力強い演奏ではあったが、単調で暑苦しい「スコットランド」でもあった。作曲家としてのペンデレツキは超一流であるが、指揮者としては残念ながら一流には届かないようだ。
とはいえ、現役最高の作曲家の一人であるペンデレツキに敬意を込めた拍手が鳴り響く。特別な人物が指揮をしたコンサートであり、こうしたハレの場においては、その特別な人物と同じ空間と時間を共有したことこそが演奏内容以上に重要なのかも知れない。

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2018年5月24日 (木)

コンサートの記(388) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団  ベートーヴェン交響曲全曲演奏会第1回

2018年5月17日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団によるベートーヴェン交響曲全曲演奏会第1回を聴く。大阪フィルが朝比奈時代から何度も繰り返し行って来たベートーヴェン交響曲チクルスの新シリーズである。

札幌交響楽団時代にもベートーヴェン交響曲全曲演奏を行っている尾高忠明。大阪フィルのシェフに就任してまず大フィルの看板企画に挑むことに決めた。

今日の演目は、バレエ音楽「プロメテウスの創造物」序曲、交響曲第1番、劇音楽「エグモント」序曲、交響曲第2番。

今日のコンサートマスターは崔文洙。ベートーヴェンの初期交響曲であるが、第1ヴァイオリン12型と大きな編成での演奏。ピリオド・アプローチを採用しているが、スケールは大きく、ベートーヴェンの初期作品ではあっても大交響曲として演奏していることがわかる。

今日もノンタクトで指揮する尾高忠明。やや速めのテンポでの演奏。エネルギー放出量は大きいが、弦楽にHIPを取り入れているためか暑苦しくはならない。
フォルムの堅固さも特徴であり、朝比奈以来のDNAが保たれているのが確認出来た。
時折、音像が雑になるところもあったが、第1回の演奏としては上出来だったように思う。

全曲演奏終了後、尾高は、「あと7曲ありますので、よろしくお願いします」と言い、最後は「おやすみなさい」のポーズをして指揮台を後にした。


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玉置浩二 「行かないで」(CX系ドラマ「さよなら李香蘭」主題歌)


李香蘭(山口淑子)映像バージョン

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2018年5月22日 (火)

西村雅彦&伊藤俊人&白井晃 「今泉君を讃える歌」

なぜかカラオケにも入っています。昨日、歌ってきました。

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2018年5月20日 (日)

コンサートの記(387) 寺岡清高指揮大阪シンフォニカー交響楽団第125回定期演奏会 ハンス・ロット 交響曲第1番

2008年5月13日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時より、大阪のザ・シンフォニーホールで、大阪シンフォニカー交響楽団(現・大阪交響楽団)の第125回定期演奏会を聴く。指揮は大阪シンフォニカー響正指揮者の寺岡清高。

「ベートーヴェンと世紀末ウィーンの知られざる交響曲シリーズ」と銘打たれた4回公演の第1回目。前半がベートーヴェンの交響曲第2番、後半がハンス・ロットの交響曲第1番というプログラム。

寺岡清高は早稲田大学卒業後、桐朋学園大学で学び、更にウィーン国立音楽大学でも指揮を専攻した。その後もイタリアのキジアーナ音楽院やフィエゾーレ音楽院などで学んでいる。師はカルロ・マリア・ジュリーニ、ネーメ・ヤルヴィ、ヨルマ・パヌラなど。2004年に大阪シンフォニカーの正指揮者になっている。昨夏は、急病のネーメ・ヤルヴィの代役としてイギリス室内管弦楽団を指揮してロンドン・デビューを飾った。ところで本当にネーメさんは急病になったのだろうか。師が急病だと偽って弟子にチャンスを与えることはたまにある。

25歳で夭逝したハンス・ロット(1858-1884)の交響曲第1番が演奏されるというのが珍しい。

ハンス・ロットはウィーンの生まれ。16歳でウィーン音楽院に入ってアントン・ブルックナーに弟子入りし、その才能を認められている。2歳下のグスタフ・マーラーは同門であり、親友でもあった。

20歳で交響曲第1番の第1楽章を完成させるが、ブルックナー以外の教師には認められなかった。それでもその2年後には交響曲第1番を完成させ、憧れの存在であったヨハネス・ブラームスを訪問し、ブラームスが審査員を務めていたベートーヴェン大賞に交響曲第1番を応募するが、ブラームスから酷評されて精神を病み、精神病院に入院。回復することなく25歳で亡くなった。

ハンス・ロットの交響曲第1番が初演されたのは、ごく最近のこと。1989年、アメリカのシンシナティにおいてだった。

私が最も信頼している若手指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ(いうまでもなくネーメの息子)は、ハンス・ロットを高く評価していて、インタビューで「録音したい」とも語っていた(その後、フランクフルト放送交響楽団と同曲を録音、名盤となった)。ということで聴いてみたくなったのである。
寺岡はネーメの弟子なので、ハンス・ロットの交響曲第1番を取り上げるのも自然という気もする。

ベートーヴェンの交響曲第2番。寺岡がこの曲を前半に取り上げた理由は、後半のハンス・ロットの交響曲第1番を聴いてわかった。

大阪シンフォニカー交響楽団はアメリカ方式の現代配置を採用。日本のオーケストラとしては珍しい。
3階のステージ左手上の席に座ったということも影響しているのかどうか、ヴァイオリンの響きは実に艶やかだが、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの響きが鈍く聞こえる。

管はまずまず充実していたが、第2楽章でホルンの目立つキークスがあり。

寺岡の表現は中庸を行くもので、悪いところはないが、良いところも余り見つからない。活きの良さを強調するでもなく、音の美しさを追求するでもない。強弱のつけ方は、良く言うと大らか、悪く言うと大雑把である。安心して聴けるベートーヴェンであるが、その分、もの足りなさも感じる。

後半のハンス・ロットの交響曲第1番。
初めて聴く曲だが、青春の息吹が感じられる作品であった。ベートーヴェンの「青春の歌」ともいえる交響曲第2番と組み合わせられたのも納得。

清々しい響きの目立つ曲で、金管などの強奏に浅さが感じられたり、まとまりの悪い箇所もあるが、格好いい音型も多く、オーケストレーションも巧みで、聴かせる。また、鳥の鳴き声を模す音型があるなど、大自然の響きを感じさせる拡がりのある音楽が展開される。第3楽章は、マーラーの交響曲第1番「巨人」の第2楽章に似た舞踏の旋律である。オーストリアの田舎の舞踏をモチーフにしているので似たものになったのかと思いきや、どうもマーラーはハンス・ロットのオマージュとして似た旋律を敢えて書いたらしい。

ブルックナーやマーラーの影響と、ブルックナーやマーラーにも影響を与えたことが窺える作品だ。完成時のロットは22歳。早熟の筆による充実のシンフォニー。

だが、どうも妙なのである。4楽章からなる交響曲なのだが、全ての楽章が太陽の光を燦々と浴びているようで、陰影に乏しい。たまに影のある音型が出てきても、すぐに明るめの旋律で否定されてしまう。

ハンス・ロットの師のブルックナーにしても、友人のマーラーにしても陰影は濃厚である。マーラーの音楽の場合には更に激しい葛藤もある。なのにハンス・ロットの音楽にはそれが感じられないのだ。

明るい未来を夢見る若者の曲であるが、人間である以上、もっと葛藤があってもいいと思うのだがそれがない。全楽章を通して、夢見がちな若者の明るい未来を疑わない音楽に終始する。

そして、第4楽章では、明らかにブラームスの交響曲第1番第4楽章を意識した凱歌が流れ、ラストも自己讃美のように聞こえなくもない。葛藤もないのに凱歌を奏でていいものか。

ブラームスは実はハンス・ロットの音楽を否定したのではなく、人間性に疑問を持ったのではないだろうか。ブラームスはブルックナーと折り合いが悪く、ブルックナーの弟子のハンス・ロットに好感を抱いているはずはなかった。そのロットが賞に曲を発表する事前に自分を訪ねてきて、応募した曲に自己の楽曲の影響を受けたことの窺える部分があったのなら、「媚びを売っている」と思われても仕方がないような気もする。

実は、ハンス・ロットは、ブラームスに作品を酷評されてベートーヴェン大賞には落選するが、同時に応募した芸術家奨学金(審査員はやはりブラームス)が下りたのである。ブラームスが作品を全く認めていないのなら奨学金が下りるはずもない。更にブラームスを信奉していた評論家のハンスリックは、ロットのことを褒めているのである。

しかし、奨学金が下りることが決定した頃には、ハンス・ロットはすでに精神病院の中にいた。ロットはブラームスを尊敬していたようで、そのブラームスから酷評を受けたのがショックで発狂したという。ブラームスが自分を殺そうとしていると口走ったともいう。

これも妙だ。師であるブルックナーも、マーラーも、自作の交響曲の初演は失敗することが多かった。ブルックナーは憧れのウィーン・フィルに自身の交響曲を演奏して貰うべく奔走し、リハーサルにまで漕ぎ着けたが、そこでウィーン・フィルのメンバーに作品を否定されるという屈辱まで受けている。しかし、発狂はしなかった。ブルックナーもマーラーも強迫性障害を患ってはいたのだが。

ブラームスに作品を否定されたのがショックなのはわかるが、ブラームスだって神様ではないのである。あらゆる作品の出来を見抜けるとは限らないし、意図的に芸術作品を否定することもある。ブラームスの批評を鵜呑みにしてしまうとは22歳にしては無邪気すぎないか。発狂するほどブラームスに心酔していたということなのだろうが、余りにも冷静さを欠いている。ブラームスに自作を褒められて当然という意気込みがあったのか。ブルックナーには理解されていたのにそれでは駄目だったのか。自意識が強すぎやしないか。
それが夢見る交響曲第1番の作風に繋がっているように思えるのだ。

演奏は、金管がばたつく場面があったりしたが、全般的に見れば充実していた。

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鬼束ちひろ 「流星群」

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2018年5月19日 (土)

コンサートの記(386) 通崎睦美コンサート 「今、甦る! 木琴デイズ」vol.9 ~歌謡曲とタンゴ

2018年5月15日 京都文化博物館別館ホールにて

午後7時から、京都文化博物館別館ホール(旧日本銀行京都支店)で、通崎睦美コンサート「今、甦る! 木琴デイズ」vol.9 ~歌謡曲とタンゴを聴く。

エッセイ『天使突抜1丁目』、平岡養一の伝記『木琴デイズ 平岡養一「天衣無縫の音楽人生」』などでも知られる木琴奏者の通崎睦美のコンサート。今回は、ゲストとしてギターの松本吉夫と京都フィルハーモニー室内合奏団のメンバー(クラリネット:松田学、ファゴット:小川慧巳、ヴィオラ:松田美奈子、コントラバス:金澤恭典)を迎えて送る。

今回、通崎が用いる木琴は、1935年に通崎が私淑する平岡養一がシカゴで購入した、ディーガン・アーティスト・スペシャル・ザイロフォン №266。1962年に低音側に7本の鍵盤が追加され、4オクターブから4オクターブ半の音域に改良されている。

曲目は、木琴+クラリネット+ファゴット+ギター+ヴィオラ+コントラバスの編成で、「丘を越えて」(古賀政男/野田雅巳編曲)、ロシアン・ジプシー・メロディーズ(平岡版。ロシア民謡/松園洋二編曲)、木琴とギターによる「エストレリータ」(ポンセ/平倉信行編曲)、ピアソラの「タンゴの歴史」よりボルデル1900、木琴とギターとコントラバスで「ラ・クンパルシータ」(平岡版。ロドリゲス/西邑由記子編曲)、木琴ソロで「この道~からたちの花」(山田耕筰/西邑由記子編曲)、木琴とヴィオラとファゴットで「雨に濡れても」(バカラック/西邑由記子編曲)、木琴とクラリネットとコントラバスで「オブラディ・オブラダ」(レノン&マッカートニー/西邑由記子編曲)、木琴とヴィオラとコントラバスで「クレズマー・ダンス」組曲(伝承曲/野田雅巳編曲)、木琴とクラリネットで「宵待草」(多忠亮/西邑由記子編曲)、全員登場で「山寺の和尚さん(平岡版。服部良一/松園洋二編曲)、「UFO」(都倉俊一/野田雅巳編曲)。

通崎睦美を含めて京都市立芸術大学音楽学部出身の出演者が多い。それぞれの奏者になぜその楽器を選んだのかを通崎が聞くコーナーがあったのだが、ファゴットの小川慧巳(えみ)は、通崎の中学の後輩で、その中学校には管弦楽部があり、そこに入部。最初はメロディーを弾ける楽器が良いと思い、フルート、ヴァイオリン、クラリネット、オーボエなどを希望楽器として書いたそうなのだが、誰かが「ファゴット空いてるってよ」と言ったため、どんな楽器なのかわからないまま第5希望としてファゴットと記入。結局、ファゴットと書いたのは小川だけで、それからファゴット奏者になったようである。
ヴィオラの松田美奈子は元々は幼少期からヴァイオリンを弾いていたのだが、市立芸大時代にヴィオラの方が人数が少ないから有利ということで転向。当時はバブルの真っ盛りでヴィオラ演奏の仕事が山ほどあり、稼ぎすぎたため学生であるにも関わらず税務署から問い合わせが来たという。
クラリネットの松田学は、最初はトランペット希望だったのだが、唇で形を作ってマウスを吹いて音を出すことが出来ない。一晩練習するも出来ず、即日クラリネットに転向したという。
コントラバスの金澤恭典(かなざわ・やすのり)は、徳島県出身で、徳島県では子供のオーケストラ活動が盛んなのだが、子供の頃に、チェロを見て「格好いい!」と思い、ただ楽器名がわからなかったため、楽器図鑑を見て、「コントラバス」っていうのか、と間違えて覚えてしまい、コントラバスを希望。実際に、コントラバスが出てくると、「なに? この楽器?!」と思ったそうである。

木琴によるクラシック音楽演奏にこだわったという平岡養一。ただ、日本の音楽を演奏することもあり、平岡本人は「隠し芸だ」と語っていたという。

今は、木琴奏者よりもマリンバを演奏する奏者の方が多くなり、本職のプロ木琴奏者は、かつては平岡養一一人、今は通崎睦美一人だけという状態である。そうした中で、木琴ソロの演奏を聴くことの出来る貴重な機会でもある。「丘を越えて」などの懐メロから、ピアソラなどの本格的なタンゴ、「雨に濡れても」などの映画音楽、ビートルズナンバーである「オブラディ・オブラダ」、コントラバスの金澤恭典が「UFO!」と叫ぶ「UFO」など、多彩な曲目と優れた演奏、京都文化博物館別館ホールの自然な響きのプレゼンスを楽しむことの出来た夜であった。

アンコールとして、まず全員で「UFO」の後半が演奏され、最後は通崎の独奏で、「見上げてごらん夜の星を」がしみじみと歌い上げられた。



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2018年5月18日 (金)

コンサートの記(385) 小林沙羅&西村悟デュオ・リサイタル~「母の日」に贈る歌の花束~

2018年5月13日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、小林沙羅&西村悟デュオ・リサイタル~「母の日」に贈る歌の花束~を聴く。若手ソプラノである小林沙羅(さら)とテノールの西村悟(さとし)の共演。ピアノ伴奏はベテランの河原忠之が務める。

曲目は事前発表と多少異同があり、第1部が、ヘンデルの歌劇「セルセ」より“オンブラマイフ”(西村悟歌唱)、伝カッチーニの「アヴェ・マリア」(小林沙羅歌唱)、トスティの「薔薇」(小林沙羅歌唱)、トスティの「理想の人」(西村悟歌唱)、ドニゼッティの「一粒の涙」(西村悟歌唱)、ヴェルディの歌劇「椿姫」より“乾杯の歌”(デュオ)、「椿姫」より“不思議だわ~花から花へ”(小林沙羅歌唱)、「椿姫」より“燃える心を”(西村悟歌唱)、「椿姫」より“パリを離れて”(デュオ)。第2部が、レハールの喜歌劇「微笑みの国」より“気味は我が心の全て”(西村悟歌唱)、レハールの喜歌劇「ジュディタ」より“熱き口づけ”(小林沙羅歌唱)、小林沙羅作詞・作曲の「子守歌」(本人歌唱)、ドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」(小林沙羅歌唱)、武満徹の「小さな空」(西村悟歌唱)、プッチーニの歌劇「マノン・レスコー」より第3幕への間奏曲(河原忠之によるピアノソロ版)、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」よりロドルフォとミミの出会いから第1幕ラストまで。

注目を集める若手ソプラノの小林沙羅。「題名のない音楽会」への出演でもお馴染みである。東京藝術大学卒業後、同大学院修士課程修了。2010年から2015年までウィーンとローマに留学し、研修と歌唱活動を行う。2017年に出光音楽賞受賞。野田秀樹が演出した井上道義指揮「フィガロの結婚」日本全国ツアーののスザンナ(すざ女)役で知名度を上げ、「カルメン」のミカエラ役で藤原歌劇団にデビュー。三枝成彰作曲の「狂おしき真夏の一日」への出演も話題になった。藤原歌劇団団員、大阪芸術大学准教授。今月の大阪フィルハーモニー交響楽団定期演奏会でマーラーの交響曲第4番の独唱を務めるほか、夏には佐渡裕指揮のオペラ、ウェーバーの「魔弾の射手」への出演も決まっている。

テノールの西村悟は、日本大学芸術学部音楽学部卒業後、東京藝術大学大学院オペラ科を修了。第36回イタリア声楽コンコルソ・ミラノ部門にて大賞(1位)を受賞。2010年にイタリア・ヴェローナに留学し、翌11年にリッカルド・ザンドナーイ国際声楽コンクールで2位入賞、合わせて審査委員長特別賞を受賞。田尾80回日本音楽コンクールでは第1位を獲得し、聴衆賞も受賞している。大野和士指揮バルセロナ交響楽団によるメンデルスゾーンの「讃歌」のソリストとしてヨーロッパデビュー。新国立劇場オペラ「夜叉ヶ池」、藤原歌劇団の「ラ・トラヴィアータ」、「蝶々夫人」、「仮面舞踏会」、「ルチア」などに出演。平成25年度五島記念文化賞オペラ部門オペラ新人賞や第23回出光音楽賞を受賞。藤原歌劇団団員。

ヘンデルの歌劇「セルセ」より“オンブラマイフ”。現在ではソプラノによって歌われることが多いが、元々は男性の王様のナンバーであり、カウンターテナーやソプラニスタが歌う曲である。全身黒の衣装で登場した西村は声に張りがあり、安定感も抜群だ。

伝カッチーニの「アヴェ・マリア」。水色のドレス姿で現れた小林の歌唱は入りの声量がやや足りず、悪い意味でアマチュア的な歌唱になっていた。ただ、小林はオペラのナンバーになると人が変わったかのように生き生きと歌い出す。小林沙羅として歌うよりも劇中の人物になりきって歌うのが得意という、根っからのオペラ歌手のようだ。

ヴェルディの歌劇「椿姫」より。実は小林はヴィオレッタ役をまだ演じたことはないそうである。オペラにはソリストに何かあったときのためにカバーキャストやアンダースタディーという制度があり、そこからスターの座を掴む者もいるのだが、東日本大震災のあった2011年に、小林は「椿姫」で森麻季演じるヴィオレッタのカバーキャストを務めたことがあったという。東北で震災があった時は、兵庫県での「椿姫」公演があったそうだが、森麻季はその時、東京におり、ひょっとしたら森麻季が兵庫県に来られないかも知れないというので、小林も「私がヴィオレッタやるの?」と焦ったそうである。幸か不幸か森麻季は無事兵庫入りして小林が舞台に上がることはなかったそうだ。
二人ともチャーミングな歌唱を聴かせる。ヴィオレッタの薄幸な雰囲気を小林は上手く出していたように思う。

第2部。西村はグレーのタキシードに着替え、小林は前半が深紅の、後半が第1部と同じ水色のドレスで登場する。小林はレハールの喜歌劇「ジュディッタ」より“熱き口づけ”でステージ狭しとばかりに華麗に踊る。バレエの経験があるだけに踊るのがかなり好きなようである。小林は更にステージから降りて、母の日ということで手にしていたカーネーションを女性客に配って回る。西村は小林について、「良いとこ一杯ある。歌えて踊れて顔良くて可愛くて」と挙げていく。

ドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」。小林は以前からこの曲を歌いたいと思っていたそうだが、ステージで披露するのは今日が初めてとなるそうである。母の日に合わせた選曲のようだが、なかなか味わい深い歌い方であった。

武満徹の「小さな空」。西村悟が歌うのだが、この曲を男性歌唱で聴くのは初めてかも知れない。素朴な歌詞とメロディーによる曲であるが、やはり武満の楽曲だけに日本人の琴線に触れるものがあるように思う。西村の歌唱も堂に入っている。

河原忠之のピアノソロによる「マノン・レスコー」より第3幕への間奏曲(確かな構成力を感じさせる演奏であった)を経て、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」第1幕より。当初は、「冷たき手を」「私の名はミミ」「おお、麗しの乙女よ」の3曲を歌う予定だったのだが、リハーサルで興が乗ってしまったそうで、ロドルフォとミミの出会いから第1幕の終わりまでを演技付きで歌うことに変えたという。セットは椅子一脚だけだが、かなりしっかりした演技による歌唱であり、オペラの一場面をまるごと楽しめるという趣向になった。
小林は高音の伸びにやや難があったが、心理描写やドラマ性に富んだ歌唱を聴かせ、西村は豊かな声量と確かな技術、細やかな演技で魅せた。

アンコールは、レハールの喜歌劇「メリー・ウィドウ」よりワルツ(とざした唇に)。日本語詞でワルツを踊りながらの歌唱。楽しいデュオ・リサイタルであった。



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2018年5月16日 (水)

コンサートの記(384) 森麻季ソプラノリサイタル2008京都

2008年5月11日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から京都コンサートホール大ホールで、ソプラノの森麻季のリサイタルを聴く。ピアノ伴奏は山岸茂人。

華やかな容姿と伸びやかな高音で人気のソプラノ歌手、森麻季。東京藝術大学と大学院を卒業後、ミラノとミュンヘンに留学。現在もイタリアとドイツでの活躍を続けている。

プログラムは、成田為三の「浜辺の歌」、石川啄木の短歌に越谷達之助がメロディーをつけた「初恋」、山田耕筰の「からたちの花」と「母の声」という日本人作曲家の作品に始まり、山岸茂人のピアノ独奏によるブラームスの間奏曲イ長調を挟んで、リヒャルト・シュトラウス、マーラー。
後半は、オルフ、ベルク、カゼッラ、ファブリツィオ・カルローネ、山岸のピアノソロによるグラナドスの組曲「ゴイェスカス」より「嘆き、または夜鳴きうぐいす」を挿み、ドニゼッティ、ラフマニノフの作品が並ぶ。

日本人の作品が並んでいることでわかりにくくなっているが、実はドニゼッティを除いて、全て20世紀以降に初演された歌ばかりである。ドニゼッティも当初は予定になく、ストラヴィンスキーが歌われる予定だった。さりげなく意欲的なプログラミングである。
このうち、ファブリツィオ・カルローネの「私の人生は海」は森麻季の依頼によって作曲されたものである。ちなみに、ファブリツィオ・カルローネは森麻季の旦那さんである。森麻季のブログで発表されているように、森は現在妊娠中であり、お腹がちょっと出ているのがわかった。

「浜辺の歌」は小さめの声で始まり、「京都コンサートホールは声楽リサイタルには広すぎるのかな?」、「森麻季は、春先に体調を崩したというからコンディションが万全でないのかな?」などとも思ったが、ホールの響きを確認しつつ、弱めに入っただけのようで、声を張り上げると、コンサートホール内の空気が震えるのがはっきりわかるほど豊かな声が拡がる。
高音が伸びるし、コロラトゥーラの技術も高いのでソプラノとして活躍している森だが、声自体は落ち着いていて、メゾ・ソプラノに近い。

モーツァルトも名もシューベルトの名もヴェルディの名もないというプログラム。リヒャルト・シュトラウスの名はあるが、歌われるのはオペラの曲ではなく、最晩年の「四つの最後の歌」より「眠りのとき」と「夕映えのとき」という“神品”と評されるが派手さはない曲。そして新ウィーン学派であるベルクの「ナイチンゲール」が入っているなど、エンターテイメントではなく、本格派指向のリサイタルであった。
マーラーの交響曲第4番第4楽章よりの「天上の生活」と、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」が特に印象的な出来。

アンコールは3曲。プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」より“ねえ、私のお父さん”、同じく「ラ・ボエーム」よりムゼッタのワルツ“私が街を歩けば”、最後は「千の風になって」が歌われた。
自信満々のイケイケねえちゃんの歌であるムゼッタのワルツでは、森も自信満々の女性を演じて見せた。こういうのも楽しい。

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2018年5月15日 (火)

コンサートの記(383) 大和証券グループPresents 佐渡裕指揮トーンキュンストラー管弦楽団 レナード・バーンスタイン生誕100年記念日本ツアー2018京都公演

2018年5月12日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、大和証券グループPresents 佐渡裕指揮トーンキュンストラー管弦楽団レナード・バーンスタイン生誕100年記念日本ツアー2018京都公演を聴く。

京都生まれの佐渡裕の凱旋公演となる。佐渡は2016年にもトーンキュンストラー管弦楽団と日本ツアーを行ったが、その際は関西ではフェスティバルホールでの公演を行っただけであった。今回の日本ツアーは今日が初日で、この後、今月27日まで13箇所での公演を行う。関西では今回もフェスティバルホールでの公演を行うが、佐渡の現在の本拠地である兵庫県立芸術文化センターでの演奏会はない。
有料パンフレットの販売はないが、かなり充実した内容の無料パンフレットが配られており、良心的である。

今日の曲目は、バーンスタインのキャンディード序曲、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」、ブラームスのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏:ヴァレリー・アファナシエフ)

今日は3階LB1列2番での鑑賞。偶然だが、LBというのは、Leonard Bernsteinのイニシャルと一緒で嬉しくなる。


ます佐渡が一人で登場し、マイクを手にトークを行う。レナード・バーンスタインとの思い出、更に最初はニューヨークで勉強しようと思っていたところ、バーンスタインに連れられてウィーンに行き、ウィーン国立歌劇場やムジークフェラインザールの立ち見席で演奏を聴いて学んだこと。ウィーンでは立ち見席での時代を経て今では指揮台に立つようになったため、「なかなか座らせてくれない」というお決まりのギャグを繰り出して聴衆を笑わせていた。オーストリアでもバーンスタイン生誕100年ということで今年はバーンスタインの作品が多く取り上げられるそうである。ちなみにウィーンでは指揮の仕事がなかったため、フランスのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して、ラムルー管弦楽団の首席指揮者に就くなど、指揮としての本格的なキャリアはフランスでスタートさせている。

日本ではウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団と呼ばれることもあるトーンキュンストラー管弦楽団は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン交響楽団、ウィーン放送交響楽団に次ぐ、ウィーン第四のオーケストラ的な扱いをされている団体である。現在はニーダーエースターライヒ州のオーケストラとして州都ザンクトペルテンを本拠地としており、ウィーンムジークフェラインザールでも演奏会を行っている。歴代の首席指揮者の中には、クルト・ヴェス、ハインツ・ワルベルク、ワルター・ウェラー、ファビオ・ルイージといった日本でもお馴染みの指揮者の名前も並んでいる。
ウィーン放送交響楽団でも評価は高くないが、トーンキュンストラー管弦楽団はそれより下ということで、ポピュラー音楽の演奏を手掛けることも多い。
クリスチャン・ヤルヴィ、アンドレス・オロスコ=エストラーダの時代を経て、2015年に佐渡裕が首席指揮者に就任。比較的指揮者をコロコロ変える傾向にある楽団だが、佐渡とは任期延長を行っている。私はクリスチャン・ヤルヴィとの来日公演をザ・シンフォニーホールで聴いており、佐渡とのフェスティバルホールでの演奏会を聴いているため、これが3度目のトーンキュンストラー管弦楽団体験となる。

ドイツ式の現代配置による演奏だが、ティンパニは上手側に置かれている。無料パンフレットに団員の名簿も載っているが、ファーストヴァイオリンにShotaro Tojima、チェロにKanade Oshimaと日本人の名前が見られる。チェロに東洋人風の容貌の奏者は一人しかおらず、Kanade Oshimaさんは女性であることがわかった。ピアノ/チェレスタにKyoko Yoshizawaの名もあるが、今日はピアノとチェレスタが用いられる曲はないため、降り番である。


バーンスタインのキャンディード序曲。出だしに爆発力があり、テンポもリズムも理想的である。語り上手な演奏なのであるが、オーケストラのパワー、特に弦楽の威力が今ひとつなのが玉に瑕である。


ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。佐渡は第九の演奏を多く手掛けており、代名詞のようになっているが、ベートーヴェンは必ずしも得意とはしていない。
弦楽器のビブラートを控えめにして透明な響きを出しているが、ピリオドの影響が感じられるのそこだけで、ピリオドアプローチによる演奏ではない。瑞々しい響きが印象的だが、弦と管のバランスが悪く、時に金管が能天気な強奏を行うことがある。「田園」はベートーヴェンの曲の中でも実は演奏が難しい部類に入るのだが、トーンキュンストラー管弦楽団の力が及ばない場面も見受けられる。
佐渡は第2楽章をノンタクトで振るが、テンポが速過ぎて詩情を欠くところもあった。
第4楽章の嵐は、迫力満点で描写力も高いが、佐渡が今も「爆演の佐渡」から抜け出せていないことも感じられた。
最終楽章も悪くはないのだが、やはり弦と管のバランスは最後まで整わなかった。


後半。ブラームスのピアノ協奏曲第2番。独奏は、1990年代に異色のピアニストとして脚光を浴びたヴァレリー・アファナシエフ。ピアニストであると同時に、詩人、小説家としても活動しており、鬼才として日本でもファンが多い。モスクワ音楽院でエミール・ギレリスに師事。1968年のバッハ国際コンクールと1972年のエリザベート王妃国際コンクールで優勝。1974年に西側に亡命し、ベルギー国籍を得ている。

極端に遅いテンポを採用することなどで知られるアファナシエフであるが、協奏曲ということもあり、それほど個性を前面には現さない。
今日はピアノの鍵盤が良く見える席にいたのだが、アファナシエフは指を余り曲げることなく、鍵盤上に指を置いていくような弾き方をする。日本だったら先生から直されるような弾き方である。
アファナシエフは旋律を切るように弾いたり、立体感を出しながらブラームスの古典的一面を強調しつつ演奏したりするが、特に異端という印象は受けず、充実したブラームス演奏を展開する。
佐渡指揮のトーンキュンストラー管はやはりパワー不足という感は否めないが、自分達の作曲家であるブラームスのロマンティシズムを大切にした演奏を行っていた。第3楽章のチェロのソロも充実の演奏である。


アファナシエフはアンコールとして、ショパンのマズルカ イ短調を演奏する。こちらは協奏曲と違ってかなり個性的な演奏である。ショパンの曲というよりも古典派の作品のように聞こえる。

ラストは佐渡とトーンキュンストラー管によるアンコール演奏、ブラームスのハンガリー舞曲第5番。ノリの良い演奏であった。

ベートーヴェンは少し落ちるが、なかなかの出来の演奏会だったように思う。トーンキュンストラー管弦楽団のレベルであるが、技術面に関しては日本のオーケストラと比べても中堅程度で抜群に良いオーケストラというわけではないようである。いかにも独墺系のオーケストラらしい渋めの響きは魅力的である。

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2018年5月14日 (月)

コンサートの記(382) 井上道義指揮 第9回「現代日本オーケストラ名曲の夕べ」

2008年4月25日 京都コンサートホールにて

午後7時より京都コンサートホールで、第9回「現代日本オーケストラ名曲の夕べ」というコンサートを聴く。2000年に始まり、毎年開催されているコンサートだが、毎回開催地が異なる。第1回は東京文化会館で行われ、それから大阪、前橋、金沢、名古屋、東京・初台の東京オペラシティコンサートホール、福岡、山形と来て、今年は京都での開催になった。

今回の指揮は井上道義。オーケストラは「京都市交響楽団を中心としたオール・ジャパン・シンフォニー・オーケストラ」。

オール・ジャパン・シンフォニー・オーケストラを名乗るにあたって、宣伝チラシやプログラムにも「京都市交響楽団を中心とした」と枕を入れているが、そこから察せられるように、オーケストラメンバーの大半は京都市交響楽団の団員である。だから、正確に記すなら、「ほぼ京都市交響楽団によるオール・ジャパン・シンフォニー・オーケストラ」になる。米軍が戦争を仕掛けるときに、大半がアメリカ軍でありながら、国×軍や多○籍軍を名乗るのと同じようなものである。他のプロオーケストラからの参加は20名足らず。他のプロオーケストラだって今の時期は定期演奏会を始めとした多くのコンサートを開いているのだから、そこの奏者が大挙ホームグラウンドを離れて京都に押し寄せるということは不可能である。
これまでの開催地も全てプロオーケストラの所在地(群馬交響楽団の本拠地は高崎市だが、前橋市も群馬県の県庁所在地であり、群馬交響楽団の演奏会も数多く開かれている)であり、やはりそこのプロオーケストラを中心にオーケストラが編成されたのだろう。
なぜ単独のオーケストラでコンサートを行わないのかというと、「現代日本オーケストラの夕べ」は、社団法人日本オーケストラ連盟の主催するコンサートなので、やはり連盟に加わっている複数のオーケストラでやらないと意味が薄まるのだと思われる。
とはいえ、私の予想では「関西の楽団か、遠くても名古屋のオケのメンバーしか来ないのかな」と思っていたが、関西圏や名古屋圏のみならず、山形交響楽団や群馬交響楽団、読売日本交響楽団からも複数名が参加し、NHK交響楽団からも一人参加している。


曲目は、芥川也寸志の「オルガンとオーケストラのための『響』」、伊東乾(いとう・けん)の「天涯の碑」、石井眞木の交響詩「祇王」(陰影の譜)、指揮者である井上道義作曲の「メモリーコンクリート」

作曲家の知名度通り、というわけではないけれど、やはり芥川也寸志の作品が一番面白かった。作品名通り、「響」が面白く、またオーケストラが豪快に鳴る。

伊東乾の「天涯の碑」は1992年、京都市交響楽団の委嘱によって作曲された作品。作曲者の伊東乾も会場に来ていて、作品を演奏する前に井上に呼ばれてステージに上がり、話をする。パンフレットに曲の説明(天正少年使節がどうのこうの)が書かれているが、伊東本人によるとそれはポーズで、実際は伊東が子供の頃に他界した父への思いを託した曲とのことである。前半はいかにも日本の現代音楽的な響きが続くが、その響きの中から、チェロとコントラバスによって奏でられた讃美歌の旋律が何かの啓示のように突然現れ、その旋律がヴィオラ、第二ヴァイオリン、第一ヴァイオリンへと受け継がれていく。
初演時は、ベートーヴェンの第九との組み合わせで演奏されたそうで、旋律の受け渡しは第九の第4楽章を意識している。

当初の予定では、3曲目が井上の「メモリー・コンクリート」、4曲目が石井眞木の交響詩「祇王」(陰影の譜)であったが、京都コンサートホール内に曲順が入れ替わったという張り紙がしてあり、3曲目が石井眞木の、トリが井上の作品となった。井上本人も「ゴリ押しして」などとステージ上から語っていたが、井上と井上の作品の性格からいってそうなるだろうと思う。

交響詩「祇王」は、横笛奏者である赤尾三千子のために、赤尾の父親である石井眞木が作曲した作品。赤尾は龍笛、篠笛、能管の三種類の横笛を吹き、今様を唄う。
この手の作品の常として、大河ドラマの音楽を想起させるところがあったが、それなりに面白い。

で、井上道義の「メモリー・コンクリート」なのだが、予想通りというか何というか、井上がこれまで聴いてきた音楽の断片を取り入れるといった趣向の作品であった。「メモリー・コンクリート」について、以前、中瀬宏之さんと、「『これは私が子供の頃に好きだった曲で』、といった風の音楽なんじゃないか」と話したことがあるのだが、それに近いものであった(二人とも単に当てずっぽうで言ったのではなく、ショスタコーヴィチが交響曲第15番でそういったことをしているので、そこからの類推である)

演奏前に井上による解説があり、子供の頃にバレエをやっていた時に踊ったハワイアンや、やはり子供の頃に宝塚歌劇団が好きだったということで「すみれの花咲く頃」などのメロディーはそのまま出てくるということが知らされたが、それ以外にもそのまま出てきたのはショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」第1楽章より。それとわかるように出てきたのはグリーグの「ペール・ギュント」より“朝の気分”とリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭。断片として出てきたのは「オー・ソーレ・ミオ」。童謡「故郷」の旋律に似たものも出てきたがはっきりとは確認出来ず。それ以外の旋律もどこかで聴いたもののパロディーが多い。
指揮者として忙しいことを表すために、動悸と息切れの音をオーケストラメンバーが出し、井上は指揮台の上で心臓を抑えて苦しんでみせてりもする。
曲の途中には、「指揮者のためのカデンツァ」なるものがあり、指揮者が音楽以外の何かをする場所とのこと。
そこに差し掛かったときに、井上にピンのスポットライトが当たり、他の照明は落ちる。で、井上がジャケットを脱ぐと、下にスーパーマンのTシャツを着ていることがわかる(「ツァラトゥストラはかく語りき」のパロディーもあったことだし、クラーク・ケントが変身するスーパーマンよりも、ニーチェ的な「超人」という意味に近いかも知れない)。井上はタップダンスを踊り、舞台袖から運ばれてきた花束から花を一本ずつ抜き取って京響以外のメンバーに渡し、舞台の床に隠すようにして置かれていた王冠をかぶってみたり、やはり床に隠すように置かれていた、くたびれた感じの帽子を出して物乞いの真似をしてみたりする。
それまでの3曲と違って、メロディーのはっきりした作品である。その旋律の大半が模倣だったり、オリジナリティに欠けていることもあって音楽としては今一つ。
チラシやパンフレットにはコンサートの副題として「道義の一押し」と書かれていたが、こうなるともう「道義の道義(みちよしのみちよし)」である。
この曲を3番目にやってしまったら、次に真面目な曲を演奏することは出来ないだろう。
個人的な感想を言うと、ショスタコーヴィチの交響曲第11番をそのまま入れてしまったのはまずかった。そこだけが迫真の響きで、他の部分がふやけたように聞こえてしまった。
音楽はともかくとして、やはり井上は自身が主役でありたいのだなということがわかる。井上は出来ることなら俳優にだってなりたいし、ハリウッド映画などにも出てみたいのだ。自身が主役なら指揮者でなくても、更には音楽でなくてもよいのかも知れない。

しかし、同時に、井上のインフェリオリティ・コンプレックスが浮き上がるのも見えた気がした。井上は心から音楽を愛しているわけではなく(インタビューでも本音かどうかはわからないが「指揮者には消去法でなった」と語っている)、それゆえに本気で音楽を愛している音楽家に対してコンプレックスを抱いているのではないか。コンプレックスがないのなら、カラヤンや井上の師であるチェリビダッケのように指揮だけをして堂々と「俺が主役だ」と威張っていたっていいのだ。井上が他のことまでやってしまうのは、「僕って凄いでしょ」と示すと同時に「指揮者になって間違ってなかったでしょ」という承認を聴衆に求めているような気がした。「指揮者になって間違ってなかったでしょ。音楽に何時間でものめり込めて、音楽や指揮をすることに何の疑問も持たない音楽家が出来ないことをするんだから」

もちろん井上には指揮者としての才能がある。だが、才能がある、それも多方面に渡る才能があるゆえに迷い続けている人の寂しさを見てしまったようで、複雑な気持ちになった。

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2018年5月13日 (日)

第181回鴨川をどり 「真夏の夜の夢より ~空想い」&「花姿彩京七小町」 2018年5月8日

2018年5月8日 先斗町歌舞練場にて

午後4時10分から、先斗町歌舞練場で、第181回鴨川をどりを観る。私が鴨川をどりを観るのは今日で3回目。都をどりと京おどりが2回ずつ、祇園をどりは1回しか観ていないため、鴨川をどりを観る回数が一番多いということになる。

鴨川をどりは演劇の上演が行われるのが特徴である。今年の演目は、W・シェイクスピア「真夏の夜の夢より ~空想い」1幕4場と、「花姿彩京七小町(はなのいろどりきょうななこまち)」全7景。

パンフレットには、就任したばかりの西脇隆俊京都府知事が、門川大作京都市長と共に挨拶の言葉を載せている。私が目にする西脇府知事の初仕事だ。

なぜかはわからないが今日は最前列で観ることになる。最前列は舞台に近いが、近すぎて全体を見通しにくくなるため、特別良い席というわけではない。ただ、「花姿彩京七小町」では、以前に木屋町・龍馬で出会ったことのある舞妓のもみ香さんの目の前だった。向こうはこちらのことを覚えていないだろけれど。

「真夏の夜の夢より ~空想い」。タイトル通り、シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」を翻案した作品である。

夏の夜。森の王様である松の王であるが、浮気がばれたため、お后である月と松の王との仲が悪くなる。そのため、月は松の王が目を閉じている間だけしか顔を覗かせない。森の中では、花の精の白百合と撫子、白い子犬の白狗丸、鯉の精の鯉四郎らが、松の王の話を語らっている。そこへ、都の公達である来井左衛門と羽雅姫が森の奥へと逃げ込んで来たという話が伝わる。結婚を反対されて駆け落ちして来たのだという。羽雅姫は出味明之丞という貴公子と結婚させられそうになっている。その明之丞も羽雅姫を追って森へと入ってきた。さらに明之丞を恋い慕う蓮音姫までが森へとやって来る。鯉四郎は白狗丸(原作ではパックに当たる)に“じゃらじゃら草”を渡し、じゃらじゃら草の露を目にかければ次に見た者を恋してしまうと教える。白狗丸が露をかけると男同士までもが愛し合うようになってしまい……。

彼女たちは、芸舞妓であって女優ではないので、演技力を求めてはいけないだろう。本当に見られる演技をするならかなり長期の稽古を行わねばならないため無理である。踊りの技術と華やかさがあれば十分だろう。
「真夏の夜の夢」ということで、唄(録音)が「パパパパーン、パパパパーン、パパパパンパパパパン、パパパパンパパパパン、パーンパパパパパパ」とメンデルスゾーンの劇付随音楽「真夏の夜の夢」より“結婚行進曲”を口ずさむ場面があった。

「花姿彩京七小町」。舞妓総出演の序章に続き、紫式部の一人舞である「式部の章」、静御前が登場する「静の章」、出雲阿国らが舞う「阿国の章」、滝口入道と横笛による「横笛の章」、吉野太夫が一人で現れる「吉野太夫の章」、藤の絵を背景に大勢で舞う「藤の章」の7つの章からなる。女であることの光と影が描かれるが、最後の「藤の章」では、おかめの面を被った白川女が登場するなど、ユーモアを交えて終わった。



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2018年5月12日 (土)

観劇感想精選(242) 「夢と錯乱」

2018年5月6日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後3時から、京都芸術劇場春秋座で「夢と錯乱」を観る。27歳で夭逝したオーストリアの詩人、ゲオルク・トラークルの散文詩「夢と錯乱」を取り上げる上演。演出:クロード・レジ、テキストフランス語訳:ジャン=クロード・シュネデール&マルク・プティ。出演:ヤン・ブードー。フランス語上演、日本語字幕付き(テキスト日本語訳:中村朝子、字幕:浅井宏美)。特設座席を使っての上演である。

現在93歳のクロード・レジ。フランスの前衛演出家である。1960年代にはマルグリット・デュラスと共に仕事を行い、その後、ヨン・フォッセの「だれか、来る」やサラ・ケインの「4時48分サイコシス」などの演出を行っている。本作が最後の演出作になる予定。

ゲオルク・トラークルは、モーツァルトの街として知られるザルツブルクの生まれ。裕福な商人だった父親と芸術好きな母親の間に生まれた。ゲオルクは、幼少時から文学に興味を示し、音楽的な才能を発揮する。同様の気質を持つ妹が一人おり、彼女は後にピアニストになるのだが、ゲオルクと彼女は近親相姦の関係にあったといわれている。
ギムナジウムで文学仲間と共に同人誌を始めたゲオルクだが、飲酒や薬物に溺れるようになり、二度の落第を経験して学校を中退。その後、薬剤師になるための3年の実習を経てウィーン大学薬学部に入学し、薬剤師の免許を取ったが、薬剤師としての仕事に馴染めず、公務員になるも長続きせず、デカダンスな生活を送る。困窮したゲオルクは第一次大戦に志願。薬剤試官として前線に赴くも繊細な神経が戦場の地獄絵図に耐えられず、精神を病み、ピストルによる自殺未遂を経てコカインの過剰摂取により死亡。自殺とみられている。彼の死から3年後、妹もまたピストル自殺により世を去った。
悲惨な人生を歩んだゲオルクであるが、ヴィットゲンシュタインから「天才」と称されるほどの詩才を持ち、現在ではドイツ表現主義最大の詩人という評価を得ている。

ゲオルク・トラークルの散文詩「夢と錯乱」は、伝記的内容を持つ。

「すべては薄明のなかで」起こる。
闇の中、何かが光っている。その何かが徐々に揺れ出し、移動する。明度が上がると、その何かが俳優のヤン・ブードーであることがわかる。上部にアーチ。その下でブードーは絞り出すような声で、「夢と錯乱」のテキストを語っていく。ゲオルク・トラークルの言葉には「赤」や「青」を始めとする様々な色が散りばめられているのだが、照明は灰色であり、ラスト近くで黄昏の赤が入るほかはモノクロームの世界が展開される。
ゲオルクの後悔の言葉、過去に築き上げた思惟の城、青い色をした妹の影、旅立ちゆく父親と神経質な母親の像。ヤン・ブードーは哀れな狂人としてテキストを読み上げていく。
そして石のように彼は死へと落ちていく。
「呪われた種族」のことを彼は繰り返し語る。ゲオルク、彼の妹、彼の家族、これらは間違いなく呪われた種族に入る。そしてその外、今に至るまでの人間の歴史を呪いとして告発しているようでもある。

死の淵にある彼の姿に、演出のクロード・レジはおそらく自身を重ねているのだろう。イエスを始めとする「人類の苦悩を引き受けた」存在の一人として。

上演時間約1時間程度であるが、そこには濃密な時間が流れていた。



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2018年5月11日 (金)

観劇感想精選(241) ミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」2018大阪

2018年5月4日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後7時から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」を観る。「ウエストサイド・ストーリー」や「スウィーニー・トッド」などの名作ミュージカルを手掛けたスティーヴン・ソンドハイムの最高傑作とされる作品の日本初上演である。作曲・作詞:スティーヴン・ソンドハイム、脚本:ヒュー・ホィーラー、翻訳・作詞:高橋知伽江、演出:マリア・フリードマン、振付:ティム・ジャクソン。音楽監督・指揮:小林恵子。出演:大竹しのぶ、風間杜夫、安蘭ケイ、栗原英雄、蓮佛美沙子、ウエンツ瑛士、木野花、安崎求、トミタ栞、瀬戸たかの(瀬戸カトリーヌ改め)。リーベリーダー(アンサンブルキャスト):彩橋みゆ、飯野めぐみ、家塚敦子、中山昇、ひのあらた。

19世紀のスウェーデンが舞台。本作はスウェーデン映画の巨匠であるイングマール・ベルイマン監督の映画「夏の夜は三度微笑む」に着想を得た作品で、1973年に初演。トニー賞7部門、グラミー賞2部門を獲得している。これほど評価の高いミュージカルがなぜ日本で上演されなかったかはナンバーを聴けばすぐにわかる。完成度は恐ろしく高いが難度もそれ以上に高い。ミュージカル初挑戦となる風間杜夫の最初のナンバーは、なんとレチタティーヴォ調。ただでさえ難しいのにレチタティーヴォに不向きな日本語で歌うのはほぼ不可能。ということで、風間杜夫は音程もリズムも外しまくっていた。元々歌はそれほど得意ではないのだと思われるが、初挑戦のミュージカルが本作というのは酷である。

朗読や朗読劇への出演はあるものの、本格的なミュージカルに挑戦するのは初となるのが、風間杜夫演じる弁護士のフレデリック・エイガマンの幼妻・アン役の蓮佛美沙子。蓮佛美沙子は現在27歳だが、アンは18歳ということで10歳ほど下の女性を演じることになる。「若さ」と「幼さ」の表現に長け、かなり高めの音が要求される歌もこなしていた。ただ、魅力が十分に出ていたかというとそうでもないように思う。

リーベリーダーという役割を与えられている5人は、いずれも歌唱力が高い。年中ミュージカルで出ているような気がする飯野めぐみを始め、歌第一で取られた人達なのだから当然ともいえるが、歌に関しては有名キャストを上回っていたようにも思える。
ストーリーはリーベリーダーがワルツのリズムに乗って登場するところから始まるのだが、このミュージカルはとにかく3拍子系の楽曲が多い。全体のおそらく9割前後が3拍子系の楽曲で占められている。舞踏のリズムである3拍子系が多用されていることには勿論、意味がある。作品自体がエンドレスワルツ的狂騒を描いたお話なのである。

ストーリーであるが、第一幕を観ている時はとにかく退屈に感じられる。第一の理由は私の年齢にある。この手の話を気楽に観られるほど若くはないが、切実に感じるほどには年を取っていない。
第1幕を見終えて、本気で「もう帰ろうか」と思ったが、今後が面白くなりそうな予感もあり、第2幕の予定上演時間は約55分と短めであったため続けて観ていくことにする。

第2幕では、フレデリックの息子のヘンリック(ヘンリック・イプセンにちなんだ名前であることが暗示される場面がある。演じるのはウエンツ瑛士)、アン、カールマグナス伯爵(栗原英雄)と妻のシャーロット(安蘭けい)、舞台女優のデジレ(大竹しのぶ)などが入り乱れた恋の話になる。盲目状態の愛が繰り広げられ、人間という存在が根本に持つ愚かしさとそれゆえの愛おしさが照射されていく。

悲惨な状況であるにも関わらず滑稽という場面が第2幕には登場する。ヘンリックが縊死しようとする場面や、フレデリックの「不思議だ。庭のベンチに腰掛けて休んでいたら、人生が終わってしまった」というセリフは、悲劇性を伴っているはずだが妙に可笑しく、客席が笑いで沸く。フレデリックのこのセリフをこれほどリアルに語れる俳優は風間杜夫をおいて他にいないはずで、歌唱力の不足を補って余りある配役といえるだろう。

この感想は時間の関係で当日には書かず、翌日、翌々日に書いたものなのだが、時間が経てば経つほどこの作品に対する愛着は強くなっている。そういう作品はこれまでに何度か観たことがある。
すぐにわかることなど、その程度のものでしかないということなのかも知れない。

終演後にアフタートークがあり、ウエンツ瑛士と安蘭けいが参加する。司会を置かず、ウエンツがリードする形で二人が自由に喋るというスタイルである。ウエンツは「みんな僕を馬鹿にする」としてふさぎの虫に取り憑かれているヘンリックを、安蘭けいは頭が空っぽの夫にうんざりしているシャーロットをそれぞれ好演していた。ともにミュージカル経験が豊富だけに、この難しい作品と役を手の内に入れていた印象を受ける。
途中、カールマグナス伯爵役の栗原英雄とアン役の蓮佛美沙子が舞台を上手から下手へと横切っていった。

今回は、演出がマリア・フリードマン、振付がティム・ジャクソンということで稽古は全て英語による指示で行われたのだが、ウエンツ瑛士と瀬戸たかの(安蘭けいはまだ「カトリーヌちゃん」と呼んでいるようだ)というハーフが二人おり、いかにも英語が出来そうな雰囲気を持つもの、実は二人とも英語でのコミュニケーションは一切出来ないということで苦労があったようである。ウエンツは、義母でありながら恋心を寄せているアン役の蓮佛美沙子と二人一組になることが多かったのだが、蓮佛美沙子は英語が得意で、マリアの指示を大体理解することが出来るため、横にいるウエンツにも「通訳が言わなくてもわかるよね」と暗に示されることが多く、ウエンツもさも分かったような振りをせざる得ず、稽古が終わった後でマリアに「あれ、なんて言ってたの?」と聞きに行く羽目になったそうだ。
安蘭けいによると、マリア・フリードマンは「リトル・ナイト・ミュージック」に女優として出演した経験があり、マリアが演じたことのあるシャーロットとペトラ(今回は瀬戸たかのが演じた)には思い入れが強いようで、指示も細かかったそうである。

なお、デジレの娘、フレデリカ(演じるのはトミタ栞)の名はフレデリックの女性形なのだが、フレデリカがフレデリックとデジレの間に出来た娘なのかどうかについては答えが書かれていないという。フレデリカの父親がフレデリックなのかどうか、ウエンツが客席に拍手の大きさでアンケートを取る。今日のお客さんは、フレデリックとフレデリカは親子だと考えている人が比較的多いようだった。



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2018年5月10日 (木)

コンサートの記(381) 「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2018 かがり火オペラ パーセル 歌劇「ディドとエアネス」

2018年5月5日 びわ湖ホール湖畔広場にて

午後7時から、湖畔広場(中ホールの外)で、かがり火オペラ、パーセルの歌劇「ディドとエネアス」を観る。指揮は大川修司、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団のメンバーと、笠原雅仁(リュート)、梁川夏子(チェンバロ)、中村洋彦&井上佳代(リコーダー)による演奏。出演は全員びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーで、船越亜弥(ディド)、内山建人(エネアス)、飯嶋幸子(ペリンダ)、藤村江李奈、益田早織、吉川秋穂、溝越美詩、山際きみ佳、鳥越聖人、熊谷綾乃、川野貴之、蔦谷明夫、板東達也、五島真澄、宮城島康。演出:中村敬一。英語上演、日本語字幕付きである。

上演前に演出の中村敬一によるトークがある。「ディドとエネアス」のあらすじを紹介した他、イタリア人は歌を愛し、フランス人はダンスを好んで、イギリス人はシェイクスピアの国ということもあって演劇を愛好するという話をして、そのためもあってイギリス人の有名なオペラ作曲家はパーセルとベンジャミン・ブリテンの二人だけという話をする。
イギリス史上ただ一人といっていい天才作曲家のヘンリー・パーセル。エリザベス朝時代に活躍した作曲家であるが、彼の没後、約200年に渡ってイギリスは大物作曲家不在の国となってしまう。その後、20世紀に入ってから、ベンジャミン・ブリテンがようやく世界的なオペラを書くようになるのだが、ブリテンはパーセルのことを大変尊敬しており、ブリテン自身が編曲を手掛けたブリテン版「ディドとエアネス」も存在するという。

仮設舞台の上に布が一枚垂れているが、これに映像が投影されたり、船の帆に見立てられたりする。

びわ湖ホール館長の山中隆と、「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」のプロデューサーでびわ湖ホールの音楽監督でもある沼尻竜典によるかがり火点灯式の後でオペラスタート。


神話の時代のお話である。トロイ戦争に破れ、ローマを目指しての船旅に出たエアネス王子は嵐に遭い、カルタゴへ流される。カルタゴを建てたディド女王は、アプロディーテーの息子で男前のエアネスと恋に落ちる。だが二人の仲を知った魔女は嫉妬して、精霊に化けてエアネスの前に現れ、カルタゴを離れてローマに向かうよう命じる。ディドからも精霊の命令に従うよう説得されたエアネスはためらいつつもイタリアへと向かい、元々気鬱気味であったディドは自ら命を絶つ。

バロック時代のオペラということもあってあらすじは平易である。パーセルの音楽は「天才」の評価にふさわしい優れたものだ。古楽だけにドラマ性に富んでいるというわけにはいかないが、ラストの暗い響きなどには時代を超越したものがあるように思う。
中ホールがすぐ背後にあり、「俺だったら中ホールの照明を使うなあ」と思っていたが、中村敬一もラストで中ホールの明かりを使っていた。

今よりも神の存在がずっと大きかった時代の話。人間は神の前ではちっぽけな存在でしかなかったが、ある意味、「神のせい」に出来た時代でもある。神という存在に後付けされた免罪符とでもいうべきか。人間の意識が肥大化し、神が殺害されて全ての事柄が個人に結びつくようになった今に比べると、この時代は別の種類の豊かさに満ちていたとも言える。

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2018年5月 9日 (水)

コンサートの記(380) 沼尻竜典指揮 京都市交響楽団 「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2018 クロージングガラコンサート

2018年5月5日 びわ湖ホール大ホールにて

午後5時30分から、メインホールで、沼尻竜典指揮京都市交響楽団ほかによる「クロージングガラコンサート」を聴く。ガラコンサートというと正装が必要な場合がある。音楽祭の一環としてのガラコンサートなので、ドレスコードはないはずだが、今日はこちらも特別にネクタイは締めて行った。たまには正装して臨むのもいいだろう。

大ホール外のメインロビーでも無料演奏会が行われており、午後4時40分からは、日本センチュリー交響楽団のクラリネット奏者である吉岡奏絵が、ピアノの寺嶋千紘と共にチャイコフスキーの「くるみ割り人形」を基にした変奏曲(A・シャボー編曲)の演奏で聴衆を沸かせていた。

クロージングガラコンサートの曲目は、ロッシーニ没後150年を記念した歌劇「ウィリアム・テル」序曲より“スイス軍の行進”と同じく歌劇「ウィリアム・テル」よりアリア“暗い森、寂しい荒野”(ソプラノ独唱:森谷真理)、ウェーバーのクラリネット・コンチャルティーノとドビュッシーのクラリネットのための第1狂詩曲(クラリネット独奏:マイケル・コリンズ)、プッチーニの歌劇「トスカ」よりアリア“星は光りぬ”(テノール独唱:市原多朗)、ラヴェルの「ボレロ」

京響の男声楽団員達は蝶ネクタイを着けての登場。指揮者の沼尻竜典も蝶ネクタイ姿である。
沼尻は今日も全曲ノンタクトでの指揮である。

「ウィリアム・テル」序曲より“スイス軍の行進”は京響の金管群の輝かしい響きが印象的な演奏である。

演奏終了後、沼尻はマイクを片手に挨拶。「私の世代ですと、この曲は『俺たちひょうきん族』のテーマというイメージなのですが、若い人はピンとこないようで」と語る。
沼尻はロッシーニについての解説を行う。「ウィリアム・テル」はロッシーニ最後のオペラであるが、37歳の時にこの作品を書いて以降はオペラの作曲家を辞めて美食評論家になったということなどについて。

ロッシーニは、ベートーヴェンと同時代人であり、ロッシーニオペラの人気はベートーヴェンを震撼させたのだが、あっさりとリタイアし、悠々自適の生活を送るという、珍しい経歴を持つ。本人が余り音楽に執着がなかったのかも知れないが、ロッシーニのオペラは作曲者の死後には上演される機会がほとんどなくなってしまい、序曲だけが名曲として演奏会で取り上げられるということが続いている。一方で、アルベルト・ゼッダなどロッシーニのスペシャリストとされる演奏家も何人かいる。

歌劇「ウィリアム・テル」よりアリア“暗い森、寂しい荒野”。独唱の森谷(もりや)真理は栃木県小山市出身。武蔵野音楽大学を卒業後、同大学院を首席で修了。渡米してマネス音楽院に留学し、プロフェッショナルコースを修了。現在はウィーン在住である。第5回ヴェロニカ・ダン国際声楽コンクールなどで優勝し、パームビーチオペラの「魔笛」夜の女王役でオペラデビュー。2014年には、びわ湖ホールの「リゴレット」で日本デビューを果たしている。

声のコントロールが巧みであり、表情も細かい。本当に自由自在という印象を受ける。

続いて、マイケル・コリンズが登場する、ウェーバーのクラリネット・コンチャルティーノとドビュッシーのクラリネットのための第1狂詩曲。
マイケル・コリンズは、1962年イギリス生まれ。8歳でクラリネットを始め、16歳の時にBBCヤング・ミュージシャン・オブ・ジ・イヤーに輝いている。フィルハーモニア管弦楽団の首席クラリネット奏者を経て現在は指揮者としても活躍しており、シティ・オブ・ロンドン・シンフォニアの首席指揮者も務めている。

ウェーバーもベートーヴェンの同時代人で、いかにもドイツロマン派の作曲家らしい作風を示している。これに比べるとドビュッシーの作品は明らかに異質であり、ドビュッシーの登場が音楽史上におけるエポックメイキングであったことがわかる。

マイケル・コリンズは技巧難度最高レベルのソロを楽々と吹いていく。ドビュッシーの演奏終了後、沼尻はマイケル・コリンズについて「難しいはずなのに余裕を持って吹いているのが凄い。しかも目を合わせてくれる。私どもの伴奏もとても難しいので、こちらも余裕を持って、と言いたいところなんですが」と語った。

プッチーニの「トスカ」より“星は光りぬ”。テノール独唱の市原多朗は日本テノール界の大御所的存在である。「本間様には及びもせぬが」で有名な山形県酒田市出身。東京芸術大学及び同大学院修了。
沼尻は、かなり前にNHKニューイヤーオペラで市原と「星は光りぬ」をやったことがあるそうである。その時の苦労話も話したのだが、「ここだけの話ということで」「Twitterに書かないで下さい」と話していた。沼尻も喋りは達者である。指揮者の場合、トークが苦手だと仕事が減りそうな傾向がある。

市原は貫禄の歌唱を披露。とにかくドラマティックである。アンコールもあり、「オー・ソレ・ミオ」が朗々と歌われた。

ラヴェルの「ボレロ」。沼尻は「ボレロ」について、「変奏曲、メロディーを変えるのではなく、音色を変えていくという、まあ何と斬新な」と語る。その後、珍しい楽器が用いられているというので、オーボエ・ダモーレやソプラノサックス、テノールサックスなどが紹介される。
ラヴェルはバレエ音楽として「ボレロ」を作曲。ラヴェル本人は手慰みのつもりで書いたといわれているが、作曲者の意図に反して、現在では最も有名なラヴェル作品として認知されている。

やや速めのテンポを採用。「ボレロ」の場合、指揮者が楽団に委ねてしまう場合もあるのだが、沼尻は最初から最後まで指揮を続けた。


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2018年5月 8日 (火)

コンサートの記(379) 「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2018 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 ショスタコーヴィチ 交響曲第5番

2018年5月5日 びわ湖ホール大ホールにて

午後2時30分から、大ホールで、大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏によるショスタコーヴィチの交響曲第5番を聴く。

今年はレナード・バーンスタインの生誕100年に当たるということで、バーンスタインの作品と、指揮者としてのバーンスタインが最も得意としたショスタコーヴィチの交響曲第5番を合わせて取り上げるという演奏会を広上淳一や佐渡裕が行ったり企画したりしているが、この演奏会も同様のものである(大植と大フィルは、昨日、バーンスタインの「ウエストサイド・ストーリー」より“シンフォニック・ダンス”を演奏している)。

今日のコンサートマスターは崔文洙。今日は第4楽章でヴァイオリンの弦が切れるというアクシデントがあり、ヴァイオリンがリレーされて運ばれ、弦が張り替えられて戻ってくるという珍しい場面を目にすることになった。

びわ湖ホール大ホールの音響の効果もあって、鈍重な傾向のある大フィルの音がソフィスティケートされて聞こえる。弦に厚みがあり、管も力強い。
大植は1拍目のみを示すことが多いが、低弦と管には細かな表情付けを行うこともある。この曲のヒロイックな場面は皮相にして、嘆きの部分を丁寧に歌うことで、この曲の一般的な演奏とは別の表情を浮かび上がらせる。ピッチカートの力強さが印象的であり、第3楽章では弦楽器ががなり立てるように歌うところがある。当然、音は汚くなるのだが、それもまた意図したものなのだと思える。


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コンサートの記(378) 「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2018 ダルマ・ブダヤ 「ドビュッシーが魅せられたジャワガムラン」

2018年5月4日 びわ湖ホール中ホールにて

大ホールの向かいにある中ホールで、ダルマ・ブダヤによるガムランの演奏「ドビュッシーが見せられたジャワガムラン」を聴く。12時30分開演。ガムランに影響を受けた作曲家であるドビュッシーの没後100年を記念しての演奏である。

ダルマ・ブダヤは、1979年に大阪大学文学部音楽学研究室を拠点に結成された団体。中部ジャワスタイルの古典音楽の研究とガムランのための現代作品の創作・演奏を行っているそうである。1996年にインドネシアでの4都市公演を行い、2000年にはCDデビューも果たしている。メンバーは全員日本人(山崎晃男、林公子、安田香織、稲田直美、松田仁美、近藤チャコ、明日香郁子、板脇眞理子、平良理子、近藤美奈子、棚橋慶恵)だが、今日は賛助出演としてインドネシア人のアナント・ウィチャクソノが加わる。

曲目は、グンディン「マジュムッ(饗宴)」、クワタン「スボカストウォ(表敬)」~「アヤッアヤアン」~「スルプッ」~ドラナン「ルスン・ジュムングルン」、「クボ・ギロ」、舞踊「カロンセ(相思相愛)」(舞踊出演:リンタンシシッ)、「ムギ・ラハユ(平穏なれ)」

ドビュッシーは、1889年(明治憲法制定の年である)のパリ万博でガムランを聴いており、多大な影響を受けている。それまでの西洋音楽においては禁じ手とされた和音などを盛んに使った独自の作曲法を築きつつあったドビュッシーにとって、西洋音楽とはことなるイディオムを持ったガムランは大いに刺激となっただろう。

日本では、坂本龍一の師としても知られる小泉文夫が東京芸術大学で研究と実践を行っている。

ガムランはCDでは聴いたことがあるが、生で聴くのはおそらく今日が初めてである。青銅の独特の響き、ミニマルミュージックにも繋がる繰り返し、急激な加速と減速を特徴としている。

1889年のパリ万博の記録によると、「クボ・ギロ」という曲が演奏されたことは確からしいのだが、今日演奏する「クボ・ギロ」と同一演目なのかどうかはわからないそうだ。

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2018年5月 7日 (月)

コンサートの記(377) 沼尻竜典指揮 京都市交響楽団 「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2018 オープニングコンサート

2018年5月4日 びわ湖ホール大ホールにて

今年から始まった「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」まずは大ホールで、沼尻竜典指揮京都市交響楽団によるオープニングコンサートがある。午前11時15分開演。

びわ湖ホールの音楽監督である沼尻竜典は、近江の春 びわ湖クラシック音楽祭2018のプロデューサーでもある。昨年まではびわ湖ホールでラ・フォル・ジュルネの大津公演が行われていたが、金沢に次いで大津も独立、新たにびわ湖ホールを中心とした音楽祭を立ち上げた。今年は沼尻指揮京都市交響楽団と大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団が軸となり、有名ソリスト達が独自色の濃いリサイタルを散りばめていくという構成である。

オープニングコンサートの曲目は、ソプラノの中村恵理が独奏を務めるグノーの「ロメオとジュリエット」より“私は夢に生きたい”とジーツィンスキーの「ウィーン、わが夢の町」、そしてドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」である。上演時間約1時間の公演。

独唱者の中村恵理は、近年ヨーロッパでの評価を高めている歌手。兵庫県出身。大阪音楽大学、同大学院、新国立劇場オペラ研修所を経てオランダでも学ぶ。2008年にイギリスのロイヤル・オペラにデビュー。2010年からはウォルフガング・サヴァリッシュが長年総監督を務めたことでも知られるバイエルン国立歌劇場の専属歌手として6年に渡って活躍。2016年にはウィーン国立歌劇場デビューも果たしている。


グノーの「ロメオとジュリエット」より“私は夢に生きたい”。響きが良いことで知られるびわ湖ホール大ホール。京都市交響楽団の立体感をともなった緻密なアンサンブルを聴き取ることが出来る。中村恵理の歌声はパワフル。残響が長いので耳にはビリビリとした感じで伝わってくるが、声の美質はよくわかる。

演奏終了後、沼尻は、マイクを片手に「おはようございます」の挨拶(コンサートで聴衆に向かって「おはようございます」を使うことは稀である)の後で、音楽祭のタイトルが覚えにくいというのでお客さんと共に唱和。「これで覚えて貰ったと思います」と語る。『私は夢に生きたい』は、音楽祭の今年のテーマとなっているが、「昨今、『そんなこと言ってないで稼げることをしなさい』という風潮があるように感じますが、そこに逆らうように敢えて付けた」そうである。今日の沼尻は全曲ノンタクトでの指揮であった。


ジーツィンスキーの「ウィーン、わが夢の町」。近年、聴く機会が増えている曲でもある。中村の朗らかな歌唱と、京響のグラデーション豊かな伴奏が耳を楽しませてくれる。


ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」は、最近では新たなる旅立ちの折によく取り上げられる。今回も「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」の船出を祝っての演奏である。
午前中から聴くような曲ではないように思えて、余り集中出来なかったが、きちんと整った演奏であることは聴き取れた。ただ、沼尻竜典の指揮ということで特別な面白さを感じるということはない。沼尻はそうしたタイプの音楽家ではない。

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2018年5月 4日 (金)

コンサートの記(376) ウィーン少年合唱団来日公演2018京都

2018年4月29日 京都コンサートホールにて

午後2時からウィーン少年合唱団の来日公演を聴く。

アルトゥーロ・トスカニーニによる「天使の歌声」という賛辞でも知られるウィーン少年合唱団。ハイドン、シューベルト、ブルックナーが在籍したという長い歴史を持ち、現在も10歳から14歳の約100人のメンバーから成る。現在は作曲家名に由来する、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ブルックナーという4つのグループに分かれて活動。今回はハイドン組が来日した。カペルマイスターはジミー・チャン(指揮&ピアノほか)。

ピアノが弾き振りの時の形でセットされており、合唱団のメンバーがピアノを挟んで左右に陣取ることになる。

曲目は、第1部が宗教音楽集として、「グレゴリオ聖歌:あなたに向けてわが魂を」、ハスラーの「主に向かいて歌え」、クープランの「歓喜せよ」、カルダーラの「我は生ける糧なり」、ハイドンの「くるおしく浅はかな心配は」、モーツァルトの「汝により守られ」、メンデルスゾーンの「主をほめたたえよ」、バッハ=グノーの「アヴェ・マリア」(グノー生誕200年記念)、レナード・バーンスタインの「チチェスター詩編」より“主は私の羊飼い”(バーンスタイン生誕100年記念)、ディストラーの「我らに平安を与えたまえ」、ホーキンスの映画「天使にラブソングを2」より“オー・ハッピー・デイ”、第2部が世界各国の音楽というテーマで、ヨハン・シュトラウスⅡ世の「千夜一夜物語」、ヴェルディの歌劇「マクベス」より“何をしていたの? 教えて”、ウエルナーの「野ばら」、フンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」より“私は小さな眠りの精”と“夕べの祈り”、ウズベキスタン民謡の「水の女神」、岡野貞一の「ふるさと」、中国民謡「ひばり」、ロブレスの「コンドルは飛んでいく」、南アフリカ民謡の「ホーヤ・ホー」、ホーナーの映画「タイタニック」より“マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン”、ヨーゼフ・シュトラウスの「水平のポルカ」、ヨハン・シュトラウスⅡ世の「美しく青きドナウ」

第1曲であるグレゴリオ聖歌の「あなたに向けてわが魂を」では、メンバー達が客席1階中央通路横の扉から歌いながら登場してステージに上がるという演出がある。拍手が起こっていたが、この場合するのが適当なのかしないことがいいのか判断出来ない。拍手が歌声をかき消してしまう。よくわからないので取りあえずしないでおいた。想像を上回る美声である。今日は3階席レフトサイドの一番せり出した席で聴いたのだが残響も長く、教会の中で聴いているかのような気分になれた。

カペルマイスターのジミー・チャンは音型を描くタイプの指揮。今は拍を刻む指揮は少なくなりつつある。このジミー・チャン、ピアノがとにかく上手く、相当な実力者であることが窺える。少年達を教導するのだから、指揮者として優れているのみならず、いわゆる人格者である必要もあるのだろう。指揮者で且つ人格者という人材は余りいないと思われる。多分、ウィーン少年合唱団のオーディションに受かるよりも合唱団のカペルマイスターになる方が難しいのではないだろうか。
チャンはピアノ他にチェロや打楽器も演奏する。

少年達なので、歌詞の内容把握が十全でなかったり音程が不安定だったりする(そもそも声楽家が一人前扱いされるのは40を過ぎてからである。オペラ歌手の場合、完全に歌詞の中身を把握する頃には声がピークを過ぎてしまっているという悲劇が知られる)のだが、それも含めてのウィーン少年合唱団の味である。

バーンスタインの「チチェスター詩編」より“主は私の羊飼い”では変拍子の連続がある上に旋律も半音ずつ動くようなもので、今日のプログラムの中では一番の高難度だったと思うが、なかなか聴かせてくれる。

指揮のジミー・チャンや少年合唱団のメンバーが、虎の巻を片手に日本語で曲目紹介を行う。ハイドン組には日本人の少年が二人在籍しており、そのうちの一人も楽曲紹介を日本語で行う(当たり前だが日本語が際立って上手い)。多分、オーストリアの人がテキストを日本語訳したのだと思われるが、「国々」を「こくこく」と読み違えたところもある。意味がわかったからいいか。

声が魅力のウィーン少年合唱団。ただ近い将来、この声が失われることになると思うと切なくなったりもする。それだけに今のこの一秒一秒に価値があるとも思える。

アンコールは、久石譲の「となりのトトロ」とヨハン・シュトラウスⅡ世の「トリッチ・トラッチ・ポルカ」。団員達は楽しそうに伸び伸びと歌っていた。



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2018年5月 3日 (木)

観劇感想精選(240) 二兎社 「歌わせたい男たち」

2008年4月19日 大阪・梅田のシアター・ドラマシティにて観劇

午後7時より、大阪のシアター・ドラマシティで、二兎社の公演「歌わせたい男たち」を観る。作・演出:永井愛。出演:戸田恵子、大谷亮介、中上雅巳、小山萌子、近藤芳正。

高校の保健室が舞台。テーマは国歌斉唱である。もっとも、歌いたくない女を歌わせようとする男達というわかりやすい構造は取らない。そもそも、そんな誰でも思いつく構想の作品だったら、いくら永井愛の作・演出といえども観たいという気にはなれなかっただろう(永井愛も最初は歌いたくない女と歌わせたい男の設定にしようかと思ったそうだが、それでは物語がふくらまないということでやめたとのことだ。正解だと思う)。

音大を出てシャンソン歌手として活動を続けたものの、売れないままいい歳になってしまった仲ミチル(戸田恵子)は、高校の音楽教諭の免許をいかして、何とかかんとか、ある都立高校の音楽教師になることが出来た。音大時代はピアノが得意だったが、長いことろくにピアノを弾いていなかったので、今やピアノの腕は散々。ミスタッチが多いので、生徒に「ミス・タッチ」とあだ名され、与田校長(大谷亮介)なども陰では「ミス・タッチ」と呼んでいたりする。それほどピアノの腕のまずい彼女が音楽教師になれたのには理由があった。前任の音楽教師が、国歌の伴奏を拒否して学校を辞めてしまったのだ。ミチルが着任した高校には、国歌斉唱に反対する教師がおり、音楽教師もその問題にシビアになるため、次々に学校を去っていった。ミチルが音楽教師になれたのは、もう他に音楽教師を探し出すあてがなかったからである。

ミチル自身は国歌のピアノ伴奏をすることに特に抵抗は感じていないのだが、国歌斉唱が義務づけられた状態の都立高校にあって、国歌斉唱に反対の立場を取る拝島(近藤芳正)という教師のいるこの高校では、校長を始めとする教師達は、懲罰を怖れて、何が何でも滞りなく卒業式を終えねばならないとやっきになっていた……。

国歌斉唱が本来の意義からずれて強制を伴うようになり、違反した場合は懲罰まであるという何とも妙な現状が描かれているのだが、主役は誰で、根本は何かが問われないまま、形式だけが奉られる状態はシニカルな笑いを誘う。

あらゆることの根本であり、主役であるのは人間のはずなのだが、このままでは、主役は儀式ということになってしまい、また本来は人間が利用するはずの思想も、いつの間にか固定されてしまって逆に人間を振り回している。

結局、根本が問われないまま、不必要に入り組んだ思考でやっとたどり着くのはねじれにねじれた答え。普通に考えれば、ねじれがなければ出てこない答えは、それそのものが不自然である。そんな不自然な過程を踏まなければならない人間存在は哀れであると同時に滑稽である。

多くのものが転倒する現代社会。戦争反対の思想が争いを生み、存在しないものの方が実在の人間よりも価値が置かれる。

転倒はある意味では歴史の必然である。言葉もなく、意識も不分明だったころの人間を想像してみる。多くの言葉を持たない動物や植物と同じように、その頃の人間にとっては存在こそが価値だったはずだ。ところが人間はもう、価値あるものや価値があるとされるものに奉仕(あえて「奉仕」という言葉を用いる)しなくては存在意義を否定すらされる。完全に価値が転倒してしまっているのだ。これも奇妙といえば奇妙ではある。もう奇妙などとは言っていられないところまで人間は来てしまっているのだが(ただし人間の価値に関していうなら、後戻りが完全に不可能だとは私は考えていない)。

人間は本来もっとシンプルな存在だったはずなのだが、歴史を経て、もともとの意義からずれた場所でずれたことをするようになる。これはある意味避けられない。

国歌斉唱も、最初はそれほど重要な意義はなかったはずだ。あったとしても、富国強兵の日本を打ち立てるための国民意識向上と国威高揚のための国歌としての意義。そして、外国にも国歌があるんだから日本にも国歌があってしかるべきといった程度の認識だったはずだ。しかし戦争を経て、それが大きくねじれてしまう。

ねじれた存在であったとしても、そのねじれた存在として受けいれられる可能性もなくはなかったのだが、思想の闘争により(思想の闘争だってある意味戦争である)、元々の場所から更に遠い場所、もう誰も正確な認識など出来ない場所へと遠ざけられてしまった。
思想も信条も人間を縛るためのものなのか。ある意味そうであり、ある意味そうでない。そうでないなどと断言は出来ない。

しかし、多くの人が「妙だ」と思いながらも思想や信条に推し進められて状況だけが暴走する状態に終止符を打つことは誰にとっても困難である。あらゆる人間は、もうシステム化された社会の下に置かれてしまっているからだ。転倒した社会の中で誰一人として主役になることなく世界は進んでいく。客観的に見た場合、この状況は悲しくも滑稽以外の何ものでもない。
と、劇本来の内容からはずれた場所に私も出てしまっているわけだが、これは私が考えさせてくれる劇を好み、「歌わせたい男たち」がそうした考えさせてくる劇だったからである。

「歌わせたい男たち」というタイトルには二重の意味がある。もっと正確にいえば、歌わせたい曲は最低でも二曲ある。一曲はいうまでもなく「君が代」。もう一曲は……、ここまでバラしてしまうと面白くないか。

役者についていうと、舞台に近い席で観たということもあり、戸田恵子の──テレビからは伝わってこない──チャーミングな魅力を味わうことが出来た。また戸田の歌声はとても素敵だった。

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これまでに観た映画より(104) 「恋するマドリ」

DVDで日本映画「恋するマドリ」を観る。大九明子監督作品。出演、新垣結衣、松田龍平、菊地凛子、内海桂子、ピエール瀧、世良公則ほか。

独特の時間が流れる映画である。偶然の多さは気になるが。

人気急上昇中(2008年当時)の新垣結衣の主演作。ただ、準主役である松田龍平と菊地凛子にかかる比重も大きく、少なくとも存在感においては松田龍平と菊地凛子の方が新垣結衣より上ではある。

評価が高く、愛らしい映画ではあるけれど、そこどまりの限界も感じさせる。

菊地凛子がいい。「バベル」の時はそれほど良いとは思わなかったけれど、独特の時間を自分から生み出すことの出来る女優であることがこの映画を観てわかった。映画自体も独特の時間を持っているが、彼女の周りだけ違う時間が流れているような感じを受けた。

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おおたか静流 「悲しくてやりきれない」

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2018年5月 2日 (水)

これまでに観た映画より(103) 「親切なクムジャさん」

DVDで韓国映画「親切なクムジャさん」を観る。「宮廷女官チャングムの誓い」のイ・ヨンエが悪女役に挑んだ復讐劇。パク・チャヌク監督作品。

強烈な残虐シーンがあるなど、人間の暗部に切り込む劇である。韓国ではR18、日本ではR15の指定を受けたそうだが、うなずける。

演出面ではかなり意欲的であり、実験的要素も多い。

韓国映画はアメリカと同じスターシステム。スターに注目が集まるが、その分、芸能人は叩かれやすくもある。私はイ・ヨンエの著書を読んだことがあるけれども、彼女もこれまで善人役やお嬢さん役が多く、新しい役に挑む度に、「こんな役がイ・ヨンエに出来るのか?」などと書かれるという。それだけにイ・クムジャ役は、女優としての幅を広げるための挑戦以上の意味を持っていたと思われるが、かなり難しいと思われる表情作りにも成功しており、チャレンジは成功とみていいだろう。

好き嫌いのはっきりと分かれる映画だと思われ、嫌いな人は徹底的に嫌うと思うが、表現をしている人間や表現を志している人間は観ておいて損はしない映画だと思う。内容も表現方法も、頭を内側から叩かれるような衝撃力を持っている。

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