カテゴリー「コンテンポラリーダンス」の17件の記事

2018年10月22日 (月)

京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2018 セシリア・ペンゴレア&フランソワ・シェニョー 「DUB LOVE」

2018年10月18日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて

午後8時から、ロームシアター京都ノースホールで、京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2018 セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョーの「DUB LOVE」を観る。

セシリア・ベンゴレアとフランソワ・シェニョーはフランスのパリを拠点に活動しているダンサー兼振付家である。先日、ロームシアター京都サウスホールで公演を行ったロレーヌ国立バレエ団の「トリプルビル」第1作目「DEVOTED」の振付も担当している。

コンセプト:セシリア・ベンゴレア、アナ・ピ、フランソワ・シェニョー。構成・出演:セシリア・ベンゴレア、フランソワ・シェニョー、アレックス・マグラー(役割構成:アナ・ピ)。ヒップホッフ振付コラボレーション:アンジェ・クエ。ダブルプレートプレーヤー:DJ High Elements。

ジャマイカの音楽に乗せて行われるコンテンポラリーダンスである。
タイトルにもある「DUB」というのはレゲエの音響加工技術だそうで、様々な音を加工する。
1950年代のジャマイカで興り、60年代にはスカ(東京スカパラダイスオーケストラでも知られる裏打ちの高速テンポを特徴とする音楽)の要素も取り入れて、その後もロックやミニマルの影響を受けつつ発展したという。


上手側に鏡が張られており、下手から照明を照らすことで、反射した光が下手の壁に影を作る。舞台上のダンサー、上手の鏡像、下手の影の3つが平行して進む形になる。

8分の6拍子の音に合わせてまずフランソワ・シェニョーが登場。 2番手がアレックス・マグラー、ラストがセシリア・ベンゴレアという順に登場。
思い思いの振りで踊った後で、同じ仕草で踊り始める。

その後、3人とも爪先立ちでバランスを取った後で、3人が肩を組み、しゃがんで右足を上げたり、男性ダンサー2人の支えで、セシリアが上体を反らせつつ移動したりするなど、バランスの芸が行われる。

バランスを取るには相手に合わせる必要があるため、この時点で「愛」である。

ちょっとした休憩タイムの水入り後で、3人のダンサーがDJに合わせて歌う。メロディーよりリズム優先で、即興性に富む。

その後も、4分の4拍子のスカのリズムに合わせてダンスが行われ、やがてスカが後退すると全員同じ振付になり、バランス芸が再び現れた後で、爪先立ちで肩を組んだ3人がソロリソロリと退場して終わる。あたかも鏡像のように、あるいはバッハの音楽のように遡行されて。


描いているものはシンプルなのであるが、演劇にしろ音楽にしろ映画にしろ、単純なものを単純に描くのは案外難しい。その点、コンテンポラリーダンスは簡単なものを簡単に表現することに長けている。それがダンスの強みでもある。

今日は満員札止めの観客がDJも含めた4人を大いに称えた。



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2018年10月 6日 (土)

春秋山荘観月祭2018 山田せつ子ソロダンス 「月を聴く 竹に舞う」

2018年9月24日 山科区の春秋山荘にて

山科区の山奥にある春秋山荘というところで行われる観月祭で、山田せつ子のダンス公演が行われるというので出かけてみる。山科の北の果てともいうべき場所にあるのが毘沙門堂だが、春秋山荘は更にその奥にある。

山科川に沿って北西に進む。右手、やや高いところに建つのが春秋山荘である。
午後5時過ぎに到着。山田せつ子のダンス公演は午後7時頃の開演で、しばらく時間があるので、辺りをぶらぶらする、といっても特筆すべき何かがあるわけではない。
庭で絵画の制作が行われており、山の上ではかがり火が焚かれているのが見えるが、ダンス公演はかがり火の付近で行うようだ。

山田せつ子ソロダンス「月を聴く 竹に舞う」は裏山の中腹にあるスペース(月逍台という名が付いているようだ)で行われる。急坂を上り下りする必要があり、注意していないと足を取られる可能性がある。

竹林の中、竹を横に並べた木琴(竹琴?)状の舞台の上で舞踏が行われる。音楽は用いられず、秋の虫の声のみが通奏低音となる。
木琴状の竹舞台の上で山田が仰向けになった状態から公演スタート。竹の上でステップを踏んだり、立っている竹に抱きついたりした後で、公演を観に来ていた岩下徹と手でサインを交わす。その後、竹舞台から降りた山田がかがり火に近づいてから再び岩下と手で会話を交わす。そして岩下もダンスに参加。山田と岩下二人の関係性の変容が繰り広げられる。最後は、山田一人のダンスに戻って終了したが、その後、中庭で第2部が展開される。山田と岩下による陣取りゲームのようなダンスで、幣に見立てた小枝の受け渡しが行われたりする。ラストは石の上に老男女にように寄り添って公演は終わった。投げ銭制の公演であり、スタッフが持った籠に観客達がお金を投じる。参加者となったはずの岩下徹もお金を入れていて、ちょっとした笑いを誘っていた。

その後、月の出を待つが、雲が多く、主役は姿を現さない。
春秋山荘を後にし、毘沙門堂の前まで来たところで月がようやく顔を覗かせる。その後、山科駅まで月と一緒に歩いた。


十五夜 山科にて

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2018年10月 4日 (木)

ロレーヌ国立バレエ団 「トリプルビル」@ロームシアター京都サウスホール

2018年9月21日 ロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、ロレーヌ国立バレエ団の「トリプルビル」を観る。「DEVOTED」「STEPTEXT」「SOUNDDANCE」という3つの短編からなる連作。

ロレーヌ国立バレエ団は、フランス・ロレーヌ地域圏ムルト・エ・モゼル県のナンシーに本拠地を置くバレエ団。1980年代にフランス全国19カ所に設けられた国立振付センターの一つであり、劇場と教育機関を併せ持つロレーヌ国立バレエの専属バレエ団である。
正式名称は国立振付センター・ロレーヌ・バレエ団。コンテンポラリー・バレエ作品の制作を中心に据えている。現在の所属ダンサーは26人。2011年7月以降、ピーター・ヤコブソンが芸術監督として指揮を執っている。

「DEVOTED」。セシリア・ペンゴレア&フランソワ・シェニョーの振付である。
緑のレオタードに身を包んだ女性バレリーナ達のダンス。フィリップ・グラスのミニマルミュージック、「Another look at Harmony part Ⅳ」が流れる。パイプオルガンが繰り返され、その後、合唱が加わる。
まずは回転したり足を上げたりと、いかにもクラシックバレエといった感じの振りから入るが、ダンサーの数が徐々に減っていき、ソロダンサー(オオイシ・サキコという日本人のようだ)の舞踊が始まってからコンテンポラリーの要素が加わり、その後も群舞でもクラシックとコンテンポラリーの合わさったダンスが繰り広げられる。
フィギュアスケートでもそうだったが、以前は東洋人は白人に比べてプロポーションの面で大きく見劣りがしていた。だがそれも昔のこと、食習慣の影響もあり、今はそうしたハンディはほとんどない。
一度溶暗してから、3人のダンサーがつま先で立ち続ける中、一人のダンサーが後ろ向きに進むという場面がある。つま先であるため、バランス面でも体力的にもかなりきつそうである。ただそれがその後の踊りの開放感にも繋がっているようである。

「STEPTEXT」。鬼才ウィリアム・フォーサイスの振付。音楽はJ・S・バッハのヴァイオリン・パルティータ第2番より“シャコンヌ”だが、最初のうちは細切れに用いられる。
まず黒い衣装の黒髪の男性ダンサーが舞台下手前方へと歩み出て、円を描くようなダンスを行う。ダンサーが引っ込んでから、今度は黒人系の男性ダンサーが現れて、やはり同じようなダンスをする。
その後、舞台上手から髪を茶色に染めた男性ダンサーと赤い衣装の女性ダンサーが現れて、パ・ド・ドゥを行う。最初に出てきたダンサーと二番目に登場したダンサーをもデュオを行ってたり、別々に踊ったりする。やがて女性ダンサーの相手が次々に入れ代わる。パ・ド・ドゥの時はシャコンヌが鳴り続けて、一段落してソロやデュオが始まると音楽が止まる。
男女の関係性と人生の移ろいを描いているような作品である。

「SOUNDDANCE」。ジョン・ケージのパートナーとしても知られたマース・カニンガムの振付。来年、2019年はカニングハム生誕100年に当たり、来年行われる予定の記念公演でも本作品が取り上げられるという。
舞台上3mぐらいの所から金色のカーテンが降りており、背面を覆っている。中央下に穴があり、そこからダンサーが出入りする。ダンサーはオレンジのシャツを着ており、まずは男性ダンサー一人の踊りでスタートするが、踊り手がどんどん増えていく。
音楽は、デイヴィッド・チューダーの「無題」(1975/1994)。電子音による音楽である。
女性ダンサーが持ち上げられることが多く、アクロバティックな動きも多用される。音そのものを身体によってデッサンしたような作品であり、祝祭生が高い。終盤にはダンサーが一人一人去って行き、最初に登場したダンサーが舞台を後にして幕となる。

終演後にアフタートークがある。出演は、ロームシアター京都の橋本裕介とロレーヌ国立バレエ団芸術監督のピーター・ヤコブソンとリハーサルディレクター&コーディネーターリサーチのトーマス・キャレイ。ピーターとトーマスは英語で話し、千代その子が通訳を務める。

ピーター・ヤコブソンは、「ダイバーシティ(多様性)」を大切にしているそうで、ロレーヌ国立バレエは、クラシックバレエに固執せずにあらゆるジャンルのバレエやダンスに取り組んでおり、またバレリーナやダンサーもクラシックバレエの技術のみを見るのではなく、それぞれの哲学や創造性などを重視して採用を決めるそうである。
またロレーヌ国立バレエは毎年テーマを掲げており、一昨年のテーマは「ラ・バレエ」。フランス語では「ラ」は女性名詞に付く冠詞だそうで、バレエは女性名詞ということになるのだが、本当にそうなのかを問うために女性バレリーナのみによるプログラムを組んだりしたそうだ。その他にも、ダイバーシティとしてあらゆる時代のバレエを一年で取り上げたり、表現のダイバーシティとして、パリのポンピドゥーセンターの前庭で「ディスコフット」という作品を上演したこともあるという。ダンサーがディスコを踊りながらフットボール(サッカー)を行うという作品で、実際にゴールマウスがあり、ボールを蹴り込むと1点が入るのだが、その他にも審判へのアピールも得点要素になるそうである。審判はサッカーの審判ではなく審美眼の持ち主として存在しており、優れたディスコダンスを行うと1点入るという仕組みなのだそうだ。
ピーターもトーマスも今後も様々な作品に取り組みたいと語っていた。


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2018年8月22日 (水)

スペイン国立ダンスカンパニー 「ロミオとジュリエット(ロメオとジュリエット)」@びわ湖ホール大ホール

2008年11月29日 びわ湖ホール大ホールにて

午後3時から、大津市のびわ湖ホール大ホールで、ナチョ・ドゥアト芸術監督率いるスペイン国立ダンスカンパニーの公演、バレエ「ロミオとジュリエット」(音楽:セルゲイ・プロコフィエフ、振付:ナチョ・ドゥアト)を鑑賞。プロコフィエフの音楽を演奏するのは、ペドロ・アルカルデ指揮の関西フィルハーモニー管弦楽団。

ペドロ・アルカルデは作曲家でもあり、近年は1年に1作ずつバレエ音楽作品を発表しているようだ。
スペイン国立ダンスカンパニーは、1979年にスペイン国立クラシックバレエとして創設。その後、「クラシック・バレエを否定することなく、より現代的なスタイルを取り入れた」団体となり、名称も現在のものに変更された。

スペイン国立ダンスカンパニー芸術監督のナチョ・ドゥアトは、バレンシア地方の生まれ。ベルギーでモーリス・ベジャールに師事し、その後、ニューヨークに渡って更なる研鑽を積んで、1990年にスペイン国立ダンスカンパニーの芸術監督となる。コンテンポラリーダンスに主軸を置いていて、クラシック・バレエの全曲作品の振付を手掛けたのは、「ロミオとジュリエット」が唯一だそうだ。

スペイン国立ダンスカンパニーは、さいたま市でも公演を行ったが、その時は、演奏してくれるプロオーケストラが確保できなかったのか、テープ録音によって音楽を流したとのこと。
今日の公演は生演奏で音楽が聴ける。もちろん、その場でオーケストラが演奏した方がずっと感動的である。

幕が開くと、ロミオ(ゲンティアン・ドダ)がベンチで休んでいる。やがて、友人のマキューシオ(フランシスコ・ロレンツォ)らがやってきてロミオと戯れるが、ロミオは、たまたまそばを通り過ぎた女性の後についていってしまう。どうも、今回のバレエでのロミオは遊び人という解釈のようだ。シェークスピアの原作でもロミオはいい加減な奴なので、こういうのもありだろう。

一方のジュリエット(ルイサ・マリア・アリアス)はというと、ピョンピョン跳びはねながら口うるさそうな婆やから逃げ回っている。かなりお転婆なジュリエットである。

さて、イタリア・ヴェローナの名門、モンタギュー家とキャピュレット家の争いというのが、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の枠組みであるが、今日のバレエでは、モンタギュー家の人々は男女ともに庶民のような格好で、広場で踊るなどして楽しんでいる。そこへ正装のキャピュレット家の男達がやってきて、楽しんでいるモンタギューの人々にちょっかいを出し、剣を抜く。モンタギューの人々は鋤で応戦。ということは、スペイン国立ダンスカンパニーのバレエではモンタギュー家の人々はどうやら本当に庶民で、キャピュレット家が貴族であり、原作の権門争いではなく、階級闘争に設定が変えられているようだ。

キャピュレット家での舞踏会に、ロミオやマキューシオは仮面を付けて、道化に化けて忍び込み、手品をしたり悪ふざけをしたりしている。
そして、ジュリエットに一目惚れしてしまうロミオ。ジュリエットも無理矢理結婚相手に決められたパリス(アモリー・ルブラン)やジュリエットの親戚であるティボルト(クライド・アーチャー)ではなく、仮面のままのロミオと踊りたがる。露骨に悔しがるティボルト。
やがて、ジュリエットが一人になったところにロミオが現れ、仮面を取る。瞬く間に恋におちる二人……。

モンタギューの人々が広場で車座になり、中央で踊っているマキューシオが乗ってくると皆で同時に手を打つところなどは、まさに「オーレー!」で、スペイン的味わいが出ている。
モンタギューの人々の踊りがダイナミックで、マスゲームのように良く計算されているのも印象的。
幕、布、旗などの使い方も効果的である。

ラスト。仮死状態になったジュリエットを見て本当に死んでしまったと思い、短剣で胸を突くロミオ。ロミオが崩れ落ちるのとほぼ同時にジュリエットが目を覚ます。何てずるい演出なんだ。ストーリーを知っていても、「あー、ロミオがもっと迷っていれば上手くいっていたのに」と悔しくなる。
そして、ロミオが死んだことを知って自らも死を選ぶジュリエット。ここは音楽だけでも十分に美しくて悲しいのに、ジュリエットの動きが加わると、もう卑怯なほど美しくて悲しい。
こういうものを見てしまうと、それを言葉で語るのが馬鹿らしくなる。言葉なんてもう余計なものだ。プロコフィエフの音楽だけで十分である。
といいながら言葉で書いてしまっているけれど。

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2018年8月19日 (日)

アクラム・カーン振付「Chotto Desh/チョット・デッシュ」

2018年8月12日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて

午後3時からロームシアター京都ノースホールで、アクラム・カーン振付のダンス公演「Chotto Desh/チョット・デッシュ」を観る。

アクラム・カーンは1974年、ロンドン生まれの世界的振付家。父親はバングラデシュ人、母親はフィリピン人である。幼少期からインドの伝統舞踏であるカタックを学び、大学ではコンテンポラリーダンスと作品創作を専攻。2000年にアクラム・カーン・カンパニーを設立し、高い評価を得るようになる。2012年のロンドンオリンピックの開会式の振付も担当しているそうだ。

ダンサー1人による作品。無料パンフレットやチケットには、デニス・アラマノスまたはニコラス・リッチーニとクレジットされているが、今日はデニス・アラマノスのソロである。

今回は、子供も大人もロームシアター京都を楽しもうというイベントであるプレイ!シアター in Summerのプレ公演という位置づけであり、子供でも楽しめるよう特別に作成した日本語吹き替え版による上演が行われる。声の出演は、Masayo Mimura、Akira Koieyama、Meg Kubota、Lilian Carter。

「チョット・デッシュ」は、ベンガル語で「小さな祖国」という意味。アクラム・カーンのソロ作品である「デッシュ」を元に生まれており、カーン自身の自伝的要素を入れた作品である。「チョット・デッシュ」への翻案はスー・バックマスターが手掛けている。音楽は、Jocelyn Pookの作曲。ミニマルミュージック系の作風である。

アクラム・カーン(デニス・アラマノス)のスマートフォンに異常があったことから話は始まる。カスタマーサポートに電話をしたのだが、担当として出たのは12歳の女の子。混乱するカーンは、幼き日に毎年訪れていたバングラデシュの街を彷徨う。そして昔語りが始まる。

アクラム・カーンの父親は腕のいい料理人であり、息子のアクラムにも料理人になることを望んでいた。坊主頭のデニス・アラマノスは頭頂部に墨で目と口を書き入れ、アクラムの父親に見立てる。

落ち着きのない子どもだったアクラムは、祖母が読んでくれる絵本「ハニーハンター」が好きだった。舞台の背後に紗幕が降りているが、そこにアニメーションが投影される。飢饉の年に、父親から止められたにも関わらず蜂蜜を取りに行ってしまった男の子の話だ。船に乗り、木に登り、蝶を追う。やがて蜂の巣から蜜を取り出すことに成功した男の子だが木のてっぺんから墜落してしまい……。

16歳になったアクラムに父親は料理の仕事を手伝うように何度も言うのだが、アクラムは聞き入れない。アクラムは料理人ではなくダンサーになりたかったのだ。

父親と息子の関係についてはよくあるもので、特に目新しいところはないのだが、祖母が教えてくれた冒険譚には胸がワクワクする。私も幼い頃は冒険話が大好きで、映画版の「ドラえもん」を毎年楽しみにしていたり、コナン・ドイルの「失われた世界(ロスト・ワールド)」に心ときめかせていたりした。今の子供もそうだろう。

子供には希望と夢を、大人ノスタルジックな感情を与えてくれる名編である。



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2018年7月25日 (水)

フィリップ・ドゥクフレ/カンパニーDCA 「新作短編集」@びわ湖ホール

2018年7月15日 びわ湖ホール中ホールにて

午後3時から、びわ湖ホール中ホールでフィリップ・ドゥクフレ/カンパニーDCAの「新作短編集」を観る。2017年5月16日にフランスのラ・クールシヴで初演されたコンテンポラリーダンス作品。

フィリップ・ドゥクフレはパリ生まれの振付家・演出家。1983年にダンス・カンパニーDCAを立ち上げ、1989年のフランス革命200年祭ではシャンゼリゼ大通りでの記念パレードである「ブルー・ブラン・グード」のために「ラ・ダンス・デ・サボ」の振付を担当。1992年のアルベールビル冬季五輪では開会式と閉会式の演出を担当している。サーカス、映像トリック、ダンスなどを交錯させる作風が特徴。1994年に初来日。以後たびたび来日している。
2006年には単独公演「Solo」の日本公演を行う。シアター・ドラマシティでの来日公演を私は観ているが、ドゥクフレの出演作に触れるのはそれ以来12年ぶりとなる(振付作はミュージカル「わたしは真悟」を観ている)。

作品は5部の短編からなる。「デュオ」、「穴」、「ヴィヴァルディ」、「進化」、「日本への旅」という構成。「進化」と「日本への旅」の間に「R(エール)」という名の短編が挿入されている。
出演は、フラビアン・ベルヌゼ、アレクサンドル・カストル、メリチェイ・チェカ・エステバン、ジュリアン・フェランティ、スザンヌ・ソレール、ヴィオレット・ヴァンティ、アリス・ロラン、フィリップ・ドゥクフレ。
テキスト:アリス・ロラン、テキスト日本語訳:副島綾、日本語台詞:征矢(そや)かおる(文学座)。

「ソロ」では男女のダンサーがピアノを弾いたり、フルートを吹いたりする。フルートを吹きながらのダンスがあるが、本当にその場で吹いているのかは不明。ただ、ピアノは実際に弾いているようである。ドゥクフレはダンサーに対する要求が高いようだ。

「穴」では、穴にはまった男性の上半身と女性の脚による表現。その後、ドゥクフレが一人で穴から登場し、穴の開いたジャケットを使ったダンスを行う。

「ヴィヴァルディ」は、無料パンフレットによると、ドゥクフレが亡き母に捧げた作品。カウンターテナーを使ったヴィヴァルディ作品が流れる中、比較的クラシカルなスタイルのダンスが行われる。

要所要所でスクリーンや紗幕に映像が投影されるのだが、「進化」では、スピードカメラを用いたLoopingという技法を用いて、ダンスの動きが連続写真のようにスクリーンに投影される。この作品ではダンサーがカホンを叩いたり、歌をうたったりする。
続く「R」では、シルク・ドゥ・ソレイユ出身のスザンヌ・ソレールが宙乗りをした上でダンスを行う。ソレールの技はアクロバティックにしてスピーディ且つエレガント。人間離れしているようなところがあり、あたかも妖精を見ているかのような感慨にとらわれる。

「日本への旅」では、日本語の台詞が出演者によって語られ、録音された征矢かおるの台詞が流れる。12年前に観た「Solo」ではドゥクフレは吹越満の録音された台詞を使っていた。こうしたスタイルが好きなようである。
和歌や俳句(「百千鳥さえずる春はものごとにあらたまれども我ぞふりゆく」詠み人知らず 「淡雪の中にたちたる三千大世界またその中に抹雪ぞ降る」良寛 「春雨や檻に寝ねたる大狸」子規 「冬草も見えぬ雪野の白鷺は己が姿に身を隠したり」道元)がスクリーン投影され、日本のテレビCMや相撲中継などがザッピングのスタイルで流れる。また山手線の駅の到着のメロディーが流れたりもする。
どことなくサイケデリックな印象も受ける小品で、扇子や緋の和傘などが用いられ、フランス人の見たエキゾチックな日本を知ることが出来る。

上演時間は90分ほどだが、中身のぎゅっと詰まった多彩な表情を移ろわせていく作品であった。

ホワイエで、ポストトークがある。出演は、フィリップ・ドゥクフレ、ジュリアン・フェランティ、アリス・ロラン。テキストも担当しているアリス・ロランはパリ第七大学で現代文学と英語を学び、執筆や翻訳も行うなど多彩な才能に恵まれている一方でストリップダンサーとしても活躍しているという人だそうだ。ドゥクフレは日本文学については詳しくないので、全て彼女に任せたそうである。
ドゥクフレは日本の伝統芸能には興味津々な一方で、日本で爛熟期に達しつつあるアイドル文化に関しては「日本のテレビでよく見るけどストレンジだね」と答えただけで気にも留めていないようであった。日本政府はクールジャパンの一つとしてアイドルを推そうとしているのだが、日本人が考えるクールジャパンと海外で受けるそれとの間にはかなりの距離があるようである。



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2018年7月17日 (火)

「Theatre E9 Kyotoオープニングプロジェクト・シンポジウム 民間劇場の公共性~京阪神の劇場~」

2018年7月4日 京阪なにわ橋駅アートエリアB1にて

午後7時から、京阪なにわ橋駅アートエリアB1で「Theatre E9 Kyotoオープンリサーチプロジェクト・シンポジウム 民間劇場の公共性~京阪神の劇場~」に参加する。京都の東九条に来年オープン予定のTheatre(イギリス式表記を採用しているようである)E9 Kyotoの現状報告と将来に向けてのシンポジウム。theatre E9設営計画の中心にいる、あごうさとし、蔭山陽太(共にアーツシード京都)と、大谷懊(神戸アートビレッジセンター館長、ArtTheater dbエグゼクティブ・ディレクター)、橋本匡市(ウイングフィールド)、繁澤邦明(シアトリカル應典院)といった大阪、神戸の劇場関係者らが参加する。


まず、京都の下鴨にあった小劇場・アトリエ劇研の閉鎖の経緯について説明がなされる。仏文学者の波多野氏の篤志によって1984年にアートスペース無門館としてオープンしたアトリエ劇研。ただ家主である波多野氏の高齢化により、昨年8月に閉鎖となった。ただ、波多野氏の年齢は90歳を超えているそうで、なぜ今の今まで新しい小劇場の建設が計画されて来なかったのか、強い疑問を感じる。アトリエ劇研自体、下鴨の高級住宅の中にあり、アクセス的には不便な場所である。近所に演劇人の拠点となる場所があるわけでもないため、アトリエ劇研は地域の住民から特に愛されたというわけでもないそうだ。演劇的には陸の孤島とでもいうべき側面があった。

小演劇は、日常生活において必要かといわれれば、必ずしもそうとは言い切れない。小演劇に限らず、生涯一度も演劇というものを観ずに過ごす人はかなりのパーセンテージを締めるはずである。そうした演劇から遠い人達に自分たちのやっていることを分かって貰うためには演劇人の方から歩み寄る必要があるのだが、そうしたことを積極的に行っている人を私は残念ながら知らない。

演劇が力を持つとすれば、日常の閉鎖性、牢獄的感覚を抱いている人に向けての場合である。「デンマークは牢獄だ」ではないが、「どこにも行けない日常」に倦み飽きている人々には、演劇の非日常性は「救済」である。私自身、詳しくは語らないが19歳の時にそれを強く感じる出来事があった。
日常と非日常が連続したものであるとして、ではその境目にあるものが重要なのかどうかについては、あるいは「YES」であり時には「NO」である。このことについては後で語る。

シンポジウムのタイトルが「民間劇場の公共性」であるため、まず出演者全員が「劇場もしくは演劇の公共性」についての意見を述べる。そもそも「公共性」とは何かという話からは入らないといけないが、「あまねく、全ての人のために」と定義すると、演劇は公共性から遠いものである。特に小演劇はキャパも小さく、そもそも万人向けにやりたいと思っていたら演じ手側からも小劇場は選ばれない。そして万人向けを狙えば間違いなく演劇の質は低下する。

神戸のArtTheater db(ダンスボックス)のディレクターである大谷懊がダンスボックスのある長田区について、「在日の方が多く、雑多である」ために劇場が受け入れられやすい場所であることを述べる。Theatre E9が出来る予定の東九条は戦後すぐにバラックが並び、京都0番地と呼ばれた場所であり、その後、京都市内のインフラ建設のための朝鮮半島出身の労働者が移り住み、コリアンタウンとなっている。そのために再開発の対象から外れ続け、京都市内でも飛び抜けて治安悪い場所となっている。そうした場所に観客を呼び込める勝算があるのかどうかというと微妙と言わざるを得ない。演劇人や演劇好きは来るだろうが、それではアトリエ劇研の時と何も変わらないか、むしろ悪くなる。日本は少子高齢化に入っているということもあって、演劇好き以外の人にも劇場に来て貰わないと発展は望めない。自閉的であっても鎖国的であってもなんとかなるということは昔からもなかったが今後はもっと通用しにくくなる。

ただ、多くの人を呼ぶという意味では公共性は勿論必要だが、それらは主題であってはならないとも思う。表現が社会におもねるようになったら終わりだ。我々は演劇が日常と地続きであることを求めない。公共性はあってしかるべきなのは通奏低音としてだと思う。

関西の劇場の現状について、毎日新聞大阪本社学芸編集部で演劇欄を担当した畑律江から報告がある。やはり阪神・アワジ淡路大震災の発生をきっかけに大きく変わっていったそうである。公立の劇場が多い関東に比べて、関西では私営の劇場が力を持っており、大阪ガスのOMS(扇町ミュージアムスクエア)や近鉄小劇場などでの演劇が盛んだったが、震災を機に本社を東京に移転する企業が増え、関西の企業のパワーも衰退して小劇場が次々閉鎖されていった。その後、なんばに精華小劇場が生まれ、大阪城ホールの倉庫がウルトラマーケットという劇場になって、大いに期待したそうだが、いずれの劇場も今は存在しない。
公立の劇場に関してであるが、演劇欄を担当した当初は、「基盤がしっかりしているので公立の劇場の方がいい」と思ったそうだが、職員が公務員であるケースが多いため、発案がなされても当の本人が異同のため数年でどこかに行ってしまうため軸のしっかりしたプロジェクトが生まれないという難点があることも語られる。そういう意味では、志やビジョンのしっかりした私営の劇場の方がまだ期待は出来るそうである。

そして劇場を運営されるための補助金の話になる。補助金を申請する際には、まず公共性が問われるそうだが、この公共性がやはり厄介だそうである。「そのことに税金を使うだけの理由」が問われるのだが、税金を使う理由を突き詰めていくとどうしても「上の人が望むもの」と作る必要が出てくる。果たしてそれが演劇にとって良いことなのか。
是枝裕和監督の映画「万引き家族」がカンヌでグランプリ(パルムドール賞)を取り、話題になったが、「助成金を受け取っていながら日本を貶める話を作った」という、「今、何時代?」と首をかしげたくなるような批判が起こった。公的な金を使うなら日本賛美の作品を撮るべきだということなのだろうが、こうなると完全にナチスとレニ・リーフェンシュタールの関係になってしまい、表現者の自殺を意味することになる。

日本センチュリー交響楽団のコミュニティ/教育プログラム担当マネージャーであり、豊中市立文化芸術センターのプロデューサーでもある柿塚拓真は、クラシックの音楽を演奏することにどう公共性があるのかを問われた場合、単に演奏を行うことを評価するのではなく、演奏をブラッシュアップすることで公共性が高まるという趣旨の発言をする。
「公共性」の中でも、どれだけ良い影響が与えられたのかについての「波及性」が問題になるそうだが、演奏の質が高まれば波及性が増すのはこれまでの例から見て確実であるように思われる。
演劇に関しても、上演を行うことにどう公共性があるのかというよりも、上演を続けることで公共性を生んでいくという考えを提示した方がいいようにも思う。

演劇制作者の若旦那家康は、演芸祭を行う際に、「補助金が取れそうな団体」と「面白いけど、どう考えても補助金は出ない団体」を混ぜて上演を行うことにしているそうである。
分かりやすい演劇をやる団体には補助金は出やすいが、果たしてそれで演劇文化は発達するのかというとそうでもないように思う。一般市民から遠い内容の表現を行う人々を遠ざけてしまった場合、観客の人生の幅もまた狭まり、社会は窮屈になる。「日常」と繋がるものはわかりやすいが、安易に受け取ることの出来るものはその程度でしかないものでもある。
「日常」と「非日常」を考えた場合、その隣接点を攻めるのが第一だと人は思いがちである。互いの最前線での攻防に力を注ぐ人も多いのだろうが、実は日常から最も遠い濃密な非日常によってこそあっさりと塗り変わっていくものである。あたかもオセロのように黒だったものが白へ、白だったものが黒へと。
「異質さこそが実は最強である」。異質さが公共を「作っていく」

街と劇場の関係に関して書くなら、「街があって劇場がある」のは理想的であるが、「劇場が街を創る」になると更に素敵である。今のところ絵に描いた餅でしかないが、文化が公共性を創造出来るなら、劇場には最大級の存在価値が与えられるようになるだろう。


京都ではホームグラウンド的な映画館は持っていないが、東京に通っていた頃は、テアトル新宿や渋谷のル・シネマといったお気に入りの映画館があり、よく通っていた。「そこに行けば面白い映画がやっている」もしくは「面白くないかも知れないけれど、たまにはこういう映画もいい」と思わせてくれる映画館中心の日常があった。
同じように「劇場が中心にあること」が誇りになり、あるいは「劇場があることが日常に変わるような」街が設計出来たなら、これに勝ることはない。今はまだ全ては夢だが。

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2018年6月14日 (木)

田中泯 meets 中村達也/踊り場・叩き場「芒の植え付け」京都公演

2018年6月8日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアタ-京都サウスホールで、田中泯(たなか・みん)meets中村達也/踊り場・叩き場「芒(のぎ)の植え付け」を観る。

大河ドラマ「龍馬伝」の吉田東洋役や映画「DESTINY 鎌倉ものがたり」の貧乏神役でもお馴染みの田中泯とドラマーの中村達也のセッション。

小澤征爾との共演やウィーン・フィルとのコラボレーションなどで国際的に活躍している田中泯。そのためか今日は客席に白人の姿が目立つ。

舞台中央にドラムスセットが置かれているだけのシンプルなセットでの上演。

田中泯は長着を着て野球帽をかぶり、椅子を持って登場。中村達也のドラムに合わせて、まずはゆったりとした動きでスタート。時に呆けたような表情で、時には椅子を車いすに見立てて押すような仕草で、時には「「わー! わー!」と叫びを上げながら、多彩な動きを繰り出していく。
客席の通路も使用し、中央通路では最も速い動きになるなどバリエーション多彩である。
ステージに戻った田中は、スネアドラムを手に、叩きながら踊り出す。まるで一遍上人の念仏踊りのように。
最後は客席に手拍子を要求し、多くの手拍子が響く中で田中は舞う。音楽と肉体の交点の一歩外で踊るようなパンクでファンキーなパフォーマンスであった。

拍手が鳴り止まなかったため、田中と中村はショートサイズのアンコールパフォーマンスを行い、この時は田中は速いテンポで生き生きと踊った。



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2018年6月 5日 (火)

「談ス」シリーズ第三弾「凸し凹る」京都公演

2018年6月1日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、「談ス」シリーズ第三弾「凸し凹る」(正式な読み方不明)を観る。大植真太郎、森山未來、平原慎太郎の3人によるダンスパフォーマンスの3回目。思えば、ロームシアター京都サウスホールで初めて観た演目が、「談ス」の第一弾公演であった。

今回も開演前にユーモラスなアナウンスがある。携帯電話電波抑止装置の佐々木によるもので、答えが「きんし(菌糸、近視)」になるクイズを出したりしていた。

まず、森山未來が客席に背を向けて登場し、体の痒いところを掻いているうちに素早い動きのダンスとなる。
続いて大植真太郎が現れ、バレエのジャンプを繰り出そうとするが惜しいところで上手くいかない。
最後に平原慎太郎が丸机を手に現れ、大植真太郎にダメ出しをする。動きは「YES」とされるが顔が「NO」だったりする。

その後、三人が体を組み合わせて様々なポーズを作るが、森山未來がスライムに右手が付着して離れなくなる。その後、両手が付着。だが、最後は森山未來はスライムを両手で取り上げて、丸机の上に置く。そのスライムで即興的な形状が生み出され、他のダンサーがそれを模したポーズを取る。森山未來は縦長にして、「京都タワー」「金閣寺」と京都絡みのかなりイージーなものを作っていた。

やがて床にある全てのスライムが丸机の上に乗せられ、端からこぼれ落ちていく。森山未來がとあるものについて語り始める。それは「かつては健康にいいとされているが現在では健康に悪いとされているもの」である「ただ健康に悪いということが証明されているわけでもない」ものだ。それには境界があって隔てられているが、すぐに通り抜けることも出来る。「誰が決めたのかわからないもの」である。森山未來と平原慎太郎が誰が決めたのかについてやり合う。

その後も、三人がユーモアを交えた組み体操風アクロバットを行う(二人を馬にして立つと「奈良が見える」そうだ)のだが、意味を求めるまでもなく、純粋に動きが面白い。
森山未來がテニスのサーブを模し、大植真太郎が「レット!」ではなく「ネット!」という場面があるのだが、これは受け狙いではなく、単にテニスに関する知識が余りなかったのだろう。

その後、天井からスライムが蜘蛛の糸のように降りてきて、床に溜まっていく。森山未來と大植真太郎がスライムまみれになりながら組み合うようなダンスを行う。

丸机に手を置いて客席に背を向けていた平原慎太郎が振り向き、「えー」と古畑任三郎を演じる田村正和の真似をする。「古畑任三郎」が放送されてから、田村正和の物真似をする人は必ず古畑任三郎の真似をするようになってしまった。「最近、引退したんですが」と田村正和の近況について語り、「ジャッキー・チェンは一度引退したことがあるんです。すぐ戻ってきましたが。宮崎駿は引退3回、大仁田厚は8回」と引退するする詐欺をいじる。「役を演じている時に人はどうなっているんでしょう? 彼(平原自身)はどこに行ってしまったんでしょう」と語り、「皆さん、この作品のタイトルをご存じですか?」と客席に聞き、平原が口パクで本当のタイトルを言って上演は終わる。

メッセージ自体は、「区分されていない状態」について誰がどう画するのか、それが正解なのか、そもそも名を付けて区分する必要があるのかを問うもので比較的わかりやすい。ただそれ以上に三人によって形作られている体の動きやコンビネーション、ポーズ自体が面白く、日本の若手を代表するダンサーの才気に満ち溢れていた。

即興性に富む作品であるため、ラストの形状(机とスライム)が毎回異なる。リーダーの大植慎太郎が京都の面影として三人が退場した後でセットを撮影し、SNS(Instagram、Facebook、Twitter、Twitter社はTwitterがSNSであることを否定しているが)に掲載するよう観客に促していた。



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2018年3月16日 (金)

観劇感想精選(233) 「プルートゥ PLUTO」2018大阪

2018年3月12日 森ノ宮ピロティホールにて

午後7時から、森ノ宮ピロティホールで「プルートゥ PLUTO」を観る。原案:手塚治虫、原作:浦沢直樹、上演台本:谷賢一、演出&振付:シディ・ラルビ・シェルカウイ。出演:森山未來、土屋太鳳、大東駿介、吉見一豊、吹越満、柄本明。ダンサーズ:上月一臣、大植真太郎、池島優(まさる)、大宮大奨(だいすけ)、渋谷亘宏(しぶや・のぶひろ)、AYUMI、湯浅永麻(えま)、森井淳、笹本龍史(りょうじ)。監修:手塚眞。プロデュース:長崎尚史。

手塚治虫の「鉄腕アトム」と「史上最大のロボット」を浦沢直樹と長崎尚史がリメイクした漫画「プル-トウ PLUTO」を原作とした舞台。
演出と振付を担当したシディ・ラルビ・シェルカウイは、ベルギー出身の演出家兼振付家兼ダンサーである。1976年、アントワープ生まれ。父はモロッコ人、母はベルギー人である。アラン・プラテル・バレエ団在籍中の2000年に振付家としてデビュー。幼い頃から日本のマンガとアニメのファンであり、2011年には手塚治虫の生涯を描いた「テ ヅカ TeZukA」の演出も手掛けている。「プルートゥ」は2015年に初演、今回は再演となるが1月の東京公演の後、2月にヨーロッパでの公演が行われており、大阪での上演は凱旋公演となる。

人間とロボットが共存する近未来が舞台。第39次中央アジア紛争から5年が経っていた。戦場での平和維持活動も行った7体の最先進ロボットのうち5体が立て続けに殺害されるという事件が起こる。残るは2体、ユーロポールの特別捜査員であるゲジヒト(大東駿介)と日本の少年ロボット・アトム(森山未來)である。事件を知ったゲジヒトは日本に向かうことにする。ゲジヒトの妻であるヘレナ(やはりロボットである。演じるのは土屋太鳳)は日本に旅行に行きたいという願いを持つが、申請を行ったところ、奇妙な事実に行き当たる。
天馬博士(柄本明)に作られたアトムであるが、元々は博士の息子で事故死したトビオの再生ロボットとして作られたのだが、トビオとはまるで異なるために捨てられてしまい、お茶の水博士(吉見一豊)に引き取られる。お茶の水博士はアトムの妹ロボットしてウラン(土屋太鳳二役)を作っていた。ある日、ウランは道端に倒れていた男(池島優)と出会う。男は花畑の抽象画を描く……。

第39次中央アジア戦争では、トラキア合衆国のアレクサンダー大統領が「ペルシャ王国が大量破壊ロボット兵器を隠し持っている」として侵攻するという設定なのだが、これはイラク戦争そのものである。結局、大量破壊ロボット兵器は発見されず、大義なき戦いとなったのだが、その責任を取る者はいなかった。それに端を発するペルシャ王国側の復讐、更にアレクサンダー大統領(渋谷亘宏)を操る人工知能Dr.ルーズベルト(声を演じるのは吉見一豊。テディベアの格好をしている)によるロボット帝国の野望などが入り交じり壮大な陰謀劇が展開されるが、ラストでは憎しみの連鎖ではなく「砂漠を花で埋め尽くす」ような平和と愛が謳われる。

振付家でもあるシディ・ラルビ・シェルカウイの演出ということで、ダンスが効果的に用いられる。9人の本職のダンサーに加え、森山未來と土屋太鳳という日本の若手俳優の中でトップクラスのダンススキルと身体能力を誇るコンビが配され、華麗なダンスが繰り広げられる。俳優より先にダンサーとして頭角を現した森山未來のダンスが見事なのは勿論だが、日本女子体育大学舞踊学専攻出身の土屋太鳳のダンスも秀逸。土屋太鳳は初舞台であるが、大人の女性であるヘレナと少女ロボットのウランを見事に演じ分け、想像以上の演技力を示した。流石、若くして認められただけのことはある。新しい才能の誕生を歓迎したい。

ダンスの他に浦沢直樹の原画の投影、影絵、パペットなど様々な表現が試みられた舞台であり、若手とベテランの俳優陣が四つに組んだ見事な展開。終演後はオールスタンディングとなった。



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