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2018年11月11日 (日)

観劇感想精選(264) 白井晃&長塚圭史 「華氏451度」

2018年11月3日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後3時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「華氏451度」を観る。レイ・ブラッドベリの有名小説を長塚圭史の上演台本、白井晃の演出で舞台化したもの。出演は、吉沢悠(よしざわ・ひさし)、美波、堀部圭亮、粟野史浩、土井ケイト、草村礼子、吹越満。ガイ・モンターグ役の吉沢悠を除いて、全員が複数の役を演じる。
長塚圭史の上演台本は、基本的に原作小説をパラフレーズしたもので、セリフやト書きも原作に忠実であることを心がけたそうである。

レイ・ブラッドベリの原作に関しては、個人的な思い出がある。1999年の秋に、藤沢と小田原に一泊ずつする神奈川県への小旅行に出たのだが、二泊目の小田原で『華氏451』を読了したことをなぜか覚えているのである。多分、感動したのだろう。その日は、藤沢のホテルを出て鎌倉文学館に行き、文学館前の公衆電話で小田原の宿を取り(まだ携帯電話を持っていない時代の話だ)、小田原文学館を訪ねた(近くに旧岸田国士邸の門あり)後で小田原駅前のビジネスホテルに泊まり。翌日は関白農道を上って石垣山一夜城を訪れてから静岡県の熱海と伊東を回りというコースであった。一連の旅の思い出と『華氏451度』が一体となっている。

ちなみに、「華氏451度」とは紙が発火する温度である(摂氏だと233度)。
『1984年』と『華氏451度』はディストピア小説の両輪ともいうべき有名作だが、今年は2本とも舞台化されることになった。

舞台上手下手奥の三方向にびっしり本で埋まった書棚が浮いている。役者はこの本棚のすぐ後ろでいて、出番が来るまで待機しているというスタイルである。
舞台が始まると、奥から出てきたファイアマン達が本を燃やし始める。近未来、建物の火事は最早なくなり、ファイアマンは消火ではなく焚書を仕事としている。近未来に於いては読書は有害なものとして禁止、思考力を働かせることすら忌避されている。「インテリ」というのは蔑称である。

ファイアマンの一人であるガイ・モンターグは本を燃やす仕事をしていることに何の疑いも持たず、「本が燃えるのは楽しかった」と述べ、本の発見と焼却に無邪気な誇りを持っていた。実は、モンターグの上司であるベイティー(吹越満)は、本の怖ろしさについて知悉していたようなのだが。
ある日、モンターグは、クラリスという少女(美波)と出会う。本の価値について語るクラリスにモンターグは戸惑う。帰宅したモンターグは妻のミルドレッド(美波二役)にクラリスのことを話すが、ミルドレッドは本を有害なものとしか思っていない。家庭内にはモニターが数台あり、そこに映り続ける「友達」の言うことを聞くのがコミュニケーションであり友情とされていた。「みな平等」という美名の下に、均質的な人間像が理想化され、異端者は静かに迫害されていた。そしてそれは「皆が望んだこと」なのだ。上や遠方から来るのではなく内側にいたものなのである。
ある老女(草村礼子)の自宅から本が発見され、ファイアマン達は焚書に向かう。ところが老女が本と共に焼かれることを選択したためにモンターグは困惑し……。

洗脳が常態化された世界にあって、知識と思考の有効性を述べた作品である。

フランソワ・トリュフォーが同作を映画化しており、私も観てはいるのだが、場面場面は思い出せても全体としての印象は忘却の彼方にある。ただ、小説はまあまあ覚えているということもあり、舞台としての「華氏451」を詳細まで楽しむことが出来た。

知識と思考と想像力を後世に伝えることの重要性と主体的な知者であり続けることの一種の義務が観客へと語られていく。

「1984年」と「華氏451度」の2作品が1年のうちに上演されるのは面白いことなのだが、演劇人達がそれほど切迫感を抱いているということでもあり、歓迎される状況ではないのかも知れない。

今日は、吉沢悠、美波、吹越満によるアフタートークがある。
開演前にホワイエでアフタートーク参加者への質問を募集しており、私も「本以外で記憶して語り継いでいきたいものはありますか?」と紙に書いており、質問として採用されたのだが、吉沢は「そんな立派なこと考えたことない」と戸惑い、色よい返事を貰うことは出来なかった。吉沢は初めて台本を貰ったときは何が書いてあるのかさっぱりわからなかったそうで、今も深くは理解していないのかも知れない。まあ、質問自体が悪かったのかも知れないが、そうご大層に捉えなくても、「記憶して語る」という行為はメタ的に考えれば演劇そのものであり、だからこそ長塚圭史もなるべく原作を尊重という姿勢を取ったのであろうし、演出の白井晃もそれを理解していてわかりやすい表現を意図的に避けたのだろう。白井は「抽象的な話なんだから具象的にやるな」とダメ出ししていたそうである。
意図は伝達の妨げと考えられる。意図はあるがままのものを認めずに歪め、誘導するのだ。
美波はその場では記憶と伝達には答えなかったが、アフタートークを締める最後のメッセージとして、舞台作品を記憶することと舞台経験の豊穣性について語り、一応は私の質問と呼応した形となった。


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