カテゴリー「コンテンポラリーダンス」の6件の記事

2017年7月21日 (金)

コンサートの記(310) 「アルディッティ弦楽四重奏団×白井剛」

2017年6月23日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

ロームシアター京都サウスホールで、午後7時から「アルディッティ弦楽四重奏団×白井剛」を聴く。現代音楽のスペシャリストとして知られるアルディッティ弦楽四重奏団とコンテンポラリーダンスの白井剛(しらい・つよし)のコラボレーション。
アルディッティ弦楽四重奏団の演奏を聴くのは初めて。白井剛のダンスを見るのは約12年ぶりである。

前半は、アルディッティ弦楽四重奏団のみの演奏で、クルタークの「ミハーイ・アンドラーシュへのオマージュ~弦楽四重奏のための12のミクロリュード~」、細川俊夫の「沈黙の花」、リゲティの弦楽四重奏曲第2番。後半がアルディッティSQと白井剛のジョイントで、クセナキスの「ST4」、「Ikhoor for torio」、「Terras」。


今日は前から4列目のほぼ真ん中。音はよく聞こえるが、魅力的な響きというほどではない。今日はダンスとのコラボであるが、弦楽四重奏のみの演奏をするには、京都だとアンサンブルホール・ムラタやALTIの方が良いように思う。

アルディッティ弦楽四重奏団のメンバーは眼鏡率が高い。第2ヴァイオリンのアショット・サルキシャン、ヴィオラのラルフ・エーラース、チェロのルーカス・フェルスが眼鏡を掛けており、第1ヴァイオリンのアーヴィン・アルディッティも演奏時には老眼鏡を掛けるので、全員が眼鏡だ。
そんなアルディッティ弦楽四重奏団の演奏であるが、流石の切れ味を聴かせる。


クルターク・ジェルジ(ジェルジ・クルターク)の「ミハーイ・アンドラーシュへのオマージュ~弦楽四重奏のための12のミクロリュード」。細切れの和音が続く。12の短い音楽が紡ぎ出され、1編1編があたかも俳句を聴くような趣がある。


細川俊夫の「沈黙の花」。生け花と能楽にインスピレーションを受けた作品である。弦の歌が能楽の謡のように聞こえ、ピッチカートが鼓のように響く。日本的な「好み」を聞き取るという上ではわかりやすい作品である。


リゲティ・ジェルジ(ジェルジ・リゲティ)の弦楽四重奏曲第2番。
今日演奏された作品の中で最も絶対的な作品である。そのため「見立て」や「直喩」が出来ないのであるが、響きの重なりの中に美を見いだすことは可能である。


クセナキスの楽曲によるアルディッティ弦楽四重奏団とコンテンポラリーダンサーの白井剛によるセッション。幕が上がると、舞台の奥には譜面台が並ぶ。中央やや上手より奥には譜面台がごちゃごちゃに固まった場所もある。

音楽史上、最も厳格に数学理論を音楽に持ち込んだクセナキス。建築にも詳しく、パリ時代には建築家のル・コルビジェの助手を務めたこともある。
坂本龍一がクセナキスに憧れ、東京芸大在学中に、クセナキスの理論に独学でものにしようとしたが果たせず、ポピュラーミュージックへ転向したという話は比較的知られている。

数学的発想から生まれたのかどうかはわからないが、クセナキスの音楽からはミニマル・ミュージックへの萌芽やロックの先駆けともいうべきリズム要素が聴かれ、ポピュラーミュージシャンにクセナキス好きが比較的多いということも、こうした要素から見れば納得出来る。


現代音楽とコンテンポラリーダンスというと、ともに「絶対」指向のものであるため、互いが互いを隔て合うような、独特の感じになりやすい。そこに調和はないし、安易な調和は音楽と肉体のお互いのパフォーマンスを低下させるだろう。

白井剛は、基本的には音楽に合わせて踊る。ピッチカートが続けば細かく手を動かすし、長めの歌にはそれに合うようなゆったりとしたテンポで踊り、音楽の中にあってより遠くを目指すような仕草をする。

ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラの3台の楽器のために書かれた「Ikhoor」は、冒頭はストラヴィンスキーの「春の祭典」にもよく似たバーバリズムの横溢である。ただ白井はそれとはまた別の要素を見いだしたようで、野性味爆発というより、死の目の前であがく何かの姿を丹念に演じているように見えた。


「Tetras」。この曲では白井がアルディッティSQの前に出て踊り、よりコラボレーション色が強く出る。わかりやすい音楽ではないが、リズムはノリがあり、激しい変拍子の応酬というわけでもないので、踊りやすい曲ではあると思う。

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2017年5月 3日 (水)

MOKK project 05 「地樹なく声、ピリカ」

4月24日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて

午後7時30分から、左京区岡崎にあるロームシアター京都ノースホールで、コンテンポラリーダンスカンパニーMOKK(モック)の公演、MOKK project 05(vol.5) 「地樹なく声、ピリカ」を観る。

MOKKは、村本すみれを中心に、日本大学藝術学部(通称:日藝)出身者によって結成されたダンスカンパニーであり、「劇場機構にとらわれない空間からの発信」を軸に公演を行ってきた。
現在は、日藝出身者にとらわれず、公演毎に出演者を募るプロデュースユニットのような形になっているようである。
「地樹なく声、ピリカ」のピリカはいかにもアイヌ語的な響きを持つが、実際にアイヌ語であり、「美しい」という意味を持つ(北海道には「ピリカ」という言葉の入る施設がいくもある)。
舞台上手に裸の樹が一本そびえ、下手には材木が一本転がっている。舞台中央にはビニールハウスがあり(温室のようにも見える)中に植物が青々としているのがわかる。殺風景な舞台装置の中にあってこのビニールハウスだけが理想郷のようにも見えるのだが、これが今あるものなのか過去なのか未来なのかは明かされることはない。

溶暗すると、まず男女によるハミングが聞こえ、明かりが付くと男性ダンサー2人によるダンスが始まる。

続いて、ダンサー達が多数登場し、10人のダンサー(男性4人、女性6人)が入り乱れての祝祭的なダンスが繰り広げられている。それほどプリミティブな感じはしないが、「春の祭典」の冒頭のようだ。ビニールハウスの中の緑が映えているため、森に集ったロビン・フッド達のようにも見える。
なお、女性ダンサーは6人中4人が日本女子体育大学舞踏学専攻卒業である。「スポ根女子大」のイメージがある日本女子体育大学であるが、最近は舞踏など、スポーツそのものではない分野にも力を入れているようだ。
女性ダンサー達は全員、髪の一部を赤く染めているが、これは視覚的効果を狙ったもので(植物の緑に対して反対色の赤を配したものだと思われる)、それ以上の意味はないそうだ。

その中の一人の女性ダンサー(仕草や表情から子供を演じていることがわかる)が弱々しく倒れる。どうも子供なので疲れてしまったようである。やがて、子供が実際に死んだかのように見える場面もある。リーダー格に見える女性ダンサーが子供役の女性を見つめ悲しみに暮れるような表情をする。どうやら母親ということらしい。
その後、子供は生き返るのだが(最初から死んでいなかった可能性もある)、子供を取り巻く人々も倒れ、死にゆくように見える場面がある。いくつもの死が繰り返され、「喪失」という単語が頭に浮かぶ。

ビニールハウスの中で男女の営みが示唆される場面があり、それを見た人々はメロディーを口ずさみながら踊る。ラストに現れる音楽はこのメロディーを弦楽合奏で弾いたものである。


コンテンポラリーダンスは基本的に「反物語」であり、それ故そのほかのもの(演劇や映画など)に置き換えられないのであるが、そのため却って多様な物語解釈も可能である。
ただ、考えるより感じることの方が大切である。安易に物語に回収しようとすると、コンテンポラリーダンスをすることと観ることの意義がなくなってしまう。


終演後に、MOKK代表で、「地樹なく声、ピリカ」の構成・振付・演出を担当した村本すみれと、追手門大学大学院准教授でダンス批評が専門の富田大介によるトークがある。
「地樹なく声、ピリカ」の音楽は、「そして父になる」で日本アカデミー賞優秀音楽賞を担当している松本淳一が手掛けている。松本は劇伴の作曲家であるため、村本によると「注文したらすぐ曲が出来てしまう」そうであるが、「物語性が強すぎる」と思うものはカットしたり、他の曲に書き換えて貰ったりしたそうだ。安易に物語に回収されることは村本も当然ながら避けているようである。

村本によると、「地樹なく声、ピリカ」は、人によって見方が180度異なる場合が多いそうだが、富田が「昇華」と見た場面を私は「痛切なる喪失」と捉えており、まさに180度異なるのがわかる。抽象的である必要があるため、当然ながら正解もなく、これまでの歩んできた人生によって見方が変わるのも当然である。
村本自身は、「生」か「死」かでいったら「死」の方に重点を置いているそうで、これは私と重なるが、作者の言うことが必ずしも正しいとは限らないのもコンテンポラリーダンスの面白いところである。

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2016年7月 8日 (金)

笠井叡×山田せつ子 新作ダンス公演「燃え上がる耳」

2016年7月2日 京都芸術劇場春秋座にて

午後3時から、京都芸術劇場春秋座内特設劇場(ステージは春秋座のものを生かし、客席はstudio21にある階段状客席を移設して、ステージの広い小劇場という独特の空間を作ったもの)で、笠井叡×山田せつ子 新作ダンス公演「燃え上がる耳」を観る。出演は、笠井と山田の他に、佐伯有佳、野田まどか、福岡まな実、松尾恵美。

大野一雄に師事し、天使館を設立。日本におけるモダンダンスの代表格的存在の笠井叡(かさい・あきら)と、天使館で笠井に師事し、日本の女性コンテンポラリーダンスの先駆となった山田せつ子の二人と、若い女性ダンサー四人によるダンス公演である。

今回は笠井叡の特異なダンスに「若い友人女性ダンサーに挑戦して貰おう」という山田せつ子の提案によって始まったものであるという。

コンテンポラリーダンスは、物語から遠ざかり、「それそのもので成り立つ」ことが出来るという特性を持つ。同じダンスでもストーリー性豊かなバレエなどとはそこが違うところである。


まず、女性ダンサー四人が登場。薄い肌色の衣装である。いくつかの文字を形作るような動きをした後で退場。そして舞台下手から山田せつ子が、舞台上手から笠井叡が現れ、舞台中央付近で様々な動きを展開する。
そして突然、ブラームスの交響曲第1番第1楽章が大音量で流れ始める。最初は音楽に敢えて合わせないようなダンスをしていた二人だが、やがて体の動きは音楽に溶けていく。ブラームスの交響曲第1番第1楽章は全編が流れ、音楽の力もあって、迫力あるダンスとなる。

笠井と山田が退場して、今度は若手四人のダンス。ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章が流れる。音質から察して古い録音であり、咳などが聞こえることからライブ録音であることがわかる。音楽は途中でフェードアウトするのだが、舞台上手から笠井が現れ、舞台中央付近で、横よりも縦の動きを強調したダンスを繰り広げる。音楽は再びベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章。笠井と若手ダンサーによる計五人のダンス。笠井の舞踏スタイルはコンテンポラリーだが、若手のダンサーはそれほど記号的ではない。今度も音楽は最後まで続くことはなくフェードアウトする。

笠井一人が舞台上に残り、舞台手前まで進み出て、「ご覧なさい。神の池。神聖なる。神の魚」とセリフを発し、回転の多いダンスを舞いながら舞台中央までゆっくりと戻っていく。そして笠井は「神の魚になり損なった」と言い、「エラ呼吸を止めて、丘に登ろう」と舞台中央へと歩み寄る。溶暗。

若手ダンサー四人がバレエスタイルなどを取り入れたダンスを舞って退場した後で、白いカツラを被り、白のワンピースを着た山田が登場。舞台上手奥から、舞台下手手前に進み出る形で、ダンスを繰り広げる。背後のスクリーンには公演のタイトルそのままに火の付いた耳の映像が映る。耳が燃えるというのはどういうことなのか。情報の断絶なのか遮断なのかあるいは逆に感知能力活性化なのか。もっと単純に燃え上がる生命の暗喩なのか。燃える映像の前で山田は踊り続ける。音楽は左手が同じ音を出し続ける現代音楽系のピアノミュージックだ。

笠井は無料プログラムに「ある日、海の中を泳いでいる魚が、海面で空気を呼吸し、「なあんだ、空気なんて海中の溶存酸素を取らなくたって、空中に無限にあるのだ、陸へ行こう!!」と決意し、悲劇的な身体形成への努力が始まる」と記しており、身体表現の文法からの脱出への試みと共にその困難さが感じられる。破壊と創造。言葉ではなく身体を通してのパラダイムの把握と転換。「燃え上がる耳」は転換の意思へのメタファーなのか。あるいはそうした言葉からの触手は間違いなのだろうか。

今度は笠井のソロダンス。音楽はワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」より“愛の死”。これも古い録音によるものである。楽曲のタイトルから内容を受け取って良いものなのかどうかわからないが、何かしらの「終着」を感じ取ることは許されるのかも知れない。言葉がネット上で暴力的に飛び交う現代のアンチテーゼとして。

四人の若いダンサーだけによるテクノミュージックによるダンスを経て、宗教曲が流れ、四人のダンサーと山田せつ子が踊る。再び「燃え上がる耳」の映像が浮かび(4つ)、悲劇的なのかどうかはわからないが(ラストは悲劇的に映る)、山田から四人のダンサーへの何らかの身体的技術の伝達を表しているようでもある。とにかく全部で五人の女性が燃えている。

ラストは笠井と山田による短いデュオ。パイプオルガンの音楽が鳴り響く中で、舞いがあり、終わる。


頭や言葉で理解しようと思っても上手くいくとは思えない。そんな言語体系とは別の感覚的資質でダンスで捉えたとしたらどうだろうか。昨今過激化する言葉ではなく、それ以前にある肉体の法則に則るものを。あるいは目ではなく耳で感じるかのような新たな感性でもって。

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2016年4月14日 (木)

「談ス」京都公演

2016年3月24日 京都市左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、大植真太郎、森山未來、平原慎太郎の3人によるダンス公演「談ス」を観る。
アクロバティックなダンスとセリフとまでは呼べず「談じている」と書いた方が適当な言葉によって生み出される公演。

ロームシアター京都サウスホールに入るのは初めて。ロームシアター京都メインホールは京都会館第1ホールを完全に取り壊してから新しく建てたが、ロームシアター京都サウスホールは京都会館第2ホールの内部改修である。ホワイエなどには一部、京都会館第2ホールの面影を残しているところがあるが、ホール内は別物。メインホール同様ステージが広くなった。京都会館第2ホールのステージは昔の公会堂同様に少し高かったのだが、サウスホールのものは程良い高さ。客席数は1階席はかなり減らしたようである。面白いのは両サイドにあるテラス席で、普通のテラス席はホワイエから続く階段を昇り、扉を開けてホール内に入るのであるが、サウスホールはホール内に階段があり、テラス席に向かって階段を昇っているお客さんの姿がホール内から見えるのである。
1階席であるが、席を前後列とずらして頭と頭の間からステージが見えるように工夫されている。ただ傾斜の問題で、少し猫背の人や座高の高い人がいるとステージが見えにくくなるのが残念である。
リノリウムカーペットに白くて大きな円が書かれただけの舞台。舞台サークル内上手奥に小さくて丸いものが置かれているのが確認出来る。下手上方にはモニターが設置されている。

影アナは、「こんばんは、私です。『談ス』京都場所へようこそお越し下さいました。開演の前に3つほどご注意がございます。108あるうちの3つだけです。ホール内は飲食厳禁となっております。それは私も人間ですから上演中に小腹が空いてしまうことはあります。だからといって八つ橋を取り出して……、京都の人は八つ橋は食べない。奈良には行かない」と言った風な洒落だらけのものである。しかも大切なところで噛んでしまったり、ラストでは舌が回らず、「やっぱ駄目だ」と尻切れトンボで終わってしまった。

まず、森山未來が客席後方上手の出入り口から姿を現し、通路を通って前側の空いている席に座る。それからまた立ち上がり、ステージのそばまで来て客席の方を振り向き(女性が「格好いい!」と声を上げる)、ゆっくりとステージに上がる。
それから森山は腹痛を抱えた人の仕草を続け、やがて洋式トイレの便座に腰掛けるポーズをし、それから力む仕草をする。
その後、口から小さな人型を取り出し、小さくて丸いものの上に置く。小型カメラが置かれていて人型がモニターに映る。

「うあー!」と声を挙げながら、平原慎太郎が舞台下手から歩いてくるが、白い円の中に入ろうとして何故か入ることが出来ず、下手に退場。そして再び現れ、今度は何とか円の中に入る。そしてこれまた小さな人型を取り出し、小さくて丸いものの上に置く。

森山未來は平原慎太郎に「何か持っているだろう?」と持っているものを取り上げようとするが、平原は何も持っていない。そして、森山未來が「1」、平原慎太郎が「2」となる。バレエや組み体操などの要素も踏まえたアクロバティックなダンスで円の内側を反時計回りに回る。「1」、「2」は、「アイン」、「ツヴァイ」とドイツ語になったり、「水」、「油」、「男」、「女」などの対比になったりする。

突然、「3」という大声がホール内に響き渡る。大植真太郎が下手側2階テラス席にいて声を発したのである。階段を降り、ステージに上がる。無理矢理「3」として森山と平原の二人に加わろうとする大植だったが最初は拒否される。それでも何とか「3」として加わることに成功。アクロバットは難度を増す。

人型二つとチョークがモニターに映り、それと同じポーズを3人が取るようになる。その後、3人はステージ上にチョークで文字を書き始める。「LOVE」、「勇気」、「HOPE」、「勇気だ愛だと騒ぎ立てずにその気になればいい」。
「勇気」では3人が前に倒れて顎を肩に載せて三角バランスを作る。「カレッジ」という言葉を森山と大植は使うのだが、平原は「ユニバーシティー」といって、そのゲームを打ち切る。
「HOPE」では、組み体操で良くやった、一人の肩の上にもう一人が立って2人で立つというもの。わざとであるが成功しない。チャゲ&飛鳥の「YA-YA-YA」の歌詞である「勇気だ愛だと騒ぎ立てずにその気になればいい」では3人でもつれながらバランスを作っていくアクロバット技が展開される。

その後、上の方から巨大なチョーク上のものが降りてくる。森山未來がそれをもてあそんで傾け、大植真太郎がその傾きや回転に合わせたポーズを取る。
平原慎太郎は怒りをぶちまけながら円の端を反時計回りに回る。巨大チョークは上へと去るが、中に入っていた数多くのチョークは残される。後にこのチョークの山がぶちまけられ、ステージ上はチョークで一杯になってしまう。3人はその後、チョークでステージ上に幾何学的な絵を描いていく。巨大チョークを下ろしてきたワイヤーに小型カメラが付けられ、ステージ上方からの映像がモニターに映る。

大植真太郎が森山未來と平原慎太郎の体を使って、セリフを一人で話すという、文楽のようなことをやったり、森山が再び洋式便座に座って踏ん張る仕草をし、「自分の中から何が生まれるのかわからない。わけのわからないものが生まれてしまったどうしよう」と不安を述べたりする。

大植が中学生でもわかるシンプルな英語を話し、平原慎太郎が日本語に訳す。二人はステージの上を時計回りに歩いて行く。

それから大植が歌を唄ったり、大植のタイツやシャツに森山が首を突っ込んだりする。

大植はその後、激しいダンスを踊ったため、ステージ上手に寝転がって、「I cannot continue.」と言う。それから「Close Your      Eyes.」と客席に話しかけ、「Imagine」、「I am dancing.」と言って笑わせたりする。

ラストは前半にもやった3人による三角バランス。三度目の時に照明が落ち、公演が終わる。
ダンスというべきか、アクロバットというべきか、難度はとても高く、運動神経がかなり高くないと行えない公演である。ダンスの中には運動神経とは余り関係のない種類のものもあるが、「談ス」は並みの運動神経では無理だ。

森山未來は俳優として有名だが、まずダンサーとしての才能を買われ、その後、俳優業へも活動を拡げており、ダンスは得意中の得意であり、大植真太郎と平原慎太郎はプロのダンサーである。


ダンスというものの限界や枠組みを破るための公演であり、特別に意味深い内容が語られるわけではないが、3人の優れたダンサーの妙技を見るだけで楽しめる公演になっていた。

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2015年4月 8日 (水)

コンサートの記(183) ペンギン・カフェ来日公演2014京都

2014年9月24日 京都コンサートホール小ホール「アンサンブルホール・ムラタ」にて

午後7時から、京都コンサートホール小ホール「アンサンブルホール・ムラタ」で、ペンギン・カフェの来日演奏会を聴く。ペンギン・カフェは日本各地で演奏会を行うが、今日の京都公演などでは山田せつ子の振付によるダンスも披露される。

ペンギン・カフェは、カフェと付いているが本当のカフェではなく、イギリスのミニマル系コンテンポラリーバンドである。1970年代にサイモン・ジェフスが創設したペンギン・カフェ・オーケストラが基となっており、サイモンの死後は息子のアーサー・ジェフスがリーダーとなってメンバーを一新し、ペンギン・カフェに名前を縮めて活動を続けている。

曲目は、「Telephone」、「Catania」、「Blue Jay」、「Swing the Cat」、「Solaris」、「1420」、「Nothing Really Blue」、「Landau」、「Giles Farraby's Dream」、15分間の休憩を挟んで、「Southern Jukebox」、「Odeon」、「Bemba」、「And Yet」、「Paul's Dance」、「Popetum Mobile」、「Bean Fields」、「Taxi」、「Bemba」、「Black Hibiscus」

リーダーのアーサー・ジェフスを始め、複数のメンバーが幾つもの楽器をこなすという器用な演奏家の集団である。トークはアーサー・ジェフスが全て英語で行うが、月曜日に聴いたグレン・ミラー・オーケストラ同様、音楽で使われる単語はバラエティに富んだものではないため何を言っているのか大体はわかる。アーサー・ジェフスはまず、「今晩は雨の中をお越し下さりありがとうございます」と言った後で、「私の父親(サイモン・ジェフス)は、来日した際に、よく京都の寺院に行って曲想を練っていました。ですので、今日は音楽の故郷に帰ってきたような心地です」と続ける。

ダンスであるが、木野彩子と小田直也(大駱駝艦)がペンギンの格好をして行う。衣装担当は岩切明香。
まず、舞台下手側からペンギンの顔の阿像を手にした小田直也が、上手側から同じく吽像を手にした木野彩子が出てきて、ステージ下の通路に降り、中央に来たところで、ペンギンの顔をかぶり、再度舞台に上がってメリハリのしっかりしたダンスを披露する。その後は、ユーモラスな振付のダンスなども行われた。アーサーは二人のダンサーを「マジック・フレンズ」と呼ぶ。ちなみに聴衆のことは「ラブリー・オーディエンス」と呼び、ここでアーサーは拍手が欲しかったのだが、拍手が起こらなかったため、自分で拍手をして聴衆にも促し、笑いを誘った。

音楽性であるが、やはりイギリスのミニマル・ミュージックということで、ミニマル・ミュージックの創設者とされるマイケル・ナイマンを想起させるものがある。一方で、サイモン・ジェフスは坂本龍一と友人であり、坂本龍一と同じエイベックスから地球に優しい、デジパック特別仕様のジャケットのCDをリリースしていたということもあって、坂本龍一的な音楽を奏でることもある。坂本龍一はマイケル・ナイマンのことが嫌いなようだが、元々は坂本龍一もナイマンの影響を受けてミニマル・ミュージックを作成していたということもあり(「HAPPY END」という曲が坂本が作曲したミニマル・ミュージックの中では一番有名だと思われる)、音楽性は親しいものがあるのである。イギリスやアイルランドの民俗音楽も取り入れており、アーサーが「アイルランドや、スコットランド(U.K.からの独立が住民投票で否決された直後ということもあり、アーサーが「スコティッシュ」と強調して言って笑いを取っていた)の音楽で使われる楽器を演奏します」と言って、ティン・ホイッスルを吹いたりした。
ヴァイオリンも演奏されるが、クラシック寄りのポピュラー音楽であるため、フィドルと書いた方が適切な気がする。コントラバスはピッチカートのみの演奏であるため、ジャズ風にダブルベースというべきであろう。

ラストの曲目である「Black Hibiscus」は、ショパンの夜想曲第20番(遺作。ちなみにショパンの場合は、遺作というのは最後の作品というわけではなく生前に楽譜が出版されなかった曲のことである。以前は、「習作同然」と見なされて余り演奏されない曲の方が多かったのだが、1980年代からは演奏される機会が増えた。夜想曲第20番は映画「戦場のピアニスト」でメインテーマとして扱われたため、ショパンの遺作の中でも知名度がかなり高い1曲である)の旋律を基にしたもので、中南米のリズムを取り入れて哀切なメロディーが賑やかに演奏された。

アンコールは2曲。まず、「Harry's Piers」では振付担当の山田せつ子が自身でソロダンスを披露し、ラストの「Music For Found Harmonium」はアーサがタイトル通りファウンド(見つけた。京都で捨てられていたものをたまたま拾ったのだという)ハルモニウム(小型オルガン)を演奏、大いに盛り上がる。

ポピュラー、クラシックのどちらの要素も兼ね備えたバンドであるが、どちらかというとポピュラー好きの聴衆が多いようで、自然発生的に手拍子が起こるなど、楽しい演奏会で会った。

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2009年7月 2日 (木)

追悼ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踏団「フルムーン」

2008年4月2日 びわ湖ホール大ホールにて

びわ湖ホール大ホールで、コンテンポラリーダンスの世界的大家、ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踏団の公演「フルムーン」を観る。午後7時開演。

ピナ・バウシュの公演ということで、関西の舞台関係者や文化人の姿が多く見られる。

「フルムーン」はダンサーが日本語や英語でセリフを語りつつ進むダンス作品。ヴッパタール舞踏団には日本人のダンサーもいるので、日本語のセリフもメンバーは憶えることが出来たのだろう。

舞台中央、やや上手寄りに巨大な岩石のセットが置かれている。その下には川状の浅いプールが舞台を横切っている。

「フルムーン」というタイトルゆえ、冒頭こそ月に憑かれたようなダンスがあるが、それに沿った解釈で見ても面白くないので、場面場面を画として楽しんでみた。物語性を追おうとすれば追えるのだけれど、そもそも物語性というもの自体が、あるがままのものにレッテルを貼って、それらしき場所に押し込めてしまうものであり、ダンスにまでそんな窮屈さを求めたくない。

水を多量に使った場面はやはり爽快。市川猿之助が、スーパー歌舞伎について、「水芸を舞台でやると必ず喜ばれる」と言っているのを聞いたことがあるが、やはり本来舞台とは相性が良くないはずの水を思いっきり使うと、舞台であることの制約が取り払われたとような感覚があり、痛快である。

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