カテゴリー「コンサートの記」の294件の記事

2017年4月20日 (木)

コンサートの記(294) 下野竜也指揮広島交響楽団第369回定期演奏会大阪公演「下野竜也音楽総監督就任披露 シーズン開幕 下野×広響《始動》」

2017年4月14日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、広島交響楽団の第369回定期演奏会大阪公演「下野竜也音楽総監督就任披露 シーズン開幕 下野×広響《始動》」を聴く。
この4月から広島交響楽団(広響)の音楽総監督に下野竜也が就任したことを記念して行われる大阪公演。広島交響楽団が大阪で演奏会を行うのは実に24年ぶりになるという。

音楽総監督というポストは、ドイツのオペラ劇場などではよく用いられるが、日本のオーケストラに設けられるのはかなり珍しいことである。就任時から音楽総監督というケースはあるいは初めてかも知れず、下野に対する広響の期待が窺える。

曲目は、ブルックナーの交響曲第8番(ハース版)1曲勝負。

以前は、記念演奏会のプログラムというと、ベートーヴェンの第九が定番であったが、最近ではマーラーの交響曲第2番「復活」や、ブルックナーの交響曲第8番がプログラミングされることも多い。大植英次が大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督としてのラストのコンサートで取り上げたのもブルックナーの交響曲第8番であった。


ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏。コントラバスがステージの一番後ろに横一列に並ぶタイプの配置である。ティンパニは舞台上手に陣取る。

今日のコンサートマスターは佐久間聡一。フォアシュピーラーは日本センチュリー交響楽団のアシスタントコンサートミストレスから広響のコンサートミストレスに転身した蔵川瑠美。
広島出身で現在は読売日本交響楽団のコンサートマスターを務める長原幸太が第2ヴァイオリンのトップとして特別に参加していた。コンサートマスター以外のポジションに長原幸太が座ることは最近では珍しい。

今日は3階席は使用していないようで、ポディウムに陣取る人も少なめ。1階席はほぼ満席である。私は今日は1階席の上手寄り後方の席で聴く。


冒頭は少しずれる。ザ・シンフォニーホールでの演奏にしては響きが豊かでないように感じられるが、演奏し慣れていない故なのであろう。第1楽章では弦がやや薄く感じられ、管はパワーはあるが音色がやや硬い。

第2楽章にはアタッカで入る。弦の音は少しずつ豊かになってきたように感じられるが、下野の悪い癖で、金管を思いっきり吹かせるため、ややうるさく感じられる。
この第2楽章と第4楽章は、スケールも大きく、響きも済んでいて、ブルックナーの良さが感じられる演奏になった。

第3楽章では弦が健闘するも、音色がやや熱すぎで美観を欠く場面もあった。

第4楽章は、迫力はあったが、やはり木管も金管も音色が硬い。広島にはクラシック音楽専用のホールはなく、広響の本拠地も多目的ホールであるため、ザ・シンフォニーホールでの演奏に適応出来なかったのだろう。
また、下野の実力をもってしても、ブルックナーの交響曲第8番をきちんと聴かせられるようになるにはまだ早いということなのだと思われる。下野は今年48歳。一般に指揮者として一人前と認められるのは50歳になってからだといわれている。

下野と広響のコンビの初顔合わせとしては成功だと思えるが、演奏会としての出来は少なくとも「万全」とはいかなかったように思う。


下野は、喝采に答え、最後はブルックナーの交響曲第8番の総譜にお辞儀をしてから、「広島にも来て下さい」と客席に言って、コンサートはお開きとなった。

広島交響楽団は、今年の10月にもハンヌ・リントゥの指揮で大阪公演を行う予定である。

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2017年4月18日 (火)

コンサートの記(293) 下野竜也指揮京都市交響楽団スプリング・コンサート2017

2017年4月9日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団スプリング・コンサートを聴く。今日の指揮者は、この4月から京都市交響楽団の常任首席客演指揮者に昇格した下野竜也。
下野竜也は2014年4月から京都市交響楽団の常任客演指揮者を3年間務めていた。2014年といえば、大植英次が大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽監督監督を辞任した年で、下野は当時も大フィルに定期的に客演していたばかりでなく、「吹奏楽meetsクラシック」というオリジナル企画も指揮していた。ということで、そういうことだったのかも知れないが、真相は明かされないだろう。

今日のコンサートマスターは渡邊穣、フォアシュピーラーは尾﨑平。

今回のスプリング・コンサートは、例年とは少し違い、各楽器奏者をフィーチャーしたもので、各楽器毎のアンサンブルや、ソロを務める曲目を選んでいる。ということで、90名程の楽団員全員の名前が下野によって読み上げられた。下野は全員の顔と名前をそらんじており、「流石、指揮者」の記憶力である。
また、楽団に親しみを持って貰うには、楽団員の顔と名前を聴衆に覚えて貰うのが一番なので、そうした意図も勿論あっただろう(NHK交響楽団はNHKホールでの定期演奏前に、基本的に降り番の楽団員によって室内楽の演奏会がある。常連さんは室内楽演奏が終わった後で、楽団員と話したり出来るということもあり、N響の定期会員は楽団員全員の名前を知っている人が多いと思われる)。


まずは、ワーグナーの「ローエングリン」第3幕への前奏曲。下野は京響から透明感溢れる響を引き出す。また強弱の付け方も緻密だ。

場転があるため、その間は下野がマイクを片手にスピーチを行う。下野が「言いにくいのですが」と言った後で、「常任首席客演指揮者」と新しいポスト名を噛まずに言うと拍手が起こる。


最初にヴァイオリン奏者の紹介。オーケストラ団員全員がいったんはけて、必要な人だけがステージに登場するというスタイルである。曲目はパッヘルベルの「カノン」。ヴァイオリン奏者全員の名前が下野によって読み上げられる。チェロやコントラバスの奏者もいるが、彼らの名前が呼ばれるのは、それぞれの楽器が主役になってからである。
この曲ではパイプオルガンの桑山彩子がステージ上のリモート鍵盤を使って演奏に参加した。

ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバスの演奏者は、全員、立ったままで演奏をした。下野は弦楽器の曲目の時は編成が小さいということもあって、ノンタクトで指揮する。


ヴィオラ奏者達による演奏。ブルッフの「ヴィオラと管弦楽のためのロマンス」が演奏される。飯田香織編曲の「SDA48版」での変奏である。
ヴィオラのことを、下野は「渋いけれどそれだけじゃない、野球でいうとショートのような」と例え、「人間の声に一番近い楽器」と紹介した。


ちなみに、下野は各パートのトップ奏者に好きな女優や俳優、芸能人を聴いており、小泉今日子、本上まなみ、竹内結子、新垣結衣、きゃりーぱみゅぱみゅ、渡辺謙、松坂桃李らの名前が挙がっていた。渡辺謙は「だった」と過去形で、愛人疑惑がマイナスに作用したようである。後ろの席のお客さんが、「本上まなみって誰?」と言っていたが、本上まなみは四条室町にある池坊短期大学卒、東京での芸能活動を経て現在は京都市在住なので、京都に住む人なら知っておいて欲しい人である。今度アニメ映画化される『夜は短し歩けよ乙女』の原作者、森見登美彦が本上まなみのファンであることもよく知られている。
好きな芸能人と音楽とは余り関係がないが、映画音楽作曲のヘンリー・マンシーには、「主演女優の顔を思い浮かべると良いメロディーが浮かぶ」と答えているため、完全に無関係というわけでもない。

下野は、ステージマネージャーの日高さんにも好きな女優を聞いたのだが、日高さんの答えは「堀内敬子」で、下野は「仕事も渋いが女優の好みも渋い」と述べる。
堀内敬子は、劇団四季出身の女優さんで、テレビに出ることはそう多くはないが、舞台ファンで彼女の名前を知らない人はモグリと断定しても良いほど演劇界では活躍している女優である。三谷幸喜作品の常連で、舞台「コンフィダント・絆」では、中井貴一、生瀬勝久、寺脇康文、相島一之を抑えて、ポスターではセンターポジションを獲得し、第33回菊田一夫演劇賞と第15回読売演劇賞優秀女優賞を受賞している。


チェロ奏者達によるヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ第1番」より「序奏」。下野によると、チェロ奏者達というのはどのオーケストラに行ってもとても仲が良いそうである。飲み会参加率も高いそうだ。無料パンフレットには京響団員全員の顔写真が載っているのだが、チェロ団員だけは歯を見せて笑っている人が一人もいないため、下野は「硬派な人達」とも述べる。
ブラジル人作曲家であるヴィラ=ロボスの作品だけに、熱い曲と演奏であった。
ちなみに古典配置であろうが現代配置であろうが、ヴィオラは一貫して上手側から出てくるのだが、今日は下手側からの登場となるため、下野から「あちら(下手側)から出慣れていないので(ヴィオラ奏者達は)緊張しています」と言われていた。


前半最後は、コントラバス陣。フィッツェンハーゲンの「アヴェ・マリア」を演奏。(中原達彦編曲)。首席奏者の黒川冬貴のみならず、副首席奏者の石丸美佳も主旋律を受け持つことが多い編曲である。コントラバス陣が舞台手前側に横一列になって弾くという余り見かけないスタイル。椅子を使わないで弾くため、かなり猫背になることが多かった。


後半。ハープ、打楽器と管楽器の登場である。

まずはハープ。京響ハープ奏者の松村衣里と実姉でハープ奏者の松村多嘉代がステージ前方に向かい合わせになる形で陣取り、2台のハープのための古典様式のコンチェルティーノより第3楽章が演奏される。結構、面白い曲である。秘曲・珍曲を好んで取り上げる下野であるが、流石にハープ2台による協奏曲を指揮するのは初めてだそうである。

演奏終了後、下野が松村姉妹にインタビュー。「ハープ奏者は、僕とはお育ちが違うように思うのですが」と下野はいう。そういえば三谷幸喜の「オケピ!」でもハープ奏者(初演では松たか子が、再演では天海祐希が演じた。役名は異なり、松たか子の時は東雲さんという苗字、天海祐希の時は如月さんという苗字であった)がお金持ちのお嬢様というイメージを勝手に持たれて困るということを歌っていたが、下野が「家にハープが何台あるか?」と聞くと、松村衣里はいきなり「数えたことないんですけど」と相当数あることがわかる。松村衣里が「8台ぐらい」と答え、松村多嘉代も「だいたいそれぐらい」と答える。下野は「8台もハープを持ってるなんて大阪城に住んでるとしか思えない」と語っていた。
ちなみに松村衣里は小学校3年生から本格的にハープを習いだしたが、松村多嘉代は音大卒業まではピアノを専攻しており、その後、ハーピストに転向したそうで、ハープを始めたのは妹の衣里の方が先なのだそうである。


続いて、打楽器の3人(中山航介、福山直子、宅間斉)が登場。「ハスケルのあばれ小僧」(野本洋介編曲)が演奏される。下野は演奏前に、曲目を「暴れ太鼓」と間違えて紹介して打楽器奏者達に突っ込まれていた。
3人とも打楽器を始めたきっかけは、中学1年の時に吹奏楽部に入部してだそうである。
複数人が協力して、バチで矢印を作るなど遊び心に満ちた演奏である。
NHK交響楽団首席オーボエ奏者の茂木大輔のエッセイによると、打楽器奏者はひたすら等間隔に打つ練習をするのだそうで、茂木も大学生の時に打楽器にチャレンジしたもののなにが面白いのか結局わからず止めてしまったそうだが、ひたすら打つ練習をしないと、今日のような演奏は無理だなということは想像出来る。


フルートパート。今年の2月に京響首席フルート奏者に就任した上野博昭(髪型といい、口ひげといい、眼鏡といい、藤田嗣治を想起させるが、おそらく意図的に真似たものではないと思われる)の自己紹介の時間が演奏終了後に設けられたが、上野はトークは得意ではないようだ。
ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲より「パントマイム」の部分を中心に纏めたものが演奏される。副首席奏者の中川佳子は、比較的珍しいアルトフルートを演奏した。
瑞々しい出来である。


オーボエパート。ベートーヴェン作曲のモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」より「お手をどうぞ」の主題による変奏曲(中原達彦編曲)。ややこしいタイトルで、下野も「ベートーヴェンだかモーツァルトだかわからない」と言っていたが、モーツァルトが作曲した主題を基にベートーヴェンが変奏曲として作曲したものである。土井恵美はイングリッシュホルン(コーラングレ)を演奏する。
オーボエの音色が上手く生きた演奏である。


クラリネット。ルロイ・アンダーソンの「クラリネット・キャンディ」というポップな曲が選択されている。片足を上げながら吹くという振り付きでの演奏。首席クラリネット奏者の小谷口直子はノリノリでやっていたが、他の奏者はどこかこそばゆそうで、後で下野に突っ込まれていた。


ファゴット。C・L・ディーッターの2本のファゴットのための協奏曲より第1番が演奏される。ファゴット協奏曲というと、モーツァルトなどが有名だが、それほど多くはなく、2台のファゴットによる協奏曲は新鮮に聞こえる。


ホルン。下野は、「ロベルト・シューマンは『ホルンはオーケストラの心だ』と表現しました」と語る。曲は、ウェーバーの歌劇「魔弾の射手」より「狩人の合唱」。京響の金管パートは広上淳一が常任指揮者に就任する以前から関西トップレベルにあったため、今日も輝かしい演奏が展開される。


トランペット。下野は「子供の頃、トランペットを吹いていた」という話をする。
早坂宏明は京響に入ってから今年で29年になるそうで大ベテランだ。稲垣路子は普段は眼鏡を掛けていることが多いのだが、ワーグナーとこの曲では眼鏡なしで登場。コンタクトレンズも持っているのだろう。稲垣はラストの曲でも登場したが、その時は眼鏡を掛けていた。
曲目は、ルロイ・アンダーソンの「トランペット吹きの休日」。運動会の音楽としてもお馴染みの曲である。普通は3管編成で演奏されるのだが、今日は首席トランペット奏者のハラルド・ナエスがピッコロトランペットとして加わったバージョンで演奏される。サードトランペットは西馬健志。
ハラルド・ナエスのピッコロトランペットは装飾音的に加わる。軽快な演奏である。


トロンボーンパート。下野は、「天使の楽器と呼ばれるトロンボーン。どう見ても妖精には見えないおじさん達が演奏しますが、見た目が天使ではなく心が天使」と語り、現れた首席トロンボーン奏者の岡本哲に仕草で、「冗談はやめてよ」と突っ込まれる。
曲は、「星に願いを」(宮川彬良編曲)。説明不要なほど有名な曲だが、トロンボーン合奏版を聴くのは初めてである。トロンボーンは宗教的な側面がある楽器であり、この曲にはよく合っていた。


テューバ。京響歴最長となる武貞茂夫の独奏である。下野は武貞が出てくる前に、「ミスター京響をお迎えする」「とても緊張する」と語る。
曲目は、ドミトルのルーマニアン・ダンス第2番。編曲は京響トランペット奏者の早坂宏明が行っている。テューバをソリストにした曲を聴く機会はまずないので貴重である。京響のテューバを一人で担う武貞は伸び伸びとした演奏を行う。


最後は、フル編成によるレスピーギの交響詩「ローマの松」より「アッピア街道の松」。
下野は吹奏楽出身ということも影響しているのか、ショーピースではブラスをバリバリと鳴らした虚仮威しの演奏を行うことがあるのだが、今日は管と弦のバランスも良く、細部まで目の行き届いた見事な演奏を聴かせる。
このコンサートではポディウム席は販売されておらず、可動式の座席は取り外されていて、そこにバンダが陣取って演奏した。
パイプオルガンの桑山彩子もこの曲ではポディウム後方の本来の位置で演奏するが、オルガンの音はラスト以外はそれほど明確には聞き取れなかったように思う。


下野は、「この4月から京都市立芸術大学の教員になった」と語り、京都の歴史や芸術などに関しての本を読んでいるということも明かした。

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2017年4月15日 (土)

コンサートの記(292) 小泉和裕指揮日本センチュリー交響楽団 「センチュリー豊中シリーズ Vol.1」

2017年3月26日 豊中市立文化芸術センター大ホールにて

午後3時から、阪急曽根駅の南東にある豊中市立文化芸術センター大ホールで、小泉和裕指揮日本センチュリー交響楽団による「センチュリー豊中シリーズ Vol.1」というコンサートを聴く。
日本センチュリー交響楽団は、大阪センチュリー交響楽団時代から、事務局と練習所、野外音楽堂を豊中市の服部緑地内に置いていたのだが、定期演奏会は大阪市内のザ・シンフォニーホールといずみホールで行っており、豊中からは阪急を使えば十三や梅田まですぐに出ることが出来る上に、豊中市内にはクラシック演奏に適当なホールがないというということもあって、学校巡りや街角コンサートを行っていた程度であった。だが豊中市立文化芸術センターの完成により、豊中市内に新たな演奏拠点を持つことになった。
豊中市立文化芸術センター大ホールの杮落とし公演でも飯森範親の指揮で日本センチュリー響は演奏しているが、定期的に行われる演奏シリーズは今日が初回ということになる。

豊中市立文化芸術センター大ホールであるが、思ったよりも小さく、このキャパだと施設によっては中ホールに分類されるところもあるだろう。兵庫芸術文化センターKOBELCO大ホールのサイド席をなくして、2回りほど小さくしたような内観である。ステージ背後と、ホール側面の壁には木材がイレギュラーな形で突き出しているが、これは音の適度な分散を図ったものだと思われる(同様の趣向は京都コンサートホールの天井にも施されている)。
音であるが、ナチュラル且つスマートで、残響は1秒前後と短め。残響というより自然な形で客席後方へと飛んでいくという印象を受ける。大きめのライブハウス(大阪でいうと、なんばHatch)のような音響であり、クラシックよりもポピュラー音楽に適しているのではないかとも思われる。
クラシック専用ホールの音響設計は、永田音響設計が手掛けることが多く、日本国内にあるあのホールもこのホールも音響設計は永田という状態なのだが、豊中市立文化芸術センター大ホールは多目的ホールということもあり、AGK建築音響株式会社が手掛けている。AGK建築音響株式会社は映画館の音響設計なども多く手掛けているようだ。

豊中市立文化芸術センターは、閉館して取り壊された豊中市民会館の跡地に建てられたものだが、大小のホールに練習室や展示室、カフェなど多くの施設を詰め込んだため、共通ロビーやホワイエなどは狭い。また大ホール内のビュッフェは、ホール自体がオープンしたばかりということもあって、まだ稼働していない。

日本センチュリー交響楽団の豊中での定期演奏の第1回となる「センチュリー豊中名曲シリーズ Vol.1」の演目は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(ピアノ独奏:小山実稚恵)とブラームスの交響曲第1番という、第1番を並べたもの。まさに第1回に相応しい選曲である。

小泉和裕は、2003年から2008年まで日本センチュリー交響楽団の前身である大阪センチュリー交響楽団の首席指揮者を務め、2008年からはセンチュリー響の音楽監督に昇進。2014年まで務めている。

ピアノ独奏者の小山実稚恵は現在、日本センチュリー交響楽団のアーティスト・イン・レジデンスとして企画に携わっている。


今日のコンサートマスターは、センチュリー響首席客演コンサートマスターの荒井英治。ドイツ式の現代配置だが、指揮者の正面にはティンパニではなくトランペットが配され、ティンパニはやや下手寄りに陣する。


チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。豊中市の花は薔薇だそうで、市内には豊中ローズ球場という名の野球場まである。それを意識したのかどうかはわからないが、ソリストの小山実稚恵は、ローズレッドのドレスで登場。

記念すべき第1音、ホルンによる序奏は残念ながら少し音がずれた。まだこのホールで演奏し慣れていないので仕方ないだろう。
小山は例によって情熱を叩きつけるような堂々としたピアノ演奏を展開する。このホールではピアノの高音がかなりクリアに響くようだ。
最近のピアニストは個性的な人が多いが、小山は正真正銘の正統派。野球に例えると剛速球エースというタイプである。
有無を言わさぬ圧倒的な技巧による演奏を展開した小山。第3楽章のコーダでは、新ホールでの第1曲ということもあってか、「ピアノの弦も切れよ」とばかりの激烈な演奏を展開。聴衆を熱狂させた。小泉指揮のセンチュリー響も冴え冴えとした伴奏を行った。

小山のアンコールは、ショパンのマズルカ作品67の4イ短調。仄暗さを生かしつつ、センチメンタルには陥らない演奏であった。小山はそもそもセンチメンタリズムを嫌う傾向があるように思われる。


後半、ブラームスの交響曲第1番。小泉和裕は暗譜での指揮である。
小泉はまずスケールを固めてから細部を詰めていくというタイプの指揮者であり、それゆえブルックナーなどは得意として、センチュリー響でもよく取り上げていた。
豊中市立文化芸術センター大ホールの音響と、中規模編成で立体感のある演奏を特徴とするセンチュリーの個性は、小泉の作り出す音楽に上手くマッチしている。
どちらかというとシャープなブラームスであり、雄々しさや威圧感のようなものは余り感じられない。小泉の指揮からは閃きも煌めきも感じられないが、その代わり確かな造形力がある。大風呂敷を広げることのない、ある意味日本人指揮者の王道を行くブラームスである。
小泉は基本的に真っ正面を向いて拍を刻むことが多い。時折、左右を向くが、「あれ? 次、ホルンのはずなのに逆を向いたぞ」という場面もあって、ある程度奏者の自発性に任せているところもあるようだ。

アンコールは、シューベルトの「ロザムンデ」より間奏曲第3番。中編成のオーケストラによる演奏ということで、愛らしい出来となった。

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2017年4月12日 (水)

コンサートの記(291) クシシュトフ・ウルバンスキ指揮NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団来日演奏会2017大阪

2017年3月15日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、「東芝グランドコンサート2017」 NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団来日演奏会を聴く。

NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団は、ギュンター・ヴァントとのコンビで親しまれた北ドイツ放送交響楽団(NDR交響楽団)が、新本拠地ホールであるエルプフィルハーモニーの落成と共に改名した団体である。
一昨年に、北ドイツ放送交響楽団名義で、首席指揮者であるトーマス・ヘンゲルブロックと共に来日し、大阪のザ・シンフォニーホールでも演奏会を行っていて私も聴いているが、新しい名称になってからは初来日である。
今日の指揮者は、ポーランド生まれの俊英、クシシュトフ・ウルバンスキ。NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者である。昨年まで東京交響楽団首席客演指揮者を務めており、大阪フィルハーモニー交響楽団も数度客演していて、日本でもお馴染みの存在になりつつある。ワルシャワのショパン音楽アカデミーでは指揮をNAXOSの看板指揮者として知られるアントニ・ヴィトに師事。2007年にプラハの春国際音楽コンクールで優勝に輝いている。
シャープな指揮姿であるが、時折、ダンスのようなステップも踏む。


曲目は、ベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番(ピアノ独奏:アリス=紗良・オット)、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」。オール・ドイツ・プログラムである。

ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏。フェスティバルホールにはパイプオルガンはないので、「ツァラトゥストラはかく語りき」では、電子オルガンが用いられる。

一度楽譜を見ただけで全て覚えてしまう「フォトグラフメモリー」という特殊能力を持つウルバンスキ。今日も指揮台の前には譜面台はなく、協奏曲も含めて全て暗譜で指揮する。

ウルバンスキ登場。どことなくGACKTに雰囲気が似ている。もっとも、GACKTを生で見たことはないのだけれど。


ベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番。ウルバンスキは情熱を持っているのだろうが、それを表に出すことの少ない指揮をする。
全編、ピリオド・アプローチによる演奏だが、特筆すべきは弱音の美しさ。本当に息を飲むほどに美しい超絶ピアニシモである。そしてラストに向けて盛り上がっていく弦楽のエネルギーの豊かさ。爽快なベートーヴェンである。


ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。ソリストは日本でもお馴染みになったアリス=紗良・オット。日独のハーフであり、「美しすぎる」という奇妙な形容詞が流行った時には「美しすぎるピアニスト」などと言われた。ピアニストのモナ=飛鳥・オットは実妹。
個性的なピアニストであり、ウルバンスキとは異なって情熱を剥き出しにするタイプである。
「裸足のピアニスト」としても知られているアリス。今日は黒いロングドレスの裾を引きずりながらチョコマカ早歩きで登場したため足下は見えなかったが、ピアノを弾くときは素足でペダルを踏んでいるのが確認出来た。

アリスのピアノは、浮遊感、透明度ともに高く、冒頭ではちょっとした歌い崩しを行うなど、今日も個性がフルに発揮されている。
第1楽章終了後、第2楽章終了後とも、ウルバンスキは腕を下げず、アリスがピアノを弾くことで楽章が始まるというスタイルを採っていた。
第2楽章のリリシズム、第3楽章のパワーなどいずれも感心する水準に達している。アリスは右手片手弾きの場面では左手の掌を上に向けて左肩の付近で止めていた。科を作っていたわけではなく、単に癖なのだろう。

演奏終了後、喝采を浴びたアリス。聴衆からお花も貰う(許可がない場合は聴衆としてのマナー違反になりますので、真似しない方がいいです)。

ウルバンスキ指揮のNDRエルプフィルハーモニー管弦楽団もピリオド・アプローチながら力強い伴奏を奏でた。

アンコールは2曲。まずは、昨年、「ピーコ&兵動のピーチケ・パーチケ」でも演奏していた、グリーグの抒情小曲集より「こびとの行進」。
20年近く前に、砧(きぬた)にある世田谷美術館講堂で、グリーグのピアノ曲演奏会(世田谷美術館の「ムンク展」関連事業)を聴いたことがある。演奏を行ったのは、グリーグ演奏の大家でNAXOSレーベルに「グリーグ ピアノ曲全集」も録音していたアイナル・ステーン=ノックレベルグ。「グリーグ本人の演奏にそっくり」といわれたピアノを弾く人だ。来日前に交通事故に遭ったそうで万全の体調ではなかったそうだが、ステーン=ノックレベルグは、「抒情の極み」とでもいうべき演奏を披露していた。
アリスの弾く「こびとの行進」は、ステーン=ノックレベルグのそれと比べると若々しいのは当たり前だが、リズム感の良さが際立っている。アリスは普段はクラシックは余り聴かず、ポピュラー音楽の方を好んで聴くそうだが、ポピュラーは「リズムが命」という面があるため、クラシック演奏にもプラスに働くのだろう。
メカニックが抜群なのは今更書くまでもない。

拍手を受けて椅子に腰掛けたアリスは、「皆様、今夜はお越し下さってありがとうございます。もうピアノが伸びてきてしまっていますので、最後にオーケストラのメンバーと皆様のためにショパンのワルツ遺作を弾きたいと思います」と言ってから、ショパンのワルツ19番(遺作)を弾く。テンポの伸縮自在の演奏だが、それが効果的であった。


後半、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」。ウルバンスキはやや遅めのテンポでスタートする。冒頭に出てくる3つの音が全曲を支配する「ツァラトゥストラはかく語りき」。ウルバンスキの表現は見通しが良く、リヒャルト・シュトラウスの意図もウルバンスキ自身の意思もよく伝わってくる。
「ツァラトゥストラはかく語りき」は有名曲なので、コンサートで取り上げられることも比較的多いが、これほど楽曲構成の把握がわかりやすく示された演奏を聴くのは初めてである。
NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団であるが、弦も管も技術は極めて高い。この曲は弦楽のトップ奏者がソロを取る場面が何度もあるのだが、全体がそうした室内楽的な緻密さに溢れた好演となっていた。弦の音色は透明度が高く、明るい。輝きに関しては昨日聴いたプラハ交響楽団とは真逆である。管楽器も力強く、音楽性も高かった。
なお、舞台袖での鐘は、グロッケンシュピール奏者が自身のパートを演奏し終えた後で上手袖に下がり、兼任して叩いていた。


アンコール演奏は、ワーグナーの歌劇「ローエングリン」より第3幕への前奏曲。非常に洗練されたワーグナーであり、ドイツの楽団でありながら「ドイツ的」といわれる濃厚な演奏とは一戦を画したものになっていた。

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2017年4月 6日 (木)

コンサートの記(290) 木下牧子作曲 オペラ「不思議の国のアリス」(演奏会形式)

2017年3月25日 びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール声楽アンサンブル第63回定期公演 木下牧子作曲 オペラ「不思議の国のアリス」を観る。原作:ルイス・キャロル、台本:高橋英郎&木下牧子。
 
2015年に岐阜のサマランカホールの委嘱によって作曲家自身が編曲した八重奏編成による演奏会形式の上演であるが、指揮者とオーケストラが舞台の上に上がっているというだけで、他は、衣装、セット、小道具、照明、映像などを用いた本格的な上演である。指揮は大井剛史(おおい・たけし)、演出は岩田達宗(いわた・たつじ)。演奏はザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団のメンバーで、ヴァイオリン・赤松由夏、ヴィオラ・上野亮子、チェロ・山岸孝教、フルート・江戸聖一郞、クラリネット・松尾依子、ホルン・西陽子、打楽器・安永早絵子、ピアノ・岡本佐紀子。
出演は、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーで、飯嶋幸子(いいじま・ゆきこ)、平尾悠(ひらお・はるか)、藤村江李奈、砂場拓也、林隆史、船越亜弥、山際きみ佳、古屋彰久、増田貴寛、五島真澄(男性)、川野貴之、内山建人、鈴木望(すずき・のぞみ)、本田華奈子、島影聖人(しまかげ・きよひと)、吉川秋穂ほか。

指揮者の大井剛史は、私と同じ1974年生まれ。昨年まで私の故郷にあるニューフィルハーモニーオーケストラ千葉(現・千葉交響楽団)の音楽監督を務めていたが、私はずっと京都にいたので、大井の実演に接するのは初めてである。
大井は17歳の時から松尾葉子に指揮を師事し、東京藝術大学、同大学院を修了。若杉弘と岩城宏之にも師事した。2008年にアントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで2位入賞。現在は山形交響楽団の正指揮者と東京佼成ウインドオーケストラの正指揮者を務めている。
オペラ「不思議の国のアリス」の初演でタクトを執ったのも大井である。


木下牧子は、日本作曲家界の中堅世代を代表する作曲家の一人。このオペラ「不思議の国のアリス」で2003年に三菱UFJ信託音楽賞奨励賞を受賞している。
東京藝術大学、同大学院を首席で修了。現代音楽の作曲家でも、映画音楽などの劇伴やポピュラー音楽を手掛ける人は多いが、木下はクラシック系の音楽のみで勝負するという、今では珍しいタイプの作曲家である。
ホワイエで開場を待っている時にも木下は姿を見せていたが、カーテンコールでは客席(私の席のすぐそばに座っていた)からステージ上に呼ばれて喝采を受けた。


舞台は2段になっているが、2段目は平台程度の奥行きしかなく(実際に平台を重ねたものだと思われる)、後ろ側にも降りられるようになっている。平台舞台の上手と下手に3段の階段がある。背後にはホリゾント幕(スクリーン)が下りていて、ここに日本語字幕や映像が投影される。投影される映像は、写真、CGなど多岐にわたる。


指揮者が立つと視覚的に問題が発生するため、大井は常に椅子に腰掛けての指揮である。端正で拍をきちんと刻むタイプの動きをする。

木下の音楽は、「大人から子供まで楽しめる、遊び心に満ちた日本語オペラ」を作るというテーマを掲げていた高橋英郎の委嘱で描かれた作品ということもあり、メロディアスで明快であるが、やはり現代音楽の作曲家であるため、時折、不協和音や鋭い響きが飛び出す。三拍子系の音楽が要所要所で用いられているのも特徴。


びわ湖ホール中ホールは基本的に演劇向けのホールであり、室内楽編成のオーケストラ演奏にもオペラにも適した音響とはいえない。八重奏の編成では音が小さく聞こえるのに、合唱が大音声を発すると、天井や壁がガタガタいう。


序曲に続き、舞台下手からアリス役の飯嶋幸子が飛び出してきてスタート。舞台前方からは客席に下りられるようになっていて、下手の階段を飯嶋幸子と、ウサギ役の藤村江李奈が用いて、中央通路を通って入退場を行った。

ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」であるが、かなりカオスな物語である上に、ラストは夢オチということで、知名度は高いが内容は余り知られていなかったりする。木下牧子も、ディズニー映画などでわかったつもりになっていたが、作曲のために文庫本で「不思議の国のアリス」を読んでみても良さがサッパリわからなかったそうで、3~4種類の日本語訳を読み比べたり、イギリス史や哲学などで背景を探ろうとしても無理だったのであるが、英語の原文で読んだら「すぐに理解でき」たそうである。英語で読まないと本当の良さがわからない本なのかも知れない。一応、日本語訳テキストでもメタレベルにまで落とし込んで、「マジックリアリズム」として解釈すれば面白いのだが、それは知的な面白さであり、ファンタジーとしての面白さとは別だと思われる。
背が高くなったり低くなったりを人間の成長の隠喩と取ったり、暴君そのものの女王を他のものに見立てたりは出来る。今は丁度、トランプという人が出てきているし。
ドードーの指示で行う体を乾かすための「ぐるぐる競争」や女王主催のクロッケー大会も、村上春樹が「回転木馬のデッドヒート」と表現した現代社会の模写のようにも見える。現代は、物語の中よりもリアルな世界の方が「不思議の国」に近くなっている。

オペラで「不思議の国のアリス」をやろうというのも困難である。アリスの体が大きくなったり小さくなったりを表現するのは舞台では難しいし(今回は写真を投影することで処理していた)、人間でないものが多く登場するので色物になりやすい。また、意味のわからないセリフが沢山出てくるため、観ている方の混乱を誘う可能性がある。

原作とは違い、青虫を百合の花(百合の花の演じるのは平尾悠。アリスの姉との二役である)に変えたり、容疑者として登場して一言しか発しないジャック(演じるのは古屋彰久)をアリスを誘う色男に変えたりして、物語を進めやすくしている。青虫が出てきたら本当に色物になってしまう。
帽子屋(増田貴寛)の歌は、「キラキラ星」のメロディーを意図的に崩して音痴に聞こえるようにしたもので、これは帽子屋の主題にもなっている。
鳥は複数のキャストが演じるのだが、団扇を両手に持って羽ばたくことで処理し、クロッケー大会の時には、原作にあるフラミンゴではなく掃除用具などを手にすることで過度にはみ出さないよう注意が払われている。

岩田達宗は、歌劇「ラ・ボエーム」や新作オペラ「夜叉ヶ池」で歌舞伎の手法を用いており、「意図してやっているのかどうか」を以前、岩田さんに聞いたことがあるのだが、どうも岩田さんが奥さんの影響で無意識にやっているようである。今回の「不思議の国のアリス」でも涙で起こった洪水を幕で表すという、歌舞伎でよく用いられる手法が取り込まれていた。

言葉遊びの場面は、原作を舞台に置き換えるのは難しいため、公爵夫人の茶会で「歌遊び」をするという設定で、公爵夫人が自身の「公」という頭文字に掛けて「コートダジュールに住みたい」と歌い、ジャックが「ジャマイカに住みたい」と歌い、アリスが「アイルランドに住みたい」と歌った後で、帽子屋が「ボートに住みたい」と歌って大滑りするという愉快なシーンになっている。帽子屋はこのオペラでは道化的存在として扱われているようだ。


日本人が日本語のオペラを上演する場合にネックとなるのはやはり演技力である。外国語で歌ったり演技をしている場合は、こちらが外国語に詳しくないということもあり、演技のレベルはわからない。ただ、日本語による歌唱や演技は当然ながらよくわかるのである。そもそも日本語オペラの場合は歴史が浅いため、指針がまだ定まっていないということもある。
日本の一流の舞台俳優と比べるのは酷だろうが、「酷」と思ってしまうのが現状でもある。

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2017年4月 5日 (水)

コンサートの記(289) ペトル・アルトリヒテル指揮プラハ交響楽団来日演奏会2017京都 スメタナ 「わが祖国」全曲

2017年3月14日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都・プラハ姉妹都市提携20年記念事業であるプラハ交響楽団の来日演奏会を聴く。指揮者は2度に渡ってプラハ交響楽団の首席指揮者を務めたことのあるペトル・アルトリヒテル(Webでは「アルトリフテル」表記の方が情報が多いようだ)。
プラハ交響楽団はプラハ市営のオーケストラである。
なお、入場者には、「京都・プラハ姉妹都市提携20周年」を記念して、京都洛中ロータリークラブからチョコレートが送られた。

スメタナの連作交響詩「わが祖国」全曲の演奏。

1996年4月に姉妹都市となった京都市とプラハ市。共に市営のオーケストラがあるということで(京都市交響楽団はその後、市直営から市の外郭団体による運営に切り替わった)、12年前となる2005年に京都市交響楽団とプラハ交響楽団は姉妹オーケストラの提携を結び、合同演奏会も行ったが、その後は少なくとも「密接な関係」にはなっていない。
プラハ交響楽団は、晩年のサー・チャールズ・マッケラスと名盤を多く残しているが、それ以前には「チェコのカラヤン」と呼ばれたヴァーツラフ・スメターチェクが育てたオーケストラとして知られていた。

指揮者のペトル・アルトリヒテルは、1951年生まれ。生地はモラヴィアにあるフレンシュタード・ポト・ラドシュチェムという長い名前の街である。フレンシュタード・ポト・ラドシュチェムの隣町にあるオストラヴァ音楽院で指揮法とホルンを学び、ブルノにあるヤナーチェク音楽院在学中の1976年にブザンソン指揮者コンクールで2位入賞及び特別賞受賞。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団でヴァーツラフ・ノイマンの助手を務め、1990年にプラハ交響楽団の首席指揮者に就任。この時は1年で退任している。1997年から2001年まではロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者として活躍。1993年に南西ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督に就任(2004年まで)。2002年から2009年まではチェコ国立ブルノ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者の職にあった。この時期、ブルノ・フィルとレコーディングを行っており、以前、ザ・シンフォニーホールでブルノ・フィルハーモニー管弦楽団が来日演奏会を行ったとき(指揮者は若手のアレクサンダー・マルコヴィッチであった)にペトル・アルトリヒテル指揮ブルノ・フィルのCD(「新世界」交響曲ほかを収録)を買ったことがある。
というわけで、CDでは聴いたことのあるアルトリヒテルだが、実演に接するのは初めてだ。
アルトリヒテルは、2003年から2006年に掛けて、再度、プラハ交響楽団の首席指揮者を務めている。

ドイツ式の現代配置での演奏。白人は体格がいいため、ウレタン仕様の椅子は二つ重ねて少し高くなるように調整されている。ステージはすり鉢状にしているが、上手下手出入り口付近は邪魔になるために上げずにフラットにしている。そのためなのかどうかはわからないが、最近の京都コンサートホールでの演奏にしては残響は短めであった。

日本人かどうかはわからないが、フォアシュピーラーの女性と、トライアングルを鳴らす打楽器奏者の女性は少なくとも東アジア系であるのは確実と思われ、国際的な面々が揃っているようだ。


演奏が始まる前に、駐日チェコ大使のスピーチがある。「皆様、こんばんは」「ようこそお越し下さいました」「ここからチェコ語に変わってもいいですか」と日本語で挨拶した後で、チェコ語でのスピーチを始める(日本語通訳も多分、チェコ人の女性)。「京都とプラハは姉妹都市であるが、文化のみならず経済なども含めてあらゆる面で姉妹都市である」ということ、「門川大作京都市長とアドリアーナ・クルナーチョバー・プラハ市長(女性である。現在、入洛中)に挨拶に行き、歓迎された」こと、「モルダウ」が日本でもお馴染みの曲になっていることなどを語り、「本当にありがとうございました」と日本語で言って締めた。


スメタナの連作交響詩「わが祖国」全曲。前半に「ヴィシェフラド(高い城)」、「ヴルタヴァ(モルダウ)」、「シャールカ」の3曲が演奏され、休憩を挟んで後半に「ボヘミアの森と草原から」、「ターボル」、「ブラニーク」が演奏される。

アルトリヒテルの指揮は拍を刻むオーソドックスなスタイルだが、かなり情熱的な指揮であり、身振り手振りは大きく、時には唸り声を上げながら指揮をする。膝を曲げて中腰になって指揮したり、片方の足でリズムを踏むもあるが、一番の癖は前髪を息で吹き上げながら指揮することである。

なお、総譜は、「わが祖国」全6曲を纏めたものではなく、交響詩1曲を収めた総譜6冊を利用していた。


第1曲「ヴィシェフラド(高い城)」では、出だしのハープ序奏を二人の奏者(共に金髪の女性である)に任せ、その後、指揮を始める。
プラハ交響楽団は、12年前に聴いたときには、「技術はまあまあ高く、音色は京響よりも豊か」という印象だったが、今日は弦の音は美しいものの、京響のように燦燦と光り輝くというタイプではなく、「渋い音」の部類に入る。勿論、音のパレットは豊かなのだが、基本的には「いかにも東欧のオーケストラらしい」玄人好みの音色である。一方の管は、思い切り吹いてもまろやかな音が出ており、美観は十分である。「やはり日本人とは肺活量が違うな」と思われるところもあった。
アルトリヒテルは音のブレンドに長けているようで、弦と管の音を上手く組み合わせて音楽を作る。

第2曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」は、一昨日、高関健指揮京都市交響楽団の演奏で聴いたばかりなので比較が可能である。といっても今日はポディウム席の1列目なので、1階席の18列目真ん中だった一昨日とはコンディションは異なる。
チェコのオーケストラが「モルダウ」の第1主題を演奏すると、どこがどうと詳しく説明することは出来ないのだが、「郷愁(ノスタルジア)」のようなものが強く感じられる。やはり祖国が誇る作曲家の作品であるため、思い入れが違うのだと思われる。
イメージ喚起力に長けた秀演である。

第3曲「シャールカ」は切れ味の鋭さが印象的な演奏であった。

第4曲「ボヘミアの森と草原から」。「わが祖国」の中では「モルダウ」の次に知名度の高い曲である。アルトリヒテルとプラハ響はスケールの大きな演奏を行う。

第5曲「ターボル」では、ホルンが吹き始める音型が、その後、各楽器に移っていくのだが、仄暗い情熱を感じさせつつもとても丁寧な仕上がりとなった。

ラストの「ブラニーク」。この曲には、とても美しいオーボエソロがあるのだが、プラハ響のオーボエ首席奏者のソロもとても美しい。またオーボエソロを受ける形となる首席クラリネット奏者と首席ホルン奏者(彼だけは燕尾服ではなく、ジーンズにジャンパーというラフな格好であった)の技術も極めて高度で、プラハ響の質の高さがまざまざと伝わってくる。まだ若いと思われるティンパニ奏者のノリとリズム感も抜群であった。


アルトリヒテルは、最後に6冊の総譜を掲げて、曲への敬意を表した。


プラハ交響楽団の知名度は日本全国ではそれほど高いとはいえないだろが、実質はともかくとして京都市交響楽団の姉妹オーケストラということもあり、京都コンサートホールは3階席正面の上手下手端、1階席後方の上手下手端を除けば席は埋まっていて、入りも上々といえるだろう。

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2017年3月31日 (金)

コンサートの記(288) 高関健指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2016(年度)「オーケストラ・ミステリー」第4回“大作曲家の秘密~音楽家の真実”

2017年3月12日 京都コンサートホールにて

午後2時から京都コンサートホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2016(年度)「オーケストラ・ミステリー」第4回“大作曲家の秘密~音楽家の真実~”を聴く。
今日の指揮者は京都市交響楽団常任首席客演指揮者の高関健。ナビゲーターはロザンの二人。

京都市交響楽団のポストは現在は3人体制で、常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一、常任首席客演指揮者の高関健、常任客演指揮者の下野竜也(来月から常任首席客演指揮者に昇格の予定)であるが、どういうわけか全員小柄である。高関健も公称162cmの菅弘文と同じぐらいの身長しかない。


曲目は、ストラヴィンスキーの「サーカス・ポルカ」、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」より第1楽章、ジョゼフ・ジョンゲンのオルガンと管弦楽のための協奏交響曲第3楽章と第4楽章(オルガン:福本茉莉)、スメタナの連作交響詩「わが祖国」より「モルダウ」、ショスタコーヴィチの交響曲第5番第4楽章。
ストラヴィンスキーとジョンゲンの作品を聴くのは初めて。ジョンゲンに至っては名前すら知らなかった。


今日のコンサートマスターは渡邊穣、フォアシュピーラーは尾﨑平。フルートは上野博昭が首席奏者に就任し、前半、後半共に登場した。オーボエ首席奏者の髙山郁子も全編に渡って出演したが、年度末ということもあって教職などに就いている人は忙しいようで、他の管楽器パートの首席奏者はいずれも顔を見せなかった。
第2ヴァイオリンの客演首席奏者は上敷領藍子。ヴィオラの客演に灘儀育子という奏者が入っているが、なだぎ武と関係があるのかは不明である。調べてみると灘儀氏は全国に30名から40名ほどしかいない珍しい姓のようである。
ドイツ式の現代配置による演奏であるが、指揮者の正面はティンパニの中山航介ではなく、スネアやトライアングルを演奏する福山直子で、ティンパニはその下手隣という陣立てである。


まずはストラヴィンスキーの「サーカス・ポルカ」。アメリカ時代の作品である。1942年に、50頭のゾウと50人のダンサーによって、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたサーカス公演のために書かれた曲である。「ペトルーシュカ」や「春の祭典」のような変拍子と鮮烈にしてカオスな感覚は残しつつ、寄り洗練された音楽に仕上げた作品。ラストにはシューベルトの「軍隊行進曲」のパロディーがあり、ゾウがそれに合わせてのんびり動いたであろうことが想像される。

演奏終了後、高関がマイクを手に挨拶を行い、早速、ナビゲーターのロザンの二人を呼んで、トークを始める。高関は「この曲はゾウには不評だったようです。どう聞こえていたのかはわかりませんが」と話す。

高関は「サーカス・ポルカ」の変拍子の話をするが、菅ちゃんは、「変拍子は難しいです」と知ったかぶりをする。

高関は、「春の祭典」の話をし、「初演時は、バレエの上演だったのですが、大不評でして、ステージのトマトが投げ込まれたという話もあります」と説明する。宇治原史規が「なんでトマトを持ってきてたんでしょうね?」と言い、菅ちゃんも「投げるために持ってきていたとしか思えない」と続ける。

続く、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」であるが高関は、「これも初演の時に『春の祭典』と同じ目に遭っている」と語る。高関は、「当時は長すぎたし、全体では三拍子なのですが、変拍子の部分もあって、聴衆には難しいと感じられた」と説く。菅ちゃんは、「変拍子だけは(僕には)出来ない」と言って、宇治原に、「変拍子だけって(変拍子だけちゃうやろ)」と突っ込まれる。

「英雄」というタイトルについては、高関は「表紙だけ残っていて、そこに『ボナパルトに捧ぐ』と書かれていて、ナポレオンだったのは間違いない。ただ、その上に思いっきり書き殴って消してある」と話した。


そのベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」より第1楽章。ピリオド・アプローチによる演奏。弦楽奏者はビブラートを抑えめにして右手のボウイングがかなり多い。テンポも速めである。
高関はこの曲はノンタクトで指揮。細部を丁寧に整えた演奏であった。クライマックスのトランペットは当然ながら途中で消え、木管がそれを受け継いだ。

出てきた菅ちゃんは、変拍子について「ちゃんと出来てました」と述べる。


ジョンゲンのオルガンと管弦楽のための協奏交響曲。ジョゼフ・ジョンゲン(1873-1953)は、ベルギー出身のオルガニスト兼作曲家で、この曲はアメリカ・フィラデルフィアのデパートに設置された巨大パイプオルガンのために作曲されたものだという。ただ、オーケストラがなかなかデパートに行く機会がなく、デパートで初演されたのはジョンゲンの死から半世紀以上が経過した2006年になってからだそうで、地元の名門オーケストラであるフィラデルフィア管弦楽団を招いて演奏が行われたという。

パイプオルガン奏者の福本茉莉が紹介される。今日はポディウム席は真ん中は前2列だけ、上手下手は前3列だけを残して取り払われている。
福本茉莉は1987年生まれのオルガニスト。まだ二十代の若い演奏家である。東京都出身。東京藝術大学卒、同大学院修了。2011年に渡独し、ハンブルク音楽演劇大学でヴォルフガング・ツェーラーに師事し、翌2012年には武蔵野市国際オルガンコンクールに日本人として初めて優勝。昨年、オルガンのドイツ国家演奏家資格を栄誉付き最高点にて取得したばかりである。NAXOSからCDをリリース。予告のチラシではNAXOSのCDジャケットに使われた厚化粧のものが使われたが、やはりそれではまずいのか、今回の無料パンフレットには一転して可愛い系の写真が用いられている。
福本は東京生まれの東京育ちだが、性格はトークから受けた印象による限りは、「大阪のよくいそうな姉ちゃん」である。
文化庁新進芸術家海外派遣研修員として現在もハンブルク在住。

宇治原が福本に、「どこで練習してはるんですか?」と聞き、菅ちゃんが「夜中に(ホールに)忍び込んで?」とボケる。福本も「(練習は)しません」とボケ返した後で、「クラーヴィアというものがあって、それで練習します。後はドイツなので教会が一杯あるので、鍵を借りて練習したり」と答える。「オールナイトで練習することもある」そうだが、「あんまりうるさいと警察が来ちゃうので」と思いっきり演奏することは出来ないということも語る。

パイプオルガンの説明。福本は、「リコーダーはご存じだと思いますが、あれが何本も立っているような感じ」「全部で7155本」と語る。高関が「リコーダーは穴を指でふさいで演奏するけれど、オルガンだとふさげる人がいないので」と補足する。福本は「音を組み合わせることで、7155よりも多い音を生み出すことが出来ます」と語った。

ジョンゲンのオルガンと管弦楽のための協奏交響曲。第3楽章は雅やかな旋律をオーケストラが奏で、フランス音楽のように響きの美しさを優先させた神秘的な音楽がパイプオルガンと管弦楽によって演奏される。
第4番は、一転して映画音楽のようなど派手な音楽。オーケストラもパイプオルガンも盛大に鳴り響いて、爽快な演奏となった。
休憩を挟んで後半。スメタナの「モルダウ」。
高関がロザンの二人に、「スメタナはチェコで初めてオーケストラ曲を書いたと言ってもいい人物なのですが、『モルダウ』は知ってますよね」と聞き、宇治原は「それはもう」と答え、菅ちゃんは第一主題を鼻歌で歌い、「モルダウよ」と合唱版での歌詞も歌う。宇治原が「音楽の教科書にも載ってる」と補う。
高関は、「『モルダウ』と言いますが、チェコでは実際は、ヴァルタヴァなんです」と言って、総譜の表紙を見せる。宇治原が「本当だ。ヴァルタヴァと書いてあります。vltava」と答える。
高関は、「小さな流れが、二つに合わさるのですが大きくなって、お祭りで結婚式が行われて、夜になって妖精が出てきたりして、流れて、ずっと流れてるんですが激しい流れになって、プラハのお城これは『わが祖国』の第1曲に主題が出てくるのですが、お城が見えて、プラハの街を過ぎ去って、チャンチャンで終わる」と解説する。
「わが祖国」については高関は、「全部で6曲からなっていて、一晩のコンサートがそれで終わるぐらいなのですが、その2曲目が『モルダウ』です」と言って、宇治原が「全曲やるわけではないということで」と聞くと、「別に全曲やってもいいんですよ」と答える。宇治原は「オーケストラの方達、イヤイヤしてます」と言う。
スメタナについて、宇治原が「聴力を亡くした」と台本にあることを聞き、高関が、「耳鳴りが酷かったそうです。『モルダウ』を書いた頃には、もう何も聞こえないぐらいに」。スメタナはその後、精神を病み、精神病院にて60歳の生涯を閉じた。

「モルダウ」。精緻なアンサンブルを京響は聴かせる。音色は明るく、高関の指揮も見通しが良い。

演奏終了後、菅ちゃんは、あの「ティララティラララというところが好きなんです」と冒頭のフルートの旋律を口ずさんだ。
宇治原が、「最後の曲となりました」と言うと、菅ちゃんは「『モルダウ』ですか?」とボケて、宇治原に「後で聴け。家帰って聴け。録音で」と突っ込まれる。


最後の曲であるショスタコーヴィチの交響曲第5番より第4楽章。
高関は、「ショスタコーヴィチは天才少年だったわけです。作曲だけではなく、ピアニストとしても優れていて、自作自演の録音が残っていて優れたピアニストだったということがわかるわけですが、若い頃はやんちゃな曲も書いていたそうです」、宇治原「やんちゃというと?」、高関「わざと汚い和音を出してみたり、とんがった音を出したり。交響曲第4番という曲を書いたのですが、それは引っ込めまして20年以上経ってから初演された。彼が10歳の時にロシア革命が起きまして、ソ連の不自由な社会がやってきたわけです」、宇治原「スターリンの音楽家にとっては良くない時代」、高関「はい。変なこと出来ない」、宇治原「したら捕まると」、高関「告げ口されますので(ソ連では密告が奨励されていた)」、菅「じゃあわからないように『ソ連アホ』と」

実は、ショスタコーヴィチはこの曲でも反抗を行っているのだが、高関は「言えない」と語る。

通常のテンポで演奏がスタートするが、その後加速する。高関は猛々しい部分には余り気を配らず、悲しみに溢れた場面は丁寧に演奏することで凱歌には聞こえないよう工夫する。

演奏終了後、菅ちゃんは前回同様、やはり自分が演奏の立役者でもあるかのように右手を挙げ、宇治原に制される。
菅ちゃんは、「格好いい曲ですね!」と絶賛した後で、「わかりました。シンバルです。叩く間に『ソ連アホ』とつぶやく」と言う。高関は左手の人差し指を左右に振って、「NO」と告げていた。


アンコールはショスタコーヴィチの「タヒチ・トロット(二人でお茶を)」。高関は、「天才少年ショスタコーヴィチに、『君、そんなに天才少年だっていうんなら40分あげるから曲を書きなさい』と言う人がいて、本当に40分で書いた曲」だと説明する。既成のジャズ曲をアレンジしたもの。高関は「二人でお茶を」の旋律を口ずさむが、宇治原から「小さくて聞こえない」、菅ちゃんから「後ろめたいことでもあるんですか?」と言われてしまう。
ソ連風とは一線を画した洒落た演奏。京響の明るめの音色もプラスに作用した。

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2017年3月28日 (火)

コンサートの記(287) 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXV 歌劇「カルメン」京都

2017年3月22日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後6時30分から、左京区岡崎にあるロームシアター京都メインホールで、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXV 歌劇「カルメン」を観る。作曲:ジョルジュ・ビゼー、アルコア版での上演。指揮は小澤征爾と村上寿昭(むらかみ・としあき)の二人による振り分け。演奏は小澤征爾音楽塾オーケストラ。演出:デイヴィッド・ニース。出演は、サンドラ・ピクス・エディ(カルメン)、チャド・シェルトン(ドン・ホセ)、ケイトリン・リンチ(ミカエラ)、ボアズ・ダニエル(エスカミーリョ)、サシャ・ディハニアン(フラスキータ)、アレクサンドラ・ロドリック(メルセデス)、河野鉄平(こうの・てっぺい。ズニガ)、タイラー・ダンカン(モラレス)、町英和(ダンカイロ)、大槻孝志(レメンダード)ほか。合唱:小澤征爾音楽塾合唱団(合唱指揮:松下京介)、児童合唱:京都市少年合唱団、振付:サラ・エルデ。
シカゴ・リリック・オペラのプロジェクトによる上演である。

約8年ぶりに接することとなる小澤征爾指揮の実演。その間に小澤は癌を患い、克服したものの、一晩を通したプログラムを演奏する体力がどうしても戻らないため、今回も村上寿昭との二人体制での指揮となった。
なお今年の夏に松本市で行われるセイジ・オザワ松本フェスティバルの公式プログラムが発表になったが、小澤が指揮するのはベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番とピアノ協奏曲第3番(ピアノ:内田光子)のみであり、他のプログラムはファビオ・ルイージ、ナタリー・シュトゥッツマン、デリック・イノウエが指揮する。

小澤征爾音楽塾が京都で行われるのは今回が2回目。昨年の第1回はヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」が上演され、今年は「カルメン」である。日本はプログラムが重複する傾向があり、京都でも昨年の暮れに京都芸術劇場春秋座で室内オペラスタイルの「カルメン」が上演されたばかり。更に今年に入ってから山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団ほかによる藤原歌劇団の「カルメン」も東京と名古屋で上演されたが、小澤征爾音楽塾による「カルメン」も今後、東京と名古屋で上演される予定である。


ロームシアター京都メインホールでオペラを観るのは今日で3回目。過去2回ともオペラハウスとしての優秀な音響に感心したが、今回も同様で、音に限れば日本最高のオペラハウスであると断言出来る。
今日は2階下手側のバルコニー席2列目での鑑賞。例によって、足置きの着いた、高い位置にある席であったが、今日はなんとか体力が持った。

今日の席からは、オーケストラピット内も指揮者もよく見えるし、舞台も比較的見やすい。また字幕を表示する機械(G・マークというらしい)も上手のものが真正面で、見やすかった。
また、トランペットによる舞台裏でのバンダ演奏があるのだが、私の席から調光室を見ると、指揮者を正面から捉えたカメラ映像が見えたため、モニターを見てバンダ演奏をしていることがわかった(音を外したりタイミングが合わなかったりと、今日のバンダ演奏は不調であったが)。

譜面台と総譜が2つ並んで用意されており、上手のものを小澤が、下手のものを村上が使用する。二人ともノンタクトでの指揮。小澤は近年はノンタクトでの指揮が基本だが、村上に関しては不明である。一人が指揮棒を使い、もう一人が使わないではオーケストラも歌手もやりにくいだろし、すぐ横に小澤がいるのに指揮棒を使うのは危険でもある。


小澤征爾についての説明は不要だと思うが、一応しておくと、1935年に旧満州国の奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)生まれの指揮者。成城学園高校を中退して桐朋女子高校音楽科(共学)に第1期生として入学。桐朋学園短期大学で齊藤秀雄に指揮を師事した後、船に乗って渡欧。たまたま知ったブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して名を挙げ、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮セミナーを受講後、レナード・バーンスタインに指揮を師事。20世紀後半を代表する二大指揮者に師事するという幸運に恵まれたが、そのため「ヘルベルト・バーンスタイン」などとからかわれることもあったそうである。タングルウッド音楽祭ではオーディションを勝ち抜いてシャルル・ミュンシュに師事している。レナード・バーンスタインの下でニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者を務め、日本に凱旋帰国も果たした。
日本では1961年にNHK交響楽団の指揮者に任命されるが、N響事件によって指揮台を追われ、国外に活動の場を求めるようになる(日本ではその後も「日フィル争議」に巻き込まれ、新日本フィルハーモニー交響楽団を設立している)。まずトロント交響楽団の首席指揮者を務め、その後、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に転身。そしてかつてシャルル・ミュンシュが黄金時代を築き、レナード・バーンスタインがタングルウッドで指揮していたボストン交響楽団の音楽監督を29年の長きに渡って務めて「世界のオザワ」の名声を確固たるものにする。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも共演多数。指揮者として小澤よりも先にデビューしていた岩城宏之は、小澤のあまりの出世ぶりに、「小澤を殺してやりたくなった」と自著で告白している。
2002年からはウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。


村上寿昭は、私と同じ1974年生まれの指揮者である。東京生まれ。桐朋学園大学卒業後、ベルリンとウィーンに留学し、オーストリアのリンツ州立歌劇場やドイツのハノーファー国立歌劇場の常任指揮者として活躍したほか、長年に渡って小澤征爾のオペラ公演のアシスタントを務めており、今回の小澤征爾音楽塾でも小澤と二人での振り分けを担うことになった。

小澤征爾音楽塾は今年で15回目を迎える音楽アカデミーで、メンバーは日本を含むアジア各国からオーディションを勝ち抜いた優秀な若者によって構成されている。毎年のようにオペラ公演を行っているが、時折、オーケストラ演奏のみの年もある。

小澤征爾は、ジェシー・ノーマンのカルメンで、歌劇「カルメン」全曲をフィリップスにレコーディングしているが、私は未聴。EMIにフランス国立管弦楽団を指揮した「カルメン」組曲もレコーディングしているが、こちらは歴代屈指の出来といっても過言ではなく、小澤のフランス音楽への適性を示している。

前奏曲であるが、フランス国立管とレコーディングしたものに比べるとグッとテンポが遅くなっており、強弱の付け方もそれほど頻繁ではない。指揮者は高齢になるに従ってテンポが遅くなるのが恒例だが、小澤の場合もそうなのかどうかはよくわからない。コンサート用とオペラ用の演奏が異なるのは当然であるし、会場にも左右される。

「闘牛士」の前奏曲が終わり、前奏曲の後半が始まると幕が上がり、壁を背にドン・ホセが立っているのがわかる。ライフルを担いだ憲兵が数名現れ、ドン・ホセを取り囲む。ドン・ホセの処刑のシーンであることがわかる。佐渡裕が指揮した兵庫県立芸術文化センター大ホールでの「カルメン」でも、ドン・ホセ処刑のシーンがあり(その時は電気椅子での処刑だった)、ドン・ホセのラストを描く演出が流行であるようだ。

小澤は、煙草工場の休憩時間に入るところまでを指揮して村上にバトンタッチ。同じオーケストラを指揮しているのであるが、小澤と村上とではやはり個性が違う。小澤の生み出す音楽が輝きを特徴にしているのに対して、村上の音楽は渋めでタイトだ。同じ製菓会社のミルクチョコレートとビターチョコレートのような関係というべきか。
小澤はフルートやピッコロを浮かび上がらせる術に長けており、前奏曲や間奏曲ではフルートの浮遊感や旋律美が光っていた。第4幕に出てくるオーケストラによる「闘牛士」は村上が指揮したのだが、小澤とは違い、フルートやピッコロを際立たせることはなかった。
ミカエラが去った後からは小澤が再び指揮を行った。

舞台は、第1幕、第2幕、第4幕では背後にコロシアムの壁が立っており、上部にも人が現れて効果的に用いられる。
第1幕では煙草工場は下手に設けられたバルコニーの袖にあるという設定であり、カルメンはバルコニーに現れて下に降りてくる。
「降りる」というのが一つのキーになっており、エスカミーリョはコロシアムの壁の上に現れて、階段を伝って下に降りてくるし、刑期を終えたドン・ホセもコロシアムの壁の上から素舞台へと階段で降りてくる。どうも、下にあるのは「醜い世界」であり、人々はそこに降りてくるようだ。

ミカエラというと、カルメンとは対照的な清楚な女性というイメージなのだが、今回のミカエラは、ステップを踏みつつ迫ってくるズニガに同じステップでやり返すなど、強気な面もある女性として描かれている。確かに強気な面がなければ、一人で盗賊団の群れに乗り込もうとは思うまい。ミカエラ役のケイトリン・リンチは少し太めの体型だが、そのために弱々しさが表に出ないという利点もある。

ドン・ホセがミカエラとキスするのをカルメンはテラスの上から見ている。ということで、今回の演出ではカルメンがホセに近づくために意図的に暴力事件を起こしたという解釈が取られていることがわかるようになっている。
カルメンが逃げるときも、ジプシーの盗賊団仲間がズニガに拳銃を向けて動けないようにするという演出が施されている。

第2幕では、まず村上が指揮。舞台左手には小さなステージが設けられ、フラメンコダンサーが踊っている。ギター奏者役の男性も二人いるがギター演奏はしておらず、ハープの音に合わせて弾く真似だけをしている。
エスカミーリョが去るまで村上が指揮して小澤にバトンタッチ。小澤はドン・ホセが再び現れるところまで指揮して、後は2幕の終わりまで村上に指揮を託した。

小澤征爾音楽塾オーケストラであるが、臨時編成であるため、統率力という意味では常設のプロ団体には及ばないが、音色は美しく、腕も立つ。

カルメン役のサンドラ・ピクス・エディは、第2幕ではフラメンコダンサー達に混じって自身もフラメンコを舞うなど、妖艶な雰囲気を醸し出している。その姿は、恋に生きる女そのものだ。ある意味、文学的解釈を廃した、純粋な「本能としての女」を炙り出しているようにも見える。

第3幕は小澤の指揮でスタートし、歌のナンバーごとに指揮を交代するというスタイルを取る。第3幕のみコロシアムの壁は登場せず、巨大な岩のオブジェが配されて、岩山が表現されていた。

装置転換のために幕を下ろした状態で少し待ってから第4幕がスタート。前半を村上が指揮し、カルメンとホセの二人だけの場面になってからラストまでは小澤が指揮した。
大合唱による場面はほぼ全て村上に任せられており、オペラ指揮者としての村上の腕を小澤が買ったものと推測される。ロームシアター京都メインホールは残響は長くないため、合唱が大音量で歌っても壁がギシギシいうということはほとんどない。

袖で聞こえる合唱の声がカルメンには希望に、ホセには絶望に聞こえるという場面。カルメン役のサンドラ・ピクス・エディもドン・ホセ役のチャド・シェルトンも演技が上手く、心の葛藤を上手く描き出す。エディ演じるカルメンはホセを臆病者だと信じ切っており、「刺せるものなら刺してみなさい」と仕草で挑発する。そのことが実際に刺されたときの驚きの表情をより効果的なものとしている。

ホセが、「俺を殺せ!」と歌うと、ライフルを担いだ憲兵達が現れ、前奏曲後半の場面が繰り返される。銃声の轟きが全編の幕となった。

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2017年3月26日 (日)

コンサートの記(286) ザ・カレッジ・オペラハウス ブリテン 歌劇「ねじの回転」2011楽日

2011年10月16日 大阪府・豊中市のザ・カレッジ・オペラハウスにて

午後2時から、大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスでベンジャミン・ブリテンの歌劇「ねじの回転」を再度観る。

ベンジャミン・ブリテンの歌劇「ねじの回転」。私はある理由で2階上手通路席を選択した。事前に掛けた電話ではチケットが取れるかどうかわからないとのことだったが、行ってみると、ちゃんとその席は確保されていた。

「ねじの回転」は一昨日も観たので、キャストや筋書きなどは割愛させて頂く。

一つ、前回は気づかなかったが、今日はわかったことがある。マイルズが歌う歌詞の中に「リンゴの木」というものが出てくる。前回は気に留めなかったのだが、今日は、「ああ、これはエデンの園、つまりアダムとイヴの物語だ」ということに気がつく。なぜ前回気がつくことが出来なかったかというと「アダムとイヴが食べたのはリンゴというのは間違いで実はイチジクである」という知識があったからである。知識は邪魔にならないというのは嘘である。知識が邪魔して見えるはずのものが見えなくなることもあるのだ。しかし、今日気づけたのもやはり「以前はリンゴとされていた」という知識があったからで、やはりこれも知識のお陰である。知識は役立つことも邪魔になることもある両刃の剣(もろはのつるぎ)である。

これがわかってしまうと、実はほとんどの謎が解ける。女家庭教師が「私は無垢を汚してしまった」と語るのは教育を施したという意味であり、なぜグロース夫人が亡霊を見ることが出来ないかというと、グロース夫人は教育を受けていないので、教養がある人なら見えていることが見えていないのである。

「リンゴの木」がエデンの園のことだとわかれば、この物語の主題が見えてくるが、その知識がなければ、主題は絶対に見えない。

主題は知性である。悪より悪なものは「知性」である。知性は人を利口にするが、狡猾にもさせる。荀子は性悪説をとなえ、教育によって善に向かうとしているがそれは本当だろうか? 話は変わるが、日本が日清戦争に勝利して台湾を領土にしたとき、台湾の住民に教育を与えるかどうかで、政府の意見は二分している。その時、「教育は両刃の剣」という言葉が使われたこともわかっている。

マイルズは実に頭の良い子供で、女家庭教師が秘密にしていたことも見抜いていて、鎌を掛けてくる。おそらく学校で悪さをしたことは本当で、それが退学処分に値するものであるということも、幼いのに分かっているのだろう。

女家庭教師にはそれまで亡霊が見えていたのにラストで急に亡霊の姿を見失うのは、マイルズへの「愛は盲目」状態になったからだろう。ただ、マイルズを救おうという知性は働いており、これがマイルズの思考を引き裂き、死に追いやったという可能性も考えられる。

頭の良い人は成功しやすいが、不幸にもなりやすいことがわかっている。「知らぬが仏」という諺もある。

ここで、発せられてはいないメッセージが私に届く。「さて、わかってしまったあなた、あなたはそれでいいのですか?」という言葉である。確かに知的に分析して面白いオペラではあるが、主題が分からずに「難解だけど怖かったね」という感想を持った方が遥かに楽しいはずである。

ただ、知性や教育の怖さは知ってはいる。現在では、勤勉であること真面目であることは当然ながら「善」とされている。何の疑問も持つ必要がないかのように思われるが、実は勤勉や真面目が「善」とされたのは産業革命以降のことで、教育によって民衆に教え込まれたことである。実は民衆を労働力として使うために洗脳する必要があったために生まれた価値観なのだ。
江戸時代には日本は世界に冠たる文化大国であり、浮世絵などがフランス絵画に影響を与えた(ラ・ジャポニズム)。しかし、明治以降は一気に文化後進国になってしまった。「富国強兵」が国策になったからである。江戸時代は商人に仕える丁稚でも「あそこの店の丁稚はろくな教養がない」と言われるのを主が嫌い、業務中であっても、当時の教養であった「笛や太鼓の稽古に行け」と主が丁稚に命じたほど文化が重視されたことがわかっており、歌舞伎の大向こうに陣取るのは仕事よりも歌舞伎を優先させる商家の主が多かったことが確認されている。

それが一気に変わる。文化よりも経済や軍事が優先。それが「当たり前のこと」と教育により洗脳される。戦後も、「まず経済を建て直そう」と文化は等閑視され、経済を建て直すための優秀なサラリーマンを増やすのが良いため、「良い高校から良い大学に行って、良い会社に入ること」が善いことだとされ、実際、そういう風に生きるのが一番楽である。そういう社会にしたのだから当然なのであるが、実はこれは落とし穴なのではないのか? 頭が良いことは本当に善いことなのか? それが「当たり前」と思うのは洗脳されたからではないのか? 重要なのは頭が良かったり高学歴であったり高収入であることではなく、幸せは本来は自分で見つけるべきものであることなのに、あたかも絶対的な「幸せ」があるように思い込まされて、思考を停止させていないか? 日本は経済大国であっても文化三流国なので実は先進国とは本当は見なされていないという話も聞く。

そうした考えが「ねじの回転」のように螺旋状にグルグル回りながら頭に突き刺さる。

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2017年3月25日 (土)

コンサートの記(285) ザ・カレッジ・オペラハウス ブリテン 歌劇「ねじの回転」2011初日

2011年10月14日 大阪府豊中市のザ・カレッジ・オペラハウスにて

午後6時30分より、大阪府豊中市にある大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウスで、ベンジャミン・ブリテンの歌劇「ねじの回転」を観る。原作:ヘンリー・ジェイムズ、指揮:十束尚宏(とつか・なおひろ)、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)、出演:井岡潤子(女家庭教師・主役)、植田加奈子(マイルズ)、高山景子(フローラ)、小西潤子(グロース夫人)、中川正崇(なかがわ・まさたか。クイント)、藤原未佳子(ミス・ジェスル)、柏原保典(かしわばら・やすのり。プロローグ語り手)。

昨日、ダニエル・ハーディング指揮の「ねじの回転」を観ているので、予習はばっちりである。

一番の注目は、ウィーンでのオペラ修行のため、長い間、日本楽壇から遠ざかっていた十束尚宏がどれだけ成長しているかであろう。

「ねじの回転」はホラー心理劇オペラである。

幕が開くと、紗幕があり、その前で語り手(柏原保典)が「これが奇妙な物語であること」「何十年も前に書かれた手記に基づくものであること」などを告げ、不気味さが増す。この手法はイギリスではよく取られるやり方で、例えばジュリエット・ビノシュ主演のイギリス映画「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ原作。音楽は坂本龍一である)でもエミリー・ブロンテが廃屋を訪れ、廃屋についての感想を語り(ナレーション形式のモノローグで画面上のエミリーが喋るわけではない)「嵐が丘」の着想を得るというシーンがプロローグ的に加えられている。小説「嵐が丘」を読んだことがない人にもこれからまがまがしい物語が始まることを知らせ、恐怖心を植え付ける工夫である。

ブリテンの音楽はDVDて聴いた時も優れていると思ったが、生で聴くと人間の心理の暗い部分をえぐり出すような不気味さが増し、明らかに天才作曲家のなせる技だとわかる。それを指揮する十束尚宏が生み出す演奏はシャープでエッジがキリリと立っている。伊達にウィーンで修行して来たわけではないことが確認出来た。

「ねじの回転」は、語り手によるプロローグの後で、女家庭教師(歌うのは井岡潤子。役名なし。原作が一人称で書かれたものだからだが、オペラ化に当たって役名が付けられることはなかった。ミュージカル「レベッカ」と同様である)がある若い紳士の依頼を受けて、ロンドン郊外のブライという田舎町に向かうところから始まる。紗幕に光が当たり、幕が透けて、列車に乗った女家庭教師の姿が見える。ここでのモノローグで、女家庭教師が依頼主に惹かれていることがわかる。

ブライの屋敷には家政婦のグロース夫人(小西潤子)と、二人の子供、つまりマイルズ(植田加奈子)とフローラ(高山景子)がいる。二人とも天使のような可愛らしさであり、マイルズは学校に通っていて学業優秀なのだが、ある日、学校から退学処分の手紙が届く。女家庭教師もグロース夫人も何かの間違いだろうと不問に付すのだが、これが実は鍵であることがわかる。この翻訳で女家庭教師は「無垢」という言葉を使い、二人の子供達を無垢だと信じ込んでおり、無垢こそが尊いと考えている節がある。だがこの上演ではマイルズが歌う歌詞の冒頭「ロト、ロト」に敢えて「悪、悪」という訳詞を入れて、どうやらマイルズが無垢な天使のようだというのは見せかけで、実は邪悪な人物なのではないかということがわかる。悪魔は元は天使が堕落した堕天使ということもある。学業優秀で退学処分になるということは実際はかなりのワルだと思われる。

このオペラには、クイント(中川正崇)とミス・ジュエル(藤原未加子)という邪悪な亡霊が現れて、一見すると、この二人の亡霊が子供達二人を悪の道へと引き込もうとしているかのように見える。が、実は逆なのではないだろうか。子供二人、特にマイルズの方が邪悪であるため、同類の亡霊を引き寄せたとも考えられる(第2幕冒頭で、二人とも「無垢なるものを手に入れたい」と歌うが、自分達がなぜここにいるのかは実はわかっていないようにも見える)。

舞台には不吉な感じのする赤い糸が垂れており、これが徐々に増えていくのだが、これはどうやら邪悪さを表しているのではないかと思われる。ラストでは主人公である女家庭教師の腰からも赤い糸は垂れる。太宰治は小説『斜陽』で「不良でない人間などいるだろうか」と書いているが、それに倣えば「邪悪でない人間などいるだろうか」ということになる。

ラストは、マイルズがクイントに「この悪魔」と言って事切れるのだが、これは悪魔に去れと言った場合、同類である自分も去らねばならないからだと思われる。いわば、自分の胸に向かって矢を射るようなもので、自殺行為である。荀子の性悪説などと言ってしまうと簡単だが、それよりも一段深く、「悪とは何か」を問いかけてくる佳作である。本も優れているが、ベンジャミン・ブリテンの音楽も人間心理を巧みに描写していて見事である。私は芸術の中では音楽が一番偉大だと思っている。他の芸術は心理を描く場合、何らかの媒体を必要とするが、音楽は心そのものを描くことが出来るからである。音楽は言葉と並ぶ人類の二大発明の一つだと私は思っている。

岩田達宗の演出で一番巧みだったのは亡霊であるミス・ジュエルの登場のさせ方。実はこれは予見出来た。というのも、劇場でレセプショニストが床にものを置いている観客に注意を促す場合は、必ず、役者がそこを通るからである。役者の足が引っかかって転倒事故が起きるのを防ぐためだ。劇場に何度も足を運んでいるとこれはわかる。
しかし、わかっていても実際に幽霊であるミス・ジュエルが目の前に現れるとゾクゾクする。本当に亡霊がいるように見えるからだ。
実はやはりイギリスの演劇でこの手法を用いた演出による舞台がある。種は明かせないので何という舞台かは書けないが、これはかなり効果的であった。私はその舞台を3度観たことがある(何だかやはり太宰治の『人間失格』の書き出しのようであるが)と書くと何という舞台かわかる人はいるかも知れない。

とまれかくまれ「ねじの回転」はデモーニッシュなオペラであり、指揮も演出も歌手達もよくそれを体現していたように思う。

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