カテゴリー「コンサートの記」の27件の記事

2008年12月29日 (月)

コンサートの記(31) 広上淳一指揮京都市交響楽団 特別演奏会「第九コンサート」2008

2008年12月26日 京都コンサートホールにて

日本の年末といえば第九。年末に限らず、第九がこれほど演奏されるのは世界広しといえど日本だけですが、年末というと日本中のオーケストラが必ず第九を演奏します。
戦前、NHK交響楽団の前身である日本交響楽団の指揮者だったローゼンシュトックが、「ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などでは毎年年末に第九をやっている」と日本に紹介したのが最初とされ、終戦直後に、尾高尚忠指揮日本交響楽団が楽団員の餅代稼ぎも含めて年末に第九を演奏したところ聴衆に大好評だったため、NHK交響楽団では毎年年末に第九を取り上げるようになり、定着したといわれています。

年末の第九はもうとっくにファッションと化してしまっており、それが嫌で、例年は会場まで聴きに行くことはないのですが、今年の京都市交響楽団の第九は広上淳一の指揮ということでコンサートホールまで出かけました。

広上淳一指揮京都市交響楽団 第九2008 午後7時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会第九コンサートを聴く。広上淳一指揮。合唱は京都市民合唱団。独唱は、ソプラノ:釜洞祐子、アルト:菅有実子、テノール:市原多朗、バリトン:河野克典。

ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が当然ながらメインだが、その前にモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が演奏される。

「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、やはり小編成の合唱で聴くのに適しており、第九用サイズの合唱団ではきめが粗くなるが、全体的な出来としてはまずまずだったのではないだろうか。

メインであるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」。公演パンフレットに、演奏時間65分と記されており、速めのテンポを採用していることがこの時点でわかった。

広上が引き出す京響の音は極めて明晰。第1楽章の冒頭は敢えてぼかす解釈を取る指揮者もいるが、広上は最初から解析度の高い演奏を展開する。スケールはさほど大きくないが音に活気があり、ハーモニーも美しい。普通の指揮者なら流すであろうところに敢えてギクシャクとした表情を入れてみせるのも個性的である。

第2楽章では、第1楽章とは逆にスケールの大きな音の運動を展開し、第3楽章ではしなやかな歌が印象的であった。

最終楽章では、広上の合唱コントロール力の高さが発揮される。ノンタクトで腕を動かし、手を下から上に押し上げるような独特の仕草で、合唱の音量もまた押し上げる。京都市民合唱団はプロではないし、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」ではそう上手いとも思わなかったのだが、第九では高度な音楽性を発揮。これも広上マジックだろうか。

第九演奏会ということで、普通はアンコールはないはずなのだが、今日は特別に大河ドラマ「篤姫」のテーマ曲が演奏された。

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2008年12月21日 (日)

コンサートの記(30) 「クリスティアン・ゲルハーヘルが歌う シューベルト『冬の旅』」

2008年2月7日 大阪・京橋 いずみホールにて

大阪は京橋の「いずみホール」で行われる、「クリスティアン・ゲルハーヘルが歌う シューベルト『冬の旅』」というコンサートに出かける。
タイトル通り、ドイツ出身のバリトン歌手、クリスティアン・ゲルハーヘルが、シューベルトの連作歌曲「冬の旅」全曲を歌う。

クリスティアン・ゲルハーヘルは、1968年生まれ。名前の片仮名表記は色々あり、最初は、「クリスティアン・ゲルハーハー」だった。しかし、それが仮に原音に近い表記だとしても、嘔吐して苦しんでいるような名前で、可笑しい。
だからか、のちに「クリスティアン・ゲルハーエル」に表記が変わった。そして、今回のコンサートでは「クリスティアン・ゲルハーヘル」という表記になっている。

ゲルハーヘルは、アルテ・ノヴァという廉価レーベルから「冬の旅」のCDを出している。このCDは1000円以下で手に入れることが出来るが、名盤といっていいだろう。安いアルテ・ノヴァ・レーベルからCDを出していたゲルハーヘルだが、売れっ子になったため、アルテ・ノヴァの親会社であるBMGの意向により、BMG内のより高いレーベルであるRCAに移っている。残念。

それはともかく期待出来るコンサートだ。

ピアノ伴奏はCDと同じ、ゲロルト・フーバー。
休憩はなし、全24曲を一作品として捉える解釈のようである。

ゲルハーヘルは、小さな声で、第1曲である「おやすみ」を歌い始める。声を張り上げるのは要所要所だけで、知的コントロールの行き届いた歌唱である。

休憩なしのコンサートということで、拍手はどうするのだろうと思っていた。「おやすみ」を歌い終えた後、小さな拍手が起こるが、ゲルハーヘルは手を挙げてそれを抑えるような仕草をした。「24曲で一作品という解釈なので、拍手は全て歌い終えてからに」ということだろう。「冬の旅」を聴きに来るような人に、クラシック・コンサートの初心者がいるはずもないので、聴衆もゲルハーヘルの意図を全て了解したようである。

ゲルハーヘルの解釈はリアリスティック。追われるようにして街を出て旅をする若者を的確に描写していく。表情も厳しい。

面白いことに、ピアノ伴奏のゲロルト・フーバーはゲルハーヘルとは対照的に音楽にのめり込んでいるような表情を見せる。伴奏なので、自分だけの世界に入ってしまうことはしないが、夢見るような表情でピアノを弾き、時々、声は出さずに唇だけ動かして「冬の旅」を歌っている。
というわけで、二人の表情の違いを見続けるのも面白い。

終演後、盛んな拍手が起こる。良いコンサートだった。

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2008年12月10日 (水)

コンサートの記(29) びわ湖ホール「ファジル・サイ ピアノリサイタル」2008

2008年11月30日 大津市の滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

びわ湖ホール大ホールにて午後3時からの公演を鑑賞する。「ファジル・サイ ピアノリサイタル」。

びわ湖ホール「ファジル・サイ ピアノリサイタル」2008

数少なくなった変人系天才ピアニスト、ファジル・サイ。1970年生まれのトルコ人ピアニストである。最近では何故か山口智子と噂になるなど、音楽以外でも話題になっていたりする。

びわ湖ホールのホワイエのモニターには、ファジル・サイのドキュメンタリー映像が流れていた。今もトルコを活動の拠点としているファジル・サイ。ドキュメンタリー中のインタビューによると、若い頃にはアメリカに拠点を置いたこともあったというが、田舎町での演奏旅行をこなさなければならず、「それならアナトリアで弾いていた方がよっぽどましだと思った」と語っていた。

曲目は、前半が、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」。後半は、作曲家でもあるファジル・サイの作品、「ブラック・アース」、「パガニーニ・ジャズ」、「トルコ行進曲・ジャズ風」、「3つのバラード」。そしてガーシュイン作曲、ファジル・サイ編曲の「サマータイム・ファンタジー」と「ラプソディ・イン・ブルー」。

ファジル・サイのピアノリサイタルには2年前にも接しているが、その時に比べるとファジル・サイは長髪になり、髪の色も白っぽくなっている。

ステージ上では相変わらず変人ぶりを発揮。片手で弾いている時は、もう片方の手を無意味に顔の付近に上げる、あるいはピアノに向かって指揮をする。上を向いて反っくり返ってピアノを弾いていたかと思えば、今度は客席をじっと見つめて弾き始める。弾きながら鼻歌を唄う。

それでいて生まれる音楽は個性的でありつつも上質である。

組曲「展覧会の絵」は一台のピアノによる演奏であるにも関わらず、並の管弦楽版演奏よりも多彩で表現力豊かだ。

ちなみにファジル・サイ、「テュイルリーの庭」の前の置かれた「プロムナード」の最後の3つの音を、鍵盤を弾くのではなく、ピアノの弦をそのまま手で弾いて出していた。「えー! そんなのありなの?」と思ったが、ファジル・サイがやると様になる。そして「ブィドロ」では足踏みを鳴らしながらも堂々とした演奏を繰り広げる。「卵の殻をつけた雛のバレエ」「リェージュの市場」などの速いパッセージをファジル・サイは圧倒的なテクニックと煌めくような音、いや煌めく音で駆け抜ける。「キエフの大門」の演奏も、適当なプロオーケストラの演奏よりもずっと巨大で迫力がある。

後半の自作の演奏。ファジル・サイが作曲家としても天才的であることを存分に知らせる出来である。ファジル・サイのファンにはおなじみの「ブラック・アース」での片手でピアノの弦を押さえることで弦楽器的な音色を出すというアイデア、「パガニーニ・ジャズ」や「トルコ行進曲・ジャズ風」の垢抜けた雰囲気、「3つのバラード」の美しい旋律など、いずれも面白い。「3つのバラード」などはそのまま映画音楽に転用できそうなほどメロディアスである。

ところでファジル・サイ、作風が坂本龍一を思わせるという話を以前ここに書いたことがあるが、今のファジル・サイは髪も白くて長くなり、衣装も黒いので、遠目に見ると風貌も坂本龍一に似て見える。もちろん坂本龍一は、視線をあっちこっちに飛ばして演奏したりはしないけれど。
それに、ファジル・サイの歌声も、実は坂本教授の声に似ているのだった。

「サマータイム・ファンタジー」ではアンニュイながら深い音楽性を示し、「ラプソディ・イン・ブルー」は「展覧会の絵」同様、下手な協奏曲バージョン演奏などよりもずっと彩り豊かである。

アンコールでもファジル・サイは自作を弾く。イスラエルの国歌に似たメロディーを持つ、哀愁に満ちた音楽だった。

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2008年11月25日 (火)

コンサートの記(28) 柴田淳コンサートツアー2008「月夜PARTY Vol.1 しばじゅん、アイスクリームからサニーへ」大阪公演

柴田淳コンサートツアー2008「月夜PARTY Vol.1 しばじゅん、アイスクリームからサニーへ」ツアーパンフレット

2008年11月9日 大阪・新町の大阪厚生年金会館大ホールにて

大阪・新町の大阪厚生年金会館大ホールにおいて午後6時開演の、柴田淳コンサートツアー2008「月夜party vol.1 しばじゅん、アイスクリームからサニーへ」大阪公演を聴きに行く。

柴田淳の誕生日である11月19日をまたいで行われるツアーであり、ツアータイトルは、しばじゅんさんの年齢に由来する。

ツアータイトルにしている割には、しばじゅんさんはトークで、「もう年齢不詳で行きたい」「プロフィールから(生まれた)西暦を削除しようかな」と言っていたけれど。

会場に詰めかけた大多数が、見るからに善男善女という人達。しばじゅんさんは、「大阪なのに(ツアー初日の)仙台より静かですね」「本当に大阪ですか?」と客席に問いかけていたが、大阪人と一口に言っても色々なタイプが当然ながらいるわけで、テレビで作り上げられたようなイメージの大阪人ばかりでもないわけである。

シングル曲でもある「カラフル」でスタート。最初のうちは、しばじゅんさんも緊張のためかうまく乗れなかったようだが、最初の衣装替えのために一度引っ込んで、ふたたび現れてからは好調。ライブで歌い慣れているためか、アルバム「ため息」に収録された曲の数々が一番安定した歌唱になっていたと思う。

歌われた曲は、全て憶えているわけではないが、「カラフル」、「夢」、「涙ごはん」、「メロディ」、「椿」、「愛をする人」、「月光浴」、「片想い」、「隣の部屋」、「それでも来た道」、「君へ」、「少女」、「ため息」、「泣いていい日まで」は歌われた。

アンコールの前にトークの時間があり、しばじゅんさんのdiaryを読んだ人は何のことかわかると思うが、先月生まれた甥っ子の名前がとうとうしばじゅんさんが嫌がっていたようなものに決まってしまったそうである。
それから、客席からのリクエストに答えて、「幻」「今夜、君の声が聞きたい」「缶ビール」を部分的にアカペラで歌ってくれる。しばじゅんさんが他の人のコンサートに行った時の話もしてくれたけれど、これは書かないでおきます。

トークの時間にではなかったが、しばじゅんさんが今、大阪弁にはまっているということで、プチ(?)大阪弁の披露もあり(「ボチボチでっか?」と言ってはったけど、そら違うで、しばじゅんさん)。

ちなみに、しばじゅんさんはボブカットのウィッグを付けていて、最初がゴシック風の白のドレス、次いで黒の大人っぽいドレス。最後が薄紫のワンピースにロングブーツという衣装でした(アンコール時は、お約束のツアーTシャツにジーンズ)。

アンコールは2曲。「夜の海に立ち…」と「ぼくの味方」という、いずれもファーストアルバム「オールトの雲」からの歌。

「ぼくの味方」は私も声は出さずに口だけ開けて一緒に歌ったが、私の意識と会場の空間とが溶けて、一体となるような感覚を味わった。「忘我の境地」や「無我の境地」などというと大袈裟だが、それに似た体験だと思う。

音楽を楽しむだけならCDを聴けば十分だ。だが、こうした特殊な感覚を味わうために私はコンサート会場に足を運び続けている。それにしても良い夜だった。体が内側から浄化されたような気分だ。

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2008年11月24日 (月)

コンサートの記(27) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団京都特別演奏会2008「大植英次スペシャル」

2008年11月13日 京都コンサートホールにて

午後7時から京都コンサートホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団京都特別演奏会「大植英次スペシャル」を聴く。何がどうスペシャルなのかはよくわからなかったが。

曲目は、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」、マーラーの「亡き子を偲ぶ歌」(独唱:ナタリー・シュトゥッツマン)、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。

メインの交響詩「英雄の生涯」は大植の十八番で、CDも二種出ている。そのうちの一つ、大阪フィルハーモニー交響楽団とのザ・シンフォニーホールにおけるライブ録音は、私が接したコンサートで収録されたものだ。ということで、ザ・シンフォニーホールと京都コンサートホールでの印象の違いの聞き比べも出来る。

大植は減量したようで、顔つきが前回見たときより精悍になっている。髪も短くしていて、遠目に見るとトニー・レオンのようだ。あくまで遠目に見るとですよ。

ステージ左手サイド、やや後ろ側の席で聴く。

「弦楽のためのレクイエム」はこの曲をやるには京都コンサートホールは響きのプレゼンスが足りず音が小さく且つリアルに過ぎ、「亡き子を偲ぶ歌」も管楽器の音の輪郭がクッキリ聞こえたが、その分、ちょっとしたミスでもはっきりわかってしまう。

「亡き子を偲ぶ歌」の独唱、ナタリー・シュトゥッツマンは、フランス出身の世界的なメゾ・ソプラノ。芯のしっかりした良く通る声で、心理の表出は絶妙。名唱であった(「名唱」は一般的に使われるが、辞書には載っていないので俗語なのかな。伝わるから用いても良いか)。

メインの交響詩「英雄の生涯」。客演奏者を多く招き、ステージ上にびっしりと人が並ぶ巨大な編成である。大植の振る大阪フィルは透明感溢れる音を出し、あらゆる楽器の音が聞き取れる。過度な残響のない京都コンサートホールの特徴を最大限に生かした演奏が展開された。こうしたことが出来るのは、大フィルの演奏の精度が高いからで、大植のトレーニングの成果が現れている。

精度が高いといっても、ライブ故の傷はいくつかあり、京都コンサートホールは音の動きがはっきりわかるだけに、ちょっとしたずれでもわかってしまう。演奏する側からしてみれば怖い会場だろう。

以前聴いた、ザ・シンフォニーホールの響きを生かした厚みのある演奏も良かったが、音の全てが把握できる今日の演奏の方が好印象であった。どうも大植は京都コンサートホールの音響を計算に入れた上で適宜演奏を変えているようであり、相当な賢さと能力を持った音楽家であることがわかる。

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2008年11月18日 (火)

コンサートの記(26) 大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第419回定期演奏会

2008年6月12日 ザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、大阪のザ・シンフォニーホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第419回定期演奏会を聴く。音楽監督である大植英次の指揮。

曲目は、ヴォーン=ウィリアムズの「タリスの主題による変奏曲」、ダニエル・ホープをソリストに迎えてのブリテンのヴァイオリン協奏曲、エルガーの「エニグマ変奏曲」という、オール・イギリス・プログラム。かなり地味である。

今日も客席は良く埋まっていたが、プログラムが地味であるということもあってか、さすがに満員にはならなかった。というより、そもそも大植の指揮でなかったら、このプログラムでは客は入らなかっただろう。大植だから組めたプログラムであるともいえる。

地味なプログラムではあるが、曲の内容は充実しており、大植指揮の大阪フィル(大フィル)も優れた演奏を聴かせる。

弦楽による、「タリスの主題による変奏曲」。ヴォーン=ウィリアムズの指示通り、本体の弦楽パートとは別に、小編成の弦楽オーケストラを舞台端に配しての演奏である。

大植は指揮棒を持たずに登場。一曲まるごとノンタクトで振る大植を見るのは初めてである。

大フィルの弦楽パートは、キレがもっとあると最高なのだが、ハーモニーは美しく、舞台端の別働隊への音の切り替えも的確に効果的に行われていた。


ブリテンのヴァイオリン協奏曲。クラシックの作曲家としては英国史上唯一の天才ともいうべき、ベンジャミン・ブリテンのヴァイオリン協奏曲は、高度な作曲能力が現れている変幻自在の名曲。

ダニエル・ホープは、私と同じ1974年生まれの、イギリスのヴァイオリニスト。

ダニエル・ホープのヴァイオリンは、曲の性格のためかも知れないが線は細めなものの滑らかな音を出す。

大植指揮の大フィルの響きも充実していた。

アンコール曲(ホープ自身が英語と日本語で曲名を言ったが聞き取れなかった)でホープは超絶技巧を披露。聴衆を沸かす。

エルガーの「エニグマ変奏曲」。大植の師であるレナード・バーンスタインがBBC交響楽団を振った時のエニグマのように、超スローテンポで開始。だが弛むことはなく、演奏の密度は濃い。ノーブルというには情熱が勝った感じだが、表現としては大変優れている。

大フィルのアンサンブルも小さなミスが2つ3つあった程度で、後は盤石の出来。音自体も輝かしく、瞬発力がある。ピアニシモが本当に美しいのも印象的。

この曲での大植の指揮は、指揮棒の振り幅を最小限にとどめたり、いつも細かな表情をつける時に使う左手を多用したりと動き自体が多様である。

曲目こそ地味目であったが、大植と大フィルの演奏会としても最上の部類に入るコンサートであった。

大植もさぞかし満足なのではないかと思っていたが、果たして大植は指揮台の上で何度もガッツポーズを見せるなど、自信満々であった。

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2008年10月28日 (火)

コンサートの記(25) ファジル・サイ・ピアノリサイタル2006神戸

2006年10月4日 神戸新聞松方ホールにて

神戸へ。神戸新聞松方ホールで、トルコ出身のピアニスト、ファジル・サイのリサイタルを聴くためである。

神戸新聞松方ホールのソワレは、午後7時15分という他のホールとは違った時間に始まることが多い。今日のファジル・サイのリサイタルもやはり午後7時15分に始まった。

曲目は、前半がモーツァルトの「ああ、お母さん聞いて」による12の変奏曲(通称:キラキラ星変奏曲)とピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」、J・S・バッハの「パッカサリアハ短調 BWV.582」。前半は当初、オール・モーツァルト・プログラムの予定であったが、3曲目の「幻想曲ニ短調 K397」が外され、代わりに大バッハの作品が入れられた。後半は、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番より「シャコンヌ」ピアノ編曲版(ピアノ編曲:ブゾーニ)とベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番「熱情」という組み合わせ。

1970年、トルコの首都アンカラに生まれたファジル・サイは当地の音楽院で学んだ後、ドイツ・デュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽院、更にベルリン芸術大学で学んでいる。作曲家でもあり、アンコールでは自作も演奏された。

さて、このファジル・サイ。かなり変わった人だとは聞いていたが、百聞は一見にしかず。グレン・グールドも真っ青の変人ピアニストであった。

まず、ピアノを弾きながら歌う。左手を無意味に高く上げる。観客の方を向きながら、反っくり返るようにしてピアノを弾く、かと思ったら、誰もいない後方をずっと見つめながら弾き出す(私には見えなかったがモーツァルトの霊でもいたのだろうか)。ピアノに向かって投げキッスを繰り返す。ピアニッシモを奏でる時は口に指を当てて「シーッ」という仕草をする、などなど、数え上げたらキリがないほど多くの奇行を見せる。この手の変人ピアニストは20世紀で絶滅したかと思っていたが、まだ生きていた。優等生的なピアニストが大多数を占めている中で、ファジル・サイのようなピアニストは貴重である。

キラキラ星変奏曲では、旋律を強調し、別の曲のようににしてしまった。しかし、才能は確かで、基本的にモノクロームの楽器と言われるピアノから多彩な色合いの音を引き出す。テクニックも素晴らしい。弱音の美しさ、強奏の迫力なども特筆ものである。

ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」も自在な表現。曲想の描き分けの上手さ、ノリノリのトルコ行進曲の楽しさなど、ピアノ演奏の醍醐味を味わわせてくれる。ただ全てが素晴らしいというわけではなく、第1楽章などでは余りに乱暴な演奏に唖然とさせられたりもした。本当のモーツァルト好きが聴いたら怒り出すんじゃないだろうか。

J・S・バッハの2曲は一転して壮絶な演奏であった。「パッカサリア」ではバッハの音楽には不釣り合いなほど雄大なスケールの演奏を展開し、天才という触れ込みが嘘でないことを確認する。

「シャコンヌ」は更に優れている。ブゾーニ編曲のピアノ版「シャコンヌ」は様々なピアニストのコンサートで採り上げられる曲であり、録音も比較的多い。しかし、ファジル・サイの「シャコンヌ」演奏はこれまで聴いたことのあるどのピアニストの演奏とも違う、桁外れの名演であった。雄大なスケール。深い音色。一音符毎に変わる表情。
これまで、「シャコンヌ」はあくまでヴァイオリン用の曲で、ブゾーニの編曲は、そのエッセンスをピアノに移植しただけに過ぎないと思っていた。ブゾーニのピアノ編曲版は原典のヴァイオリン版には勝てないと。しかし、ファジル・サイの演奏するピアノ版「シャコンヌ」は平凡なヴァイオリニストが奏でるそれよりも数段上であった。ファジル・サイのテクニックは完璧であるが、それよりも音楽性の豊かさが目立つ。曲の掘り下げも素晴らしい。となるとピアノの音量は、ヴァイオリンなど比較にならないほど豊かであり、ヴァイオリンを上回る演奏が生まれたとしても不思議ではない。その不思議ではないことが私の前で初めて起きたのだ。

ベートーヴェンの「熱情」ソナタも最上級の名演。音の強弱を極端なほどにつけた演奏であったが、それが不自然とは全く思われないというところに、ファジル・サイというピアニストの傑出したセンスが現れている。

アンコールは3曲。まず、ファジル・サイの作曲作品である「ブラック・アース」が演奏される。左手でピアノの弦に直接触れて震動を抑え、右手でその部分の鍵盤を押すことであたかも弦楽器をつま弾いているような音色を出すという面白い曲である。作風はどことなく坂本龍一に似ている。

続いて、ガーシュインの「アイ・ガッタ・リズム」変奏曲。ジャズも演奏するというファジル・サイだけにノリがいい。

そして最後は、モーツァルトの「トルコ行進曲」ジャズ編曲。ファジル・サイの才能がピアノから噴き出す様が見えるような快演。聴衆が大いに沸く。

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2008年10月 2日 (木)

コンサートの記(24) 広上淳一指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 いずみホール特別演奏会

2008年3月27日 大阪・京橋 いずみホールにて

大阪へ。京橋の「いずみホール」で、広上淳一指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の、いずみホール特別演奏会を聴く。午後7時開演。

ハイドンの交響曲第60番「うっかり者」、ショスタコーヴィチのバレエ組曲第1番より3曲とバレエ組曲第2番より2曲、バレエ組曲「ボルト」より3曲、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「プルチネルラ」というプログラム。

いずれも「型を崩したおかしみ」のある曲だが、そもそも型を知らないとそれを崩したおかしみもわからない。ということで通向けのプログラムである。

ホールによって固定客というのがいる。いずみホールのお客さんは大阪フィルの本拠地であるザ・シンフォニーホールに来るお客さんよりもお上品な人が多い。いずみホールの公演もザ・シンフォニーホールでの公演も両方聴けばいいと思うのだが、どういうわけか(もっともホールの雰囲気が好きか嫌いかが理由だろうと察しは付くのだが)複数のホールに通うという人は意外に少なかったりする。

これは東京でも同傾向で、例えばNHKホールのお客さんは男女ともに白髪の方が多く(NHK交響楽団の定期会員にはご年配の方が多いのでそうなるのだが)、紀尾井ホールは場所柄ゆえか、全身から「私、良家のお嬢さんです」オーラが出ている若い女性の聴衆が多かったりする。

今日のいずみホールは空席が目立った。せっかく面白い曲を面白い指揮者が振るのに。

広上淳一がいずみホールの指揮台に立つのはこれが初めてだという。「どうも、おまっとさんでした」とばかりにポンと一つ手を叩いて広上登場。

広上の振る大フィルは潤いのあるきめ細やかな音を出す。私が今日座ったのは前から三列目の左側だったので、ファーストヴァイオリンのニュアンスの変化がよくわかって興味深い。その分、視覚的には死角があって、と冗談を言ってしまうが、管楽器の奏者の顔はヴァイオリン奏者の陰になって見えず、今日は誰が吹いているのかわからなかったりする。

広上の指揮はユーモラスだが、強弱の付け方やニュアンスの変化のさせ方がよくわかり、見ていて大変勉強になる。
私は別に指揮者ではないので、勉強になっても、さほど得にはならないのだけれど。

ハイドンの交響曲第60番「うっかり者」は同名の劇付随音楽として書かれたものを6楽章の交響曲にまとめたという作品。第6楽章には、弦楽奏者達がチューニングをするという仕掛けがある。
第6楽章演奏開始前に、広上がコンサートマスターの長原幸太に「よろしくお願いします」と小声でいうのが聞こえたので何かやるなと思ったが、チューニングの場面で長原が立ち上がり、広上がそれに驚いて(驚いた振りをして)楽譜をめくって今どこの場面を演奏しているのかを探し、タオルで禿頭の冷や汗を拭うという演技をした。
笑った。井上道義もこうした演技をよくやるが、広上の方がずっと笑える。広上の方が井上より小柄で指揮姿もユーモラスだからだが、聴衆へのアピールを感じさせる井上に対して、広上は何よりも自分が楽しむためにやっているというのがわかるからでもある。

ショスタコーヴィチのバレエ組曲は、しかめっ面しておどけているような屈折したユーモアを特徴とする曲だが、広上はその屈折したユーモアという曲の内面と、堂々と鳴り渡る響きという曲の外面の両方を巧みに表現していた。大フィルの金管がかなり怪しかったのだけが難点である。

ストラヴィンスキーの「プルチネッラ」は、イタリアのバロック時代の作曲家であるペルコレージらの曲をディアギレフの依頼によりストラヴィンスキーが編曲したもの。とはいえ、もっと単純な編曲を希望していたディアギレフの依頼を遙かに飛び越える仕掛けをストラヴィンスキーが施してしまったため、ストラヴィンスキーのオリジナル曲とされている。古典派以前の造形美をモチーフにしながら、本当の古典派以前の作曲家は絶対に使わない特異なオーケストレーションを用いているのが特徴。これも大人のユーモア感覚に溢れた作品だ。

大人のユーモア感覚に溢れた曲を、ユーモラスな大人である広上が振るのだから悪い演奏になるはずがない。

バレエ組曲「プルチネルラ」はメインの曲にしては軽いし、演奏時間も少し短いので、アンコールに何かやって欲しかったが、「プルチネルラ」は内容のみならず編成も独特で、同じ編成で出来る曲がないためか、アンコール演奏はなし。それでも楽しいコンサートだった。

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2008年9月26日 (金)

コンサートの記(23) 佐渡裕指揮京都市交響楽団 「VIVA! バーンスタイン」

2004年9月11日 神戸国際会館こくさいホールにて

神戸へ。JR三ノ宮駅で下車。歩いて5分ほど南にある神戸国際会館こくさいホールに行く。今日はここで「VIVA! バーンスタイン」という、オール・レナード・バーンスタインプログラムによるコンサートがある。佐渡裕の指揮京都市交響楽団の演奏。大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団。ブルノ・フォンテーヌのピアノ。歌手に中鉢聡(テノール)ほか。兵庫県の主催で明石、神戸と大阪でコンサートを開く。京都市生まれの京都市育ち、大学も京都市立芸術大学の指揮者と京都市のオーケストラのコンサートなのに何故か京都公演はなし。何故だ?

こくさいホールに行くのは初めて。あまりいい印象は持てなかった。1999年5月にオープンした比較的新しいホールだが、3階席はかなり高いところにあり、ステージから遠すぎる。NHKホールより遠い。しかも傾斜がきついので、下に転げ落ちそうな錯覚にとらわれて落ち着けない。


開演前にトーク。スポーツライターの玉木正之氏と佐渡の対談がある。佐渡によるとバーンスタインは身長が160cmほどしかなかったことを明かす。思ったよりかなり低いので驚く。

佐渡裕はレナード・バーンスタイン(愛称:レニー)の最後の弟子。師譲りのダイナミックな指揮が特徴だ。時折、指揮台から飛び上がるなど、まさにバーンスタインを思わせる。京都市交響楽団は特に金管にノリが不足。日本のオケだから仕方ないか。ロイヤル・フィルもウィーン・フィルもレニー作品の演奏は下手だったから。ホールもデッドで足を引っ張っている。ただ声は良く通る。

ダイヤモンドが歌詞に出てくるミュージカル『キャンディード』よりのナンバー「きらきらと華やかに」ではソプラノの天羽明惠が尾崎紅葉の『金色夜叉』からの名ぜりふ「今月今夜のこの月を…」を引用して会場を爆笑させた。

演出でライトを使うのだがこれが逆効果。余計なものにしか感じられない。会場で配られたパンフレットに歌詞と対訳が載っていて親切なのだが、客席は暗いので歌詞が読み取れない。ライト演出はいいから客席をもう少し明るくして欲しい。

クラシックのコンサートは休憩込みで2時間以内が普通だが、今日は2時間半以上も続き、サービスがいい。

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2008年9月22日 (月)

コンサートの記(22) 兵庫県立芸術文化センター 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ[リバイバル]『蝶々夫人』

2008年3月28日 兵庫県立芸術文化センター大ホールにて

兵庫県立芸術文化センター大ホールで、佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ[リバイバル]「蝶々夫人」を観る。午後2時開演。

2006年に、兵庫芸術文化センターの佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ第1弾として上演されたプッチーニの歌劇「蝶々夫人」の再演である。

芸術監督&指揮:佐渡裕、演奏:兵庫芸術文化センター管弦楽団。演出:栗山昌良。舞台装置:石黒紀夫。衣装:緒形規矩子。

佐渡裕指揮 「蝶々夫人」[リバイバル] Wキャストによる公演であり、本日の配役は、蝶々夫人に並河寿美、ピンカートンにアレッサンドロ・リベラトーレ、スズキに小山由美、シャープレスにキュウ・ウォン・ハン、ゴローに松浦健、ヤマドリに松澤政也、ボンゾに若林勉、役人に服部英生、ケイト・ピンカートンにマリアム・タマリ。

合唱は、ひょうごプロデュース・オペラ合唱団(つまり臨時編成)。
プロダクションディレクター:小栗哲家(俳優・小栗旬の父親)。

昼間っからオペラというのはちょっときついが、様々な事情があって、毎回午後2時開演であり、他に選択の余地はない。

佐渡裕の指揮の特徴は何といってもドラマティックな音楽作りであり、フォルテでの迫力である(佐渡本人は、「弱音こそが自分の音楽の良さ」だとインタビューなどで語っているけれど、弱音の美しさならもっと上の人は多い)。兵庫芸術文化センター管弦楽団は、音色こそやや硬めではあったが、蝶々さんとピンカートンの「愛の二重唱」の伴奏での浮遊感、「ある晴れた日に」での高揚感、ラストの迫力など、重要な箇所での健闘が光る。

4階席に座ったので、舞台から遠く、最初のうちは余りのめり込めなかった。第1幕はピンカートンと蝶々さんの愛が語られる場であるだけに、のめり込めないときつい。何といっても、歌詞自体が、

蝶:「星が見てますわ」
ピンカ:「おいでこの優しい胸に」

といった調子のものだけに、醒めた目でいると、怖ろしくクサイことをいうバカップルにしか見えない。

悲恋の場である第2幕、第3幕は佐渡の指揮が生み出すエネルギッシュな高揚感が心地良く、なかなかの名演となった。オペラだけに大仰な要素が多いのだが、そうした大仰さに説得力を与えられるのが佐渡の良さである。

歌手達の水準は文句なしとは言えないけれど、日本が舞台のオペラだけに日本人が日本人役を演じる今回の「蝶々夫人」は、所作も含めて違和感の少ない仕上がりになっている(仏教と神道がごっちゃになっていたりするが、原典のテキストを変えるわけにはいかない。いかないのだろう多分)。

4階席から観ていたということもあるが、歌手達の動きが洗練されておらず、不自然に思えるところがいくつかあった。それでも結局は感動してしまうのだから音楽の力は大きい。

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2008年9月20日 (土)

コンサートの記(21) 湯川潮音 「灰色とわたし」ツアー京都公演

2008年9月10日 京都・三条御幸町のART COMPLEX1928にて

午後7時から三条御幸町のアートコンプレックス1928で、湯川潮音のライブ「灰色とわたし」ツアーを聴く。今日がツアー初日。明日もやはりアートコンプレックス1928で公演があり、その後、名古屋、東京と続く。意外だが大阪では公演を行わない。

映画「リンダ リンダ リンダ」でその美声に魅せられてから、ずっと注目していた湯川潮音だが、彼女のライブに接するのは私は初めてである。

比較的小さなスペースであるアートコンプレックス1928の中央に平台を組んだステージがある。

午後7時開演。湯川潮音は小柄な女性であった。バックバンドは、センチメンタル・シティー・ロマンス(通称:センチ)。

湯川潮音の声はとにかく綺麗だ。美しいというより綺麗。誉め言葉なのだが、このニュアンスは伝わるだろうか。

セカンドアルバム「灰色とわたし」に収められたナンバーが次々に歌われるのだが、歌詞の世界の空気や匂いまで伝わってくるような、素敵な時間が過ぎてゆく。

湯川潮音は基本的にはギター弾き語りだが、アンクレット型の鈴で音を出したり、片手だけで奏でる小型(おもちゃの?)の鉄琴なども演奏していた。お手玉型のパーカッションを鳴らした時は、ラストで楽器を放り投げ、格好良くキャッチ、のはずが落としてしまい。「何も、なかった」とごまかす場面もあり。

アンコールは3曲。トラディショナル「The Water Is Wide」と、昨日書き上げたばかりの新曲(まだタイトルはついていないとのこと)。そして「キャロル」の9月10日京都特別バージョンが歌われた。

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2008年9月13日 (土)

コンサートの記(20) アレクサンダー・リープライヒ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第420回定期演奏会

2008年7月24日 ザ・シンフォニーホールで

午後7時から、ザ・シンフォニーホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第420回定期演奏会に接する。今日の指揮者は、1968年生まれの若手、アレクサンダー・リープライヒ。

曲目は、ハイドンの交響曲第39番、おなじくハイドンのトランペット協奏曲(トランペット独奏:フランシスコ・フローレス)、アンドレ・ジョリヴェの「トランペット、弦楽とピアノのための小協奏曲」(トランペットは引き続きフランシスコ・フローレス。ピアノは浦壁信二)、マーラーの交響曲第4番(ソプラノ独唱:天羽明惠)。

アレクサンダー・リープライヒはドイツ・バイエルン州のレーゲンスブルクの生まれ。今年40歳、下野竜也と同い年である。1996年にコンドラシン指揮者コンクール(1984年の第1回大会で広上淳一が優勝したコンクールである)に入賞し、以後は、エド・デ・ワールトのアシスタントを務め、1997年にデ・ワールトの代役として本格的に指揮者デビューを飾ったという。デ・ワールトの他に、サー・コリン・デイヴィス、ロベルト・アバド、チョン・ミョンフン、イリヤ・ムーシンなどに師事。クラウディオ・アバドの招きでザルツブルク音楽祭のベルリン・フィルのオペラプログラムに参加し、現在はミュンヘン室内管弦楽団の首席指揮者・芸術監督のポジションにあるという。

リープライヒ登場。「格好ええなあ」と思う。容姿の良い指揮者なんていくらでもいるけれど、リープライヒは指揮者というよりは映画俳優のよう。上下共に黒の衣装に濃いグレーのジャケットという格好も俳優のようだ。

長身で、タクトを持つというよりは持ち手(通常はコルクがついている部分)を掌の中心で掴むようにして握るリープライヒ。肘から先の動きで拍を刻む動作が多く、時には手首だけでビートを刻んでみせる。また左手を多用し、インスピレーションを奏者に送る術に長けている。

ハイドンの交響曲第39番では、「これがあのもっさりした大フィルか」と思うほどしなやかな音をオーケストラから引きだし、緩急も自在。疾風怒濤期の第1作とされる交響曲第39番の性格を的確に描き出す。

リープライヒは、ハイドンのトランペット協奏曲では、交響曲の時は全く違った温かな響きを大フィルから出した。更に、ジョリヴェ作品でも、マーラーでもそれぞれ異なる音を響かせた。全くといっていいほど情報のなかった指揮者だが、これは逸材だ。

名指揮者と名オーケストラによる名演奏を楽しむのもコンサートの良さだけれど、無名の逸材を発見するのもコンサートに通う醍醐味である。

ハイドンのトランペット協奏曲とジョリヴェの「トランペット、弦楽とピアノのための小協奏曲」でソリストを務めるフランシスコ・フローレスは、1981年生まれ。シモン・ボリバル・ユース・オーケストラのメンバーでもあるということで、グスターボ・ドゥダメルと一緒に仕事をしている人のようだ。

フローレスのトランペットは音色がとにかく輝かしい。燦々という言葉がもっとも似合う太陽のような音色だ。テクニックも相当なもの(たまに怪しい場面もあったが)。

ジョリヴェの「トランペット、弦楽とピアノのための小協奏曲」は、リズミカルで陽気な曲。トランペッターにとっては難曲中の難曲だという。ミュートも3種類を用いている。
しかし、技巧面は置いて、曲調に耳を澄ませると、この曲からジャズ、そしてロックへは一直線に繋がっていることがわかる。
アンドレ・ジョリヴェは1905年に生まれ、1974年に亡くなったフランスの作曲家。CM音楽なども手掛けたという幅の広い作曲活動を行った人であるが、彼の生きた時代を彩った数々の音楽をこの一曲から聴き取ることが出来る。

メインであるマーラーの交響曲第4番。
編成が大きくなったことでリープライヒの統率力が落ちたように最初は感じたが、この人は冒頭は自然に入って結末に向けて精度を上げていくタイプであることがわかった。4つの楽章全てがそうだったからだ。特に各楽章の最後の音は気持ちよいぐらいビシッと決まる。

森麻季や幸田浩子の陰に隠れている感じがあるが、天羽明惠も日本期待の若手ソプラノ。柔らかな歌声が心地良かった。

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2008年9月 5日 (金)

コンサートの記(19) 夏川りみコンサートツアー2006「~とことわ~」伊丹公演

2006年7月7日 兵庫県伊丹市の「いたみホール」で

京阪、阪急、JRを乗り継いで伊丹へ。
いたみホールで行われた、夏川りみのコンサート「~とことわ~」を聴く。

「涙そうそう」のヒットで、沖縄を代表するシンガーとなった夏川りみ。今日のコンサートもチケットは完売であった。

夏川のコンサートの特徴は客層の幅広さ。上は白髪のおじいちゃんおばあちゃんから、下は小学生まで、ありとあらゆる世代の人々が客席に詰めかけている。
最新アルバムの曲を中心にした構成。「涙そうそう」は、夏川が、「お客さんも一緒に歌って欲しい」とリクエスト。私も夏川と一緒に歌う。
その他、「タイガービーチ」という曲では、カチャーシという踊りを会場全体で踊るなど、いかにもウチナーなエンターテイメントであった。

夏川の歌声はチャーミングで優しい。これほどすんなり体に染み込んでくる声は滅多に聴けるものではない。癒しのムードにも溢れ、アロマテラピーやサプリメント補給よりも、夏川の生の歌声に浸っている方がずっと健康に良さそうである。

ウチナーグチを多用したMCも面白く、曲調も変化に富んでいる。私の好きな「十九の春」(映画「ナビィの恋」で一躍有名になった名曲)を歌ってくれたのも嬉しい。ちなみに夏川は、「私の十九の春はとっくに過ぎてしまったんですけれども」と言って、会場の笑いを誘った。

子守歌である「童神」の慈愛に満ちた歌声を聴いていると、私の中にも擬似母性本能のようなものが芽生えたような気になる。私自身の意識を拡げられたという点においても有意義で面白いコンサートであった。

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2008年8月30日 (土)

コンサートの記(18) 広上淳一指揮関西フィルハーモニー管弦楽団 いずみホール演奏会

2008年6月4日 大阪・京橋、いずみホールにて

午後7時から、大阪・京橋にある、いずみホールで、広上淳一指揮関西フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴く。

曲目は、プッチーニの「交響的前奏曲」、田村響をソリストに迎えてのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ベートーヴェンの交響曲第4番。

午後6時40分過ぎに、例によって関西フィル理事の西濱さんが登場し、広上淳一を迎えてのトークがある。広上は普段着に眼鏡という格好で登場、ベートーヴェンの交響曲第4番の魅力について、「一言でいうと渋い」「噛めば噛むほど味が出るスルメのような曲」だと語る。

広上は人生の節目節目でベートーヴェンの交響曲第4番を振っているそうで、1984年の第1回キリル・コンドラシン国際指揮者コンクール(広上は優勝を飾った)で最初に割り当てられた曲がベートーヴェンの交響曲第4番。5月に小澤征爾が体調不良で倒れ、水戸室内管弦楽団を振れなくなった時に、小澤本人から頼まれて水戸室内管相手に振ることになったのもベートーヴェンの交響曲第4番だという。今日の演奏会の曲目も、関西フィルの側からベートーヴェンの交響曲第4番を振って欲しいと頼まれたとのことだ。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のソリストを務める田村響は、高校を出て、ザルツブルク・モーツァルティウム音楽院に留学するためにオーストリアに旅立つ前日に、広上淳一指揮の関西フィルハーモニー管弦楽団と共演しており、今回、関西フィルと共演するにあたり、広上の指揮を希望したのは田村であるとのことである。

プッチーニの「交響的前奏曲」。ありきたりだけれど、「夢見るような」と形容するしかない美しい響きがホール一杯に拡がる。弦も管も関西フィルとは思えないほど滑らかにして煌びやか。流石は広上と思わせる美演であった。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のソリスト、田村響は1986年生まれ。「日本のデンマーク」こと愛知県安城市の出身である。1993年以降、日本国内の数多くのコンクールに参加。2001年に全日本学生音楽コンクール名古屋大会中学生部門で第1位。翌年には園田高弘賞ピアノコンクールで第1位に輝き、昨年はついにロン=ティボー国際コンクール・ピアノ部門での優勝を成し遂げた。

コンクールでの成績は当てにならないということが、クラシック音楽の世界では常識化している。しかしこの田村響というピアニスト、聴くのは初めてだがかなりの大物と見た。

田村響のピアノは打鍵が強いが、音が濁ることも乱暴になることもない。むしろ和音などは極めて美しく、ヴィルトゥオーゾ的テクニックから細やかな味までの幅広い技術も素晴らしい。前の方の席に座っていたのでペダリングにも注目してみたがかなり巧い。今年で22歳という若手だが、実演で聴いたラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のソリストとしては最高クラスである。

顔も体も大きく、プロレスラーのような体型の田村だが、見かけとは正反対の繊細な味わいも持っている。

アンコールで弾いた、メンデルスゾーンの「甘い思い出」では、繊細さとロマンティシズムが発揮されたこれまた見事な演奏であった。

広上の伴奏は、プッチーニと打って変わってロシア的な仄暗い響きを関西フィルから引き出す。フルートの冴え冴えとした響き、濃厚な弦のうねりなど、ラフマニノフを聴く醍醐味を堪能させてくれる。

メインであるベートーヴェンの交響曲第4番。広上は時として大胆なデフォルメを行うが不自然な感じはしない。ティンパニの思い切った強打、アクセントの強調などが効果的で、熱い演奏を繰り広げる。

ただ、第1楽章では、関西フィルの弦楽群が、広上の棒に応え切れていないように聞こえた。広上はもっとバネを効かせた力強い響きを引き出したかったようだが、関西フィルの弦楽奏者は思ったよりも指の回りが悪く、音も柔らか過ぎて張りがなかった

オーケストラの実力は、こうした比較的シンプルな音型の部分でわかってしまうもののようだ。

第2楽章以降はハイレベルな演奏が繰り広げられただけに、第1楽章が不完全燃焼気味だったのが惜しまれる。

アンコールは、グリーグの『2つの悲しい旋律』より「過ぎた春」。弦楽のための音楽である。澄み切った音色で奏でられる旋律上に、哀感と優しさが花のようにポツリポツリと交互に咲いていく。
この手の曲を指揮させると広上は本当に上手い。

肝心のベートーヴェンの第1楽章の出来が惜しまれるが、充実した演奏会であった。

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2008年8月26日 (火)

コンサートの記(17) パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団来日公演2008・大阪

2008年5月30日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

大阪へ。フェスティバールホールで、パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団の来日公演を聴く。午後7時開演。

曲目は、エレーヌ・グリモーをソリストに迎えたベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」と、ブラームスの交響曲第2番。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮の演奏会は、昨年、一昨年と聴いているが、昨年は横浜で、一昨年は名古屋で聴いている。関西で聴くのはこれが初めて。また、昨年、一昨年ともにドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンの率いての来日であり、フランクフルト放送交響楽団とのコンビを聴くのはこれが初めてである。

エリアフ・インバルとの「マーラー交響曲全集」と「ブルックナー交響曲全集」で有名になったフランクフルト放送交響楽団は、その名の通り、ドイツの経済の中心であり、文豪ゲーテの故郷としても知られるフランクフルト・アム・マインに本拠地を置くオーケストラ。現在の正式名称はHR交響楽団(HRとはヘッセン放送のこと)。まるで三谷幸喜脚本・演出のドラマ用のオーケストラのようだ。最近では、パーヴォの前任者であるヒュー・ウルフの指揮で脳天気なほどに明るいベートーヴェンのCDをリリースしている。

ピアノソロのエレーヌ・グリモーは、フランスの美貌の天才女性ピアニストとして知られる。ラヴェルのピアノ協奏曲(ヘスス・ロペス・コボス指揮盤とデイヴィッド・ジンマン指揮盤の2種類がある)や、ロベルト・シューマンのピアノ協奏曲のCDで史上屈指の名演を繰り広げている。

ただ、この人、結構な変人でもある。子供の頃は自傷行為を繰り返す問題児で、現在は何故か狼の研究者としても活躍していたりする。ディスコグラフィーを見る限り、レパートリーも余り広くないようだ。

で、そのグリモーとパーヴォ指揮フランクフルト放送交響楽団による「皇帝」であるが、予想を遙かに超えて良かった。

グリモーのピアノは「アイボリー・トーン」と名付けたらよいのか、独特の気品と温かさを兼ね備えた独特の音色を持ち、テクニックも冴えている。ピアニッシモも単に弱いだけでなく、湖の水面を揺らす風の調べのような詩的なイメージを喚起させる。余談だが、パーヴォ・ヤルヴィの「ヤルヴィ」とはエストニア語で(そしてフィンランド語でも)「湖」という意味である。本当に余談でした。

パーヴォ・ヤルヴィの指揮は、ちょっとした動きでさえもオーケストラに音楽として伝わっている。パーヴォの体の動きの通りに音楽が生まれるのだ。これは凄い。カルロス・クライバー亡き後、最高のバトンテクニックの持ち主はパーヴォかも知れない。

「皇帝」の第2楽章。パーヴォは極端に弱く、しかし多彩な音色を塗り重ねて拡がりのある音空間を作り上げる。そして続くグリモーのピアノもパーヴォに負けじとピアニッシモで豊かな音楽を紡いでいく。力のある音楽家同士の共演により、より高い次元の音楽が生まれていく。これがライブの良さだ。

後半、ブラームスの交響曲第2番。フランクフルト放送交響楽団の爽やかな音色が印象的。しかもただ爽やかなだけでなく濃密である。初夏の森の香りのようだ。
オーボエがリード作りに失敗したのか、たまに音が抜けていたが、さほどの傷ではない。

パーヴォの指揮はリズム感が抜群。リズム感に関しては、録音を含めた過去の演奏の中でもトップクラスだろう。

フランクフルト放送交響楽団の奏者達は集中力が凄い。2階席の上の方で聴いていたけど、そこまでも気合いがバンバン伝わってくる。

アンコールは3曲。まずはブラームスの「ハンガリー舞曲集」より第5番と第6番。これも音こそ軽めであったが、パーヴォのリズム感がものをいって、個性溢れる演奏になっていた。

そしてパーヴォのアンコール曲といえば、待ってましたの「悲しきワルツ」(シベリウス)。今日もあの、遙か彼方から響いてくるような超絶のピアニシモを聴くことが出来た。良かった。

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2008年8月12日 (火)

コンサートの記(16) 下野竜也指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪フィルいずみホール特別演奏会Ⅰ

2008年6月26日 大阪・京橋、いずみホールで

大阪の京橋へ。いずみホールで、下野竜也指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏会を聴くためである。

「魂への『祈り』」という副題のついた今日のコンサートのプログラムは全曲弦楽のための作品で、ペンデレツキの「広島の犠牲者への哀歌」、J・S・バッハの管弦楽組曲第3番より第2曲「エール(エア)」(ストコフスキー編曲)、ハルトマンの葬送協奏曲「反ファシズム」、シェーンベルクの「浄夜」という凄まじいもの。客が入ることなど始めから想定していない、挑戦的なものである。

バッハ以外は全て「前衛」の括りに入る作品だが、その割りには客の入りはまずまず。1階席も後方は空席が目立つが、前の方は埋まっている。バルコニー席の入りもなかなか。

だが、そう見えるのは、実は1階席の前方を同じ制服を着た女子高生達が占めているためである。女子高生達が、安くはないチケット代を払って、とんがったプログラムのコンサートに大挙して押しかけるとは思えないから、クラス単位もしくはクラブ単位(オーケストラ部か吹奏楽部か)での招待だと思われる。
彼女達がいなかったら、前の方の席はガラガラになっていたはずだ。
そもそも客が入らないことを想定してのプログラムだからこそ、多くの女子高生を招待できたということもあるのだろうが。

ハルトマンの葬送協奏曲「反ファシズム」のヴァイオリン独奏を大阪フィルの首席コンサートマスターである長原幸太が務めるため、今日は客演コンサートマスター(コンサートミストレス)として、兵庫芸術文化センター管弦楽団の客演コンサートマスターとしてもおなじみの四方恭子(しかた・きょうこ)が呼ばれている。

「薩摩隼人の時代から先祖代々鹿児島です」といった風貌の下野竜也が登場し、コンサートが始まる。

クシシュトフ・ペンデレツキの「広島の犠牲者への哀歌」は、もともとは広島の原爆犠牲者のために作られた曲ではなかったが、日本初演後、作曲者により、この曲は広島原爆の犠牲者に捧げるのに相応しいとされてタイトルがつけられた。痛切な響きと、「トーン・クラスター」と呼ばれる音階という概念を越えて音の固まりとして音楽を捉えるという手法が多用されていることで知られる作品。第二次大戦後に作曲された作品の中では人気が高い曲でもある。

指揮者は、腕で拍を刻むのではなく、指で「1、2、3、4」と最大8まで数を示す。現代音楽に用いられる手法としては特別珍しくないものだが、生で見るのは私は今日が初めて。テレビでは井上道義が同じ指揮をしたのを見たことがある。

大フィルの弦にもっとキレがあると最高だったのだが、瞬間瞬間の響きは鋭く、シリアスなこの作品に相応しい好演であった。

それにしても、「広島の犠牲者への哀歌」は凄い曲である。人類とは一瞬にして数十万もの同類の命を奪うことの出来る残酷さを持った存在だと知ってしまった時代の音楽として、本物の凄みがある。

下野の意向で、「広島の犠牲者への哀歌」が終わってすぐに、J・S・バッハの「エア」が奏でられる(ホールホワイエ各所に立てられたボードに、下野の意向を知らせる紙が貼ってあった)。「広島の犠牲者への哀歌」の後に奏でられる「エア」は下野の繊細なアプローチもあって美しくも悲しい音楽として響いた。

ハルトマンの葬送協奏曲「反ファシズム」。1939年に「哀しみの音楽」というタイトルで作曲され、翌1940年に初演。1959年に改訂された際に「反ファシズム」というタイトルに変わっている。

冒頭にヴァイオリンが弾く旋律は、チェコのフス教徒に伝わる旋律を用いているとのことだが、ハーディ・ガーディを思わせるような鄙びた音が奏でられる。

大フィルの