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2019年6月の21件の記事

2019年6月28日 (金)

これまでに観た映画より(127) シネマ歌舞伎 坂東玉三郎 「鷺娘」&「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」

2019年6月25日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で、シネマ歌舞伎「鷺娘」&「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」を観る。坂東玉三郎が異形の者を演じる2作の上映。
約1時間10分、1100円の特別料金での上映である。

先に「日高川入相花王」が上映される。文楽でお馴染みの作品の歌舞伎化(義太夫狂言)ということで人形振りで上演されている。清姫を演じるのが坂東玉三郎、人形遣いに尾上菊之助、船頭に扮するのが板東薪車(その後、無断で現代劇に出演したため破門。市川海老蔵に拾われて、現在は四代目市川九團次を名乗る)。

人形振りということで、通常の舞踊よりは動く範囲が狭まるのだが、枠がある中で目一杯動くという、適度な抑制の美が感じられる。玉三郎も薪車も人形を模した動きを巧みに表す。付け眉毛が動いたりする人形浄瑠璃ならではの仕掛けも再現されており、面をつけての表情の変化なども面白い。
憤怒の表情で舞う復讐の物語であるが、根底にはわかり合えない悲しみが流れているように思われる。

 

「鷺娘」。上演時に「絶品」と称された舞である。雪の中に現れた鷺の精の舞。衣装を次々と替える華やかさもあるが、最後には息絶えるという悲劇であり、やはり根底には悲しみがある。
吹雪の中で海老反りになるシーンなどは絵画的にも美しいが、終始晴れない表情をしている玉三郎の表情や異形であることを表す仕草などが、日本的な美質と哀感の本質を突いているように思える。

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2019年6月26日 (水)

コンサートの記(567) 春秋座「グレゴリオ聖歌&真言宗声明」2014

2014年12月5日 京都芸術劇場春秋座にて

午後6時30分から、京都芸術劇場春秋座で、「グレゴリオ聖歌&真言宗声明」という公演を聴く。ミラノ大聖堂聖歌隊が来日してグレゴリオ聖歌を歌い(指揮:クラウディオ・リヴァ)、福岡の真言宗僧侶を中心に結成された真言宗青教連法親会が真言宗の声明を歌うという企画。前半が真言宗声明、後半がグレゴリオ聖歌の歌唱で、ラストに両者のコラボレートがある。

グレゴリオ聖歌というと、20年ほど前にブームがあり、ヒットチャートにグレゴリオ聖歌のCDが入るという異常事態が発生し、「グレゴリアン・チャント」という言葉が定着したりもしたのだが、ブームはあっという間に過ぎ去ってしまったため、今の大学生はおそらくグレゴリオ聖歌ブームを知らないと思われる。ということもあって、京都芸術劇場のある京都造形芸術大学の学生は、チケット料金が3分の2で聴けるにも関わらず、二十歳前後の人すら数えるほどという状況であった。聴きに来ているのはやはりグレゴリオ聖歌ブームを知っている世代であり、私と同世代以上である。入りは良く、1階席はほぼ埋まっていた。


まずは真言宗声明。密教であるため密具が台の上に置かれている。法螺貝を吹きながら僧侶達が登場。天台宗だったら僧兵を思い浮かべるところだが、同じ密教でも今回は真言宗である。読経の中に「弘法大師」という言葉も登場する。

インドの古典語である梵語による「庭讃(にわのさん)」に始まり、「散華」、「唱礼」、「光明真言行動(こうみょうしんごんぎょうどう)」、「称名礼」と続く。厳粛な空気が漂い。自然とありがたい気持ちになる。 グレゴリオ聖歌であるが、普段は残響がコンサート専門ホールのもの(約1・5秒から2秒)の倍ほどあるカテドラル(大聖堂)で歌われるのが普通であり、カテドラルで歌われた場合は声が天井から降ってくるようになって、CD録音でも豊かな残響が収められている場合が多いのだが、春秋座は残響ゼロである。残響ゼロでグレゴリオ聖歌を聴くと思ったよりも神聖な感じがしない。普通の合唱である。ヨーロッパに行くと、大聖堂が至るところにあるが、やはり教会音楽の神々しさを高める上では長い残響が不可欠であるため、音に配慮した結果、聖堂が巨大化した可能性もある。 ということで、聴き終えた後の感銘は自分でも意外であるが真言宗声明の方が上であった。グレゴリオ聖歌を存分に味わいたいなら少なくとも音響設計のしっかりしたところで聴かないと駄目なようだ。 グレゴリオ聖歌といっても膨大な量があるが、今日歌われたのは賛課(朝の祈り)の賛歌「永遠の創造主よ」、「待降節第4のマニフィカト・アンティフォナ「あなたは幸いなかたマリア」とマニフィカト、待降節第4の主日の応唱「天使ガブリエルの口によって」、ミサのグロリア「天のいと高きところには神に栄光」、主の御降誕のミサからアレルヤ唱「幼子が私たちのために生まれた」、主の御降誕のミサ奉納唱「見よ、神殿は開かれ」、主の御降誕のトランジトリウム(拝領唱)「喜び、歓喜しよう」、公現節の晩課(夕の祈り)の賛歌「いと高きものよ、輝かせ」、公現節の晩課(夕の祈り)のアンティフォナ「すべての父祖らは」、公現節後4主日のトランジトリウム(拝領唱)「あなたを賛美します」以上であった。グレゴリオ聖歌というと、ベルリオーズやラフマニノフが引用したことで知られる「怒りの日」が最も有名であるが、今日のプログラムのそぐわないためか、歌われることはなかった。 真言宗声明とグレゴリオ聖歌によるコラボレーション。まず真言宗声明が「露地偈(ろじのげ)」とグレゴリオ聖歌がアンティフォナ(交唱)「異邦の者が我に逆らいて立ち」詩編54編「主よ、御名によって」が同時に歌われる。勿論、一緒に歌った噛み合う楽曲選んでいるのだから歌唱に問題はない。聞き比べると真言宗の僧侶達は野太い声で歌い、ミラノ大聖堂聖歌隊の隊員の声は僧侶達に比べるとずっとマイルドである。 続いて真言声明「理趣経善哉譜(るりしゅきょうせんざいふ)」とグレゴリオ聖歌「第4のキリエ」。 日本の僧侶達が何を歌っているかわからないのに、ミラノ大聖堂聖歌隊は「キリエ・エリソン(主よ、哀れみ給え)」を繰り返しているため、ラテン語の方は意味がわかるという不思議な世界になった。 アンコールでは、まず、真言宗青教連法親会が歌う。コンサートホールだと、終演後にアンコール曲目がホワイトボードに書かれたり張り出されてたりするのだが、春秋座でコンサートが行われることは滅多にないため、そうしたサービスは行われず、曲名はわからなかった。 続いて、ミラノ大聖堂聖歌隊による「きよしこの夜」。これは誰が聴いても曲名はわかる。 ラストは両団体による斉唱「いろは歌」。「けふ」は慣例通り「きょう」と読まれる。「あさきゆめみし」は、「あさきゆめみじ」という否定形が採用されていた。私自身は濁音でない肯定系の方が好きなのだが。

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2019年6月25日 (火)

コンサートの記(566) 下野竜也指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2019「オーケストラへようこそ!」第1回「オーケストラってなあに?」

2019年6月16日 京都コンサートホールにて

午後2時から京都コンサートホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2019 「オーケストラへようこそ!」第1回「オーケストラってなあに?」を聴く。指揮は京都市交響楽団の常任首席客演指揮者の下野竜也。
京都市交響楽団は、広上淳一、高関健、下野竜也のトロイカ体制が続いていたが、少なくとも今の体制は今シーズン限りで終わりとなるようだ。

曲目は、J・S・バッハの「小フーガ」ト短調(ストコフスキー編曲/下野竜也補編。オルガン独奏:桑山彩子)、ヴィヴァルディの「四季」より「冬」第2楽章(ヴァイオリン独奏:泉原隆志)、モーツァルトの交響曲第29番第1楽章、ベートーヴェンの交響曲第5番から第3&第4楽章、ベルリオーズの幻想交響曲から第4楽章「断頭台への行進」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ウェーベルンの管弦楽のための6つの小品から第4曲、交響詩「ローマの祭り」から「主顕祭」


開演前にロビーコンサートがある。今回は井幡万友美のチェンバロコンサート。チェンバロの音は小さいので、聴衆に近づいて聴いて欲しいと井幡が言ったため、チェンバロの周りに人々が密集して聴いているという珍しい光景が見られた。


バッハの「小フーガ」ト短調。まずオルガン独奏の桑山彩子が出だしを弾き、第1フーガが終わったところで下野指揮の京響の演奏に交代。その後、再びオルガンソロに戻った後で、オルガンとオーケストラの共演となる。オーケストラはストコフスキー編曲版を演奏するが、オルガンとの交代時の音色が自然であり、ストコフスキーの編曲家としての腕の高さが実感される。

演奏終了後に下野はコンサートマスターの泉原隆志に握手を求めたのだが、下野が小柄ということもあって泉原は下野がそばに来ているということに気がつかず、握手が遅れる。
下野は、「無視されちゃいました。嫌われてるのかなあ」と語り、泉原が首を振る。

ナビゲーターのガレッジセールが登場。ゴリは「オーケストラに疎い二人がやって参りました」と言う。場面転換のため、京響の楽員が席を立ったのだが、ゴリが「ここで一斉に帰り始めましたが、ストライキですか?」、川ちゃん「皆さん、ガレッジセールはお嫌いですか?」

下野はまずオーケストラの語源を二人に説明。オーケストラとは場所の名前が語源であり、古代ギリシャの劇場には、ステージと客席の間にオルケーストラ(踊る場所)と呼ばれる場所があり、そこで歌や踊りが行われていたのだが、主役は舞台上にいる歌手や俳優で、オーケストラは脇役であったと語る。

ヴィヴァルディの「四季」より「冬」第1楽章は、第1ヴァイオリン6人の小編成での演奏。ヴィヴァルディの時代は専業の指揮者がいなかったということで、下野は「目と心で合わせていた」と語る。この曲では指揮なしでの演奏となるため、ゴリ「ヴィヴァルディの時代だと下野さん、失業ですか?」、下野「失業です」というやり取りがある。下野は、「さっき私を無視したコンサートマスターが出てきて、中心にやります」と言ったため、ゴリも「コンサートマスターは人を無視する泉原隆志さん」と紹介する。
登場する泉原と退場する下野がステージ上ですれ違うときに、「冗談きついよ」「いやいや」といった感じで手でやり取りしていた。
桑山彩子のポジティブ・オルガンを加えての演奏。下野がポジティブ・オルガンを紹介した際に、ゴリが「前向きなオルガン」と言って、下野に「そのポジティブじゃない」と返されていた。
温かな音色による親密な演奏である。


モーツァルトの交響曲第29番より第1楽章。モーツァルトの初期の交響曲であるため、管楽器が少ない。モーツァルトがクラリネットを取り入れたのは彼の後期になってから。トロンボーンをオーケストラに加えたのは通説によるとベートーヴェンで、交響曲第5番が最初になると下野は紹介する。ただ、調べるとベートーヴェンより先にトロンボーンを加えた人はいるにはいるそうだ。トロンボーンはそれまでは教会で合唱と共に宗教曲を演奏しており、それが世俗のコンサートにも加わるようになる。

音色はモダンスタイルであるが、ボウイングはHIP風という折衷スタイルでの演奏。スケールは大きくないが典雅なモーツァルトが奏でられる。


ベートーヴェンの交響曲第5番より第3&第4楽章。2つの楽章には切れ目がない。トロンボーンが加わるのは第4楽章の頭からである。
下野は学校の音楽室に飾られた作曲家の肖像画(ちなみに下野によると瀧廉太郎がいるのは何かの間違いらしい)で、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトと来て、ベートーヴェンから変わることは何かとガレッジセールの二人に聞き、川ちゃんが「夜になると目が動く」と答えて、下野に「それは都市伝説」と一蹴される。答えは「かつらをかぶっていない」である。当時は貴族の前ではかつらをかぶるというのが音楽家の身だしなみであった。ベートーヴェンは貴族に仕える身分でしかなかった音楽家の地位を向上させた人といわれている。
下野指揮のベートーヴェンの5番は、昨年、びわ湖ホールで行われたNHK交響楽団の演奏会で聴いており、しっかりとした演奏であることを確認している。
今回も確かな構築力を感じさせる好演だったが、スケールをかっちり決めた上で細部を整えていくというスタイルの演奏であるため、自在感や奔放さはない。朝比奈隆スタイルのベートーヴェンと書くとクラシックファンにはわかりやすいだろうか。個人的にはもっと暴れまくるベートーヴェンが好きである。


後半。ベルリオーズの幻想交響曲より第4楽章「断頭台への行進」。ベートーヴェンの死からさほど立っていない時期に初演された作品だが、大編成であり、後のロマン派へと繋がっていく楽曲である。
ゴリが、「当時、これだけ入れる会場ってあったんでしょうか?」と聞く。下野は、「当時の会場で演奏している映像(ジョン・エリオット・ガーディナー指揮オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークのものだろうか)を見たことがあるのですが、ステージ上ぎっしりでした」と答えていた。
幻想交響曲の背景についても下野は語り、「イギリスから来ていた大女優(ハリエット・スミスソン)に恋をしてしまうわけです。凄いと思うのは楽屋に行って『結婚して下さい』と言ったこと」。無名の作曲家であったベルリオーズは当然ながら相手にされず、その時の屈辱感を幻想交響曲への昇華させる。面白いのは、幻想交響曲の初演をスミスソンが聴きに来ており、結果、二人は結婚に漕ぎ着けるということだ。川ちゃんが、「まさに、山ちゃん(蒼井優と結婚した山里亮太)」、ゴリ「山ちゃん、僕らの後輩ですけども」
下野は楽器編成についても語り、「ティンパニの中山(航介)さんはいつもいます。だけど今回は横に宅間(斉)さんが、『宅間さん』って楽器じゃないですよ」と言って、
ゴリ「それぐらいはわかります」
川ちゃん「僕らなんだかんだで47ですので」

下野は、テューバ奏者二人に、「楽器持ち上げてみて、ジャンプ!」と無茶ぶりして、ゴリに「絶対、きついですよね」と言われる。
下野「強権濫用(ママ)」

下野指揮の「断頭台への行進」であるが、極めて上品である。狂気がほとばしるような演奏をする指揮者も多いが、下野の場合は常に節度と美観を保ち、「ノーブル」ともいえるような仕上がりになっている。この曲がノーブルである必要があるのかどうかは意見が分かれるだろうが。


ドビュッシーの交響詩「牧神の午後への前奏曲」。下野はドビュッシーについて、「それまでとは違った和音を使って作曲した、人によっては『それ間違ってるんじゃないの?』と言われそうなギリギリのところを狙った」と語る。「輪郭のはっきりしない、揺れるような朧な」音楽である。下野はモネなど印象派の画家の名前を挙げながら、共通点についても語っていた。
下野の指揮する「牧神の午後への前奏曲」であるが、丁寧で美音を存分に生かしつつ浮遊感も忘れないという理想的なものである。下野というとブルックナーやドヴォルザーク、リヒャルト・シュトラウスなどを得意とするイメージがあるが、それ以上にフランスものが合っているのではないだろうか。少なくともこれほど美しいドビュッシーを生み出せる日本人指揮者は稀である。

下野の指揮した「牧神の午後への前奏曲」についてゴリは、「水の上をグルグル漂っているような」と表現した。


ウェーベルンの管弦楽のための6つの小品から第4曲。管楽器と打楽器のための作品である。下野は、「今日の客席の150%の人が『何これ?』というような曲」と紹介する。
アントン・ウェーベルンについては、「先輩方には叶わない、それよりも新しい音楽を生み出そうというシェーンベルクと一緒に活動してた作曲家」と紹介する。
演奏前に下野は、「最初は恐ろしく小さい音、空調の音が聞こえるような小さな音で始まり、それが……、内緒!」といって指揮を始める。
ドビュッシーは和音を飛躍させたが、ウェーベルンら新ウィーン学派になるともう和音が破壊されてしまっており、それまでの常識では計り知れないような音楽となる。この曲は元々は葬送行進曲として作曲されたといわれており、クライマックスでは破滅的な響きに至る。


レスピーギの交響詩「ローマの祭り」から「主顕祭」。
オーケストレーションの達人として、管弦楽の色彩感を極限まで推し進めたレスピーギ。「ローマの祭り」は、その後の映画音楽にも貢献することになった描写力抜群の音楽である。
下野指揮の京響の表現力はまさに一級品。日本人指揮者と日本のオーケストラによるものとしては最高レベルの演奏である。京響の明るめの音色もこの曲にジャストフィットだ。

アンコール。下野「我々がクラシックしか演奏出来ないと思わないで下さい!」、ゴリ「なんですか突然?」ということで、「ローマの祭り」に掛けた「お祭りマンボ」が演奏される。打楽器とオルガン、トランペットのための編曲(編曲:野本洋介)。楽団員が「ワッショイワッショイ!」とかけ声を出すなど、ノリノリの演奏となった。

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2019年6月23日 (日)

観劇感想精選(307) OSK日本歌劇団 「Salieri&Mozart サリエリとモーツァルト 愛と憎しみの輪舞(ロンド)」

2019年6月6日 大丸心斎橋劇場にて観劇

午後6時30分から、大丸心斎橋劇場でOSK日本歌劇団の公演「Salieri&Mozart サリエリとモーツァルト 愛と憎しみの輪舞(ロンド)」を観る。作・演出・振付:上島雪夫。音楽:浅野五朗、長野雄輔。出演:虹架路万、愛瀬光、千咲えみ、城月れい、椿りょう、柚咲ふう、唯城ありす、凜華あい、雅晴日、朝風まりあ、知颯かなで、せいら純翔、緋波亜紀(特別専科所属)。
このところ、大阪ではちょっとしたサリエリ・ルネッサンスが起こっており、大丸心斎橋劇場でサリエリの曲目を並べた「サリエリムジカ」という音楽会が催されたり、中之島の中央公会堂で日本テレマン協会が「サリエリ復権」と銘打ったコンサートを予定していたりする。

モーツァルトとサリエリの関係を描いた作品としては、ピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」とそれを基にした映画が有名であり、今回の「Salieri&Mozart」も多くの部分が「アマデウス」をなぞっている。戯曲「アマデウス」には、風と呼ばれる人物2人が登場して、狂言回しの役割を主に担うのだが、今回の劇にも風役に相当する2人がストーリーテラーを務めている。

まず冒頭では、モーツァルトの墓が登場して、ウィーン市民がモーツァルトの墓参に訪れたり、アントニオ・サリエリ(虹架路万)が花を手向けに来たりするが、モーツァルトは共同墓地に埋葬されており、正確な埋葬場所も不明。慰霊塔としての墓石が建てられたのはモーツァルトの死後半世紀以上が経過してからで、史実ではない。この他にもモーツァルトが遺作である「レクイエム」を完成させていたりと、芝居としての嘘が多いが、思いの他しっかりとした本による公演であり、結構感動する。

ウルフガング・モーツァルト(愛瀬光)が子供じみた下劣なところのある人物であるとするのは「アマデウス」と一緒であるが(ピーター・シェーファーは残されたモーツァルトの手紙からモーツァルトの性格を類推している)、音楽に対しては心から打ち込んでおり、純粋に人々に良い音楽を届けたいと願っているのに対して、サリエリは至高の音楽を書き上げたいという我欲と名誉心から音楽に取り組んでおり、敗北を悟るという展開になっている。
サリエリは音楽の神を崇拝しているが、モーツァルトは父親であるレオポルトの束縛を脱するべく「自由」を音楽に盛り込んでおり、新しい音楽として市民からは好評であるがヨーゼフⅡ世皇帝を始めとする貴族階級の人からは理解されない。サリエリはその逆で音楽を尊ぶ故に新鮮な音楽を生み出すことが出来ないのだが、だからこそ保守的な貴族階級からは高く評価されているという対比が上手く示されている。そんな中でサリエリの「自分だけがわかってしまう」がための苦悩も丁寧に描かれていたように思われる。

モーツァルト作曲の音楽も電子音で流れるが、本編の多くの音楽は浅野五朗と長野雄輔によるオリジナルで、躍動感にはやや欠けるところもあったが、日本人ミュージシャンによる音楽劇としては充実している。サリエリとモーツァルト、コンスタンツェ(千咲えみ)による三重唱は特に良かったように思う。

ラストには、OSKお得意のレビューもあり(音楽は、モーツァルトの「トルコ行進曲」、「フィガロの結婚」より「恋とはどんなものかしら」、交響曲第25番第1楽章、「魔笛」より「復讐の心は炎と燃え」、ピアノ協奏曲第20番第2楽章、「ドン・ジョヴァンニ」より「お手をどうぞ」、「フィガロの結婚」序曲などをアレンジしたもの。ラストは団歌「桜咲く国」)、見応えのある出来に仕上がっていた。

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コンサートの記(565) シャー・シャオタン指揮チャイナ・フィルハーモニー管弦楽団来日演奏会2019大阪

2019年6月13日 谷町4丁目のNHK大阪ホールにて

午後7時から、谷町4丁目のNHK大阪ホールでチャイナ・フィルハーモニー管弦楽団の来日演奏会を聴く。

チャイナ・フィルハーモニー管弦楽団(中国爱乐乐团)は、2000年に発足した北京のオーケストラである。その少し前には北京のオーケストラを統合する形で中国国家交響楽団が生まれており、チャイナ・フィルも中国放送交響楽団を母体に放送系団体を再編成してスタートしている。
メンバー表にピンイン(中国語版ローマ字)表記による氏名が載っているが、香港系の名前が一人いる他は全員が漢民族系の姓名である。
芸術監督兼首席指揮者は中国唯一の世界的指揮者である余隆(YU Long)。百度百科の記事によると首席客演指揮者は世界的な作曲家でもあるクシシュトフ・ペンデレツキが務めているようである。

白人が約半数を占める香港フィルを除けば、中国のオーケストラを聴くのは5回目。コンサートオーケストラに限ると4回目である。一口に「中国のオーケストラ」といっても国土が広いため、レベルには差がある。広州交響楽団のようなアジアを代表する水準に達しているオーケストラもあれば、これまで聴いた中で最低レベルでしかなかった黒竜江・ハルビン交響楽団(朝比奈隆が指揮していた白系ロシア人を中心とした楽団とは別の比較的新しいオーケストラ)のような団体も存在する。アジアで最も長い歴史を誇る上海交響楽団も十数年前に聴いた限りでは日本のアマチュアオーケストラの平均的レベルより下になると思われる。

文化大革命によってクラシック音楽が弾圧の対象となったため、中国のクラシックの水準は世界的に見てそう高いとはいえないが、ソリストでは、ピアニストのランラン、ユンディ・リ、ユジャ・ワン、チェリストのジャン・ワンなど世界的な演奏家が次々に現れている。
オーケストラの方はまだまだこれからであり、90年代に結成されたばかりの中国国家交響楽団にシャルル・デュトワが客演した際に作られたドキュメンタリーでは、中国国家交響楽団のメンバーがどうしてもフランス音楽の音が出せないため、デュトワと共にパートごとに居残り特訓をする様が流されていた。

 

曲目は、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、チェン・チーガン(陳其鋼)のヴァイオリン協奏曲「苦悩の中の歓喜」(ヴァイオリン独奏:リュー・ルイ)、ベートーヴェンの交響曲第5番。

指揮はチャイナ・フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者のシャー・シャオタン(夏小汤)。1964年生まれ、北京の中央音楽院で学び、現在はチャイナ・フィルの常任指揮者の他、チャイナ・ユース交響楽団の首席指揮者と中央音楽院の指揮科教授を務めている。

当然ながらチケットは全然売れていない。今日は2階席のチケットを取ったのだが、1階席の招待席が全く捌けていないので交換可ということになっており、NHK大阪ホールの1階席は必ずしも音は良くないのだが、「少しでも客席に人がいる方が演奏する側もやりやすいだろう」ということもあって換えて貰う。結局、1階席のそこここに人はいるが間ががら空きという状態での演奏会となる。

ドイツ式の現代配置での演奏。入場の仕方に特徴があり、立って聴衆の拍手を受けるのだが、全員がステージの上に揃わないうちに、コンサートマスターが「この辺でいいよ」と手で示して、弦楽奏者などは座ってしまう。

 

ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」。
最初に発された音から優れたアンサンブルであることが分かる。細部などは割合いい加減だったりするのだが、音に張りと勢いがあり、和音に対する感性が独特であると同時に優れている。内声部の強調なども個性的であり、世界的にマイナーとされるオーケストラの個性を聴く喜びが総身を駆け抜ける。聴くだけで感動するタイプの音である。

 

チェン・チーガンのヴァイオリン協奏曲「苦悩の中の歓喜」。単一楽章による変奏曲である。
世界的に高い評価を受けているチェン・チーガン。上海に生まれ、文化大革命の苦難を経て、再発足したばかりの中央音楽院に入学。34歳で渡仏し、パリでメシアンに師事。現在もフランス在住である。
ヴァイオリン独奏のリュー・ルイ(刘睿。リュー・ルェイの方が原音に近い)は、現在、チャイナ・フィルのアソシエイト・コンサートマスターの地位にある。1983年、四川省成都生まれ。4歳でヴァイオリンを始め、10歳で中央音楽院の小学校部門に入学。2005年に中央音楽院を卒業してチャイナ・フィルに入団し、2014年にアシスタント・コンサートマスターとなっている。

冒頭はいかにもメシアン風の響きであり、薄明の中をただ一人で歩んでいるような孤独な音楽が繰り広げられる。中国風のメロディーと西洋的な旋律が奏でられた後で、クラリネットが甘い歌で誘うが、ヴァイオリンソロが決然と拒否するという印象的な場面が2度続く。予想を裏切る展開であり、ハッとさせられる瞬間である。チャルメラの音色を模したオーボエが同じようにソロを吹く場面があるが、今度はヴァイオリンによって肯定されるようだ。
最後は広がりのある音楽で締めくくられる。

演奏終了後、リュー・ルイは喝采を受けるが、日本のオーケストラとは違い、カーテンコールを長く受けずに、ある程度でさっと切り上げてしまうという光景が珍しい。

 

メインであるベートーヴェンの交響曲第5番。
シャー・シャオタンは一度指揮棒を振り下ろしてから半分ほど上げ、もう一度振り下ろす瞬間に運命動機がスタートする。動きのみならず息づかいも駆使する。
第1楽章は反復あり。転調による警告の場面ではグッとテンポを遅くして文学的な解釈を示す。緩急やタメの作り方が独特であり、他の指揮者や団体がためるところは素通りして、余り例がないところでテンポを緩めたりする。全体的にシャープなフォルムによる演奏であり、トスカニーニやカラヤンが追求したタイプの音像が聴かれる。当然ながらピリオドではない。
物語性も重視しており、ある意味、懐かしいタイプのベートーヴェンになっているといえる。内声のえぐり方も強烈であるが、音で圧するのではなく、様々な音を独自に積み重ねることで生まれる重層性が魅力的な演奏である。

 

アンコール演奏は、菅野よう子の「花は咲く」。優しい編曲と演奏であった。

シャー・シャオタンは、何度目かのカーテンコールで、弦楽器の最前列の奏者と握手を交わすが、弦楽器の他の奏者達はそれと同時に横にいる奏者と握手を始める。管楽器奏者はステージ中央に集まってスマホで記念写真を撮り始める。その後、楽団員達は客席に向かって手を振ったり、投げキッスをしたりしながらステージを後にする。なんだかとってもフリーダムに見える。検閲制度のある国の人々なのだが。
拍手がそれほど長く続いたというわけでもないのだが、最後はシャー・シャオタンが一人でステージ中央に現れ、お辞儀と投げキッスをして手を振りながら帰って行く。
これらは世界的にマイナーなオーケストラの演奏会に行く醍醐味でもある。

 

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2019年6月22日 (土)

コンサートの記(564) エリック・ル・サージュ ピアノ・リサイタル2019京都

2019年5月10日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタにて

午後7時から、京都コンサートホール アンサンブルホールムラタでエリック・ル・サージュのピアノ・リサイタルを聴く。

エリック・ル・サージュは、1964年生まれのフランスのピアニスト。エクサン・プロヴァンスに生まれ、パリ国立高等音楽院を17歳で卒業。その後、ロンドンに渡り、マリア・クルチオに師事。1985年のポルト国際ピアノコンクールと1989年のロベルト・シューマン国際ピアノコンクールで優勝し、1990年のリーズ国際ピアノコンクールでは3位に入賞している。
プーランクの室内楽全集のピアニストとして注目され、シューマンのピアノ曲と室内楽曲の全集、フォーレの室内楽作品全集にも参加している。

曲目は、シューマンの「子供の情景」、フォーレの夜想曲第6番、ドビュッシーの「子供の領分」、シューマンの「謝肉祭」
前半に子供時代を描いたピアノ曲として知られる2つの組曲が並ぶという意欲的なプログラムである。

 

シューマンの「子供の情景」は、1曲目の「見知らぬ国から」の3連音を崩し気味に弾くなど、即興性が強い。ドイツ人や日本人のピアニストだったら思い入れたっぷりに弾くであろう「トロイメライ」も速めのテンポで流すように歌う。文学性や物語性よりも響きを重視しているのもフランスのピアニストらしいところである。

シューマンのスペシャリストとしても知られるル・サージュだが、フォーレの夜想曲第6番における音の煌めきを聴くと、やはりフランス音楽の方が合っているということに気づく。なお、この曲だけは譜めくり人をつけて楽譜を見ながら演奏を行った。

 

ドビュッシーの「子供の領分」。ジャズの影響なども受けているドビュッシーであるが、ル・サージュの演奏を聴いているとそのことがよく分かる。全体的に洒脱で愛らしい演奏であり、フレンチジャズも演奏出来そうなリズム感の良さやもよく表れている。

 

ドビュッシーの「喜びの島」。色彩感豊かで、ワクワクが枠から溢れ出て来るような「喜びの島」である。

 

後半、メインであるシューマンの「謝肉祭」。スケールが大きく、透明感溢れる音色に支えられた端正な演奏をル・サージュは展開する。
今日は5列目の22番という、一般的な小ホールなら一番良い音がするはずの位置に座っていたのだが、アンサンブルホールムラタは内部が六角形という、珍しいというほどではないが近年は少なくなった設計であり、この曲の演奏中には反響した音が右後ろから聞こえてくるなどハウリングが起こっていた。だが演奏そのものは聴き応えがある。ラストの第20曲「ペリシテ人とたたかうダヴィッド同盟員」はノリノリの演奏となり、演奏終了後に盛んな拍手と「ブラボー!」がル・サージュを讃えた。

アンコール。まずシューマンの「ダヴィッド同盟」舞曲集より第14曲が演奏され、最後のドビュッシーの「映像」より「水の反映」が演奏される。
シューマンも優れた出来だったが、ドビュッシーの「水の反映」は描写力といい詩情といい最高クラスの逸品で、やはり聴衆を沸かせた。

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2019年6月21日 (金)

コンサートの記(563) 鈴木優人指揮 関西フィルハーモニー管弦楽団第302回定期演奏会

2019年6月14日 ザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで関西フィルハーモニー管弦楽団の第302回定期演奏会「欧和饗宴」を聴く。今日の指揮は鈴木優人。

古楽の貴公子、鈴木優人の登場であるが、敢えて全曲日本人作曲家の作品で勝負するという意欲的な演奏会である。ただ、現代音楽プログラムでは客が入らないのが当たり前となっており、今日も鈴木優人が指揮台に立つにも関わらず、大半が招待客であることが拍手の起こり方などからわかる。元々、関西フィルは招待客が多めではあるのだが。

曲目は、黛敏郎の「シンフォニック・ムード」(黛敏郎生誕90年記念)、矢代秋雄のピアノ協奏曲(ピアノ独奏:小菅優。矢代秋雄生誕90年記念)、芥川也寸志の交響曲第1番(芥川也寸志没後30年記念)。

 

鈴木優人は1981年オランダ生まれ。鈴木雅明を父親に、鈴木秀美を叔父に持つというサラブレッドである。東京藝術大学及び同大学院修了後、オランダのハーグ王立音楽院に進んで修了。2018年9月にバッハ・コレギウム・ジャパンの首席指揮者に就任したばかりである。アンサンブル・ジェネシスの音楽監督でもあり、得意とするバッハから現代音楽に至るまでの幅広い音楽に挑んでいる。今年の11月にはNHK交響楽団の指揮台にも初見参の予定。

今日のコンサートマスターは岩谷祐之。アメリカ式の現代配置での演奏である。

 

黛敏郎の「シンフォニック・ムード」。
若い頃は「天才」のあだ名で呼ばれたという黛敏郎。男前でもあり、女学生のスター的存在であった。松本清張の『砂の器』に登場する天才音楽家、和賀英良のモデルともいわれている。ただ後年は改憲を前提とした政治活動にのめり込んだこともあり、作曲を余りしなくなり、「題名のない音楽会」の司会者としてとにかく知名度は高かったが、黛敏郎が作曲家ではなくプロの司会者だと思い込んでいる人も多かった。
東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)を卒業後、パリに留学するが、アカデミズムへの反発から「ここで学ぶことはもう何もない」として1年で帰国。最新鋭の電子音楽に取り組んだほか、鐘の音をコンピューターで解析してオーケストラに移し替えるという技術を取り入れた涅槃交響曲などで日本作曲界に衝撃を与えている。
「シンフォニック・ムード」は2部からなる力強い音楽である。ストラヴィンスキーの「春の祭典」などからの影響が顕著であり、日本的な旋律と太古のリズムの融合を図っている。「益荒男・黛」の真骨頂を表した作品といえるが、古代の邦楽への畏敬の念も感じられる。

 

矢代秋雄のピアノ協奏曲。
場面転換の間、鈴木がマイクを手に現れ、トークを行う。自身が東京藝術大学作曲科の第1課程の出身だということを語る。第1課程は矢代秋雄が教えていたフランス流の作曲術の流れを汲むコースだそうである。また、鈴木優人の父である鈴木雅明は、東京藝術大学で矢代秋雄に実際に師事していたそうである。
46歳で早逝した矢代秋雄。東京音楽学校では黛敏郎の同門であったが、戦時中のため授業自体が余り行われなかったようである。卒業後にともにパリに留学し、矢代の方は5年間滞在して伝統的なフランスの作曲法を学んでいる。黛と違って前衛には与せず、「美しく仕上げる」ことを目指した。

ソリストの小菅優は、日本若手トップクラスのピアニストであり、知名度も高い。

ラヴェルのピアノ協奏曲からの影響が濃厚であり、同じような音型がピアノによって奏でられる場面もある。
フランス音楽と大和心の共通点である繊細な味わいを追求した作品。近年では演奏される機会が少しずつではあるが増えているが、小菅優の力強さと輝かしさを統合したピアニズムはこの作品の美質を存分に引き出している。
鈴木指揮の関西フィルも上質の伴奏を奏でる。会場がザ・シンフォニーホールであるということもあるが、今日の関西フィルは鳴りが良い。

アンコールとして、小菅優と鈴木優人の連弾による「夢の舟」(4手のための)が演奏される。愛らしい好演であった。

 

芥川也寸志の交響曲第1番。
芥川龍之介の三男として生まれた芥川也寸志。芥川作曲賞にもその名を残している。ソビエトや中国共産党へのシンパシーから、ショスタコーヴィチの紹介者としても活動しており、アマチュアオーケストラの新交響楽団を指揮してショスタコーヴィチの交響曲を演奏したりもしていて、いくつかはレコーディングもされている。
右派の黛と左派の芥川であるが、二人は團伊玖磨を含めた「3人の会」として一緒に活動している。後年は前衛的な作品にも取り組む芥川だが、交響曲第1番はまだ伝統的な音楽を第一としていた時期に書かれたものである。

やはりショスタコーヴィチからの影響がはっきりと分かる。力強く鋭い響きが特徴であり、スケールも大きい。アイロニカルな音型や浮遊感一杯の場面など数多くの要素を詰め込んでおり、がっしりとした構築と豊かなロマンティシズムも魅力的である。

鈴木指揮の関西フィルもパワフルで密度の濃い演奏会を行った。

 

20世紀に活躍した3人の作曲家の作品であるが、いずれも古き良き音楽を尊重した作品を作曲しており、鈴木優人を含めた4人共がそうした姿勢によって貫かれているという共通点を見いだすことの出来た音楽会であった。

 

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2019年6月20日 (木)

スタジアムにて(18) パリーグ・クライマックスシリーズ2014 ファーストステージ オリックス・バファローズ対北海道日本ハムファイターズ 2014.10.14@京セラドーム大阪

2014年10月14日 京セラドーム大阪にて

午後6時から、京セラドーム大阪で、パリーグ・クライマックスシリーズ・ファーストステージ、オリックス・バファローズ対北海道日本ハムファイターズの試合を観る。今日勝った方がファイナルステージへと駒を進める。バファローズは引き分けでも勝ち抜きである。
本当は、クライマックスシリーズを観戦する予定はなかったのだが、今日は何の予定もなかった上に、稲葉篤紀の打席を見るのは今日で最後になるかも知れないとの思いから出掛けた。京セラドーム大阪は、大阪の海に近い方にあり、京都からだと行くのに時間が掛かる。


バファローズの先発投手は西勇輝。ファイターズの先発はメンドーサ。バファローズの西は金子千尋と共にバファローズの二枚看板として今年も12勝を挙げた(ただし10敗)投手だが、メンドーサは7勝13敗と大きく負け越している。ファイターズは二刀流の2年目で野手としても出場している大谷翔平の11勝がチーム最多勝ち星であり、事実上エース不在である。吉川光夫は今年もピリリとせず、武田勝も不調で中継ぎに配置展開となり、おまけに抑えの武田勝も調子が上がらず守護神の座を増井に譲り渡すなど、投手陣、特に先発投手の不振に喘いだ。
立ち上がりであるが、西のストレートはスピードガン以上の速さを感じたが、メンドーサのストレートはMAX147キロながら肉眼だとそれより10キロは遅く感じた。

試合は、1回裏、バファローズ先頭の駿太が、いきなりの先制本塁打。初球を叩くとボールはライトポール際に飛び、ポールの内側の編み目に当たる。駿太は1回表にファイターズ先頭の西川のセンターへの大飛球を好捕しており、初回は大活躍である。
ファイターズとバファローズは糸井嘉男らと大引啓次らをトレードするという謎の行為に出たことがあるが(糸井がファイターズに対して想像を絶する高額年俸による複数年契約を要求したため追い出されたという話もある)、今日は糸井も大引もスターティングオーダーに名を連ね、古巣と対戦する。

その後は、西、メンドーサ共に好投。ヒットは許すものの、得点は与えない。西は中田がストレートを2球ともレフトへ引っ張ってのファールとすると、「打ち気あり」と察してフォークで空振り三振を奪うなど、投球術に長けている。またピンチになるとギアを入れ替えるようで、3回表に一死満塁とされた場面では、中島卓也、陽岱鋼を三振に切って取る。特に陽岱鋼との対戦ではストレートがホップし、陽を寄せ付けなかった。

6回表、ファイターズが一死三塁一塁としたところで、いよいよ稲葉篤紀が代打で登場。私もフラッグを振って応援する。稲葉は見事に一二塁間を破るタイムリーヒットを放ち、ファイターズが同点に追いつく。
その後は、両チーム共に自慢である豪腕リリーフ陣が登場。ファイターズの鍵谷、白村、宮西、クロッタ、増井の中で150キロ以上をマークしなかったのは宮西だけ。バファローズの佐藤達也、馬原、平野佳寿は全員、150キロ以上を記録した。同じ150キロでも、投手によって違いがあり、一番速く見えたのは佐藤達也のストレートである。リリース直後にボールが消え、打者の手前で現れるように見える。勿論、消えてなどいないのだが、目がついて行けないほどの勢いがあるようだ。
8回裏にファイターズは特異なプレーを見せる。白村が駿太に二塁打を許して、無死二塁となり、安達がバントの姿勢を見せる。ここで、白村が投げると同時にセカンドの中島卓也とショートの大引が全力ダッシュ。駿太を三塁で刺そうというプレーであり、中島がかなり前でボールを拾い、三塁へ投げようとする。ただやはり無理であり、一塁へ送球。送りバント成功となる。一死三塁。
だが、続く糸井とT-岡田の左打者コンビは、マウンドに上がった左腕の宮西の前に連続三振に倒れ、チャンスを生かせない。

9回裏にヘルマンのヒットと盗塁で二死二塁のチャンスを作ったバファローズであるが、原拓也が空振り三振に倒れ、延長戦となる。原拓也は基本的に「守備の人」であるため、決めるなら代打を送るべきだったと思うが、オリックスベンチは動かなかった。

1対1という、投手戦であったが、ヒット数は多く、今日負けてたら終わりという状況のためサイン交換も慎重になったからか、9回までで約4時間を要すという熱戦となる。残念ながら延長戦にまで付き合っていると京都に帰れなくなってしまう。
ということで、9回終了と共に、私は京セラドーム大阪を後にする。
試合はその直後の10回表に先頭の中田翔が、平野からバックスクリーンへの一発を放ち、増井がバファローズ打線を抑えて、2-1で勝利。ファイターズがクライマックスシリーズ・ファーストステージを突破した。

ちなみに中田翔は守備に就いてからのウォーミングアップのキャッチボールで、140キロ以上は出ているだろうと思われるボールを投げ込んだりもしていた。中田も高校まではピッチャーであり、高三の時に肩を痛めていて、夏の大阪予選決勝では変化球しか思うように投げることが出来ずに敗退。投手としては引退し、野手としてプロ入りしたが球威は今も健在なのであろう。

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観劇感想精選(306) 京都観世会館 第254回市民狂言会

2019年6月7日 左京区岡崎の京都観世会館にて観劇

午後7時から、岡崎にある京都観世会館で、第254回市民狂言会を観る。茂山千五郎家と茂山忠三郎家の出演。演目は、「舟船(ふねふな)」、「惣八(そうはち)」、「梟(ふくろう)」、「塗師(ぬし)」


「舟船」。西宮の神崎川周辺が舞台となっている。出演は、茂山千作、茂山七五三。
主人(茂山七五三)が太郎冠者(茂山千作)と共に久しぶりに遊山に出掛ける。近所は散々散策したので遠出をしたいと思った主人は太郎冠者の勧める西宮へ。神崎川に出た二人は川を渡ろうと渡し船を求める。だがそこで太郎冠者が船を「ふな」と読んだことから、「ふね」か「ふな」かで争うことに。和歌に出てくる「ふね」と呼ぶ例と「ふな」と読む例を挙げるが、和歌の知識は太郎冠者の方が優勢のようで……。


「惣八」。つい先頃まで料理人だった出家と、駆け出しの料理人である元僧侶の話である。出演は、茂山あきら、茂山忠三郎、茂山宗彦(もとひこ)。茂山千五郎家と茂山忠三郎家は今では同じ茂山を名乗るが、江戸幕府から茂山姓を貰う前は、千五郎家が佐々木、忠三郎家が小林という苗字で別の家である。
有徳者(金持ちのこと。茂山忠三郎)が、料理人と僧侶を召し抱えることにする。高札を見てやって来た出家(茂山宗彦)は、元料理人。生類の命を取ってばかりの仕事に嫌気が差して出家したのだが、経文も満足に読めないという状態であり、高札を見て禄を貰おうと考えたのだ。もう一人応募してきた料理人(茂山あきら)はこれまで僧侶として生きてきたのだが、「俗なことをしたい」と考え、料理人に転身。しかし、精進料理以外の心得はない。料理人仲間が大勢出来るので教えて貰おうと応募したのだが、今のところ料理人として雇われたのは彼一人である。料理人は自己紹介の時に「愚僧は」と発言してしまったため、取り繕うために「惣八」と名を偽る。
有徳者は、出家に法華経を読むよう、料理人には魚を捌くよう命じて奥に引っ込むが、二人とも心得がないので、手も足も出ない。出家は法華経のことも知らず、「ホケキョ」なのでウグイス経だと勘違い、惣八は包丁すらなんなのかわからないという有様である。だが、互いの前職があべこべだと知り、役割を交代しようと目論む。
惣八は、元僧侶という設定だが、笑いを取るため法華経の読みは出鱈目に進める。
殺生を生業とする料理人とそれを戒める立場にある出家の交代の妙味もある狂言である。妙味と書いたが、取りようによっては厭世的とも言える。


「梟」。この演目は、2年前の夏にロームシアター京都サウルホールで観たことがある。出演は、茂山千三郎、井口竜也、丸石やすし。
山奥で梟の巣を取ったために気の病にかかってしまった男(丸石やすし)を案じてその弟(井口竜也)が法印(山伏のこと。茂山千三郎)を喚び、祈祷をして貰うという話で、最後はミイラ取りがミイラになる。
笑える演目であるが、昔は気の病の研究がほとんど進んでいなかったため、加持祈祷に頼るしかなかったという背景がうかがえる。昔はと書いたが、精神病への関心が高まったのはここ20年ほどのことである。


「塗師」。出演は、茂山千五郎、茂山茂、茂山逸平。
京で活躍していた塗師(茂山茂)が仕事にあぶれ、弟子のいる越前に落ちていくという話であり、設定からして切ない。
京では流行の塗り物がもてはやされており、昔気質の塗師は生活していけないようになった。塗師の弟子である平六(茂山千五郎)が越前国北之庄(現在の福井県福井市。柴田勝家の居城である北之庄城があったことで知られるが、北之庄の名が「敗北」に繋がるとして江戸時代初期に縁起の良い福井に改められている)で塗師をしており、「困った時はいつでも越前へお出でなさい」と言ってくれていたため、その言葉に甘えることにしたのだ。京の塗師は、平六の家を訪ね、女房(茂山逸平)に仔細を話すのだが、女房は「師匠というからには腕が立つのだろう。平六の仕事を奪われかねない」と考え、平六はすでに他界したということにして追い返そうとする。だがそこへ平六の声が。女房は席を外して平六に状況を説明する。どうしても師匠に会いたいと言う平六に女房は幽霊となって現れる狂言を提案する。
ということで、狂言の中で狂言を行うという入れ子構造になるのだが、狂言内狂言となる部分は餓鬼道に落ちたことを歌うシリアスな能舞であり、笑いを取るためのものではない。見ようによっては、京の塗師がもう一人の自分と対面しているようでもある。
今現在はちょっとした狂言ブームが続いており、人気の狂言方も多いが、ある意味、狂言の歴史は為政者の胸三寸に左右されたり人気を他の芸能に奪われ続けるという敗北の歴史であり、零落した京の塗師に狂言そのものを重ねることも出来るだろう。狂言への愛や師弟愛といった伝統芸能の担い手ならでは思いが交錯するのを見るようでもある。

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2019年6月18日 (火)

観劇感想精選(305) 第70回京都薪能「新しき御代を寿ぐ」2日目

2019年6月2日 左京区岡崎の平安神宮にて観劇

午後6時から平安神宮で、第70回京都薪能「新しき御代を寿ぐ」2日目を観る。
2日連続で行われる第70回京都薪能。昨日は晴天だったが、今日は曇り。ただ雨は降らず、空は明るめである。

今日の演目は、能「絵馬」(観世流)、能「羽衣」(金剛流)、狂言「仁王」(大蔵流)、能「石橋」(観世流)。


昨年は体調不良の中、出掛けた京都薪能。結局、1曲だけ観ただけで薪に火がつく前に平安神宮を後にしており、薪能と言われる状態を目にしていない。薪能を観るのは今回が実質初めてである。


能「絵馬」。伊勢神宮を訪れた勅使が、日照りの絵馬と雨の絵馬を掛けようとする老人と老婆の見かける。やがて二人の正体が二柱の神であることがわかり、天照大神と天鈿女命と手力雄命が天岩戸を再現する。出演:杉浦豊彦、梅田嘉宏、大江泰正ほか。
元号が変わったということで、まず皇祖である天照大神が登場する演目が行われる。残念ながら今日は太陽は顔をのぞかせなかったが、日照りの絵馬と雨の絵馬の中間の天気ということで良かったのではないかと思う。


能「羽衣」上演の前に薪に火をつける儀式がある。煙があたかも霞のようにたなびき、今日の演目に相応しい仕掛けが出来上がった。
能「羽衣」はずばりそのまま羽衣伝説を題材にした能である。出演:金剛永謹、小林努、有松遼一ほか。
漁師の白龍は、三保の松原で羽衣を見つける。羽衣を持ち帰ろうとした白龍だが、そこに天女が現れ、羽衣を返してくれるよう頼む。白龍は羽衣を返す代わりに天女の舞を観たいと申し出る。
前半は白龍と天女のやりとりであり、後半は能舞となる。
動きの少ないゆるやか舞であり、これは舞手の動きと観る者の想像力が合わさって初めて完成する舞である。西洋の舞踏のように観る者を圧倒して引きつけるのではなく、観る側が舞に加わる余地を敢えて残しているように思われる。


狂言「仁王」。茂山千五郎家による上演。茂山千五郎家による「仁王」は数年前に金剛能楽堂で観たことがある。出演は、茂山宗彦(もとひこ)、茂山あきら、茂山千五郎、丸石やすし、茂山千作ほか。
財産を失った男が悪党にそそのかされて仁王像に扮し、供物を受け取ろうと企む話である。仁王像(に扮する男)に対して行う願掛けは、各人が即興で行う。今回も広島カープの日本一を願ったり、頭頂部からはげてきたので良いカツラが欲しいと言ったり、目が悪くなって犬と孫を間違えたので視力回復を願ったりと、それぞれの希望を語る。京都薪能が100回まで続くこと、それも「晴天の下」で続くことを願う人もいた。


能「石橋」。目出度い時の定番の演目である。要は獅子舞なのだが、1頭の白獅子(味方團)と3頭の赤獅子(松野浩行、宮本茂樹、大江広祐)が気のようなものを発し、迫力満点の舞が披露された。

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2019年6月17日 (月)

観劇感想精選(304) 加藤健一事務所 「Taking Sides ~それぞれの旋律~」

2019年6月1日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後2時から、京都府立府民ホールアルティで、加藤健一事務所の公演「Taking Sides ~それぞれの旋律~」を観る。「戦場のピアニスト」「想い出のカルテット」「ドレッサー」のロナルド・ハーウッドが、20世紀最高の最高の指揮者であったヴィルヘルム・フルトヴェングラーのナチ裁判予備審問を描いた戯曲の上演。私は6年ほど前に、行定勲の演出、筧利夫、平幹二朗、福田沙紀、当時無名の鈴木亮平らの出演による上演(「テイキングサイド ~ヒトラーに翻弄された指揮者が裁かれる日~」)を観ている。
テキスト日本語訳は小田島恒志と小田島則子。演出は鵜山仁。出演は、加藤健一、今井朋彦(文学座)、加藤忍、小暮智美(青年座)、西山聖了、小林勝也(文学座)。

舞台上方に下側がちぎれた状態の星条旗が掛かっている。舞台下手にも星条旗が、あたかも歌劇「蝶々夫人」の上演時のように掲げられている。上手に上方に設けられたドームが崩れ落ちたままのドアがあり、登場人物はこのドアから入ってくる。
ベートーヴェンの交響曲第5番第4楽章の演奏が鳴り響いて上演開始。星条旗を吊り下げていた上手側の紐が切れ、舞台上に落ちかかる。後方の壁にはベルリン陥落の模様の映像が投影される。

灯りがつくと、エンミ・シュトラウベ(加藤忍)が指揮真似をしている。エンミはベートーヴェンの愛好家なのだが、連合軍取調局に所属しているアメリカのスティーヴ・アーノルド少佐(加藤健一)は、音楽には全く興味がなく、ベートーヴェンの交響曲第5番についても、「くその役にも立たないほど退屈」と感じている。エンミはベートーヴェンの交響曲第8番が最も好きなのだが、ベートーヴェン入門曲として第九を薦める。だが、アーノルドは「第5より短いのか?」と聴く気のない発言をする。

アーノルドは世界的な大指揮者であるヴィルヘルム・フルトヴェングラー(小林勝也)の予備審問を担当するのだが、フルトヴェングラーについては全く知らない。知らないからこそ選ばれたという側面もある。アメリカで活躍するアルトゥーロ・トスカニーニやレオポルト・ストコフスキーは知っているが、指揮者ではなくバンドリーダーという認識であり、フルトヴェングラーもバンドリーダーの一人だと思っている。
フルトヴェングラーは、ナチス政権化にあってナチ党員にならず、ユダヤ人音楽家の国外逃亡に手を貸していた。だが自身はドイツに留まってベルリン陥落の前年にようやくスイスへ亡命したため、「実はナチ協力者なのではないか?」という嫌疑をかけられていた。フルトヴェングラーと彼が指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏は、ナチがドイツ国民の優越性を示すためのプロパガンダとして用いていた。
新たにアーノルドの部下となったデイヴィッド・ウィルズ中尉(西山聖了)は、ハンブルク生まれのユダヤ系ドイツ人で今はフィラデルフィア在住という二重にも三重にも引き裂かれた経歴の持ち主である。精神的にはヨーロッパ寄りであり、ベートーヴェンは大好き。その点において同じアメリカ人でもアーノルドとは大きく異なっている。

典型的なアメリカ的合理主義的精神の持ち主であるアーノルドは、予備知識を徹底して廃してフルトヴェングラーやベルリン・フィルの第2ヴァイオリン奏者であったヘルムート・ローデ(今井朋彦)を追求していく。
途中、タマーラ・ザックスという女性(小暮智美)が闖入する。タマーラはドイツ人女性で旧姓は典型的なドイツの苗字であるミュラー。しかし、ユダヤ人ピアニストであるヴァルター・ザックスと結婚していた。ヴァルター・ザックスとタマーラはパリに亡命するが、ナチスによってパリが陥落したため、ヴァルターはアウシュヴィッツに送られて命を落とした。だが、二人がパリに亡命出来たのはフルトヴェングラーのお陰であるとして、彼の無罪を訴えに来たのである。

タマーラだけでなく、ローデ、エンミ、デイヴィッドら全員がフルトヴェングラーは偉大な芸術家だと擁護する中、アーノルドは後光効果(ハロー効果)を廃した追求を行おうとする。フルトヴェングラー本人にも脅威となった若きヘルベルト・フォン・カラヤンの存在や、愛人や隠し子が各所にいたというフルトヴェングラーの私生活に踏み込んで揺さぶりをかけていく。
やがて、ナチス高官ハンス・ヒンケルが残した様々なデータによってローデが実はナチ党員だったことがわかり……。

 

行定勲演出の「テイキングサイド」では、小林隆がヘルムート・ローデを演じており、最初から気弱で人におもねりそうなローデ像を作り上げていたが、今回の「Taking sides」は今井朋彦のローデということで印象は大きく異なり、同じセリフでも意図が異なって聞こえる。
「テイキングサイド」でアーノルドを演じた筧利夫は、異常なまでの映像記憶力の持ち主で、かなりの早口、非感情的という人物に扮していたが、加藤健一のアーノルドは異能者であることはセリフで示されてはいるものの、それを思わせる展開はほぼないため、同じ合理主義者のアメリカ人ではあっても異なった要素が表に出ているように思われる。行定演出ということあって、筧のアーノルドはかなり挑戦的でもあったようだ。

「テイキングサイド」では、平幹二朗演じるフルトヴェングラーの完全敗北という感じに見えたラストだが、今回はフルトヴェングラーの後悔のみに留められ、またラストに流れる第九第1楽章も「芸術はそんなことで負けも終わりもしない」というアーノルドへの忠告のように響いた。

アメリカの合理主義とドイツ引いてはヨーロッパの伝統主義、芸術至上主義の代理戦争の構図がこの劇には見て取れる。そして、戦前においてはドイツを、戦後はアメリカをモデルとして発展してきた日本において「Taking sides(どちらの側を取るか)」を上演する意味についても考えさせられる。

 

ロビー(というより普段は喫茶店として使われているスペース。喫茶店は今日は午後3時で閉店)でアフタートークがあり、出演者全員が登場する。

イギリスでは「Taking Sides」は「コラボレーション」との二本立て作品として上演されており、「コラボレーション」の方は、加藤健一事務所は2011年に上演している。加藤健一は、「Taking Sides」の台本も同時に読んでいたそうだが、その時はフルトヴェングラーという人物を知らなかったために上演を見送ったそうである。ただ、それから8年経って、「早くやらないと、どっち(アーノルドとフルトヴェングラー)を演るのかわからなくなってしまう」ということで取り上げることにしたそうである。
加藤健一は、普段は真逆の人間なので演じやすかったと言って笑いを取るが、「フルトヴェングラー好きはいっぱいいるものですから」、フルトヴェングラーファンから悪く見られるのが嫌なようで、東京公演の時も楽屋に来た今井朋彦のフルトヴェングラー好きの知り合いから、「段々段々、憎く憎く見えてきました」と言われてショボンとしたそうである。
小暮智美は、「福島県会津出身です。京都には色々な思いがあります」と自己紹介。演じたタマーラについてハーウッドは「タマーラはホームレスのように見える」と書いていたため、そう見えるように稽古の時から工夫をしており、お歯黒をしてきてみんなから「この人は何をしてるんだ?」と怪訝な顔をされたり、演出の鵜山仁から「いや、そういうんじゃない」と駄目だしされつつ、色々模索している最中だそうである。ちなみに今日のメイクは今井朋彦に「八ツ橋に見える」と言われたそうだが、言われた方はどんなだかわからないそうである。

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2019年6月16日 (日)

笑いの林(118) 「ハラダのひとりトークライブ・お喋っせ vol.10」

2019年5月30日 京都・木屋町のLIVE HOUSE indigoにて

午後7時から、蛸薬師通木屋町西入ルにあるLIVE HOUSE indigoで、ファミリーレストラン・ハラダによる「ハラダのひとりトークライブ・お喋っせ vol.10」に参加する。
京都市出身で、現在は滋賀県住みます芸人として大津市で暮らすファミリーレストラン・ハラダ(原田良也)の文字通り一人トーク。京都での開催だが、滋賀県内から駆け付けたお客さんも多いようだ。

ホワイトボードにお題が全部で15個書かれていて、お客さんがどの話を聞きたいかチョイスして(といっても最後の方になるとそれほど選択肢は多くなくなるが)ハラダが話すというスタイル。

その前に、今月1日にハラダが令和婚をしたというので、「結婚してみてわかったこと」の話。ハラダは1976年生まれで、芸人になってからはずっと一人暮らしだったため、結婚して初めてわかることが多いそうで、そのうちのいくつかのタイトルをスケッチブックに書いてきて発表していく。
相方のしもばやしは、結婚してから10年ほど経つが極端な吝嗇家だそうで、釣りが趣味で釣りの正式なYouTuberとしても活動を始めており、登録者も1万に達するなど上々なのだが、とにかくお金を使わない。移動も自転車で、しかもボロボロのものに乗っているため、ハラダは「芸能人の端くれの端くれだけれども、人に見られる職業なのだから」と見てくれをもっと気にして欲しいと思っていたのだが、いざ結婚すると二人分の生活費が掛かり、しかも芸人なので給料が乱高下するため、余裕がなくなることがわかったそうである。
5月25日が、しもばやしの誕生日だったため、釣り関係のものをプレゼントしようと上方を集めていたのだが、ライフジャケットは最安値の中国製で重いし暑い、レインコートとは100均のものを使用。人差し指と中指と親指が裸である必要のある釣り用の手袋も軍手を切って代用しているそうで、結局、ハラダは2700円ぐらいの手袋を買ってプレゼントしたそうである。
令和最初の日である5月1日、午前0時前から、大津市役所の前に二人で並び、1時間半ほど待って結婚届を出したのだが、前に30人ほど並んでいたものの誰からも気づかれず、びわ湖放送が令和婚の取材に来ていたものの、やはり見つけてもらえずという状態だったそうだが、入籍する前に先輩方には結婚の報告をしようと電話を入れ、同世代の未婚芸人からは動揺されたりしたそうで、年上の独身芸人である今田耕司からは「嘘つけ!」と言われてすぐ切られるなどいじられたりもしたそうだが、NON STYLE井上からは……、まあ、これはいいか。
相手方の両親や祖父母にもご挨拶し、俳句を詠むのが趣味だという祖父から「原田君めいわ元年(「令和」のことを「めいわ」だと勘違いしていたらしい)五月一日入籍」という字余り俳句(自由律ということにしておこう)をプレゼントされたらしい。

お客さんが選ぶ、トークの題材であるが、例えば「センスが戦後やろ」は、FM滋賀とFM富山共催のスキーツアーイベントの後に行われた懸賞の話。大人のお客さんには抽選でプレゼントが当たるのだが、子ども達には全員に賞品が配られるというシステムで、FM滋賀からは滋賀県から来たツアーの子ども達に、FM富山からは富山県の子ども達にプレゼントが送られる。
滋賀県の子ども達に送られたのは、手のひらサイズのロボット。AI搭載で声に反応したりするそうで、送られた子ども達は目を輝かせていた。一方、富山県の子ども達に送られたのはかりんとう。高級かりんとうではあるのだが、子どもなので高級もなにもよくわからず、「ロボットが良かった」と泣き出す子もいたそうで、ハラダが「センスが戦後やろ」と食糧難の時代のプレゼントに見立てて笑いを取って収めたのだが、ハラダ自身も釈然としないものを感じたようである。
事前にFM局員同士で打ち合わせをしなかったか、打ち合わせをしたが反応を想像出来なかったのか、いずれにせよ折角のイベントで子ども達が不公平を感じる結果になったのは残念に思う。
FM滋賀には、美声で話し方を溜めるのが特徴のDJさんがいるそうで、ハラダが聴いている日に、「次の曲は、『やさしさにつつまれた…なら』」と曲紹介をしたため、ハラダは一瞬、「奈良のご当地ソングがかかるのか?」と思ったそうである。実際は、もちろんユーミンの「やさしさにつつまれたなら」が流れたという話もする。

「定規」という話はお客さんが勘違いしたため、同じ話をハラダが2回やることになった。サウナでプラスチックの30センチ定規を使って垢取りのようなことをしているおっさんがおり、ハラダは「不潔やな」と不快感を覚えていたのだが、そのうちにサウナのテレビで流れていた番組でビッグサイズのカレーパンが紹介され、定規のおっさんは手にしている定規でカレーパンを測ろうとし、ハラダは心の中で「テレビやし離れてるしわかるわけないやろ!」と突っ込んだという話で、ううん、文字にしても面白さが伝わらないな。やっぱりお笑いは劇場に通う必要があるように思う。

「滋賀のアベンジャーズ」は、滋賀県住みます芸人のファミリーレストランが和歌山県住みます芸人と協力して和歌山県へのバスツアーを行った時の話である。滋賀のアベンジャーズと呼ばれた方々は、今日、この会場にいらしていたようである。面白い話なのだが、内容については特定されやすいということもあるため、書かないことにする。

「京のしにせ」は、京都のインストバンド、jizue(ジズー)のメンバーと知り合いになり、iTunesなどで楽曲を聴いて気に入り、「結婚式に使いたい」と申し込んで快諾されるも、バンド名をイズーと間違えて覚えていたため、「イズー」で検索してもヒットせず、「京都 イズー」とSiriに言ったところ、鯖寿司の映像ばかり出てくる。京都の老舗鯖寿司店である「いづう」がヒットしていたという話であった。
jizueはホームページでも楽曲の視聴が出来るが、なかなか面白そうなバンドである。

今年の1月2日は、77歳になるハラダの父親が行方不明になるという出来事があった。毎日2時間ほど散歩する習慣のある人で、正月に芦屋の親戚の家に行ったときも散歩に出掛けたのだが、3時間経っても4時間経っても戻ってこない、父親の携帯も3ヶ月前にいかれてしまったということで連絡が取れず、警察に電話し、警察犬が出るという話にまでなった。ハラダも仕事帰りに駆け付けたのだが、今から警察犬が出ようというときに母親の携帯に知らない電話番号から電話が掛かってきた。タクシーの運転手からで父親も一緒にいるという。父親の携帯は壊れていると思われたのだが、ずっと機内モードになっており、なんらかの拍子に機内モードのボタンを押してしまったが、そもそも機内モードの存在を知らず、壊れてしまったと勘違いしていたようだ。父親は散歩中に道に迷い、「このままでは戻れない」とタクシーを拾ったのだが、親戚宅の正確な住所が思い出せず、近くまではやってこられたものの、そこから先に進めなくなってしまう。そこで運転手が父親のガラケーを確認したところ、機内モードになっていることに気づき、運転手はスマホを使っていてガラケーの機内モードの戻し方はわからないため、父親のガラケーのアドレスに入っている母親の携帯番号に自身のスマホで電話したのだった。
戻ってきた父親は、警察犬が出そうになったという話を聞いて、一人「笑える」と思ったそうだが、家族としては全く笑えなかったという話である。

15個中14個終わったところで時間となったのだが、15個目の「ぶれへんなあ」は短いというので話す。ファミリーレストランがロザンなどと数組で米原に営業に行った時のこと。会場の周りには何もないため、みなゲームなどを持ち込んで楽屋の中で過ごしていたのだが、宇治原がジャケットを着て外に出ようとしたので、「どこ行くん?」と聞くと、「大谷吉継の墓、見に行ってくるわ」と答えたので、「ぶれへんなあ」と思ったという話であった。

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観劇感想精選(303) リーディング・シアター「レイモンド・カーヴァーの世界」兵庫公演2日目 「菓子袋」「収集」&「愛について語るときに我々の語ること」

2019年5月26日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後2時から西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、リーディング・シアター「レイモンド・カーヴァーの世界」を観る。
1980年代に村上春樹が多くの小説を翻訳したことで知られる存在になったレイモンド・カーヴァー(レイ・カーヴァー)。労働者の街で育ち、16歳で結婚。地方大学の大学院を出て大学の文芸創作の教員となるが、アイビーリーグに代表される名門私立大学出身者が大勢を占めるアメリカ文壇では異端視される。短編の名手であり、自身が書いた短編小説を更に短くリライトすることも度々で、小説に関しては「短ければ短いほど良い」というポリシーを持っていたようである。1988年に50歳の若さで死去。日常に潜んだ歪みや波立ちを描き、チェーホフにも例えられた。
1993年にレイモンド・カーヴァーの複数の短編小説で構成されたロバート・アルトマン監督の映画「ショート・カッツ」が制作され、私も観てはいるのだが、正直好きになれなかったのを覚えている。

昨日今日と2日間の公演である。昨日は手塚とおるのリーディングによる「ダンスしないか?」と「もうひとつだけ」、仲村トオルのリーディングによる「コンパートメント」が上演され、今日は矢崎広が「菓子袋」と「収集」を、平田満が「愛について語るときに我々の語ること」を読み上げる。村上春樹翻訳によるテキストを使用。演出は谷賢一。作曲&ピアノ演奏は阿部篤志。

朗読劇は演劇の中でも特別で、演じ手がほとんど動かないため、観る側にも言葉からの想像力と設定を頭に入れつつ追うための記憶力と集中力が必要となる。とはいえ動的な要素がないため面白い上演になる可能性が高いとはいえず、今日も平田満が出るというのに阪急中ホールの1階席は前半分しか埋まっていない。


矢崎広朗読による「菓子袋」と「収集」。矢崎広に関してはよく知らなかったが、なかなか良い俳優であり、引きつけられる。
「菓子袋」は、シカゴ在住の出版社のセールスマンが生まれ故郷であるカリフォルニア州サクラメントの空港で長い間会っていなかった実父に会うという話である。仕事でロサンゼルスに出向き、そのついでにカリフォルニア州の州都であるサクラメントにも寄るという設定なのだが、久しぶりに会った父親は主人公に向かって、かつての浮気の話を打ち明け始める。
その浮気が原因で両親は離婚することになるのだが、主人公は詳しいいきさつは知らされておらず、親の性的な面を詳しく知りたいと思う人は余りいない、ということで久しぶりの再会にも関わらず親子の隙間はむしろ広がることになり、父親が主人公の妻と娘のためにとくれた菓子袋も空港に置き忘れてきてしまうが、特に惜しいとも思わない。
歩み寄ろうとして却って傷口を広げてしまう人間存在の愚かしさが告発調でなく描かれているという、カーヴァーらしい作品である。


「収集」の主人公は失業中であり、雨の日に自宅で北から来る手紙を待っている。ところがやって来たのは郵便配達夫ではなく、奇妙な老人。以前に住んでいた人が懸賞に当たったということで、無料での掃除サービスを行い始める。主人公は一種の押し売りかと思ったのだが、そうでもないらしい。老人は「体の一部が毎日落ちていっている」ということで、その体の一部の染みこんだ枕だのカーペットだのを掃除していく。

どうやら老人は「過去」を収集しているようであるが、主人公が特に重要だと思う過去でもないため、結局、なにがなんだかわからないまま二人は別れることになる。
これは過去に限らないのだが、忘れてしまったものの中に、あるいは特に重要視されていないものの中に、実は大切な何かが潜んでいる可能性があり、にも関わらず気にとめていないという日常の死角が示されているようにも思える。
ひょっとしたら致命的な何かが起こっているのかも知れないが、知覚出来ないという不気味さ。こうした捉え方とすると、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」にも繋がるように思う。


平田満の朗読による「愛について語るときに我々の語ること」。二組のカップルによる会話を描いた小説である。
語り手の「僕」とローラは付き合い始めてそれほど時間が経っていない。一方、医師であるメルと妻のテリは夫婦だが共にバツイチ。テリは前夫のエドからDVを受けていたが、それは愛ゆえだとの確信を語り、メルは否定する。メルは精神的な愛について語るのだが、実は別れた前妻とその再婚相手のために多額の資金援助をする羽目になっており、前妻を愛したかつての自分の鑑識眼について疑いを持っていた。

自身が理想とする精神的な愛に裏切られ、否定すべき暴力的愛にすら勝てない悲惨な人間像が描かれているのだが、カーヴァーの特徴として感傷的な要素は極力排されている。


終演後に、谷賢一、平田満、矢崎広によるアフタートークがある。村上春樹による直訳的な翻訳についても語られたのだが(谷賢一は翻訳家でもある)、これらの作品は日常の些細なズレなどを描いており、翻訳者の体と心を通した翻訳ではそうした要素が伝わりにくくなってしまうために敢えて素材の文章に余り手を加えずに訳しているのではないかと私は想像するのだが、カーヴァーの小説を英語で読んだことはないため、仮説とせざるを得ない。
平田満は、「僕が配役されるとしたらエドだろうな」と語り、やはり駄目で一途で人間くさい男をやりたいようである。矢崎は配役されるとしたら「僕」ではないかと平田は言うのだが、確かにそんな感じではある。

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2019年6月12日 (水)

コンサートの記(562) ムジークフェストなら2019 ウィーン少年合唱団来日公演

2019年5月31日 奈良県文化会館国際ホールにて

奈良へ。午後7時から奈良公園の北にある奈良県文化会館国際ホールで、ムジークフェストなら2019 ウィーン少年合唱団来日公演を聴く。

1498年創設のウィーン少年合唱団。現在は、ウィーンゆかりの4人の作曲家にちなみ、ハイドン組、モーツァルト組、シューベルト組、ブルックナー組(このうち、ハイドンとシューベルトはウィーン少年合唱団のメンバーであった)の4組に分かれて活動しており、昨年は京都にハイドン組のメンバーがやって来たが、今回はブルックナー組が来日して各所でコンサートを行う。カペルマイスターはマノロ・カニン。

奈良県文化会館は、今年の1月に耐震強度の不足が指摘され、キャンセルも多いそうだが、国際ホールは倒壊の恐れはなく、耐震性不足とされた楽屋部分などを随時補修していく計画のようである。

曲目は、第1部が、オルフのカンタータ「カルミナ・ブラーナ」より“おお、運命の女神よ(運命の女神の歌)”、ヴィアダーナの「正しき者よ、王によって喜べ」、メンデルスゾーンの「羊飼いはよみがえられた」、ハイドンのオラトリオ「天地創造」より“天の神の栄光を語り”、ブラームスの3つの宗教合唱曲より「喜ばしき天の女王」、ブラームスの詩篇13番、ゲーリンガーの「死と愛」、バンキエーリの「3声のカプリース」「動物たちの対位法」。第2部が、ピアソラの「リベルタンゴ」、ディ・カプア/マッズッキの「オー・ソレ・ミオ」、ロジャーズの映画「サウンド・オブ・ミュージック」より“ひとりぼっちの羊飼い”と“エーデルワイス”、瀧廉太郎の「荒城の月」、上皇后陛下御作詞の「ねむの木の子守歌」、岡野貞一の「ふるさと」、ヴィルトの「Peace Within(内なる平和)」、オーストリア民謡「納屋の大戸」、ヴンシュの「今日、天使たちがウィーンにやってくる」、ヨーゼフ・シュトラウスの「水平のポルカ」、ヨハン・シュトラウスⅡ世の「雷鳴と稲妻」、ヨハン・シュトラウスⅡ世の「美しく青きドナウ」

奈良県文化会館国際ホールは改修によって壁や床が吉野杉の木目に改まっているが多目的ホールであり、今回のような中編成の少年合唱団では迫力に欠ける気もするが、ウィーン少年合唱団の美声はよく通り、カペルマイスターであるマノロ・カニンのエンターテインメント性に溢れる展開もあって楽しいコンサートとなる。

そのマノロ・カニンはテキストを手に日本語で長いスピーチを行い(「この5月から令和の新しい時代となりました。おめでとうございます」など)、客席から喝采を受ける。ウィーン少年合唱団もテキストを手に楽曲紹介を行ったり、中には日本語を暗記してスピーチを行う子もいる。日本人のメンバーも2人おり、その中の背は低いが利発そうな顔をした子が大人びたスピーチを行って客席を感心させたりしていた。
「ひとりぼっちの羊飼い」(チラシの背面に書かれたプログラムには載っていなかったため、急遽追加になった曲なのかも知れない)ではメンバーの一人がカニンに代わってピアノ伴奏を担当。「納屋の大戸」ではメンバーがクロマティック・アコーディオンやコルネットを演奏して、手回しオルガンやポストホルンを真似た音を作り、ウィーン情緒を演出する。
「動物たちの対位法」では、メンバーが犬や羊の鳴き声を模倣。少年合唱団だからこそ面白さや愛らしさが引き立つ曲が選ばれており、プログラミングも巧みである。
一方、ヴィルトの「Peace Within(内なる平和)」は現代音楽であり、「少年合唱団だから楽しければいい」という、いい加減な選曲でないこともわかる。


アンコールは3曲。まず「サウンド・オブ・ミュージック」より“ドレミの歌”が冒頭のセリフと演技入りで歌われる。

2曲目は菅野よう子の「花は咲く」。日本公演のために選ばれた曲である。清らかな声によって惻々とした思いと希望が歌われた。

最後はヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」。中央の少年が手拍子の指示を行い、大喝采のうちにコンサートは終了した。

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2019年6月10日 (月)

コンサートの記(561) シャルル・デュトワ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第528回定期演奏会1日目&2日目

5月23日と24日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

5月23日

午後7時から、大阪・中之島のフェルティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第528回定期演奏会を聴く。今回の指揮者はシャルル・デュトワ。現在、NHK交響楽団の名誉音楽監督の称号を得ているが、例の騒動によって恒例になっていたNHK交響楽団の12月定期への出演などが流れ、結果として大フィルへの客演が実現したのだと思われる。

シャルル・デュトワは1936年生まれ。ズービン・メータやエリアフ・インバルと同い年となり、この年は指揮者の当たり年のようだ。小澤征爾は1935年生まれで1つ年上、ネーメ・ヤルヴィが1937年生まれで1つ年下という世代である。
スイス・フランス語圏のローザンヌで生まれ育ち、生地とジュネーヴの音楽院でアンセルメらに学ぶ。タングルウッド音楽祭ではシャルル・ミュンシュにも師事している。1964年にベルン交響楽団を指揮してデビュー。ヘルベルト・フォン・カラヤンに認められ、ウィーン国立歌劇場のバレエ専属指揮者に指名されるが、コンサート指揮者になりたいという希望があったため断っている。
1970年に読売日本交響楽団を指揮して日本デビュー。会場は当時のフェスティバルホールであり、聴衆からも楽団員からも極めて高い評価を受けている。
1977年にモントリオール交響楽団の音楽監督に就任。当初はさほど期待されていなかったようだが、瞬く間に同交響楽団を世界レベルにまで押し上げて関係者をあっといわせる。1996年にNHK交響楽団の常任指揮者に就任。1998年には初代音楽監督に昇進し、2003年まで務めている。1991年から2001年まではフランス国立管弦楽団の音楽監督も兼務し、北米、アジア、ヨーロッパの三大陸にポストを持つなど多忙を極めた。1996年のゴールデンウィークにフランス国立管弦楽団を率いてサントリーホールで公演を行っているが、それが私にとって初の来日オーケストラに接する機会となった。

 

演目は、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲、ベルリオーズの幻想交響曲。デュトワの十八番を並べたプログラムとなっている。
デュトワ指揮の「ダフニスとクロエ」は、NHK交響楽団の定期演奏会で全曲を聴いている。上演中に震度3の地震が起こったことでも思い出深い演奏会である。

 

今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。第2ヴァイオリンは今日も客演を含めて全員女性奏者となっている。

 

ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」。フェルティバルホールという大型の空間であるため、祝祭的な爆発感は感じにくかったが、音の色彩感と縁取りの鮮やかさが見事な演奏である。

 

ラヴィルの「ダフニスとクロエ」第2組曲は、今日一番の出来と思えるハイレベルな演奏。上品だが痛切な音が奏でられ、音楽というものが確実に皮膚から染みこんでくる。
私にとって音楽はなくてはならないものだと確認出来ると同時に、世界にとって必要なものであると確信することが出来た。
「ダフニスとクロエ」第2組曲はオーケストラだけの演奏でも可能だが、今回は合唱入りでの演奏。大阪フィルハーモニー合唱団が美しい声を届ける。
「全員の踊り」のラストの高揚感も流石であった。

 

メインであるベルリオーズの幻想交響曲。基本的にデュトワの演奏はエスプリ・クルトワ路線であり、エスプリ・ゴーロワではない。ということでおどろおどろしさや狂的な要素を表に出すことは余りない(1階席20列45番という席で、直接音が余り届かなかったということもそう感じさせる要因だろうが)が、音に宿るドラマと生命力の表出は見事。フランス音楽のスペシャリストとしての全世界に名を轟かせたデュトワの実力は並みではない。

客席は最初の「ローマの謝肉祭」演奏終了後から爆発的に盛り上がり、「ダフニスとクロエ」第2組曲演奏終了後は、客席が明るくなっても拍手が鳴り続けてデュトワが再登場。幻想交響曲演奏終了後も「ブラボー!」が各所から聞こえ、最後はデュトワがお馴染みとなった「バイバイ」の仕草を行って、演奏会はお開きとなった。

 

5月24日

今日も午後7時からフェスティバルホールでシャルル・デュトワ指揮の大阪フィルハーモニー管弦楽団の第528回定期演奏会を聴く。

今日も1階20列目だが、52番という右端の席。すぐそこが壁であり、反射が良いので音の輪郭がクッキリと聞こえる。そのため、音の迫力がわかり、序曲「ローマの謝肉祭」の狂騒がよりはっきりと把握出来る。一方で、「ダフニスとクロエ」第2組曲では音がはっきりしてるため、昨日に比べると神秘的な雰囲気は感じにくいかも知れない。全てが理想的な席というのはなかなかないものである。

幻想交響曲では、デュトワはアゴーギクを多用。即興性もあり、いつものデュトワとはちょっと違う演奏である。音にはステージの底から沸き起こってくるような迫力があり、昨日感じた蒸留水的な美しさとは少し異なる印象を受けた。今日の演奏の方が私の好みに合っている。

今日は演奏終了後にバンダの鐘奏者を紹介したデュトワ。第2ヴァイオリンの女性奏者が感激の表情を浮かべており、大フィル初登場は大成功であった。

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2019年6月 9日 (日)

コンサートの記(560) カーチュン・ウォン指揮 京都市交響楽団第634回定期演奏会

2019年5月18日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第634回定期演奏会を聴く。今日の指揮はシンガポール出身の若手、カーチュン・ウォン。

曲目は、吉松隆の「鳥は静かに…」、シベリウスのヴァイオリン協奏曲ニ短調(ヴァイオリン独奏:ラグンヒル・ヘムシング)、フランクの交響曲ニ短調。

午後2時から、カーチュン・ウォンによるプレトークがある。カーチュン・ウォンのトークは日本語を交えたり、旋律を口ずさんだりするもので、才気が感じられる。
「シンガポール出身ですが、ニュルンベルク交響楽団の首席指揮者をしています」と自己紹介する。

カーチュン・ウォンは、1986年、シンガポール生まれの指揮者。シンガポール国立大学ヨン・シュトウ音楽院で作曲を、ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学で指揮を学ぶ。2016年に第5回グスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝して注目を浴びるようになっている。
クルト・マズア、グスターボ・ドゥダメル、ベルナルト・ハイティンク、ハインツ・ホリガー、エサ=ペッカ・サロネンらの薫陶を受け、コンクール優勝後は急病のヘスス・ロペス=コボスの代役として中国フィルハーモニー管弦楽団、上海交響楽団、広州交響楽団の指揮台に立ち、ロサンゼルス・フィルハーモニックのドゥダメルのフェローとして指名され、昨年9月にニュルンベルク交響楽団の首席指揮者に就任している。

ウォンによると指揮者コンクール優勝前から仕事をいただいていたのが日本のオーケストラだったそうで、新日本フィルハーモニー交響楽団、東京交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団、大阪交響楽団、広島交響楽団、九州交響楽団を指揮した経験があり、最近は東京佼成ウィンドオーケストラを始めとする吹奏楽団とも多くの仕事をしている。

今回の演奏会では、吉松隆の「鳥は静かに…」とシベリウスのヴァイオリン協奏曲ニ短調が連続して演奏される。鳥を愛する吉松隆と白鳥などからインスピレーションを受けたシベリウスの「鳥繋がり」で選ばれた曲なのだが、「鳥は静かに…」の最後の和音からシベリウスのヴァイオリン協奏曲の最初の弦の刻みの音の響きへの移行に意味があるそうである。

シベリウスのヴァイオリン協奏曲と同じ調性であるフランクの交響曲ニ短調であるが、今から40年ほど前にはよく演奏されたものの、ここ20年ほどは演奏される回数が減ってしまっているとウォンは述べる。
京都市交響楽団は比較的良くフランクの交響曲を取り上げているが、録音に限ると、21世紀に入ってからはこれといったものが出ていない。40年ほど前には、当時の両巨頭であるカラヤンとバーンスタインが共にフランスのオーケストラを指揮して名盤を生み出しているのだが、20世紀終盤にはフランス人指揮者の才能払底が叫ばれるようになっており、今、世界的に活躍しているフランス人指揮者は、ベルトラン・ドゥ・ビリーやパスカル・ロフェなど数人だけ、また録音不況でもあり、90年代にシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団の録音が高く評価されたのを最後にフランクの交響曲の録音が減ってしまっている。サー・サイモン・ラトルなどはフランスものを得意としているが、フランクは録音していないはずである。
フランクの交響曲はフランスを代表する交響曲と見なされることが多いが、ウォンはむしろブルックナーとの共通点に注目して欲しいと語った。

今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。今日も客演首席チェロ奏者としてNHK交響楽団の藤森亮一が入る。第2ヴァイオリン首席は客演の山﨑千晶。ヴィオラのトップには店村眞積。テューバには客演の川浪浩一。今日は木管の首席指揮者はフランクのみの出演である。
ヴァイオリン両翼、コントラバスはステージ最後部に横一列に並ぶという、古典配置の中でも最も古い形での演奏となる。

 

吉松隆の「鳥は静かに」。弦楽のための繊細な曲である。シベリウスのヴァイオリン協奏曲と連続して演奏されるため、管楽器奏者もスタンバイしての演奏である。
今日は全曲暗譜で指揮するウォンは、透明で緻密な弦の音を引き出し、静謐の美を生む。

シベリウスのヴァイオリン協奏曲ニ短調。独奏のラグンヒル・ヘムシングはソロが始まる直前に下手袖に現れ、弾きながらステージ中央へと歩み寄る。
ラグンヒル・ヘムシングは、1988年生まれのノルウェーのヴァイオリニスト。ノルウェーの民族音楽に親しみながら育ち、今も民族音楽とクラシック音楽の両方で活躍している。
5歳でヴァイオリンを始め、オスロのバラット・ドゥーエ音楽院に学び、ウィーンに留学してクシュニールに師事している。14歳でグリーグの街のあるベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団にデビューし、翌年にはオスロ・フィルハーモニー管弦楽団とも共演を果たした。
そのヘムシングのヴァイオリンであるが、スケールがかなり大きい。音色が比較的ドライなのも特徴である。第1楽章後半になると磨き抜かれた音も出すが、素朴な音も生み出せるのが特徴といえそうだ。
ウォンの指揮する京響であるが、極めてクリアな伴奏を聴かせる。従来のシベリウスのヴァイオリン協奏曲とは明らかに異なる伴奏である。

 

ヘムシングは、アンコールとしてノルウェーの民謡「Springar」&「Halling」を奏でる。演奏前のヴァイオリンの説明。糸巻きが5つほどもある独特のヴァイオリンであり、調弦もクラシックのヴァイオリンとは異なるようである。
ヘムシングは足踏みを加えながらの演奏。ノルウェーの民謡であるが、日本でも人気のあるアイルランドの民族音楽にも通じるものがあるような気がした。

 

フランクの交響曲ニ短調。特筆事項の多い秀演である。
とにかく全てのパートが明確に浮かび上がる。従来の演奏だったら溶け合う部分もはっきりと分離しており、音が細やかに立体として聞こえてくる。第3楽章での強奏の部分であってもそれが変わることがない。
暗譜ということでオーケストラのメンバーを確認するのではなく上方を見つめて指揮することもあるカーチュン・ウォン。デジタルな感性で音楽を組み立てていく指揮者だ。
これは面白い指揮者を見つけてしまった。
京都市交響楽団も燦々と輝くような音色と力強さでウォンの指揮に応え、演奏終了後、聴衆は沸き、「ブラボー!」が連呼された。

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2019年6月 8日 (土)

コンサートの記(559) 「東儀秀樹 雅楽&コンサート ゲストにチェリスト溝口肇を迎えて」@ロームシアター京都

2019年5月9日 ロームシアター京都メインホールにて

午後6時30分からロームシアター京都メインホールで、「東儀秀樹 雅楽&コンサート ゲストにチェリスト溝口肇を迎えて」を聴く。

雅楽師の東儀秀樹による、前半は雅楽の公演、後半はスペシャル・コンサートというプログラムである。

曲目は、第1部の「東儀秀樹による雅楽公演」が、神楽「朝倉音取(あさくらのねとり)」、管弦「越天楽」、管弦「陪臚(ばいろ)」、舞楽「納曾利(なそり)」。第2部の「東儀秀樹と溝口肇によるスペシャル・コンサート」が、「Fly Me To The Moon」、「浜辺の歌」、東儀秀樹のオリジナルである「君の夢を守りたい」、「枯葉」、溝口肇のソロによる「鳥の歌」、溝口肇のオリジナルである「ミスターロンリー」(TOKYOFMテーマ)、溝口肇の「世界の車窓から」、ピアソラの「リベルタンゴ」

客席はお年寄りが多い。

 

まず、東儀秀樹の篳篥ソロによる「朝倉音取」。東儀秀樹は狩衣姿で演奏しながら客席上手のドアから登場し、中央通路を通って舞台に上がる。「朝倉音取」は、本来は人間ではなく、神々にだけ聴かせる曲だそうである。

2曲目のお馴染み「越天楽」。この曲では東儀秀樹は篳篥ではなく鞨鼓(かっこ)を演奏する。太鼓:多田泰大、鉦鼓:矢田浩子、笙:中村華子、篳篥:須崎時彦、龍笛:〆野護元、琵琶:安達圭花、箏:中村香奈子。
雅楽の中でも最も有名な曲であり、正月には神社でこの音楽が掛かっていることも多い。雅楽は西洋音楽とは違い、音を合わせてはいけないため(同時に打つのは相手に失礼になると考えるため)あうんの呼吸による絶妙のずれと揺らぎを楽しむことになる。ということで、雅楽は西洋音楽より即興性が強くなると思われる。「越天楽」は同じメロディーが繰り返されるミニマルのような音楽であるが、同じ演奏は二度と出来ないのだと思われる。

「越天楽」演奏終了後に、東儀秀樹がマイクを手に解説を行う。「皆様、雅楽というと堅苦しいものを思い浮かべるかも知れませんが、ご覧になった通り、とっても堅苦しいものです」と言って笑いを取る。
「雅楽については余り詳しい方はいらっしゃらなくて、大抵の人は、『神社のあれでしょ?』となる。『あれ』って言い方はないと思いますが」「雅楽は1400年前に仏教の音楽として日本に入ってきたわけで、当時は『お寺のあれ』だったわけです」と言ってまた笑いを誘っていた。
管弦「陪臚」は聖徳太子が好んだ曲という伝承がある。6拍子で描かれており、唐招提寺の4月8日に仏誕会には必ず演奏されるそうで、754年の大仏開眼の時に演奏されたという言い伝えがある。ちなみに736年にインドの僧が日本に伝えた曲とされており、聖徳太子のいた時代とは合わず、聖徳太子云々はあくまで伝説のようだ。

舞楽「納曾利」では、横山玲子と正木友美による舞がある。双龍の舞であり、舞人は龍の面をつけている。演奏は、篳篥:須崎時彦&矢田浩子、高麗笛:〆野護元&中村香奈子、鞨鼓:多田泰大、太鼓:中村華子、鉦鼓:安達圭花。
今日は1階席の20列目で、それほど前の方ではないが、迫力は伝わってくる。

 

第2部「東儀秀樹と溝口肇によるスペシャル・コンサート」。バックバンドは、ピアノ:松本圭司、ベース:田中晋吾、ドラム:天倉正敬。
東儀は黒のジャケットで登場。「Fly Me To The Moon」演奏後、「第1部に出てきた東儀秀樹によく似ていると言われるんですが、同一人物です」「『(篳篥で)そんなこと可能なんですか?』『怒れませんか?』と言われたりしますが、才能があるもんで出来ちゃうんです」とお馴染みのナルシシストキャラを発揮するも「お客さんの反応が悪い」「笑ってくれないととんでもないことを言っていることになる」と語っていた。

東儀は、「日本の抒情曲が好き」だそうで、特に日本語の美しさが伝わってくる歌詞が好きなのだが(東儀「この感覚は皆さんにもおわかりいただけると思います。見たところお若い方がいないので」)、最近の小学校の音楽の教科書には抒情曲が載らなくなってきており、その理由が「歌詞が難しくて子どものはわかりにくい」という理由を知って、「穏やかな口調で話しておりますが、憤っております」と話した。日本の抒情曲の中で特に好きだという「浜辺の歌」を演奏される。

「枯葉」では東儀は途中で松本に替わってピアノソロを受け持ったりする。

その後、ゲストの溝口肇が登場する。東儀秀樹はここでいったん退場。
溝口が愛用しているチェロには「アンジェラ」という名前がついているそうで、溝口は「メンバー紹介」と称してまず、「アンジェラです」と言う。
楽器についている愛称は、貴族が所有していた時代につけられたものが多く、例えば高嶋ちさ子のヴァイオリンについている「ルーシー」という名称は貴族によってかってつけられたものだそうだが、溝口のチェロには名前がついていなかった。そこで、友人が名前をつけてくれたそうだ。
演奏曲であるカタロニア民謡「鳥の歌」。溝口は子供の頃にパブロ・カザルスが国連でこの曲を演奏するのを聴いて感動したと語る。「ピース、ピース」と鳴く鳥の声の録音を流した中でのチェロ独奏である。

「ミスターロンリー」。この曲は約15年に渡って「ジェットストリーム」のオープニングテーマだったのだが、今では別の人に取られてしまったそうで、溝口はエンディングテーマのみを担当しているそうである。

「世界の車窓から」。ここで東儀秀樹が再び登場する。
溝口は昨年の誕生日には東儀から篳篥をプレゼントされたそうだが、「才能がないので」ものに出来なかった。悔しいというので、ヤフオク!で笙を購入して、今はそちらを練習しているようである。というわけで冒頭は溝口が笙を吹く。東儀も負けじと笙を吹いて二つの笙がハーモニーを造る。その後、溝口のチェロで「世界の車窓から」がスタート。CMで流れているものは15秒だけだそうだが、今日はそれより4分ほど長い全曲版演奏である。東儀も途中から篳篥に持ち替えての演奏を行う。

プログラムの最後は「リベルタンゴ」。篳篥と笙を吹いた東儀秀樹は、篳篥によるラストの音を思いっ切り伸ばすという外連で喝采を受ける。

 

アンコールとして演奏されたのはピアノの松本圭司の編曲によるというビートルズナンバーの「Yesterday」。雅やかさと無常観の入り交じった演奏となる。

雅楽の楽器の音色は陰影が豊かというべきか濃淡が鮮やかというべきか、明と暗が瞬時にして入れ替わったり同居していたりするのが特徴である。笙などは特にそうだが、篳篥も西洋楽器に比べると光と闇が共に豊穣な音色を宿していることがわかった。

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2019年6月 5日 (水)

真宗大谷派山城2組 仏教市民講座「生きる」2019.5.15@池坊短期大学

2019年5月15日 四条室町の池坊短期大学にて

午後7時から室町四条下ルの池坊短期大学で、真宗大谷派山城2組(そ)主催の仏教市民講座「生きる」に参加。洗心館6階の第1会議室での講演である。今日の話し手は岐阜県大垣市にある医療法人徳養会沼口医院の院長で真宗大谷派の僧侶でもある沼口諭。

今は寿命が延び、ほとんどのお年寄りが病院で亡くなるという時代である。平均寿命は84歳になったが、健康寿命は男性で8歳ちょっと、女性で12歳と少し短い。「健康なまま、ある日ぽっくり死にたい」という理想を持っている人は8割に上るのだが、実際にそうした往生が叶う人は1割ほどしかいないということで、大半の人は不自由な生活と向き合わねばならなくなる。西洋にはそうした場合、チャプレンという宗教者が病院にいて患者と接するのだが、日本にはそうした人はいない。東日本大震災後、「それはおかしいんじゃないか」と声が起こったそうで、臨床宗教師という資格が生まれ、沼口もそうした人を採用しているそうである。

癌と向き合う様々なケースが語られたのだが、京都シネマで「がんになる前に知っておくこと」を観たことがこんなところで生きる。話の内容をより確実に理解することが出来た。弥陀のお導きなのか否か。

60歳の女性は癌になり、ずっと愛知県のがんセンターまで通って抗がん剤の治療を受けてきたのだが、余り良くならないし、先もそう長くない。思い残したことといえば夫と旅行に行けなかったこと。旅行に行く場合、抗がん剤の治療をやめる必要があったようだが、「やめる」という手段もありだそうで、最終的にはやめる決断をする。ところが体調が思いのほか良くならず、旅行が行けるまでには回復しない。そこで病室で折り鶴アートを提案され、折り鶴を亡くなるまで折り続けたそうだ。彼女が折った鶴は今も病院内に形を変えてアートとして飾られているそうである。

昔は若い人がかなり多く死んだ。例えば1920年前後にはスペイン風邪の流行で若い人がバタバタと亡くなるという出来事があったのだが、今は17歳以下で亡くなる人はとても少ない。お年寄りが病院にいて死ぬのを待っているというケースも多いのだが、お年寄りなので信心深い。ということでお内仏にお祈りがしたいという希望を持つ人も多いのだが、これまでの病院ではそれは叶わなかった。希望が通らないという状況ではまずいということで、最近の病院ではそうした要望に応えられるようになってきているそうである。また、入院していると一人になる場所がない。トイレの個室ぐらいしかないのだが、そこでしか一人の時間を持てないというのは精神的に貧しいことだろうというので、沼口の病院には「瞑想室」という一人だけのスペースが設けられており、一人だけの時間が確保出来るようになっているそうだ。「瞑想室」と名付けたが、瞑想をするための部屋ではなく、あくまで一人きりになれる場所を「瞑想室」呼んでいるだけのことである。

これまで肉体面や心理的なケアはなされてきたが、内面世界に関することはおざなりになっており、これからはそうしたスピリチュアル面でのケアが重要になってくるようである。

仏教的な因果を医学面から見ると、因が病気で果が死でしかないが、そうしたスピリチュアル的なケア、真宗的な解釈によると、果は様々なことへの「目覚め」となるようである。

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2019年6月 4日 (火)

観劇感想精選(302) 日本ポーランド国交樹立100周年記念公演 ヤネック・ツルコフスキ 「マルガレーテ」

2019年5月20日 ロームシアター京都ノースホールにて観劇

午後7時からロームシアター京都ノースホールで、ヤネック・ツルコフスキの「マルガレーテ」を観る。日本ポーランド国交樹立100周年記念公演。

ヤネック・ツルコフスキは、ポーランド西部のシュチェンにある劇場Kana Theatre Centreの企画にも携わる演出家。ニューヨークの演劇フェスティバル「アンダー・ザ・レイダー・フェスティバル」に招聘されるなど、欧米を中心に活動している。日本で公演を行うのはこれが初めて。

「マルガレーテ」は今から10年前に初演された作品。小さなスクリーンに映像が投影され、観客も1回25名までという少人数での上演が行われる。ツルコフスキが英語で喋り、大庭裕介(カンパニーデラシネラ)が日本語吹き替えを行う。プライベートな雰囲気を生み出す上演時間約1時間の作品である。

ツルコフスキが、蚤の市で8ミリフィルムと映写機を手に入れる。価格は日本円で2500円という安さであった。そのフィルムに映っている一人の老女。フィルムを収める箱に記された文字から、彼女の名前が「マルガレーテ」であることがわかる。ドイツのヴォルガストという街の住所も記されている。マルガレーテの苗字はルーベといい、ドイツ人らしくないがはっきりしたことはわからない。

特にどうということもない映像が流れる。彼女は歩き、旧東ドイツ国内や旧ユーゴスラビア、当時はソ連の首都だったモスクワや映画「戦艦ポチョムキン」で有名なオデッサの大階段などに友人と旅行に出掛ける。撮影者の正体は不明。ツルコフスキはヴォルガストが原発に近い街であることから、撮影者は西側のスパイで、ヴォルガストの街を撮っているふりをして実は原発の情報も密かに撮影し、確実なものは西側に送ったと……、というのはあくまでツルコフスキの妄想である。そもそも世界を揺るがすような出来事が偶然手にしたフィルムに映っているなどということは、まずあり得ない。
ツルコフスキは、フィルムから何かを手に入れようと、気になった部分を探ってみるのだが、実は重要な部分はツルコフスキが気になった部分とは別のところに映っていたことが後にわかる。
今はインターネットの時代ということで、ヴォルガストの住所をグーグルマップで検索するなどしているうちに、マルガレーテの現在の居場所が判明する……。

マルガレーテは、ヴォルガストの薬局に勤めていた女性で、双子の姉がおり、長生きでツルコフスキと出会った時には99歳。2度目に出会った時に100歳の誕生日を迎えている。
彼女はラトヴィア出身だった。

フィルムは思い出のために撮ったもので、旅行から帰った時には、親族でささやかな上映会も開いたそうだ。
映っているもの自体は平凡なものなのだが、マルガレーテと彼女が映った映像を見たものにとっては、それは特別なものとなっていく。一人の老女のささやかな歴史に向かい合うことは、実はスパイ映画などよりもドラマティックなのだ。
実は、マルガレーテのフィルムに映っていた当時7歳ぐらいの少年から1か月程前にコンタクトがあり、ツルコフスキは会ったそうだ。彼もインターネットでマルガレーテのことを検索して映画になっていることがわかり、連絡をくれたそうである。本来は埋もれるはずだったフィルムからこうした広がりが生まれているというのも素敵なことだと思う。

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2019年6月 2日 (日)

コンサートの記(558) 「ラージャスターンの風2019」砂漠の街の4人の楽士 京都公演

2019年5月17日 南禅寺前の京都市国際交流会館イベントホールにて

午後6時30分から、京都市国際交流会館イベントホールで「ラージャスターンの風2019」砂漠の街の4人の楽士 京都公演を聴く。Jaisalmer Beatsによるインド音楽の演奏会。
インド西北部のラージャスターン州のジャイサルメールに住む4人のミュージシャンが結成したJaisalmer Beats。マーンガニヤールという階級に属しているそうだが、このマーンガニヤールというのはイスラム教徒でありながらヒンドゥー教の王族に仕えてきた音楽カーストのことだそうである。このカーストに生まれたら音楽家以外にはなれないそうだ。
出演はサリム・カーンとケテ・カーンの兄弟、ビルバル・カーン、サワイ・カーンの4人。
ダンサーとして日本への招聘社であるmadhuと、大阪在住のラージャスターンダンサーであるNalikaと彼女のダンスグループの弟子であるEriとToki、更に千葉市出身のバーンスリー奏者である寺原太郎も2曲に参加する。
使われる楽器は、カスタネットのようなカルタール、演奏する3本の弦と共鳴する7本の弦を持つ7本の弦からなるカマイチャー、両面太鼓のドーラク、口琴のモールチャン、手ふいごオルガンのハルモニウム、一弦楽器のパパン、壺状の打楽器であるマトゥーカなど。

個人的には邦楽も含む民族音楽も好きなのだが、生で聴く機会は余りないので貴重である。

マーンガニヤールは、結婚式などのお目出度い場所で演奏を行うことも多いようで、全体的に高揚感のある音楽が多い。こうした音楽は耳と頭で聴くのではなく体全体で感じるべきものであり、オーディエンスも手拍子を行うなど、自発的に、ある意味参加して音楽を味わっている。
音楽の捉え方も西洋とは異なっており、リズムが中心である。旋律は区別がつかないか、区別がついたとしてもそれほど重要視されてはおらず、楽器そのものの音と声に込められたソウルに重点が置かれている。ある意味、物語的ではない音楽である。

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2019年6月 1日 (土)

2346月日(12) 京都国立博物館 「特別展 時宗二祖上人七百年御遠忌記念 国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」

2019年5月21日 京都国立博物館にて

東山七条にある京都国立博物館平成知新館で、「特別展 時宗二祖上人七百年御遠忌記念 国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」を観る。

盆踊りの元になったとも伝わる踊り念仏で知られる一遍智真。浄土系仏教である時宗の祖である。時宗自体は一遍が著作を残さなかったり寺院での布教を重視しなかったということもあって、鎌倉新仏教の中ではマイナーな方であるが、室町幕府に仕えた同朋衆といわれる芸術集団は時宗の信徒たちであり、その思想は日本文化の中に溶け込んでいる。

一遍の生涯を描いた「一遍聖絵」は、一般的には「一遍上人絵伝」の名で知られるが、一遍の死の10年ほど後に画僧の円伊(とその弟子達)によって描かれており、他の宗祖達の絵伝などに比べると、まだ当人の記憶が人々の記憶に鮮明に残っているうちに描かれたというのが特徴である。そのためかどうか、一遍の姿は神格化されてはいない。

実のところ、円伊の生涯についてはよくわかっていないようだ。

今回の一遍聖絵の展示は、円伊が描いた本物と竹内雅隆が明治の終わりから大正時代にかけて一遍聖絵を模写したものが交互の並ぶという形で行われる。現在は後期の展示となっており、第1巻第1段が竹内雅隆のもの、第1巻第2段、3段が、4段が円伊のものである。その後も、第2巻第1段2段が竹内雅隆、第2巻第3段4段が円伊といった具合だ。ガラスケース上方の壁には円伊による一遍聖絵のパネルが並んでおり、竹内雅隆のものと円伊のものを見比べることも出来る。

一遍聖絵の特徴は、かなりの高所から俯瞰図として描かれていることである。風景画にならよくある手法だが、これは時宗開祖一遍を讃える絵なのである。なのに一遍の姿はかなり小さく、どこにいるのかわからない場面もある。主人公が小さく描かれた絵伝というのも異色である。
円伊がなぜ、こうした視座を取り入れたのかはわからないが、あるいは阿弥陀仏が見た一遍という視点なのだろうか。単純だが、絵伝は単純でわかりやすいことが生命線でもあり、誰でも思いつくようなことが正解に近いとも思われる。

俯瞰図であるため、広範囲を見渡すことが出来るようになっており、一遍が訪れた神社や寺院、往事の人々の姿が生き生きと鮮やかに描かれており、宗教画としてよりも絵画的要素や史料的な面の方が価値が高いのではないかと思われる。
時宗は念仏によってそれを信じない人をも救うと考える宗派である。救われる人々がある意味では主人公であり、市井の人々が一遍と同等に描かれていることは、あるいはそれを表しているのかも知れない。

 

同じ浄土系宗派の開祖であっても、生涯に二度ほどしか神社に参拝した記録がない親鸞とは違い、一遍は日本各地の神社に参拝して縁を結んでいる。日本各地を歩き回り、踊り念仏を広めた一遍であるが、過労気味となり、51歳という宗教者としては比較的若い年齢で他界している。
一遍亡き後、急速に衰えた時宗は真教(他阿)らによって再興される。真教を描いた遊行上人の縁起絵も展示されているが、一遍聖絵とは違い、少し上から姿が大きく描写されている。こちらの方が一般的で、一遍聖絵の方が特殊である。一遍上人自体が日本宗教史の中でも特殊な存在であるが、その死後わずか10年で円伊がそれを見抜いていたのかどうか。

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