カテゴリー「コンサートの記」の390件の記事

2018年5月27日 (日)

コンサートの記(390) 広上淳一指揮京都市交響楽団第623回定期演奏会

2018年5月20日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第623回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は京都市交響楽団常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一。

演目は、レナード・バーンスタインの交響組曲「波止場」、ショスタコーヴィチの交響曲第9番、バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」(ピアノ独奏:河村尚子)。バーンスタイン生誕100年記念といってもいいプログラムである。

開演30分前から広上淳一と京響シニアマネージャー代行兼チーフマネージャーの柴田智靖によるプレトークがある。4月からオーケストラの登場の仕方が変更になったため、プレトークの開始も10分早くなったそうである。アムステルダム・コンセルトヘボウでバーンスタインの助手を務めたこともある広上淳一。レナード・バーンスタイン(愛称:レニー)の弟子はとても多く、広上も、小澤征爾、大植英次、佐渡裕、大野和士らがレニーの弟子であることを紹介する。

ショスタコーヴィチの交響曲第9番であるが、交響曲第9番というのは作曲家にとって運命の数字でもある。ベートーヴェンが交響曲を9曲書いて他界したが、今では7曲ということになったものの以前の解釈ではシューベルトも9番まで、そしてブルックナーも9番まで書いて亡くなった。ドヴォルザークも今では初期交響曲にも番号が付けられて9曲までとなっている(私が小学生の頃の音楽の教科書には「新世界」交響曲の番号がまだ5番であった)。マーラーは交響曲第9番を書いたら死んでしまうのではないかと怖れ、9番目の交響曲には番号を付けず「大地の歌」とした。だが、結局は交響曲第9番を書くことになり、悪い予感が的中して、第9番が遺作となった。ということで特別な番号であり、ソビエト当局はショスタコーヴィチにベートーヴェンの第九に匹敵する曲を期待したのだが、ショスタコーヴィチはどちらかというとおちゃらけた感じの曲を書いてしまう。先にショスタコーヴィチとリヒテルによるピアノ2台版の試演会が行われ、放送によって世界配信されたのだが、ソビエトのみならず世界的な失望を買ってしまった。それでもエフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー交響楽団による初演は好評だったが、ジダーノフ批判を受けて、以後しばらくの間はショスタコーヴィチ作品のソビエト国内での演奏が禁じられてしまう。
広上によるとレニーはこの曲をしばしば取り上げていたそうで、その理由を「この世のあらゆるものが含まれているから」と説明していたそうである。なお、バーンスタインはこの曲をウィーン・フィルハーモニーを指揮してドイツ・グラモフォンにライブ録音しているが、今に至るまでこれを凌ぐ録音は出ていないと断言していいほどの名演である。

バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」の解説にはピアノ独奏の河村尚子も加わる。河村はこの曲の性質を「トリッキー」と語り、「常に黄色信号が出ていて、よそ見をしていると落とし穴に嵌まってしまう」と話す。日本人ピアニストの河村だが身振り手振りが大きく、ドイツで育ったことが現れていた。
河村と広上は7年前にオーケストラ・アンサンブル金沢の定期演奏会で、ヒンデミットの「四つの気質」で共演したのだが(私も金沢まで聴きに行った。調べたら6年前だったが、もうそんなになるのか)、バーンスタインはヒンデミットの音楽を高く評価しており、ヒンデミット的な要素をこの曲で取り入れたのではないかと河村は推理していた。

今日のコンサートマスターであるが、客演の須山暢大(大阪フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター)が務める。フォアシュピーラーは泉原隆志。4月から京響のコンサートマスターは泉原の一人体制になったのだが、2度目の定期にして早くも客演コンサートマスターが入ってしまうという異様な事態になってしまっている。

バーンスタインの交響組曲「波止場」。エリア・カザン監督の映画のための音楽として書かれたものをコンサート用に編み直したものである。私が持っているレニー自作自演の「ウエストサイド・ストーリー」全曲版のフィルアップに交響組曲「波止場」自作自演(オーケストラはイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団)が入っているのだが、今もこの組み合わせで出ているのかどうかはわからない。
広上はバーンスタインについてクリーニング屋の息子で余り裕福ではなかったと語ったが、文献に基づくとバーンスタインの父親のサミュエル・バーンスタインは理髪店を営み、パーマネントのための機器を独自に発明した発明家でもあった。サミュエルは特許料で稼ぎ、アメリカン・ドリームの体現者となる。息子にも家業を継がせたいと考えていたサミュエルだが、息子のレナードは意に反して音楽家への道を歩むことになる。ハイスクールを卒業したレナードはカーティス音楽院かジュリアード音楽院に進みたかったのだがサミュエルがそれを許さず、妥協の結果、レナードはハーバード大学音楽学部に進学する。世界最高の大学ともいわれるハーバード大学だが音楽学部に関してはカーティスやジュリアードより格下。レナードは満足出来ずに、その後、カーティス音楽院で学ぶことになる。バーンスタイン親子の関係はその後も複雑であったようだ。
いかにも映画音楽的な楽曲である。最初のホルンで示されるテーマがその後、様々な楽器で繰り返される。盛り上がりの部分はこの楽曲の冒頭部分によく似ているが、偶然だと思われる。
広上と京響のコンビの充実が確認出来る好演であった。

ショスタコーヴィチの交響曲第9番。全曲の演奏時間が5楽章で25分程度と短いこともあり、軽めの楽曲と目されているが、ユーモラスな感じがするのは第1楽章と第5楽章のみであり、他はシリアスな音楽が続く。
古典的な造形といわれることもある。そういえば、ショスタコーヴィチと犬猿の仲といわれたプロコフィエフの交響曲第1番「古典」は古典的造形そのものだが、多分、関係はない。
レニーとウィーン・フィルによる演奏はスケール豊かな、悪くいうと肥大化した音楽であったが、広上と京響はタイトにしてパワフルというこの曲本来のスタイルを採用。推進力にも富んでいたが、この曲の苦み走った面を強調するのが広上らしい解釈である。

バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」。イギリス出身でアメリカに帰化した詩人のW.H.オーデンの長編詩に基づく交響曲である。オーデンの長編詩「不安の時代」は邦訳も出ており(日本語で読むと詩というより完全な物語文という印象を受ける)私も読んでみたことがあるのだが、長い上に余り面白くなかったので途中でリタイアしてしまった。
ピアノ独奏と含む交響曲という比較的珍しいスタイルを取っているが、宗教や思想の影響の強い交響曲第1番「エレミア」や交響曲第3番「カディッシュ」よりはわかりやすく、バーンスタインの交響曲の中ではおそらく最も演奏される機会が多いと思われる。初演はクーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団によって行われ、バーンスタインはピアノソロを受け持った。
この曲は、レナード・バーンスタイン指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団盤(ピアノ独奏:ルーカス・フォス)、ジェイムズ・ジャッド指揮フロリダ・フィルハーモニー管弦楽団盤(ピアノ独奏:ジャン=ルイ・ストイアマン)などで聴いており、「いかにもアメリカ的な交響曲」という印象を受けたが、広上と京響の生む音色はどちらかといえばヨーロッパのオーケストラに近く、マーラーやショスタコーヴィチとの類似点が確認出来るのが興味深いところである。またそれによってシリアスで痛烈な印象も強まる。

日本の若手としてはトップクラスのピアニストとなった河村尚子(ただし音楽教育は全てドイツで受けている)。ハノーファー国立音楽演劇大学大学院ソリスト課程を修了。ミュンヘン国際コンクールで2位入賞、クララ・ハスキル国際コンクールでは優勝に輝く。今年は出身地の西宮市にある兵庫県立芸術文化センターでベートーヴェン・シリーズを行い、京都コンサートホール小ホール・アンサンブルホールムラタでもオール・ベートーヴェン・プログラムによるリサイタルを行う予定である。現在はドイツ・エッセンのフォルクヴァング芸術大学教授。東京音楽大学ピアノ科の特任講師として現在も大学のホームページに名前があるが、ページ自体が更新されていないので今はどうなっているのかわからない。
今日はピアノは蓋を取り払って指揮者と対峙する位置に据えられている。
色彩感豊かなピアノを弾く人であるが、今日は高音の豊かさに魅せられる。ピアノを弾いたことがある人ならわかると思うが、鍵盤の右端に近い高い音は基本的に痩せた音しか出ない。ただ、今日の河村の弾く高音はボリュームがあって美しいのである。どうやったらああした音を出せるのかわからない。
この曲ではジャズテイストの旋律が登場するのが特徴であるが、その語り口が上手くいっているのかは私にはよくわからない。私もジャズピアノは聴くが、いずれもクラシカルな要素が強いピアニストばかりだ。プレトークでの河村本人のコメントによると「ジャズは好きだがジャズを弾くのは初心者」だそうである。

ちなみに第1部おける変奏曲の主題はグレゴリオ聖歌の「怒りの日」の模倣のように思われるのだが、そういう指摘は今まで行われていないようである。


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2018年5月25日 (金)

コンサートの記(389) クシシュトフ・ペンデレツキ指揮 大阪センチュリー交響楽団第132回定期演奏会

2008年6月30日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時より、ザ・シンフォニーホールで、大阪センチュリー交響楽団の第132回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、現役最高の作曲家の一人であるクシシュトフ・ペンデレツキ。自作2曲とメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」を振る。

開演20分前からプレトーク。しかし今日の担当者は異様に早口な上、マイクも性能が良くないようで、私が座った2階席後方では何を言っているのかはっきりとは聞き取れないところがあった。1階席の前の方では良く聞こえていたようで、担当者のジョークに笑い声を上げている人も多かったが、2階席はやはり聞こえない人が多いようで、1階席とは別の空気が漂っていた。
それでも、ペンデレツキが左利きでタクトも左手に持つという話は聞こえた(今日のコンサートでは全曲ノンタクトだったが)。左利きの比率はどの人種においても約十人に一人なので、左利きの指揮者も少なくないのだが、左手に棒を持たれるとオーケストラが戸惑うことが多いので、左利きでも指揮棒は右手という人がほとんどである。朝比奈隆もそうだった。
左利きで左手に指揮棒を握る有名指揮者は、パーヴォ・ベルグルンドなど、数えるほどしかいない。

先日、下野竜也指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏会でも作品が取り上げられたペンデレツキ。その繋がりなのか、先日の大阪フィルのコンサートで客演コンサートミストレスを務めた四方恭子が、今日は何と大阪センチュリー交響楽団のゲスト・コンサートミストレスに招かれている。


まずは、ペンデレツキの弦楽のための小交響曲。刻みのトゥッティの後、ヴィオラ、チェロ、ヴァイオリンの順に首席奏者がソロを奏で、やがて各楽器群が高度な技術を要する合奏を展開する。特にチェロは左手も右手も大忙しで、難曲であることがよくわかる。
切れ目なしで第2楽章に続く。第2楽章は単純な音型が繰り返されるミニマル・ミュージックのテイスト。旋律自体は硬派だが、リズミカルな曲調であり、硬質のダンス曲といった趣である。


続いて、ペンデレツキのホルン協奏曲「ヴィンターライゼ(冬の旅)」。先月5日に世界初演が行われたばかりという、ペンデレツキの新作。5日前に東京において日本初演が行われ、今日のコンサートでの演奏が関西初演となる。
ホルン独奏は、名手ラドヴァン・ヴラトコヴィチ。見るからに聴くからに高度な技術が必要な曲であるが、ヴラトコヴィチはこれをスイスイ吹いてのける。音量も豊かで音色も輝かしい。
ホルン協奏曲「ヴィンターライゼ」は、わかりやすいとは言えないが、SF映画の音楽を思わせるところもあったりして、取っつきにくい曲ではない。この曲も2つの楽章が続けて演奏される。

ヴラトコヴィチはアンコールとして、メシアンの「峡谷から星たちへ」からの1曲を演奏。これが、ホルンという楽器の可能性を極限まで追求したような曲であり、高音、怖ろしいほどの弱音など、ホルンが出しているとは思えないような音が次々に繰り出される。ヴラトコヴィチの超絶技巧に、客席から惜しみない拍手が送られる。


メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。この曲も作曲者の指示により、4つの楽章が楽章間の小休止を挿まずに連続して演奏される。考えてみれば、今日演奏された曲は全て楽章間に小休止がない。

ペンデレツキの指揮はかなり情熱的であり、ティンパニの強打、金管の強奏も目立つ。ペンデレツキは指揮者としてはどうやら力強い音を好んでいるようである。大阪センチュリー交響楽団は中編成のオーケストラなのだが、ペンデレツキは全ての楽器を強く弾かせるため、分厚い音が出る。その一方で、全てのパートに対して均等に強い音を要求するため、浮き上がらせた方が良いはずの旋律が埋もれてしまったりと、細かいところがわかりにくくなる上に一本調子にもなる。今日CDで聴いたアクセルロッドとは正反対のアプローチである。

力強い演奏ではあったが、単調で暑苦しい「スコットランド」でもあった。作曲家としてのペンデレツキは超一流であるが、指揮者としては残念ながら一流には届かないようだ。
とはいえ、現役最高の作曲家の一人であるペンデレツキに敬意を込めた拍手が鳴り響く。特別な人物が指揮をしたコンサートであり、こうしたハレの場においては、その特別な人物と同じ空間と時間を共有したことこそが演奏内容以上に重要なのかも知れない。

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2018年5月24日 (木)

コンサートの記(388) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団  ベートーヴェン交響曲全曲演奏会第1回

2018年5月17日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団によるベートーヴェン交響曲全曲演奏会第1回を聴く。大阪フィルが朝比奈時代から何度も繰り返し行って来たベートーヴェン交響曲チクルスの新シリーズである。

札幌交響楽団時代にもベートーヴェン交響曲全曲演奏を行っている尾高忠明。大阪フィルのシェフに就任してまず大フィルの看板企画に挑むことに決めた。

今日の演目は、バレエ音楽「プロメテウスの創造物」序曲、交響曲第1番、劇音楽「エグモント」序曲、交響曲第2番。

今日のコンサートマスターは崔文洙。ベートーヴェンの初期交響曲であるが、第1ヴァイオリン12型と大きな編成での演奏。ピリオド・アプローチを採用しているが、スケールは大きく、ベートーヴェンの初期作品ではあっても大交響曲として演奏していることがわかる。

今日もノンタクトで指揮する尾高忠明。やや速めのテンポでの演奏。エネルギー放出量は大きいが、弦楽にHIPを取り入れているためか暑苦しくはならない。
フォルムの堅固さも特徴であり、朝比奈以来のDNAが保たれているのが確認出来た。
時折、音像が雑になるところもあったが、第1回の演奏としては上出来だったように思う。

全曲演奏終了後、尾高は、「あと7曲ありますので、よろしくお願いします」と言い、最後は「おやすみなさい」のポーズをして指揮台を後にした。


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2018年5月20日 (日)

コンサートの記(387) 寺岡清高指揮大阪シンフォニカー交響楽団第125回定期演奏会 ハンス・ロット 交響曲第1番

2008年5月13日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時より、大阪のザ・シンフォニーホールで、大阪シンフォニカー交響楽団(現・大阪交響楽団)の第125回定期演奏会を聴く。指揮は大阪シンフォニカー響正指揮者の寺岡清高。

「ベートーヴェンと世紀末ウィーンの知られざる交響曲シリーズ」と銘打たれた4回公演の第1回目。前半がベートーヴェンの交響曲第2番、後半がハンス・ロットの交響曲第1番というプログラム。

寺岡清高は早稲田大学卒業後、桐朋学園大学で学び、更にウィーン国立音楽大学でも指揮を専攻した。その後もイタリアのキジアーナ音楽院やフィエゾーレ音楽院などで学んでいる。師はカルロ・マリア・ジュリーニ、ネーメ・ヤルヴィ、ヨルマ・パヌラなど。2004年に大阪シンフォニカーの正指揮者になっている。昨夏は、急病のネーメ・ヤルヴィの代役としてイギリス室内管弦楽団を指揮してロンドン・デビューを飾った。ところで本当にネーメさんは急病になったのだろうか。師が急病だと偽って弟子にチャンスを与えることはたまにある。

25歳で夭逝したハンス・ロット(1858-1884)の交響曲第1番が演奏されるというのが珍しい。

ハンス・ロットはウィーンの生まれ。16歳でウィーン音楽院に入ってアントン・ブルックナーに弟子入りし、その才能を認められている。2歳下のグスタフ・マーラーは同門であり、親友でもあった。

20歳で交響曲第1番の第1楽章を完成させるが、ブルックナー以外の教師には認められなかった。それでもその2年後には交響曲第1番を完成させ、憧れの存在であったヨハネス・ブラームスを訪問し、ブラームスが審査員を務めていたベートーヴェン大賞に交響曲第1番を応募するが、ブラームスから酷評されて精神を病み、精神病院に入院。回復することなく25歳で亡くなった。

ハンス・ロットの交響曲第1番が初演されたのは、ごく最近のこと。1989年、アメリカのシンシナティにおいてだった。

私が最も信頼している若手指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ(いうまでもなくネーメの息子)は、ハンス・ロットを高く評価していて、インタビューで「録音したい」とも語っていた(その後、フランクフルト放送交響楽団と同曲を録音、名盤となった)。ということで聴いてみたくなったのである。
寺岡はネーメの弟子なので、ハンス・ロットの交響曲第1番を取り上げるのも自然という気もする。

ベートーヴェンの交響曲第2番。寺岡がこの曲を前半に取り上げた理由は、後半のハンス・ロットの交響曲第1番を聴いてわかった。

大阪シンフォニカー交響楽団はアメリカ方式の現代配置を採用。日本のオーケストラとしては珍しい。
3階のステージ左手上の席に座ったということも影響しているのかどうか、ヴァイオリンの響きは実に艶やかだが、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの響きが鈍く聞こえる。

管はまずまず充実していたが、第2楽章でホルンの目立つキークスがあり。

寺岡の表現は中庸を行くもので、悪いところはないが、良いところも余り見つからない。活きの良さを強調するでもなく、音の美しさを追求するでもない。強弱のつけ方は、良く言うと大らか、悪く言うと大雑把である。安心して聴けるベートーヴェンであるが、その分、もの足りなさも感じる。

後半のハンス・ロットの交響曲第1番。
初めて聴く曲だが、青春の息吹が感じられる作品であった。ベートーヴェンの「青春の歌」ともいえる交響曲第2番と組み合わせられたのも納得。

清々しい響きの目立つ曲で、金管などの強奏に浅さが感じられたり、まとまりの悪い箇所もあるが、格好いい音型も多く、オーケストレーションも巧みで、聴かせる。また、鳥の鳴き声を模す音型があるなど、大自然の響きを感じさせる拡がりのある音楽が展開される。第3楽章は、マーラーの交響曲第1番「巨人」の第2楽章に似た舞踏の旋律である。オーストリアの田舎の舞踏をモチーフにしているので似たものになったのかと思いきや、どうもマーラーはハンス・ロットのオマージュとして似た旋律を敢えて書いたらしい。

ブルックナーやマーラーの影響と、ブルックナーやマーラーにも影響を与えたことが窺える作品だ。完成時のロットは22歳。早熟の筆による充実のシンフォニー。

だが、どうも妙なのである。4楽章からなる交響曲なのだが、全ての楽章が太陽の光を燦々と浴びているようで、陰影に乏しい。たまに影のある音型が出てきても、すぐに明るめの旋律で否定されてしまう。

ハンス・ロットの師のブルックナーにしても、友人のマーラーにしても陰影は濃厚である。マーラーの音楽の場合には更に激しい葛藤もある。なのにハンス・ロットの音楽にはそれが感じられないのだ。

明るい未来を夢見る若者の曲であるが、人間である以上、もっと葛藤があってもいいと思うのだがそれがない。全楽章を通して、夢見がちな若者の明るい未来を疑わない音楽に終始する。

そして、第4楽章では、明らかにブラームスの交響曲第1番第4楽章を意識した凱歌が流れ、ラストも自己讃美のように聞こえなくもない。葛藤もないのに凱歌を奏でていいものか。

ブラームスは実はハンス・ロットの音楽を否定したのではなく、人間性に疑問を持ったのではないだろうか。ブラームスはブルックナーと折り合いが悪く、ブルックナーの弟子のハンス・ロットに好感を抱いているはずはなかった。そのロットが賞に曲を発表する事前に自分を訪ねてきて、応募した曲に自己の楽曲の影響を受けたことの窺える部分があったのなら、「媚びを売っている」と思われても仕方がないような気もする。

実は、ハンス・ロットは、ブラームスに作品を酷評されてベートーヴェン大賞には落選するが、同時に応募した芸術家奨学金(審査員はやはりブラームス)が下りたのである。ブラームスが作品を全く認めていないのなら奨学金が下りるはずもない。更にブラームスを信奉していた評論家のハンスリックは、ロットのことを褒めているのである。

しかし、奨学金が下りることが決定した頃には、ハンス・ロットはすでに精神病院の中にいた。ロットはブラームスを尊敬していたようで、そのブラームスから酷評を受けたのがショックで発狂したという。ブラームスが自分を殺そうとしていると口走ったともいう。

これも妙だ。師であるブルックナーも、マーラーも、自作の交響曲の初演は失敗することが多かった。ブルックナーは憧れのウィーン・フィルに自身の交響曲を演奏して貰うべく奔走し、リハーサルにまで漕ぎ着けたが、そこでウィーン・フィルのメンバーに作品を否定されるという屈辱まで受けている。しかし、発狂はしなかった。ブルックナーもマーラーも強迫性障害を患ってはいたのだが。

ブラームスに作品を否定されたのがショックなのはわかるが、ブラームスだって神様ではないのである。あらゆる作品の出来を見抜けるとは限らないし、意図的に芸術作品を否定することもある。ブラームスの批評を鵜呑みにしてしまうとは22歳にしては無邪気すぎないか。発狂するほどブラームスに心酔していたということなのだろうが、余りにも冷静さを欠いている。ブラームスに自作を褒められて当然という意気込みがあったのか。ブルックナーには理解されていたのにそれでは駄目だったのか。自意識が強すぎやしないか。
それが夢見る交響曲第1番の作風に繋がっているように思えるのだ。

演奏は、金管がばたつく場面があったりしたが、全般的に見れば充実していた。

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2018年5月19日 (土)

コンサートの記(386) 通崎睦美コンサート 「今、甦る! 木琴デイズ」vol.9 ~歌謡曲とタンゴ

2018年5月15日 京都文化博物館別館ホールにて

午後7時から、京都文化博物館別館ホール(旧日本銀行京都支店)で、通崎睦美コンサート「今、甦る! 木琴デイズ」vol.9 ~歌謡曲とタンゴを聴く。

エッセイ『天使突抜1丁目』、平岡養一の伝記『木琴デイズ 平岡養一「天衣無縫の音楽人生」』などでも知られる木琴奏者の通崎睦美のコンサート。今回は、ゲストとしてギターの松本吉夫と京都フィルハーモニー室内合奏団のメンバー(クラリネット:松田学、ファゴット:小川慧巳、ヴィオラ:松田美奈子、コントラバス:金澤恭典)を迎えて送る。

今回、通崎が用いる木琴は、1935年に通崎が私淑する平岡養一がシカゴで購入した、ディーガン・アーティスト・スペシャル・ザイロフォン №266。1962年に低音側に7本の鍵盤が追加され、4オクターブから4オクターブ半の音域に改良されている。

曲目は、木琴+クラリネット+ファゴット+ギター+ヴィオラ+コントラバスの編成で、「丘を越えて」(古賀政男/野田雅巳編曲)、ロシアン・ジプシー・メロディーズ(平岡版。ロシア民謡/松園洋二編曲)、木琴とギターによる「エストレリータ」(ポンセ/平倉信行編曲)、ピアソラの「タンゴの歴史」よりボルデル1900、木琴とギターとコントラバスで「ラ・クンパルシータ」(平岡版。ロドリゲス/西邑由記子編曲)、木琴ソロで「この道~からたちの花」(山田耕筰/西邑由記子編曲)、木琴とヴィオラとファゴットで「雨に濡れても」(バカラック/西邑由記子編曲)、木琴とクラリネットとコントラバスで「オブラディ・オブラダ」(レノン&マッカートニー/西邑由記子編曲)、木琴とヴィオラとコントラバスで「クレズマー・ダンス」組曲(伝承曲/野田雅巳編曲)、木琴とクラリネットで「宵待草」(多忠亮/西邑由記子編曲)、全員登場で「山寺の和尚さん(平岡版。服部良一/松園洋二編曲)、「UFO」(都倉俊一/野田雅巳編曲)。

通崎睦美を含めて京都市立芸術大学音楽学部出身の出演者が多い。それぞれの奏者になぜその楽器を選んだのかを通崎が聞くコーナーがあったのだが、ファゴットの小川慧巳(えみ)は、通崎の中学の後輩で、その中学校には管弦楽部があり、そこに入部。最初はメロディーを弾ける楽器が良いと思い、フルート、ヴァイオリン、クラリネット、オーボエなどを希望楽器として書いたそうなのだが、誰かが「ファゴット空いてるってよ」と言ったため、どんな楽器なのかわからないまま第5希望としてファゴットと記入。結局、ファゴットと書いたのは小川だけで、それからファゴット奏者になったようである。
ヴィオラの松田美奈子は元々は幼少期からヴァイオリンを弾いていたのだが、市立芸大時代にヴィオラの方が人数が少ないから有利ということで転向。当時はバブルの真っ盛りでヴィオラ演奏の仕事が山ほどあり、稼ぎすぎたため学生であるにも関わらず税務署から問い合わせが来たという。
クラリネットの松田学は、最初はトランペット希望だったのだが、唇で形を作ってマウスを吹いて音を出すことが出来ない。一晩練習するも出来ず、即日クラリネットに転向したという。
コントラバスの金澤恭典(かなざわ・やすのり)は、徳島県出身で、徳島県では子供のオーケストラ活動が盛んなのだが、子供の頃に、チェロを見て「格好いい!」と思い、ただ楽器名がわからなかったため、楽器図鑑を見て、「コントラバス」っていうのか、と間違えて覚えてしまい、コントラバスを希望。実際に、コントラバスが出てくると、「なに? この楽器?!」と思ったそうである。

木琴によるクラシック音楽演奏にこだわったという平岡養一。ただ、日本の音楽を演奏することもあり、平岡本人は「隠し芸だ」と語っていたという。

今は、木琴奏者よりもマリンバを演奏する奏者の方が多くなり、本職のプロ木琴奏者は、かつては平岡養一一人、今は通崎睦美一人だけという状態である。そうした中で、木琴ソロの演奏を聴くことの出来る貴重な機会でもある。「丘を越えて」などの懐メロから、ピアソラなどの本格的なタンゴ、「雨に濡れても」などの映画音楽、ビートルズナンバーである「オブラディ・オブラダ」、コントラバスの金澤恭典が「UFO!」と叫ぶ「UFO」など、多彩な曲目と優れた演奏、京都文化博物館別館ホールの自然な響きのプレゼンスを楽しむことの出来た夜であった。

アンコールとして、まず全員で「UFO」の後半が演奏され、最後は通崎の独奏で、「見上げてごらん夜の星を」がしみじみと歌い上げられた。



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2018年5月18日 (金)

コンサートの記(385) 小林沙羅&西村悟デュオ・リサイタル~「母の日」に贈る歌の花束~

2018年5月13日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、小林沙羅&西村悟デュオ・リサイタル~「母の日」に贈る歌の花束~を聴く。若手ソプラノである小林沙羅(さら)とテノールの西村悟(さとし)の共演。ピアノ伴奏はベテランの河原忠之が務める。

曲目は事前発表と多少異同があり、第1部が、ヘンデルの歌劇「セルセ」より“オンブラマイフ”(西村悟歌唱)、伝カッチーニの「アヴェ・マリア」(小林沙羅歌唱)、トスティの「薔薇」(小林沙羅歌唱)、トスティの「理想の人」(西村悟歌唱)、ドニゼッティの「一粒の涙」(西村悟歌唱)、ヴェルディの歌劇「椿姫」より“乾杯の歌”(デュオ)、「椿姫」より“不思議だわ~花から花へ”(小林沙羅歌唱)、「椿姫」より“燃える心を”(西村悟歌唱)、「椿姫」より“パリを離れて”(デュオ)。第2部が、レハールの喜歌劇「微笑みの国」より“気味は我が心の全て”(西村悟歌唱)、レハールの喜歌劇「ジュディタ」より“熱き口づけ”(小林沙羅歌唱)、小林沙羅作詞・作曲の「子守歌」(本人歌唱)、ドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」(小林沙羅歌唱)、武満徹の「小さな空」(西村悟歌唱)、プッチーニの歌劇「マノン・レスコー」より第3幕への間奏曲(河原忠之によるピアノソロ版)、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」よりロドルフォとミミの出会いから第1幕ラストまで。

注目を集める若手ソプラノの小林沙羅。「題名のない音楽会」への出演でもお馴染みである。東京藝術大学卒業後、同大学院修士課程修了。2010年から2015年までウィーンとローマに留学し、研修と歌唱活動を行う。2017年に出光音楽賞受賞。野田秀樹が演出した井上道義指揮「フィガロの結婚」日本全国ツアーののスザンナ(すざ女)役で知名度を上げ、「カルメン」のミカエラ役で藤原歌劇団にデビュー。三枝成彰作曲の「狂おしき真夏の一日」への出演も話題になった。藤原歌劇団団員、大阪芸術大学准教授。今月の大阪フィルハーモニー交響楽団定期演奏会でマーラーの交響曲第4番の独唱を務めるほか、夏には佐渡裕指揮のオペラ、ウェーバーの「魔弾の射手」への出演も決まっている。

テノールの西村悟は、日本大学芸術学部音楽学部卒業後、東京藝術大学大学院オペラ科を修了。第36回イタリア声楽コンコルソ・ミラノ部門にて大賞(1位)を受賞。2010年にイタリア・ヴェローナに留学し、翌11年にリッカルド・ザンドナーイ国際声楽コンクールで2位入賞、合わせて審査委員長特別賞を受賞。田尾80回日本音楽コンクールでは第1位を獲得し、聴衆賞も受賞している。大野和士指揮バルセロナ交響楽団によるメンデルスゾーンの「讃歌」のソリストとしてヨーロッパデビュー。新国立劇場オペラ「夜叉ヶ池」、藤原歌劇団の「ラ・トラヴィアータ」、「蝶々夫人」、「仮面舞踏会」、「ルチア」などに出演。平成25年度五島記念文化賞オペラ部門オペラ新人賞や第23回出光音楽賞を受賞。藤原歌劇団団員。

ヘンデルの歌劇「セルセ」より“オンブラマイフ”。現在ではソプラノによって歌われることが多いが、元々は男性の王様のナンバーであり、カウンターテナーやソプラニスタが歌う曲である。全身黒の衣装で登場した西村は声に張りがあり、安定感も抜群だ。

伝カッチーニの「アヴェ・マリア」。水色のドレス姿で現れた小林の歌唱は入りの声量がやや足りず、悪い意味でアマチュア的な歌唱になっていた。ただ、小林はオペラのナンバーになると人が変わったかのように生き生きと歌い出す。小林沙羅として歌うよりも劇中の人物になりきって歌うのが得意という、根っからのオペラ歌手のようだ。

ヴェルディの歌劇「椿姫」より。実は小林はヴィオレッタ役をまだ演じたことはないそうである。オペラにはソリストに何かあったときのためにカバーキャストやアンダースタディーという制度があり、そこからスターの座を掴む者もいるのだが、東日本大震災のあった2011年に、小林は「椿姫」で森麻季演じるヴィオレッタのカバーキャストを務めたことがあったという。東北で震災があった時は、兵庫県での「椿姫」公演があったそうだが、森麻季はその時、東京におり、ひょっとしたら森麻季が兵庫県に来られないかも知れないというので、小林も「私がヴィオレッタやるの?」と焦ったそうである。幸か不幸か森麻季は無事兵庫入りして小林が舞台に上がることはなかったそうだ。
二人ともチャーミングな歌唱を聴かせる。ヴィオレッタの薄幸な雰囲気を小林は上手く出していたように思う。

第2部。西村はグレーのタキシードに着替え、小林は前半が深紅の、後半が第1部と同じ水色のドレスで登場する。小林はレハールの喜歌劇「ジュディッタ」より“熱き口づけ”でステージ狭しとばかりに華麗に踊る。バレエの経験があるだけに踊るのがかなり好きなようである。小林は更にステージから降りて、母の日ということで手にしていたカーネーションを女性客に配って回る。西村は小林について、「良いとこ一杯ある。歌えて踊れて顔良くて可愛くて」と挙げていく。

ドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」。小林は以前からこの曲を歌いたいと思っていたそうだが、ステージで披露するのは今日が初めてとなるそうである。母の日に合わせた選曲のようだが、なかなか味わい深い歌い方であった。

武満徹の「小さな空」。西村悟が歌うのだが、この曲を男性歌唱で聴くのは初めてかも知れない。素朴な歌詞とメロディーによる曲であるが、やはり武満の楽曲だけに日本人の琴線に触れるものがあるように思う。西村の歌唱も堂に入っている。

河原忠之のピアノソロによる「マノン・レスコー」より第3幕への間奏曲(確かな構成力を感じさせる演奏であった)を経て、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」第1幕より。当初は、「冷たき手を」「私の名はミミ」「おお、麗しの乙女よ」の3曲を歌う予定だったのだが、リハーサルで興が乗ってしまったそうで、ロドルフォとミミの出会いから第1幕の終わりまでを演技付きで歌うことに変えたという。セットは椅子一脚だけだが、かなりしっかりした演技による歌唱であり、オペラの一場面をまるごと楽しめるという趣向になった。
小林は高音の伸びにやや難があったが、心理描写やドラマ性に富んだ歌唱を聴かせ、西村は豊かな声量と確かな技術、細やかな演技で魅せた。

アンコールは、レハールの喜歌劇「メリー・ウィドウ」よりワルツ(とざした唇に)。日本語詞でワルツを踊りながらの歌唱。楽しいデュオ・リサイタルであった。



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2018年5月16日 (水)

コンサートの記(384) 森麻季ソプラノリサイタル2008京都

2008年5月11日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から京都コンサートホール大ホールで、ソプラノの森麻季のリサイタルを聴く。ピアノ伴奏は山岸茂人。

華やかな容姿と伸びやかな高音で人気のソプラノ歌手、森麻季。東京藝術大学と大学院を卒業後、ミラノとミュンヘンに留学。現在もイタリアとドイツでの活躍を続けている。

プログラムは、成田為三の「浜辺の歌」、石川啄木の短歌に越谷達之助がメロディーをつけた「初恋」、山田耕筰の「からたちの花」と「母の声」という日本人作曲家の作品に始まり、山岸茂人のピアノ独奏によるブラームスの間奏曲イ長調を挟んで、リヒャルト・シュトラウス、マーラー。
後半は、オルフ、ベルク、カゼッラ、ファブリツィオ・カルローネ、山岸のピアノソロによるグラナドスの組曲「ゴイェスカス」より「嘆き、または夜鳴きうぐいす」を挿み、ドニゼッティ、ラフマニノフの作品が並ぶ。

日本人の作品が並んでいることでわかりにくくなっているが、実はドニゼッティを除いて、全て20世紀以降に初演された歌ばかりである。ドニゼッティも当初は予定になく、ストラヴィンスキーが歌われる予定だった。さりげなく意欲的なプログラミングである。
このうち、ファブリツィオ・カルローネの「私の人生は海」は森麻季の依頼によって作曲されたものである。ちなみに、ファブリツィオ・カルローネは森麻季の旦那さんである。森麻季のブログで発表されているように、森は現在妊娠中であり、お腹がちょっと出ているのがわかった。

「浜辺の歌」は小さめの声で始まり、「京都コンサートホールは声楽リサイタルには広すぎるのかな?」、「森麻季は、春先に体調を崩したというからコンディションが万全でないのかな?」などとも思ったが、ホールの響きを確認しつつ、弱めに入っただけのようで、声を張り上げると、コンサートホール内の空気が震えるのがはっきりわかるほど豊かな声が拡がる。
高音が伸びるし、コロラトゥーラの技術も高いのでソプラノとして活躍している森だが、声自体は落ち着いていて、メゾ・ソプラノに近い。

モーツァルトも名もシューベルトの名もヴェルディの名もないというプログラム。リヒャルト・シュトラウスの名はあるが、歌われるのはオペラの曲ではなく、最晩年の「四つの最後の歌」より「眠りのとき」と「夕映えのとき」という“神品”と評されるが派手さはない曲。そして新ウィーン学派であるベルクの「ナイチンゲール」が入っているなど、エンターテイメントではなく、本格派指向のリサイタルであった。
マーラーの交響曲第4番第4楽章よりの「天上の生活」と、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」が特に印象的な出来。

アンコールは3曲。プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」より“ねえ、私のお父さん”、同じく「ラ・ボエーム」よりムゼッタのワルツ“私が街を歩けば”、最後は「千の風になって」が歌われた。
自信満々のイケイケねえちゃんの歌であるムゼッタのワルツでは、森も自信満々の女性を演じて見せた。こういうのも楽しい。

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2018年5月15日 (火)

コンサートの記(383) 大和証券グループPresents 佐渡裕指揮トーンキュンストラー管弦楽団 レナード・バーンスタイン生誕100年記念日本ツアー2018京都公演

2018年5月12日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、大和証券グループPresents 佐渡裕指揮トーンキュンストラー管弦楽団レナード・バーンスタイン生誕100年記念日本ツアー2018京都公演を聴く。

京都生まれの佐渡裕の凱旋公演となる。佐渡は2016年にもトーンキュンストラー管弦楽団と日本ツアーを行ったが、その際は関西ではフェスティバルホールでの公演を行っただけであった。今回の日本ツアーは今日が初日で、この後、今月27日まで13箇所での公演を行う。関西では今回もフェスティバルホールでの公演を行うが、佐渡の現在の本拠地である兵庫県立芸術文化センターでの演奏会はない。
有料パンフレットの販売はないが、かなり充実した内容の無料パンフレットが配られており、良心的である。

今日の曲目は、バーンスタインのキャンディード序曲、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」、ブラームスのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏:ヴァレリー・アファナシエフ)

今日は3階LB1列2番での鑑賞。偶然だが、LBというのは、Leonard Bernsteinのイニシャルと一緒で嬉しくなる。


ます佐渡が一人で登場し、マイクを手にトークを行う。レナード・バーンスタインとの思い出、更に最初はニューヨークで勉強しようと思っていたところ、バーンスタインに連れられてウィーンに行き、ウィーン国立歌劇場やムジークフェラインザールの立ち見席で演奏を聴いて学んだこと。ウィーンでは立ち見席での時代を経て今では指揮台に立つようになったため、「なかなか座らせてくれない」というお決まりのギャグを繰り出して聴衆を笑わせていた。オーストリアでもバーンスタイン生誕100年ということで今年はバーンスタインの作品が多く取り上げられるそうである。ちなみにウィーンでは指揮の仕事がなかったため、フランスのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して、ラムルー管弦楽団の首席指揮者に就くなど、指揮としての本格的なキャリアはフランスでスタートさせている。

日本ではウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団と呼ばれることもあるトーンキュンストラー管弦楽団は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン交響楽団、ウィーン放送交響楽団に次ぐ、ウィーン第四のオーケストラ的な扱いをされている団体である。現在はニーダーエースターライヒ州のオーケストラとして州都ザンクトペルテンを本拠地としており、ウィーンムジークフェラインザールでも演奏会を行っている。歴代の首席指揮者の中には、クルト・ヴェス、ハインツ・ワルベルク、ワルター・ウェラー、ファビオ・ルイージといった日本でもお馴染みの指揮者の名前も並んでいる。
ウィーン放送交響楽団でも評価は高くないが、トーンキュンストラー管弦楽団はそれより下ということで、ポピュラー音楽の演奏を手掛けることも多い。
クリスチャン・ヤルヴィ、アンドレス・オロスコ=エストラーダの時代を経て、2015年に佐渡裕が首席指揮者に就任。比較的指揮者をコロコロ変える傾向にある楽団だが、佐渡とは任期延長を行っている。私はクリスチャン・ヤルヴィとの来日公演をザ・シンフォニーホールで聴いており、佐渡とのフェスティバルホールでの演奏会を聴いているため、これが3度目のトーンキュンストラー管弦楽団体験となる。

ドイツ式の現代配置による演奏だが、ティンパニは上手側に置かれている。無料パンフレットに団員の名簿も載っているが、ファーストヴァイオリンにShotaro Tojima、チェロにKanade Oshimaと日本人の名前が見られる。チェロに東洋人風の容貌の奏者は一人しかおらず、Kanade Oshimaさんは女性であることがわかった。ピアノ/チェレスタにKyoko Yoshizawaの名もあるが、今日はピアノとチェレスタが用いられる曲はないため、降り番である。


バーンスタインのキャンディード序曲。出だしに爆発力があり、テンポもリズムも理想的である。語り上手な演奏なのであるが、オーケストラのパワー、特に弦楽の威力が今ひとつなのが玉に瑕である。


ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。佐渡は第九の演奏を多く手掛けており、代名詞のようになっているが、ベートーヴェンは必ずしも得意とはしていない。
弦楽器のビブラートを控えめにして透明な響きを出しているが、ピリオドの影響が感じられるのそこだけで、ピリオドアプローチによる演奏ではない。瑞々しい響きが印象的だが、弦と管のバランスが悪く、時に金管が能天気な強奏を行うことがある。「田園」はベートーヴェンの曲の中でも実は演奏が難しい部類に入るのだが、トーンキュンストラー管弦楽団の力が及ばない場面も見受けられる。
佐渡は第2楽章をノンタクトで振るが、テンポが速過ぎて詩情を欠くところもあった。
第4楽章の嵐は、迫力満点で描写力も高いが、佐渡が今も「爆演の佐渡」から抜け出せていないことも感じられた。
最終楽章も悪くはないのだが、やはり弦と管のバランスは最後まで整わなかった。


後半。ブラームスのピアノ協奏曲第2番。独奏は、1990年代に異色のピアニストとして脚光を浴びたヴァレリー・アファナシエフ。ピアニストであると同時に、詩人、小説家としても活動しており、鬼才として日本でもファンが多い。モスクワ音楽院でエミール・ギレリスに師事。1968年のバッハ国際コンクールと1972年のエリザベート王妃国際コンクールで優勝。1974年に西側に亡命し、ベルギー国籍を得ている。

極端に遅いテンポを採用することなどで知られるアファナシエフであるが、協奏曲ということもあり、それほど個性を前面には現さない。
今日はピアノの鍵盤が良く見える席にいたのだが、アファナシエフは指を余り曲げることなく、鍵盤上に指を置いていくような弾き方をする。日本だったら先生から直されるような弾き方である。
アファナシエフは旋律を切るように弾いたり、立体感を出しながらブラームスの古典的一面を強調しつつ演奏したりするが、特に異端という印象は受けず、充実したブラームス演奏を展開する。
佐渡指揮のトーンキュンストラー管はやはりパワー不足という感は否めないが、自分達の作曲家であるブラームスのロマンティシズムを大切にした演奏を行っていた。第3楽章のチェロのソロも充実の演奏である。


アファナシエフはアンコールとして、ショパンのマズルカ イ短調を演奏する。こちらは協奏曲と違ってかなり個性的な演奏である。ショパンの曲というよりも古典派の作品のように聞こえる。

ラストは佐渡とトーンキュンストラー管によるアンコール演奏、ブラームスのハンガリー舞曲第5番。ノリの良い演奏であった。

ベートーヴェンは少し落ちるが、なかなかの出来の演奏会だったように思う。トーンキュンストラー管弦楽団のレベルであるが、技術面に関しては日本のオーケストラと比べても中堅程度で抜群に良いオーケストラというわけではないようである。いかにも独墺系のオーケストラらしい渋めの響きは魅力的である。

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2018年5月14日 (月)

コンサートの記(382) 井上道義指揮 第9回「現代日本オーケストラ名曲の夕べ」

2008年4月25日 京都コンサートホールにて

午後7時より京都コンサートホールで、第9回「現代日本オーケストラ名曲の夕べ」というコンサートを聴く。2000年に始まり、毎年開催されているコンサートだが、毎回開催地が異なる。第1回は東京文化会館で行われ、それから大阪、前橋、金沢、名古屋、東京・初台の東京オペラシティコンサートホール、福岡、山形と来て、今年は京都での開催になった。

今回の指揮は井上道義。オーケストラは「京都市交響楽団を中心としたオール・ジャパン・シンフォニー・オーケストラ」。

オール・ジャパン・シンフォニー・オーケストラを名乗るにあたって、宣伝チラシやプログラムにも「京都市交響楽団を中心とした」と枕を入れているが、そこから察せられるように、オーケストラメンバーの大半は京都市交響楽団の団員である。だから、正確に記すなら、「ほぼ京都市交響楽団によるオール・ジャパン・シンフォニー・オーケストラ」になる。米軍が戦争を仕掛けるときに、大半がアメリカ軍でありながら、国×軍や多○籍軍を名乗るのと同じようなものである。他のプロオーケストラからの参加は20名足らず。他のプロオーケストラだって今の時期は定期演奏会を始めとした多くのコンサートを開いているのだから、そこの奏者が大挙ホームグラウンドを離れて京都に押し寄せるということは不可能である。
これまでの開催地も全てプロオーケストラの所在地(群馬交響楽団の本拠地は高崎市だが、前橋市も群馬県の県庁所在地であり、群馬交響楽団の演奏会も数多く開かれている)であり、やはりそこのプロオーケストラを中心にオーケストラが編成されたのだろう。
なぜ単独のオーケストラでコンサートを行わないのかというと、「現代日本オーケストラの夕べ」は、社団法人日本オーケストラ連盟の主催するコンサートなので、やはり連盟に加わっている複数のオーケストラでやらないと意味が薄まるのだと思われる。
とはいえ、私の予想では「関西の楽団か、遠くても名古屋のオケのメンバーしか来ないのかな」と思っていたが、関西圏や名古屋圏のみならず、山形交響楽団や群馬交響楽団、読売日本交響楽団からも複数名が参加し、NHK交響楽団からも一人参加している。


曲目は、芥川也寸志の「オルガンとオーケストラのための『響』」、伊東乾(いとう・けん)の「天涯の碑」、石井眞木の交響詩「祇王」(陰影の譜)、指揮者である井上道義作曲の「メモリーコンクリート」

作曲家の知名度通り、というわけではないけれど、やはり芥川也寸志の作品が一番面白かった。作品名通り、「響」が面白く、またオーケストラが豪快に鳴る。

伊東乾の「天涯の碑」は1992年、京都市交響楽団の委嘱によって作曲された作品。作曲者の伊東乾も会場に来ていて、作品を演奏する前に井上に呼ばれてステージに上がり、話をする。パンフレットに曲の説明(天正少年使節がどうのこうの)が書かれているが、伊東本人によるとそれはポーズで、実際は伊東が子供の頃に他界した父への思いを託した曲とのことである。前半はいかにも日本の現代音楽的な響きが続くが、その響きの中から、チェロとコントラバスによって奏でられた讃美歌の旋律が何かの啓示のように突然現れ、その旋律がヴィオラ、第二ヴァイオリン、第一ヴァイオリンへと受け継がれていく。
初演時は、ベートーヴェンの第九との組み合わせで演奏されたそうで、旋律の受け渡しは第九の第4楽章を意識している。

当初の予定では、3曲目が井上の「メモリー・コンクリート」、4曲目が石井眞木の交響詩「祇王」(陰影の譜)であったが、京都コンサートホール内に曲順が入れ替わったという張り紙がしてあり、3曲目が石井眞木の、トリが井上の作品となった。井上本人も「ゴリ押しして」などとステージ上から語っていたが、井上と井上の作品の性格からいってそうなるだろうと思う。

交響詩「祇王」は、横笛奏者である赤尾三千子のために、赤尾の父親である石井眞木が作曲した作品。赤尾は龍笛、篠笛、能管の三種類の横笛を吹き、今様を唄う。
この手の作品の常として、大河ドラマの音楽を想起させるところがあったが、それなりに面白い。

で、井上道義の「メモリー・コンクリート」なのだが、予想通りというか何というか、井上がこれまで聴いてきた音楽の断片を取り入れるといった趣向の作品であった。「メモリー・コンクリート」について、以前、中瀬宏之さんと、「『これは私が子供の頃に好きだった曲で』、といった風の音楽なんじゃないか」と話したことがあるのだが、それに近いものであった(二人とも単に当てずっぽうで言ったのではなく、ショスタコーヴィチが交響曲第15番でそういったことをしているので、そこからの類推である)

演奏前に井上による解説があり、子供の頃にバレエをやっていた時に踊ったハワイアンや、やはり子供の頃に宝塚歌劇団が好きだったということで「すみれの花咲く頃」などのメロディーはそのまま出てくるということが知らされたが、それ以外にもそのまま出てきたのはショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」第1楽章より。それとわかるように出てきたのはグリーグの「ペール・ギュント」より“朝の気分”とリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭。断片として出てきたのは「オー・ソーレ・ミオ」。童謡「故郷」の旋律に似たものも出てきたがはっきりとは確認出来ず。それ以外の旋律もどこかで聴いたもののパロディーが多い。
指揮者として忙しいことを表すために、動悸と息切れの音をオーケストラメンバーが出し、井上は指揮台の上で心臓を抑えて苦しんでみせてりもする。
曲の途中には、「指揮者のためのカデンツァ」なるものがあり、指揮者が音楽以外の何かをする場所とのこと。
そこに差し掛かったときに、井上にピンのスポットライトが当たり、他の照明は落ちる。で、井上がジャケットを脱ぐと、下にスーパーマンのTシャツを着ていることがわかる(「ツァラトゥストラはかく語りき」のパロディーもあったことだし、クラーク・ケントが変身するスーパーマンよりも、ニーチェ的な「超人」という意味に近いかも知れない)。井上はタップダンスを踊り、舞台袖から運ばれてきた花束から花を一本ずつ抜き取って京響以外のメンバーに渡し、舞台の床に隠すようにして置かれていた王冠をかぶってみたり、やはり床に隠すように置かれていた、くたびれた感じの帽子を出して物乞いの真似をしてみたりする。
それまでの3曲と違って、メロディーのはっきりした作品である。その旋律の大半が模倣だったり、オリジナリティに欠けていることもあって音楽としては今一つ。
チラシやパンフレットにはコンサートの副題として「道義の一押し」と書かれていたが、こうなるともう「道義の道義(みちよしのみちよし)」である。
この曲を3番目にやってしまったら、次に真面目な曲を演奏することは出来ないだろう。
個人的な感想を言うと、ショスタコーヴィチの交響曲第11番をそのまま入れてしまったのはまずかった。そこだけが迫真の響きで、他の部分がふやけたように聞こえてしまった。
音楽はともかくとして、やはり井上は自身が主役でありたいのだなということがわかる。井上は出来ることなら俳優にだってなりたいし、ハリウッド映画などにも出てみたいのだ。自身が主役なら指揮者でなくても、更には音楽でなくてもよいのかも知れない。

しかし、同時に、井上のインフェリオリティ・コンプレックスが浮き上がるのも見えた気がした。井上は心から音楽を愛しているわけではなく(インタビューでも本音かどうかはわからないが「指揮者には消去法でなった」と語っている)、それゆえに本気で音楽を愛している音楽家に対してコンプレックスを抱いているのではないか。コンプレックスがないのなら、カラヤンや井上の師であるチェリビダッケのように指揮だけをして堂々と「俺が主役だ」と威張っていたっていいのだ。井上が他のことまでやってしまうのは、「僕って凄いでしょ」と示すと同時に「指揮者になって間違ってなかったでしょ」という承認を聴衆に求めているような気がした。「指揮者になって間違ってなかったでしょ。音楽に何時間でものめり込めて、音楽や指揮をすることに何の疑問も持たない音楽家が出来ないことをするんだから」

もちろん井上には指揮者としての才能がある。だが、才能がある、それも多方面に渡る才能があるゆえに迷い続けている人の寂しさを見てしまったようで、複雑な気持ちになった。

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2018年5月10日 (木)

コンサートの記(381) 「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2018 かがり火オペラ パーセル 歌劇「ディドとエアネス」

2018年5月5日 びわ湖ホール湖畔広場にて

午後7時から、湖畔広場(中ホールの外)で、かがり火オペラ、パーセルの歌劇「ディドとエネアス」を観る。指揮は大川修司、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団のメンバーと、笠原雅仁(リュート)、梁川夏子(チェンバロ)、中村洋彦&井上佳代(リコーダー)による演奏。出演は全員びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーで、船越亜弥(ディド)、内山建人(エネアス)、飯嶋幸子(ペリンダ)、藤村江李奈、益田早織、吉川秋穂、溝越美詩、山際きみ佳、鳥越聖人、熊谷綾乃、川野貴之、蔦谷明夫、板東達也、五島真澄、宮城島康。演出:中村敬一。英語上演、日本語字幕付きである。

上演前に演出の中村敬一によるトークがある。「ディドとエネアス」のあらすじを紹介した他、イタリア人は歌を愛し、フランス人はダンスを好んで、イギリス人はシェイクスピアの国ということもあって演劇を愛好するという話をして、そのためもあってイギリス人の有名なオペラ作曲家はパーセルとベンジャミン・ブリテンの二人だけという話をする。
イギリス史上ただ一人といっていい天才作曲家のヘンリー・パーセル。エリザベス朝時代に活躍した作曲家であるが、彼の没後、約200年に渡ってイギリスは大物作曲家不在の国となってしまう。その後、20世紀に入ってから、ベンジャミン・ブリテンがようやく世界的なオペラを書くようになるのだが、ブリテンはパーセルのことを大変尊敬しており、ブリテン自身が編曲を手掛けたブリテン版「ディドとエアネス」も存在するという。

仮設舞台の上に布が一枚垂れているが、これに映像が投影されたり、船の帆に見立てられたりする。

びわ湖ホール館長の山中隆と、「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」のプロデューサーでびわ湖ホールの音楽監督でもある沼尻竜典によるかがり火点灯式の後でオペラスタート。


神話の時代のお話である。トロイ戦争に破れ、ローマを目指しての船旅に出たエアネス王子は嵐に遭い、カルタゴへ流される。カルタゴを建てたディド女王は、アプロディーテーの息子で男前のエアネスと恋に落ちる。だが二人の仲を知った魔女は嫉妬して、精霊に化けてエアネスの前に現れ、カルタゴを離れてローマに向かうよう命じる。ディドからも精霊の命令に従うよう説得されたエアネスはためらいつつもイタリアへと向かい、元々気鬱気味であったディドは自ら命を絶つ。

バロック時代のオペラということもあってあらすじは平易である。パーセルの音楽は「天才」の評価にふさわしい優れたものだ。古楽だけにドラマ性に富んでいるというわけにはいかないが、ラストの暗い響きなどには時代を超越したものがあるように思う。
中ホールがすぐ背後にあり、「俺だったら中ホールの照明を使うなあ」と思っていたが、中村敬一もラストで中ホールの明かりを使っていた。

今よりも神の存在がずっと大きかった時代の話。人間は神の前ではちっぽけな存在でしかなかったが、ある意味、「神のせい」に出来た時代でもある。神という存在に後付けされた免罪符とでもいうべきか。人間の意識が肥大化し、神が殺害されて全ての事柄が個人に結びつくようになった今に比べると、この時代は別の種類の豊かさに満ちていたとも言える。

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