カテゴリー「コンテンポラリーダンス」の14件の記事

2018年8月22日 (水)

スペイン国立ダンスカンパニー 「ロミオとジュリエット(ロメオとジュリエット)」@びわ湖ホール大ホール

2008年11月29日 びわ湖ホール大ホールにて

午後3時から、大津市のびわ湖ホール大ホールで、ナチョ・ドゥアト芸術監督率いるスペイン国立ダンスカンパニーの公演、バレエ「ロミオとジュリエット」(音楽:セルゲイ・プロコフィエフ、振付:ナチョ・ドゥアト)を鑑賞。プロコフィエフの音楽を演奏するのは、ペドロ・アルカルデ指揮の関西フィルハーモニー管弦楽団。

ペドロ・アルカルデは作曲家でもあり、近年は1年に1作ずつバレエ音楽作品を発表しているようだ。
スペイン国立ダンスカンパニーは、1979年にスペイン国立クラシックバレエとして創設。その後、「クラシック・バレエを否定することなく、より現代的なスタイルを取り入れた」団体となり、名称も現在のものに変更された。

スペイン国立ダンスカンパニー芸術監督のナチョ・ドゥアトは、バレンシア地方の生まれ。ベルギーでモーリス・ベジャールに師事し、その後、ニューヨークに渡って更なる研鑽を積んで、1990年にスペイン国立ダンスカンパニーの芸術監督となる。コンテンポラリーダンスに主軸を置いていて、クラシック・バレエの全曲作品の振付を手掛けたのは、「ロミオとジュリエット」が唯一だそうだ。

スペイン国立ダンスカンパニーは、さいたま市でも公演を行ったが、その時は、演奏してくれるプロオーケストラが確保できなかったのか、テープ録音によって音楽を流したとのこと。
今日の公演は生演奏で音楽が聴ける。もちろん、その場でオーケストラが演奏した方がずっと感動的である。

幕が開くと、ロミオ(ゲンティアン・ドダ)がベンチで休んでいる。やがて、友人のマキューシオ(フランシスコ・ロレンツォ)らがやってきてロミオと戯れるが、ロミオは、たまたまそばを通り過ぎた女性の後についていってしまう。どうも、今回のバレエでのロミオは遊び人という解釈のようだ。シェークスピアの原作でもロミオはいい加減な奴なので、こういうのもありだろう。

一方のジュリエット(ルイサ・マリア・アリアス)はというと、ピョンピョン跳びはねながら口うるさそうな婆やから逃げ回っている。かなりお転婆なジュリエットである。

さて、イタリア・ヴェローナの名門、モンタギュー家とキャピュレット家の争いというのが、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の枠組みであるが、今日のバレエでは、モンタギュー家の人々は男女ともに庶民のような格好で、広場で踊るなどして楽しんでいる。そこへ正装のキャピュレット家の男達がやってきて、楽しんでいるモンタギューの人々にちょっかいを出し、剣を抜く。モンタギューの人々は鋤で応戦。ということは、スペイン国立ダンスカンパニーのバレエではモンタギュー家の人々はどうやら本当に庶民で、キャピュレット家が貴族であり、原作の権門争いではなく、階級闘争に設定が変えられているようだ。

キャピュレット家での舞踏会に、ロミオやマキューシオは仮面を付けて、道化に化けて忍び込み、手品をしたり悪ふざけをしたりしている。
そして、ジュリエットに一目惚れしてしまうロミオ。ジュリエットも無理矢理結婚相手に決められたパリス(アモリー・ルブラン)やジュリエットの親戚であるティボルト(クライド・アーチャー)ではなく、仮面のままのロミオと踊りたがる。露骨に悔しがるティボルト。
やがて、ジュリエットが一人になったところにロミオが現れ、仮面を取る。瞬く間に恋におちる二人……。

モンタギューの人々が広場で車座になり、中央で踊っているマキューシオが乗ってくると皆で同時に手を打つところなどは、まさに「オーレー!」で、スペイン的味わいが出ている。
モンタギューの人々の踊りがダイナミックで、マスゲームのように良く計算されているのも印象的。
幕、布、旗などの使い方も効果的である。

ラスト。仮死状態になったジュリエットを見て本当に死んでしまったと思い、短剣で胸を突くロミオ。ロミオが崩れ落ちるのとほぼ同時にジュリエットが目を覚ます。何てずるい演出なんだ。ストーリーを知っていても、「あー、ロミオがもっと迷っていれば上手くいっていたのに」と悔しくなる。
そして、ロミオが死んだことを知って自らも死を選ぶジュリエット。ここは音楽だけでも十分に美しくて悲しいのに、ジュリエットの動きが加わると、もう卑怯なほど美しくて悲しい。
こういうものを見てしまうと、それを言葉で語るのが馬鹿らしくなる。言葉なんてもう余計なものだ。プロコフィエフの音楽だけで十分である。
といいながら言葉で書いてしまっているけれど。

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2018年8月19日 (日)

アクラム・カーン振付「Chotto Desh/チョット・デッシュ」

2018年8月12日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて

午後3時からロームシアター京都ノースホールで、アクラム・カーン振付のダンス公演「Chotto Desh/チョット・デッシュ」を観る。

アクラム・カーンは1974年、ロンドン生まれの世界的振付家。父親はバングラデシュ人、母親はフィリピン人である。幼少期からインドの伝統舞踏であるカタックを学び、大学ではコンテンポラリーダンスと作品創作を専攻。2000年にアクラム・カーン・カンパニーを設立し、高い評価を得るようになる。2012年のロンドンオリンピックの開会式の振付も担当しているそうだ。

ダンサー1人による作品。無料パンフレットやチケットには、デニス・アラマノスまたはニコラス・リッチーニとクレジットされているが、今日はデニス・アラマノスのソロである。

今回は、子供も大人もロームシアター京都を楽しもうというイベントであるプレイ!シアター in Summerのプレ公演という位置づけであり、子供でも楽しめるよう特別に作成した日本語吹き替え版による上演が行われる。声の出演は、Masayo Mimura、Akira Koieyama、Meg Kubota、Lilian Carter。

「チョット・デッシュ」は、ベンガル語で「小さな祖国」という意味。アクラム・カーンのソロ作品である「デッシュ」を元に生まれており、カーン自身の自伝的要素を入れた作品である。「チョット・デッシュ」への翻案はスー・バックマスターが手掛けている。音楽は、Jocelyn Pookの作曲。ミニマルミュージック系の作風である。

アクラム・カーン(デニス・アラマノス)のスマートフォンに異常があったことから話は始まる。カスタマーサポートに電話をしたのだが、担当として出たのは12歳の女の子。混乱するカーンは、幼き日に毎年訪れていたバングラデシュの街を彷徨う。そして昔語りが始まる。

アクラム・カーンの父親は腕のいい料理人であり、息子のアクラムにも料理人になることを望んでいた。坊主頭のデニス・アラマノスは頭頂部に墨で目と口を書き入れ、アクラムの父親に見立てる。

落ち着きのない子どもだったアクラムは、祖母が読んでくれる絵本「ハニーハンター」が好きだった。舞台の背後に紗幕が降りているが、そこにアニメーションが投影される。飢饉の年に、父親から止められたにも関わらず蜂蜜を取りに行ってしまった男の子の話だ。船に乗り、木に登り、蝶を追う。やがて蜂の巣から蜜を取り出すことに成功した男の子だが木のてっぺんから墜落してしまい……。

16歳になったアクラムに父親は料理の仕事を手伝うように何度も言うのだが、アクラムは聞き入れない。アクラムは料理人ではなくダンサーになりたかったのだ。

父親と息子の関係についてはよくあるもので、特に目新しいところはないのだが、祖母が教えてくれた冒険譚には胸がワクワクする。私も幼い頃は冒険話が大好きで、映画版の「ドラえもん」を毎年楽しみにしていたり、コナン・ドイルの「失われた世界(ロスト・ワールド)」に心ときめかせていたりした。今の子供もそうだろう。

子供には希望と夢を、大人ノスタルジックな感情を与えてくれる名編である。



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2018年7月25日 (水)

フィリップ・ドゥクフレ/カンパニーDCA 「新作短編集」@びわ湖ホール

2018年7月15日 びわ湖ホール中ホールにて

午後3時から、びわ湖ホール中ホールでフィリップ・ドゥクフレ/カンパニーDCAの「新作短編集」を観る。2017年5月16日にフランスのラ・クールシヴで初演されたコンテンポラリーダンス作品。

フィリップ・ドゥクフレはパリ生まれの振付家・演出家。1983年にダンス・カンパニーDCAを立ち上げ、1989年のフランス革命200年祭ではシャンゼリゼ大通りでの記念パレードである「ブルー・ブラン・グード」のために「ラ・ダンス・デ・サボ」の振付を担当。1992年のアルベールビル冬季五輪では開会式と閉会式の演出を担当している。サーカス、映像トリック、ダンスなどを交錯させる作風が特徴。1994年に初来日。以後たびたび来日している。
2006年には単独公演「Solo」の日本公演を行う。シアター・ドラマシティでの来日公演を私は観ているが、ドゥクフレの出演作に触れるのはそれ以来12年ぶりとなる(振付作はミュージカル「わたしは真悟」を観ている)。

作品は5部の短編からなる。「デュオ」、「穴」、「ヴィヴァルディ」、「進化」、「日本への旅」という構成。「進化」と「日本への旅」の間に「R(エール)」という名の短編が挿入されている。
出演は、フラビアン・ベルヌゼ、アレクサンドル・カストル、メリチェイ・チェカ・エステバン、ジュリアン・フェランティ、スザンヌ・ソレール、ヴィオレット・ヴァンティ、アリス・ロラン、フィリップ・ドゥクフレ。
テキスト:アリス・ロラン、テキスト日本語訳:副島綾、日本語台詞:征矢(そや)かおる(文学座)。

「ソロ」では男女のダンサーがピアノを弾いたり、フルートを吹いたりする。フルートを吹きながらのダンスがあるが、本当にその場で吹いているのかは不明。ただ、ピアノは実際に弾いているようである。ドゥクフレはダンサーに対する要求が高いようだ。

「穴」では、穴にはまった男性の上半身と女性の脚による表現。その後、ドゥクフレが一人で穴から登場し、穴の開いたジャケットを使ったダンスを行う。

「ヴィヴァルディ」は、無料パンフレットによると、ドゥクフレが亡き母に捧げた作品。カウンターテナーを使ったヴィヴァルディ作品が流れる中、比較的クラシカルなスタイルのダンスが行われる。

要所要所でスクリーンや紗幕に映像が投影されるのだが、「進化」では、スピードカメラを用いたLoopingという技法を用いて、ダンスの動きが連続写真のようにスクリーンに投影される。この作品ではダンサーがカホンを叩いたり、歌をうたったりする。
続く「R」では、シルク・ドゥ・ソレイユ出身のスザンヌ・ソレールが宙乗りをした上でダンスを行う。ソレールの技はアクロバティックにしてスピーディ且つエレガント。人間離れしているようなところがあり、あたかも妖精を見ているかのような感慨にとらわれる。

「日本への旅」では、日本語の台詞が出演者によって語られ、録音された征矢かおるの台詞が流れる。12年前に観た「Solo」ではドゥクフレは吹越満の録音された台詞を使っていた。こうしたスタイルが好きなようである。
和歌や俳句(「百千鳥さえずる春はものごとにあらたまれども我ぞふりゆく」詠み人知らず 「淡雪の中にたちたる三千大世界またその中に抹雪ぞ降る」良寛 「春雨や檻に寝ねたる大狸」子規 「冬草も見えぬ雪野の白鷺は己が姿に身を隠したり」道元)がスクリーン投影され、日本のテレビCMや相撲中継などがザッピングのスタイルで流れる。また山手線の駅の到着のメロディーが流れたりもする。
どことなくサイケデリックな印象も受ける小品で、扇子や緋の和傘などが用いられ、フランス人の見たエキゾチックな日本を知ることが出来る。

上演時間は90分ほどだが、中身のぎゅっと詰まった多彩な表情を移ろわせていく作品であった。

ホワイエで、ポストトークがある。出演は、フィリップ・ドゥクフレ、ジュリアン・フェランティ、アリス・ロラン。テキストも担当しているアリス・ロランはパリ第七大学で現代文学と英語を学び、執筆や翻訳も行うなど多彩な才能に恵まれている一方でストリップダンサーとしても活躍しているという人だそうだ。ドゥクフレは日本文学については詳しくないので、全て彼女に任せたそうである。
ドゥクフレは日本の伝統芸能には興味津々な一方で、日本で爛熟期に達しつつあるアイドル文化に関しては「日本のテレビでよく見るけどストレンジだね」と答えただけで気にも留めていないようであった。日本政府はクールジャパンの一つとしてアイドルを推そうとしているのだが、日本人が考えるクールジャパンと海外で受けるそれとの間にはかなりの距離があるようである。



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2018年7月17日 (火)

「Theatre E9 Kyotoオープニングプロジェクト・シンポジウム 民間劇場の公共性~京阪神の劇場~」

2018年7月4日 京阪なにわ橋駅アートエリアB1にて

午後7時から、京阪なにわ橋駅アートエリアB1で「Theatre E9 Kyotoオープンリサーチプロジェクト・シンポジウム 民間劇場の公共性~京阪神の劇場~」に参加する。京都の東九条に来年オープン予定のTheatre(イギリス式表記を採用しているようである)E9 Kyotoの現状報告と将来に向けてのシンポジウム。theatre E9設営計画の中心にいる、あごうさとし、蔭山陽太(共にアーツシード京都)と、大谷懊(神戸アートビレッジセンター館長、ArtTheater dbエグゼクティブ・ディレクター)、橋本匡市(ウイングフィールド)、繁澤邦明(シアトリカル應典院)といった大阪、神戸の劇場関係者らが参加する。


まず、京都の下鴨にあった小劇場・アトリエ劇研の閉鎖の経緯について説明がなされる。仏文学者の波多野氏の篤志によって1984年にアートスペース無門館としてオープンしたアトリエ劇研。ただ家主である波多野氏の高齢化により、昨年8月に閉鎖となった。ただ、波多野氏の年齢は90歳を超えているそうで、なぜ今の今まで新しい小劇場の建設が計画されて来なかったのか、強い疑問を感じる。アトリエ劇研自体、下鴨の高級住宅の中にあり、アクセス的には不便な場所である。近所に演劇人の拠点となる場所があるわけでもないため、アトリエ劇研は地域の住民から特に愛されたというわけでもないそうだ。演劇的には陸の孤島とでもいうべき側面があった。

小演劇は、日常生活において必要かといわれれば、必ずしもそうとは言い切れない。小演劇に限らず、生涯一度も演劇というものを観ずに過ごす人はかなりのパーセンテージを締めるはずである。そうした演劇から遠い人達に自分たちのやっていることを分かって貰うためには演劇人の方から歩み寄る必要があるのだが、そうしたことを積極的に行っている人を私は残念ながら知らない。

演劇が力を持つとすれば、日常の閉鎖性、牢獄的感覚を抱いている人に向けての場合である。「デンマークは牢獄だ」ではないが、「どこにも行けない日常」に倦み飽きている人々には、演劇の非日常性は「救済」である。私自身、詳しくは語らないが19歳の時にそれを強く感じる出来事があった。
日常と非日常が連続したものであるとして、ではその境目にあるものが重要なのかどうかについては、あるいは「YES」であり時には「NO」である。このことについては後で語る。

シンポジウムのタイトルが「民間劇場の公共性」であるため、まず出演者全員が「劇場もしくは演劇の公共性」についての意見を述べる。そもそも「公共性」とは何かという話からは入らないといけないが、「あまねく、全ての人のために」と定義すると、演劇は公共性から遠いものである。特に小演劇はキャパも小さく、そもそも万人向けにやりたいと思っていたら演じ手側からも小劇場は選ばれない。そして万人向けを狙えば間違いなく演劇の質は低下する。

神戸のArtTheater db(ダンスボックス)のディレクターである大谷懊がダンスボックスのある長田区について、「在日の方が多く、雑多である」ために劇場が受け入れられやすい場所であることを述べる。Theatre E9が出来る予定の東九条は戦後すぐにバラックが並び、京都0番地と呼ばれた場所であり、その後、京都市内のインフラ建設のための朝鮮半島出身の労働者が移り住み、コリアンタウンとなっている。そのために再開発の対象から外れ続け、京都市内でも飛び抜けて治安悪い場所となっている。そうした場所に観客を呼び込める勝算があるのかどうかというと微妙と言わざるを得ない。演劇人や演劇好きは来るだろうが、それではアトリエ劇研の時と何も変わらないか、むしろ悪くなる。日本は少子高齢化に入っているということもあって、演劇好き以外の人にも劇場に来て貰わないと発展は望めない。自閉的であっても鎖国的であってもなんとかなるということは昔からもなかったが今後はもっと通用しにくくなる。

ただ、多くの人を呼ぶという意味では公共性は勿論必要だが、それらは主題であってはならないとも思う。表現が社会におもねるようになったら終わりだ。我々は演劇が日常と地続きであることを求めない。公共性はあってしかるべきなのは通奏低音としてだと思う。

関西の劇場の現状について、毎日新聞大阪本社学芸編集部で演劇欄を担当した畑律江から報告がある。やはり阪神・アワジ淡路大震災の発生をきっかけに大きく変わっていったそうである。公立の劇場が多い関東に比べて、関西では私営の劇場が力を持っており、大阪ガスのOMS(扇町ミュージアムスクエア)や近鉄小劇場などでの演劇が盛んだったが、震災を機に本社を東京に移転する企業が増え、関西の企業のパワーも衰退して小劇場が次々閉鎖されていった。その後、なんばに精華小劇場が生まれ、大阪城ホールの倉庫がウルトラマーケットという劇場になって、大いに期待したそうだが、いずれの劇場も今は存在しない。
公立の劇場に関してであるが、演劇欄を担当した当初は、「基盤がしっかりしているので公立の劇場の方がいい」と思ったそうだが、職員が公務員であるケースが多いため、発案がなされても当の本人が異同のため数年でどこかに行ってしまうため軸のしっかりしたプロジェクトが生まれないという難点があることも語られる。そういう意味では、志やビジョンのしっかりした私営の劇場の方がまだ期待は出来るそうである。

そして劇場を運営されるための補助金の話になる。補助金を申請する際には、まず公共性が問われるそうだが、この公共性がやはり厄介だそうである。「そのことに税金を使うだけの理由」が問われるのだが、税金を使う理由を突き詰めていくとどうしても「上の人が望むもの」と作る必要が出てくる。果たしてそれが演劇にとって良いことなのか。
是枝裕和監督の映画「万引き家族」がカンヌでグランプリ(パルムドール賞)を取り、話題になったが、「助成金を受け取っていながら日本を貶める話を作った」という、「今、何時代?」と首をかしげたくなるような批判が起こった。公的な金を使うなら日本賛美の作品を撮るべきだということなのだろうが、こうなると完全にナチスとレニ・リーフェンシュタールの関係になってしまい、表現者の自殺を意味することになる。

日本センチュリー交響楽団のコミュニティ/教育プログラム担当マネージャーであり、豊中市立文化芸術センターのプロデューサーでもある柿塚拓真は、クラシックの音楽を演奏することにどう公共性があるのかを問われた場合、単に演奏を行うことを評価するのではなく、演奏をブラッシュアップすることで公共性が高まるという趣旨の発言をする。
「公共性」の中でも、どれだけ良い影響が与えられたのかについての「波及性」が問題になるそうだが、演奏の質が高まれば波及性が増すのはこれまでの例から見て確実であるように思われる。
演劇に関しても、上演を行うことにどう公共性があるのかというよりも、上演を続けることで公共性を生んでいくという考えを提示した方がいいようにも思う。

演劇制作者の若旦那家康は、演芸祭を行う際に、「補助金が取れそうな団体」と「面白いけど、どう考えても補助金は出ない団体」を混ぜて上演を行うことにしているそうである。
分かりやすい演劇をやる団体には補助金は出やすいが、果たしてそれで演劇文化は発達するのかというとそうでもないように思う。一般市民から遠い内容の表現を行う人々を遠ざけてしまった場合、観客の人生の幅もまた狭まり、社会は窮屈になる。「日常」と繋がるものはわかりやすいが、安易に受け取ることの出来るものはその程度でしかないものでもある。
「日常」と「非日常」を考えた場合、その隣接点を攻めるのが第一だと人は思いがちである。互いの最前線での攻防に力を注ぐ人も多いのだろうが、実は日常から最も遠い濃密な非日常によってこそあっさりと塗り変わっていくものである。あたかもオセロのように黒だったものが白へ、白だったものが黒へと。
「異質さこそが実は最強である」。異質さが公共を「作っていく」

街と劇場の関係に関して書くなら、「街があって劇場がある」のは理想的であるが、「劇場が街を創る」になると更に素敵である。今のところ絵に描いた餅でしかないが、文化が公共性を創造出来るなら、劇場には最大級の存在価値が与えられるようになるだろう。


京都ではホームグラウンド的な映画館は持っていないが、東京に通っていた頃は、テアトル新宿や渋谷のル・シネマといったお気に入りの映画館があり、よく通っていた。「そこに行けば面白い映画がやっている」もしくは「面白くないかも知れないけれど、たまにはこういう映画もいい」と思わせてくれる映画館中心の日常があった。
同じように「劇場が中心にあること」が誇りになり、あるいは「劇場があることが日常に変わるような」街が設計出来たなら、これに勝ることはない。今はまだ全ては夢だが。

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2018年6月14日 (木)

田中泯 meets 中村達也/踊り場・叩き場「芒の植え付け」京都公演

2018年6月8日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアタ-京都サウスホールで、田中泯(たなか・みん)meets中村達也/踊り場・叩き場「芒(のぎ)の植え付け」を観る。

大河ドラマ「龍馬伝」の吉田東洋役や映画「DESTINY 鎌倉ものがたり」の貧乏神役でもお馴染みの田中泯とドラマーの中村達也のセッション。

小澤征爾との共演やウィーン・フィルとのコラボレーションなどで国際的に活躍している田中泯。そのためか今日は客席に白人の姿が目立つ。

舞台中央にドラムスセットが置かれているだけのシンプルなセットでの上演。

田中泯は長着を着て野球帽をかぶり、椅子を持って登場。中村達也のドラムに合わせて、まずはゆったりとした動きでスタート。時に呆けたような表情で、時には椅子を車いすに見立てて押すような仕草で、時には「「わー! わー!」と叫びを上げながら、多彩な動きを繰り出していく。
客席の通路も使用し、中央通路では最も速い動きになるなどバリエーション多彩である。
ステージに戻った田中は、スネアドラムを手に、叩きながら踊り出す。まるで一遍上人の念仏踊りのように。
最後は客席に手拍子を要求し、多くの手拍子が響く中で田中は舞う。音楽と肉体の交点の一歩外で踊るようなパンクでファンキーなパフォーマンスであった。

拍手が鳴り止まなかったため、田中と中村はショートサイズのアンコールパフォーマンスを行い、この時は田中は速いテンポで生き生きと踊った。



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2018年6月 5日 (火)

「談ス」シリーズ第三弾「凸し凹る」京都公演

2018年6月1日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、「談ス」シリーズ第三弾「凸し凹る」(正式な読み方不明)を観る。大植真太郎、森山未來、平原慎太郎の3人によるダンスパフォーマンスの3回目。思えば、ロームシアター京都サウスホールで初めて観た演目が、「談ス」の第一弾公演であった。

今回も開演前にユーモラスなアナウンスがある。携帯電話電波抑止装置の佐々木によるもので、答えが「きんし(菌糸、近視)」になるクイズを出したりしていた。

まず、森山未來が客席に背を向けて登場し、体の痒いところを掻いているうちに素早い動きのダンスとなる。
続いて大植真太郎が現れ、バレエのジャンプを繰り出そうとするが惜しいところで上手くいかない。
最後に平原慎太郎が丸机を手に現れ、大植真太郎にダメ出しをする。動きは「YES」とされるが顔が「NO」だったりする。

その後、三人が体を組み合わせて様々なポーズを作るが、森山未來がスライムに右手が付着して離れなくなる。その後、両手が付着。だが、最後は森山未來はスライムを両手で取り上げて、丸机の上に置く。そのスライムで即興的な形状が生み出され、他のダンサーがそれを模したポーズを取る。森山未來は縦長にして、「京都タワー」「金閣寺」と京都絡みのかなりイージーなものを作っていた。

やがて床にある全てのスライムが丸机の上に乗せられ、端からこぼれ落ちていく。森山未來がとあるものについて語り始める。それは「かつては健康にいいとされているが現在では健康に悪いとされているもの」である「ただ健康に悪いということが証明されているわけでもない」ものだ。それには境界があって隔てられているが、すぐに通り抜けることも出来る。「誰が決めたのかわからないもの」である。森山未來と平原慎太郎が誰が決めたのかについてやり合う。

その後も、三人がユーモアを交えた組み体操風アクロバットを行う(二人を馬にして立つと「奈良が見える」そうだ)のだが、意味を求めるまでもなく、純粋に動きが面白い。
森山未來がテニスのサーブを模し、大植真太郎が「レット!」ではなく「ネット!」という場面があるのだが、これは受け狙いではなく、単にテニスに関する知識が余りなかったのだろう。

その後、天井からスライムが蜘蛛の糸のように降りてきて、床に溜まっていく。森山未來と大植真太郎がスライムまみれになりながら組み合うようなダンスを行う。

丸机に手を置いて客席に背を向けていた平原慎太郎が振り向き、「えー」と古畑任三郎を演じる田村正和の真似をする。「古畑任三郎」が放送されてから、田村正和の物真似をする人は必ず古畑任三郎の真似をするようになってしまった。「最近、引退したんですが」と田村正和の近況について語り、「ジャッキー・チェンは一度引退したことがあるんです。すぐ戻ってきましたが。宮崎駿は引退3回、大仁田厚は8回」と引退するする詐欺をいじる。「役を演じている時に人はどうなっているんでしょう? 彼(平原自身)はどこに行ってしまったんでしょう」と語り、「皆さん、この作品のタイトルをご存じですか?」と客席に聞き、平原が口パクで本当のタイトルを言って上演は終わる。

メッセージ自体は、「区分されていない状態」について誰がどう画するのか、それが正解なのか、そもそも名を付けて区分する必要があるのかを問うもので比較的わかりやすい。ただそれ以上に三人によって形作られている体の動きやコンビネーション、ポーズ自体が面白く、日本の若手を代表するダンサーの才気に満ち溢れていた。

即興性に富む作品であるため、ラストの形状(机とスライム)が毎回異なる。リーダーの大植慎太郎が京都の面影として三人が退場した後でセットを撮影し、SNS(Instagram、Facebook、Twitter、Twitter社はTwitterがSNSであることを否定しているが)に掲載するよう観客に促していた。



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2018年3月16日 (金)

観劇感想精選(233) 「プルートゥ PLUTO」2018大阪

2018年3月12日 森ノ宮ピロティホールにて

午後7時から、森ノ宮ピロティホールで「プルートゥ PLUTO」を観る。原案:手塚治虫、原作:浦沢直樹、上演台本:谷賢一、演出&振付:シディ・ラルビ・シェルカウイ。出演:森山未來、土屋太鳳、大東駿介、吉見一豊、吹越満、柄本明。ダンサーズ:上月一臣、大植真太郎、池島優(まさる)、大宮大奨(だいすけ)、渋谷亘宏(しぶや・のぶひろ)、AYUMI、湯浅永麻(えま)、森井淳、笹本龍史(りょうじ)。監修:手塚眞。プロデュース:長崎尚史。

手塚治虫の「鉄腕アトム」と「史上最大のロボット」を浦沢直樹と長崎尚史がリメイクした漫画「プル-トウ PLUTO」を原作とした舞台。
演出と振付を担当したシディ・ラルビ・シェルカウイは、ベルギー出身の演出家兼振付家兼ダンサーである。1976年、アントワープ生まれ。父はモロッコ人、母はベルギー人である。アラン・プラテル・バレエ団在籍中の2000年に振付家としてデビュー。幼い頃から日本のマンガとアニメのファンであり、2011年には手塚治虫の生涯を描いた「テ ヅカ TeZukA」の演出も手掛けている。「プルートゥ」は2015年に初演、今回は再演となるが1月の東京公演の後、2月にヨーロッパでの公演が行われており、大阪での上演は凱旋公演となる。

人間とロボットが共存する近未来が舞台。第39次中央アジア紛争から5年が経っていた。戦場での平和維持活動も行った7体の最先進ロボットのうち5体が立て続けに殺害されるという事件が起こる。残るは2体、ユーロポールの特別捜査員であるゲジヒト(大東駿介)と日本の少年ロボット・アトム(森山未來)である。事件を知ったゲジヒトは日本に向かうことにする。ゲジヒトの妻であるヘレナ(やはりロボットである。演じるのは土屋太鳳)は日本に旅行に行きたいという願いを持つが、申請を行ったところ、奇妙な事実に行き当たる。
天馬博士(柄本明)に作られたアトムであるが、元々は博士の息子で事故死したトビオの再生ロボットとして作られたのだが、トビオとはまるで異なるために捨てられてしまい、お茶の水博士(吉見一豊)に引き取られる。お茶の水博士はアトムの妹ロボットしてウラン(土屋太鳳二役)を作っていた。ある日、ウランは道端に倒れていた男(池島優)と出会う。男は花畑の抽象画を描く……。

第39次中央アジア戦争では、トラキア合衆国のアレクサンダー大統領が「ペルシャ王国が大量破壊ロボット兵器を隠し持っている」として侵攻するという設定なのだが、これはイラク戦争そのものである。結局、大量破壊ロボット兵器は発見されず、大義なき戦いとなったのだが、その責任を取る者はいなかった。それに端を発するペルシャ王国側の復讐、更にアレクサンダー大統領(渋谷亘宏)を操る人工知能Dr.ルーズベルト(声を演じるのは吉見一豊。テディベアの格好をしている)によるロボット帝国の野望などが入り交じり壮大な陰謀劇が展開されるが、ラストでは憎しみの連鎖ではなく「砂漠を花で埋め尽くす」ような平和と愛が謳われる。

振付家でもあるシディ・ラルビ・シェルカウイの演出ということで、ダンスが効果的に用いられる。9人の本職のダンサーに加え、森山未來と土屋太鳳という日本の若手俳優の中でトップクラスのダンススキルと身体能力を誇るコンビが配され、華麗なダンスが繰り広げられる。俳優より先にダンサーとして頭角を現した森山未來のダンスが見事なのは勿論だが、日本女子体育大学舞踊学専攻出身の土屋太鳳のダンスも秀逸。土屋太鳳は初舞台であるが、大人の女性であるヘレナと少女ロボットのウランを見事に演じ分け、想像以上の演技力を示した。流石、若くして認められただけのことはある。新しい才能の誕生を歓迎したい。

ダンスの他に浦沢直樹の原画の投影、影絵、パペットなど様々な表現が試みられた舞台であり、若手とベテランの俳優陣が四つに組んだ見事な展開。終演後はオールスタンディングとなった。



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2017年12月 5日 (火)

KAC pafoming Arts Program 2017/contemporary Dance 共同制作「RE/PLAY Dance Edit」

2017年11月25日 京都芸術センター講堂にて

午後7時から、京都芸術センター講堂で、KAC Pafoming Arts Program 2017/contemporary Dance 共同制作「RE/PLAY Dance Edit」というダンス公演を観る。演出:多田淳之介。出演:きたまり、今村達紀、Sheriden Newman、Narim Nam、Chanborey Soy、Aokid、斉藤綾子、吉田燦。


日本、シンガポール、カンボジアのダンサーによるコラボレーション。まずダンサー達が登場し、横一列になった後で、一人ずつ歩み出てポージングを取るところからスタートする。基本的にダンサー達は倒れてはまた起き上がって舞うを繰り返す。

最初の音楽は、「We are the World」。これが2回繰り返された後に、ビートルズの「オブラディ・オブラダ」が流れるのだが、これが何度も繰り返される。ダンサー達の動きも、多少の異動はあるが基本的に同じことを繰り返しているようである。音楽でいえばラヴェルの「ボレロ」やミニマルミュージックの例が挙げられるが(お笑いでは西川のりおが意識しているのかどうかはわからないがミニマルの手法を取り入れている)繰り返しは案外癖になる面白さを持つものである。カラフルな衣装を着た若者達の佇まいが思いのほか様になっている。

「オブラディ・オブラダ」が終わった後で、ダンサー達が日本語や英語で会話を始める。「Re/PLAY Dance Edit」の京都公演が終わった後の楽屋での会話という設定である。彼らによると、京都は「アカデミックでインテリジェンスな場所」だそうで客席から笑いが起こっていた。「(木屋町の)アバンギルドはシンガポールにもカンボジアにもない」や「京都に、京都芸術センターがあってよかった(元ネタは「日本に、京都があってよかった」)といった京都ネタが展開される。

「We are the World」も「オブラディ・オブラダ」も音楽に乗ったダンスではなかったが、私は「コンテンポラリーダンスは音楽から独立すべき」と考えているので、むしろ望ましい。

その後、「今夜はブギーバック」(小沢健二&スチャダラパーのものではなく、女声によるカバー)、「ラストダンスは私に」(これも越路吹雪のバージョンではない)、Perfumeの「GLITTER」が流れる。「GLITTER」は3回繰り返される。この3曲では一転して音楽に良く合ったダンスが繰り広げられた。

「GLITTER」では、8ビート、4分の4拍子、裏打ちによる2拍、表打ちの2拍のいずれかでダンサーが踊っていたが、せっかくPerfume=中田ヤスタカの楽曲を使っているのだから、8分の3拍子、8分の5拍子、8分の6拍子などを使ったポリリズムのダンスに挑戦してくれればもっと良かったように思う。

歌詞とダンスに特に相関性はないと思われるが、ラストシーン(ダンサー達は全員倒れたまま)には「ラストダンスは私に」がもう一度流れた。

一言でいうと、「ポップ」なダンス公演であった。

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2017年7月21日 (金)

コンサートの記(310) 「アルディッティ弦楽四重奏団×白井剛」

2017年6月23日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

ロームシアター京都サウスホールで、午後7時から「アルディッティ弦楽四重奏団×白井剛」を聴く。現代音楽のスペシャリストとして知られるアルディッティ弦楽四重奏団とコンテンポラリーダンスの白井剛(しらい・つよし)のコラボレーション。
アルディッティ弦楽四重奏団の演奏を聴くのは初めて。白井剛のダンスを見るのは約12年ぶりである。

前半は、アルディッティ弦楽四重奏団のみの演奏で、クルタークの「ミハーイ・アンドラーシュへのオマージュ~弦楽四重奏のための12のミクロリュード~」、細川俊夫の「沈黙の花」、リゲティの弦楽四重奏曲第2番。後半がアルディッティSQと白井剛のジョイントで、クセナキスの「ST4」、「Ikhoor for torio」、「Terras」。


今日は前から4列目のほぼ真ん中。音はよく聞こえるが、魅力的な響きというほどではない。今日はダンスとのコラボであるが、弦楽四重奏のみの演奏をするには、京都だとアンサンブルホール・ムラタやALTIの方が良いように思う。

アルディッティ弦楽四重奏団のメンバーは眼鏡率が高い。第2ヴァイオリンのアショット・サルキシャン、ヴィオラのラルフ・エーラース、チェロのルーカス・フェルスが眼鏡を掛けており、第1ヴァイオリンのアーヴィン・アルディッティも演奏時には老眼鏡を掛けるので、全員が眼鏡だ。
そんなアルディッティ弦楽四重奏団の演奏であるが、流石の切れ味を聴かせる。


クルターク・ジェルジ(ジェルジ・クルターク)の「ミハーイ・アンドラーシュへのオマージュ~弦楽四重奏のための12のミクロリュード」。細切れの和音が続く。12の短い音楽が紡ぎ出され、1編1編があたかも俳句を聴くような趣がある。


細川俊夫の「沈黙の花」。生け花と能楽にインスピレーションを受けた作品である。弦の歌が能楽の謡のように聞こえ、ピッチカートが鼓のように響く。日本的な「好み」を聞き取るという上ではわかりやすい作品である。


リゲティ・ジェルジ(ジェルジ・リゲティ)の弦楽四重奏曲第2番。
今日演奏された作品の中で最も絶対的な作品である。そのため「見立て」や「直喩」が出来ないのであるが、響きの重なりの中に美を見いだすことは可能である。


クセナキスの楽曲によるアルディッティ弦楽四重奏団とコンテンポラリーダンサーの白井剛によるセッション。幕が上がると、舞台の奥には譜面台が並ぶ。中央やや上手より奥には譜面台がごちゃごちゃに固まった場所もある。

音楽史上、最も厳格に数学理論を音楽に持ち込んだクセナキス。建築にも詳しく、パリ時代には建築家のル・コルビジェの助手を務めたこともある。
坂本龍一がクセナキスに憧れ、東京芸大在学中に、クセナキスの理論に独学でものにしようとしたが果たせず、ポピュラーミュージックへ転向したという話は比較的知られている。

数学的発想から生まれたのかどうかはわからないが、クセナキスの音楽からはミニマル・ミュージックへの萌芽やロックの先駆けともいうべきリズム要素が聴かれ、ポピュラーミュージシャンにクセナキス好きが比較的多いということも、こうした要素から見れば納得出来る。


現代音楽とコンテンポラリーダンスというと、ともに「絶対」指向のものであるため、互いが互いを隔て合うような、独特の感じになりやすい。そこに調和はないし、安易な調和は音楽と肉体のお互いのパフォーマンスを低下させるだろう。

白井剛は、基本的には音楽に合わせて踊る。ピッチカートが続けば細かく手を動かすし、長めの歌にはそれに合うようなゆったりとしたテンポで踊り、音楽の中にあってより遠くを目指すような仕草をする。

ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラの3台の楽器のために書かれた「Ikhoor」は、冒頭はストラヴィンスキーの「春の祭典」にもよく似たバーバリズムの横溢である。ただ白井はそれとはまた別の要素を見いだしたようで、野性味爆発というより、死の目の前であがく何かの姿を丹念に演じているように見えた。


「Tetras」。この曲では白井がアルディッティSQの前に出て踊り、よりコラボレーション色が強く出る。わかりやすい音楽ではないが、リズムはノリがあり、激しい変拍子の応酬というわけでもないので、踊りやすい曲ではあると思う。

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2017年5月 3日 (水)

MOKK project 05 「地樹なく声、ピリカ」

4月24日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて

午後7時30分から、左京区岡崎にあるロームシアター京都ノースホールで、コンテンポラリーダンスカンパニーMOKK(モック)の公演、MOKK project 05(vol.5) 「地樹なく声、ピリカ」を観る。

MOKKは、村本すみれを中心に、日本大学藝術学部(通称:日藝)出身者によって結成されたダンスカンパニーであり、「劇場機構にとらわれない空間からの発信」を軸に公演を行ってきた。
現在は、日藝出身者にとらわれず、公演毎に出演者を募るプロデュースユニットのような形になっているようである。
「地樹なく声、ピリカ」のピリカはいかにもアイヌ語的な響きを持つが、実際にアイヌ語であり、「美しい」という意味を持つ(北海道には「ピリカ」という言葉の入る施設がいくもある)。
舞台上手に裸の樹が一本そびえ、下手には材木が一本転がっている。舞台中央にはビニールハウスがあり(温室のようにも見える)中に植物が青々としているのがわかる。殺風景な舞台装置の中にあってこのビニールハウスだけが理想郷のようにも見えるのだが、これが今あるものなのか過去なのか未来なのかは明かされることはない。

溶暗すると、まず男女によるハミングが聞こえ、明かりが付くと男性ダンサー2人によるダンスが始まる。

続いて、ダンサー達が多数登場し、10人のダンサー(男性4人、女性6人)が入り乱れての祝祭的なダンスが繰り広げられている。それほどプリミティブな感じはしないが、「春の祭典」の冒頭のようだ。ビニールハウスの中の緑が映えているため、森に集ったロビン・フッド達のようにも見える。
なお、女性ダンサーは6人中4人が日本女子体育大学舞踏学専攻卒業である。「スポ根女子大」のイメージがある日本女子体育大学であるが、最近は舞踏など、スポーツそのものではない分野にも力を入れているようだ。
女性ダンサー達は全員、髪の一部を赤く染めているが、これは視覚的効果を狙ったもので(植物の緑に対して反対色の赤を配したものだと思われる)、それ以上の意味はないそうだ。

その中の一人の女性ダンサー(仕草や表情から子供を演じていることがわかる)が弱々しく倒れる。どうも子供なので疲れてしまったようである。やがて、子供が実際に死んだかのように見える場面もある。リーダー格に見える女性ダンサーが子供役の女性を見つめ悲しみに暮れるような表情をする。どうやら母親ということらしい。
その後、子供は生き返るのだが(最初から死んでいなかった可能性もある)、子供を取り巻く人々も倒れ、死にゆくように見える場面がある。いくつもの死が繰り返され、「喪失」という単語が頭に浮かぶ。

ビニールハウスの中で男女の営みが示唆される場面があり、それを見た人々はメロディーを口ずさみながら踊る。ラストに現れる音楽はこのメロディーを弦楽合奏で弾いたものである。


コンテンポラリーダンスは基本的に「反物語」であり、それ故そのほかのもの(演劇や映画など)に置き換えられないのであるが、そのため却って多様な物語解釈も可能である。
ただ、考えるより感じることの方が大切である。安易に物語に回収しようとすると、コンテンポラリーダンスをすることと観ることの意義がなくなってしまう。


終演後に、MOKK代表で、「地樹なく声、ピリカ」の構成・振付・演出を担当した村本すみれと、追手門大学大学院准教授でダンス批評が専門の富田大介によるトークがある。
「地樹なく声、ピリカ」の音楽は、「そして父になる」で日本アカデミー賞優秀音楽賞を担当している松本淳一が手掛けている。松本は劇伴の作曲家であるため、村本によると「注文したらすぐ曲が出来てしまう」そうであるが、「物語性が強すぎる」と思うものはカットしたり、他の曲に書き換えて貰ったりしたそうだ。安易に物語に回収されることは村本も当然ながら避けているようである。

村本によると、「地樹なく声、ピリカ」は、人によって見方が180度異なる場合が多いそうだが、富田が「昇華」と見た場面を私は「痛切なる喪失」と捉えており、まさに180度異なるのがわかる。抽象的である必要があるため、当然ながら正解もなく、これまでの歩んできた人生によって見方が変わるのも当然である。
村本自身は、「生」か「死」かでいったら「死」の方に重点を置いているそうで、これは私と重なるが、作者の言うことが必ずしも正しいとは限らないのもコンテンポラリーダンスの面白いところである。

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