カテゴリー「2346月日」の11件の記事

2019年3月26日 (火)

2346月日(11) 京都文化博物館 「北野天満宮 信仰と名宝」

2019年3月19日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で「北野天満宮 信仰と名宝」を観る。
天満宮の総社である北野天満宮。その祭神である菅原道真公と天神の本地である十一面観音などに関する展示である。

学問の神様とされる菅原道真。氏や育ちではなく知力で右大臣にまで上った人物である。知で昇進した先例には吉備真備らがいるが家格を超える昇進を遂げたのは菅原道真が初とされる。その後、藤原時平らの讒言があって太宰府に左遷され、失意の内に亡くなる。だがその後、清涼殿に落雷があったり、藤原氏の有力者が次々に他界するなどの変異があり、雷神と集合して天神として北野の地に祀られることになった。元々、北野の地は都の北西を守る霊地であり、道真は都を守る怨霊として祀られることになる。

 

「北野天神縁起」はパネル展示があるだけだが、文子天満宮や吉祥院天満宮など、北野天満宮より成立が早いとされる天満宮の由来が描かれているのがわかる。

 

道真は、左遷された不遇を漢詩に詠んでいるが、その「去年今夜待清涼 秋思詩編独断腸 恩賜御衣今在此 報持毎日拝余香」は、その後に描かれた天神像にたびたび書き込まれている。
天神像も様々で、一般によく知られているのは憤怒の表情を浮かべた天神像だが、中には道真の失意をそのままに表した憂い顔の天神像も存在する。

道真は漢詩や和歌だけでなく、学者として史書の「類聚国史」編纂の仕事もしており、そのうちの2冊が展示されている。

 

後半は北野天満宮に関する展示である。
北野天満宮は麹造りを支援しており、醸造業者の連盟である麹座に神人の位を与えて保護していたのだが、洛中の酒屋が麹造りを始めたため、独占権を失いそうになる。そこで北野麹座は室町幕府に訴え、独占権の確約を手にする。足利義持の命により、北野麹座以外の麹室は破却されることになった。
足利義持の下知状と一色義範の遵行書状が展示されているが、二人とも「北野」の「北」の字を崩しており「小」に見えるのが特徴である。草書だとそうなるのだと思われる。

その後、北野が生んだ文学とされる連歌(宗祇の肖像などが展示されている)の展示を経て、北野天満宮の祭礼展示となる。上映時間約20分の映像が流されており、北野天満宮で一年の間に行われる祭礼の模様をダイジェストで見ることが出来る。

 

北野天満宮史上最大のハイライトの一つである北野大茶会の展示としては、実際に掲げられた高札の他に大茶会の様子を描いた絵図、またその繋がりで現在の北野天満宮の社殿を築いた豊臣秀頼の筆による御神号などが展示されていた。

 

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2019年3月 9日 (土)

2346月日(10) ベルトルト・ブレヒト著 大岡淳訳『三文オペラ』(共和国)刊行記念 連続トークイベント「おまへは歌ふな」大阪篇 「私たちは「近代」を卒業できるか? ~歌の生まれるところ~」

2019年2月28日 大阪・肥後橋のCalo Bookshop&Cafeにて

午後7時から、大阪の肥後橋にあるCalo Bookshop & Cafeで、ベルトルト・ブレヒト著 大岡淳訳『三文オペラ』(共和国)刊行記念 連続トークイベント「おまへは歌ふな」大阪篇に参加する。大阪篇のタイトルは「私たちは「近代」を卒業できるか? ~歌の生まれるところ~」である。

訳者の大岡淳は、1970年西宮市生まれの演出家、劇作家、批評家。総白髪なので年取って見えるがまだ40代である。早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業。現在はSPAC-静岡舞台芸術センター文芸部スタッフ、浜松市の公立大学法人静岡文化芸術大学非常勤講師などを務めている。
ゲストとして、滋賀県立大学教授である細馬宏通と詩人でNPO法人ココルーム代表、労働者街の市民大学である釜ヶ崎芸術大学・大学院発起人の上田假奈代が参加する。

第一部は大岡淳が自ら訳した『三文オペラ』の文章を朗読し、「モリタート(マック・ザ・ナイフ)」を歌う。

その前に、「三文オペラ」の登場人物とストーリーの説明がある。壁には登場人物達のイラストが貼られている。
「三文オペラ」はイギリスの劇作家であるジョン・ゲイの『乞食オペラ』をブレヒトが改作したもので、ロンドンが舞台である。といってもブレヒトはロンドンに行ったことがなく、サー・アーサー・コナン・ドイルのシューロック・ホームズシリーズが大好きだったということで、ホームズものに登場するロンドンを念頭に置いた架空の街、ロンドンを舞台としている。ロンドンに行ったことのある人からは、「こんなのロンドンじゃない」と言われることもあるそうだ。

大阪篇は歌がテーマになっている。ということで音楽も大きな比重を占める。
「三文オペラ」の作曲者は、1900年に生まれ、1950年に没するという年号を覚えやすい生涯を送った(?)クルト・ワイル。ブレヒトとは何度も共同作業を行っている。ドイツ時代はクラシックの作曲家であったが、ユダヤ人であったためアメリカに亡命し、以後はミュージカルの作曲を主に行っている。
思えば、私が初めて買ったオペラのCDが「三文オペラ」なのだった。初めて買ったオペラのCDが「三文オペラ」だったという人は余りいないと思われる。そもそも一般的な日本人はオペラのCDやらレコードやらを保持していない。
クルト・ワイルの音楽はかなり個性的であり、「三文オペラ」もいわゆるオペラというジャンルに含まれるのかどうか微妙なところである。ちなみに私は演劇として上演された「三文オペラ」は2度観ているが、新国立劇場で上演されたオペラとしての「三文オペラ」は観ていない。


大岡は、池袋で行われた演劇祭で上演される「三文オペラ」のために新訳を行ったのだが、SPACの上司である宮城聰に、「お前、歌詞翻訳しろ」と命じられて取り組んだそうである。ちなみに大岡は早稲田大学在学中に第二外国語として2年間ドイツ語を学んだだけだったのだが、「お前、ドイツ語出来る?」と聞かれて、「出来ます!」と答えてしまい、最初は英語で書かれたドイツ語入門のテキストを読むことから始めたそうだ。それから9ヶ月後に翻訳を仕上げたのだが、上演後、ドイツ語の専門家から「そんなの物理的に可能なんですか?」と言われたそうである。
本来は歌詞のみの翻訳だったのだが、「歌詞だけじゃ整合性がなくなる」ということで全編を訳した。ただ、宮城から「歌詞翻訳の分しか金が用意出来ない」と言われ、それで新たなテキストを発売することにしたそうだ。ただ戯曲というのはそもそも売れないもので、「全国行脚」をして回ることになったそうである。連続トークイベントは今月6日に東京・早稲田で始まり、静岡(2度)、横浜を経て、昨夜が西宮、今日が大阪である。今後、岡山、福岡を回り、3月17日には番外編として中目黒で音楽ライブも行われる。

大岡は日本軽佻派を自称しており、『三文オペラ』の訳でも様々なことを試みている。脚韻を徹底させてあり、B系ともいわれる若者言葉を用いている他、マックヒースの演説では七五調を取り入れていて、歌舞伎のセリフのように響いてくる。

大岡は、これまでに発表された『三文オペラ』の様々な訳を読み上げ、「モリタート」は歌う。黒テントの山元清多(やまもと・きよかず)が舞台を日本に置き換えたバージョンの「モリタート」も歌われるのだが、黒テントの上演では服部吉次(はっとり・よしつぐ。服部良一の次男で、服部克久の実弟)が「モリタート」を歌っていた。服部吉次は音大出身で、実に上手く「モリタート」を歌っていたのだが、18日に行った横浜でのトークショーでは大岡の目の前に服部吉次がおり、服部の目の前で「モリタート」を歌うことになったそうだ。ちなみに服部の横には串田和美がいるという謎の豪華布陣だったそうである。


ちなみに、大岡は、ピーチャムとマックヒースの年が近い感じがするということで、ピーチャムの娘であるポリーとマックヒースとの間に年の差があるのではないかと読んでいるようである。例えとして、「ピーチャムが東尾修、マックヒースが石田純一、この人、靴下はいてないかも知れない。ポリーが東尾理子」と言っていた。マックヒースは銀行家に成り上がろうとしており、そのため、奥さんがちゃんとした人である必要が出てきたのだ。

貧民階層の人達が出てきて、整合性の低いことを言っていたりするのだが、これは釜ヶ崎芸術劇場でやろうとしている釜ヶ崎オ!ペラに似ているそうである。貧しい人達が上流階級や政府に逆らうでもなく、グチグチ言ってるだけで結果として為政者の思うがままになっているという状況は、19世紀末の架空のロンドンと今の日本社会に共通するもののようだ。上田假奈代によると道に出てきたり、何かすることがある人はまだましで、釜ヶ崎でも下の人達は引きこもって酒浸りであり、緩慢な自殺へと向かっているそうだ。

今の社会はみんなで歌える歌がなくなったという話になる。大岡によると、「原発で働いている人には歌がない」という。昔の炭鉱などでは文芸部があったり合唱サークルがあったりして、「炭坑節」という作者不詳の歌が生まれるという文化があった。ただ、原発には、ひょっとしたらあるのかも知れないが歌が生まれているという感覚がない。放射線が体に貯まらないよう、短期で人員の入れ替えがあるのかも知れないし、作業自体がリズムがあると支障を来すようなものなのかも知れない。本当の原因はわからないが歌から遠い場所に我々は来てしまっている。

「近代」が個々で行う作業が尊ばれた時代なのだとしたら、我々は「近代」を卒業出来ていない。
上田は、言葉には歴史があり、自分で生み出したものではないのに、何から何まで自分で生んだように錯覚するのが「近代」の文芸なのだというようなことを言う。
明治以降の詩に関しては、文語から口語へ、定型詩から自由詩へという流れが一貫としてあったのだが、大岡によるとそれも限界に来ているのかも知れないという。

大岡と上田は鳥取で、子ども達と一緒になって作品作りをするワークショップを行っていたりするのだが、個人では生み出すことが出来ないような豊かなものが生まれる可能性があるそうだ。


歌の話に戻ると、J-POPなどは歌が長くなり、複雑になったと細馬は指摘する。今のポピュラーシンガーのライブには、予めCDなり配信なりを聞き込んで、全曲わかるようにして挑むのが普通なのだが(私もそういうことはする)、細馬が若い頃はそんなことはしなかったそうで、楽曲も演奏時間が短く、誰でも歌えるようなものだったというのが大きいのではないかという。
確かに、現在主流のJ-POPは歌詞も複雑で1回聴いただけではなんのことを歌ってるのかよく分からなかったり、音程も半音ずつ上がり下がりしていたり、転調に次ぐ転調があったりと、変拍子が当たり前のように入っていたりと、聴くのも歌うのも難しいものが多い。世代間の断絶もあり、例えば私の親世代の人はブラックミュージックなどは音楽に聞こえない、子どもはいないけど子ども世代に当たる十代の子達が聴くラップなどは私は余り聴かないということもある。音楽を聴くというスタンスが変化し、アーチスト個人と聴衆一人の1対1のコミュニケーションという形になったような気がする。

「三文オペラ」だけでなく、つい最近に至るまで、貧困層の人々の声は、インテリ達が想像によって代弁していたのだが、例えば大岡が子どもの頃に住んでいたという川崎市生まれの人気ラップアーティストがいるそうだのだが、「川崎区で有名になるには人を殺すかラッパーになるか」という歌詞を歌うそうで、当事者が声を上げるようになってきた。ただ、彼らも下剋上を好む成り上がりで、結局、大人になって良い車になるようになって上がりであり、成り上がれなかった人達のことは等閑視するようで、貧困層の中にもまた階級が生まれ、音楽を共有出来ないことになっているようだ。

大岡は、演劇に関しても今は人間同士の密度の濃い劇団システムは廃れてしまい、プロデュース公演が基本で、いつもいる人はプロデューサーだけという状態と指摘する。昔は劇団に所属している人だけで上演を行っており、他劇団への客演さえ問題視され、テレビやCMに出るなんてとんでもないという風潮があったが、今はCMにテレビドラマの仕事を受けたからといって「なんでだよ!」と怒る人はまずいない。

他者とじっくり何かを作るという作業が時代に合わなくなってきているのかも知れない。個のアイデンティティも崩壊し、サイコパスが主流になって人間間の契約が成り立たなくなって、世界が崩壊するというディストピアを大岡は思い浮かべてもいるそうだ。

ただ、ポピュラー音楽が崩壊していく様は、クラシックがすでに辿った道であり、今のポピュラーミュージックは、理解が困難になったクラシックに変わる形で台頭した。あるいはこれから先により身近な形の音楽が生まれるかも知れないという予感は私の中ではある。



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2019年3月 7日 (木)

2346月日(9) ドイツ演劇サロン「アルトゥロ・ウィの興隆」

2019年2月26日 大阪・周防町のウイングフィールドにて

午後7時から、大阪・周防町のウイングフィールドで、ドイツ演劇サロン「アルトゥロ・ウィの興隆」に参加する。
「アルトゥロ・ウィの興隆」は、ベルトルト・ブレヒトが、第二次大戦中の1941年にアドルフ・ヒトラーとナチスを揶揄するために書いた戯曲である。当時、ブレヒトはアメリカに亡命中であり、上演するあてもないままに書かれた作品だ。結局、ブレヒトの存命中にはこの戯曲は上演されることはなく、1995年になってようやくブレヒトが創設したベルリナー・アンサンブルによって初演されている。演出を担当したのは、「ハムレットマシーン」のハイナー・ミュラー(当時のベルリナー・アンサンブルの芸術監督)であった。演出家としては、これがミュラーの遺作となっている。2005年には東京の新国立劇場でもベルリナー・アンサンブルによって上演されており、ドイツでは人気の演目となっているようだ。
2005年は、「日本におけるドイツ年」であり、他のドイツの劇団も東京公演を行っていて、西堂行人によると東京のみではあったが日本とドイツの演劇界がリンクするような雰囲気が醸成されていたそうだ。ただ、その後、日本とドイツの距離は再び遠くなってしまい、日本では内省的で個人的な演劇が主流となっている。


1929年から1938年にかけてのシカゴに舞台は移されており、マフィアの話になっている。アドルフ・ヒトラーに相当するアルトゥロ・ウィは、マフィアのボスである。世界恐慌によって痛手を受けたカリフラワー業界に目を付けたウィは、乗っ取りをたくらむのだが拒絶される。カリフラワー業界はシカゴのドッグスパロー市長(ヒンデンブルク大統領に相当)を頼りにしており、ウィはドッグスパローの弱点を探し始める。そして、ドッグスパロー市長が収賄に手を染めていることを発見したウィは、ドッグスパローをゆすりにかかる。最初は相手にしていなかったドッグスパローだが……。

登場人物のうち、ジリーがゲーリング、ジボラがゲッペルス、ローマがレーム(三島由紀夫の「我が友ヒットラー」では最重要人物となる)をモデルにした人物である。

全編は2時間以上ある作品であるが、今回は30分強にまとめた映像がスクリーンに投影される。
出演者は、西堂行人(演劇評論家、明治学院大学文学部芸術学科教授)、笠井友仁(演出家、エイチエムピー・シアターカンパニー)、高安美帆(俳優、エイチエムピーカンパニーと舞夢プロに所属。大阪現代舞台芸術協会理事)の3人。で、適宜コメントを入れながら上映が行われる。


ヒトラーは演説の名手になるために俳優に教えを受けたという、嘘か本当かわからない話があるが、この劇の中でもアルトゥロ・ウィが名優にセリフ術を教わる場面がある。バーナード・ショーの「ピグマリオン」つまり映画の「マイ・フェア・レディー」にもこうした場面はあるのだが、かくして犬のように野卑で獰猛だった男が、稀代の名演説家に変身する。ウィは部下から「不自然だ」という指摘を受けるのだが、「この世に自然に生きている人間など一人もいない」と一蹴する。
ちなみに、名優はシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」に出てくるアントニーの演説をテキストとしてセリフの稽古を行うのだが、自分の人生を振り返って、「シェイクスピアは人生を台無しにしてしまう」と語っており、これは「演劇はドイツを台無しにしてしまう」と読み替えることが出来る。つまり虚構を作り上げるという広義の演劇によって権力は捏造されるのだが、そうした権力を告発するのもまた演劇の役割であることが筋を追っていくとわかるという、合わせ鏡のような魅力的な構造が浮かび上がる。
西堂行人が、ブレヒトの劇には「往路と復路がある」という話をしていたが、そこにも繋がっているようにも思う。


高安美帆は、ドイツのギーセン大学応用演劇学科の客員教授をしていたことがあるということで、ベルリンで発行されている芸術ガイドが来場者に回される。ベルリナー・アンサンブルは毎日のように上演を行っており、有名な作品としては「メディア」や「マクベス」などを上演していることがわかる。芸術ガイドには、音楽(ベルリン・フィルハーモニーでの公演情報も載っており、今年の1月には「モーツァルト&サリエリ」というプログラムの演奏会が行われていたことがわかる)、オペラ、グルメなど様々な情報が載っている。

かつて東西に分かれていたベルリン。東ベルリンだけもしくは西ベルリンだけでも一大都市に相当する劇場を持っていたため、他の都市に比べて上演数が多いのが特徴である。大劇場だけでなく、小劇場演劇も盛んで、トルコ人街にいくつも小劇場が出来ていたりするようだ。そうした土壌ゆえか、ベルリンの人達は、とにかく熱心に観劇するそうで、舞台上と客席の間で丁々発止の雰囲気が築かれることも多いようだ。また、東ベルリンと西ベルリンに分かれていた時代の名残が今もあり、「東には負けない」「西には負けない」という気概に満ちているそうで、新しいものがどんどん生まれているそうだ。

ハイナー・ミュラーは、冒頭に書かれている口上を本編が終わった後に来るよう、置き換えている。ラストで種明かしがされるという感じだが、ブレヒトの劇自体はかなり露骨にわかるように書かれており、冒頭で設定を明かしてしまうと、作者の意図通りに見えすぎてしまうということもあるのだろう。
ミュラーは時折、地下鉄が通り過ぎる音を入れている。ブレヒトの異化効果とするのが適当なのかも知れないが、舞台の設定を地下鉄のすぐ上の得たいの知れない空間とすることで劇場らしさを消し、同時に作品のフィクション性や時間を隔てた物語という距離を埋めた切実感を出そうとしたとも思われる。


ちなみに西堂行人は、ベルリンで「アルトゥロ・ウィの興隆」の初演を観ているそうで、それが自身にとっても画期となったそうである。

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2019年2月10日 (日)

2346月日(8) 大谷大学博物館 「アジアの仏教典籍」

2019年1月30日 大谷大学博物館にて

大谷大学博物館で、「アジアの仏教典籍」を観る。インドで生まれた仏教がスリランカやチベット、中国を経て日本に伝わるまでを文字や絵で伝える展覧会である。

北インドで生まれた仏教は、タイやスリランカなどまず南方に伝わる。これらの仏教はいわゆる上座部仏教(小乗仏教という呼ぶ方もあるが、好ましくないとされる)であり、出家していかに悟りを得るかを重視している。当地の言語で仏教物語が綴られているが、当然ながら読めない。

一方、北に向かい、中国、朝鮮を経て日本に渡来した仏教は、大乗仏教であり、全ての人が救われるとされる教えである。中国の文献(玄奘三蔵の『大唐西域記』を含む)や『日本書紀』などは漢文であるが、すらすらとは読めなくてもなんとなく意味の分かるところも多い。
ちなみに『日本書紀』では、仏教渡来は西暦552年ということになっているが、これは丁度末法が始まる年である。それに合わせて年号が書き換えられたとする説が近年では有力であり、実際には538年に渡来したとする説が一般的である。

各国の釈尊の伝記は、極彩色のものが多い。仏教は色彩を重視する宗教であるということも影響しているだろう。その中にあって北魏時代の「四門出游(出城)拓本」の墨拓は異彩を放っている。王城の門を後に出家へと走る釈尊の乗った馬の足を天子4人が支えているところを描くという、独特の作品である。



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2019年2月 3日 (日)

2346月日(7) 京都工芸繊維大学美術工芸資料館 「南方熊楠~人、情報、自然~」

2019年1月23日 京都工芸繊維大学美術工芸資料館にて

左京区役所に行く用事があり、ついでに近くにある京都工芸繊維大学の美術工芸資料館に寄る。現在、工芸美術資料館では、「南方熊楠~人、情報、自然~」という展示会が行われている。

知の巨人として知られる南方熊楠。和歌山生まれ、子どもの頃から読んでは筆写し、記憶するということが好きだった熊楠は、長じて驚異的な記憶力と語学力を発揮することになる。和歌山中学を卒業後に上京。共立学校(現在の開成高校の前身)を経て、大学予備門(現在の東京大学教養課程の前身)に進むが、授業にはほとんど出ずに上野の図書館に通うようになる。元々、数理系が苦手ということもあり、代数で落第すると退学し、和歌山に戻る。この頃に脳に異常を感じたことが記されているが(「病を脳漿に感じて」とある)、熊楠の脳は大阪大学医学部に保存されており、MRIで調べたところ、てんかん持ちであることが判明したそうである。

二十歳の時に渡米。サンフランシスコのビジネススクールに入学するが、ビジネスに興味を抱けなかったため、半年後にミシガン州ランシングの農学校に移る。しかしここでは、アメリカ人学生と衝突したということもあり、同州アナーバーの街で読書と植物採集の生活に入る。その後、フロリダを経てキューバにも渡った熊楠は、大西洋を渡ってロンドンにたどり着く。ロンドンでは大英博物館で読書と書写に明け暮れた熊楠であったが、この頃に両親が他界。送金がなくなったということもあって困窮し、帰国することになる。以後は、紀伊半島での植物採集と著述の生活に入った熊楠であるが、初期に発表した論文が不評ということもあってか、その後は論文を発表することは少なくなり、とにかく情報収集を徹底することになる。在野の研究者であり、教員としてのキャリアがないということも相まって、学者としての評価を得ることはなかった。最近では、収集による「情報提供者」としての評価が上がっているようである。分野を問わず書き残した業績がデーターベースとして価値があるらしい。
植物学や民俗学以外のことも書き残しており、例えば雑誌に発表された「売女の名歌」には、逃亡した遊女が捕らえられ、通常なら無期懲役になるところを、「果てしなき浮き世のはしに隅田川流れの末をいつ迄かくむ」という優れた歌を詠んだことに大岡越前が感動し、「逃亡した遊女の懲役は3年まで」と決まったことが記されている。

那智で植物採集をして過ごした熊楠だが、どうやら脳の病気を慰めるためだったらしいことが最近の研究でわかってきたようだ。1904年4月21日の熊楠の日記を元に作成した映像(京都工芸繊維大学の制作らしい)が流れている。宿泊していた大阪屋から那智山に遊び、途中で道に迷ったり、川を渡る際に石から滑り落ちて足をすりむいたりしながら探索する様が克明に記されているようだ。

2015年には熊楠が映った映像が発見されている。熊楠が語っているところを映したものだが、残念ながら音声は収録されていない。

熊楠の日記などが展示されているが、字が読みにくい。そのため、十二支考「虎」などは、まず熊楠がなんと記しているのかの解析を学者達が行うことから始まっているという。十二支考「虎」は、新聞の裏紙に熊楠が虎に関する知識を無作為に書き殴っているもので、そこから文章に落としていったのだが、どのように繋がるのかは今も研究の最中だそうである。

熊楠のデスマスクも展示されている。中学時代に鼻が高いため「天狗さん」のあだ名で呼ばれたそうだが、あたかも白人のような鼻の持ち主だったことがこれを見るとよくわかる。

最期は展示されていなかったが、熊楠と京都との関係について。
熊楠の長男、熊弥は父親譲りの利発な少年だったが、高知高等学校(現在の高知大学)を受験した際に、突然、精神に異常を来し、和歌山県田辺市の自宅に帰って療養するも好転しなかったため、京都の岩倉病院(日本初の精神病院である)に入院することになった。熊弥の入院から半年後に岩倉病院に見舞いに行った熊楠は、「全快の見込みなし」と聞いて落胆したという。熊弥は熊楠よりも長生きすることになるが、岩倉病院から出ることはなかった。
ちなみに、熊楠の遺言は、「熊弥…、熊弥…」だと伝わっているが、これに関しては熊楠の長女による創作であることがわかっているようだ。



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2019年1月17日 (木)

2346月日(6) 龍谷ミュージアム 「仏教の思想と文化 ―インドから日本へ― 特集展示・仏教美術のいきものがかり」

2019年1月9日 龍谷ミュージアムにて

龍谷ミュージアムで今日から始まった「仏教の思想と文化 ―インドから日本へ― 特集展示・仏教美術のいきものがかり」を観る。
生き物を描いた仏画などを特集展示したものだが、それは3階展示スペースの半分ほどに留まり、ガンダーラ周辺の仏教美術が主となる。

2階展示室の、第1部「アジアの仏教」では、仏立像、仏坐像などの仏像、碑文やサンスクリット語の経典、仏画、中国仏教などの展示があり、3階展示室では第2部の「日本の仏教」と題した日本仏教関連の美術が並んでいる。面白いのは、室町時代や江戸時代に描かれた聖徳太子絵伝に出てくる人々の格好が平安時代風(国風)であることだ。まだ衣装の研究が進んでおらず、往時の装束がわかっていなかったのだと思われる。

龍谷ミュージアムは、浄土真宗本願寺派の龍谷大学の美術館。ということで、浄土宗や浄土真宗の展示が幅を占めている。中でもお家芸である浄土真宗の展示は充実していて、親鸞聖人の坐像(真如苑真澄寺像)や、蓮如筆による「南無阿弥陀仏」の六字名号が展示されていた。

午後3時から、映像スペースで、西本願寺の障壁画に関する約12分の映像が上映される。安土桃山時代に建てられた西本願寺。当初描かれた狩野派の障壁画を、江戸時代中期に円山派が修復した絵が映される。一方、修復されることなく、今ではほとんど判別が出来なくなってしまった「竹虎図」をコンピューター処理で解析し、往時の姿を復活させるプロジェクトも進んでいる。現在は「竹虎図」は修復中で、その姿はCGでしか見られないようだが、今後も作業は進んで、全てが復活する日も来るようである。

特集展示「仏教美術のいきものがかり」。桃山時代に描かれた涅槃図では多くの動物が釈迦の最期を看取っていることが確認出来る。



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2018年11月 1日 (木)

2346月日(4) 同志社女子大学公開講演会 ジェイ・ルービン 「夏目漱石と村上春樹 翻訳家の告白」

2018年10月23日 同志社女子大学今出川キャンパス純心館S013教室にて

同志社女子大学で開催されるジェイ・ルービンの公開講演会に参加する。アルティであった加藤健一事務所の公演を観た帰りに同志社女子大学の前を通ってたまたま見つけた講演である。同志社女子大学今出川キャンパスの中で最も新しいと思われる純真館で行われる。


「夏目漱石と村上春樹 翻訳家の告白」と題された講演。
ジェイ・ルービンは、村上春樹の小説の翻訳で知られる翻訳家・文学者である。ワシントンD.C.に生まれ、シカゴ大学大学院で文学博士号を取得。ワシントンD.C.ではなくワシントン州シアトルにあるワシントン大学の教授を経て、ハーバード大学教授。2008年に退官して、同大学名誉教授の称号を得ている。『ねじまき鳥クロニクル』の英語翻訳で野間文芸翻訳賞を受賞。村上春樹の『ノルウェイの森』、『1Q84』などの他に夏目漱石や芥川龍之介、謡曲の英訳なども手掛けている。また『村上春樹と私 日本文化に心奪われた理由』という本を上梓している。

ジェイ・ルービンは基本的に日本語で話す。

まず、京都の思い出。京都では、1995年から96年までと2000年から2001年までの2度、桂にある国際日本文化研究センター(日文研)に1年間滞在して研究を行ったことがあり、今回も京都を訪れて大変懐かしく思うと語る。

そして以前、伏見稲荷大社を訪れた時の話になる。伏見稲荷大社には何本もの寄進された鳥居があり、様々な人が勝手に祠を建てたりしている。ジェイ・ルービンはその中にとても古いと思われる祠を見つける。文字が最早見えなくなっており、「これは江戸時代以前に建てられたものに違いない」と思ったのだが、実はそれは昭和に入ってからのもので、夏目漱石の時代よりもはるかに新しいものであった。昭和といっても文字が見えないほど古びてしまうものが存在するのだが、更に古い時代に活躍した夏目漱石は「今でも新しい作家」である。

その後、早稲田大学のゲストハウスに泊まった話もする。早稲田大学のゲストハウスは夏目漱石の生誕地や邸宅が構えられたというゆかりの地である。
ルービンは、早稲田界隈で撮った写真をプロジェクター(投影機)を使っていくつか見せる。漱石山房記念館、夏目漱石生誕の地の碑、夏目漱石の銅像など。早稲田には今も夏目漱石が息づいている。

そこから村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を翻訳した時の話になる。夏目漱石のような物故者には翻訳に関して意見を聞くことは出来ないが、村上春樹は存命中であるため、いくらでもやり取り出来る。ただ、やり取りをしすぎてしまったという話になる。

ジェイ・ルービンは翻訳に関しては細かいところまで詰めるタイプであるため、村上春樹に質問し続けて、朝から晩までやり取りをすることになってしまい、共に疲労困憊になったそうである。
『ねじまき鳥クロニクル』は、「水」が重要なテーマになっているため、ネクタイの柄である「水玉の」を「polka-dot」にすべきか水を強調できる「water-drop pattern」にすべきか村上に問い、村上は「polka-dotがいい」と答えたそうである。

「塀」も『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』以来、重要な村上文学のモチーフなのだが、ジェイ・ルービンは「wallとすべきかfenceとすべきか」迷い、村上は「fence」をベターとした。

「幸江」という名前の女性が出てくるのだが、ルビが振られていない。そこでルービンは、「さちえ」と読むのか「よしえ」か、はたまた「ゆきえ」なのかを聞く。村上の答えは「ゆきえ」であった。

出てくる登場人物が掛けている眼鏡の縁の色が最初は茶色だったのが途中で黒に変わっている。これについては村上は「最初から黒にすべきだった」、つまり編集者も見つけることが出来なかったミスであったことがわかった。

ということで、村上春樹もルービンとの翻訳作業を終えて、「どうせ小説というのはいい加減なものだ」(やれやれ)と発言したそうで、村上春樹自身も翻訳を行うが、自身が書いたテキストが英訳される際に気にするのは英文として面白いかどうかであり、子細に点検するタイプではないようである。村上自身は自作の小説を読む返すこともほとんどないことが知られているが、読む直すと「欠点ばかり目につく」からであり、仮に間違いがあったとしても致命的でない限りは気にしないことにしているようである。
デビュー作である『風の歌を聴け』でも、日付の辻褄が合わなくなっていることが知られているが、村上春樹本人は後でそれに気づくも今に至るまで修正したことはない。確かに小説を読み進める上では大して問題にならない部分ではある。

ちなみに、ルービンは『ノルウェイの森』を英訳した際、村上に訳の間違いを指摘されたことがあるのだが、それは、「かわって」を「わかって」と誤読したために起こったものだそうである。村上はその時も、「『かわって』を漢字で『代わって』と書くべき所を平仮名で書いてしまったため」としており、ルービンは村上について「とても優しい人」という印象を抱いたそうである。


その後、ルービンが『アメリカひじき』を翻訳した野坂昭如の話になる。ルービンは銀座の店で野坂と待ち合わせをしていたのだが、いつまで経っても野坂がやって来ない。1時間ほど待ったところで、実はスタッフが店を間違えていたことに気づき、ルービンは野坂が待つ店へと移動する。
到着した時には野坂はすでに酔っ払っており、店にゴキブリが出たとかで、「人間はゴキブリ以上の存在だと思い込んで疑わない『傲岸さ』について延々と語った」そうである。


ルービンは、澤西祐典(さわにし・ゆうてん)という日本の若い作家を紹介する。優れた作家なのだが日本人はほとんど誰も知らないそうだ。


話は漱石に戻る。『三四郎』を英訳した時のことだが、ルービンは「漱石の頭の中をよりよく理解したい」ということで、漱石自身が書いた『文学論』を読んで研究を行ったという。「漱石は直角的ではなく細かな描写を好む」ことにルービンは気づいていたのだが、『文学論』で漱石は視覚や聴覚といった五感に関する記述を行っており、その細密な分析に感心している。
漱石は、ヴィルヘルム・ブントが書いた色彩に関する記述を挙げ、「白色は華美、緑色は静けき楽を想起し、赤色は勢力に通じるものなり」として、『三四郎』でも色彩理論を発展させている。
なんとなく、共感覚を連想させる手法であるが、夏目漱石が共感覚の持ち主なのかどうかは私は知らない。

その頃、ルービンは、『夏目漱石』を著したことで有名な文芸評論家・文学者の江藤淳を訪ねている。当時、江藤淳は東京工業大学の教授であり、江藤の研究室に招かれたルービンは江藤から「ここにある書籍は自由に使っていい」と言われたそうで、「本当に親切な人だ」という印象を受けたという。
江藤の不在時に、ルービンは「漱石の幽霊が現れるのでは?」という願いを抱きつつ研究室に籠もっていたことがあるそうだが、ついぞ幽霊は現れず、「自分は幽霊を見たことはないし、信じてもいないので」当然ではあると思いつつも、それは漱石が説いた「還元的感化」や、漱石が東京帝国大学の教員を辞して朝日新聞に小説専業の嘱託社員として入社したときの「妙境」に通ずるものがあるのではないかという答えを導く。村上春樹の小説では高確率で、能には常に異界のものが出現する。

最後は、世阿弥の謡曲「雲林院」を巡る話題。在原業平の幽霊が、自身が主人公のモデルとなった『伊勢物語』を本を持って現れるという筋書きに、ルービンは「還元的感化」と「妙境」を感じたという話である。


講義の後で質疑応答の時間となる。質問の優先順位はまず同志社女子大学の学生(普通の講義としても行われており、同女の学生は出席票やレポートを出す必要があるようだ)、次いで同志社大学など単位交換をしている他大学の学生、最後が一般人となるようである。

まず、ジェイ・ルービンの翻訳以外の文学先品があるかどうかという質問であるが、『日々の光(The Sun gods)』という戦中の日本を舞台にした小説を英語で書いており、日本語訳はルービン自身ではなく柴田が行ったそうだ。

2つめは、日本文学に興味を持ったきっかけについて。ルービンは、日本語を選んだのは「大きな間違いでした」と冗談を言う。英語を母国語とする者にとって日本語は最難関言語として知られ、とにかく難しい。大学時代にたまたま「日本文学入門」という講義を取り、先生が「原語で読むとますます面白い」と言ったため日本語に取り組むことになったのだが、「それが元々の間違いでした」

3つめは、村上春樹の小説がアメリカでどう受け止められているか、またノーベル文学賞に関して。
ノーブル文学賞に関してはイギリスの賭け屋が勝手にやっていることで、ノーベル文学賞委員の意向は全く不明である。ノミネートされているのかどうかすらわからない。ただ、「今の日本人でノーベル文学賞を受賞するとしたら村上春樹しかいない」のは事実である。ノーベル文学賞委員の不祥事で、ノーベル文学賞委員が解散。後継の賞は出来たが、これに関しては村上春樹自身がノミネートすら断っている。
アメリカのメディアで日本文学がどう取り上げられているかだが、文学以前に日本文化自体が話題になることがほとんどないそうで、村上春樹はその中で唯一の例外だが、それもノーベル文学賞絡みのことである。アメリカでは夏目漱石すらほとんど知られていないそうである。

4つめは、作者と読者の関係について。同女の英文科の学生の質問であるが、英語の小説を読もうとしても現時点では没頭出来ず、やはり日本語訳で読む方を好むのだが、原語による文章の差異についてはどう思うかというものである。
ルービンの場合、ドストエフスキーが好きだがロシア語を学んだことはないので、英訳で読むそうだ、「本当に理解出来ているのかわからない」というのが本音だそうである。
それと矛盾するが、ルービン自体は「文学は原語で読むべき」という考えを持っているそうだ。ただ、世界中で村上春樹は読まれているが、翻訳で読んだ全員が村上春樹について誤解しているかというとそういうことはないだろうとも思っており、伝わることは伝わるだろうとも考えているそうだ。

5つめ。深読みの可能性について。ハンガリーからの留学生からの質問である。
深読みしすぎて間違うことは往々にしておるが、物故者の場合、その深読みが合っているのかどうかを確認する術はない。「too much」になった場合はどう思うのか?
村上春樹は、「You think too much」という言葉をよく使うそうで、ルービンのように細部まで訳語を詰めなくても伝わることが伝われば良いという指向のようだ。
またルービンは学者だからこそやり過ぎると考えているようで、自戒としてもいるようである。

6つめは、「翻訳するに当たって重視しているものは」
第一に考えているのは。「正確さ」だそうである。「忠実に」行うのだが、日本語を英語にそのまま転換することは出来ないので、「英語の読者になるべく日本語の読者と同じ経験を与える」よう心がけているそうだ。

7つめは、「テキスト翻訳の際に解釈は許されるのか?」
日本語と英語は構造から何から全てが余りに違うというのが事実である。「Thank you」を日本語に訳すと「ありがとう」だが、「ありがとう」の元々の意味は「滅多にないこと」であり、「あなたに感謝します」の「Thank you」とはそもそも成り立ちが違う。「こんにちは」であるが、英語にそのまま置き換えると「Today is...」になる。そのまま言っても英語圏の人には何を言っているのかがわからない。そこで意味が一緒になるよう置き換える必要がある。ということは「解釈を入れないと翻訳出来ない」ということでもある。

私自身、中国語の翻訳家を目指したことがある。1990年代前半には、関東と北海道ローカルであったが、cx系の深夜番組である「アジアNビート」で中国、台湾、韓国のポップスが中心に紹介されていた。大学の第二外国語で中国語を選択していたこともあり、中華圏のポップスは良く聴いたのだが、ライナーノーツに記載されている日本語訳歌詞が間違いだらけなのがかなり気になった。なぜ間違いが生じてしまうのかというと、翻訳者は中国語には通じているものの文学的素養に欠けるため、何を言っているのか把握出来ないまま訳してしまっているのである。訳しているとは書いたが、内容把握出来ないまま日本語に置き換える作業を訳とは本当はいわない。訳とは言葉ではなく内容を置き換えるのである。


8つめは、7つめに関連した質問が白人男性からなされる。「内容転換はするのか?」
答えは勿論、「書き換えは許されていない」

原文のテキストが作者だとすると、翻訳者は演出家に相当する。演出家にも変な人が多いので、勝手に解釈して内容を改竄してしまう人はいるのだが、私に言わせればその時点でアウトであって、人前で表現する資格すらない。


9つめは、夏目漱石の『三四郎』に関するもので、知り合いの翻訳家が『三四郎』を英語に訳する際、わかりやすくするための言葉を足したらどうかと提案したら「No」と言われたそうである。
ルービンもやはり「わかりやすくしてはいけない」という考えのようである。
私自身も「読者を信頼すべき」と考えている。わかりやすくした場合は、原典ではなく私自身の文脈に誘い込むということになってしまうからだ。とはいえ、信頼したからといっていい結果が出るわけでもなく、逆になるケースがかなりあるのだが。

最後は同志社女子大学の教員からの感想で、村上春樹はスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を自身で日本語訳しているが、かなり解釈を入れており、村上自身が「これは村上春樹の『グレート・ギャツビー』だ」と断言していて、本当の『グレート・ギャツビー』を読みたいなら原文で読むことを薦めている。
ここでこの方は勘違いして、「自分は翻訳の際、解釈を入れているのに、自分のテキストを英訳する時はかなり細かく言葉を選ぶの意外」と言っていたが、村上春樹が細かいのではなく、ルービンが子細に聞く人なのである。先に出てきた通り、村上の考えは「どうせ小説というのはいい加減なものだ」である(やれやれ)。



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2018年9月25日 (火)

2346月日(3) 京都教区山城1組公開講座「東本願寺の歴史と儀式」

2018年9月14日 しんらん交流館会議室A・B・Cにて

午後6時から、しんらん交流館の会議室A・B・Cで行われる京都教区山城1組公開講座「東本願寺の歴史と儀式」に参加。講師は東本願寺本廟部長の近松誉。

第1部が「真宗の儀式」として50分、第2部が「本願寺の東西分派と儀式」として50分、計約2時間の講座である。講座が始まる前に「真宗宗歌」が、終了後には「恩徳賛Ⅱ」(短調の方)が全員で歌われる。

儀式の始まりとして、イラクのシャンダール遺跡で発見されたネアンデルタール人による最古の形の葬儀を取り上げ、真宗の荘厳(しょうごん)の「荘厳」がサンスクリット語の「vyuha」つまり「素晴らしい配置」に由来するという話から、それらが阿弥陀の働きが成就された形なのではないかと続く。
浄土真宗の本山はどこも、御影堂(ごえいどう)と阿弥陀堂の二つがあり、本堂である阿弥陀堂よりも親鸞聖人の御影のある御影堂の方が大きいということについて、御影堂とは御開山之御座所であり、廟所そして道場である。それに対して阿弥陀堂は礼拝堂であるとして、御開山に本尊のある場所からの働きかけが示されるというような配置が取られているようである。御影堂と阿弥陀堂は似ているが内部に違いがあり、阿弥陀堂は極楽浄土を表した金箔が用いられているが、御影堂は道場であるため天井などは質素であるという。
また御影堂の内部は武家造が採用されており、そこが住居区空間であるということも表現されているそうだ。


さて、本願寺の歴史であるが、本願寺11世で織田信長との石山合戦でも有名である顕如上人には息子が3人いた。教如、顕尊、准如である。次男の顕尊は、真宗興正寺派の門主になっている。

本願寺12世で東本願寺の初代となった教如上人は、1570年の11月頃に得度。同年の春先に石山合戦が始まっており、1580年に和睦が結ばれるまでの10年間を戦時下として過ごしている。和睦後に顕如は石山本願寺を退去して今の和歌山市にある鷺宮御坊に移るのだが、教如だけは信長は信用出来ないとして石山に留まっている。この時に、顕如から義絶されているといわれている。その後、石山から出た教如は東海地方や北陸地方を流浪する生活に入るのだが、1582年に織田信長が本能寺で討たれると、今の大阪府堺市にあった貝塚御坊・願泉寺で顕如と対面。義絶も解かれている。教如上人は明智光秀と面識があったことから、たまに本能寺の変黒幕説が囁かれたりするが、証拠はないようである。

その後、本願寺は天満に移転。寺内町を作り、秀吉が興した大坂の街の成り立ちに大きく貢献。更に、今の西本願寺がある堀川六条へと移転している。淀への移転も検討されたが、京へ帰るという意味で堀川六条が選ばれたようだ。教如と准如の母である顕春尼は准如の方が可愛かったようで、1592年に顕如が亡くなり、教如が跡を継いで程なくして准如を後押し。秀吉から准如に家督を譲るよう命令があったとして、当初は「10年経ったら准如が門主となること」に教如は同意したのだが、ほどなく「今すぐ変わるよう」いわれ、本願寺の北側に移る。この時、准如が「表方」、教如が「裏方」と呼ばれたそうだ。その後、教如は徳川家康に接近。友情を築き、関ヶ原の前哨戦においては下野国小山まで出向いて石田三成の挙兵を知らせている。

その後、門徒であった本多正信の仲介で、教如には今の東本願寺の土地である烏丸七条の地が与えられている。なぜ西本願寺の近くに東本願寺が出来たのかは謎だそうであるが、西本願寺と方広寺大仏殿とを繋ぐ豊臣政権の象徴たる正面通を絶つという意図があったともされている。

さて、日本で最も高い寺院の門としても知られる東本願寺の御影堂門であるが、見た目は禅宗寺院に見られる三門に似ている。三門とは「三解脱門」の略であり、蹴放という敷居があり、女人はここからは入れないということを示しているのだが、本願寺の御影堂門は荘厳大義門功徳に由来する「大門」の別名がある。大門には敷居はなく、誰もが救われるということを示しているそうである。

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2018年9月24日 (月)

2346月日(2) KYOTO CMEX10周年記念講演会 角川歴彦&荒俣宏

2018年9月14日 ホテルグランヴィア京都・古今(こきん)の間にて

午後3時30分から、京都駅ビルの一角を占めるホテルグランヴィア京都で、京都商工会議所主催のKYOTO CMEX10周年記念講演会に参加する。
KADOKAWAの取締役会長である角川歴彦と作家の荒俣宏の講演がある。

角川歴彦の講演は、「コンテンツの価値の劇的変化」と題されたものである。

21世紀に入ったばかりの頃、角川は当時のマイクロソフトの社長から「4スクリーンのイノベーションが起こる」と聞かされる。当時はなんのことか想像出来なかったそうだが、スマートフォン、パソコン、ダブレット、テレビの4つのスクリーンにより革命のことで、今ではこれらは定着した。当時はまだスマートフォンやタブレットは存在しない頃で、マイクロソフト社はその頃からそれらの登場を予見していたことになる。

これら4つのスクリーンの時代に覇権を争うのは、GAFAという4つの企業である。Google、Apple、Facebook、Amazonの4社だ。

これに動画配信で軌道に乗ったNetflixが加わる。これらの会社は、コミュニケーション、コミュニティ、メディア、コンテンツの4つを駆使して世界を拡げる。また、コミュニケーションがコミュニティを生み、コミュニティからはメディアやコンテンツが生まれるといった具合に相関関係がある。
Appleは、動画には自社が認めたコンテンツしか載せないという姿勢を見せており、「中国のようなところのある会社」だと角川は言う。
一方、Amazonは、提携する多くの会社が倒産に追い込まれている。ボーダーズ、トイザらス、タワーレコードなどで、これらの企業は顧客データがAmazonに使われたことで倒産しており、Amazonとの提携は「悪魔の契約」とも呼ばれているという。だが、Amazonの影響力は多大で無視出来ないため、KADOKAWAもAmazonと直接提携関係を結んでいるそうだ。KADOKAWAがAmazonと直接提携したことで、角川も散々に言われたことがあるという。

そして、イギリスのダ・ゾーンがJリーグの放映権を2100億で円買ったことから、日本のコンテンツが海外から重視されるようになったことがわかったという。ダ・ゾーンはスカイパーフェクTVの何倍もの金額を提示して、コンテンツをものにしているのである。
そして、動画配信を手掛けてきた企業が自社で映像コンテンツを作成するようになってきている。Netflixは映像コンテンツの制作に8500億円を掛け、Amazonは5000億円を計上。
中国のテンセントという企業は自社のゲーム利用者が全世界に1億3000万人いるという。コンテンツ作成にこれだけの金を使われ、利用者数を確保されたのでは、日本の企業には全く勝ち目はない。

更に映像関連会社の合併や買収も目立つ。ディズニーはFOXを7兆8千億円で買収。FOXのこれまで制作した全ての映像を使用する権利を得たため、その影響力は計り知れない。それはディズニーはFOXの全ての映像には7兆8千億をつける価値があると認定したことでもある。
AT&Tはtimeワーナーと合併。AT&Tは電話の会社であり、日本で例えるとNTTが映画会社と合併したようなものである。Webコンテンツにおける勝利を目指したものだろう。

日本のコンテンツに目を向けると、アニメ映画「君の名は。」は世界125カ国で公開、東野圭吾の小説『ナミヤ雑貨店の奇蹟』は中国で日本以上に売れ、バーチャルYouTuberキズナアイは北欧でヒット。crunchyrollという日本のアニメ・ドラマ・漫画配信サービスはワーナーの傘下に入ることになったという。

また、出版は不況で右肩下がりが続いているが、日本映画は逆に絶好調である。大半はアニメ映画の急成長によるものだが、日本のコンテンツ価値は高まっており、キャラクターを輸出することで勝負が可能な状況だそうである。

続いて、荒俣宏と角川歴彦による対談「日本のコンテンツが世界に広がる~妖怪からみるクールジャパン~」が行われる。

角川が、最近、ライトノベルで「異世界もの」というジャンルが流行っているという話をする。ライトノベルではないとした上で、宮部みゆきの小説が典型的な異世界ものの系譜にあるとする。

荒俣は、「化ける」が日本社会のキーワードであるとする。野球などで「大化け」という言葉は使われる。日本では変わるのが当たり前だと思われているが、日本以外ではそうとは限らない。妖怪などの「化ける」文化が最も良く残っているのが日本だそうである。

日本人の文化根源をたどっていくと、縄文人は山奥に住んでいて、そのため長野県の奥部などから縄文土器などが出てくるという。なんで縄文人は長野の山奥にいたのだろうと疑問に思った荒俣は、長野まで縄文土器の発掘に出かけたことがあるそうだ、行ってみたら「縄文人がここにいて当然」だと思ったそうで、「山があって川があって色々なものがある。逃げようと思えば逃げられる」と、縄文時代の文化に適した環境だったそうだ。さて、縄文時代の終わりに里人が出て、徐々に両者に関わりが発生するようになる。里人を代表する大和朝廷が、縄文人のいる山へと進出するようになるのだが、縄文人は「刃向かってこない。穏やか」な人たちであり和の精神があった。そこで融和政策が行われるようになる。
その中で、「タブーを犯さない」「変化(へんげ)する」ということが重要になる。タブーについては、「鶴の恩返し」が典型だそうで、「なんでもしてあげますけど、機を織ってるところは覗かないで下さい」と求め、そのタブーを犯してなにもかも失うことになる。

「変化(へんげ)」に関しては、貨幣の「貨」自体に「化」という字が入っており、貝の直接交換のシステムからリアリティーをなくした貨幣に化けていくという過程があるそうだ。

京都はヘンゲの話に事欠かない場所であるが、土蜘蛛と酒呑童子が典型的な例であり、山奥で京の都へのアンチテーゼを唱える人たちが滅ぶ姿がそこにはあるという。
平安末期。それまでの妖怪を陰陽道で封じ込めていた時代が終わり、武士が妖怪を退治する時代になる。土蜘蛛や酒呑童子の退治でも武士が活躍する。力と力で対峙するようになるのだ。

荒俣や角川が少年だった時代にはファンタジーは抑圧されていた。ファンタジーは教育上良くないとされ、漫画が学校内に持ち込み禁止になったりしていたそうだ。私が子供だった頃にも、教科書に「マンガを読むのは悪いか」という教材が載っていたことを覚えている。
荒俣はファンタジーや漫画への抑制の最前線で戦った人物であり、文化的な多様性や豊かさの擁護者でもあった。

日本のゲームについてであるが、角川はこれも内容が良いんだか悪いんだかわからないものであり、そういう意味ではヘンゲの特徴を持っているとする。

また、日本のSF映画の傑作である「ゴジラ」もいわば怨霊を描いたものであり、荒俣によると、ある勢力が権力と和解したか否かでその後の扱いがわかれるという。例えば、鴨氏は元々は奈良の葛城の豪族であり、京都に出て賀茂神社に祀られるようになるが、一方で、土蜘蛛は和解しなかったがために滅ぼされ、化け物になっている。出自自体は大して違わないのに、現在の扱いは180度違う面白さがあると述べた。

また、日本を代表する怨霊として平将門と菅原道真がおり、平将門については荒俣はもう『帝都物語』で書いた。そこで、角川は菅原道真の怨霊を題材にした小説を荒俣に書くように勧めるが、荒俣は「書いてもいいのですが、自分はもう2、3年しか生きられないと思っているので」他のことに時間を使いたいという希望があるそうである。



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2018年1月21日 (日)

外国語を学ぶということ

私も人と同じように義務教育で英語を勉強しました。今は小学生から英語を学ぶようですが、私の時代は英語の授業が始まるのは中学校からでした。苦手ながらも中学高校と英語を学び、大学受験のための勉強もして、大学でも3年ほど英語を学びました。

第二外国語では中国語を取りました。アルファベットで書かれた言語が苦手だったということもありますが、1989年6月4日の第二次天安門事件をリアルタイムで目撃したものとしては、中国という大国の謎の一端に触れてみたいという思いもありました。

中国語の学習は自分に向いているように思いましたので、授業のみでなく、NHKの外国語講座テキストを買って勉強したり(当時はまだ音声ソフトはCDではなくカセットテープでした)、中国語の短編小説を買ってきて読んだり、チャイニーズポップの歌詞を翻訳したりしていました。

しかし、中国語の学習に自分が向いているというのは、結局のところ誤解だったように思います。その後色々あって私は中国語の学習をやめました。

大学に入ってすぐの頃、村上春樹の『やがて哀しき外国語』というエッセイ集を読みました。高校生の頃からペーパーバックを読み漁り、現在では英米文学の翻訳も手掛けている村上春樹が、「アメリカ人なら子供でも自分より流暢な英語を話す」、「ラジエーターって英語でなんていうんだっけ」という経験をして、残された時間を考えると外国語学習よりもずっと優先すべきことがあると考えるに至るまでが描かれています。

私も「やがて哀しき外国語」という思いは強いです。今はもう外国語学習への意欲も割く時間もありません。

では、外国語を学んだ時間は全くの無駄だったのでしょうか。

そうは思っていません。外国語を学ぶ第一の意義は、外国語を使って他の文化圏の人々とやり取りをすることですが、そもそも日本語のコミュニケーションが苦手で、日本人相手でもうまく話せないという人、私もそれに当てはまるのですが、そういう人はいくら外国語を学んでも上手く話せるようにはなりません。もしコミュニケーション能力を高めるために外国語を学びたいという人がいたらそれは本末転倒な気がします。

しかし、外国語でのやり取りをすることだけが外国語を学ぶ目標ではありません。言語とは思考体系です。その言語でしか思考しえない事柄というものが存在します。日本語にはあっても外国語にはない言葉や言い回しがあり、逆もまた然りです。

日本語だとうまく理解できない文章があったとします。しかし、その文章を英語や中国語に置き換えるとすんなりと理解できるというケースは案外多いのです。新たな思考形態を得たことで文章に対する新たなアプローチ方法を獲得し、結果として読解力は飛躍的に上がります。

読解力が上がればあらゆる方面に関する理解力、分析力も当然ながら上昇します。ひいては世界を把握する力そのものが変わるのです。

世界は言葉で分析できます。世界が分析できれば世界そのものは変わらなくても世界観と世界に対するアプローチが変化します。

外国語を学ぶということは、世界と己の関係を転換させることでもあるのです。

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