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2018年8月の25件の記事

2018年8月31日 (金)

コンサートの記(416) 高関健指揮京都市交響楽団第626回定期演奏会 ブリテン 「戦争レクイエム」

2018年8月26日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第626回定期演奏を聴く。今日の指揮者は京都市交響楽団常任首席客演指揮者の高関健。
京響の8月定期は宗教曲を演奏することが恒例であり、今年もベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」が取り上げられる。
ソプラノ独唱は木下美穂子、テノール独唱:小原啓楼(おはら・けいろう)、バリトン独唱:大西宇宙(おおにし・たかおき)。京響コーラスと京都市少年合唱団も参加する。

編成が独特である。ポディウム席は合唱が入るため今日は販売されていない。ソプラノ独唱の木下美穂子もポディウムに陣取る。オーケストラは指揮台周辺の室内オーケストラのその外郭の大オーケストラに分かれる。室内オーケストラのコンサートマスターは客演の石田泰尚(いしだ・やすなお)。大オーケストラのコンサートマスターは泉原隆志。京都市少年合唱団は3階正面席の下手側に離れて置かれ、指揮は京都市少年合唱団の津幡泰子(つばた・やすこ)が行う。

午後2時から高関健によるプレトークがある。編成の関係か楽屋の位置によるのか、今日は普段と違い、舞台上手から登場した。
ブリテンの「戦争レクイエム」は1962年の初演。高関はこの時代に生まれた音楽の最高傑作と高く評価しており、匹敵する作品はメシアンのトゥーランガリラ交響曲のみであるとする。
高関は、10年前に群馬交響楽団の定期演奏会でこの曲を取り上げており、それ以前に小澤征爾指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏、初演者でもあるディートリヒ・フィッシャー=ディースカウのバリトン独唱で聴いたことがあり、強い感銘を受けたことを語る。
「戦争レクイエム」は初演の際は、室内オーケストラの指揮者と大オーケストラの指揮者、少年合唱団の指揮者の三人体制で演奏されたそうだが、室内オーケストラと大オーケストラが同時にで演奏することはほとんどないのでオーケストラの指揮者は一人でいいということになったそうだ。

イギリスの20世紀を代表する作曲家であるベンジャミン・ブリテン。ドイツ人から「作曲家のいない国」と揶揄されたイギリスが久しぶりに生んだ天才作曲家である。オペラに傑作が多いが、オーケストラ曲や声楽曲の部門でも活躍しており、日本の皇紀2600年記念として書かれたシンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)などが有名。皇紀2600年の曲に鎮魂曲を書いたため、物議を醸してもいる。
同性愛者としても知られ、テノール歌手のピーター・ピアーズとパートナーであり、「戦争レクイエム」の初演のテノール歌手はピアーズが務めている。
また指揮者としても活躍しており、「戦争レクイエム」の初演の指揮者を務め、英DECCAへのレコーディングでもタクトを執っている。DECCAの「戦争レクイエム」は日本の第1回レコードアカデミー賞大賞を受賞した。

演奏時間約85分の大作。滅多に上演されない曲であるため、今日の演奏会のチケットは完売である。

高関らしい構築感のしっかりとした演奏である。京響コーラスと京都市少年合唱団のレベルも高い。
「戦争レクイエム」は、一般的な「レクイエム」のラテン語詩の間に、第一次大戦中に25歳で戦死したウィルフレッド・オーウェンの英語詩が挟まれるという構成である。オーウェンの英語詩はテノールのバリトンによって歌われ、戦場の陰惨さと犠牲となる戦士達の悲惨さが独唱と対話の形式を用いて描かれている。イギリス人作曲家らしいというべきか、大仰さは丁寧に封じられており、淡々と、だが深く続く場面が印象的である。

この曲は、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団ほかのCDでしか聴いたことがないが、ブリテンによる自作自演盤なども聴いてみたくなる。

レセプションで高関の話を聞く。実は、7年前にも「戦争レクイエム」を指揮する機会があったそうだが、上演の予定日は2011年3月12日。東日本大震災発生の翌日である。3月11日には、高関は「戦争レクイエム」を演奏する予定であった東京フィルハーモニー交響楽団と共に千葉県内にいたそうだが、地震で交通網は全て遮断されてしまって東京には帰れない。更に会場となるはずだった新宿文化センター大ホールも地震によって具合の悪いところが発見されたということで演奏会は中止になったという。
プレトークで話そうかとも思ったそうだが、「プレトークが終わってから本番までの間に地震があったら嫌だな」ということで終演後に話すことにしたそうだ。



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2018年8月30日 (木)

コンサートの記(415) 夏川りみコンサートツアー2008-2009「歌さがしの旅」宇治公演

2008年12月4日 宇治市文化センター大ホールにて

午後7時から、宇治市文化センター大ホールで、夏川りみコンサートツアー2008-2009「歌さがしの旅」宇治公演を聴く。

宇治市文化センター大ホールはそれなりに新しいホールだとは思うが、会場の椅子は厚みがなく、古い公会堂のそれのようである。入口が階段のすぐそばにあったり、ホワイエが狭かったりと、コンサートに向いた作りではないようだ。

夏川りみのコンサートは相変わらず客層が幅広い。ただ、宇治は場所柄故かお年寄りが目立つ。また、10代と20代前半の人は余り見かけない。

夏川りみは、持ち歌のほか、Kiroroの「未来へ」、森昌子の「おかあさん」、弘田美枝子の「ヴァケイション」、テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」(台湾ツアーの際に歌ったところ、現地の聴衆が熱狂したとのことである)などカバーも歌う。

夏川りみのコンサートは、優しい歌声に聴き惚れていればいいだけなので、リラックスして聴くことが出来る。
それから、彼女のコンサートに行ったことがある人はご存じだと思うが(ここに来る人でそういう人がいるのかどうかは微妙だが)、客席オールスタンディングで、カチャーシという動きを付けて、みんな踊る。今日は、「安里屋ユンタ」、「バグしちゃお」→「ハイサイおじさん」特別版などでカチャーシ付きのお祭り騒ぎが繰り広げられた。外は寒いのだが、ホールの中は、とても暖かいウチナーのエンタテインメントが繰り広げられる。とても庶民的なライブなので、誰にでも薦められるのが夏川りみのコンサートである。

アンコールの最後は、オーディエンス全員で、「今日の日はさようなら」を歌う。ちなみに夏川りみは森山良子の物真似をしながら客席に歌詞を教えていた。

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2018年8月29日 (水)

これまでに観た映画より(105) 大森南朋主演「キャッチボール屋」

DVDで日本映画「キャッチボール屋」を観る。大崎章監督作品。主演:大森南朋。出演は、キタキマユ、寺島進、松重豊、光石研、水橋研二、庵野秀明、内田春菊、峰岸徹ほか。

会社をリストラされたタカシ(大森南朋)は、公園でキャッチボール屋をしている竹村(庵野秀明)を見かけ、キャッチボールをする。ちょっと代わってくれないといって竹村はどこかへ。その間、キャッチボール屋をすることになるタカシ。公園には色々な人がキャッチボールをしにくる。結局、竹村は戻ってこず、タカシがキャッチボール屋をすることに……。

独特の時間の流れる大人の童話的作品。特に見所らしい見所はないけれど、こうした淡々とした作品に付き合うのもたまにはいい。それにしても、寺島進、松重豊、光石研という日本を代表するバイプレーヤーが揃っているというのはさりげなく豪華である。

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2018年8月28日 (火)

西城秀樹 「走れ正直者」

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2018年8月26日 (日)

コンサートの記(414) 藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団 Meet the Classic Vol.37@大阪工業大学梅田キャンパス 常翔ホール

2018年8月19日 大阪工業大学梅田キャンパス 常翔ホールにて

大阪へ。
午後2時から、竣工したばかりの大阪工業大学梅田キャンパス内にある常翔ホールで関西フィルハーモニー管弦楽団のMeet the Classic Vol.37に接する。指揮は関西フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者で、Meet the Classic公演を始めた藤岡幸夫。Meet the Classic公演は通常はいずみホールで行われるのだが、現在、いずみホールは改装工事中のため、常翔ホールで行われることになった。

大阪工業大学梅田キャンパスが出来たのは、阪急梅田駅の東側、以前は廃校になった梅田東小学校があったところである。向かいには大阪の「凌雲閣」跡の碑がある。
近年、学生を集めるための大学キャンパスの都心回帰傾向があり、京都でも同志社大学が教養部の置かれていた京田辺キャンパスを理系のみのものとし、文系は1年から4年まで京都御所の北にある今出川キャンパスに新校舎を建てるなどして集約している。
梅田地区にも各大学がサテライトを置くほか、宝塚大学が梅田に進出。大阪工業大学もロボット関係の学部を梅田の超高層キャンパスに移した
大阪工業大学梅田キャンパスは、地上21階地下2階のOIT(Osaka Institute of Technology)梅田ビルを丸ごとキャンパスとしたもの。東京の理系大学である工学院大学が西新宿に超高層ビル一棟のキャンパスを構えているが、丁度、そんな感じである。ビルキャンパスは受験生から敬遠されがちだが、都心にある場合は利便性が魅力であり、理系であればなおさら色々と便利だろう。

常翔ホールは、OITビルの3階にある。各椅子に上に引き出して手前に倒すタイプの簡易デスクが付いており、主に講演や集会場として使われるホールだと思われるが、すでに室内楽などのコンサートが行われている。客席は比較的急傾斜で作られており、椅子が一段上がるごとに階段が2つ付いている。各段は木目であるが、ぱっと見、段差がわかりにくく、転びそうになったり転んだりする人が何人かいる。

曲目は、ルロイ・アンダーソンの「舞踏会の美女」、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:小栗まち絵)、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」

ステージはやや狭く、第1ヴァイオリン10型の編成でびっしりと埋まる。ティンパニは指揮者の正面に置くスペースがないということもあり、ステージ下手奥に配される。
今日のコンサートマスターは岩谷祐之(いわや・すけゆき)。今日も関西フィルの通常シフトであるアメリカ式の現代配置での演奏である。

ルロイ・アンダーソンの「舞踏会の美女」。関西フィル Meet the Classicのオープニングテーマである。音響であるが、想像よりもずっと良い。それほど大きなホールではないが音の通りが良く、各楽器が明晰に聞こえる。

演奏終了後、藤岡幸夫がマイクを片手にスピーチ。するもマイクがオンにならず、藤岡が声を張って挨拶する。藤岡も常翔ホールで演奏するのは初めてだったが、音響の良さに驚いたそうで、「ここの館長は元ピアニストで、共演したこともあるのですが、彼が徹底して」音響を追求したホールだそうで、「むしろゴージャスになりすぎないよう音を抑える必要がある」そうである。「マイク使わなくても、声良く聞こえますよね」と藤岡は言う。

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。ソリストの小栗まち絵は重鎮的存在である。大阪生まれ、桐朋学園大学に学び、第37回日本音楽コンクールで1位を獲得。渡米し、インディアナ大学ブルーミントン校アーティスト・ディプロマ課程を修了。ソリストの他、室内楽奏者としても活躍し、夫で京都市交響楽団コンサートマスターであった故・工藤千博と共に教育活動にも熱心に取り組んできた。現在は相愛大学大学院教授、東京音楽大学特任教授の座にある。

藤岡と小栗は初共演だそうだが、藤岡の方が熱心に共演を希望していたそうである。小栗の門下生とは藤岡は何度も共演しているそうだが、全員、自分のソロパートだけでなく、オーケストラの音にも気を配るそうで、小栗の教育の素晴らしさを藤岡は称えていた。

小栗のソロは渋く、玄人好みである。テクニックをひけらかすでもなく、無駄に音楽にのめり込むでもなく、出しゃばるでもなく、オーケストラと一体になった「音楽」の素晴らしさそのものを感じさせる。

演奏終了後、藤岡は小栗にコメントを求めるも、やはりマイクのスイッチが入らず。スタッフが下手から別のマイクを持って出てくる。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲について小栗は、「若い頃には良く弾いたが、もう弾くことはないと思っていた。だけどこの際」ということでもう一度弾いてみようと思ったそうだ。

アンコールは、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番よりアンダンテ。堅実な演奏であった。

メインであるベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。藤岡は演奏前にスピーチ。ティンパニはバロックティンパニ、トランペットはナチュラル・トランペットを使用していることを明示し、「今でこそベートーヴェンはクラシックコンサートのオーソドックスなレパートーリーという感じですが、彼の生前中はそうじゃなかった。破壊者、革命家といった感じだった。例えば、二つの和音が鳴った後で、チェロが主題を奏でますが、チェロにテーマを弾かせるというのは画期的なことだった」。第2楽章についても「葬送行進曲ですが、悲しいというよりも史上のあらゆる英雄への思いを込めたような圧のある」と説明する。第3楽章でも従来のメヌエットではなくスケルツォを採用、第4楽章でも変奏曲をピッチカートで奏でるという画期的なことをやっていると述べた。今回は青年ベートーヴェンのエネルギーを客席に届けるという主旨の演奏のようだ。

ピリオドらしく速めのテンポを採用。弦楽器奏者はビブラートというよりも要所要所を「揺らす」奏法を行う。
関西フィルハーモニー管弦楽団は、関西のオーケストラの中でもパワーでは下位に来る楽団であるため、オーケストラの持ち味を最大限に引き出すための演奏でもあるようだ。
白熱した演奏であるが、ややうるさく聞こえてしまうのが難点。青年作曲家の情熱は伝わる演奏だったが、全曲を通した見通しの良さも欲しくなる。

演奏終了後、藤岡は、「とにかく暑いんでね。少しでも涼しくなる演奏を」ということで、「あんまり演奏されない曲なんですが、シベリウスの『クリスチャンⅡ世』より“エレジー”」が演奏される。良く整った演奏であった。

藤岡は今夜放送される「エンター・ザ・ミュージック」の紹介もする。「エンター・ザ・ミュージック」のプロデューサーを務めているのが実は小栗まち絵のお嬢さんなのだそうだ。


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2018年8月24日 (金)

コンサートの記(413) SoulMates(仲井戸麗市+梅津和時+早川岳晴) 「Going,Going,Gone」@京都・磔磔

2018年8月17日 下京区の磔磔にて

午後6時30分から、富小路通綾小路下ルにあるライブハウス磔磔(たくたく)で、SoulMatesのライブ「Going, Going, Gone」を聴く。

soulMatesは、CHABOこと仲井戸麗市(ボーカル&ギター)、梅津和時(サックス&フルート)、早川岳晴(ベース)の三人が結成したバンド。この夏は名古屋と京都でライブを行う。

京都を代表するライブハウスの一つである磔磔。酒蔵を改装したライブハウスであるが私自身は来るのは二度目。前回は遊佐未森のライブで会ったが、それから大分時が流れてしまっている。
チケットを取るのが遅れたため、後ろの立ち見席へ。足が痛くなったが視覚的にも聴覚的にも不満はない。

今年で68歳となる仲井戸CHABO麗市は、京都を訪れるのは今年最初であるためか、「あけましておめとうございます」と挨拶する。「このくそ暑い中、くそ暑いって言っても今日は清々しいとまではいけないけれど、爽やかも言い過ぎかも知れないけれど」、「実は俺も梅津も(京都は暑いので)二三日前まで本当に来るかどうか決めてなかった」

ボーカルパートが終わった後で、楽器によるセッションが加わるという、RCサクセション以来のスタイルを踏襲している。

ボブ・ディランのナンバーを歌った後で、ディランの出たフジロックに自分も出たかったと語ったCHABO。ディランのピックを貰いたいそうだが、「ディラン、ピックくれないかも。昔、ベン・E・キングからはピック貰ったことある」と語っていた。

「ぶつぶつ」、「ブルームーン」などを歌い、「アメリカンフットボール、話題になったでしょ? (客席から反応がないので)シーン。少し前ほどじゃないけど、また今日なにかあったって。で、考えたら『アメリカンフットボール』って歌、あったのよ」「今日、何があったって? (スタッフに聞く)事情聴取を受けた? あのクソオヤジ!」というわけで「アメリカンフットボール」という曲が歌われる。

更に、昔、寺山修司の天井桟敷と一緒に仕事をしたことがあり、それが縁で最近はポエトリーリーディングの仕事もするようになったそうで、「『新宿の男』という本でリーディングをして、俺、新宿の男だからさ。でも京都で新宿の話しても、『何、あの変な人』、で、京都の話しても『知ったかぶりしちゃって』」ということで、ラングストン・ヒューズの詩の朗読を行う。
「大阪の島之内劇場って今もあるの? シーン。島之内教会を使った劇場だったんだけど、あそこで天井桟敷と仕事してた」そうである。島之内劇場はよく知らないが、島之内教会は今でもコンサートや落語公演などを行っているようである。

「この季節になると忌野君を思い出します。清志郎ね」。ということで清志郎と一緒にやったナンバーを立て続けに披露する。「君が僕を知ってる」、「ボスしけてるぜ」、「玉蘭坂」、「毎日がブランニューデー」。「玉蘭坂」は梅津和時がボーカルが務めた。「忌野君が引っ越しを繰り返して、4度目か何かの家に越した時」に作ったのが「玉蘭坂(正式には平仮名で「たまらん坂」と書き、「玉蘭坂」は当て字である)」であり、梅津和時はそのとき、たまらん坂の裏手に住んでいたそうだ。梅津はキャンパスが国立市内にあった頃の国立音楽大学出身、CHABOも国立市にある有名進学校の桐朋高校卒業、清志郎が国立出身(最寄り駅は国立で、住所的には国分寺市出身)ということでCHABO曰く「縁を感じる」そうである。清志郎はCHABOにもたまらん坂の家へ「遊びにおいでよ」と誘ってくれたそうで、「歓迎してくれるのかな」と思って行ったところ、「忌野君、寝てて」だそうである。
「君が僕を知ってる」は聴衆にも歌わせ、「毎日がブランニューデー」では、「ヘヘイヘイ」の部分を歌うよう客席に呼びかけていた。
「毎日がブランニューデー」は、清志郎とCHABOが一緒に作った最後の曲だそうで、向こうから「久しぶりに一緒にやろうよ」と呼びかけてくれたそうである。

新曲である「財布」も披露。「財布落とさないように、拾ったら交番に届けましょう」と言ってた。

本編ラストは「ガルシアの風」。普段はリーディングで終えることが多いそうだが、今日は歌で締めくくった。

アンコールでは、客席にいたHOBO CONNECTIONのリクオがCHABOによってステージに呼び寄せられ、更にRCナンバーで盛り上がる。「いい事ばかりはありゃしない」、そしてスタンダードナンバーである「雨上がりの夜空に」ではオーディエンスと一体になって沸きに沸いた。


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2018年8月23日 (木)

岩代太郎 「沙粧妙子-最後の事件-」の音楽

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2018年8月22日 (水)

スペイン国立ダンスカンパニー 「ロミオとジュリエット(ロメオとジュリエット)」@びわ湖ホール大ホール

2008年11月29日 びわ湖ホール大ホールにて

午後3時から、大津市のびわ湖ホール大ホールで、ナチョ・ドゥアト芸術監督率いるスペイン国立ダンスカンパニーの公演、バレエ「ロミオとジュリエット」(音楽:セルゲイ・プロコフィエフ、振付:ナチョ・ドゥアト)を鑑賞。プロコフィエフの音楽を演奏するのは、ペドロ・アルカルデ指揮の関西フィルハーモニー管弦楽団。

ペドロ・アルカルデは作曲家でもあり、近年は1年に1作ずつバレエ音楽作品を発表しているようだ。
スペイン国立ダンスカンパニーは、1979年にスペイン国立クラシックバレエとして創設。その後、「クラシック・バレエを否定することなく、より現代的なスタイルを取り入れた」団体となり、名称も現在のものに変更された。

スペイン国立ダンスカンパニー芸術監督のナチョ・ドゥアトは、バレンシア地方の生まれ。ベルギーでモーリス・ベジャールに師事し、その後、ニューヨークに渡って更なる研鑽を積んで、1990年にスペイン国立ダンスカンパニーの芸術監督となる。コンテンポラリーダンスに主軸を置いていて、クラシック・バレエの全曲作品の振付を手掛けたのは、「ロミオとジュリエット」が唯一だそうだ。

スペイン国立ダンスカンパニーは、さいたま市でも公演を行ったが、その時は、演奏してくれるプロオーケストラが確保できなかったのか、テープ録音によって音楽を流したとのこと。
今日の公演は生演奏で音楽が聴ける。もちろん、その場でオーケストラが演奏した方がずっと感動的である。

幕が開くと、ロミオ(ゲンティアン・ドダ)がベンチで休んでいる。やがて、友人のマキューシオ(フランシスコ・ロレンツォ)らがやってきてロミオと戯れるが、ロミオは、たまたまそばを通り過ぎた女性の後についていってしまう。どうも、今回のバレエでのロミオは遊び人という解釈のようだ。シェークスピアの原作でもロミオはいい加減な奴なので、こういうのもありだろう。

一方のジュリエット(ルイサ・マリア・アリアス)はというと、ピョンピョン跳びはねながら口うるさそうな婆やから逃げ回っている。かなりお転婆なジュリエットである。

さて、イタリア・ヴェローナの名門、モンタギュー家とキャピュレット家の争いというのが、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の枠組みであるが、今日のバレエでは、モンタギュー家の人々は男女ともに庶民のような格好で、広場で踊るなどして楽しんでいる。そこへ正装のキャピュレット家の男達がやってきて、楽しんでいるモンタギューの人々にちょっかいを出し、剣を抜く。モンタギューの人々は鋤で応戦。ということは、スペイン国立ダンスカンパニーのバレエではモンタギュー家の人々はどうやら本当に庶民で、キャピュレット家が貴族であり、原作の権門争いではなく、階級闘争に設定が変えられているようだ。

キャピュレット家での舞踏会に、ロミオやマキューシオは仮面を付けて、道化に化けて忍び込み、手品をしたり悪ふざけをしたりしている。
そして、ジュリエットに一目惚れしてしまうロミオ。ジュリエットも無理矢理結婚相手に決められたパリス(アモリー・ルブラン)やジュリエットの親戚であるティボルト(クライド・アーチャー)ではなく、仮面のままのロミオと踊りたがる。露骨に悔しがるティボルト。
やがて、ジュリエットが一人になったところにロミオが現れ、仮面を取る。瞬く間に恋におちる二人……。

モンタギューの人々が広場で車座になり、中央で踊っているマキューシオが乗ってくると皆で同時に手を打つところなどは、まさに「オーレー!」で、スペイン的味わいが出ている。
モンタギューの人々の踊りがダイナミックで、マスゲームのように良く計算されているのも印象的。
幕、布、旗などの使い方も効果的である。

ラスト。仮死状態になったジュリエットを見て本当に死んでしまったと思い、短剣で胸を突くロミオ。ロミオが崩れ落ちるのとほぼ同時にジュリエットが目を覚ます。何てずるい演出なんだ。ストーリーを知っていても、「あー、ロミオがもっと迷っていれば上手くいっていたのに」と悔しくなる。
そして、ロミオが死んだことを知って自らも死を選ぶジュリエット。ここは音楽だけでも十分に美しくて悲しいのに、ジュリエットの動きが加わると、もう卑怯なほど美しくて悲しい。
こういうものを見てしまうと、それを言葉で語るのが馬鹿らしくなる。言葉なんてもう余計なものだ。プロコフィエフの音楽だけで十分である。
といいながら言葉で書いてしまっているけれど。

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2018年8月21日 (火)

コンサートの記(412) 京都フィルハーモニー室内合奏団特別演奏会 「VIVA! Gershwin」

2008年11月14日 京都コンサートホールにて

今日も京都コンサートホールまで出向く。京都フィルハーモニー室内合奏団の特別演奏会「VIVA! Gershwin」

京都フィルハーモニー室内合奏団は、京都コンサートホールの小ホール「アンサンブルホールムラタ」では良く演奏会を行っているが、今日の会場は「ムラタ」ではなく、昨日は大フィルが演奏をした大ホールである。

タイトル通り、オール・ガーシュウィン・プログラムの演奏。「パリのアメリカ人」、「ラプソディー・イン・ブルー」(1924年ジャズバンドバージョン。ピアノ独奏:上野真)、弦楽合奏のための「ララバイ」、オペラ「ポーギーとベス」より抜粋が演奏される。

今日は、指揮者を置かないでの演奏。ヴァイオリン7、ヴィオラ2、チェロ2、コントラバス1と編成は小さいが、鳴りは良く、音の不満はなかった。
ゲストとして、サキソフォンの古谷充(ふるや・たかし)、小林充(こばやし・みつる)、古谷光広の3人と、バンジョーの増井一友が加わっている。

「ラプソディー・イン・ブルー」は、1925年製ニューヨーク・スタインウェイのピアノを用いての演奏。「ラプソディー・イン・ブルー」の初演が1924年であり、初演と同じ時期のピアノを使いたいということで、ニューヨークのスタインウェイ社に保管されてきたものをわざわざ運んできたのだという。弦などは張り替えているはずなので、1925年製造時のままの姿というわけではないだろうが、今日のピアノは普通のピアノに比べると重心の低い独特の音色がした。
小編成の京都フィルハーモニー室内合奏団の演奏ということで、1924年初演時のジャズバンドバージョンを用いていたが、フルオーケストラで演奏されるバージョンよりも、ジャズバンドバージョンで演奏した時の方がより「ブルー」な感じが引き立っていた。フルオーケストラで演奏すると「ブルー」さよりも豪華さが目立つためだろう。
上野真のピアノは模範的なもの。アンコールとして上野はリストの曲を弾く。別にリストが嫌いというわけではないが、オール・ガーシュウィン・プログラムということもあり、弾くならガーシュウィンの「前奏曲」第2番あたりを弾いて貰いたかった。

「ララバイ」は部分的に現代音楽的な響きが混じっているのが興味深かったし、「ポーギーとベス」からの曲は、コンサートで聴く機会自体が少ないので演奏してくれるだけで嬉しい。演奏自体もなかなかの出来だったと思う。

ガーシュウィンのオーケストラ曲では、「キューバ序曲」という曲がノリノリで大好きである。京都市交響楽団の12月定期で演奏される予定だったのだが、指揮者の変更があり、演奏曲目も変わって、プログラムから外れてしまった。残念である。

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2018年8月20日 (月)

観劇感想精選(253) 「大人のけんかが終わるまで」

2018年8月10日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「大人のけんかが終わるまで」を観る。作:ヤスミナ・レザ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、上演台本:岩松了、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。出演:鈴木京香、北村有起哉、板谷由夏、藤井隆、麻実れい。

「偶然の男」、「アート」などで知られるヤスミナ・レザ。ペルシャ系ユダヤ人の父親とハンガリー系ユダヤ人の母親との間に、パリに生まれ、育った女性劇作家である。マクロン大統領も学んだパリ第10大学(ナンテール大学)で演劇と社会学を専攻した後、ジャック・ルコックの演劇学校で学び、舞台俳優としてキャリアをスタート。俳優としては大成しなかったが、1987年に初めての戯曲である「埋葬後の会話」でフランス最高の戯曲賞であるモリエール賞最優秀劇作家賞を受賞。1994年に発表した「アート」で世界的な名声を得ている。翌年、「偶然の男」を発表。「大人のけんかが終わるまで」は、2015年にベルリンで初演され、現時点ではレザの最新作となっている。原題は「Bella Figura(ベラ・フィギュラ」。「表向きはいい顔をする」「取り繕う」「毅然としている」という意味だそうだ。

開演前には、ヴィヴァルディの「四季」のピアノ編曲版が流れており、本編でもヴィヴァルディの音楽が要所要所で用いられる。

フランスの地方のレストランとその前の駐車場が舞台である。薬剤師助手のアンドレア(鈴木京香)と鏡の製造会社の社長であるボリス(北村有起哉)は不倫関係にある。ボリスはパトリシアという妻との間に二子がいて、一人は音楽院に入ったが、もう一人はフリーター(フランスにはアルバイトという概念がなく、パートタイムであっても正社員なので、日本のフリーターとは違ってフラフラしているだけなのだろう。フランスの若年失業率は極めて高い)である。アンドレアには9歳になるソフィーという娘がいるが、離婚しており、シングルマザーである。同じ薬局に勤める26歳の男性ともいい仲になろうとしているそうだ。
アンドレアとのデートにボリスが妻が薦めるレストランを選んだために、アンドレアは不機嫌である。レストランの駐車場でいがみ合う二人。更にボリスが事業を拡げようとして失敗し、間もなく破産することが判明する。

ボリスが車を出そうとバックした時に、誤って老婦人のイヴォンヌ(麻実れい)をはねてしまう。幸い、怪我はなかったが、今日が誕生日だというイヴォンヌと、イヴォンヌの息子であるエリック(藤井隆)、そしてエリックの妻のフランソワーズ(板谷由夏)と共にレストランに戻ることになる。フランソワーズとボリスの妻であるパトリシアとが幼い頃からの友人ということで、イヴォンヌの誕生日祝いである食事につきあうことにしたのだ。エリックとフランソワーズはまだ籍は入れておらず、いわゆるフランス婚状態である。イヴォンヌは認知症を患っており、言動が子供のようである(ただ観察眼は鋭い。ボリス曰く「三人の中で一番まとも」)。少しだけ同席してすぐに帰るつもりだったボリスとアンドレアだが、ヘリコプター会社の法務で働いているというエリックに破産回避の方法を聞いたりしているうちについつい帰りそびれてしまい……。

エリックはロマンティストで人は良いのだが単純で鈍いところがある。一方のフランソワーズはアンドレアがボリスの愛人であることをすぐに見抜き、親友のパトリシアのためにアンドレアに喧嘩を吹っかける。アンドレアは、薬局に勤めているのをいいことに(?)多数の薬を持ち歩いており、特に精神安定剤は何かあるごとに口にするという沙粧妙子状態(わかるかな?)で、心理的に危ういことがわかる。

「偶然の男」や「アート」でもそうだったが、ヤスミナ・レザの本はとにかくセリフが多い。登場人物が全員、饒舌で細かいところまで語る。ただ核心の部分は皆、明言を避けるのである。
時間が経つごとに、皆の心が安定し、今ある状況を受け入れるようになる。己の弱さに関しても、恋愛に関しても。素直にハッピーエンドになりそうな展開だったのだが、ラストは生きることの不安と人間存在の不安定さに関するセリフで締められる。単なる色恋沙汰を描いているわけではない。考えれば、脳天気なエリックを除けば、登場人物全員が危機に面している。

鈴木京香出演の舞台を観るのは3度目。野田秀樹の「カノン」は渋谷のシアターコクーンで、ジャン・コクトー作・三谷幸喜演出の「声」は同じく渋谷のスパイラルホールで観ているため、関西での舞台を観るのは初めてになる。今年で50歳を迎えた鈴木京香。この世代でアンドレアを演じられる女優としてはベストの配役であるように思う。事実婚状態が伝えられながら、いつまで経っても結婚しないというところもフランス的である。鈴木京香にはある意味、ジャンヌ・モローにも通じるセンスの持ち主であるように感じる。

私と同い年の北村有起哉。2002年に新国立劇場小劇場で観た「かもめ」のトレープレフ役が今も印象的だが、色気のある男の役も様になるようになってきた。

コミカルなイヴォンヌ役を演じる麻実れい。アンドレアやボリスよりもある意味重要な役であり、麻実の貫禄の演技が生きている。

いい人なのだがどこか抜けているエリックを演じた藤井隆、夫と義母の間で疲弊しているところのあるフランソワーズを演じた板谷由夏も持ち味を発揮した演技であった。



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2018年8月19日 (日)

アクラム・カーン振付「Chotto Desh/チョット・デッシュ」

2018年8月12日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて

午後3時からロームシアター京都ノースホールで、アクラム・カーン振付のダンス公演「Chotto Desh/チョット・デッシュ」を観る。

アクラム・カーンは1974年、ロンドン生まれの世界的振付家。父親はバングラデシュ人、母親はフィリピン人である。幼少期からインドの伝統舞踏であるカタックを学び、大学ではコンテンポラリーダンスと作品創作を専攻。2000年にアクラム・カーン・カンパニーを設立し、高い評価を得るようになる。2012年のロンドンオリンピックの開会式の振付も担当しているそうだ。

ダンサー1人による作品。無料パンフレットやチケットには、デニス・アラマノスまたはニコラス・リッチーニとクレジットされているが、今日はデニス・アラマノスのソロである。

今回は、子供も大人もロームシアター京都を楽しもうというイベントであるプレイ!シアター in Summerのプレ公演という位置づけであり、子供でも楽しめるよう特別に作成した日本語吹き替え版による上演が行われる。声の出演は、Masayo Mimura、Akira Koieyama、Meg Kubota、Lilian Carter。

「チョット・デッシュ」は、ベンガル語で「小さな祖国」という意味。アクラム・カーンのソロ作品である「デッシュ」を元に生まれており、カーン自身の自伝的要素を入れた作品である。「チョット・デッシュ」への翻案はスー・バックマスターが手掛けている。音楽は、Jocelyn Pookの作曲。ミニマルミュージック系の作風である。

アクラム・カーン(デニス・アラマノス)のスマートフォンに異常があったことから話は始まる。カスタマーサポートに電話をしたのだが、担当として出たのは12歳の女の子。混乱するカーンは、幼き日に毎年訪れていたバングラデシュの街を彷徨う。そして昔語りが始まる。

アクラム・カーンの父親は腕のいい料理人であり、息子のアクラムにも料理人になることを望んでいた。坊主頭のデニス・アラマノスは頭頂部に墨で目と口を書き入れ、アクラムの父親に見立てる。

落ち着きのない子どもだったアクラムは、祖母が読んでくれる絵本「ハニーハンター」が好きだった。舞台の背後に紗幕が降りているが、そこにアニメーションが投影される。飢饉の年に、父親から止められたにも関わらず蜂蜜を取りに行ってしまった男の子の話だ。船に乗り、木に登り、蝶を追う。やがて蜂の巣から蜜を取り出すことに成功した男の子だが木のてっぺんから墜落してしまい……。

16歳になったアクラムに父親は料理の仕事を手伝うように何度も言うのだが、アクラムは聞き入れない。アクラムは料理人ではなくダンサーになりたかったのだ。

父親と息子の関係についてはよくあるもので、特に目新しいところはないのだが、祖母が教えてくれた冒険譚には胸がワクワクする。私も幼い頃は冒険話が大好きで、映画版の「ドラえもん」を毎年楽しみにしていたり、コナン・ドイルの「失われた世界(ロスト・ワールド)」に心ときめかせていたりした。今の子供もそうだろう。

子供には希望と夢を、大人ノスタルジックな感情を与えてくれる名編である。



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2018年8月18日 (土)

観劇感想精選(252) オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズ(オックスフォード大学演劇協会) 「十二夜」

2018年8月11日 京都劇術劇場春秋座にて観劇

午後3時から、京都芸術劇場春秋座で、オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズ(オックスフォード大学演劇協会)の来日公演「十二夜」を観る。
オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズは、オックスフォード大学のドラマ・ソサエティであるオックスフォード大学演劇協会のメンバーからなるシェイクスピア作品に特化したツアーカンパニーである。メンバーはスタッフも含めて全員オックスフォード大学の学生で構成されており、出身者には、「Mr.ビーン」のローワン・アトキンソン、「ブリジット・ジョーンズの日記」のヒュー・グラント、「博士と彼女のセオリー」のフェリシティ・ジョーンズらがいるそうだ。

オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズは20年前から来日公演を行うようになっており、来日時には毎回、蜷川幸雄の出迎えを受けていたそうで、今回は蜷川没後としては初めての来日となるようだ。

イギリス最古にして最高の大学として知られるオックスフォード大学。日本でいう大学とは違い、オックスフォード大学という単一の大学があるわけではなく、39あるカレッジの集合体がオックスフォード大学という総称を名乗っている。オックスフォードの学生は、二つの分野を専攻するのが一般的である。

今回の演出は、セント・ヒューズ・カレッジで英語学と英文学を学ぶフレッド・ウィーナンドが担当。ウィーナンドは物語の舞台を光と影が一体になった1960年代に変更するという読み替えを行っている。日本でもジョン・ケアードが「お気に召すまま」の時代設定をアメリカの1960年代に変えた上演が行われたが、発想自体は完全に一緒である。イギリス人やアメリカ人にとっては60年代は特別な時代であるようだ。

今回の上演の特徴は、道化のフェステを女優(マートン・カレッジで英語学と英文学を学ぶスザンナ・タウンゼント)が演じるということ。ボーイッシュな雰囲気を出しているが、女性が道化役というのは珍しい(ただ史実はともかくとしてくオリヴィアの道化であるため、同性であったとしてもおかしくはないように思える)。

英語上演、日本語字幕付き。字幕は新たに作ったのではなく、白水社から出ている小田島雄志訳のものを使用している。小田島雄志の翻訳は映画の字幕とは違って文字制限ありの中で訳されたものではないため、字幕はめまぐるしく切り替えられ、中には0コンマ何秒で切り替わって読めないということもあった。

ギリシャのイリリアを舞台に、セバスチャンとヴァイオラの双子が嵐に遭ったことから起こるスラップスティックな喜劇が繰り広げられる。
音月圭が主演した「十二夜」では、ヴァイオラとその男装版のシザーリオ、そしてセバスチャンの三役を音月一人で演じる演出が施されていたが、今回はヴァイオラ&シザーリオとセバスチャンは別の俳優が演じている。

嵐に遭い、兄のセバスチャン(リンカーン・カレッジで考古学と古代史を学ぶローレンス・ベンチャーが演じる)とはぐれてしまったヴァイオラ(ユニバーシティ・カレッジで英語とロシア語を学ぶデイジー・ヘイズが演じる)は、生活のために男装して名をシザーリオと変え、土地の実力者であるオーシーノ公爵(セント・ピーターズ・カレッジで神学と東洋学を学ぶマーカス・ナイト=アダムズが演じる)に小姓として使えることにする。シザーリオとことヴァイオラはオーシーノ公爵に恋をする。そのオーシーノ公爵は伯爵令嬢であるオリヴィア(マグダレン・カレッジでスペイン語とイタリア語を学ぶクロエ・ディラニーが演じる)に夢中であり、シザーリオを恋の伝令としてオリヴィアのもとに使わすのだが、オリヴィアはシザーリオを本物の男だと思い込んで恋してしまう。恋の一方通行である。

一方、オリヴィアの叔父であるサー・トービー(クィーンズ・カレッジで歴史と英語を学ぶジョー・ピーテンが演じる)とサー・アンドリュー(セント・ジョンズ・カレッジで歴史と政治学を学ぶヒュー・タッピンが演じる)は、オリヴィアに執事として使えるマルヴォーリオ(クライスト・チャーチでイタリア学を専攻するジョニー・ワイルズが演じる))の態度が大きいため、反感を抱いている。トービーとアンドリューは侍女のマライア(キーブル・カレッジで古典考古学と古代史を学ぶケイト・ウエアが演じる)や召使いのフェービアン(ハートフォード・カレッジで英語学を専攻するアダム・グッドボディが演じる)を巻き込んで、マルヴォーリオにぎゃふんと言わせようと画策する。更には道化のフェステも仲間に加わり……。

今日は桟敷席と2階席は用いられていない。1階席の後ろの方にイギリス人の若者が固まっていて、普通のシーンでもドッカンドッカン受けているのだが、日本人の客は私も含めてどこが笑えるのかよくわからず、温度差がある。ドタバタのシーンや意図的なオーバーアクションの演技では国籍の差なく笑いが起こる。
衣装や装置も1960年代をイメージしたサイケデリックなものを使用。一般的なシェイクスピア上演とは異なる格好をしているが、若者達のエネルギーを表すのに効果的であったように思う。

英語の台詞回しに関しての巧拙は私には全くわからないが、動きや身のこなしについては一定の水準に達している。日本の俳優の場合、演技中の両手の置き方が上手くいかない場合が多いが、イギリス人でも若者達が演じる場合は同じ傾向があることがわかる。向こうは話しながら身振り手振りをつけるのが一般的なので、日本人俳優ほどには目立たないけれども。
道化のフェステ役のスザンナ・タウンゼントは美しい歌声の持ち主であり、これを聴くと、「フェステ役を女性にするのも悪くない」と思える。



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2018年8月16日 (木)

コンサートの記(411) 広上淳一指揮 大阪シンフォニカー交響楽団(現・大阪交響楽団)第129回定期演奏会

2008年11月7日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から大阪のザ・シンフォニーホールで大阪シンフォニカー交響楽団の第129回定期演奏会に接する。今日の指揮は広上淳一。

オール・メンデルスゾーン・プログラムで、序曲「静かな海と楽しい航海」、「ヴァイオリン、ピアノと弦楽のための協奏曲」(ヴァイオリン独奏:米元響子、ピアノ独奏:河村尚子)、交響曲第1番という無名曲が揃う。広上の指揮でなかったら客はまず入らないだろう。
広上の指揮でも客席は満員にならなかったが、超絶的に地味なプログラムの割には入りはそこそこ。ただし、パイプオルガン側の席は発売されていない。

モーツァルトと並ぶ神童作曲家として知られる、フェリック・メンデルスゾーン=バルトルディ。幼き日にはゲーテから「君に比べればモーツァルトでも子供同然」と絶賛を受けた(ただし当時は今とは違い、モーツァルトの評価はそれほど高くなかったことは意識しておく必要はある)。
38歳と、早世ながらモーツァルトよりは3年長く生きたメンデルスゾーンだが、作曲家としてはモーツァルトには遠く及ばず、多作だったにも関わらず、今でもコンサートプログラムに頻繁に乗るのは、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第3番「スコットランド」、交響曲第4番「イタリア」、序曲「フィンガルの洞窟」、「真夏の夜の夢」序曲と劇付随音楽「真夏の夜の夢」、弦楽八重奏曲、ピアノ曲「無言歌」集、オラトリオ「エリア」などで十指にも満たない。いずれも名旋律を持ち、メンデルスゾーンが旋律の人だったことがわかる。
今日のプログラムの曲も、序曲「静かな海と楽しい航海」はいくつか録音が出ている程度。ヴァイオリン、ピアノと弦楽のための協奏曲はこれまで私はその存在すら知らなかった。交響曲第1番も「メンデルスゾーン交響曲全集」には入っているが、全集にするために録音がされたものがほとんどで、単体でのCDは発売されていないはずである。発売されたとしても買う人はいないだろう。

無名曲を広上がどう聴かせるのかが注目である。

序曲「静かな海と楽しい航海」は、演奏が始まってすぐに弦楽パートの絶妙のハーモニーにより別世界に連れて行かれる。大阪シンフォニカー交響楽団の演奏会にはこれまで何度か接しているが、これまでに聴いてきた指揮者とは広上は格が違うのがわかる。
ただ、曲自体はやはり出来が良くない。聴いている間は引き込まれるのだが、曲が終わると途端に醒めてしまう。

ヴァイオリン、ピアノと弦楽のための協奏曲。米元響子は2008年度の出光音楽賞を受賞した若手ヴァイオリニスト。ピアノの河村尚子は2007年にクララ・ハスキル国際コンクールで優勝したこちらも将来を期待される若手である。
河村尚子の実演には、小林研一郎指揮京都市交響楽団の定期演奏会で接したことがある。モーツァルトのピアノ協奏曲の演奏だったが、河村が実に楽しそうにピアノを弾くのが印象的だった。
今日も河村は楽しそう。ソロが始まるまでのオーケストラのパートが長かったのだが、その間、河村は微笑みながら音楽に浸っている。ソロが始まってからも、顔の表情は豊かであり、全身もノリノリで、この人が本当に音楽好きだということがわかる。
ヒンヤリとした独自の音色が個性的。技術も高い。時に勢い任せの演奏になるのが玉に瑕である。
河村は、演奏開始前にコンサートマスターだけでなく、フォアシュピーラー(コンサートマスターの隣で弾く人のこと。次席奏者とも訳される)とも握手をし、演奏終了後には、譜めくりの人の肩にそっと手を乗せて労うなど、心配りの出来る人であることがわかる。音楽家も人間なので、河村のような人とはまた共演したくなるだろう。
ヴァイオリン、ピアノと弦楽のための協奏曲の弦楽パートは、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番のそれとよく似た開始を見せる。というよりは、メンデルスゾーンは、おそらくモーツァルトを意識している。第1楽章は悲劇的な色彩が強く、広上はオーケストラから悲しげな音色をよく引きだしていた。
しかし、この曲はやはり駄作だと思う。曲全体が色々なところから楽想を引っ張ってきた借り物のようであるし、第3楽章のピアノパートは音がただ上下行を繰り返しているだけで、スケール練習のよう。河村も暗譜はせずに、譜めくり人を置いていたが、この曲のピアノパートを暗記するのは時間と労力の無駄なので賢明な選択だと思う。
ヴァイオリンの米元響子は全ての音が磨き抜かれていた。個性が弱いのが今後の課題だろう。

メインである交響曲第1番。コンサートステージに上がることはほとんどない曲で、やはりその程度の曲ではあるが、広上が振ると、演奏している間は「イタリア」交響曲に匹敵する作品に聞こえる。
第1楽章の情熱、第2楽章の青春の息吹、第3楽章の熱いダンス、第4楽章の勢いなど、いずれも曲の弱さは補って余りある出来。メンデルスゾーンの交響曲第1番でこれほど聴かせるのだから、さすがは広上といったところか。
広上は右手を高く突き上げるなど、時に外連も見せるが、それさえも音楽と一体化しているため、外連であっても外連のみとは感じられない。
シンフォニカーもチェロのゴウゴウとした鳴りなどは普段とはまるで異なり、全体の響きも情熱的でありながら爽やか。情熱的で爽やかという両極端にあるものを同時に出した響きと、こうして文章にしてもうまく伝わらないと思われるが、広上はそうした響きを出す。言葉や概念を超越した響きが今日はホールを満たしていた。

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2018年8月14日 (火)

転倒

主題は冒頭に来ることがあるが、結論は先には来ない。

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2018年8月13日 (月)

観劇感想精選(251) 「アンナ・クリスティ」

2018年8月4日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後5時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで「アンナ・クリスティ」を観る。近年、再び注目を浴びつつあるアメリカの劇作家、ユージン・オニールの初期作品の日本初演である。テキスト日本語訳:徐賀世子、演出:栗山民也。出演:篠原涼子、佐藤隆太、たかお鷹、立石涼子、原康義、福山康平、俵和也、吉田健悟。

「アンナ・クリスティ」は1921年にピューリッツァー賞を受賞している。1930年にグレタ・ガルボ主演で映画化されており、マリリン・モンローが自身の初主演舞台に選んだ作品でもあるそうだ。

ニューヨークの海岸近く、サウス通りの「坊さんジョニー」という酒場。スウェーデン系のクリス・クリストファーソン(たかお鷹)が、娘のアンナ・クリストファーソン(アンナ・クリスティの名で呼ばれる。演じるのは篠原涼子)との再会を待っている。クリスとアンナは、アンナが5歳の時に別れてから一度も会っておらず、15年ぶりの再会となる。

生まれてからずっと船乗りとして生活してきたクリスは家庭を顧みず、妻が亡くなってからもアンナをミネソタ州の親戚ところに預けっぱなしにしていた。アンナは数年前からミネソタ州のツインシティーの一つ、セントポールで暮らしていたという。子守をやって過ごしていると手紙には書いてあった。

クリスは家代わりにしているはしけ船に老いた商売女のマーシー(立石涼子)を住まわせていたが、娘に会う手前、出て行って貰いたいとお願いをする。

クリスが食事に出ている間にアンナがやって来る。マーシーは一目でアンナと気づくが、自身のことは「クリスとはたまに会う」間柄ということにする。共に酒を飲むうちに、アンナは自身の身の上話を始める。ミネソタの田舎では奴隷のように扱われ、親戚の男に犯されたこと、家を飛び出してセントポールに移ってからは子守の仕事に就くが、限界を感じ、売春婦へと身をやつしたこと。何もしてくれなかった父への愚痴。
やがて対面したクリスとアンナ。クリスはアンナのこれまでを全く知らず、想像しようともしない。二十歳になったアンナにクリスは「陸の男」と結婚するように言う。自分のような「海の男」は駄目だと。
だが10日後、ボストンの港に移った親子のところに、難破船が近づく。難破船に乗っていたアイルランド人のかま焚き係であるマット・バーグ(佐藤隆太)とアンナとは一目で恋に落ちるが、マットはクリスが嫌悪する「海の男」であり……。

「アンナ・クリスティ」というタイトルであり、クレジットにもタイトルロールである篠原涼子の名前が一番上に来るのだが、本当の主役というべき存在はアンナの父であるクリスであるように思われる。好き勝手に生きてきて娘のことを一度も顧みなかったが男の贖罪の物語ともいえる。もっとも自分に原因があることでもクリスは「海の運命」のせいにしてしまって正面から向き合おうとしないというダメ男の部分があるのだが。ユージン・オニールが自身と自身の父親を投影したのだろう。
今日はパンフレットを買ったのだが、実際、「アンナ・クリスティ」は初演時のタイトルは「クリス・クリストファーソン」だったそうで、2011年にはロンドン・ウエストエンドでジュード・ロウの出演で話題となったとあるから、イギリスでの上演はクリスが主役という解釈で行われたのだろう。

13年ぶりの舞台出演で、初の舞台単独主演となった篠原涼子。テレビドラマや映画ではヒット作をいくつも持っているが、今回はセリフが浮き気味であり、的を上手く射抜けないもどかしさがある。表情や佇まいは魅力的なのだが。やはり映像の人なのか。

日大芸術学部出身で、デビューが舞台だったという佐藤隆太。ワイルドで腕力だけが自慢のマットを飾り気のない演技で見せる。マットはクリスと相似形だけに噛み合った演技をする必要があるのだが、上手くはまっていたように思う。

真の主役ともいうべきクリスを演じた、たかお鷹。老いた放蕩児の悲哀をそこはかとなく感じさせる演技が良かった。

かつての自分や娘との和解を得たクリスだが、目の前に広がる霧に不鮮明な未来を見いだしたところで芝居は終わる。

今日はアフタートークがある。出演は、篠原涼子、佐藤隆太、たかお鷹の主要キャスト3人。司会は朝日放送の桂紗綾(かつら・さあや)アナウンサーが担当する。
「ほっとする時」、たかお鷹は「家で家内と二人で飲んでいる時」(「そう言えって言われてます」だそうだ)、篠原涼子は「台所」。水が流れる場所が好きだそうだ。阪神タイガースファンで日大櫻丘高校時代は野球部に所属しいた佐藤隆太は「甲子園」だそうで、明日から夏の全国高等学校野球選手権大会が甲子園で始まることから、「体調に気をつけて」と言うも、「ここで言うことじゃないですね」とも話していた。
子どもの頃の夢について、たかお鷹は「家具職人」と答え、「実は今でも夢を諦めていない」と語る。篠原涼子は「保母さんかメイクアップアーティスト」で、娘が生まれてから保育園やっていた「保母一日体験」のようなものに参加したことがあるそうだが、「無理だと思いました」とのこと。佐藤隆太は「先生」が子どもの頃の夢で、「英語教師になりたい」と本気で思ったことが一時期あったそうである。



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2018年8月11日 (土)

笑いの林(104) 「祇園ネタ」&祇園吉本新喜劇「歓迎されないお義兄さん!?」 2018年8月1日

2018年8月1日 よしもと祇園花月にて

午後3時30分から、よしもと祇園花月で「祇園ネタ」と祇園吉本新喜劇「歓迎されないお義兄さん!?」を観る。よしもとのアプリであるラフピーで貯めたポイントを交換しての無料での観覧。

「祇園ネタ」の出演は、コロコロチキチキペッパーズ、ヒューマン中村、トレンディエンジェル、桂坊枝、宮川大助・花子(登場順)。


コロコロチキチキペッパーズ。ナダルが早口言葉に挑戦するも、「松尾芭蕉少々小食」や「年々ねんねんころり」といった聞いたこともない早口言葉を言い始めてしまい、よく知られた早口言葉は全く言えないという展開である。

ヒューマン中村。お得意のフリップ芸を披露。「だんだんしょぼくなる」。「夢」というお題で、少年時代「お父さん、僕、将来プロ野球選手になりたい」→中学生「修学旅行までには彼女が欲しい」→成人「ここにソファ置こう」と年を重ねるにつれてスケールダウンしていくというネタである。「不安」では、「明日受験だ、どうしよう」→「(駅前で)自転車盗まれたらどうしよう」→「あの、僕のウーロンハイ通ってます?」になる。そして「絶望」では、「会社をリストラされてしまった。明日からどうしよう」→「ドラマの最終回、録画するの忘れた」→「あー、やっぱり自転車盗まれてる!」で循環する。
続いて、「悪口しりとり」。悪口を言われたらしりとりで返すというもの。「あれ、おまえいたの?」→「のっけからいたよ」、「きも!」→「もっと言って!」、「あれ? その服昨日も着てなかった?」→「多分、明日も着るよ」、「お前、爆弾作ってない?」→「いくつ作ったと思う?」
地味な芸人ではあるが、かなり笑いを取っていた。


トレンディエンジェル。斉藤司が歌が得意ということで、今日誕生日の人と聞いて手を上げた10歳の少女のために「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」を歌う。思いっきりナルシストな態度で、客席から「怖い! 怖い!」という声が上がるが、確かに歌は上手い。次いで、ポケモンGOネタ。斉藤がピカチュウをやるのだが、やたらと渋い態度で煙草を吸ってはポイ捨てしたりする。ピカチュウはピカチュウでも正体はピカッとした中年だったりする。


桂坊枝。落語よりも、「10分しか仕事をしない」「15分、20分仕事をすると怒られる」という話の方が印象的である。「楽な仕事ではあるが、お金にはならない」とも言う。
「落語は漫才とは違いまして、すぐには面白くならない。物語がありまして落ちがある。もう面白くなるかな、もう面白くなるかなと思っているうちに私の落語は終わっております」と自虐ネタもやる。


宮川大助・花子。大助も年なので色々と病気をする。背中の病気で手術をしたそうだが、花子に「背開きで」と言われる。以前は脳内出血で倒れたこともあったのだが、花子に「びっくりしたわ、脳ないのに出血って」
大助は鳥取県境港市出身なのだが、境港は水木しげるの出身地で「妖怪ロード」があり、花子に大助の母親は砂かけ婆などと勝手に紹介されてしまう。
現在は二人は奈良県の生駒の山奥に住んでおり、大助は植物を育てていて毎朝、水をやるという。花子は「雨の日でも水をやる」と嘘をつく。イノシシが現れることもあるのだが、ある日、イノシシが家のチャイムを押して玄関のドア越しに中を覗いていたという。実はイノシシではなく大助の母親だったということに花子はしてしまっていた。


祇園吉本新喜劇「歓迎されないお義兄さん!?」。出演は、川畑泰史(座長)、諸見里大介、井上安世、小寺真理、中條健一、前園健太、たかおみゆき、山田花子、帯谷孝史、白原昇、今別府直之、親泊泰秀、音羽一憲、大塚澪、松元政唯、速見めぐみ。
花月うどんが舞台である。舞台下手の壁にお品書きが貼られており、上手にも一品ずつメニューが貼られているのだが、上手と下手のメニューが一致していないのが気になる。単なるイージーミスだと思うが。

花月うどんの店主は井上安世。だが、元々は兄の健一が店をやっていたのだが、5年前に多額の借金をこしらえて逃亡してしまったのである。安世は泰史と結婚し、今日アルバイトとして入ったばかりの諸見里大介と三人で店をやろうとしている。諸見里大介は滑舌が悪いのだが、失言したときも全て滑舌のせいにしようとする。
安世の妹の真理は、吉本物産の御曹司である前園健太と婚約している。しかし、健太の母親のみゆきと秘書の山田花子は真理の兄が借金を作って逃亡したことを知り、破談にしようとしていた。

やくざの子分役の白原昇が、相変わらず演技が出来ておらず、そもそも佇まいが不審ということで公開だめ出しされる。白原の存在のおかげで目立つことはなかったが、前園健太の演技もかなり素人くさいものであった。諸見里大介などは個性を生かして伸びているが、吉本新喜劇の若手男優陣は将来が不安である。
一方で若手女優陣は、演技力や笑いのセンスはともかくとして美形が揃い、マドンナの座を巡るバトルが今後繰り広げられそうな予感がある。 ちょい役での出演だったが、大塚澪は声楽が特技だそうで、今日もソプラノ歌手の発声を披露していた。

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YMO 「Behind the Mask」歌詞和訳付きバージョン

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2018年8月10日 (金)

加古隆 「パリは燃えているか」

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2018年8月 8日 (水)

コンサートの記(410) マルク・ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢第405回定期演奏会 フィルハーモニー・シリーズ ドビュッシー 歌劇「ペレアスとメリザンド」金沢公演(ステージ・オペラ形式)

2018年7月30日 金沢駅前の石川県立音楽堂コンサートホールにて

午後6時30分から、金沢駅前の石川県立音楽堂コンサートホールで、オーケストラ・アンサンブル金沢の第405回定期演奏会 フィルハーモニー・シリーズ 歌劇「ペレアスとメリザンド」を観る。ステージ・オペラ形式での上演。
原作:モーリス・メーテルリンク(メーテルランク)、作曲:クロード・ドビュッシー。演出:フィリップ・ベジア&フローレン・シオー(仏ボルドー国立歌劇場との共同制作で、2018年1月のボルドー公演に基づく上演)。マルク・ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢の演奏。ミンコフスキは今年の9月からオーケストラ・アンサンブル金沢の芸術監督に就任する予定で、そのための記念公演の一つである。出演は、スタニスラフ・ドゥ・バルベラック(テノール。ペレアス)、キアラ・スケラート(ソプラノ。メリザンド)、アレクサンドル・ドゥハメル(バリトン。ゴロー)、ジェローム・ヴァルニエ(バス。アルケル)、シルヴィ・ブルネ=グルッポーソ(メゾ・ソプラノ。ジュヌヴィエーヴ)、マエリ・ケレ(アキテーヌ・ユース声楽アカデミー・メンバー。イニョルド)、ジャン=ヴァンサン・ブロ(医師・牧童)。合唱・助演:ドビュッシー特別合唱団。映像:トマス・イスラエル。

フランス語上演・日本語字幕付きである(日本語訳:増田恵子)。なお上演前にロビーコンサートが行われており、ドビュッシーの「シランクス」などが演奏された。

舞台は四段構え。通常のステージの中央のオーケストラ・アンサンブル金沢とミンコフスキが陣取り、ステージの前の客席部分が取り払われていて、ここも使用される。ステージ上手はやや高くなっており、舞台奥は更に高くなっていて、ここがメインの演技の舞台となる。その背後に紗幕があるが、メリザンドが髪を下ろすシーンなどではひときわ高いところにある舞台が光で透けて現れる。
オーケストラのいる舞台の前方にも紗幕が垂れており、ここにも映像が映る。ラストのシーンを除いて、映像は基本的にモノクロームであり、人物の顔や目のクローズアップが頻用される。

ドビュッシー唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」。メーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」自体は劇付随音楽を複数の作曲家が手掛けており、フォーレ、シベリウス、シェーンベルクのものがよく知られている。1893年にパリで初演されたストレートプレーの「ペレアスとメリザンド」(メリザンド役はサラ・ベルナール)を観たドビュッシーはその魅力に取り憑かれ、すぐにオペラ化を計画。メーテルリンクの許可も得る。オペラが上演されるのはそれから8年後のことだが、メーテルリンクはメリザンド役に自分の愛人を起用するように迫った。ドビュッシーは音楽的素養のない人間をヒロインに抜擢することを拒絶。かくして裁判沙汰にまでなり、メーテルリンクの憎悪が極限に達した中で初演されるという、なんともドビュッシーらしい展開を見せた。独自のイディオムによる音楽が用いられたということもあり(そもそもアリアらしいアリアはほとんどない)、初演は不評に終わるが、その後10年で100回もパリで上演されるなどヒット作となっている。

メーテルリンクの戯曲では、ヒロインのメリザンドは実は水の精(オンディーヌ)であることが冒頭で示唆されているのだが、ドビュッシーは冒頭を全てカットしてしまったため、意味が通らなくなっているシーンもある。メリザンドが水の精(誤変換で「ミズノ製」と出た)だとすれば、ペレアスは水の世界へと導かれたことになり、水の精と人間の間に生まれた子供が未来を司るということになる。

いつかはわからない時代、アルケルが治めるアルモンド王国での物語。狩りの帰りに森の中で迷ってしまった王子のゴローは、泉のほとりで泣く少女を見つける。少女の名はメリザンド。泉の底にはメリザンドが落とした冠が輝いている。ゴローはメリザンドを連れて城に帰ることにする。ゴローはメリザンドとの結婚を望み、王のアルケルはこれを許す。
ゴローの弟であるペレアスは、船で旅立とうとしているのだが、その前にメリザンドと共に城内にある「盲人の泉」を訪れる。この泉にメリザンドはゴローから貰った指輪を落としてしまうのだが、これが悲劇を招くことになる。

物語造形からしておぼろな印象だが、噛み合わないセリフも多く、ミステリアスな戯曲である。
映像との相性も良く、お洒落だが仄暗い闇の中を進んでいくような感触の上演となっている。

マルク・ミンコフスキ指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢は極上の演奏を展開。音の輪郭がクッキリしており、密度も濃く、上品で上質のソノリティーを保ち続ける。
歌手達も大健闘であり、舞台装置も演出も見事だ。チケットを取るのが遅かったため3階席の券しか手に入らなかったが、石川県立音楽堂コンサートホールの響きは素晴らしく、少なくとも音に関してはステージから遠いこともハンデにはならなかった。
カーテンコールの最後でミンコフスキはスコアを掲げて作品への敬意を示す。極めてハイクオリティーの「ペレアスとメリザンド」と観て間違いないだろう。

音楽関係者も多数駆けつけたようで、終演後のホワイエには、野平一郎や池辺晋一郎といったオーケストラ・アンサンブル金沢ゆかりの作曲家の姿も見られた。



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2018年8月 7日 (火)

スタジアムにて(2) セ・パ交流戦 オリックス・バファローズ対ヤクルトスワローズ 2005.6.2

2005年6月2日 大阪ドームにて

大阪ドームへ。プロ野球セ・パ交流戦ヤクルトスワローズ×オリックス・バファローズの対戦を見る。
客が少ない。下手すると客席にはヤクルトファンの方が多いかも知れない。

ヤクルトスワローズ、今日は古田敦也選手が完全にオフであった。キャッチャーは米野。
ヤクルトは初回に岩村がオリックス先発・光原からセンターへソロホームランを放ち先制。その後も真中のツーランホームランで追加点を挙げる。

ヤクルトの先発は川島亮。安定感は抜群で今日もスコアボードに「0」を描き続ける。が、6回に平野にタイムリーを浴びて1失点。連続イニング無失点は29イニングスで途絶えた。しかし7回をこの1点だけに抑えるナイスピッチング。一方でオリックスはランナーの守備妨害が飛び出すなど、どうにも勝てそうな雰囲気がない。
オリックス2番手は加藤大輔。150キロを超えるストレートを連発するが、ラミレスが負けじとセンター前にタイムリーを放つ。

ヤクルトはゴンザレス、石井弘寿の継投でオリックス打線を封じ、4対1で勝利した。
しかしヤクルト打線の各打者の成績を見ても、とてもこれがセリーグ首位のチームであるとは思えない。投手力が安定していることが第一だろうが、野村監督以来のデータ野球が徹底されているのだろう。

ヒーローインタビューは川島。「コントロールが良くなかった」というがどうしてどうして。もし今日以上にコントロールが良かったらどうなってしまうのだろう?
川島はこのまま成長すれば往年の北別府学(広島カープ)のようなタイプの好投手になるかも知れない(後記:川島亮は右肩の故障に悩まされ、その後、大成することなく引退。2018年現在は、東京ヤクルトスワローズの1軍マネージャーを務めている)。

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観劇感想精選(250) 「触覚の宮殿」

2018年7月27日 京都・東九条のstudio seeboxにて観劇

午後7時30分から、南区にあるstudio seeboxで、あごうさとし作・演出による「触覚の宮殿」を観る。太田宏(青年団)、辻本佳、松本杏菜による三人芝居。

studio seeboxはマンションの3階にある小スペースである。

照明は抑えめであり、セリフの99%以上は太田宏が発し、松本杏菜のセリフは二つだけ。辻本佳は言葉を発しない役である。

太田宏の一人語りで話は進む。あごうさとし(石見国吾郷氏の家系)の先祖である三善氏にまつわる物語とあごうさとしが子どもの頃の思い出の二つが瞬時に入れ替わるというスタイルである。

吾郷氏の祖である三善氏は百済からの渡来人。三善氏は百済系の渡来人と漢人系渡来人の二つがあり、現在まで続いているのは漢系の渡来人の家系らしいのだが、百済系と漢系が混じったという説もあり、今回の芝居では百済系一つに纏められている。百済系三善氏の最重要人物は大学頭にまで出世し、菅原道真のライバルとして有名で、一条戻橋の名の由来となる蘇生伝説でも知られる三善清行であるが、今回は鎌倉幕府の初代問注所執事となった三善康信(一応、漢系渡来人の家系とされる)が主人公になっている。三善康信は算術を生業とする下級公家の家の生まれである。

三善康信の母は源頼朝の乳母の妹であり、三善康信も幼い頃から頼朝を知っていたのだが、頼朝には可愛らしさよりもタナトスのようなあるいはサディスティックな願望を抱いたことが語られる。
一方、あごうさとしの話は、5歳の時に入院した時の記憶に始まり、10歳の時に父親の仕事の都合で香港に渡ったときのこと、バブル期の日本人は香港で傍若無人だったこと、12歳で香港の浮浪者に襲われそうになった時のことなどが語られる。入院した時に隣のベッドにいたのは喘息持ちのリョウタという青年であったこと、香港はまだイギリス統治下であり、クイーンズイングリッシュ(イギリス英語)が優勢で、アメリカの英語の発音をするとイギリス人の家庭教師に怒られたこと、中国語も北京語は美しく広東語は汚いとされていたことなどが語られ、あごう少年は、「東京の言葉は綺麗で、関西の言葉は汚いということか」と反発を覚える。香港のイギリス政府は日本人である吾郷ファミリーにも指紋押印を求めたそうで、東洋人は生まれながらにして犯罪者のような扱いだったらしい。

三善康信は、治承・寿永の乱で一貫して頼朝・義経方を支持、兄弟が対立した折は頼朝に与して、武家社会の到来に貢献している。下級公家の出では一大出世は見込めず、新しい武家の世で出世することに懸けたのだ。
康信は、「玉葉」で知られる関白・九条兼実とも交流。九条兼実はseeboxにほど近い九条殿を本拠としていたが、三善康信は九条殿に立ち寄った帰り道、鴨川沿いで一人の賤民を見かける。その男は自らの歯を抜こうとしていた。康信は男の姿に天台座主(セリフには一切出てこないが、九条兼実の実弟で「愚管抄」を著したことで知られる慈円である)よりも遥かに「聖人」に近いものを感じる。
また康信は、法然とも出会う。当時、「知恵第一」と呼ばれ、都においては尊きも貧しきも知らない者はいないと言われた法然坊源空の弟子の一人に康信は欲情する。「男と男が交わってもいいものか」と考える康信に法然は「結縁せねばならないのなら結縁するがよろしい」と説いた。

昭和の終わりは、香港では特に大きくは扱われなかった。そして栄華を誇った公家社会にも終わりが来る。寿永の乱が終わった時に、元号は文治に変わった。武断ではなく文治政治を続けたいという後白河法皇の願望が込められていたのだが、頼朝は納得せず、大軍を率いて上洛。九条兼実や後白河法皇と会談し、諸国守護権が認められ、元号は建久に変わる。かくして新しい世の中が訪れる。

ラストは松本杏菜の、「天皇は象徴として寿ぐ」という意味のセリフで閉じられる。

あらすじを見るだけで、大体のことは把握できるという内容である。

東九条を中心とした京都演劇新時代への意気込みを語る作品であるのだが、テイストが1970年代風であるため、アクチュアルな感じがしないのが難点といえるだろう。
なお、狂言の台詞回しがあるのだが、大蔵流の茂山あきらに指導しても貰ったことが無料パンプレットに記されている。

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2018年8月 4日 (土)

隠しきれないこと

意識は随所に反映される。単一の問題であるはずがない。

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2018年8月 2日 (木)

観劇感想精選(249) 市村正親主演「キーン」

2008年10月23日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター中ホールにて観劇

西宮の兵庫県立芸術文化センター中ホールまで、「キーン」を観に行く。午後6時30分開演。
ジャン・ポール・サルトルのテキストを小田島恒志が新たに訳したものを使用。演出は今年29歳の若手イギリス人演出家であるウィリアム・オルドロイド。タイトルロールを演じるのは市村正親。出演は他に、須藤理彩、高橋惠子、鈴木一真、西牟田恵ほか。
須藤理彩や西牟田恵の舞台を観るのは久しぶりである。

18世紀から19世紀にかけて活躍した、実在の英国人名俳優、エドマンド・キーンを主人公としたサルトルの代表的戯曲。
天下の名優でありながら、実生活では破綻者であったキーン。女ったらしで、派手好きで、金もないのに豪華なことを好み、巨額の借金を重ねていた。

狂気の名優、キーンの演技と実生活の境界線はぼやけており、それを出すために、テキストは幾層にも別れたリアルの間(意識的演技と無意識的演技と意識的日常と無意識的日常)を行き来し、役者と役の関係を引き離す演出が試みられていて、最後はセットが取り除かれ、役者達も衣装ではなく稽古着でカーテンコールに登場する。
私も、観客の役を観劇の間中続け、上演終了後に個人に戻るような感覚を味わった。

役者では市村正親と須藤理彩が良かった。市村正親の破滅的性格描写、須藤理彩の愛らしさ、ともに期待を裏切らない出来だった。

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都はるみ歌唱 「親子三代千葉おどり」(みんなで踊ろう編)


この曲のおかげで、千葉市の子供達は「千葉の名物は祭りと踊り」だと思い込んでいます。

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2018年8月 1日 (水)

コンサートの記(409) 京都ミューズ クラシック・シリーズ2018 第2回 7月例会 広上淳一指揮京都市交響楽団 フォーレ 「レクイエム」

2018年7月29日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、京都ミューズ クラシック・シリーズ2018 第2回 7月例会 広上淳一指揮京都市交響楽団によるガブリエル・フォーレの「レクイエム」を聴く。

オール・フランス・プログラムで、サティの「ジムノペディ」第1番と第3番(ドビュッシー編曲。ピアノ版の第1番が第3番、第3番が第1番と入れ替わっている)、ドビュッシーの「小組曲」(ビュッセル編曲)、フォーレの「レクイエム」(ソプラノ独唱:石橋栄実、バリトン独唱:大沼徹。合唱:京都ミューズ・フォーレ・レクイエム合唱団2018)。


今日もコンサートマスターは客演の須山暢大、泉原隆志は降り番でフォアシュピーラーには尾﨑平。

前半は今年没後100年を迎えたドビュッシーをフィーチャーしたものである。「ジムノペディ」において広上は、落ち着いて瀟洒で詩的な演奏を行う。フランスの都会の光景が目に見えるような洒脱な表現だ。

「小組曲」は広上が好んで取り上げる曲の一つ。細部まで神経の行き届いた軽やかで涼やかで儚げで快活で、とにかくありとあらゆる光景を指揮棒の先で描いてみせる。迫力、造形力、音捌き、全てが高い水準にある。


フォーレの「レクイエム」。合唱を担当する京都ミューズ・フォーレ・レクイエム合唱団2018は、今回の公演のために結成された市民団体。声楽経験者でない人も含まれているが、広上の指揮により、「リベラ・メ」での高揚感などは最高レベルのものを示している。プロや常設団体ではないので、声の粒立ちには問題があるが健闘したほうだろう。
広上の巧みな音運びにより、空間が一瞬にして清められるような印象を受ける。京響の発する音は色彩豊かで匂うように上品。管楽器も角の取れたまろやかさで、まさに天上の響きといった趣である。石橋栄実と大沼徹のソリストも優れた歌唱を聴かせ、技術的にはともかく音楽的には「完璧」の領域に達した「レクイエム」となった。

広上淳一は凄い。

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